「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】小林哲夫『ニッポンの大学』

【要約】偏差値というモノサシだけで大学を測るのは、もったいないことです。様々なモノサシで日本の大学の個性を見てみましょう。

【感想】12年前の本なわけだが、この12年での大学を取り巻く環境の変化にはけっこう驚く。
21世紀初頭も、小泉改革による規制緩和で大学が乱立したせいもあって、大学を巡る状況が大きく変化した。基本的な発想は、従来は「PDCA」のPの部分で統制していたものを、Cの部分で管理しようというものだ。端的にはマネジメント概念の導入ということになる。
そして現在は、少子化と「大学全入時代」を基調に、「選択と集中」の論理で、具体的には「3ポリシーの策定と質保証」を合言葉に、大学を巡る情勢が急速に変化しつつある。センター入試廃止によって高大接続という「入口」の部分が大きく変化するとともに、労働環境の変化に伴って「出口」の部分の改革も急速に進行しつつある。そして教育に関わる内部プロセスは、「質保証」と「PDCAサイクル」でマネジメントの対象となりつつある。
さてはて、大学は今後どうなっていくのか。巻き込まれる側としては無関心ではいられないし、主体的にどう関わっていくかが問われる問題なのであった。いやはや。

小林哲夫『ニッポンの大学』講談社現代新書、2007年

【要約と感想】全生研常任委員会編集『荒れる中学生をどうするか』

【要約】1998年頃から、中学生の荒れ方が変化してきています。それまではツッパリのように目に見える荒れだったのですが、最近は「普通の子」が「いきなりキレる」ようになりました。表面上は「やさしい」けれども、実際は競争と同調の圧力によってストレスが貯まり、「権力的・暴力的なもの」が鬱積しているのではないかと思われます。

【感想】1998年の黒磯教師刺殺事件等をきっかけにして、新たな荒れが注目され始めた頃の本だ。ただ、本書の内容そのものは「新しい荒れ」というよりも、昭和型のツッパリ対応が中心となっている。新しい事態を正確に受けとめて対応することは、なかなか難しい。
近年では、学校の様相がまた変わってきているように思う。学校の中での荒れそのものは目立たなくなっている。その代わりに、静かに「無力感」が子どもたちを支配しているようにも見える。ゼロ・トレランスは、子どもの「生きる力」を叩きのめすという点では、これ以上ない効果を上げているように思える。
学校や教育をどうするのか。現場も教育理論も知らないし知ろうともしない政治家たちが適当でいい加減な対応を繰り返し、現場は混乱に陥っている。

全生研常任委員会編集『荒れる中学生をどうするか』大月書店、1998年

【要約と感想】ウィリアム・ヴーア『いじめっ子にしない、いじめられっ子にならない簡単な方法』

【要約】いじめは子どもの心に取り返しのつかない傷を付けるので、甘く見てはいけません。
いじめられっ子にならないためには、子どもの気持ちを尊重しながら、自己主張の練習をさせるのがいいでしょう。いじめっ子にしないためには、親自身が体罰をやめて責任感を持ち怒りをコントロールする必要があります。

【感想】アメリカのいじめも、日本のいじめとそんなに変わりがないなあということがわかる。とすれば、もちろん対処法もそんなに変わりがない。要点は、子どもの感情を尊重しながら、親の感情をコントロールすることだ。普遍的に通用するのだと、確認できた。

ただ気になるところは、おそらく2001年発行の本だからか、ネットいじめの現実には対応できていないところだ。従来のいじめからその傾向はあったにせよ、ネットいじめが新しいのは、匿名性を利用した「強いものいじめ」が横行するというところだ。優等生やアイドル的生徒のみならず、先生や親ですらいじめの対象になるというところだ。この点は、知識をアップデートしておいた方がいいだろうと思う。

あと、ありがちな話ではあるが、邦訳タイトルが酷い。原題の「いじめに関する親の本」のほうが遙かによろしい。本書で示された解決方法は、必ずしも「簡単」ではない。むしろ「本質的」と言ったほうがよいだろう。

ウィリアム・ヴーア/加藤真樹子訳『いじめっ子にしない、いじめられっ子にならない簡単な方法』PHP研究所、2001年

【要約と感想】中島隆信『子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育』

【要約】インセンティブを刺激すれば、なんでもうまくいきます。

【感想】って、うまくいくわけがないよなあ。まあ、トンデモ本の類に入れていい本だと思う。単純な事実誤認や間違いも多い。

特に酷いのが、教育の「公共性」について考慮された形跡が一切ないところだろう。単に「税金」のレベルで話が進んでしまう。「公共サービス」と「公共性」の区別がついていない。
そもそも「市民」と「公民」の区別をつけているかも怪しい。あるいは民主主義に関して常識的な理解があるかも疑わしい。たとえば「すべての国民にとっては消費は生活に欠かせないものだから、主体性ある消費は民主主義の基本的条件といってもよい」(11頁)と言っているが、いっちゃダメでしょう。なぜなら、それは「民主主義」ではなく「自由主義(資本主義)」だからだ。自由主義と民主主義は、違うものだ。著者は慶応出身だからかやたらと福沢諭吉を称揚するけれど、そもそも福沢自体が「自由主義者であっても民主主義者ではない」と評される思想を展開していることも想起されるところだ。福沢は意図的に民主主義を無視して自由主義思想を展開しているのだろうが、著者のほうは意図せずに単に勘違いしているように読めてしまう。
「市場経済における消費者主権の考え方と憲法の三本柱がほとんど同義」(133頁)というトンデモ文に差し掛かった時は、目の前が真っ暗になった。あらゆる意味で、「消費者」と「憲法の三本柱」が同義なわけがない。「人間」と「消費者」は、違う概念だ。「人権」に関する意識が日本に根付かない厳しい現実を再確認させられた気がするのだった。

おそらく「義務教育」も正しく理解していないように見える。そもそも「社会権」について理解しているかどうかが極めて怪しいところだ。
またあるいは、「投資としての要素の強い高等教育サービスは原則として受益者負担となっているので特に問題はない」(47頁)などと言うが、OECDの教育政策分析からすれば大問題に決まっているところだ。高等教育を受益者負担にするとインセンティブが上がるなどというエビデンスは存在しない。むしろ世界的な経済学的発想からは逆行している。なぜヨーロッパに高等教育が無償の国があるのか、考えてみてはいかがだろうか?

「子ども観」や「いじめ」に関する認識のマズさは、もはや言わずもがなだ。昭和の知識から何もアップデートされていない。認識が平成の教育現実と乖離しすぎている。リバタリアンの机上の空論というレベルの話ではない。

なんというか。「消費者教育」そのものは、ちゃんとやればいい。現代社会で、賢い消費者になる必要は、確かにあるだろう。しかし、人権や公共性に関わる次元まで「消費者」で塗りつぶすのは、むちゃくちゃだ。
まあ、本書が現場に影響を与えることなどないだろうとは思うけれども。いやはや、ちょっと勘弁してほしいところだ。
どうしてこうなっちゃうんだろうなあ。仮に著者の学識に問題がないとすれば、経済学という学問自体に欠陥があることを疑わせるような内容であった。

中島隆信『子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育』ちくま新書、2007年

【要約と感想】小宮山博仁『塾の力―21世紀の子育て』

【要約】学校で身に付ける「学校知」は原理や仕組みを論理的に理解するための基礎で、塾で身に付ける「受験知」はテクニックです。両方とも必要です。
これからは、学校が必要ないとか、塾が必要ないとか悪口を言い合うのではなく、力を合わせて「学ぶ楽しさ」を子どもたちに与えていくべきです。というのも、21世紀には、従来の詰め込み知識が役に立たなくなり、学ぶ姿勢や態度などのソフトスキルが重要になってくるからです。今後の入試では、創造的な力を要求する「新学力観」に基づく問題が増えるでしょう。
塾は、難関校への合格者数を誇るのではなく、自らの教育方針や理念を積極的に打ち出すべきです。保護者も偏差値に踊らされず、教育方針や理念をしっかり踏まえて塾選びをするべきです。「学校スリム化」の時代に突入し、学力が二極化することは容易に想像できますが、家庭や地域社会は頼りないので、塾の力に期待するのがいいでしょう。

【感想】ちょうど20年も前の本で、さすがに各種情報は古くなっている。が、「答え合わせ」として読むと、なかなか感慨深いかもしれない。というのは、著者は「学校から合校へ」や「学校スリム化」の政策に関わっており、本書も文科省(当時は文部省)の主張と同じ方向を見ているからだ。その視点から描かれた未来予想図がどの程度当たっているかという関心をもって読むと、そこそこおもしろい。
まあ、本書が出た直後に「ゆとり教育批判」と「学力論争」が巻き起こり、文科省が方針を一部撤回したため、本書の見通しのいくつかは外れることになった。が、大きな筋道はズレていないのかもしれない。時代の雰囲気を証言する本としては、なかなか使い勝手がいいかもしれない。

小宮山博仁『塾の力―21世紀の子育て』文春新書、1999年