「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】妹尾昌俊・工藤祥子『先生を、死なせない。』

【要約】教員が幸せでないところで、子どもが幸せになれるわけがありません。教員の過労死には客観的な共通点がありますので、まずは現実を直視しましょう。問題の所在と本質を明らかにし、具体的な改善策も示しました。悲しい出来事を繰り返してはいけません。

【感想】全体的に落ち着いた筆致に終始しているのに、ものすごい迫力がある本だった。怒りと悲しみが伝わってくる。胸が塞がり、ときどき本を投げ出しては目を覆ったり頭を抱えたりして、一気に読み通すことができなかった。教育委員会や管理職には耳が痛い話だろうが、直視しておいた方がいいのだろう。というか、実はいちばんkaroshiに近いのが教育委員会や管理職だったりするのではあるが。
 しかしこのkaroshiというやつは、学校や教員だけに限られた特有の現象ではなく、残念ながら日本社会(あるいはアジア的風土)全体の特徴だ。おそらく学校や教員の世界だけの努力で本質的なところを改善できるものでもないのだろう。日本人全体(教育に関しては保護者や地域の人々)がちょっとずつユルくなって、集団ではなく個人を大切にする風土を醸成していかないと、抜本的な解決は見込めないような気もしてしまうのだった。

妹尾昌俊・工藤祥子『先生を、死なせない。』教育開発研究所、2022年

【紹介と感想】井上嘉名芽他『GoogleアプリのICT”超かんたん”スキルーハッピーな学級経営が今スグできる!』

【紹介】無料のGoogleアプリ(クラウド・サービス)を利用して、学級経営にすぐに使える方法を25個紹介しています。操作の手順も写真つきで親切丁寧に解説しており、ICT初心者でも簡単に使えます。(ちなみに、授業ではなく、学級経営の場面に特化した本です。)

【感想】ICT初心者向けの、分かりやすい指南書。何からICTを始めていいか途方に暮れている人には、かなりありがたい本だと思う。いくつか実際にやってみれば、おそらくかなり便利なことを実感し、ICTを使う意味も分かってくるのではないかと思う。
 逆に、普段からパソコンに触れているような人にとっては、まあ中には「ナルホド」と思うような使い方があって勉強になったが、全体的には大きな驚きはないとは思う。

■井上嘉名芽・今田英樹・尻江重幸・遠島充・鳥生浩樹・古川俊・祐源愛・和田誠『GoogleアプリのICT”超かんたん”スキルーハッピーな学級経営が今スグできる!』時事通信社、2022年

【要約と感想】蓑手章吾『個別最適な学びを実現するICTの使い方』

【要約】単にICTを使うことを目的にするのではなく、これまでの教育の形(チョーク&トーク)が根本から変わることを実感しましょう。これまではやりたくてもできなかったようなことが、ICTを活用することでどんどん実現できます。具体的な実践例多数。

【感想】東洋経済オンライン「education×ICT」でも安定した記事を配信している蓑手氏の著書で、非常に明快で分かりやすい。特に良いのは、単にICTを活用する方法だけ紹介しているのではなく、一貫した「子ども観」を土台として、実現したいことを実現するための手段としてテクノロジーを利用しているところだ。子どもの主体性や学びに向かう力を全面的に信じるところから、様々な実践が成立する。フレーベルが現代に甦ったとしたら、たぶん同じようにICTを使いこなしまくるだろう。だから逆に言えば、本書を読んで、表面だけマネしようと思ってもなかなかうまくいかないだろうと思う。一番のポイントは、子どもの力を信じることだ。

蓑手章吾『個別最適な学びを実現するICTの使い方』学陽書房、2022年

【要約と感想】稲葉一将・稲葉多喜生・児美川孝一郎『保育・教育のDXが子育て、学校、地方自治を変える』

【要約】教育DXによって学校や地方自治が変わりそうですが、「悪い意味」で変わるということなので、気をつけて下さい。命令・強制型の権力から監視・管理型の権力に切り替わる際に鍵を握っているのが、DXという技術なのです。

【感想】タイトルだけ見て、教育DXのポジティブな可能性について書かれた本だと思っていたら、中身はまったく反対だった。世の中が危険な方向に進んでいることを警告する本だった。
 本書には「フーコー」という人名は出てこないものの、ポイントはやはりフーコーの言う生・権力の要としてDXという技術が活用される、ということだと読んだ。命令・強制型の権力を維持すしようとすると、どうしても警察・軍隊のような暴力装置や大規模な官僚組織などのメンテナンスに莫大な維持費がかかる。これが監視・管理型の権力になると、一気に官僚組織をスリム化できて、低コストでの体制維持が可能となる(ように見える)。学校スリム化に見られるような公教育を解体しようとする意志も、根底にある欲望はこれだ。そしてDXは、これらを一気に実現するような技術に見える。本書は、生・権力の欲望のありかと、欲望を支える技術の仕組みを示そうと努力している。

【今後の研究のための備忘録】人格
 読む前の安易な予想を裏切り、「人格」に関する言質をたくさん得た。

「2006年に全部が改正されたとはいえ、教育基本法は、「個人の尊厳」(前文)や「人格の完成」(1条)といった旧教育基本法(1947法律第25号)の性格を特徴づける文言を、そのまま維持しています。明治期の君主制国家が臣民を教育したのとは逆で、「個人」単位でその「人格」を尊ぶというのが、日本国憲法や教育基本法の「精神」でしょう。大量の「教育データ」が連携されることで、保育期以降の「こども」の像や類型が、徐々に精緻なものとして形成されるようになれば、「個人」であるはずの子どもが「データ連係」によって形成された「こども」に適合するように「転形」しかねません。これを、教育基本法1条が定めているような「人格の完成」のための教育といえるのか否かが、これから問われてきます。」42-43頁、稲葉一将執筆部

「しかし、残念なことに、この報告書は、全体としては経産省の政策構想に対抗できるような内容にはなっていません。それは、報告書のタイトルに「教育」ではなく(ましてや、教育基本法第1条が掲げる「人格の完成」でもなく)、「人材育成」という用語、しかも、Society5.0という特定の社会に向けた「人材育成」という表現が採用されていることに象徴的に示されていると言えます。つまり、ここでの教育は、子どもたちの「人格の完成」という教育独自の目的や価値を持つものではなく、特定の社会の実現のための手段に成り下がっているのです。」77頁、児美川執筆部。

 個人的な感想から言えば、「人格の完成」の理念は1970年代後半には既に失われている。現在のOECDが言うような「エージェンシー」に夢中の人々は、「人格の完成」などに見向きもしない。というか、内容に対する無理解以前の話として、そもそも理解しようとする関心や意欲すらないように見える。重要なのは個人の「能力」の開発であって、「人格」という概念がそこに介在する余地は一切ない。仮に彼等が「人格」という言葉を使っていても、それは教育基本法が言う「人格」という概念にはかすりもしていない。本書が言う教育DXに関わる人々も、いちおう「人格」という言葉を使う場面もないこともないが、その意味内容は空疎で、「個々の能力を束ねる主体」程度のことしか言っていない。上記引用部が危惧することは、まさにその通りに実現してしまうだろう。「人格の完成」とはまったく無関係のところで、粛々と教育DXは進むのだろう。そして、それが「悪いこと」かと聞かれれば、まあ、特に「悪いこと」ではないと言うしかない。そういう時代ということに過ぎない。
 ただ個人的には、何も考えずこういう時代風潮に流されるのは気持ち悪い、とは思うのであった。

稲葉一将・稲葉多喜生・児美川孝一郎『保育・教育のDXが子育て、学校、地方自治を変える』自治体研究社、2022年

【要約と感想】ダンテ『新生』

【要約】愛した女性のためにたくさん愛の歌を詠んだけど、死んじゃったので死にたくなるほど悲しい。ということを後になって回想したら、その女性がほとんど神だということに気がつきました。

【感想】愛を歌う詩に、作者自身の解説がついている。作詩の教科書として利用されることを狙ったもののようにも勘ぐる。特に「愛」を擬人化して表現した描写について、その意図や狙いを細かく説明しているところなどは、詩の初学者向けの案内のように感じる。
 肝心の詩の内容はとにかく「愛している」ということは強く伝わってくるものの、一方で極めて抽象度が高く、具体性に乏しい。髪の色とか仕草など、現代の散文で描かれるような描写がほとんどない。ベアトリーチェの個性や特徴が浮き彫りになるような表現はまったく見あたらず、極度に一般化された「美」と「徳」への賛美と傾倒に終始する。そういう意味では、やはり分析的思考の近代ではなく、どっぷり象徴的思考に浸かった中世ということなのだろう。やたら「9」という数にこだわるのも、中世の象徴的思考の表れだろう。(ちなみにいちおう、つまらないということではない。)

【個人的な研究のための備忘録】俗語

「昔は俗語で愛を歌つた者はなく、ただラテン語で愛を歌つた詩人だけがいくたりかあつた(中略)。即ち我等のうちでは(おそらく他の人々のうちにも同じ事が、たとへばギリシヤに於ける如く、昔あつたのみならず今もあるであらうが)俗語詩人でなく雅語詩人がこれらの詩材を取扱つたのである。そしてこれら俗語詩人(韻を踏んで俗語で歌ふのは、ある範囲内では韻律によつてラテン語で歌ふのに等しい)が始めて現れたのは久しい以前のことでない。久しくないといふしるしには、オコの国語やシの国語に求むるに、今より百五十年以前のその先には何等の作品も見当らない。ある拙い人たちが詩家たるの名を得た理由は、かれらがシの国語で歌つたいはば最初の者であつたからである。また俗語詩人として歌ひはじめた最初の人がさうするやうになつたのは、ラテン語の詩をよく理解しえない一婦人に自分の言葉を理解させようとの心からであつた。そしてこれが愛以外の詩材を捉へて韻文を作る人達にとつては不利なのである。かかる表現の方法はもともと愛を歌ふために見出されたものであるから。」84頁

 このダンテの認識は、解説でも指摘されているように、事実としては間違いだらけだ。まず俗語の詩作が始まったのは、ダンテの言うように「百五十年」ではない。さらに100年は遡る。また詩材が恋愛に限られるという認識も誤っている。
 ただしだからといって無意味な記述ではない。当時超一流の詩人の認識が素直に現れている言質として、事実誤認そのものも含めてとても価値がある。特に、俗語で詩作することに対して、ダンテが誇りを持っているらしいことが表現されているところが貴重だ。
 たとえば日本でも、漢詩から和歌への切り替わりのタイミングで、古今和歌集の仮名序のように、「敢えて和歌を詠うことの意味」を表明するものが現れる。俗語で歌を詠むことが「芸術に価するかどうか」について、なんらかのためらいが存在し、それを意識的に打ち破る必要があった、ということだ。
 ダンテの場合、詩の内容として「愛」を扱うことが詩の形式として「俗語」を採用することの決定的な理由だ、というところが重要だ。歴史的には間違っているが、14世紀初頭の超一流詩人がそう理解していた、ということが重要だ。
 日本でも、愛の歌は漢詩ではなく和歌で扱われた。「俗語」を尊重する動きに関しては国民国家形成との絡みがよく指摘されるところだし、実際に重要な論点だとは思うものの、個人的には恋愛の観点もとても重要だと思うのだ。

ダンテ『新生』山川丙三郎訳、岩波文庫、1948年