【要約と感想】中井久夫『治療文化論―精神医学的再構築の試み』

【要約】精神医学的な治療とは、単に医者と患者の関係ではなく、周囲の人間たちの総合的な関係(つまり文化)によって支えられています。治療がうまくいくかどうかは患者を取り巻く文化にかかっていますし、そもそも何を病気とみなし、誰が病気を治すのかは、文化によって決まるものです。そういう文化の観点を取り入れて、従来の精神医学を考え直すべきです。

【感想】インスピレーションに溢れている一方で普遍性・実証性に乏しく、興味深いエピソードに満ちている一方で全体的なまとまりはなく、武勇伝の数々を誇らしげに語るかと思いきや意外なところで謙虚で、結局なにが言いたいのかよく分からない。つまり分裂症について語っているはずの本書そのものが統合失調の観を呈している。あるいは、本書がもっぱら統合を失調しているわけではなく、世界そのもの(あるいは人間というもの)が本質的に統合失調であり、世界そのもの(あるいは人間そのもの)について誠実に語ろうとすると必然的にこうなる、ということなのかもしれない。そしてそれは悪いことではなく、だからこそおもしろく、読むべき価値がある、ということになるのだろう。

 教育学的にも様々なヒントやインスピレーションを与えてくれる本であることは間違ない。特に本書に背骨があるとすればそうであろう「普遍症候群/文化依存症候群/個人症候群」の構造は、教育学的にも真剣に深堀する意義はあるような気がする。明治維新以後、西洋に範をとった日本の学校教育は、文化依存症候群を文明に反する野蛮として教化(あるいは治療)の対象とし、人々を強制的に普遍症候群の枠の中に押しこめた。そして本書が個人症候群と呼ぶものが仮に物理的・心理的な実体としたら、それらスキゾフレニアな諸要素は教育という外部からの強制力によってまさにペルソナ(仮面)としての「人格」に整序される。標準偏差からの距離として一つのモノサシで測定する技術(たとえば偏差値や年収)が開発されるのに伴って、スキゾフレニアな素材たちが教育可能な「人格」なる仮構物として陶冶される。いわば「人格」とはパラノイア的な強迫神経症が生み出した幻想なのかもしれない。
 こう考えれば、いわゆる「普遍症候群」が西洋近代(および西欧化された諸地域)にしか現れないのはまったく不思議ではない。それは教育によって構造化された現象(一人の人間に対しても、社会に対しても)であって、その逆ではない。その構造化(人間に対しても社会に対しても)のありようが教育のありようによって変わるのであれば、地域ごとに特有の「文化依存症候群」が現れるのもまったく不思議ではない。
 そもそも教育とはかけがえのない子どもの成長に関わる一回限りの交錯であって、その学(学と呼んでいけないのなら術)は個性記述的にしか成立せず、法則定立的な試みは本質的に挫折する運命にあるのかもしれない。だとすれば、普遍的に教育の学を成立させようという試みは最初から放棄(そこまで思い切れないとしても諦念を持ち)し、スキゾフレニアとして振舞うほうが生産的な仕事ができるかもしれない。まあ、それはもちろん特に新しい論点でもなんでもなく、すでに本書が書かれた1980年代にはニューアカ論者によって「リゾーム構造」という形で理論化されていたりする。本書は意図的にか天然的にかわからないが、それを具体的に実現した記述となっている。
 そうはいえ、私個人にはスキゾ的な論文を書いてみようという蛮勇はない。すでにパラノイア的な強迫神経症でもって人格が陶冶され、アカデミックのお作法から逃れることができない「普遍症候群」に陥っているからだ。というか本書が歴史家の粘着気質に触れているとおり、私自身の気質がスキゾというよりパラノなのだろう。普遍や統一への志向から逃れられない。南無三。

中井久夫『治療文化論―精神医学的再構築の試み』岩波現代文庫、2001年<1983年