【要約と感想】相馬伸一『ヨハネス・コメニウス―汎知学の光』

【要約】コメニウスは、従来は教授学者としての側面だけが強調されてきましたが、本書は多面的・多角的にコメニウスの思想を捉えることを目指しました。コメニウスは確かに当代一流の教授学者でもありましたが、同時に宗教改革者であり、政治活動家であり、哲学者であり、民族派であると同時に国際派でもありました。多様なコメニウスの姿を貫くキーワードは「光」です。

【感想】学生の頃から西洋教育史の通史的テキストはそこそこ読んできているのだが、どうもコメニウスの位置付けだけはいつもしっくりこなかった。ロックやルソーは、よく分かるのだ。背景として封建社会から市民社会への転換があり、それに伴って教育というものの役割や考え方が変わるのは当然だ。デューイなど新教育も、極めて分かりやすい。動機付けが明白なのだ。
しかし一方、コメニウスの教育史的位置づけは、まったく腑に落ちなかった。個人的には、これまで「教育印刷術」をキーワードとして理解してきたところだ。まず15世紀中葉の印刷術発明を受けて情報革命が進行し、エラスムスなど人文主義者の教育論が立ち上がる。16世紀には印刷されたテキストの流通を背景に学校教育が量的拡大を遂げる。この文脈に即せば、17世紀初頭のコメニウスによる「学校教育改革」は、一応の落ち着きどころを得る。伝統的な教育制度や教育方法(言葉や対話中心)が説得力を失い、新しいメディア(印刷術=本=教科書)に対応すべき新しい教育制度や教育方法が待望される。コメニウスの言う「教育印刷術」とは、印刷術によって教育への欲求が量的に拡大した状況に相応しい、時代に待ち望まれた思考と技術に思えたわけだ。

本書は、そういう私のコメニウス理解に対して、足払いを食らわせるような内容ではあった。知らないことだらけで、知識レベルでとても勉強になったことは間違いない。しかし、正直に言えば、知識を蓄えた一方で、コメニウスのことはますます分からなくなった。分かりにくいのも当然で、近代人とコメニウスでは「世界を理解するためのOS=思考の枠組み」そのものがまったく異なっていて、本当に何を考えているのか、想像力を働かせることが困難なのだ。本書で何度も繰り返し強調されるが、コメニウスの土台にある「類似」という思考法や言語間は、中世に特有のものだ。となれば、その教育観と言語観を踏まえて構想された「学校教育」は、近代のものであるわけはない。が、それにも関わらず、私の目から見れば、近代的な学校教育の萌芽にしか見えない。
コメニウスは近代なのか前近代なのか。思考の流れだけではなく、思考の枠組みそのものを脱構築しながら理解しなければならないので、疲れるし、よく分からないのであった。結果として極めて明瞭に分かったのは、コメニウスをそんなに簡単に割り切って扱ってはならない、ということだ。そして、難しいものは、難しいままで扱わなければならない。
とはいえ、現実の授業では15分程度で扱わなくてはならないのであった。やれやれだ。

【今後の研究のための備忘録】
教育のアポリアの本質に触れている記述には、引っかかった。

「神的暴力は宗教的な伝承には限られないとベンヤミンは言うが、その有力なモデルが千年王国論にあることは間違いない。だとすれば、コメニウスは、暴力を終結させるためとはいえ、究極の暴力としての神的暴力を是認したことになるのだろうか。」254-255頁

直接的には教育について言及したところではない。宗教的理想を実現するために暴力が許されるかどうか、という議論である。この問題は、教育という相では「自由の強制」という形をとる。子どもは子どものままでは自由にはなれない。大人になるためには、自由を強制されなければならない。教育とは、自由を強制する営みである。ひとりの人間に対する「強制による自由の実現」という構造を世界に敷衍すると、「暴力による平和の実現」ということになる。コメニウスの「千年王国論」は、図らずも、教育という営みが本来的に抱えている暴力性と同型というわけだ。本書では、教育という営みが本質的に抱える暴力性を、プラトン「国家」を踏まえた「魂の向け変え」として解説している(143-150頁)。
この問題に対する本書の回答も、興味深い。

「彼を千年王国論に駆り立てたのは、自らが生きる世界に対する当事者性だったはずである。」256頁

教育を実践する者は、「強制による自由の実現」というアポリアの前でも、立ち止まらない。なぜなら、「自らが生きる世界に対する当事者性」に突き動かされるからだ。その本来的な暴力性に耐えられる者か無頓着な者しか、教育には携われない。いちおう、「単に外部から知識を注入する」ことは、ここでは教育とは呼ばないし、呼ぶ価値もないわけではある。

相馬伸一『ヨハネス・コメニウス―汎知学の光』講談社選書メチエ、2017年