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【要約と感想】アープレーイユス『黄金の驢馬』

【要約】帝政ローマ期(2世紀)の小説です。魔術への好奇心をこじらせた育ちの良い若者が、手違いで驢馬に変身してしまい、次々と主人が替わる先々で辛酸を嘗めながらも、浮き世の容赦ない試練をなんとか耐え抜いて、最後にはイシス神のおかげで無事に人間に戻ることができ、感謝の修道生活に入ります。
 物語の本筋(箱)とは無関係に語られる挿話が質量共に富んでいます。クピードーとプシューケーの恋話、恋敵を殺して自分も殺される話、傲慢な兵隊の気紛れで酷い目に遭う一般庶民の話、強欲な領主によって破滅する一家の話、間男の奸智で夫が酷い目に遭ったり、迂闊な間男が酷い目に遭ったりする話など、男も女も金と愛欲に目がくらんで狡猾かつ無慈悲に力を振り回す人間ばかり登場します。

【感想】まあ、人間ってやつは二千年経ってもまったく変わらず、どうしようもなく度しがたい生き物だな、という感を強くする。みんな金を手に入れて愛欲を満たすため、自分の持てる力を最大限に発揮しようと必死だ。男は腕力を、女は毒を使う。油断も隙もあったものではない。他人を幸せにしようとする無私の行動などひとかけらも見あたらない。生き馬の目を抜く(本作の場合は生き驢馬の目を抜くか?)ような欲望全開のローマ帝政期に、無私の愛を説くキリスト教に救いを求める人が増えたのは、不思議なことではない気もする。まあ、著者があえて世間の裏面を意図的にクローズアップして、ゴシップ的に描写しているということはあるかもしれない。
 本書の著者はキリスト教(あるいはユダヤ教)については詳しい知識を持っていなかったらしく、本文中では怪しい「一神教」としてのみ扱われている。最終的に主人公を救って人間に戻してくれるのも本来はエジプトで信仰されていたイシスという神格で、他にシュリア・デア(シリアの女神)を信奉する怪しい淫乱宗教集団も登場するなど、ローマ帝政期の多神教の様子がうかがえる。
 一方、クピードーとプシューケーの挿話(日本では一般的にアモールとプシュケーとして知られている)は、西洋古典絵画や彫刻の普遍的なテーマになっていて、私もこれまで様々な作品を見てきたけれども、原典がこの小説に納められていたのは少々意外な感じがする。他の話が下世話で下品で残酷なものばかりなため、この美しい挿話だけが浮いている印象もある。まあ、この話を語った老婆は最終的に盗賊たちによって吊され、話を聞かされた娘の方も惨殺された恋人の敵討をしてから死んでしまうわけだが。まあ、おそらくクピードーとプシューケーの物語は当時の人々の人口に広く膾炙していたもので、大半の文献が散逸してしまった中、たまたま本書に収録されたもののみが時を超えて残った、ということなのだろう。

【今後の研究のための備忘録】学校
 学校に関するセリフが出てくる。

「あのアレーテのことでしょう。私の学校友達なのよ、お前の話しているのは。」巻の9、348頁

 ある奥方が不倫相手を物色しているときに、学校友達が旦那にバレないように上手に不倫をした賢いやり口を参考にするという、酷く下品な文脈で出てくるセリフだ。その不倫をしたい奥方と、不倫を成功させた奥方の関係が「学校友達」ということなわけだが、帝政期ローマの「学校」に女性がどういう関わり方をしていたかをうかがわせる貴重な資料ではある。

アープレーイユス『黄金の驢馬』岩波書店、2013年

【要約と感想】ロンゴス『ダフニスとクロエー』

【要約】今から1800年あまりも昔のギリシアの恋愛小説です。捨て子だった男の子ダフニスと、同じく捨て子だった女の子クロエは、自然豊かなエーゲ海のレスボス島で、様々な事件や障害に遭いながらも、健全・純情・素朴・敬虔に成長し、美しく季節がめぐる中で、微笑ましくも麗しい愛をゆっくり育んでいきます。最後には実の両親とも巡り会い、大金持ちになって、結婚します。めでたしめでたし。

【感想】話の筋自体に見るべきものはない。典型的な貴種流離譚をベースに、徹底的なルッキズムでご都合主義に終始する。主人公たちは何かトラブルに巻き込まれても神様に頼んだり恨み言を言ったりするだけで能動的に解決しようと知恵を働かすことは一切ないのに、神様たちの一方的な加護のおかげですべて事なきを得る。日頃の敬虔な気持ちと行動が大事だということではあるだろうが、主人公の主体性欠如は否めない。まあ、洋を問わず近代以前にはありがちな展開ではあって、特に本作だけが責められるものではない。
 が、一方で近代の作家たちにも支持されたという牧歌的な自然描写は非常に良かった。美しかった。これが1800年も前の作品だとは、人類も凄いものだ。自然描写の美しさは、季節の表現にもっともよく顕れていたと思う。春夏秋冬の移り変わりと、折々の季節の賜物、それに関わる人間の営みの描写は、読んでいて気持ちがよく、清々しい気分になる。訳がいいのかもしれないが、海外の知識人たちも褒めているということなので、おそらく原文から美しいのだろう。
 また、解説等では特に触れられていないが、個人的には性格描写にも感心しながら読んだ。行動そのものは受動的で展開はご都合主義に終始するのではあるが、いっぽう実は内面描写が丁寧だったりする。特に恋に目覚めた後のダフニスの内面描写は、少々しつこくもあるが、とても丁寧で、よく分かる。好きな女の子に会いたくて言い訳を考えるけれども思いつかなくて悶える様だとか、いいところを見せようと張り切るところとか、間接キスで興奮するとか、触りたいけれどもどう触ったらいいか分からなくて困惑する様だとか、もう地域も時代も関係なく、恋する人間ってみんな同じだな、と微笑ましい気持ちになる。よく伝わってくる。ご都合主義的な展開を補って余りある美点で、最後まで飽きずに読めた。
 しかしまあ、ダフニスくんの童貞喪失の場面は「あちゃー」という感じだ。ダフニスくんの童貞はクロエちゃんにもらってほしかった。

ロンゴス/松平千秋訳『ダフニスとクロエー』岩波文庫、1987年