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【大分県日田市】幕末私塾の雄「咸宜園」と、広瀬淡窓墓「長生園」

江戸後期の巨大私塾として有名な咸宜園(かんぎえん)に行ってきました。
日田へは、博多からリゾート特急「ゆふいんの森」で向かいます。乗客は、ほぼ外国人観光客です。高級感溢れる車内を満喫して、咸宜園へ。

咸宜園は国指定史跡となっており、いくつかの建物が保存されている他、たいへん立派な学習施設が付設しています。

案内パネルに、咸宜園のユニークさが説明されています。教員採用試験では「三奪法」と「月旦評」がよく出てきますね。教育史の専門家的には、近代的個人主義と業績主義(メリトクラシー)の芽ばえとしてどうなのかというところが注目されます。

域内には、塾主の広瀬淡窓(ひろせたんそう)が詠んだ漢詩の石碑が建っています。ちなみに石碑の後ろに見えるのは学習施設です。貴重な資料が展示されている他、映像資料も充実しています。

図録を3冊買ったら、学芸員さん(?)のご厚意で、おまけでもう2冊いただきました。ありがとうございました。勉強します。

さて、保存されている建造物では、まず秋風庵が目立っています。趣のある建物です。

中に入ることができます。教育課程表等が掲げられています。

床の間には広瀬淡窓が詠んだ漢詩の掛け軸があったりなど。

落ち着いた佇まいで、たいへん風情があります。

ほか、講義や寮として使われた建物は、礎石だけ残っているようです。

もうひとつおもしろいのが、遠思楼という建物です。丸い窓がかわいいです。

こちらも中に入って、二階に上がることができます。

こういう落ち着いたところで読書・思索できたら、さくさく進歩するような気がするなあ。書斎、ほしいねえ。

咸宜園から東に300mほど行くと、広瀬淡窓の墓所「長生園」があります。閑静な住宅街の中にあって、初めてだとちょっと分かりにくい場所です。

広瀬淡窓のほか、家族や塾主を務めた門人のお墓が並んでいます。

学問の大先輩にお参りして学問の成就を誓い、外国人観光客でごった返す日田を離脱するのでした。帰りは高速バスで直接福岡空港へ。体感的には、電車よりバスのほうが楽だったかなあ。
(2019年7月訪問)

【和歌山県高野町】高野山金剛峯寺で南無大師遍照金剛と唱える

高野山は空海(弘法大師)が816年に開山し、現在は100以上の寺院が建ち並ぶ宗教的聖地です。奥深い山中にあって交通アクセスは不便なのですが、険しい森を越えると意外なほど開放感ある空間が広がる、不思議な場所です。
今回は露天風呂のある宿坊に泊まって、ゆっくり高野山を巡ったのでした。

麓から歩いてきた巡礼者が最初に辿り着くのは、大門(重要文化財)です。巨大で、たいへん立派です。

が、まあ、私は公共交通機関で来たので、他のところを見て昼食後に辿り着いたのですが。

次回訪れるときは、ぜひ麓から歩いて登って大門を拝みたいと思います。

さて、大門を通過して参道をまっすぐ東に向かい、中門をくぐると、金堂や根本大塔などが立ち並ぶ壇上伽藍に出ます。

壇上伽藍の建物には、それぞれ中に入って参拝することができます。

今回はたっぷり時間があったので、大師教会・教戒堂で受戒して参りました。大勢の巡礼者と一緒に声を上げてお経を唱えるなど、日常的に経験できる儀式ではなく、改まった気持ちになったのでした。

さらに先に進むと、金剛峯寺(国指定史跡・世界遺産)があります。

しかし気になるのは、案内パネルの内容です。

これまで私は「高野山=金剛峯寺」と暗記していたのですが、案内パネルを読んで理解したところでは、金剛峯寺は実は空海とは直接的には関係なく、1131年に建立されたということですね。現在の歴史の教科書等にはどう書かれているのか、ちょっと気になるところでした。

さて、さらに参道を奥に進むと、奥之院一の橋に着きます。ここから雰囲気ががらりと変わります。

杉並木に囲まれた参道に沿って、歴史上の人物のお墓がたくさんあります。たとえば、明智光秀の墓。

そして、織田信長の墓。

死んでしまえばノーサイドで、同じ墓地に葬られるのですね。まあ、光秀や信長の墓は他のところにもあるのですけれども。

さらに奥に進むと、いよいよ弘法大師の廟所に着きます。この御廟橋の向こうは、聖地すぎるので、写真撮影禁止です。

というわけで、日常では不可能な荘厳な体験ができる場所でした。暗黒の地下道を手探りで進む体験とか、とてもおもしろかったです。

さて。で、つい空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)を比較してしまうわけですが。高野山で感じたのは、空海個人の圧倒的なカリスマ性です。高野山は空海個人に対する崇拝で成立しているような印象を受けました。一方の比叡山には、確かに伝教大師の廟所をお守りする聖地もあるのですが、全山的に最澄個人のカリスマはそれほど感じませんでした。それは、比叡山では法然・親鸞・日蓮・道元・栄西といった絢爛たる鎌倉新仏教のエースたちが育っており、その痕跡が残されているからかもしれません。逆に高野山には、空海以外には教科書に載るような僧侶を輩出していません。そういう意味では生産性がないようにも思えてしまうわけです。
まあ教科書に載るような僧侶を輩出することが素晴らしいかどうかは一概には言えないのは確かですが、私のような「教育」畑の人間からしてみれば、ここに高野山と比叡山の本質的な違いを見てしまいます。いいか悪いかは別として、空海の個人的なカリスマ性が強い高野山において、教育的想像力を発揮する余地が比叡山と比較してどれほどのものだったのか、という疑問です。
あるいは、仏教本来の考え方から思い起こして、空海に対する個人崇拝でいいのかどうかという疑問にも通じるところです。私も高野山で「南無大師遍照金剛」(意味は、ざっくり言えば、空海を無条件で全面的に信頼しますので私のことをよろしくお願いしますという感じ)と唱え、空海個人への尊敬の念を顕わにして、受戒したわけですが。改めて思い返してみれば、個人崇拝で終わって仏教的に大丈夫なのかという。もちろん真言宗によれば仏教の奥義は言葉で表現し尽くせないものなので、私のような宗教センスのない人間が人間的尺度でどうこう言う問題ではないのかもしれませんが。単に空海への個人崇拝で終わってしまったら、教育的生産性は一切ないのも確かだと思うのです。個人崇拝が単なる通過点という理屈であれば、分からなくもないのですが。
あるいは、自分自身の宗教的能力に対する限界を謙虚に設け、真理の啓示者である聖人個人(空海)を信仰の対象とする在り方は、プロテスタント的であるという点では、一神教的な浄土宗と並んで、実はヨーロッパ的な宗教の観念に近いとは言えるかもしれない。

まあともかく、露天風呂のある宿坊に泊まり、夜は写経会に参加して外国人観光客に混じって般若心経を写し、朝は早くから読経会に参加したりと、極めて充実した時間を過してきたのでありました。
ぜひまた機会を作って訪れたいと思います。
(2015年6/19・20訪問)

【群馬県前橋市】上泉城と剣聖上泉伊勢守信綱のお墓

新陰流の創始者にして剣聖の名も高い、上泉伊勢守信綱ゆかりの地を訪れました。上泉城の跡地と、伊勢守のお墓がある西林寺です。

上泉城の跡地は、現在は自治会館となっています。伊勢守の銅像が鎮座しております。新影流の基本である「無形の位」という構えだそうです。かっこいい。

上泉城跡地を遠くから眺めると、こんな感じ。

このあたりが本丸と二の丸のようです。

城の全体像は、上泉駅近くの案内板で確認することができます。2012年に訪れたときは生誕500周年記念事業の一環として綺麗なパネルが設置されていましたが、2019年現在は風雨に曝されてボロボロになってしまっております。

地図を見ると、東と南を川に囲まれた、天然の要害であることが分かります。

さて、本丸の跡である自治会館の敷地には、生誕500年事業等の記念碑が並んでいます。

ちょっと驚いたのは、「剣聖・上泉伊勢守」という歌を作った上に、ボタンを押すと歌が流れるような装置が設置されていることです。

試しに押してみると、大音量で歌が鳴り響きます。素晴らしい演歌なのではありますが、真っ昼間の静かな住宅街に大音量で3番まで鳴り響くと、多少気まずい感じはいたします、はい。

ボタンは二個所あって、自治会館の壁には歌詞も展示されています。

2012年に訪れたときには歌のポスターも展示されていたのですが、2019年再訪時にはなくなっていました。日焼けして色落ちしてしまったのかもしれませんね。

さて、上泉城本丸跡地の自治会館から西へ向かうと、かつての「一の郭」であった西林寺に着きます。こちらには伊勢守のお墓があります。

ハカマイラーとしてはぜひとも訪れたいところです。
西林寺にも顕彰碑が建立されております。

こちらには伊勢守信綱の略譜も記されています。

お墓はとても質素な佇まいでした。なんとなく人柄が偲ばれるような気持ちがしました。

2012年に訪れたときには、自治会館にいらっしゃった方から記念冊子をいただいたり、居合わせた地元の政治家の方に車で駅まで送っていただいたりと、たいへん良くしていただきました。再訪できて、とても嬉しく思いました。また遊びに行きたいと思います。
(2012年訪問、2019年再訪)

【千葉県印西市】小林城と巴御前の墓(伝)

千葉県印西市の小林城と巴御前の墓(伝)に行ってきました。

小林城は南北朝初期に作られ、戦国時代に大規模な改修が行なわれ、秀吉の小田原征伐で滅びたもののようです。もちろん戦国期には北条家に従っていたのでしょうけれども、関東戦国史ファンとしては南北朝初期にどのように情勢に絡んでいたのかが気になるところです。
城の由緒は小林市NPO法人の記事「小林城について」に詳しいです。先土器時代からの遺物が発掘されたとのことで、古来から人が住みやすい場所だったんでしょうね。美濃や常滑の焼き物が出土しているところからも、そこそこ有力な武将が治めていただろうことが推測されます。

が、城山を道路が掘削してしまっていて、当時の面影は全然のこっておりません。

上の写真は城山を東から見たところで、ド真ん中を道路が突っ切っておりますが、本来ならここはお城の山があったところです。いやあ、もったいない。
道路面の崖には「登らないで」という看板が立っていて、山の中に入ることはできません。

城山の西側に回ってみると、なんとなく人の手が入った跡は確認できますが、いつ手が入ったものかは定かではないですね。こちらからも山に入ることはできません。鬱蒼とした藪となっております。

城山の南斜面は墓地になっております。南側は昔からの道になっていて、当時の地形は残されているように思います。舌状台地の端に城が築かれており、けっこうな比高差があることも分かります。

真西から城山を見晴らすと、上のような感じ。なかなかいいロケーションに築かれているように見えます。

城山の北西に公園があって、そこに「小林城跡」の標柱が建てられています。が、ここが小林城の何だったのかは、まったく分かりません。城山の方が城の本体だって案内板くらい建ててもいいんじゃないかなあと思ったり。

さて、小林城跡から西に2kmほど行くと、「巴塚」があります。治承寿永の乱で、木曽義仲の愛妾だった巴御前のお墓だという言い伝えがあるところです。

本当に小さな塚と石碑が残されているだけですけれども。

しかし巴御前の墓と呼ばれているものは全国にいくつも残されています。滋賀、富山、長野、新潟、栃木、神奈川などの他、千葉県内でも佐原にもあったりします。全国的に巴御前人気があったことがうかがえますね。
まあ、小林市の墓が本物かどうかを疑ってかかるのは、野暮というものかもしれません。

(2019年2月訪問)

【宮城県白石市】片倉小十郎と真田幸村の墓が白石城の西にある

 白石城は、残念ながら100名城には漏れてしまいましたが、続100名城に選出されております。その名に違わず、復元された三重櫓など、たいへん堂々として格好いいお城です。

 三階の花頭窓がとてもオシャレであります。

 大手一の門も復元されていて、奥の三重櫓と並べて見ると、とても格好いいです。
 本丸御殿はありませんが、かつての勇姿はヴァーチャルで復元されております。

 築地塀の中、いっぱいいっぱいの建築物ですね。

 復元された三重櫓は、中に入ることができます。
 江戸時代の図面どおりに復元されており、階段がとても急です。天辺から見下ろすと、白石の町を一望できます。けっこう高いところに建っているのが分かります。

 暑い日でしたが、三重櫓の天辺に吹き抜ける風は清々しかったです。天上の梁の様子も観察できて、大満足です。

 二の丸の方は、現在は公園や野球場として整備されています。

 二の丸には地元の大横綱「大砲」の像が建っています。肩越しに三重櫓の勇姿。

 二の丸から西に向かって20分ほど歩くと、片倉小十郎と真田幸村の墓があります。

 廟所駐車場の入口にある「あたご茶屋」には、各種真田幸村グッズが取り揃えられておりました。ファンが訪れるのでしょうか? 私はソフトクリームとコーヒーをいただきましたが、コーヒーにはオマケで花林糖がついてきました。

 駐車場から階段を登り、墓地の一番奥に片倉小十郎歴代御廟があります。片倉家の歴代当主はみんな小十郎を名乗っているんですね。

 案内板を見ると、白石の人々もやはり明治維新で苦労しているようです。

 諸行無常、静かに合掌。

 片倉家御廟から真田幸村のお墓までは、残念ながら山の中の道は繋がっていません。一度駐車場まで降りて、一般道を西に向かいます。
 幸村のお墓だけあるのではなく、正式には「田村家の墓」の中の一つが幸村のお墓です。

 幸村の娘が田村家に嫁いだ縁で、幸村もこちらで慰霊されることになったわけですね。

 墓所は、けっこう林の奥に踏み入った場所にあります。

 こちらが幸村の墓石です。ほとんど加工されていない墓石の、その簡素さに、むしろ心を打たれます。
 ちなみに墓石の左前方に据えられた石碑には、「二代片倉小十郎重長公後室御父眞田左衛門左源幸村御墓」と刻まれています。左の列は欠けていて読めない文字がありますが、元和元年五月七日戦死とあるのは読めますね。で、「信繁」ではなく「幸村」となっているところが、多少気にかかります。明らかに墓石とは作られた年代が違っているように見えるので、後世、何らかの事情でこうなったであろうことが推測されるところではありますが、詳しい事情はまったく分かりません。

 諸行無常、強者どもが夢の跡、掌を合わせて白石を後にするのでした。
(2018年9月訪問)