「社会に開かれた教育課程」タグアーカイブ

【要約と感想】若江眞紀『協育のススメ―戦略的教育CSR×学校』

【要約】これからの時代は、企業による教育CSRが重要になります。なぜなら、社会が求める人材が大きく変化したのに、保守的な学校現場が変わろうとしないからです。民間企業が教育に関わることで、これからの時代に必要な能力を伸ばすことができます。
企業の方もCSRの考え方を転換し、単に商品を売る市場と考えるのではなく、中長期的な観点から、発展的継続が可能な活動として、教育に関わっていきましょう。企業と学校がwin-winの関係になりましょう。

【感想】CSRとはCorporate Social Responsibilityのことで、「企業の社会的責任」を意味する。これまでのCSRは環境問題や労働問題に取り組むところが多かった印象だ。本書は、CSRとして企業が教育支援活動に関わることを勧める。単なる机上の空論ではなく、実践的に現場に関わってきた人の話だけあって、なかなか説得力がある。

最新学習指導要領は、「社会に開かれた教育課程」というキーワードの下、学校と地域社会が連携していくことを求めている。学習指導要領には「民間企業」の影は薄いのだが、現実的には民間企業の役割を無視することはできないだろう。民間企業も交えて、地域社会と学校が連携していこうとするとき、本書で示された知見と数々の実践例は大いに参考となる。
企業のほうが大きく変わろうとしている昨今ではあるが、さて一方、学校や教育関係者の意識は如何だろうか。

若江眞紀の教育共感net
教育CSRメソッド
株式会社キャリアリンク

若江眞紀『協育のススメ―企業のブランドコミュニケーションの新たな手法』カナリア書房、2014年

【要約と感想】中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』

【要約】実際にSTEM教育を実践してみて、これからの時代には、子どもの興味に即して個性を伸ばすために、豊富な体験に基づいた「探求」型学習が極めて有効であると確信しました。しかし公教育だけでは理想の教育は実現できないそうもないので、民間企業の協力が不可欠です。

【感想】これからの教育の在り方が具体的によく分かる、とてもいい本だと思った。民間教育企業としての経験、公立学校での授業経験、父親としての経験という3つの経験を踏まえた話というところでも、たいへん説得力を感じる。公立学校と民間企業の提携という点でも、実際に東京都と大阪市の教育委員会から委嘱を受けている企業なので、具体的な在り方がとても参考になる。

【今後の研究のための備忘録】
そんなわけで、「社会に開かれた教育課程」に関して大きな示唆を受ける文章があったので、引用する。

それは、「社会に開かれた教育課程」という方針に基づく、民間との連携です。
いままでの学習指導要領にはなかった「前文」が新設され、改訂全体の方針を示すなかでこのことは強調され言及されています。
つまり、社会の変化に合わせて最適な教育を子どもたちに提供するには、学校だけでは困難なので、民間企業やNPOなどが一部を担い、社会全体で公教育をつくっていこうということです。閉ざされた学校から脱却し、民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意の表れだと思います。(173頁)

著者は「社会に開かれた教育課程」の中身が実質的には民間開放であると確信している。しかし実際に学習指導要領を読んでみても、そうは読めない。また文科省の役人が民間開放について触れることはない。教育課程に関する教科書も、「社会に開かれた教育課程」について語るとき、民間企業への開放について触れることなど、一切ない。
が、まあ、著者の言うとおり、実質的に民間開放に繋がっているのは間違いないだろう。いわゆる「既存の教育コミュニティ」の中の人々が、現実から目を背け、無視しているというだけのことだ。
1984年の臨時教育審議会以降、2002年の小泉純一郎「聖域なき構造改革」でブーストがかかり、地方教育行政の絶え間ない改革によって教育委員会の役割が大きく変化した現状において、いよいよ「公教育の民間への開放」が現実的な日程に挙がってきたというわけだ。
「社会に開かれた教育課程」という合い言葉が実質的に「民間開放」を指しているかどうか、従来の教育コミュニティ関係者が固く口を閉ざして知らんぷりを決め込んでいる一方で、しがらみに縛られない著者によって、あっけらかんと「民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意」として語られるのであった。
これがいかにものすごいことであることか、現場がまったくピンと来ていない現状を見続けている私としては、背筋に寒いものが走るのであった。「社会に開かれた教育課程」の現実を示す証拠として、本書に示されたこの一文は重宝したいと思う。

それから気になったのは、著者が「成績評価をしなくてはならないという法的な拘束もありません。」(181頁)と書いているところだ。これは微妙な物言いだ。学校教育法施行令には「それぞれ当該学校に在学し、又はこれを卒業した者の学習及び健康の状況を記録した書類を保存しなければならない」とあり、「指導要録」はこれを根拠として「学習の状況」を記録する文書だ。この「学習の状況」の記録が、実質的には「評価」となる。教育学的な観点からいっても、「評価」をなくした指導など考えられない。「評価」には法的根拠がある。おそらく著者は、181頁に続く文章を読む限り、「評価」と「成績評価」は違うと主張したいのかもしれないが、本文の書き方だと「評価」そのものに法的根拠がないと言っているように読めなくもない。そもそも「成績って何だ?」という定義が必要になる。(「指導要録」とは違って、いわゆる「通知表」には法的根拠がないが、そのことだろうか?)
まあ、著者の主張とはあまり関係のない脇筋の話ではあるが、私の本業に関わるところなので気になった、ということで。

中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』CCCメディアハウス、2018年

STEMON

【要約と感想】ジョン・デューイ『学校と社会』

【要約】子どもたちは、学校で死んだ魚のような目をして、退屈な時間を過しています。学校は、社会の役に立っていません。社会が変化した以上、学校も変化しなければなりません。
 これからの新しい学校は、理想的な家庭を延長した、理想的な小さな社会とならなければいけません。子どもたちは生活で得た経験を学校に持ち込み、その経験は学校の中で豊かに磨き上げられて、人生の洞察に不可欠な科学的知識へと結びつきます。
 そのためには、小学校から大学までの学校システムを統一的に整備し、「教える内容」と「教える方法」を統一しなければいけません。それは子どもの「生活」を中心としたときに初めて可能になります。私が作った実験学校での取り組みの結果、確信を持って言うことができます。

【感想】「児童中心主義」を高らかに宣言する、新教育のマニフェスト的な本だ。背景となる社会理論も心理学理論もしっかり整備されている上に、実験学校における実践も伴っており、説得力あることこの上ない。100年以上前の本であるにも関わらず、「最新の学習指導要領の解説として出た」と言っても違和感がないほど、理論的には古びていない気がする。まあ、個々の具体的事例はもちろん古びているんだけれども。逆に言えば、現代の教育がデューイの議論をちゃんと乗り越えているのか、不安になるところでもある。

【個人的な研究のための引用とメモ】

コペルニクス的転回と児童中心主義

 本書では、児童中心主義をわかりやすく説明するためにコペルニクスの地動説を例に挙げている。いわゆる「コペルニクス的転回」である。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」49-50頁

 非常に分かりやすい喩えで、教育にとって「子どもの生活」が決定的に重要であることを明快に示している。

社会に開かれた教育課程

 本書の構成は8章から成っているが、最初の演説では3章構成だったという。その3章が、現在の学習指導要領の構成と極めて近接しているのは、興味深い。すなわち、
第一章 学校と、社会の進歩
第二章 学校と、子どもの生活
第三章 教育における浪費
 という構成なのだが、これはそれぞれ最新学習指導要領と、
(1)社会に開かれた教育課程
(2)主体的・対話的で深い学び
(3)カリキュラム・マネジメントと学校経営
 というふうに対応している。

 たとえば第一章「学校と、社会の進歩」では、デューイは産業社会の急激な進展によって家庭における子どものあり方が根本的に変化したことを指摘し、それに伴って学校の役割も変わるべきことを主張する。

「明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。」43頁

 「知識基盤社会」に対応して教育が変わらなければいけないと訴える現今学習指導要領の言い分と、とてもよく似ている。まあ、デューイの言う社会の変化が機械化である一方、学習指導要領の言う社会の変化はIT化、という中身の違いはある。とはいえ、社会の急激な変化を背景とした教育改革の必要性という点では、状況は極めて似ていると言える。
 そしてデューイは、そういった社会変化に、学校がまるでついていけていないと指摘する。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27頁
「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30頁

 上に引用した100年以上前の言葉は、ただの一個所の改変も必要とせず、そのままそっくり現代日本の教育に適用できてしまう。これはかなり恐ろしい事実である。「社会に開かれた教育課程」という合い言葉は、最近になって言われ始めたわけではない。100年前から叫ばれ続けていたにも関わらず実現しなかったのだと、認識しなければならない。学校という組織を変えることは、そう簡単ではない。
 では、デューイはこれからの学校をどうしようと言うのか。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。」31頁

 ここでは、「生活指導」という概念が見られることに注目しておきたい。

主体的・対話的で深い学び

 続いて、第一章で示された理念を、子どもの発達の側面から見るのが第二章「学校と、子どもの生活」の狙いである。一人ひとりの子どもの個性を重視し、興味を足がかりとして、生活のなかの活動をとおし、自然と社会の本質をつかませる。児童中心主義の本領発揮である。いわゆるアクティブ・ラーニングというものが100年以上前から実践されていたことは、踏まえておいていいかもしれない。
 この章では、「言語」というものに対する考え方と扱い方も注目ポイントである。

「言語本能は子どもの社会的表現の最も単純な形式である。だから、言語はあらゆる教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう。」60-61頁
「旧制度のもとにおいては、子どもたちに自由にのびのびと言語をつかわせることは、疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては、言語とは思想を表現する手段であると定義されている。なるほど思考的に訓練されたおとなにとっては言語は多かれ少なかれそういうことになるが、しかし、言語はまず第一に社会的なものであり、それによってわれわれが自己の経験を他人にあたえ、逆に他人の経験を受け取るための手段であることは、あらためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひき離してしまうならば、言語の教授が複雑で困難な問題になることは、怪しむに足りない。」68-69頁

 ここでは、言語というものが「思想を表現する手段」としてよりも、他者とコミュニケーションを図る手段として、より重要な地位をあたえられている。「主体的・対話的で深い学び」を実現する際、あるいは「言語活動」というものを重視する際にも、参考となる言語観だろう。

カリキュラム・マネジメントと学校経営

 以上の「社会に開かれた教育課程」および「主体的・対話的で深い学び」を踏まえた上で、デューイは第三章「教育における浪費」の中で、学校制度改革とカリキュラム構成について言及する。これは最新学習指導要領では、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」に相当する部分だ。
 デューイはまず現今のカリキュラムに統一が欠けていると批判する。

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88頁

 これまた一文字の変更もなく現在の教育に適用されて違和感のない文章である。この分断的・散漫的なカリキュラムを変えるために、デューイは「生活」による統一を提言する。

「子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的で能動的な関連のなかで生活するならば、かれの学習する学科は自然に統合されるであろう。そうなれば諸学科の相関というようなことは、もはや問題ではなくなるであろう。教師は、歴史の課業にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要もなくなるであろう。学校を生活と関連せしめよ。しからばすべての学科は必然的に相関的なものとなるであろう。(中略)。さらにまた、もし全体としての学校が全体としての生活と関連せしめられるならば、学校の種々の目的や理想――教養・訓練・知識・実用――は、もはやこの一つの目的ないし理想にたいしてはこの一つの学科を選び、他の一つの目的ないし理想にたいしては他の一つの学科を選ばねばならぬというような個々ばらばらなものではなくなるであろう。」107頁

 デューイは様々な実例も挙げるのだが、それらはいわゆる「総合的な学習の時間」を彷彿とさせるものだ。というか、「総合的な学習の時間」はデューイの構想を土台として出来ているわけだから、当たり前なのだが。
 が、この部分は、最新学習指導要領と袂を分かつ点かもしれない。デューイは統合の原理を「子どもの生活」に求めているが、最新学習指導要領は統合の原理を「求められる資質・能力」に求めている。デューイはあくまでも一人ひとりの子どもの個性を大事にしようとするが、すべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」については何も言わない。一方、学習指導要領はすべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」を想定する。ここが決定的に違う。この学習指導要領の姿勢が、果たしてデューイ理論を基礎とする戦後教育改革に対して加えられた「這い回る経験主義」という批判を乗り越える可能性を持つのかどうか、学習指導要領自身は何も述べていない。
 ともかく、最終的で現実的な制度設計において、学習指導要領はデューイを離れてブルーナーに近づいていくのであった。新学習指導要領の狙いが当たるかどうかは、「理念としてのデューイ、手段としてのブルーナー」というあり方が適切かどうかにかかっているように思うのだった。

問題解決学習

 また本書の注目点は、「問題解決学習」についての言及にもある。

「かつまた、前の第一期の特徴である子どもと学習される社会生活との全身的・劇的な同一化に加えて、いまや知的同一化がおこってくる――すなわち、子どもは遭遇せねばならぬ問題の見地に自己を置き、それらの問題を解決する方法をおよぶかぎり再発見するのである。」129頁
「かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上っている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を――すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。であるからして注意への動因・刺激もまた自分自身のものである。それゆえにまた、得られた訓練も自分自身のものである。――それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、またいいかえれば問題を考察する習慣の獲得である。」180頁

 問題解決学習は、子どもの興味と社会および科学を結びつける重要で決定的な媒介物となることが期待されている。問題解決学習の論理がデューイの発達心理学理論に根拠を置いていることは、知識として知っておいて損はしないかもしれない。

ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波書店、1957年

【要約と感想】日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討』

【要約】教育方法学の観点から見て、今時学習指導要領には本質的な欠陥がたくさんあります。

【感想】読み取った限りでは、学習指導要領の問題は、おおまかには2通り。一つは「教育目的」に関して、「人格の完成」を目指す教育ではなく、単に産業界の要請に応える人材育成に堕しているという懸念である。たとえば安彦忠彦は「筆者はこれに対して、「人格性」や「学問的な力」は育つのかと役人に質問し、大丈夫だという答えを得たことがあるが、その面への配慮が欠けることが心配である。」(p.19)と言う。また中野和光は、「次期学習指導要領は、2006年の教育基本法改正、教育関連三法の改正を土台として、OECDとの連携をもとに、グローバル経済競争という「総力戦」に必要な人材資源の育成のために教育制度を使おうとしている。」(p.32)と言う。あるいは福田敦志は、「新しい社会に適応するように「陶冶」される必要があるということは、適応を要請する社会のあり様それ自体は疑わせないということを意味することも合わせて押さえておきたい。」(p.116)と言う。まったくだと思う。

もう一つは、さすが教育方法学会だけあって「教育方法」に関して、「主体的・対話的で深い学び」というような「教授方法」のスタンダード化が一方的に押しつけられることへの懸念である。教え方の制度化・形式化の傾向が強まると、様々な個性的な取組みが一様な官製用語で塗り固められ、実践を語る語彙が貧困化し、教師の自律性が奪われると同時に、授業から子供たちの生活の文脈が失われ、学校のリアリティが無視される。果たして学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」というふうに「教え方」まで規定すべきなのだろうか、あるいは規定できるのだろうか。あるいは仮に規定できるにしても、法的拘束力を持ったままで問題ないのだろうか?

この問題は、教員養成改革の方向にも絡んで「教職の専門性とは何か?」という価値観と密接に絡んでおり、しっかり教育原理的に考察すべき課題のはずだ。本書は、学習指導要領を単なる技術論としてではなく、原理的に吟味したいときに参考になる。

日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討 「資質・能力」と「教科の本質」をめぐって』図書文化、2017年

【要約と感想】東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション』

【要約】東京大学教育学部が付属校と一緒に、総力を結集して挑んだカリキュラム改革の理念と実践記録。

【感想】個々の論文は、それぞれとても参考になる。言語力育成や、学校図書館利用や、ライフキャリア・レジリエンス教育や、シティズンシップ教育や、哲学教育など、具体的な実践の試みは、どれも興味深く読める。時間をかけて工夫して授業を作り上げていった様子がわかって、頭が下がる。

が、執筆者のスタンスは、もちろん全員一致しているわけではない。「社会に生きる学力」という本書を貫くはずの理念に対して根本から疑念を呈している論文がいくつかあって、なかなか面白かった。
たとえば金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」(123-135頁)は、「社会に生きる学力」が単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧し、教師に期待されるのは産業社会を超えるビジョンを示す力であると言う。また牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」(195-208頁)は、学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧する。このような危惧の根底には、文部科学省がどんなに綺麗事のキャッチフレーズを持ち出そうとも、現今の教育に期待されているのが結局は産業社会に資する人材を供給すること、という認識がある。そして、『学習指導要領』がそういう国是を疑いもせずに大前提にしているという認識がある。

本書のところどころで婉曲的に言及されるが、『学習指導要領』というものに法的拘束力があり、現場の教師の創造性に一定の枠を嵌めている現状においては、本当にカリキュラムをイノベーションすることなどできるわけがない。本書のような創造的な取組みが行われることでハッキリと浮かび上がってくるのは、教育行政の分権(個々の学校の自由なカリキュラム構成権や教科書採択権などを想定)という条件が欠けているところでカリキュラム・イノベーションを云々しても、最初から限界が見えているということだ。各学校は、あらかじめ文科省に枠組みが決められた範囲の中で、抜本的な解決には程遠い細々とした創意工夫を積み上げていくことしかできない。
しかし難しいのは、教育行政の分権を進めたところで、結局は新自由主義的な大枠の下、教育がglobal economyの荒波かlocal communityの狭い利害関心に取り込まれてしまい、一人ひとりの子供の個性を尊重して自己実現を目指すものとなるのかどうかという危惧が拭えないというところだ。果たして「社会に開かれた教育課程」は、どのように一人ひとりの「人格の完成」と結びつくのか。

いろいろ考える材料を与えてくれる本ではあります。

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年