「社会契約論」タグアーカイブ

【要約と感想】中村敏子『トマス・ホッブズの母権論―国家の権力 家族の権力』

【要約】社会契約論に関して、国家権力の成立過程についての理屈を踏まえながら家族内での権力関係について精査すると、ホッブズの議論がもっとも性的に中立な観点から組み立てられています。キリスト教教父アウグスティヌスは聖書の原罪の記述から女性を劣った性とし、アリストテレスは生物学的に女性を劣った性と決めつけて、家族内では男性が権力を握るのが自然だと主張しました。キリスト教的な観点からアリストテレスを取り入れたトマス主義は、国家権力成立前の自然状態を想定しましたが、家族の成立については従来の家父長制的な考えのままでした。しかしホッブズは、伝統的なキリスト教の原罪による女性蔑視に陥らず、アリストテレスのような生物学的性差別も認めず、男女を対等な個人と前提して、国家成立以前の自然状態においては子どもに対する権力を持つのは子どもを実際に養育する母であるという「母権論」を展開しました。これは後のロックにも見られない顕著な特徴です。『法の原理』と『市民論』では、女性が合意によって共同関係に入る過程で男性に権力を譲り渡すことにより母権を失うという議論が展開します。そして『法の原理』や『市民論』で母権を論じたホッブズも、後の『リヴァイサン』では家庭の形成過程と権力構造について沈黙し、女性と子どもは知らないうちに家庭内権力に取り込まれてしまうことになります。
 ホッブズが言う家族内での男女の権力関係は、ローマ法におけるファミリアの議論を引き継いで、相続以外の点では女性の法的権利を前提としていましたが、しかしイギリスの伝統的なコモン・ローにおいては婚姻後の女性の法的権利(人格)を認めない「カバチャー」の論理が横行し、ロックの社会契約論を踏まえて作られた自由主義的国家内の家庭においても女性の無権利状態が続くことになりました。そんななか、自然状態において男女の差を認めなかったホッブズの権力理論は、別の可能性があることを示唆しています。

【感想】とてもおもしろく読んだ。ホッブズの社会契約論について、私は『リヴァイアサン』だけ読んで、家父長のみによる社会契約であって女性と子どもは法的権利を認められていないと即断していたが、実はそれ以前の『市民論』では家族内の権力関係とその発生の論理について丁寧に語られていたということだ。目から鱗だ。とても勉強になった。しかし一方で、ロックの言う社会契約が平等な個人による社会形成ではなく家父長のみの合意による「家の合同」であるという理解は正しいのであった。ともかく、どうやらホッブズは『リヴァイアサン』だけ読んでわかった気になってはいけないらしいことはよく分かった。
 また、結婚すると女性から法的権利(人格)が失われるという論理が、イギリスのコモン・ローに顕著な「カバチャー」という概念に基づいていて、中世後期から引き継がれていることも勉強になった。キーパーソンはジョン・フォーテスキュー(1394-1480)とウィリアム・ブラックストン(1723-1780)。気になるのは、ローマ法におけるファミリアの議論も踏まえると、婚姻により女性から「人格」が失われるという論理はイギリスのコモン・ローに特徴的なものだということだが、ヘーゲルも同じようなことを言っていたことは本書では触れられていない。

中村敏子『トマス・ホッブズの母権論―国家の権力 家族の権力』法政大学出版局、2017年

【要約と感想】田中浩『人と思想ホッブズ』

【要約】ホッブズは民主主義思想家の元祖ですが、日本では絶対君主主義の権化と誤解されています。ホッブズに至るイギリス政治思想史の研究を怠っているせいです。ホッブズが民主主義者であることを理解するためには、ピューリタン革命前夜のイギリス政治体制の矛盾と課題を正確に認識する必要があります。
 ホッブズの思想は古代エピクロスから決定的な影響を受けており、それが同時代の思想家と際立って異なっている理由です。またルネサンスと宗教改革の思想を体系化し、カトリックの伝統を振り切って、後のロックやルソーに連なる近代的な政治思想を確立しました。

【感想】初心者向けの本である割には、繊細な論点に対して大胆に断定が下されていて、そのぶん話は分かりやすくなっているのだろうけれども、眉に唾をつけながら読む必要もありそうだ。たとえばピューリタン革命については、それを「市民革命の元祖」と見なすかどうか以前に、そもそも「革命」と見なすのかどうかですら議論がある(単なる「内乱」という見解もある)わけだが、そういう論点はバッサリと切り捨てられ、完全に「市民革命の元祖」と見なして話が進む。そういう歴史の単純化は、もちろんホッブズを「民主主義者」と理解する上で決定的な背景となる。逆に言えば、その背景がなくなれば、ホッブズを「民主主義者」とは考えられなくなるかもしれない。
 かつて日本では「日本資本主義発達史論争」というものがあり、明治維新を絶対主義段階と見なす講座派と独占段階にあると見なす労農派に分かれて激しい議論が繰り広げられたわけだが、同じようにイギリスのピューリタン革命(1642年)も、国王処刑という見た目のド派手さに目を奪われて「市民革命」と言いたくなるところ、実質的には伝統的に弱いイギリス王権が大陸の30年戦争に感化されて宗教政策で強権的に出た挙句に貴族層・ジェントリ層からカウンターを食らっただけであって、実は内乱進行の過程においてスコットランド・ウェールズ・アイルランドに対する支配は強化されるなど、むしろ国権の方は伸長しているように見える。これを本当に「市民革命」と評価してよいのか(まあ、民権と国権の伸長は理論的にも実践的にも矛盾するものではないが)。ホッブズにしても、やりたい放題の貴族層や教会勢力の無軌道ぶりの方を「秩序維持」の観点から苦々しく思っていて、貴族と教会の両方をいっぺんに無効化することを目指して神を必要としない「合意」によって権力の基盤を理論づけ、結果として「絶対王政」を正当化する理屈を打ち出しているように見える。仮に結果としては本書の言うような「民主主義」の論理として機能したとしても、ホッブズの本来の意図としてはそうだったようには思えない。そういう意味では、本書はピューリタン革命に関して労農派で、私は講座派という感じだ。まあこのあたり、ヘンリー8世の治世をどう評価するかとか、ジェントリ層の勃興をどう考えるかとか、本書でも丁寧に検討しているコモン・ローの伝統をどう理解するかとか、考えるべき要素が多すぎて、単純化するのが危険なことは自覚しておいて。
 さてしかしもちろんそういう歴史的経緯に対する関心は、ホッブズの時代を超える思想的評価を左右するものではない。近代政治思想史において極めて重要な役割を果たしていることそのものは間違いない。ホッブズ本人の意図として絶対王政の確立を仮に目指していたとしても、その理屈として貴族と教会の支配を排除して「一つの主権」を民衆の「合意」から積み上げて理論化したことは、近代民主政確立のための大きな一歩となった。また本書ではエピクロスとの関係について詳しく書いてあって、勉強になった。特にメルセンヌのサロンにおけるガッサンディとの関係は、類書では言及されることがなく、様々なインスピレーションが湧いてくる。

【個人的な研究のための備忘録】古代エピクロスの影響
  著者の卒論がエピクロスとの関係を扱ったもののようで、本書でもかなり詳しくエピクロスからの影響について語られる。やはりルクレティウスを経由していることなど含めて、なかなか勉強になる。

「われわれが西洋哲学史の著名な教授たち(中略)の著作を読むと、そこにはいずれも、ホッブズの政治思想にはエピクロスの影響がある、という指摘がみられる。(中略)
「人間論」から「社会契約論」を通じて「国家の設立」までを説明するホッブズの政治思想には、エピクロスの政治思想の影響が決定的なものであることがわかる。」118-119頁
「そこ(メルセンヌのサロン)でホッブズは、古代ギリシア・ローマの歴史や哲学にくわしいガッサンディと意気投合し、恐らく、かれから、エピクロスの唯物論や哲学思想を詩の形で書いたルクレティウスの『事物の本性について』という本を紹介され、それが、ホッブズが、母国の危機にさいして、国家論や政治論を各時の貴重な知的財産として用いられたのではないかと思われる。」121頁
「こうした人間論(「認識論」)からはじめて「道徳哲学」、「社会哲学」、「政治哲学」へと積みあげていく体系的手法の創始者は、近代においては、ほかならぬホッブズその人であったが、そのホッブズにヒントを与えたのが、エピクロスであった。エピクロスを発見したこと、それがホッブズを、世界の大思想家へと押し上げた理由であった。」124頁

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスと宗教改革
 ルネサンス及び宗教改革との関係も、順接的なものとして評価されている。そしてこの場合のルネサンスとは一般的なプラトン・アリストテレスの再評価ではなく、「エピクロスの発見」だということは忘れない方がいいのだろう(からメモしておく)。一方、宗教改革との関連については、ルターやカルヴァンの考え方を引き継いだというよりは、30年戦争のような宗教戦争が巻き起こす大混乱を目の当たりにしてドン引きしていたというのが本当のところではないのか。宗教に対しては確かに聖書主義的なアプローチを見せているが、聖書至上主義のルターやカルヴァンよりも、単に都合の良い言質を引き出す源泉として合理的に聖書を使うエラスムスやモンテーニュのほう(つまり人文主義)に似ていると思う。

「「自己保存」という「理性の哲学」(自然法)と「聖書」(啓示)にもとづいて宗教を論じたホッブズの学問的方法は、別の言葉で言えば古代ギリシア・初期ローマの思想にもとづいたルネサンス的思考とルターやカルヴァンなどの宗教改革的思想とを組み合わせた思想的大建築物である、ということができよう。(中略)ホッブズこそが、「ルネサンスと宗教改革の精神」を近代において最初に体系化し、それによって、かれは、その政治思想体系をのちのロックやルソーの近代政治思想へとつなぐことができたのである。」143-144頁

田中浩『人と思想ホッブズ』清水書院、2006年

【要約と感想】スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』

【要約】狂信的なキリスト教信者の旧約聖書の解釈はめちゃくちゃです。奇跡なんて起こるわけありませんし、預言者を自称している人たちはバカばかりですし、神がユダヤ人だけを選んだなんてことがあるわけないし、そもそも聖書は神の言葉ではありません。宗教なんてものは人々が道徳的に暮らすための方便として役に立てばいいのであって、そこに真実を求めようとするからおかしなことになります。真実とは本ではなく自然の中にあり、そしてそれこそが神でもあります。
 人間が平和で文明的に暮らすためには人々をまとめる政府が必要ですが、だからといって個人がもともと持っている自然権をすべて譲り渡して放棄する必要もありません。あらゆるものが自然の法則に従わざるを得ないことを考えると、政府がどれだけ人々をコントロールしようと試みても、それが人間の本質に反している限り、うまくいくわけがありません。そして人間というものは欲することを考え、考えたことを言ってしまう本性を持つ生き物なので、それを止めようとしても無駄ですし、止めようとすると国家の方が壊れます。

【感想】そりゃあ発禁にもなるよなあと。無神論者のチャンピオンとしてスピノザの名前が轟いてしまう、ホッブズもびっくりの宗教論と政治論だ。
 宗教論についてはその筋の人に任せておいて、個人的な研究上の興味関心は政治論にある。というのは、社会契約論が全面的に展開されているからだ。スピノザはひとまずホッブズの社会契約論をそのまま踏襲しているように見せて、それを明確に否定する。『エチカ』で詳しく述べることになる人間本性に基づいて、現実的には人間が自然権を100%放棄することなどありえないと主張する。というのは、人間には自己の本性を維持しようとする傾向性(コナトゥス)があり、どんな圧力を加わえてもその傾向性を変えることはできないからだ。さらに、政府の方も無敵の権力を持っているわけではなく、人間本性に反するような運用をするとたちまち人々から見放されて政権崩壊してしまうので、人間本性に配慮した枠の中での権力行使に禁欲せざるを得ない。ということで、自然権の完全な放棄は理論的には考えられるかもしれないが、現実の政治過程を考えた場合、人間本性の許す限りのところでバランスがとれて、一定程度の自然権は必ず各人に残る。そして各人に保持される自然権として要点になるのが「表現の自由」だ。人間の本性として、人間は欲望に基づいてものごとを考えるし、考えたことは表現してしまう。それは自然の摂理であって、国家が止めようとして止められるものではない。表現の自由を制限しようとする国家は、必然的に滅びる。
 ただし現代的な観点から問題になるのは、私人間の自然権を調整する、いわゆる「公共の福祉」をどう考えるかだろう。確かにスピノザは政府と個人の間の権力関係については「表現の自由」は尊重されるべきだと結論した。しかし現代日本における「表現の自由」は、国家権力による抑圧というより(依然として重要な観点ではあるが)、私人間の権利調整のほうが難しい問題になっている。この「公共の福祉」という論点については、スピノザから回答を得ることはできない。とはいえ、もちろんそれはスピノザの視野が狭かったという話ではなく、「表現」というものの公共性と私事性の関係が現代日本とはまったく異なっているせいではある。「表現の自由」という自然権が私人の間で衝突したときは、スピノザが言うように「欲望は他人に何らかの損害を引き起す限りは之を抑制し、自分がされたくないことは他人にもせず、最後に他人の権利を自己の権利同様に守る」という原則で知恵を出し合うしかない。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
  スピノザは、後半で展開する政治思想をダイジェストでまとめている。概略、ここだけ読めば、言いたいことは分かる。

「これを証明する為に余は各人の自然権から出発し、各人の自然権は各人の欲望と力とが及ぶところまで及ぶこと、又自然権に依れば何人も他人の意向に従つて生活すべく義務づけられて居らず、むしろ各人は自己の自由の擁護者なのであることを余は示してゐる。この外に余は、人がこの権利を実際に放棄することは、その人が同時に自己を護る力をも他人へ委譲するのでなくては出来ないこと、又各人が自己自らの意向に従つて生活する権利を自己を擁護する力共々に或人に委譲した場合に、その委譲された人は必然的にこの自然権を無制限に保持すること、さうしたことを示してゐる。尚ほここからして余は、最高の統治権を握る人々はその為し得る一切を為す権利を持つこと彼らのみが権利と自由の擁護者であること、他の人人は彼らの決定に従つてのみすべてを為さねばならぬことを示してゐる。然し何人も人間としての立場を失ふまでに自己自身を護る力を奪はれることは不可能なのだから、これから余は、何人も自己の自然権を完全には奪はれ得ないこと、むしろ臣民はある種の権利をいはば自然権に依つて保持すること、かうした権利は国家の大きな危険を伴はずには彼らから奪ひ取られ得ないこと、従つてかゝる権利は臣民に対し暗黙的に認められるかそれとも臣民が統治権を握る人々と明示的にこれを契約するかであること、さうしたことを結論してゐる。」上巻54-55頁

 が、細かく見ていこう。まず注目しておきたいのは、「自然権」の具体的な中身が、ホッブズのように単に生命を維持するということではなく、『エチカ』で具体的に展開する人間の本性であるコナトゥス概念を踏まえた形で、「自己の状態に固執する最高の権利」とされていることだ。私個人としては、これは「わたしがわたしでありたい」という再帰的な願いということで理解したい。そしてこの「わたしがわたしでありたい」という再帰的な願いは、各個人の資質や能力とは全く関係がなく、すべての人間(どころかあらゆる個物)に平等だというところが極めて重要だ。スピノザが「欲望と力」と言った場合、ホッブズのいう無軌道なやりたい放題ではなく、「わたしがわたしでありたい」という願いを意味していることには注意したい。

「各々の個物は自己の状態に固執する最高の権利を、換言すれば自然から決定されてゐる通りに存在し、活動する最高の権利を、持つといふことが帰結される。
 この際我々は、人間と自然に於ける他の個物との間に、また理性を付与された人間とまことの理性を知らない人間との間に、更に又魯鈍者乃至精神錯乱者と精神的健全者との間に何らの相違を認めない。事実各物が自己の本性の諸法則に従つて為すすべてのことを各物は最高の権利に従つて為してゐるのである。各物は自然から決定されてゐる通りに行動し、それ以外には行動し得ないのであるから。」下巻164-165頁
「故に各々の人間の自然権は、健全な理性に依つてでなく、反つて欲望と力とに依つて決定される。実際すべての人間が理性の諸規則・諸法則に従つて行動すべく自然から決定されてゐるわけではないのである。むしろ反対に、すべての人間は全く無智の状態で生れるのであり、そして彼らが真の生活方法を知り又有徳の状態をかち得るまでには生涯の大部分(たとへ彼らがうまく教育された場合でも)が経過するのである。だがそれにも拘はらず彼らはそれまでの間生活をし、且つ自己を出来得る限り維持せねばならぬのであり、そしてそれを欲望の衝動のみに従つてせねばならぬのである。自然は彼らに対して他の何物をも与へなかつたし、又健全な理性に従つて生活する実際の力を拒んだのであるから。」下巻165-166頁
「これからして、すべての人間がそのもとに生れ、又多くの場合そのもとに生活してゐるところの自然の権利及び自然の法則は、誰もが欲せず、誰もが為し得ないことのほかには何ごとをも禁じないとふことが帰結される。」下巻167頁

 またここに子どもの姿と教育について触れられていることも頭の片隅に置いておきたい。
 続いて、ホッブズの理屈が展開される。ここだけ切り取って理解するとホッブズとの違いが分からなくなってしまうので、この後で否定されることを前提に読んでいく必要がある。

「とはいえ、理性の諸法則・理性の一定命令に従つて生活する方が人間にとつて遥かに有益であることは何ぴとも疑ひ得ない。理性の命令は、既に述べたやうに、人間の真の利益をのみ目ざすから。その上、誰しも出来るだけ安全に且つ危惧の念なしに生活することを望まない者はないのであるが、このことたるやしかし、各人が勝手にどんなことでも為し得る限り、又憎しみや怒りに対してよりも理性に対して多くの権利が認められない限り、絶対に不可能なのである、事実、敵意や憎しみや怒りや欺瞞の間にあつては何ぴともびくびくした生活をせざるを得ないのであり、従つて各人はさうしたものを出来る限り避けようと力めるであらう。更に又我々が、人間は相互的援助なしには極めて惨めな、理性の涵養も出来ないやうな生活をせねばならぬことを考へるなら、我々は明らかに次のことを、即ち人間は安全に且つ立派に生活するためには必然的に一つに結合しなければならなかつたのであり、そしてこれに依つて彼らは各人が万物に対して自然から与へられた権利を共同的に所有するやうにし、又その権利がもはや各人の能力と欲望に依つてではなく万人の力と意志とに依つて決定されるやうにしたのであることを認めるであらう。然しかうした試みは、若し彼らが欲望の囁きにもに従ふとしたらうまく行かなかつたであらう(各人は欲望の諸法則に依つて種々の方向へひきずられるから)。従つて彼らは理性の命令(何ぴとも無分別であると思はれたくないために正面から理性の命令に反対することを敢へてしない)のみから一切を導き、欲望は他人に何らかの損害を引き起す限りは之を抑制し、自分がされたくないことは他人にもせず、最後に他人の権利を自己の権利同様に守るといふことを固取決めに依つて契約せねばならなかつた。」下巻168-169頁
「即ち各人がその有するすべての力を社会に委譲すればよいのであり、かくて社会のみが万事に対する最高の自然権を、換言すれば最高の統治権を保持し、各人は之に対して自由意志に依つてなり或は重罰への恐れに依つてなり従ふべく拘束されることになるのである。かうした社会の権利関係を民主制と名づける。」下巻173頁

 ここまではホッブズの理屈をそのまま祖述しただけだが、ここからその否定に入る。

「一切に対する最高権力の権利、並びに最高権力に委譲された各人の自然権についての前章の考察は、なるほど実践と大体に於て合致し、又実践はこの考察に益々歩み寄るやうな風に整備され得るとは言へ、その考察はやはり多くの点に於て純粋な理論に止まらざるを得なかった。思ふに何ぴとも自分の力を、従つて自分の権利を、自分が最早や人間としての立場を失ふ程にまで他者に委譲し切ることは出来ないであらうし、又何ごとをも自分の思ひ通りに果し得るやうな最高権力といふものは存在しないであらう。(中略)故に我々は各人が自己の権利の中の多くのものを保留すること、かくてその保留された権利は他者の決定にではなく自分の決定にのみ左右されるといふことを容認せねばならぬ。」下巻189-191頁
「かくして、我々の見るところに依れば、統治権の権利と力は充分大きいものであるけれども、然しそれは統治権を握る者ならその欲するいかなることをでも無制限になし得ると言つたほど大きいものではないのである。」下巻193頁

 ホッブズの理屈は理屈としては正しいのだが、ただそれだけで、人間の本性を踏まえた現実の政治過程においては実現不可能だ、というのがスピノザの主張である。だからこのスピノザの主張を擁護するためには、人間の本性が丁寧に論述されていなければならない。実際、スピノザは繰り返して人間の本性について語るし、主著『エチカ』全編がその根拠となっているといってよいだろう。

【個人的な研究のための備忘録】神の法
 スピノザは以上の社会契約論的の帰結を、ユダヤ人の「神の法」にも適用する。

「我々が自然状態を啓示された神の法に先立つもの・それと関係なしにあるものと考へるのは、人がそれを自然的には知り得ないといふ故ばかりではなく、すべての人間が依つて以て生れる自由の故にでもある。(中略)神の法は人間が特別の契約に依つてすべての点に於て神に服従すべく約束した時に始まつたものと確認せねばならぬのであり、人間はこれに依つていはば自己の自然的自由を放棄し・自己の権利を権利を神へ委譲したのである。恰も国家状態に於てそれが行はれるやうに。」下巻184頁
「ヘブライ人たちの各者も、預言的に啓示された宗教が彼らの間で法的効力を持つ為には、先づ自己の自然権を放棄し、すべての者が、共通の同意を以て、神から彼らに預言的方法に於て啓示された命令にのみ服従すべく決心することが必要であつた。このきは民主国家に於て行はれるやり方と全く同様である。といふのは、民主国家ではすべての者が、共通の同意に依つて、理性の指令にのみ従つて生活すべく決意するのであるから。」下巻252頁

 本書が1944年に出版されたことを考えると、かなりすごいことを言っている。ここでスピノザがユダヤ教に対して述べている理屈が、太平洋戦争最中の日本の神道にも適用されたらどういう帰結になるか。もちろん文部省は1890年「教育勅語」以来、そして特に1937年「国体の本義」と1941年「臣民の道」ではオカルト的に、日本人にとっての「神の法」は自然状態に先立つと主張し続けてきた(つまり文部省の見解では、縄文時代と弥生時代は存在しない!)。しかしスピノザは、「神の法」が自然状態に先立つわけはないと言っているし、本書はそれを1944年に世に示した。社会契約論(およびそれに基づいた共和制)というものがある特定の日本人論者にとって蛇蝎のごとく忌み嫌われたのは、おそらく現実の革命に結びつくかどうか以上に、「自然状態」という概念が日本の皇室の正統性にとって致命的だからだ。

【個人的な研究のための備忘録】子ども
 子どもに関する記述があった。

「同様に又子供も、たとへ両親のあらゆる命令に従はねばならぬとしてもやはり奴隷ではない。何となれば両親の命令は子供たちの利益をなによりも目指してゐるからである。我々はそれゆえに奴隷と子供と臣民との間に大きな相違を認める。これを我々は次にやうに定義する。即ち、奴隷とは命令者の利益をのみ目指す命令に従はねばならぬ者である。子供とは全し自分の利益になることを両親の命令に基づいて行ふ者である。最後に臣民とは公共の利益になること、従つて又自分の利益にもなることを最高権力の命令に基づいて行ふ者である。」下巻178-179頁

 素朴な形ではあるけれど、「子どもの最善の利益」を目的とする両親の教育権という発想が生じている。近代の法理論では「子ども」がほとんど眼中に置かれない中、スピノザがこういう考えを既に持っていたことは頭の片隅に置いておきたい。

【個人的な研究のための備忘録】分業
 分業の観念そのものは古くから見られるが、社会契約論の理屈に組み込まれるのはスピノザ特有か。ホッブズ、ロック、ルソーの理屈を確認しておきたい。

「社会といふものは、敵から安全に生活する為にばかりでなく、又多くの事柄に関して手間をはぶく為にも、極めて有利であり、必要欠くべからざるものでさへある。実際若し人間が相互に助け合ふことをしなければ、人間には自己を出来得る限り継続し涵養する為の技術と時間が不足するであらう。何故ならすべての人がすべての仕事に同等に適当してゐるわけではなく、従つて各人はさうなればその最も必要とするところの品々を獲ち得ることが出来ないであらうからである。」上巻181頁

【個人的な研究のための備忘録】教育
 意外な文脈から教育に言及している。新約聖書の福音記者が、「使徒」なのか「教師」なのかという文脈である。

「理性は、教へる権能を持つ者は自己の欲する方法を選ぶ権能をも持つといふことをはつきり教へてくれるから。(中略)実際世間一般の教師も各々特有の教授方法を有し、従つて語学や科学について、否、その真理性に関しては何人も疑はぬところの数学についてさへも、まだ他の誰からも学んでゐない全く無素養の人々を教へたがるものなのである。」下巻93頁

 ここで言っている「教授方法」というものがどのレベルのものなのか気になって仕方がないが、スピノザのテキストからはこれ以上のことは分からないのであった。

スピノザ/畠中尚志訳『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―上巻』岩波文庫、1944年
スピノザ/畠中尚志訳『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―上巻』岩波文庫、1944年

【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』

【要約】スピノザの思想はしばしば難解と言われますが、人生や歴史的背景を踏まえ、最新の研究動向をふんだんに盛り込んで、すべての著書に目を配って全面的に解説します。
 最初の本はデカルト哲学の解説本ですが、スピノザはデカルト哲学体系に不満を持っていて、特に方法論を全面的に修正します。デカルトとは異なる総合的方法を準備するために、次の著書『知性改善論』で能動的な実践に導く発生的定義に取り組みますが、不十分なまま未完に終わります。続いて『エチカ』のプロトタイプともみなされる『短論文』では「力」の観点にたどりついていますが、こちらも出版されません。
 主著『エチカ』では、神を含めたすべてを「原因」からの発生的定義で幾何学的に記述し、「目的論」を完全に排除します。精神や延長は神の無限の属性の一つで、個物は神の様態です。「結果」とは個物が「力(コナトゥス)」を発揮した「表現」であり、その「変状」の過程に「自由意志」が介在する余地はありません。客観的な善悪などはなく、個物の「力」を増す組み合わせが善で、減らす組み合わせが悪です。だから「力」を表現する「欲望」の在り様こそが個物の本質ですが、それを「意識」して神の本質とシンクロさせたときが至福であり、自由です。
 『神学・政治論』では旧約聖書の荒唐無稽なデタラメさを言語分析と自然学的な観点から逐一批判しつつ、宗教の現実的機能は否定しません。政治論的には「法=lex」と「自然権=jus」の違いを踏まえた社会契約論的な記述がありますが、自然権の放棄を主張しない(というかできない)ところがホッブズやルソーとの決定的な違いです。

【感想】該博な教養を背景として丁寧な読解に基づいた明快な構成と明晰な文章で、よく分かった気になる。とても勉強になった。読み込みすぎていて、「意識」の説明のあたりはスピノザの意図を超えているような印象が無きにしも非ずだが、優れた「原理」というものは有益な知識を次々と産み出す生産的なものだとデカルトも言っているので、この「意識」に関する議論は少なくともスピノザの原理から必然的に生成された知見ということで問題ないのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格の完成
 「完全性」に関する言及があった。

完全であるとは完成しているという意味であり、そして完成しているとはもともと、人間が何かの制作を企て、その企てを成し遂げた場合を指していたのだろうとスピノザは言う。つまり完全性とはある人の意図した目的が達成されたことを指していた。言い換えれば、完全であるとか不完全であるなどと言えるのは、その意図された目的が知られている場合に限られていたということだ。」279-280頁
「スピノザはそれに対し、それ自体において見られた事物という観点を導入する。事物はそれ自体で見られる限り、完全でも不完全でもない。或る事物が不完全と言われるのは、「それらの物が、我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したというためではない」。したがって、或る意味で全てのものは完全である。」281-282頁

 この「完全性」とか「完成」の議論からただちに想起するのは、教育基本法の第一条に「教育の目的は人格の完成」と規定されていることだ。目的論を排除し、完全性概念にまとわりつく偏見を批判するスピノザからすれば、二重に間違っている規定ということになるだろうか。制定過程を振り返ってみれば、この教育基本法第一条「人格の完成」の規定にこだわったのは、カトリック教徒でもあり、さらには法学者として「自然法」の普遍性を唱える時の文部大臣、田中耕太郎であった。あらゆる面でスピノザと相性が悪いのは当然なのだろう。
 ともかく、スピノザの観点を踏まえて教育基本法第一条「人格の完成」というものを考え直してみると、まず何らかの模範(イデア)に向かって子どもの教育を行うべきだという話にならない(それは子ども固有のコナトゥスに反する強制になる)し、そもそも教育という生成的な営みを「目的」から組み立てるなという話になるだろう。あるいは、子どもには子どもとして「それ自体で見られる限り」の完全性が既にあるのだから、完成しているものの「完成」を目指すのはまったく意味が分からない。このスピノザの観点は、子どもの権利条約や子ども基本法によって子どもにも大人と同様の権利(jus)があることが改めて確認されたことと響き合う。そんなわけで、子どもを「人格が完成されていない者」と決めつけるカトリック的現行教育基本法はスピノザ的には何重にも間違っているし、子どもの権利条約にも噛み合わないので、スピノザ風に目的論ではなく生成的に書き直してみると、たとえば、「教育の役割は、各個人のコナトゥスを活性化し、それぞれの完全性を増すこと」とでもなるか。

【個人的な研究のための備忘録】自然権と社会契約論
 『神学・政治論』に現れる社会契約論について、かなり突っ込んで議論を展開している。

「良心と意識の無区別は、前章で扱った、ホッブズによって指摘された法と権利の無区別ともある程度重なることになる。権利(jus)の届く地点が法(lex)の覆う領域の外にまで及ぶことが着想すらされない場合、つまり、人の為しうることは社会的規範によるその既定の内に収まっていると当然のように想定されている場合、権利と法は特に区別される必要がない。」295頁
「だとすると、以上のスピノザの思想は、ロックが説いたような、意識をその根拠とするいわゆる近代的個人を前提としない仕方で世俗的な国家や政治社会を捉える可能性と必要性を示していることになる。」296頁

 教育学的には、なかなか示唆するところが多い指摘だ。というのは、著者は議論を世俗的な国家や政治社会に限っているが、教育学者の私はここの記述から、「学校」や「教室」という、ある意味では一つの社会と呼べる空間をすぐさま想起する。で、子どもというものは「未だに近代的個人」となっていない存在であって、ロックやルソーのように「近代的個人を前提」とする仕方では社会(学校や教室)を構成できないわけだが、スピノザのように「近代的個人を前提としない仕方」であれば子どもを構成員とする社会における「権利」というものを捉えられる理論的可能性が生じるからだ。
 そもそも、どうして赤の他人である教師が赤の他人である子どもに対して言うことを強制的に聞かせる「権力」が生じるのか、その権力の源泉はどこにあるのか、という議論が教育法学で連綿と続けられており、戦前であれば「特別権力関係理論」、戦後であれば「国民の教育権論」が唱えられてきた。国民の教育権論の構造は、大雑把には、親の持つ教育権が「信託」されることによって教師に権力が生じると説く。ポイントは子どもにはもっぱら「学習権」が認められるべきで、それは放棄も譲渡もできない天賦の権利だとされていることだ。つまり、国民の教育権論の構造では、子ども自身が権利を放棄したり譲渡したり信託したりする社会契約論にはなりようもない。ところがスピノザのように「近代的個人を前提」としないかたちで社会の成り立ちを捉えると、ひょっとしたら子ども自身の「自然権をそのまま」にする形で学校や教室という社会を成立させる理屈が立つのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 有機体論について、気にかかる記述があった。

「この引用箇所は、多数者をまるで一人の人間に準えるかのようにして、国家の権利は、あたかも一つの精神からのように導かれる多数者の力によって決定されると述べている。」388頁
「『国家論』は多数者というアクターに注目した。だが、そのアクターを精神の概念と結びつける時、言い換えれば、指導層がまるで国家の精神のように存在していて、それによって動かされる国家の身体が多数者であるかのような話になる時には、必ずこの特殊な言い回しが現れているのである。」389頁
「つまり、『国家論』では、国家が精神と身体の隠喩で国家が語られるときには、その隠喩性を強調する表現がしつこく繰り返されている。」390頁
「したがってスピノザの国家理論はどちらかと言えば、有機体論的図式に近い。確かに、国家は統治権に基づいて導かれねばならない――あたかも一つの精神によって導かれるかのように。この言い回しを多用する『国家論』は、確かに、国家を一つの生き物のように分析している。」392頁
「この言葉のラディカルな含意を次のように定式化できるであろう。人間を国家のように考えることはできないし、国家を人間のように考えることもできない。」393頁

 私も昔から「有機体論」の表現に注意を払ってきたつもりで、スピノザ『国家論』に連発される有機体論的表現にも着目せざるを得ない。そういう関心から言うと、本書の行論には疑問なしとしない。第2章第6節の「国家の中における国家のように」という表現は、有機体論とは関係ない文脈で突如として挿入されている。確かに「人間を国家のように考えることはできない」と言っているが、「国家を人間のように考えることもできない」とはどこにも書いていない。しかもスピノザは、「精神」を持つのは人間に限らないと主張した哲学者である。国家が「精神」を持っているとさらっと書いていても、何の違和感もない。本書は、少々読み込みすぎているような印象がある。

國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』岩波新書、2022年

【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

【要約】神など持ち出すまでもなく、世界を説明することは可能です。雷だろうが、地震だろうが、日食だろうが、なんだろうが、すべて「原子」の振る舞いによって合理的に説明することができます。そうやって神様抜きで物事の本質を捉えれば、迷信から抜けだし、不安が消えてなくなり、平穏で幸福に暮らすことができます。

【感想】エピクロスの教説を、ほぼそのままなぞっている。原子説や、自由意思の発生の根拠や、気象地質学に関する見解や、幸福と倫理に関わる議論や、社会契約論など、基本的にエピクロスからの逸脱は見られない。

 顕著な特徴を挙げるとすれば、繰り返し強調される「宗教」への敵意だろうか。ルクレーティウスによれば、この世の不幸の原因は全て宗教(あるいは宗教による迷信)にある。雷や地震などの自然現象を徹底的に合理的に解釈するのは、宗教による迷信を取り払うためだ。
 とはいえ、彼の自然科学的な説明は、現在の科学水準からすると、思わず笑ってしまうほどトンチンカンではある。が、故に、真空中での物体の落下速度は等しいとか、可算無限の等質性とか、エネルギー保存法則への言及があるところには、けっこう驚く。

【要確認事項】
 個人的に気になったのは、全体的な論調がルソーを思い起こさせるところだ。特に似ているのは、(1)自然科学に対する素朴な信奉、(2)人間の自然状態を根拠とした社会契約論にある。

(1)自然科学の知識に関しては、もちろんルソーの水準はルクレーティウスを遙かに上回ってはいる。また、ルソーは物理学というよりも普遍的な数学理論の方をより本質的なものと見ているようではある。とはいえ、自然科学的な知識を土台として世界を合理的に見ていこうとする姿勢は、極めてよく似ているように思う。

(2)そしてそれ以上に気になるのは、自然状態を根拠とした社会契約論がよく似ていることだ。特に本書の議論は、要所要所でルソー『人間不平等起源論』を直ちに思い起こさせるような言い回しに溢れている。ルソーがエピクロスやルクレーティウスからどの程度の影響をうけているのか、専門家でない私には今のところ見当がつくわけはないが、素人でも明らかに気がつく類似であることは、メモしておきたい。

 その上で、ルソーとの決定的な違いは、ルソーがそれでも最後には神の存在を認めている点と、社会契約論を単なる現状説明で終わらせずに理想の社会を描いている点にあるように思う。

【今後の研究のための備忘録】社会契約説
 本書に見られる社会契約説的な議論は、単にスローガンを掲げるだけのエピクロス教説とは異なり、人間の自然状態の記述から説き起こしており、近代の社会契約説を直ちに想起させるものとなっている。(ちなみにエピクロス本人も、今はすでに失われてしまった書物のなかで社会契約論を詳細に展開していた可能性は高そうだ)

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力な力か、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

【2022.8.18追記】ルネサンス期への影響
 ルネサンス期の人文主義(フマニスム)を勉強していて、このルクレティウス(およびそれを通じたエピクロス主義)が想像以上に大きな支持を受けていることを認識した。たとえばロレンツォ・ヴァッラ(『快楽について』)、テレジオ、パトリーツィなどがルクレティウスに好意的に言及している。また内容的にはルクレティウスを非難するピコ・デラ・ミランドッラも、雄弁的な観点からはルクレティウスを評価していたりする。実は感心していたのではないか。はたしてルネサンス期にルクレティウスが復活することを通じて、後の自然科学や社会契約説勃興への道ならしが行なわれたなんてことはあるかどうか。

ルクレーティウス『物の本質について』樋口勝彦訳、岩波文庫、1961年