「人格」タグアーカイブ

【要約と感想】濱貴子『職業婦人の歴史社会学』

【要約】大正から昭和戦前期の「職業婦人」に関して、各種統計から量的に、雑誌記事から質的に検討しました。量的には一貫的に女性就業者は増加し、特に第三次産業に従事する女性が目立ちましたが、行政は職業婦人を低賃金で周辺的位置づけと見なし続けました。マス段階に入った女子高等教育機関の卒業者については、マス段階の農村部では就職率が下がって良妻賢母化が進みましたが、都市部では第三次産業で職業婦人化が進みました。
 女性向け雑誌では、対象読者によって職業婦人の描かれ方が異なり、時期によって重点が変わります。同じ職業婦人といっても、主婦として内職で家計補助のために働くか、結婚までの腰掛修行か、社会的自立を目指すか、読者の出身階層と時期によってニュアンスが異なります。1920年代には職業婦人は公領域(政治経済)で男性労働や参政権との関係で語られがちだったのが、1930年代以降は政治経済から排除されて私領域(家庭)で良妻賢母の概念に包摂されてきます。この歴史的経緯は、戦後の日本社会でも大きな影響を持ち続けています。

【感想】勉強になった。おもしろく読んだ。個人的には1900年前後の女性就労状況を知りたかったので、直接的にその興味に応えるものではなかったものの、1920年代~30年代の実相と問題についてはよく分かった気になった。公領域から私領域への移行という分析軸にも説得力を感じた。そして実は職業婦人の語られ方だけでなく、「子ども」についても同じような語られ方の変化があったのではないかという直感がある。子どもの教育を公領域で語るスタイルから、私領域で語るスタイルへの変化。つまり「家族」とか「家庭」というもの全体の問題に連動しているということだろう。
 また裁縫の技術がどれほど女性の経済的自立に結びつくかも読み取りたかったのだが、1930年の段階でもやはり裁縫技術はほとんど家庭内の衣料調達で完結していて、大規模に市場化されている様子は伺えなかった。少数ながら「被服裁縫業主」や「裁縫工」が内職・副業に絡んで言及されていて、換金の手段として認知されていることは分かった。このあたり日本に特殊な現象ではなく、全世界的にも事情を同じくしているような印象はある。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 個人的に進めている渡邊辰五郎の研究にも関わって、「人格」という言葉に反応する。

「戦前期の女子高等教育における「人格」教育の重視という教育理念も「良妻賢母」の養成と矛盾するものではなかった。この点について、天野正子(1986)は、「「知的」教育よりも忍耐・努力・克己の精神といった「人格」教育を、知育よりも徳育を重視する立場が、高等女学校の教育を支配した「良妻賢母主義」と矛盾するものではなく、むしろそれを補強するものであった」と指摘している。」11頁

 この文脈で言う「人格」とは、カントが言うような独立した責任主体としての人格という意味ではなく、ただ単に儒教的な道徳性を身に付けたことを意味している。「忍耐・努力・克己の精神」は、カント的人格とは何の関係もない。それが悪いということではなく、本来はドイツ観念論(あるいはロマン主義)的なものとして入ってきた「人格」という言葉にすぐさま儒教的なニュアンスが流れ込んでいき、ただの儒教的道徳性陶冶のことを「人格教育」と呼ぶようになったという事実について確認しておきたい。そして渡邊辰五郎が裁縫教育に「人格教育」を見出していたのは、どういう意味なのか。

東京市社会局(1924)『職業婦人に関する調査』「此等の職業婦人(むしろ婦人労働者と目すべきものもある)は労力に対する報酬は最も低廉で剰へ人格を無視されてゐる事は今更云ふまでもない。」
東京市社会局(1931)『婦人職業戦線の展望』「人格を認められたい」

 ただし職業婦人が自ら残した「人格」という言葉には、「人間の尊厳」という意味が込められているように見える。記憶しておきたい。

濱貴子『職業婦人の歴史社会学』晃洋書房、2022年

【要約と感想】山口雅広・藤本温編著『西洋中世の正義論―哲学史的意味と現代的意義』

【要約】正義とは古代においては四大枢要徳の一つで、中世においては他の知恵・節制・勇気とは異なる性質を持つものとして議論される一方、スコラ学がプラトンの魂の三区分やアリストテレスの正義論を引き継いだり、あるいはキリスト教の愛の観点から「義」に対するまったく別の論点が示されるなど、多様な議論が行われました。
 検討の対象となっている主な思想家は、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、エピクテトス、アンセルムス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、フォンテーヌのゴドフロワ、スコトゥス、ジャン・ビュリダン、スピノザ、カントです。

【感想】知らないことだらけで勉強になった。知的刺激になるので、定期的に他流試合はするべきだ(というか最近は他流試合しかしていない気もする)。
 論点としては、正義は「客観的にある/個人の習慣」、「普遍的/個別なものの集合」、「自由意志/信仰」、「法/権利」といった組み合わせで展開するというところか。

【個人的な研究のための備忘録】人格論
 個人的な興味関心の対象である「人格」についても様々な言及があったのでサンプリングしておくのだった。

「私たちがキリスト個人に正しさを認め信仰するとき、正しさの形相そのものを、私たち自身のうちに分け持つことになる。しかもその形相は、義なる神において存在するだけでなく、キリストのうちにも神性にそくして存在している。そのため、キリストを正しさの模範とするとき、人々は義なる信徒としてキリストに属しながら、自己と神との間に正しい支配関係を成立させる。そして神の義に適うような正しい人として人格的な完成に至ることができる。このような仕方での人格的な完成や幸福の生の獲得に、アウグスティヌスの正義論は関わっている。」75-76頁
「たとえ義人が最後の審判の日まで厳しい状況にあり続けたとしても、この世で意のままにできる力を得ようとせずに、まずは善き意志で人格的な完成を目指す方が、神の義に適う可能性は高くなる。」89頁
「神が人性をとって一つのペルソナとなったキリストを模範として、人間たちは人格の完成や平和な共同体を目指すべきだとされる。」89頁

 ここでは「人格の完成」の中身が、神と人が一つのペルソナとなったキリストを模範として神の義に適う正しい人、となっている。つまり、単なる人間性をどこまで高めていっても人格は完成しない。神性(の一端)を獲得することで初めて人格は完成する。教育基本法に「人格の完成」を押し込んだ文部大臣田中耕太郎は、カトリック信者の立場から正しく上記の意味で「人格の完成」を理解していたはずだ。逆に言えば、カトリック思想を外れたところでは「人格の完成」の意味がまるで分からなくなる。「完成」ってなんだ?ってことになる。つまり、戦後直後に文部省が人間性の多面的な発達という観点から「人格の完成」を語り始めたときに、もはや意味が通じなくなっている。

アンセルムス「神にとって真理、直しさ、義とは同一のことだからである。つまり、神については、直しさはその完全な自己同一性を指示する概念である。」98頁
「被造物は、その存在を神に負い、各々が「存在すべきこと・行うべきこと」を遂行する。それゆえ、直しさとは、神と被造的な世界との関係・構造を指示すると同時に、そこにおいて神へと開かれ、神を志向する被造物の自己同一性の遂行を指示する動的な概念である。」99頁
「いずれにせよ、神の意志に服従しなかったことによって、人間は神の意志と分裂し、また自己自身における意志の分裂、他者の意志との分裂が生じることになる。神からの疎外と同時に、自己自身からの疎外、他者との疎外も生じる。人間の自己同一性は失われたのである。これが罪・不義ということの根本的な事態であろう。」105頁
「救済の中心にあるのは、キリストの義である。キリストの義による救済は、原罪によって歪んでしまった神と人間の関係、人間の自己自身そして他社との関係を真っ直ぐにし人間の自己同一性を回復するものであった。」108頁

 正義とは自己同一性を維持することであるとは、そのままそっくりプラトン『国家』の主張である。さらに、キリスト教の神の義の観点から自己同一性の遂行を指示する動的な概念として示されているとのことだが、もちろんこの視点もソクラテスの言う「アレテー」の概念と響き合っているし、プラトン『国家』の結論でもある。ということで、アンセルムスは明らかにプラトン正義論から霊感を受けているのであったが、すべてキリスト教にアレンジされているのであった。

「中世の大学において正義とそれに関わる基本的語彙の理解について一二~一三世紀に分化が進行していったということ、その分化が今日の法学部と人文学部での「正義」の扱いに遠く影響を与えているということはあり得ることである。」131-132頁

 これは興味深い仮説である。さらに雄弁術等「人文学」一般への影響が分かると、テンションが上がる。

フォンテーヌのゴドフロワ「個別的な善をめざす他の諸徳から区別されるかぎりで、一般的徳がめざす共通的なものは、諸々の個別的なものからの抽象によって共通的あるいは一般的なのではない。むしろそれは何らかの一なる個別的全体である。なぜならこの場合、数的に一なるものがたしかに共通的であり、国家、州、王国において見られるように、それは多くの個別的なものをいわば全体を構成する諸部分として含むからである。これはちょうど、世界全体は何らかの一なる個別的なものでありながら、すべての個別的存在を含んでいるから、ある意味で共通的であるのに似ている。」164頁
「以上のような議論をゴトフロワ自身は第二問末尾で、正義は形相的対象の一性という観点からは特殊的だが、質量的対象の共通性という観点からは一般的であると要約している。」175頁

 「人格」の本質を考える上で重要な論点を含んでいる。「一と多」の弁証法という、キリスト教では三位一体論に当たる論点ではある。ちなみに本書でも序章で名前が出てきたマリタンは、質量的な「個性」は特殊的だが形相的な「人格」は一般的だと論じた。中世の議論がどの程度まで近代の「人格」論への射程を持っているか、気になるところである。

山口雅広・藤本温編著『西洋中世の正義論―哲学史的意味と現代的意義』晃洋書房、2020年

【要約と感想】苫野一徳『愛』

【要約】現象学の本質直観によって「愛」というものの確信の根拠を探ります。世間で愛と呼ばれるものの中には、単に自己ロマンを投影しただけの偽物があります。丁寧に愛の様々な隣接概念(執着と愛着、友情と友愛、エロティシズムと性愛、恋と恋愛)の本質を言語化する努力を重ねていくと、我々が「愛」を直観するときには必ず「存在意味の合一」と「分離的尊重」の弁証法的関係にあることが観取できます。「存在意味の合一」と「分離的尊重」の欠けているものは、愛とは似ているが非なるものです。つまり「ほんものの愛」が理念的にあり得ることは間違いないので、それを実際に実現できるかどうかは愛を育てようとする「意志」に係ってきます。みんなで幸せになろうよ。

【感想】読後感が爽やかな、良い本でした。
 個人的に「愛」には一家言あって、というのはこの20年来、大学で行う教育学(教職課程でも一般教養でも)の講義の中で「人格」という概念を扱う際、「好きと愛」の違いを通じて本質に迫るという説明をしてきたからだ。ただの感情である「好き」と対象の存在そのものの在り様に関わる「愛」との違いを突き詰めていくと、最終的に「愛の対象」としての「人格」というものが理念的に要請される、という仕組みだ。この私の説明の仕方は、著者の現象学的証明とは異なり、言わば存在論的証明とでも呼べるかもしれない。まあ、学問的アプローチの仕方はまったく異なるけれども、深いところで響き合っているような感じは確かにあるのであった。

 些末なことだが、学問的に気になるのはデカルト『情念論』やスピノザ『エチカ』に記述されている「愛」の扱い方だ。あるいはモンテーニュ『エセー』も加えてよいか。それらは明らかに「存在意味の合一」と「分離的尊重」を欠いている。それでもって彼らが「ほんものの愛」を理解していないと断罪できるのはいいとして、彼らが「ほんものの愛」を眼中に入れていないことを思想史的にどう理解するのか。理性を至上化した近代合理主義の限界として切り捨てるだけでよいのかどうか。

苫野一徳『愛』講談社現代新書、2019年

【要約と感想】牧原出『田中耕太郎―闘う司法の確立者、世界法の探求者』

【要約】田中耕太郎(1890-1974)の人物と事績については当時も現在も毀誉褒貶が激しく、仕事の領域も多岐に渡って全体像を見通しにくいことから評価が定まりにくいのですが、本書は「組織の独立」のために闘ったという観点から首尾一貫した姿勢を確認していきます。政治史的な資料だけでなく親族や友人たちの証言も立体的に使いながら人となりを浮き彫りにします。
 まず田中の考え方の土台として、生来のコスモポリタニズムを背景としたカトリック思想と自然法思想を押さえます。そして具体的な事績では、民法からの「商法」の独立、国家からの「大学」の独立、国家権力からの「教育行政」の独立、政治家や世間の雑音からの「司法」の独立、国連における「国際司法裁判所」の独立を見ていきます。どの場面においても困難な課題に直面しますが、雰囲気に流されずに言うべきことを言い、組織の独立を守る強い姿勢を示しました。

【感想】知らないことがたくさん書いてあって、とても勉強になった。幅広い領域に目を注いでいて、労作であることは間違いないと思う。個人的な研究でも引用していきたいと思う。
 で、理解した限りでの田中耕太郎の人となりについて、敵(特に共産主義)に対して容赦がないのはともかく、身内(と見なした相手)に対してそうとう甘いんではないかという疑いを持ってしまった。そういう身内に甘く敵に厳しい行動原理を高所から眺めると「弱い組織の独立に尽力した」と見える、ということなのかもしれない。確かに組織(特に立ち上げ直後の基盤が整っていない弱い組織)にとっては必要不可欠な人材ではあったのだろう。が、それだけで、特に感銘は受けない。ひょっとしたら、勉強がやたらとできたようだし、私には見えていない景色がこの人には見えていたのかもしれない。厄介な人なんじゃないかという個人的な印象は拭えないのだが、歴史的な評価についてはエポケーしておくのが無難なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】教育基本法
 教育畑の私の個人的な研究関心は、もちろん教育基本法制定に係わった文部大臣としての田中耕太郎だ。特に第一条「人格の完成」という文言に強くこだわったことは教科書にも掲載されるほどの常識で、「人格」概念史を深めようとしている私にとっては無視できないどころか超一級の研究対象だ。そんなわけで、教育に係わるテキストはサンプリングしておくのだった。

「局長就任時の田中独自の主張は、教育勅語の擁護であった。その自然法としての意義を認め家長的権威が学校教育でも必要だとしていた。田中は学生の個性の発揚と人格の完成を掲げながらも「個性の発揚は個人主義、アナーキズムの弊に陥らざるように警戒することを要し、人倫の大本、即ち自然法的道徳原理に依る限界を厳守すること」を主張していた。」139-140頁

 本書にも「鋭い批判を浴びる論点」と記されているし、田中自身も後に撤回する見解ではあるが、まあともかく現代的な水準からは唖然とする暴論である。というのは、仮に教育勅語に示されている個別の道徳的内容が自然法に噛み合っていたとしても、完全に「固有」で「特殊」である命令形式については自然法として理解できるものではないし、主体性・能動性が問題となる道徳性について考える場合は「形式」についての洞察が決定的に重要な論点になる。田中の間違いは、形式に対して完全に目を覆っている点にある。しかし田中個人の資質に問題を還元してしまうのではなく、実は戦後直後の多くの知識人(自由主義者を含む)に共通する常識的な態度であったことは押さえておく必要がある。

「田中は一月三〇日に文相を辞任しているため、一月三〇日までの案が田中が直接検討作業に関わったものである。その影響は、とりわけ前文と、一月一五日案の「政治的又は官僚的支配」からの「独立」、「人格の完成」という条文の文言にある。(中略)
 一月七日に初めて作成された前文案は、「教育基本法前文案(大臣訂正の分)」いう表題の括弧部分が示すように、田中が手を加えたものだろうが、特に以下の第一段落は、「人格の完成」という言葉を入れるべきという田中の強い主張が反映されていた。
 教育は、真理の尊重と人格の完成とを目標として行わなければならない。しかるに従来、わが国の教育は、や〃もすればこの目標を見失い、卑近なる功利主義に堕し、とくに道徳教育は形式化し、科学的精神は歪曲せられ、かくして教育と教育者とはその固有の権威と自主性とを喪失するに至った。この事態に対処するためには、従来の教育を根本的に刷新しなければならない。」154-155頁

 教育学の基本中の基本の知識である。

「このうち第一段落部分は削除され、第二段落部分について以後検討が続けられ、結局一月三〇日案で第一条の冒頭は、「教育は、人格の完成をめざし」となり、それが成案となる。田中が辞任する直前の修正が、田中の意図する文言への変更となっていた。
 田中の強調する「人格の完成」は、一九三六年のパリ訪問時に意見交換をしていたカトリックの哲学者ジャック・マリタンの人格概念を基礎にしていた。マリタンは個別性や個人とは異なり、人格は神への信仰を通じて全体性を希求し、それによって完成に至るととらえていた(『人権と自然法』)。
 もっとも法案制定後、文部省が発した訓令では、「人格の完成とは、個人の価値と尊厳との認識に基き、人間のあらゆる能力を、できるかぎり、しかも調和的にせしめることである」と定義している(『教育基本法の解説』)。田中自身、文部省によるこの定義は、自身の見解とは異なると断っている。文言は残ったものの、その構想は修正されていた。」156頁

 専門的にもうちょっと詳しく言うと、「人格の完成」という文言は「人間性の発達」という文言を主張する立場から批判されている。「人間性」とは弱さや脆さも含めた現実の人間の価値と尊厳をイメージする言葉だが、それに対して「人格」とは神の完全性を踏まえた言葉である。どちらを採用するかで、教育が目指すべき方向性はかなり変わってくる。田中はカトリック信者らしく「人格」を前面に打ち出したわけだが、ここにマリタンの見解が関わってくる。マリタンは「人格」は普遍的だが「人間性」は特殊的だという区別をした。田中は明らかに普遍性を打ち出す意図をもって「人間性」を切り捨てて「人格」という言葉を持ってきている。そして後の文部省の定義はむしろ「人間性」に寄せた形になっているので、田中にとって「自分の見解とは異なる」のも当然ということになる。
 現在の学習指導要領等に記されている「人格」には、もちろんカトリックの思想は反映していない。そして「新しい学力」を打ち出す文部官僚たちが使う「人格」は、大正教養主義の意味すら持たない。現在の「人格」という言葉は、論者にとって何かしら都合の良い中身を自由に詰め込めるような、単なる空箱として機能している。そういう状況だからこそ、改めて田中耕太郎の立法意志に立ち返る意味があるのだろうと思う。

牧原出『田中耕太郎―闘う司法の確立者、世界法の探求者』中公新書、2022年

【要約と感想】デカルト『方法序説』

【要約】学校で学ぶことはデタラメで何の意味もないことを悟り、自分自身の内部と世界そのものだけに真実を求めて旅に出ました。そしたら旅先でもみんな言っていることがそれぞれ違うので、人が言っていることは何も信じてはいけないことを確信しました。
 これまでに教師からデタラメを教え続けられたことが分かった以上、曖昧でいい加減な知識は全部捨て去り、焦らず時間をかけて、確実な思考を進めるための原理を考えた結果、4つの規則に落ち着きました。
(1)疑う余地のない明晰で判明な真実以外は判断の材料としない。
(2)解決すべき問題はできるだけ細かい部分に分割する。
(3)もっとも単純で認識しやすいものから階段を上るようにして順番に理解し、最終的に複雑なものの認識に至る。
(4)あらゆる要素を完全に枚挙して見落としがなかったと確信する。
 この思考法を数学で試すとたちまち難問を解きまくることができるようになり、これでいけるという自信を持ったので、最も重要な哲学で同じことができるかチャレンジしてみることにしましたが、焦らず時間をかけて丁寧に考えようと思ったので、決定的な答えを見出す前に暫定的な行動方針を立てました。
(1)わたしの国の法律と慣習、そして最も良識ある穏健な人の意見に従う。
(2)一度決断を下したら、多少怪しくても首尾一貫してそれに従う。
(3)他人を変えようと無駄なことはせず、自分を変える。
 この方針でしばらく大丈夫そうだったので、予定通り少しでも疑わしいものはどんどん捨て去りました。しかしあらゆるものを疑い続けるうちに、考えている自分自身の存在だけは疑えないことは、何があっても揺るぎない確実な真理であることを見つけました。「われ惟う故にわれ在り」こそ探し求めていた哲学の第一原理ということでファイナルアンサーです。そうなるとたちまち(2)仮に身体(物体)がなくても考えるわたし(精神)は存在する。(3)わたしたちが明晰かつ判明に捉えることはすべて真実である。(4)完全な神が存在する。(5)われわれの理性には何かしら真理の基礎がある、という真理が演繹されます。
 この原則に立って考え始めると、これまで哲学上の難問と思われてきたことにも簡単に答えを出すことができます。たとえば地球を含むこの世界全体の成り立ちやあらゆる現象、さらに人間の体の仕組みは、古代哲学やスコラ学が駆使する概念なんかなくても、すべてメカニカルに説明し尽くせます。ただし人間の魂は物質ではないので、別に考えなければいけません。
 ここまでの考えを論文にまとめて出版する準備を進めていましたが、宗教裁判でガリレオが有罪になったのを見て、やめました。しかしやはり自分が到達した真実へ至る方法は人々を幸福に導くものです。なぜなら自然の原理を解明し、それを応用することで、われわれは自然の主人となり所有者となることができるからです。わたしが到達した地点はごくごく初歩的なところにすぎませんが、この方法を貫徹すれば、人間はますます発展していきます。今後の探究では実験が重要になります。序説はこれで終わりますので、次の章から具体的な成果をご覧ください。(翻訳はここでおしまい)

【感想】まあ私が改めて評価するまでもないことだが、新しい時代の幕開けを告げる画期的な論考だ。いよいよ近代に突入した。
 まず重要な事実は、中世的スコラ学を徹底的に排除しているのに加えて、ルネサンス的人文主義も完全に排除している点である。デカルト的近代は人文主義(ヒューマニズム)の伝統から完全に切り離されている。ルネサンス的人文主義の研究者たちはもちろん人文主義こそが近代の幕開けだと主張するわけだが、虚心坦懐に本書を読めば、そんなことはない。むしろ人文主義は近代化を妨げるような世迷言に過ぎない。古代哲学など、現実を理解するのに何の役にも立たない。デカルトに直接連なるのは、コペルニクス、ブルーノ、ベーコン、ガリレオなど、自然科学の発展に果敢に尽くした人々だ。
 とはいえ判断が難しいのは、デカルトの自己主張にも関わらず、既存の権威を相対化するという批判的な姿勢や態度を育む上で人文主義が何の貢献もしていないと即断するわけにはいかない、というところだ。15世紀後半から17世紀前半に至る100年強の時間の中で、人文主義の活動(そして宗教改革)によって少しずつ既存の権威が失われていく。この既存の権威への批判と相対化という地ならしがなければ、デカルトの画期的な論考も芽生えることがなかったかもしれない。というか、たぶんそうだろう。となると、人文主義とデカルトの間に直接的な繋がりがなくとも、時代背景や土台づくりという点で人文主義の意義を認めることはできる。
 また、実は「我惟う故に我在り」というアイデアそのものが既にアウグスティヌス『神の国』に見られるという事実には配慮しておいていいのだろう。デカルト自身がアウグスティヌスに言及することはもちろんないし、残されている書簡によればアウグスティヌスの著作を本当に知らなったようなのだが、あれほどデカルトが「完璧にマスターした」と豪語するイエズス会の学校でアウグスティヌス(しかも主著『神の国』)について聞いていないなんてことがあるのか。
 そんなわけで、ルネサンスや人文主義の歴史的意義については、デカルトの方針に従って、少ない情報のみで即断することなく、時間をかけて丁寧に見ていかなければならない。

 次に個人的な関心から問題になるのは、「かけがえのない人格」という近代的自我の観念形成に対してデカルトがどれほどの貢献をしているか、というところだ。
 まず「我惟う故に我在り」という例のテーゼそのものが「かけがえのない我」という観念を浮上させるのは間違いない。しかも哲学の第一原理ということで、荘子など中国哲学的な独我論とも異なり、あるいは仏教で乗り越える対象となる「欲望の主体としての我」とも異なり、間主観的な議論に発展させることが可能な、つまり民主主義の土台となる健全な個人主義の原理として意味を持つ。デカルトそのものには「かけがえのない人格」という表現を明確に見ることはできないが、ここに個人主義の哲学的土台を見ることは許されるだろう。
 そして本書を通読して改めて思ったのは、デカルトは自身の主張を論理形式のみにおいて成立させようとしているのではなく、自分の独自な生育史を踏まえて説得力を持たせようとしている、ということだ。本書の書き方そのものが「過剰な自分語り」になっていて、たとえば扱っている内容や主張がまったく違うように見えるモンテーニュ『エセー』における「私」と立ち位置が実はよく似ている。こういう「自分語り」は古くはペトラルカやダンテあたりの詩的表現には見られるが、哲学の領域において、プラトンのような対話形式でもなく、アリストテレスのような客観的論文調でもなく、過剰に自分語りをしながら表現してみせたのは実はけっこうすごいことではないか。そもそもデカルトは真理の「伝え方」にそうとう意図的で、客観的な真理として他人に押し付けようとはしておらず、あくまでも「自分自身がたどりついた確信」について述べるという表現形式を徹底している。つまり、自分がたどりついた真理を自分自身の表現形式に忠実に適用している。デカルトが画期的なのは、内容だけでなく表現形式と伝達手法においても「我惟う」を貫いたところだ。ここに近代的自我(かけがえのない人格)の始まりを見たくなるわけだ。

 ちなみに評判が悪い「神の存在証明」は、確かに無理筋だ。「完全性」という中世スコラ的概念を持ち込んだ瞬間に話がおかしくなった。逆に、いかに「完全性」という概念が中世を支配していたかを照射する表現としては注目できる。そして、実はここにこそ「人格の完成」という概念の根っこがあるのかもしれないので、侮れない。ちなみに「神」を必要としない「我惟う」哲学第一原理の確立は、フッサールを待つことになる。

【個人的な研究のための備忘録】
 スコラ学や人文主義に対する批判については直接的な表現を確認できる。

「わたしは子供のころから文字による学問(人文学)で養われてきた。そして、それによって人生に有益なすべてのことについて明晰で確実な知識を獲得できると説き聞かされてきたので、これを習得すべくこのうえない強い願望をもっていた。けれども、それを終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全課程を終えるや、わたしはまったく意見を変えてしまった。」11頁
「わたしは雄弁術をたいへん尊重していたし、詩を愛好していた。しかしどちらも、勉学の成果であるより天賦の才だと思っていた。」14頁
「以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。」17頁
「われわれが人生にきわめて有用な知識に到達することが可能であり、学校で教えているあの思弁哲学の代わりに、実践的な哲学を見いだすことができ、この実践的な哲学によって、火、水、空気、星、天空その他われわれをとりまくすべての物体の力や作用を、職人のさまざまな技能を知るようにはっきりと知って、同じようにしてそれらの物体をそれぞれの適切な用途にもちいることができ、こうしてわれわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。」82頁
「これまでの医学で知られているすべてのことは、今後に知るべく残されているものに比べたら、ほとんど無に等しい」83頁
「しかも実験については、知識が進めば進むほど、それが必要になることをわたしは認めていた。」86頁

 あとはスコラ学や人文主義を批判する文脈で「自然の主人にして所有者たらしめる」という近代の人間中心主義が露骨に表明されていることについては、やはり見逃すわけにはいかない。

「われわれはみな、大人になる前は子供だったのであり、いろいろな欲求や教師たちに長いこと引き回されねばならなかった。しかしそれらの欲求や教師は、しばしば互いに矛盾し、またどちらもおそらく、つねに最善のことを教えてくれたのではない。」22頁

 大人と子どもの比較が表現されていたのでサンプリングしておきたい。またここでさりげなく「教師」に対する批判が見られることも確認しておく(ただしヴィーヴェス等に見られるような倫理的人格に対する批判ではないのだろう)。

「しかし、だからといってわたしは、疑うためにだけ疑い、つねに非決定でいようとする懐疑論者たちを真似たわけではない。」41頁

 モンテーニュと比較されることに対する牽制だと理解していい表現か。ともかく16世紀前半の段階で一般的に「懐疑論」について理解されていただろうことは確認しておく。
 確認しておけば、デカルトは「方法的」に懐疑しているだけで、結論として懐疑を容認しているわけではない。デカルトの「我惟う」は独我論に陥らず、間主観的な議論が成立する土台となる健全な個人主義に結びつく。そういう意味で、フッサール現象学が方法論としてエポケー(判断停止)するのは、確かにまったくデカルト的である。

「続いてわたしは、わたしが疑っていること、したがってわたしの存在はまったく完全ではないこと――疑うよりも認識することのほうが、完全性が大であるとわたしは明晰に見ていたから――に反省を加え、自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。(中略)完全性の高いものが、完全性の低いものからの帰結でありそれに依存するというのは、無から何かが生じるというのに劣らず矛盾しているからだ。そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている。つまり一言でいえば神である本性だ。」48-49頁

 デカルト自身が「スコラ学」から言葉を借りてきていると正直に表明している通り、この神の存在証明に近代的な表現は見当たらない。荒唐無稽だ。
 ただし、「完全性」という概念がヨーロッパ思想史で極めて重要な役割を果たしてきたことだけは明瞭に理解できる。そして近代の「人格の完成」という概念は、私の感想では、おそらくこの「完全性」の概念を背景として成立している。デカルトのこの荒唐無稽でデタラメな神の存在証明には、しかし繰り返し立ち戻ることになるだろう。

デカルト/谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫、1997年