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【要約と感想】伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』

【要約】ヨーロッパの近代はいわゆるルネサンス(16世紀)後に急に始まったわけではありません。西欧の転換点として決定的に重要な時期は12世紀です。しかも、ビザンツ帝国やイスラム教から刺激と影響を受けたことが極めて重要です。西欧から失われた古代ギリシアの知恵は、キリスト教異端(ネストリウス派と単性論)によって東方ビザンツ帝国やイスラム世界に伝わり、シリア語やアラビア語への翻訳を通じて保存され、さらにイスラム学者達が発展させていきました。ただの辺境にすぎなかったヨーロッパは、12世紀になってから、イスラム世界で発展していた科学的精神をラテン語に翻訳して受け容れることで大きな飛躍を遂げ、近代に繋がっていくことになります。

【感想】とてもおもしろかった。勉強になった。個人的には、長いあいだ謎だったミッシングリンクをぴったり埋めてくれるような、知的爽快感がある良い本だった。「12世紀ルネサンス」という言葉そのものは各方面から様々な形で聞いてはいて、概要くらいは小耳に挟んでいたのだが、改めて自分事として革新的な意義がよく分かった。というのは、私の興味関心に直接応えてくれるような知識だったからだ。

【研究のための備忘録】三位一体
 キリスト教神学の奥義とされる「三位一体」を一笑に付しているのは、爽快感がある。私としても三位一体論は破綻しているようにしか見えないが、他の学者もそう思っているのだと分かると安心する。

「「三位一体」というのは、どうなのでしょう。私なども、キリスト教神学のなかで、これが一番わかりにくい。どうして父と子と聖霊が一体になっているのか、特に父と息子がひとつになったりするのか、一番わかりにくい。だから、キリストを神ではなく預言者であるとするイスラムの考えのほうが筋が通るのではないかなどと思ってしまうのですが。」pp.68-69
「それでは正統は何かといえば、それは神と人と聖霊との三位一体を認める立場です。前講でいったように三位一体というのはなかなかわかりにくい教義です。アウグスティヌスが論じたり、他にもいろいろな神学者が一生懸命弁じていますが、我々にとってはなかなかわかりにくい。むしろネストリオス派とか、単性論者のほうが、ある意味で割り切っていて話の辻褄が合うわけです。」p.134

 で、カトリックに異端と決めつけられてビザンツ帝国から追放されたネストリウス派と単性論者が東(シリアとペルシア)に向かい、そこで古代ギリシアの知恵が生き残るというのが趣深い。だからいわゆるルネサンス(復興)と言った時、実は何が本当に復興したのかというと、もう紛う方なき「異端」なのだ。ルネサンスとは、「異端の異端による復興」だ。キリスト教が批判して止まなかった多神教古代ギリシアの世界が育んだ科学的な知恵が、カトリックに排除されたネストリウス派や単性論者によって保存され、カトリックを批判する人文主義者たちによって西欧にもたらされる。追い出したはずの異端が西ヨーロッパに逆流してきたのがルネサンスということになれば、自分たちの方から排除したヨーロッパは本来なら神妙な顔をして受け容れなければいけないはずで、「これが俺たちの原点だ」などとデカい顔をする権利はない。というか、もともとローマ・カトリック(ラテン語)の世界にはそういう合理的精神が息づいていなかったのだから、実ははじめから「原点」なんかではなく、「復興」と呼ぶのもおこがましい態度なのかもしれない。本当は単に「外国から学んだ」と言えばいいだけの話に過ぎないのに、そのオリジナルを自分たちのものだと言い張るのは、端的に言って傲慢な態度だ。「ルネサンス」とは、その言葉自体からして西欧史の隠蔽と捏造を試みたものである疑いが強い。
 ということで、個人的にはかねてから「ルネサンスの経緯がわかりにくいなあ」と思ったいたのだが、歴史が捏造されていたのだとすれば、私がわからないのも当たり前だ。私がミッシングリンクだと思っていたものは、私が見失っていたのではなく、実は最初からなかったのだ。ルネサンスが「復興」などではなく「異端からの輸入」だったという事情が分かれば、極めてすっきりと流れを理解できる。この「異端からの輸入」という事実を隠蔽して辻褄を合わせようとするから、ルネサンスの説明が変なことになる。

【研究のための備忘録】ダンテやペトラルカはルネサンスなのか。
 そして図らずも、知りたいと思っていたルネサンス問題に直接切り込んでくる文章があった。ありがたい。ここでもミッシングリンクがイスラム世界であったことが明らかになる。

「十一世紀に頂点に達したイスラムにおける愛の伝統がトゥルバドゥールの発生を刺激したことは疑いえないと思われます。」p.283
「トゥルバドゥールがアラビアの影響を受けたと言われるのは(中略)さらに内容の上で両者ともに官能的な恋愛を歌うこと、そして恋人を守るために自分の身を犠牲にする男性の心情を歌うことも共通しています。(中略)このロマンティック・ラブの理想が、西欧に初めて生じたのは、十二世紀のラングドックやプロヴァンスの地であったわけですが、それが十三世紀に北方に移ってトゥルヴェールになり、さらにドイツへ行きますとミンネジンガーになります。これが十四世紀にイタリアに伝わるとダンテやペトラルカを含む清新体の詩というものを生み出します。」p.267
「トゥルバドゥールの愛は、さらにイスラム神秘主義の変容を経て、十四世紀にイタリア「清新体」の詩人に引きつがれ、古典主義やキリスト教をも打って一丸とし、ダンテとペトラルカに最も完成された姿を現したといってよいでしょう。」p.268

 まあ、なるほどだ。高校の世界史レベルの教科書では、ルネサンスを扱うところで何の脈絡もなくいきなりダンテやペトラルカが登場して、なんでこの時代のこの地域に新しい思想が現れたのか理由がサッパリ分からないわけだが、辻褄が合わないまま話が先に進んでしまう。しかし「実はイスラム世界の影響だったんだよ」と言われれば、いきなり視界がクリアになる。クリアになった目で歴史の流れを見てみれば、ダンテやペトラルカは、いわゆるルネサンスなんかではない。それは明らかに、中世に属する事象だ。11世紀イスラム世界から12世紀ルネサンスを経て13・14世紀に至る、一連の中世的な文脈の末期に見られる事象だ。だから、15世紀のいわゆる教科書的なルネサンスと、ダンテやペトラルカの活動は、別の文脈にある事象だ。そしてダンテやペトラルカをイスラム世界の影響から切り離して「西欧固有のルネサンス」なる文脈で語られるのは、ただただ西欧人が歴史を隠蔽・捏造して辻褄を合わせようとしただけのことだ。カラクリがよく分かった。
 ルネサンスという言葉は、やはりそれを人文主義的な動向に及ぼして使用するのは好ましくない。もともとの意味通り、ミケランジェロやラファエロなど芸術方面に限って使用するべきだろう。そして仮に敢えて人文主義的な動向に及ぼそうとするのであれば、「自分たちが追い出した異端が保存してくれた知識をイスラム世界から教えを請うて学んだ12世紀ルネサンス」という理解の下で使用した上で、従来ルネサンスと呼ばれてきた15世紀以降のたとえばエラスムスなど人文主義者の仕事については改めて「印刷術」との関係で理解するべきということになるだろう。そしてこの時点で、破綻している「三位一体」の論理は問題にもならなくなる。

【研究のための備忘録】人格
 さてそこで気になるのが、「人格」という言葉の変化だ。ラテン語のpersonaは、周知の通りキリスト教の奥義「三位一体」を語る上で極めて重要な言葉だったのだが、その大本である三位一体が破綻していたということになれば、perosnaという言葉は理論体系から放り出されて宙に浮いてしまう。この宙に浮いたpersonaという言葉がどういう経緯で近代の「人格」という言葉に着地していくのか。このあたりは極めて不可解なミッシングリンクだったのだが、ヒントは12世紀ルネサンスにあるのかもしれないと思った。三位一体の正統教義から排除された異端が「復興」と称して西欧に戻ってきた際に、三位一体の呪縛から解き放たれたpersonaという言葉が改めてどう理解されるか、ということである。もちろんそういう話は本書には出てこない。

伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』講談社学術文庫、2006年<1993年

【要約と感想】清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』

【要約】本書で言う「中世」とは12~15世紀の盛期中世を指し、「イタリアの都市」とは主にヴェネチア・ジェノヴァ・ピサなどの港湾商業都市を指し、ローマやミラノなど古くからの政治都市は対象としていません。
 これまでの都市研究は、フランドルや北ドイツの都市については近代的市民社会に直結する重要な役割を果たしたと評価する一方、イタリア諸都市については豪族・領主層や特権階級の影響力が大きいとみなされ、軽んじられていました。しかしイタリア諸都市の公証人の活動や都市周辺農村との関係を具体的に調べてみると、北欧と南欧の違いは明確には認められません。

【図らずも知った知識】1492年以降大航海時代の新航路開拓によって東南アジアからヨーロッパに香辛料が直接運ばれるようになり、一般的には地中海貿易は衰退したとイメージされているが、実際にはインド→イスラム→イタリアの交易ルートはしぶとく生き残り、そんなにすぐには衰退していない。

【感想】関心があったのは、フィレンツェなど北イタリア諸都市でどうして「ルネサンス」が盛り上がったかということで、本書はまさにその時代をドンピシャで対象にしているにも関わらず、ルネサンスについてはほとんど語っていない。まあ、ちゃんとした西洋史学とはそういうものなのだろう。
 とはいえ、関心に直接応えてくれる記述がたくさんあった。ダンテとかペトラルカとかボッカッチョなどが俗語(トスカーナ語)による文筆活動を成立させるためには、どうしても背後に広範な識字階層が必要になる。読者が存在していないところで、執筆ができるわけがない。で、フィレンツェにおける識字階層は、単純に考えれば、ヨーロッパを股にかけて活動していた商人たちとしか思えない。当時一般的に識字力があったのはキリスト教のお坊さんたちくらいなものだが、彼らはラテン語を用いて俗語は扱わないはずだし、ダンテやボッカッチョのようなキリスト教を批判したり揶揄したりする本を好んで読むとも思えない。ダンテやボッカッチョの読者は、商人たちだったと考えてよいと思う。で、本書はその仮説を傍証してくれるように、フィレンツェにおいて多くの公証人が活動していたことを記している。インドからの香辛料貿易や、イングランドに至るまでの羊毛・毛織物貿易を行うとなれば、どうしても記録類の作成や情報の伝達と共有のために文字を使いこなす必要がある。公証人が作成した公文書には保存義務があって後世まで残りやすく、かつての商業活動に際して文字がどのように活用されたか、一端を垣間見せてくれるわけだ。

【研究のための備忘録】教育
 で、教育に関して直接言及があったのでメモしておく。

「十三世紀から十四世紀にかけて公証人層の急速な増大が見られるが、その準備教育は、各地に多数存在した公証人学校において行われた。これは、多くの場合、小規模な私塾的な教育機関であって、大学ではなかった。中世イタリアの主要都市のうち、公証人に大学教育を義務づけている唯一の都市はボローニャであるが、これも、著名な法学部での勉強を要求しているのではない。むしろ、その母体となったと考えられる七自由学科(とくに修辞学、文法)の学校での勉強が必要だったのである。」
「十四世紀イタリアの大都市においては、中・上層市民における教育のレヴェルは、われわれの想像以上に高いものであった。」
「商人の子弟は、五、六歳で学校(私塾)に入り、五年間ほど勉強したのち、算術学校で二年半ないし三年の課程をおさめ、この後ラテン語学校に学び、さらに公証人のもとで修行するわけである。したがって、公証人になるにはかなり長期の準備教育が必要であった。ラテン語および修辞学がその教養の基礎になっていたのであるから、たとえばコルッチオ・サルターティのようなルネサンスを代表する人文主義者が公証人の中から生まれて来るのも不思議はないであろう。」129-130頁

 まず当たり前であるが、「公教育」という観点がまったくないことが分かる。教育とは徹底的に私事に属するものであって、市政当局が関わるべき仕事ではない。そして初等教育を扱う寺子屋のような施設があり、中等職業教育を行う私塾があり、高等教育を行う大学(七自由学科だから教養学部のようなもの)という段階もあったのだろう。それら教育機関は、もちろん商業に携わるための実務的な関心から作られて発展してきたわけだが、付随的に人文主義を支える教養の土台となり、ダンテやボッカッチョの読者層を送り出していったということだろう。
 そう考えると、やはりイタリアのルネサンスは、商業活動がまず背景にあって、それに付随して行われた識字教育が前提となり、広範な読者層を得て浮上してきたと考えるべきところになる。これはラテン語をベースとしてイスラム経由でアリストテレスに触れて活発化したスコラ学者たちの活動(十二世紀ルネサンス)とは根本的に異なる性格を持っていると理解するべきだろう。この2つ(ラテン語べースの十二世紀スコラ・ルネサンスと、俗語ベースの十四世紀イタリア・ルネサンス)の交差するところは、やはり15世紀半ばの印刷術発明ということになるのではないか。(十三世紀の大学という場だったという仮説も侮れないが)。印刷術の発明によって「本屋」という商売が歴史上初めて成立し、その本屋という空間にアリストテレスの哲学書とボッカッチョの艶笑譚(あるいはもっと酷いゴシップ誌)が並んで置かれるという従来はあり得なかった現象が発生して、そこで初めていわゆるルネサンスという空気が立ち上がってくるのではないか。

清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』講談社学術文庫、2021年<1989年

【要約と感想】増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』

【要約】Q:ヨーロッパはどうして世界最先端になれたのか?
A:個性を大事にしたからです。

【感想】本書で言う「ヨーロッパ」とは、フランス・ドイツ・イタリアを中心とする西ヨーロッパのことで、ビザンツ帝国やロシアや東欧やイベリア半島やスカンジナビア半島は視野に入れていない。つまり、ほぼほぼゲルマン民族を対象にしている。また「中世」とは、ゲルマン民族移動が始まる4世紀から国民国家の形成が始まる16世紀までを指す。ヨーロッパが近代以降に強大になったのは、中世に培われた精神的風土が決定的に重要だと主張している。また「社会史」とは、アナール学派が言うような意味ではなく、政治史・経済史・法制史等を総合した上で、今後は丁寧な「地域史」を土台に歴史像を組み立て、発展段階史を乗り越えていくべきだという、著者独自の主張を含む方法概念だ。
 で、地域史を丁寧に積み上げていくと、西ヨーロッパには、アジアやイスラムや東欧とは異なった共通の精神的土台があることが確認できると言う。秦漢帝国や古代ローマ帝国のような「世界帝国」を拒否して、個々の地域の個性を大事にしてお互いに切磋琢磨しながら支え合うような仕組みの社会だ。個性的な市民団体や職能集団が独自の役割を果たし、王様や貴族(荘園地主)など権力者もルールに従わなければ何もできないような社会である。西ヨーロッパから誕生した国民国家とは、世界帝国を目指さずに、地域の個性を大事にする精神的風土から成長してきた制度ということになる。日本がお手本にすべきなのはこれだ、と本書冒頭から結論が出ているのであった。

 さて、こういう西欧理解は、そんなに新しいものではない気がする。具体的には、いわゆる「勢力均衡」がヨーロッパの政治原理であることは、ずいぶん昔から言われている。西欧の国がそれぞれ個性を活かしながら役割分担をすることで発展してきたことについては、明治時代の日本人も気がついているし、著者に言われるまでもなくお手本にしている。
 本書の独創性は、それを具体的に、三圃制の展開、都市の成立、農村と都市の経済的相補関係、経済圏の成立と地域の個性などなどで実証している点にあるのだろう。まさに「地域史」の面目躍如というところだ。個々の論点ではさすがに古いと感じるところもなくはないのだが、歴史像の総合的な構想については今でもおもしろく読める。
 とはいえ、グローバル化の負の側面を嫌ほど見せつけられると、一定程度、眉に唾をつけておきたくもなる。地域の個性化と役割分担は、本当に世界の人々を幸せにできるのか。結局行き着く先は、ウォーラーステインが描いたような、格差を前提とした世界資本主義システムではないか。本書は、冷戦崩壊後の世界情勢を知らない(もちろん著者の責任ではない)。

 著者が後進地域として切り捨てたロシア帝国(ビザンツ帝国を引き継いで世界帝国を目指す傾向)が、西ヨーロッパ(多様性と個性を尊重する傾向)の一員になることを目指したウクライナを攻撃し始めた2022年2月24日。著者は本書内で、地域の個性を活かして経済的に相互依存を高めれば平和が訪れると何度も何度も繰り返し主張し、世界帝国への傾向を批判しているが、グローバル化の果てに出来したこの現実を見たら、はたして何と言うだろうか。

増田四郎『ヨーロッパ中世の社会史』講談社学術文庫、2021年<1985年

【要約と感想】堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』

【要約】本書の「ヨーロッパ」とは、ケルト・ガリア・フランクの諸民族を基礎として、フランク王国から分離して伸長するフランス(フランス王国)、ドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリア(ローマ教皇)を中心に、イングランド、スカンジナビア、スペインまでを視野に入れています。ロシア(スラブ民族)とビザンツ帝国は視野に入っていません。また「中世」とは、ローマン・ガリアへのゲルマン人の移動と西ローマ帝国の崩壊あたりから始まり、15世紀半ば(つまり新大陸発見と宗教改革以前)までをターゲットにした1000年あまりの期間を指します。
 叙述は複層的に展開しますが、いくつかの軸があります。
(1)封建制の伸長過程(主にフランス王国と神聖ローマ帝国を題材に、王と貴族層の相克)。
(2)身分制の確定過程(騎士階級の位置づけを中心に流動的であったことを強調)。
(3)カトリック教会の展開(叙任権闘争など世俗権力との関係と、修道院改革など後の宗教改革の萌芽)。
(4)中世都市と村落の形成過程(北イタリアとフランドルを題材に、経済圏の議論)。
(5)辺境という視点(ヨーロッパに内在する辺境から、十字軍を通じた外在の辺境への視点移動)

【感想】通史というものは、折に触れて読むべきだろうなと思った。ひとつは答え合わせという意味があって、各所で仕入れた知識が正確かどうか改めて確認する機会になる。もう一つは、新たな問いを霊感するという意味があって、それまでバラバラに見えていたものに何かしらの関連を発見するきっかけを得られる。ということで、何気なく読み始めた本だったが、いろいろと勉強になった。

【要検討事項】三位一体
 カロリング・ルネサンスのところで三位一体に関する記述があった。

「キリスト教神学についても、また、このゲルマン男は一家言もっていた。「父と子と精霊」の三位一体論の解釈をめぐり、東ローマ教会の決定に反論し、「精霊は父および子から発する」との説を西方教会の根本教義としたのは、じつにアルクィンとカールの共謀であったのだ。」95頁

 なるほど。しかし一方、アウグスティヌス研究者山田晶は、この西方教会の教義はアウグスティヌスに由来すると主張し、アルクィンとカールの名前は一言も出さない。さて。

【研究のための備忘録】貨幣経済
 貨幣経済の進展と影響について、13世紀のペスト流行にも関わって気になる記述があったので、サンプリング。

「おそらくこの災禍は、都市においても農村においても、富めるものと貧しいものとの較差を、いっそう拡げる作用を及ぼしたことであろう。これまた、すでにじわじわと進行していた事態であった。この大災害は、人間と土地に拠ってたつ農業生産、一口にいってものの価値のたよりなさと、金銀貨の形でのかねの価値のたしかさを、しみじみとさらせる効果をもったのではなかったか。かねをためた商人、上級役人、大借地農、こういった連中が主役の社会が中世後期に現出する。主役の座から下ろされたのは、ものの体系である領地経営にしがみついた領主たちである。」386頁

 貨幣経済のインパクトというものは日本の歴史(特に個人的な専門的関心から言えば江戸中期以降の教育爆発)を考える上でも極めて重要な観点なのだが、感染症の流行という要素を踏まえると、なんとなく昨今のコロナ禍による環境変化にも当てはまってしまうような気がするという。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスという概念について専門的な観点からの言及があったのでサンプリングしておく。

「「ルネサンス」とは「再生」を意味する。なにが「再生」したのか。言葉本来の用例では、古典ラテン語と古典古代の美術様式が、である。
 十五世紀のイタリアの人文学者は、ダンテもペトラルカもだめだ、ラテン語でものを書かなかったから、と批評している。これが、いわば本音であって、事情は「アルプスの北の」人文学者たちにとっても同様であって、彼らの神経質なまでの気の使いようは、ホイジンガが『中世の秋』最終章に紹介しているところである。」430-431頁

 要するに、13世紀~14世紀のフィレンツェ文化の華であるペトラルカやダンテは「ルネサンス」とは認められないという主張だ。そして本書はブルクハルトを「混乱のもと」「中世という時代についての無知を背景」(431頁)と名指で批判して、世俗のルネサンス概念を修正している。これが歴史学プロパーの常識というところだろうか。私個人としては、本書の理由とは異なるが、「印刷術」の登場前と後ではまったく事情が異なるという理解から、ダンテやペトラルカをルネサンスに位置付けるのにはかなり違和感を持っている。

【研究のための備忘録】説明のシステム
 ヨーロッパ中世の歴史とは関係なく、私の個人的な研究に関わって響いたところをサンプリング。

「既成の言葉では説明しきれないと感じたとき、人は、その場その場の臨機の判断で、現実を処理してゆく。理念の体系そのものは、そのまま残されていても一向にかまわない。むしろ残しておきたいのである。説明のシステムをもたない生とは、なんと不安な生ではないか。やがて数世紀ののち、既成の理念の体系をそっくり作りかえて、新しい現実説明のシステムが生まれる。」421頁

 これは中世から近代への移り変わりを説明した文章だけれども、同じことは近代の終わりにも言えるのだろう。まさに現在、近代が生んだ「理念の体系」の要であった「人格」という言葉が説明のための力を失いつつある。しかしまだ代わりとなる「説明のシステム」は見えてこない。おそらく「持続可能」とか「共生」といった言葉が重要だろうことまでは分かるのだが。

堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』講談社学術文庫、2006年<1977年

【要約と感想】瀬谷幸男・狩野晃一編訳『シチリア派恋愛抒情詩選』

【要約】13世紀初頭、シチリアの王宮で、俗語を用いて恋愛を歌った詩作が流行します。12世紀南仏トルバドゥールの影響を受けつつ、13世紀後半トスカーナ清新体派、さらにダンテ、ペトラルカ等に引き継がれていきます。
 詩の内容は、「愛しすぎて死んじゃう」という感じです。

【感想】内容は、ほぼ、ない。極めて抽象的で、「愛しすぎて死んじゃう」以上のことは言っていない(しかし、それは極めて現代的な見方に過ぎず、13世紀には最新の感覚だった)。言葉はとても雅びで、美しい。中二病的なラブレターに引用すると、効果がありそうだ。
 引用される古典で目につくのは「トリスタンとイゾルデ」の伝説で、それに絡んでアーサー王伝説への言及が散見される。ギリシア、ローマの古典は完全無視というところが、後のルネサンスの空気とは根本的に異なっている。

【研究のための備忘録】俗語
 で、問題は、内容ではなく形式だ。当時の国際標準語であるラテン語ではなく、俗語(シチリア語)で表現されていることが重要になる。中世からルネサンス、あるいは近代への変化を考察する材料の一つとして、13世紀シチリアというビザンツ帝国やイスラム帝国の影響を色濃く受けた時代と地域の特性を踏まえつつ、14世紀イタリア・ルネサンス(ダンテやペトラルカ)への影響をどう評価するのか、具体的に考える必要がある。

「ラテン語に固執して俗語を軽蔑し続けるローマ教皇庁に逆らい、中世では公式文章は教会の公用語のラテン語で書かれる慣わしに反して、シチリア王国の憲法たる「メルフィ憲章」を誰でも理解できる俗語で書かせたフェデリコ帝に準って、この流派の詩人らはラテン語に対する揺籃期のイタリア語の文章語としての俗語の優位性を導き出したのである。」255頁

 本書では、この分野の研究の常識なのか、ダンテとの関係は強調するものの、ルネサンスという概念との関係には触れない。個人的にはかなり気になるところだ、というかそういう関心から本書を手に取った。12世紀ルネサンスによって、古代地中海文明に関する知識をヨーロッパは手に入れているはずだ。しかし本書所収の詩には、ギリシア・ローマ文明の面影はない。
 また俗語に関して言えば、フェデリコ帝の宮廷で俗語を使用していたとしても、恋愛詩に俗語を使うのはそういう政治的な意図に出ていたのか、あるいは南仏やドイツの抒情詩と同じ流れを汲むのか。12世紀南仏トルバドゥールが使用したオック語は北イタリアまで広がっていたし、12世紀後半ドイツのミンネゼンガー、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデも中高ドイツ語を使用している。俗語を用いて詩作するのは、シチリア特有の現象ではない。さらに言えば、本書がイタリア語でフェデリコ帝と呼んでいる人物は、神聖ローマ皇帝(ドイツ語)のフリードリヒ二世であって、そしてフリードリヒ二世(1194年~1250年)とヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170年~1230年)に直接の接触があるわけだから、ドイツのミンネゼンガーの影響を受けていたと考えることも可能ではないか。さらに言えば、シチリアはイスラム文化の影響を極めて色濃く受けているわけだが、そもそも南仏トルバドゥールの起源がイスラム文化だという話もある。フェデリコ帝=フリードリヒ2世はアラビア語もよくしたと言われているので、宮廷でラテン語を使わないことにそもそも違和感はなかったりする。疑問は尽きないが、門外漢としては口をつぐんでいるのが賢明な段階である。

瀬谷幸男・狩野晃一編訳『シチリア派恋愛抒情詩選―中世イタリア詞華集』論創社、2015年