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【要約と感想】スピノザ『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』

【要約】スピノザの初期の思想を垣間見ることができる論文ですが、生前に出版されることなく、全貌が明らかになったのも19世紀以降です。
 神の存在や実体と属性、様態と変状、コナトゥス、必然性、能産的自然・所産的自然、人間の情念の分析、認識の類型、人間の自由などに関する考え方にはすでに『エチカ』と同じものが見られ、しばしば主著『エチカ』のプロトタイプともみなされます。
 一方、神の存在と定義の順序、悪魔への言及、神とシンクロする際の神秘的表現など、要所要所で『エチカ』と異なっているところもあります。

【感想】いきなり神の存在証明から始まるが、本書の最終的な目的はタイトルにあるように「人間の幸福」の条件と方法を明らかにすることで、その意図は『エチカ』まで一貫している。そういう執筆意図を踏まえると、個人的な印象では、スピノザの思想は何か新しいものを示しているというよりは、デカルト、あるいは中世スコラ学よりも古代哲学の原点に還っているように見える。というのは、古代ギリシア哲学やヘレニズム哲学は徹底して「人間の幸福」の条件と方法を考察したが、その哲学の伝統はキリスト教によって断ち切られる。キリスト教にあっては、人間に浄福をもたらすのは人間自身の認識や努力ではなく、神の恩恵である。ルネサンス・人文学によって古代哲学が復興した際も、確かに世界の真理や道徳性についての関心は盛り上がったものの、「人間の幸福」という古代哲学のテーマが前面に打ち出されたような印象はない。「幸福」というテーマでは、ルネサンス期はキリスト教の圏内にあるように思える。潮目が変わるのはモンテーニュやデカルトがあっけらかんと「快楽」の肯定に回るあたりだろうが、彼らには「人間の幸福」に対する原理的な洞察は欠けている。ということで、スピノザが真正面から「人間の幸福」の在り様と方法に取り組んで、見かけ上古代哲学の原点に立ち返っているのは、実はスピノザ思想の内容以上に、完全にキリスト教の軛から抜け出したことを意味するのかもしれない。同時代から無神論者のチャンピオンとして恐れられるわけだ。
 確認すると、スピノザによれば、人間の幸福は神(という名の全自然)とシンクロする認識に達することである。「信仰」ではなく「認識」によって「幸福」に達すると主張したので、カトリック大激怒だ。そしてその結論自体は『エチカ』と変わらないのだけど、表現は本書の方が極めて神秘的で印象的だ。そしてそれはヘレニズム期ストア派の宇宙論を髣髴とさせる。確認すると、ストア派は人間に小宇宙を見出し、宇宙=自然とシクロすることで心の平安(アパテイア)を得ることを目指した。スピノザの言う「神=自然」とストア派の言う「宇宙」は、もちろん実体に対する理解などあらゆる面で違っているが、その自然論・宇宙論が「人間の幸福」の在り様と内在的に関わっているという点で、個人的には本質的に似ているような印象を持つ。(と思ってciniiを検索したら、スピノザとストア派を比較する論文がいくつかあった。私が思いつく程度のことは、だいたいとっくに他の人も気がついている)。

【個人的な研究のための備忘録】完全性
 本書(というか西洋哲学全般)には「完全性」という言葉が繰り返し登場し、重要な役割を担って使用されている。ただしスピノザの「完全性」は、他の哲学者の使う「完全性」とは微妙に意味や役割が違っているようだ。

「我々が我々の知性の中に完全な人間の観念を形成する場合、それは(我々が我々自身を観察する時)さうした完全性へ到達する為の何らかの手段を我々が有するかどうかを顧るよすがとなり得るであらう。そしてこの際我々をさうした完全性へ促進する一切を我々は善と名づけ、反対にこれを阻害するもの、或はさうした完全性へ我々を促進しないものを悪と名づけるのである。
 故に私が人間の善悪に関して何ごとかを述べようとすれば、私は或る完全な人間の観念を形成せねばならぬと私は言ふのである。」125頁

 ここは「完全性」と「善・悪」の関りから見て、『エチカ』の記述との整合性が気になるところだ。というのは、『エチカ』でスピノザはあらゆる個体はある種の「完全性」を有していると言っている。ただし「大きな完全性」か「小さな完全性」かの違いはある(そして「善」とは完全性をより大きくするものであり、「悪」とは完全性をより小さくするものだ)。その際に、スピノザは通俗的な「完全性」の概念は勘違いで生じたに過ぎないと批判する。引用箇所にある「完全な人間の観念」とは、そのような勘違いに過ぎないはずだ。本書の記述は、『エチカ』に示された「完全性」と、中身や用法がそうとう違っているように思える。

【個人的な研究のための備忘録】二度生まれ
 ルソー『エミール』で重要な役割を果たす「二度生まれ」という表現に、思いがけずここで出くわした。

「思ふに、我々の第一の誕生は、我々が身体と合一してそれに依つて動物精気の活動と運動が成立した時であった。しかし、我々のこの新しい、或いは第二の、誕生は、我々がこの非物体的客観の認識に相応する全く異なれる愛の諸結果を我々のうちに知覚する時に起るであらう。この諸結果と最初のそれとは、恰も非物体的なものと物体的なものが異なり、霊と肉とが異なるだけ異つてゐる。そしてこの愛と合一とから初めて永遠不変なる恒常性が生ずるのであるから、それは益々多くの権利と真理とを以つて更生と呼ばれ得るのである。」193頁

 本書はスピノザ生前には出版されず、ルソーが目にしていた可能性は限りなく低い。よって、ルソーがこの表現から「二度生まれ」という霊感を得たわけではない。ということは、実は17世紀時点で「第二の誕生」というような言い回しが一般的にあったということを想定していいのかもしれない。
 そして上記引用箇所は、個人的には、本書と『エチカ』の決定的な相違点を示しているのではないかと思う。引用箇所でスピノザは、精神と肉体が合一するのが「第一の誕生」で、精神が神と合一するのが「第二の誕生」としており、それこそが真の「人間の幸福」の形だと言っている。そのエッセンス自体はもちろん『エチカ』と同じなのだが、筆の運びがまったく違う。本書には「霊」だとか「愛」だとか「永遠不変なる恒常性」だとか「更生」だとか、『エチカ』には見当たらない神秘主義的な言葉が連発される。ここで言及される神秘的な「愛」は、『エチカ』の第3部で分析される功利的な「愛」とはまったく違うものだ。この「神との合一」は、ストア派の言う「宇宙=自然との合一」を想起させると同時に、中世神秘主義のエックハルトやイエズス会創始者のイグナチウス・ロヨラをも連想させる。本当にスピノザが書いたのか?

スピノザ/畠中尚志訳『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』岩波文庫、1955年

【要約と感想】スピノザ『知性改善論』

【要約】スピノザの主著『エチカ』の序論として方法論ないし認識論を述べた著作のように読めますが、未完です。
 快楽、財産、名誉を得ても幸福になれません。真実最高の幸福とは、精神が全自然(つまり神)とシンクロすることです。そのためにやるべきことはたくさんありますが、最優先で行うべきなのは、知性の改善です。
 知覚様式には4種類あります。(1)言語と文字(2)経験(3)推論(4)直観。(1)はいい加減だし、(2)は偶然だし、(3)は確実ですが完全性には及ばないので、(4)が目指すべき認識です。(1)(2)(3)の様式は使わず、人間の「生得の力」を使って認識の手続きを進めましょう。真理は、真理であるというただそれだけで、それが真理であると分かります。真の観念の本性によって明らかになった規範に従って精神を導くのが正しい「方法」です。探究を始めるためには足掛かりが必要なので、何らかの「真の観念」から探究を始めますが、神から始めるのがいちばんクールなので、なるべく早く神に到達しましょう。
 さっそく「真の観念」を明確に理解するため、虚構された知覚、虚偽の知覚、疑わしい知覚の発生メカニズムを明らかにして斥けます。続いて「定義」というものは、単なる固有な特性の列挙ではなく、「本質」でなければなりません。この定義から生得の力を使って認識の手続きを進めれば、確固・永遠なる事物の認識にたどりつきます。しかし個物はだめです。そして「生得の力」の条件を提示したところで、未完。

【感想】何の予備知識もなしに読んだら途方に暮れるだけだろう。一つ一つの用語が日常的な意味からかけ離れている。入門本を3冊ほど読んでおいてよかった。たとえば本書の「観念」という言葉は、まずリンゴとか犬のような具体物を思い浮かべてしまうと躓きやすくて、「三角形」とか「円」のような幾何学図形をイメージすると多少は分かりやすくなるように思う。また「確固・永遠なる事物」とは幾何学的な真理だと考えるとよいか。
 とはいえ、本書の認識論で決定的なカギを握る「生得の力」について、8個の特徴を列挙したところで未完となってしまっており、痒いところに手が届いていない感じは否めない。

 またスピノザは「与えられた真の観念」から規範に従って探究の手続きを進めよと言う。確かに何もないところから探究は始められないので、思考の足掛かりとして何かしら任意の「真の観念」が与えられなければいけないのだが、それは何でも構わないというような書きっぷりが不思議だ。たとえば理論上は「めがね」から始めても真理に到達できることになる(うまくいくことはまれにしか起こらないらしいが、可能性はゼロじゃない)。
 しかし思い返してみれば、プラトンが『国家』などに記した「哲学的対話法」で突き詰めていたのは、この「足掛かり」を見つける原理ではなかったのか(そして善のイデアにたどりつく)。デカルトにしても、思考の「足掛かり」の確信を得るためにノイブルクの炉部屋で瞑想にふけったのではなかったか。しかしそこでスピノザは「足掛かりはなんでも構わない」という身振りを示すわけだ。なんでも構わないのは、もちろん自然のすべてが神の様態だから、ということになるのだろう。
 この「思考の足掛かり」に関わる議論に関しては、個人的には「特異点」という用語でいろいろ考えていて、一家言(?)あったりする。(→【要約と感想】J.アナス・J.バーンズ『古代懐疑主義入門―判断保留の十の方式』)。スピノザの「なんでも構わない」という身振りは、おそらく「大いなる一」のバリエーションだろう。というのは、あらゆるものが神の様態という設定が背景にあって、初めて足掛かりはなんでも構わないという身振りが可能になるからだ。

 また一読して気がつくのは、明らかにデカルトを意識した書きっぷりだ。冒頭の過剰な自分語りとか、最終的な目的にたどりつく前に暫定的な生活規則を立てるところなどはデカルト『方法序説』そのままだし、知識の四様式にも影響が見られる。「或る懐疑論者」(39頁)とか「精神を全く欠く自動機械」(40頁)という書きっぷりなど、対抗意識が強烈に出ていたような印象だ。もちろん一番重要な比較の論点は、デカルトが「懐疑」を根本的な方法として定立させたのに対し、スピノザが「肯定」を方法として打ち出したところだろう。デカルトが外堀を埋めるような論の運びをするのに対し、スピノザは虎口から本丸まで一直線に攻め込むような論の運びを見せる。一見同じようなことを言っているところでも、中身がそうとう異なるのはなかなかおもしろい。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 思いがけず、「教育」についての言及があった。

「なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。」18頁

 自ら発見した探究の道筋を人々に会得させようという狙いがあるのだろうか。しかし児童教育学の優先順位はまったく下の方なので、未完の本書では展開されることがなかったのであった。何らかのカリキュラム論も残っていたらおもしろかったのにな(ちなみにデカルトにはある)。

■スピノザ/畠中尚志訳『知性改善論』岩波文庫、1968年<1931年

【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』

【要約】スピノザの思想はしばしば難解と言われますが、人生や歴史的背景を踏まえ、最新の研究動向をふんだんに盛り込んで、すべての著書に目を配って全面的に解説します。
 最初の本はデカルト哲学の解説本ですが、スピノザはデカルト哲学体系に不満を持っていて、特に方法論を全面的に修正します。デカルトとは異なる総合的方法を準備するために、次の著書『知性改善論』で能動的な実践に導く発生的定義に取り組みますが、不十分なまま未完に終わります。続いて『エチカ』のプロトタイプともみなされる『短論文』では「力」の観点にたどりついていますが、こちらも出版されません。
 主著『エチカ』では、神を含めたすべてを「原因」からの発生的定義で幾何学的に記述し、「目的論」を完全に排除します。精神や延長は神の無限の属性の一つで、個物は神の様態です。「結果」とは個物が「力(コナトゥス)」を発揮した「表現」であり、その「変状」の過程に「自由意志」が介在する余地はありません。客観的な善悪などはなく、個物の「力」を増す組み合わせが善で、減らす組み合わせが悪です。だから「力」を表現する「欲望」の在り様こそが個物の本質ですが、それを「意識」して神の本質とシンクロさせたときが至福であり、自由です。
 『神学・政治論』では旧約聖書の荒唐無稽なデタラメさを言語分析と自然学的な観点から逐一批判しつつ、宗教の現実的機能は否定しません。政治論的には「法=lex」と「自然権=jus」の違いを踏まえた社会契約論的な記述がありますが、自然権の放棄を主張しない(というかできない)ところがホッブズやルソーとの決定的な違いです。

【感想】該博な教養を背景として丁寧な読解に基づいた明快な構成と明晰な文章で、よく分かった気になる。とても勉強になった。読み込みすぎていて、「意識」の説明のあたりはスピノザの意図を超えているような印象が無きにしも非ずだが、優れた「原理」というものは有益な知識を次々と産み出す生産的なものだとデカルトも言っているので、この「意識」に関する議論は少なくともスピノザの原理から必然的に生成された知見ということで問題ないのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格の完成
 「完全性」に関する言及があった。

完全であるとは完成しているという意味であり、そして完成しているとはもともと、人間が何かの制作を企て、その企てを成し遂げた場合を指していたのだろうとスピノザは言う。つまり完全性とはある人の意図した目的が達成されたことを指していた。言い換えれば、完全であるとか不完全であるなどと言えるのは、その意図された目的が知られている場合に限られていたということだ。」279-280頁
「スピノザはそれに対し、それ自体において見られた事物という観点を導入する。事物はそれ自体で見られる限り、完全でも不完全でもない。或る事物が不完全と言われるのは、「それらの物が、我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したというためではない」。したがって、或る意味で全てのものは完全である。」281-282頁

 この「完全性」とか「完成」の議論からただちに想起するのは、教育基本法の第一条に「教育の目的は人格の完成」と規定されていることだ。目的論を排除し、完全性概念にまとわりつく偏見を批判するスピノザからすれば、二重に間違っている規定ということになるだろうか。制定過程を振り返ってみれば、この教育基本法第一条「人格の完成」の規定にこだわったのは、カトリック教徒でもあり、さらには法学者として「自然法」の普遍性を唱える時の文部大臣、田中耕太郎であった。あらゆる面でスピノザと相性が悪いのは当然なのだろう。
 ともかく、スピノザの観点を踏まえて教育基本法第一条「人格の完成」というものを考え直してみると、まず何らかの模範(イデア)に向かって子どもの教育を行うべきだという話にならない(それは子ども固有のコナトゥスに反する強制になる)し、そもそも教育という生成的な営みを「目的」から組み立てるなという話になるだろう。あるいは、子どもには子どもとして「それ自体で見られる限り」の完全性が既にあるのだから、完成しているものの「完成」を目指すのはまったく意味が分からない。このスピノザの観点は、子どもの権利条約や子ども基本法によって子どもにも大人と同様の権利(jus)があることが改めて確認されたことと響き合う。そんなわけで、子どもを「人格が完成されていない者」と決めつけるカトリック的現行教育基本法はスピノザ的には何重にも間違っているし、子どもの権利条約にも噛み合わないので、スピノザ風に目的論ではなく生成的に書き直してみると、たとえば、「教育の役割は、各個人のコナトゥスを活性化し、それぞれの完全性を増すこと」とでもなるか。

【個人的な研究のための備忘録】自然権と社会契約論
 『神学・政治論』に現れる社会契約論について、かなり突っ込んで議論を展開している。

「良心と意識の無区別は、前章で扱った、ホッブズによって指摘された法と権利の無区別ともある程度重なることになる。権利(jus)の届く地点が法(lex)の覆う領域の外にまで及ぶことが着想すらされない場合、つまり、人の為しうることは社会的規範によるその既定の内に収まっていると当然のように想定されている場合、権利と法は特に区別される必要がない。」295頁
「だとすると、以上のスピノザの思想は、ロックが説いたような、意識をその根拠とするいわゆる近代的個人を前提としない仕方で世俗的な国家や政治社会を捉える可能性と必要性を示していることになる。」296頁

 教育学的には、なかなか示唆するところが多い指摘だ。というのは、著者は議論を世俗的な国家や政治社会に限っているが、教育学者の私はここの記述から、「学校」や「教室」という、ある意味では一つの社会と呼べる空間をすぐさま想起する。で、子どもというものは「未だに近代的個人」となっていない存在であって、ロックやルソーのように「近代的個人を前提」とする仕方では社会(学校や教室)を構成できないわけだが、スピノザのように「近代的個人を前提としない仕方」であれば子どもを構成員とする社会における「権利」というものを捉えられる理論的可能性が生じるからだ。
 そもそも、どうして赤の他人である教師が赤の他人である子どもに対して言うことを強制的に聞かせる「権力」が生じるのか、その権力の源泉はどこにあるのか、という議論が教育法学で連綿と続けられており、戦前であれば「特別権力関係理論」、戦後であれば「国民の教育権論」が唱えられてきた。国民の教育権論の構造は、大雑把には、親の持つ教育権が「信託」されることによって教師に権力が生じると説く。ポイントは子どもにはもっぱら「学習権」が認められるべきで、それは放棄も譲渡もできない天賦の権利だとされていることだ。つまり、国民の教育権論の構造では、子ども自身が権利を放棄したり譲渡したり信託したりする社会契約論にはなりようもない。ところがスピノザのように「近代的個人を前提」としないかたちで社会の成り立ちを捉えると、ひょっとしたら子ども自身の「自然権をそのまま」にする形で学校や教室という社会を成立させる理屈が立つのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 有機体論について、気にかかる記述があった。

「この引用箇所は、多数者をまるで一人の人間に準えるかのようにして、国家の権利は、あたかも一つの精神からのように導かれる多数者の力によって決定されると述べている。」388頁
「『国家論』は多数者というアクターに注目した。だが、そのアクターを精神の概念と結びつける時、言い換えれば、指導層がまるで国家の精神のように存在していて、それによって動かされる国家の身体が多数者であるかのような話になる時には、必ずこの特殊な言い回しが現れているのである。」389頁
「つまり、『国家論』では、国家が精神と身体の隠喩で国家が語られるときには、その隠喩性を強調する表現がしつこく繰り返されている。」390頁
「したがってスピノザの国家理論はどちらかと言えば、有機体論的図式に近い。確かに、国家は統治権に基づいて導かれねばならない――あたかも一つの精神によって導かれるかのように。この言い回しを多用する『国家論』は、確かに、国家を一つの生き物のように分析している。」392頁
「この言葉のラディカルな含意を次のように定式化できるであろう。人間を国家のように考えることはできないし、国家を人間のように考えることもできない。」393頁

 私も昔から「有機体論」の表現に注意を払ってきたつもりで、スピノザ『国家論』に連発される有機体論的表現にも着目せざるを得ない。そういう関心から言うと、本書の行論には疑問なしとしない。第2章第6節の「国家の中における国家のように」という表現は、有機体論とは関係ない文脈で突如として挿入されている。確かに「人間を国家のように考えることはできない」と言っているが、「国家を人間のように考えることもできない」とはどこにも書いていない。しかもスピノザは、「精神」を持つのは人間に限らないと主張した哲学者である。国家が「精神」を持っているとさらっと書いていても、何の違和感もない。本書は、少々読み込みすぎているような印象がある。

國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』岩波新書、2022年

【要約と感想】デカルト『情念論』

【要約】昔の人が情念について語っていることは全部デタラメです。
 第1部では身体と精神を区別した上でそれぞれのメカニズムを解明し、相互の関係性を踏まえて情念の動きを説明します。第2部では情念を6つの基本形に分類してそれぞれ説明します。第3部ではさらに特殊な情念について個別に説明します。
 情念とは外界からやってくる刺激に対する受動的な反応なので、意図してなくすことはできませんし避けられませんが、欲望の達成は大きな満足を与えるので、情念を操縦してよいものを取り出す知恵と習慣と理性を兼ね備えている人が最も幸福です。

【感想】現代的な科学的水準からすれば、松果腺や心臓のメカニズム、動物精気に関する議論は荒唐無稽ではあるが、もちろんそのデカルトの限界はデカルトの個人的資質のせいではなく、時代的な制約だ。
 本書の見どころは、古代から中世を通じて押さえつけるべき悪として語られてきた「欲望」を完全に解放しているところだろう。あっけらかんと解放している。これもデカルト個人の資質に還元するのではなく、当時の社会的状況を踏まえて考える必要がある。デカルトが活躍した17世紀前半は、科学革命と産業革命の前夜であり、資本主義の揺籃期に当たる。対外貿易で栄えたオランダ(デカルトはフランス生まれだがオランダで活動していた)は商品経済の最先端地域だった。商品経済を活発に回すためには、人々の購買意欲を煽る必要がある。資本主義にとって、欲望とは押さえつけるものではなく、煽るものである。商品経済と無縁だった古代と中世においては、人間の欲望を煽って良いことなど何もない、というかロクなことがない。キリスト教は(に限らず仏教もイスラム教も儒教もストア派も)欲望を押さえつけるよう努力していた。しかし、資本主義は欲望を煽ることで発展する。欲望を(煽らないまでも)積極的に肯定するデカルトが立っているのは、もちろん資本主義の側である。
 そんなわけで、本書は単に心理学や生理学の古典として読むというより、経済史的な関心を持って当たるべきテクストだと思う。資本主義の発展を土台から支える「人間の欲望の肯定」は、フランスのモンテーニュとデカルトによって明示された。(いちおうさらに早いところではイタリアルネサンスのロレンツォ・ヴァッラに見られるが、まだ表現は抑制的だ)

【個人的な研究のための備忘録】
 人格や個性に関わる記述は皆無である。気になったところをサンプリングしておく。

「子供と老人は、中年のひとより泣きがちであるが、異なる理由でそうなっている。(中略)子どもたちは、喜びのために泣くことはめったになく、悲しみのためによく泣く。」111-112頁

 本書内で子どもに関する記述は驚くほど少ない。デカルトがまったく子どもに関心を持っていないことがよく分かる。

欲望については、異なる認識から生じたとき、それが過度でなく、しかもその異なる認識によって統御されていれば、悪いものでありえないことは明白だ。」119頁
「このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」126-127頁
「なお、精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存するものであり、したがって、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる。」180-181頁

 エピクロスもびっくりの快楽と欲望肯定だ。しばしばエピクロスは快楽主義者と決めつけられるが、実際には情念から解放されることで真の快楽を得ようと主張していて、情念を積極的に肯定するデカルトとは真逆の主張をしている。デカルトに見られる快楽肯定は、モンテーニュに近い。デカルトがどの程度モンテーニュから影響を受けているかは、本書テクストからは分からない。

「自由意志はわたしたちを自身の主人たらしめ、そうしてわたしたちをある意味で神に似たものとするからである。」134頁

 ストア派的な文脈から出て来る文章だが、ここだけ見ればアウグスティヌスが聞いたら卒倒しそうな、ペギラウス主義だ。いやむしろ、ペギラウスが自由意志でもって善行を積むことを唱えていたことを思えば、自由意志によって情念をコントロールしようというデカルトの主張は論外ということになりそうだ。

■デカルト/谷川多佳子訳『情念論』岩波文庫、2008年

【要約と感想】デカルト『哲学原理』

【要約】哲学とは、人間が知りえるすべての完全な知識を扱い、最初の原因からあらゆることを導き出す原理を解き明かすものです。私が示す原理は、極めて明白で、あらゆる他の事物を導き出すので、完璧です。
 初めに、まず怪しいものは全て疑います(でも普段の生活は普通にね)。すると、我疑う故に我あり。だから思惟と物体は異なります。よって神あり。おかげで我々が明晰判明に下す判断には間違いがありません。そんなわけで物体は存在し、運動法則に従います。
 この原理を理解できるようになるために、第一に道徳的な生活を確立し、続いて数学の練習を通じて理性を正しく導く論理学を習得し、続いて根として形而上学、幹として自然学の原理と全宇宙の構成の在り方、さらに枝として他の諸学(空気、水、火、鉱物、植物、動物、人間、医学、道徳、機械学)を学びましょう。この原理を土台として正しく理性を働かせると、どんどん世界の真理が見いだされ、生活が発展し、人間は幸福になるでしょう。
 続いて第二部では人間の身体を含めた物体と、その運動の原理について解説します。物体の本性は三次元の「延長」で、他の性質は属性です。真空はありません。(第三部と第四部は略)

【感想】本編第一部には例の「我惟ウ故ニ我アリ」のコギトテーゼが極めて整然と体系的に述べられている。本格的な概説書では細かいところも押さえていて誤解は生じにくいように思うが、一般的な哲学の教科書だと雑に扱われていて、デカルトの本意が伝わりにくいかもしれない。「切り抜き」ではなく、しっかりデカルト本人のテクストに当たって確認しておきたいところだ。丁寧に読むと、いくつかの疑念は解消できるようにちゃんと書いてある。

 ただ、個人的な印象では、本書の見どころは序文にあたる「仏訳者への著者の書簡」にある。というのは、デカルトの哲学観・哲学史観・知識観・教育観・進歩史観が有機的に示されているからだ。
 まず哲学観に関して、哲学があらゆる知識の原理的な土台となるべきことがしつこく繰り返されるわけだが、それは哲学が人間の「進歩」のための原理として役割を果たすべきだからだ。この素朴な「進歩」への信仰があって、初めて哲学の果たすべき役割が明確になる(だから逆にこの「進歩」への信仰が崩れたところからデカルトの失墜が始まる)。
 哲学史観に関しては、プラトンとアリストテレスに直接言及しているところが注目だ。個人的にはプラトンの評価にやや「?」となるが、それはデカルト個人の理解の問題というより、当時の書誌的水準の問題と考えた方がいいのだろう。(気になるのは、明らかにプラトンを引き継いでいるアウグスティヌスの主著『神の国』は「我疑う故に我あり」というアイデアを示しているのに、それをデカルトが完全に無視しているところだ。意図的にスルーしているのか、単に不勉強なのか、それとも深い理由があるのか)。ともかくデカルトは、プラトンを「疑い」の元祖、アリストテレスを「確実性」の元祖と見なした上で(しかもエピクロスがそれを引き継ぐと主張する!)、両者とも誤っていると切り捨てる。現在の哲学史的な水準からすれば無茶苦茶だが、デカルト本人が何を目指しているかはよく分かる話になっている。
 教育観については、まず、すべての人間に共通する教育可能性を前提としているところが注目だ。デカルトは他の著書で「特に頭がいいわけではない」などと韜晦しているが、本書でも、自分が到達した「真実」はあらゆる人間が共通して理解できると断言する。そしてご丁寧にも、「三回読んだら必ず分かる」と読書指南までしている。どれだけ自信があるんだ。さらにデカルトは学問を身につける際のカリキュラムのようなものも提示する。そのいちばん土台にあるのが「正しい生活習慣」という意味での「道徳」というところは特に注目だ。そして確かに、他の本でも、ストア的な「正しい生活習慣」の重要性はしっかり指摘されている。一般的な哲学教科書ではスルーされがちなところだが、実は後の教育学の展開を考える上でもしっかり押さえておきたい。「正しい生活習慣」の身についていない人間が「我惟ウ」をやったら必ずおかしなことになるのである。

 ところで第二部の物体論は、現代的な知識から見れば、衝突に関する説明が間違いだらけだ。ちょっと確かめればわかりそうな間違いが堂々と書いてあって、何やってるんだろうと思う。この間違いは、解説にもあったが、デカルトが「質量」というものをまったく度外視して、物事をすべて幾何学的なメカニズムで説明しようとしたことに由来するのだろう。本書には化学の観点も、熱力学の考え方も皆無だ。「有機物」に対する無関心も付け加えておくか。まあそれはデカルトの個人的な資質の問題ではなく、時代の制約だったと考えるべきところなのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】アリストテレスをディスる
 ガリレオ・ガリレイはアリストテレス学説に反したかどで異端審問を受けたわけだが、デカルトがその事件に大きな衝撃を受けて自著の出版を見送った事実はよく知られている。だがそれからしばらく時間が経ち(本書出版はガリレオ裁判から11年後)、ほとぼりが冷めたということかどうか、本書ではアリストテレスへのディスが止まらない。

「ここ幾世紀の間、自ら哲学者たろうと欲した大部分の人は、盲目的にアリストテレスに従い、その結果しばしば彼の著作の意味を曲解し、彼がこの世に生き返ってきたとしたら、自分の意見とは認めないであろうような見解を、彼に帰するに至りました。」20頁

 デカルトの言う「ここ幾世紀」とは具体的にはトマス・アクィナス以降の約400年を指しているのだろう。そしてこの引用箇所でデカルトは、アリストテレス本人の学説が間違っているというより、その追随者が無能であったと主張している。しかし実は別のところでは、「アリストテレスの原理の誤りは、これに従ってきた幾世紀いらい、この手段では、何の進歩もなし得なかった」(34頁)と言っている。そしてその指摘はブーメランとしてデカルト自身に突き刺さってしまったのであった。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 理性を重んじるデカルトは、必然的に子どもを歯牙にもかけない。

「我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物について、さまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。」43頁
「しかも精神は幼年期には、身体に融合していたので、多くのものを明晰にではあっても判明には知覚しなかった。にも拘らず、当時も多くのことについて判断を下していたので、ここから多くの偏見が生じ、大多数の人においては、後に至っても取り除かれていないのである。」81頁
「即ち、幼年期には我々の精神は、身体と密に結合していたので、身体を刺激するものを感覚する思惟(心的現象)だけを受け入れ、他の思惟を受ける余地がなかった。」105頁

 ということで、発達論的な視点が微塵もなかったことをしっかり確認しておきたい。

デカルト/桂寿一訳『哲学原理』岩波文庫、1964年