「近代」タグアーカイブ

【要約と感想】ガート・ビースタ『よい教育とはなにか』

【要約】「よい教育とはなにか」を考えずに、客観的な測定さえすれば教育問題が解決するかのような勘違いが蔓延しています。「エビデンスに基づいた教育」は効率性と効果性を追求しますが、「よい教育とはなにか」という疑問には一切答えてくれません。
教育とは「資格化/社会化/主体化」が交錯した地点で成立するものですが、「主体化」がどのように可能となるかが本書の関心です。現在は、「学習」の視点が強く打ち出されすぎており、この「教育=主体化」という課題が後退しています。原因は、新自由主義の蔓延によって、公共圏が私的領域と市場から挟み撃ちになって痩せ細っているからです。教育は消費者に対する「説明責任」を果すのではなく、代替不可能な「応答責任」を取り戻さなければなりません。
主体でないものを主体化するという教育の課題を達成するには、単に「主体化」を狙う働きかけをするのではうまくいきません。「資格化」や「社会化」を目指す途中で、局地的に限定された形で主体化(多様な世界への参入)へのきっかけが現れた時に、いったん教育を「中断」することが大事なのです。そしてその教育こそが、民主主義の本質と深く響き合うのです。

【感想】いやあ、なかなか読み応えのある本だった。論理的に明快で、すっきりした読後感だった。まあ、もともとの私の教育学的スタンスと同じ方向をむいている、という事情はあるのかもしれないけれど。

まず、「エビデンスに基づいた教育」に対する違和感について、過不足なく説明してくれているところが心強い。仮に「目的」が最初から決まっているなら、確かに「エビデンスに基づいた教育」にも意味がある。しかし逆に言えば、「エビデンスに基づいた教育」からは決して「教育の目的」を導き出すことはできない。どうしてもエビデンスとは完全に切り離された次元で「価値判断」が必要となる。このあたり、「エビデンスに基づく教育」を称揚する人々は、最初から価値判断を放棄している上に、放棄していることをまったく自覚していないところが気持ち悪いのであった。

そして、「エビデンスに基づいた教育」が跋扈している原因についても、私と意見を同じくする。というか、新自由主義的傾向が問題であることは、著者や私でなくとも指摘していることではあるが。

そして現状を踏まえた上で、論理的な視角として教育目的を「資格化/社会化/主体化」に区分した上で、「主体化=自由」を可能にする条件を探っていく。ここで真っ先にカントとデューイを参照するところは、私の教育観と合致するところだ。(同じようなタイトルで同じような関心から同じような試みをしている苫野一徳は、真っ先にカントとデューイではなくヘーゲルとフッサールを参照しているわけだが、個人的にはとても違和感がある)。
このカントのヒューマニズムが、本質的なアポリアを抱えているわけだ。私が従来から関心を持ってきた言葉で言えば、「自由でないものを強制的に自由にする」ことの可能性と正当性である。本書はこの問題に真正面から切り込んでいくのが、たいへんスリリングだった。

まず単なる「学習」では、「自由でないものを自由にする」ことはできない。「学習」は「資格化」や「社会化」を可能にしても、「主体化」には届かない。学校が消費者に対する説明責任を果すことは、仮に「資格化」や「社会化」には意味があるとしても、「主体化」とは何の関わりも持たない。「主体化」を果すためには、「学習」ではなく「教育」が、「説明責任」ではなく「応答責任」が求められる。
この場合の「教育」とは、learningでもなくinstructionでもなくinstituteでもなく、まさにeducationということになるのだろう。そしてそれは、真っ直ぐに「主体化」を目指す働きかけではなく、局地的な「中断」が可能にするという。つまり「自由でないものを強制的に自由にする」ことを目指さないのだ。なんらかの働きかけの途中で「自由になる」という契機が生じた時、働きかけを「中断」して、「応答責任」を果たすということなのだ。「自由でないものを自由にする」というとき、教師にできることとは、自由がはじまる時に「応答責任」を果たすことだけなのだ。
ああ、なるほどなあと。本質的なアポリアを解消するために、こんな形のアイデアがあるんだなあと。いやはや、恐れ入った。

【今後の研究のための個人的備忘録】
「自由でないものを自由にする」ことを巡っての言及は、いろいろと参考になる。

「カントの教育的介入について最も重要なことは―そして、だからこそ、我々は、彼の仕事が近代教育の始まりのしるしとなると言いうるのだが―、彼が、教育と人間的自由の間のつながりを確立したことである。カントは他律的決定と自己決定の間に区別を設けることによって、そして教育は究極的には前者ではなくて、後者と関係があると主張することによって、人間の自由に関する問いを近代教育の中心問題にした。したがってある意味で、社会化と主体化の間で区別することが可能になったのは、カント以降のみであった。」(114頁)
「しかし、もっと重要なことは、近代教育の基礎づけであるカントの表現における閉鎖もまた気づかれなかったということだ。というのも、人間存在の目的(telos)についてのこの定義から排除された人々―理性的でない、もしくはまだ理性的になっていないと考えられていた(子どもたちのような)人々―が彼ら自身の排除に対する抵抗の声を欠いていたからである。そして彼らがこの声を欠いているのは、まさしく、人間であるということが何を意味するのかについての特定の定義のためである。言い換えれば、彼らは、話すことさえできず、あるいは話す能力があると認められることさえなく、排除されていた。」(115頁)
「教育的な観点からすれば、ヒューマニズムのこの形式で問題になるのは、それが、人間性の「実例」の実際の明示の前に、人間であるとは何を意味するのかについての基準を明記するということである。それは、子どもや生徒や新参者が何にならなければならないのかを、彼らが何者であり、何者になり得るのかを示す機会を彼らに与える前に、明記している。したがって、ヒューマニズムのこの形式は、新参者が人間であるとは何を意味するのかについての我々の理解を根本的に変えるかもしれない、という可能性を閉ざしているように思われる。その結末とは、そのとき、教育は(再び)社会化の形式になるということだ。」(118頁)

私個人の直感としては、「近代」という時代を支える根底の土台とは、「大人/子ども」の峻別だ。「労働/教育」の峻別や「自由/保護」の峻別など、近代社会を支える原理のすべてが「大人/子ども」の峻別に由来する。そして「大人/子ども」を架橋するという本来的に不可能な役割を負わされたものこそが教育であり、だから教育には近代社会の矛盾が集中して現れることになるわけだ(と私は理解している)。本書は、この矛盾に直接ぶちあたっていくわけだ。
そしてその矛盾を解決するために著者は「中断の教育学」という新しい概念を持ち出す。

「中断の教育学は「強い」教育学ではない。つまりそれはどんな意味においてもその「成果」を保証しうる教育学ではないのだ。それはむしろ、主体化の問いに向き合っている教育の基本的な弱さを承認する教育学である。教育のこの存在論的な弱さは、まさに同時にその実存的な強さである。なぜなら、独自性が世界に表れるために空間が開くかもしれないのは、人間の主体化がある方法で教育的に生み出されうるという理念を我々が諦めたときだけだからである。」(134頁)

いやあ、なかなかすごいことを言っているように思う。「弱さ」とか「諦めた」とか。実感的には、よく分かるのだ。「主体」なんて、作り出そうと意図して作り出せるものではない。この本来的に無理な注文を率直に「無理だ」というところから、そしてそれにも関わらず諦めないところから、新しい教育学は始まるのかもしれない。
諦めなかった結果、次のような結論が出てくる。

「子どもや若い人々を「よい民主主義者」になるように教育する代わりに―それは、私の見方では、基本的にポリス的秩序のなかにとどまるという戦略である―、教育者には当然、民主主義化が「生じる」無数の瞬間瞬間に学習する機会を利用し支援するという演じるべき役割がある。」(179頁)

うわあ、たいへんだなあ。が、これが「応答責任」というやつなんだろう。私も日々の実践のなかで忘れないように「応答」していきたいとは思う。できるかどうかは、さてはて。

ガート・ビースタ/藤井啓之・玉木博章訳『よい教育とはなにか―倫理・政治・民主主義』白澤社、2016年

【感想】クリムト展―ウィーンと日本1900(東京都美術館)

東京都美術館で開催されている「クリムト展―ウィーンと日本1900」に行ってきました。

とても面白く観てきました。やはり有名な「ユディトⅠ」の生は圧巻でした。図版で見ている時は気づかなかったのですが、生で見ると、額縁も含めた立体的な装飾技術が素晴らしいのに驚きます。平面的な装飾美術と立体的な装飾美術の総合が、他にない独特の雰囲気を作り出しているような感じがしました。人物表現の立体性(顔と乳房)と平面性(頭髪と衣服)の落差に対する衝撃も、全体的な装飾技術の立体性と平面性の落差によってさらに際立っている気がします。見入ってしまいました。凄いです。

あと不勉強にして知らなかったのですが、「ベートーヴェン・フリーズ」は圧巻でした。わけの分からない執拗な迫力に満ちております。お腹とか、垂れた乳房とか、膝の描写とか、病的で、衝撃を受けます。この病的な感じに対して、なんとなく宮西計三とか大矢ちきとか山岸凉子とか楠本まきとかを思い出してしまうわけですが、もちろんクリムトのほうが先ですね。

個人的な研究に関して、もちろん私は美術の専門ではないわけですけれども、かねてから気になっていたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけて先鋭化していったように見える「純粋芸術/装飾美術」=「普遍主義/民族主義」の展開過程です。先行研究でもジャポニズムの流行と絡めて議論が進んでいるところだと思います。クリムトが活躍した多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国でも、大ドイツ主義の挫折とも絡んで、芸術概念の再編成とナショナリズム意識の錯綜とした展開があっただろうと思います。チェコのアルフォンス・ミュシャとは異なって明示的な民族主義は見られないものの、ジャポニズムの影響を受けつつ「純粋芸術」に対する「分離」を志向したクリムトにも、何らかの時代精神が反映しているのではないかと注目しながら見たわけではあります。が、まあ、私の現在の実力では、よく分かりませんでした。そういう観念的なものよりも、「退廃」や「官能」や、あるいは「死」の臭いの方が圧倒的に濃厚でした。敢えてやるとすれば、同時代のベルグソンとかディルタイとか、「生」という観念から接近する方が相応しいのでしょうが……

「接吻」とか「ダナエ」とか「人生は戦いなり」がなかったのは少し残念ですが、まあ、また別のところでぜひ。

【要約と感想】ジョン・デューイ『学校と社会』

【要約】子どもたちは、学校で死んだ魚のような目をして、退屈な時間を過しています。学校は、社会の役に立っていません。社会が変化した以上、学校も変化しなければなりません。
これからの新しい学校は、理想的な家庭を延長した、理想的な小さな社会とならなければいけません。子どもたちは生活で得た経験を学校に持ち込み、その経験は学校の中で豊かに磨き上げられて、人生の洞察に不可欠な科学的知識へと結びつきます。
そのためには、小学校から大学までの学校システムを統一的に整備し、「教える内容」と「教える方法」を統一しなければいけません。それは子どもの「生活」を中心としたときに初めて可能になります。私が作った実験学校での取り組みの結果、確信を持って言うことができます。

【感想】「児童中心主義」を高らかに宣言する、新教育のマニフェスト的な本だ。背景となる社会理論も心理学理論もしっかり整備されている上に、実験学校における実践も伴っており、説得力あることこの上ない。100年以上前の本であるにも関わらず、「最新の学習指導要領の解説として出た」と言っても違和感がないほど、理論的には古びていない気がする。まあ、個々の具体的事例はもちろん古びているんだけれども。逆に言えば、現代の教育がデューイの議論をちゃんと乗り越えているのか、不安になるところでもある。

【個人的な研究のための引用とメモ】

コペルニクス的転回と児童中心主義

本書では、児童中心主義をわかりやすく説明するためにコペルニクスの地動説を例に挙げている。いわゆる「コペルニクス的転回」である。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」49-50頁

非常に分かりやすい喩えで、教育にとって「子どもの生活」が決定的に重要であることを明快に示している。

社会に開かれた教育課程

本書の構成は8章から成っているが、最初の演説では3章構成だったという。その3章が、現在の学習指導要領の構成と極めて近接しているのは、興味深い。すなわち、
第一章 学校と、社会の進歩
第二章 学校と、子どもの生活
第三章 教育における浪費
という構成なのだが、これはそれぞれ最新学習指導要領と、
(1)社会に開かれた教育課程
(2)主体的・対話的で深い学び
(3)カリキュラム・マネジメントと学校経営
というふうに対応している。

たとえば第一章「学校と、社会の進歩」では、デューイは産業社会の急激な進展によって家庭における子どものあり方が根本的に変化したことを指摘し、それに伴って学校の役割も変わるべきことを主張する。

「明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。」43頁

「知識基盤社会」に対応して教育が変わらなければいけないと訴える現今学習指導要領の言い分と、とてもよく似ている。まあ、デューイの言う社会の変化が機械化である一方、学習指導要領の言う社会の変化はIT化、という中身の違いはある。とはいえ、社会の急激な変化を背景とした教育改革の必要性という点では、状況は極めて似ていると言える。
そしてデューイは、そういった社会変化に、学校がまるでついていけていないと指摘する。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27頁
「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30頁

上に引用した100年以上前の言葉は、ただの一個所の改変も必要とせず、そのままそっくり現代日本の教育に適用できてしまう。これはかなり恐ろしい事実である。「社会に開かれた教育課程」という合い言葉は、最近になって言われ始めたわけではない。100年前から叫ばれ続けていたにも関わらず実現しなかったのだと、認識しなければならない。学校という組織を変えることは、そう簡単ではない。
では、デューイはこれからの学校をどうしようと言うのか。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。」31頁

ここでは、「生活指導」という概念が見られることに注目しておきたい。

主体的・対話的で深い学び

続いて、第一章で示された理念を、子どもの発達の側面から見るのが第二章「学校と、子どもの生活」の狙いである。一人ひとりの子どもの個性を重視し、興味を足がかりとして、生活のなかの活動をとおし、自然と社会の本質をつかませる。児童中心主義の本領発揮である。いわゆるアクティブ・ラーニングというものが100年以上前から実践されていたことは、踏まえておいていいかもしれない。
この章では、「言語」というものに対する考え方と扱い方も注目ポイントである。

「言語本能は子どもの社会的表現の最も単純な形式である。だから、言語はあらゆる教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう。」60-61頁
「旧制度のもとにおいては、子どもたちに自由にのびのびと言語をつかわせることは、疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては、言語とは思想を表現する手段であると定義されている。なるほど思考的に訓練されたおとなにとっては言語は多かれ少なかれそういうことになるが、しかし、言語はまず第一に社会的なものであり、それによってわれわれが自己の経験を他人にあたえ、逆に他人の経験を受け取るための手段であることは、あらためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひき離してしまうならば、言語の教授が複雑で困難な問題になることは、怪しむに足りない。」68-69頁

ここでは、言語というものが「思想を表現する手段」としてよりも、他者とコミュニケーションを図る手段として、より重要な地位をあたえられている。「主体的・対話的で深い学び」を実現する際、あるいは「言語活動」というものを重視する際にも、参考となる言語観だろう。

カリキュラム・マネジメントと学校経営

以上の「社会に開かれた教育課程」および「主体的・対話的で深い学び」を踏まえた上で、デューイは第三章「教育における浪費」の中で、学校制度改革とカリキュラム構成について言及する。これは最新学習指導要領では、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」に相当する部分だ。
デューイはまず現今のカリキュラムに統一が欠けていると批判する。

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88頁

これまた一文字の変更もなく現在の教育に適用されて違和感のない文章である。この分断的・散漫的なカリキュラムを変えるために、デューイは「生活」による統一を提言する。

「子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的で能動的な関連のなかで生活するならば、かれの学習する学科は自然に統合されるであろう。そうなれば諸学科の相関というようなことは、もはや問題ではなくなるであろう。教師は、歴史の課業にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要もなくなるであろう。学校を生活と関連せしめよ。しからばすべての学科は必然的に相関的なものとなるであろう。(中略)。さらにまた、もし全体としての学校が全体としての生活と関連せしめられるならば、学校の種々の目的や理想――教養・訓練・知識・実用――は、もはやこの一つの目的ないし理想にたいしてはこの一つの学科を選び、他の一つの目的ないし理想にたいしては他の一つの学科を選ばねばならぬというような個々ばらばらなものではなくなるであろう。」107頁

デューイは様々な実例も挙げるのだが、それらはいわゆる「総合的な学習の時間」を彷彿とさせるものだ。というか、「総合的な学習の時間」はデューイの構想を土台として出来ているわけだから、当たり前なのだが。
が、この部分は、最新学習指導要領と袂を分かつ点かもしれない。デューイは統合の原理を「子どもの生活」に求めているが、最新学習指導要領は統合の原理を「求められる資質・能力」に求めている。デューイはあくまでも一人ひとりの子どもの個性を大事にしようとするが、すべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」については何も言わない。一方、学習指導要領はすべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」を想定する。ここが決定的に違う。この学習指導要領の姿勢が、果たしてデューイ理論を基礎とする戦後教育改革に対して加えられた「這い回る経験主義」という批判を乗り越える可能性を持つのかどうか、学習指導要領自身は何も述べていない。
ともかく、最終的で現実的な制度設計において、学習指導要領はデューイを離れてブルーナーに近づいていくのであった。新学習指導要領の狙いが当たるかどうかは、「理念としてのデューイ、手段としてのブルーナー」というあり方が適切かどうかにかかっているように思うのだった。

問題解決学習

また本書の注目点は、「問題解決学習」についての言及にもある。

「かつまた、前の第一期の特徴である子どもと学習される社会生活との全身的・劇的な同一化に加えて、いまや知的同一化がおこってくる――すなわち、子どもは遭遇せねばならぬ問題の見地に自己を置き、それらの問題を解決する方法をおよぶかぎり再発見するのである。」129頁
「かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上っている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を――すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。であるからして注意への動因・刺激もまた自分自身のものである。それゆえにまた、得られた訓練も自分自身のものである。――それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、またいいかえれば問題を考察する習慣の獲得である。」180頁

問題解決学習は、子どもの興味と社会および科学を結びつける重要で決定的な媒介物となることが期待されている。問題解決学習の論理がデューイの発達心理学理論に根拠を置いていることは、知識として知っておいて損はしないかもしれない。

ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波書店、1957年

【要約と感想】フレーベル『フレーベル自伝』

【要約】自分自身を一つの統一された生命と捉える傾向のある私は、断片的な知識を伝達するだけの旧来的教授に馴染めず、生徒が自発的に活動して生命力を発揮する新たな発展的教育を目指しましたが、世間には理解されませんでした。

【感想】まあ、体系的にまとまった著作ではなく、公開されることを前提としていない手紙の草稿だけあって、読みにくいことこの上ない。繰り返しや重複も多く、理解不能な晦渋な言い回しばかりで、とてもではないが学生には勧められない。

とはいえ、ある程度の知識と経験を持って臨めば、得られるものは以外と多いかもしれない(と覚悟して付き合うしかない)。
まずは、全体として陰鬱な印象を受ける抽象的な言葉の羅列の中で、フレーベル自身が創造的な授業をする光景が具体的に描かれている表現に出くわすと、かなりホッとする。フレーベルは自身が行う地理の授業で、従来の詰め込み型の指導ではなく、生徒の自発性を尊重する活動を試みる。授業はうまくいき、生徒の保護者からの称賛だけでなく、学校の上司からも褒められ、なおかつ生徒自身の熱心な活動そのものに喜びを見出している。フレーベル自身もこの授業の成功をそうとう誇りに思っているようで、文章から喜びが沸き立ってくるようだ。フレーベルがただの批評家ではなく、誠実な実践家であったことを示す、読み応えのある文章だと思った。

またあるいは、フレーベルが繰り返し繰り返ししつこく「生命」と「統一」への志向性を表明することに関して思ったのは、いわゆるアクティブラーニングと呼ばれる教育関連諸技術の根底に、こういった「生命の統一」への志向性が据えられるべきだということだ。フレーベル自身もアクティブラーニング的な授業を成功させているわけだが、彼はただの教授テクニックとしてアクティブラーニングを導入したわけではなく、自分自身の内側から滲み出てくる生命の統一への志向に促されて教授改革へと向かっていった。フレーベルの教育思想の根底には常にこの「生命の統一」への憧憬と確信が据えられており、いわゆるアクティブラーニングもそこから生じる必然的な系に過ぎない。こういった「生命の統一」への志向性が欠けているとき、どれだけ表面的な技術を磨いたとしても、授業の本質は何も変わらないのではないかとも思う。

まあ、この本だけでフレーベル思想の全体像を掴むことは難しいので、諸々の研究書にあたって勉強するべきなのであった。

【個人的備忘録】アクティブラーニング
「私はまた地理の教師としてこの機会を利用して、生徒に土地の表面の状態を直感させ理解させ、このようにして得た直感に地理教授を結び付け、そしてそこから地理教授を出発させた。」「学校取材の第一回公開審査の際、私は幸福にも――この最初の試みはひどく多くの不完全な点を含んでたにも拘らず――ただに出席した両親達の満場一致の賛成だけではなくて、更に特に私の上役の人々の賛成を得た。そして人々は言った。「地理は須くこのやうに教えるべきだ。少年は遠方に行く前にまずその郷土を知らなければならない。」生徒は実際町の周囲のことを恰かも家庭の自分の部屋のやうに熟知し、そして迅速に且つ適切に周囲のあらゆる地面の状態について答えた。この授業こそ私が後年十分改訂して、現在まで多年の間応用して来た授業の源になった。」(85-86頁)
「その際私は審査の人々を十分満足させる結果を得て喜んだだけではなくて、私の生徒が愉快に熱心にまた自発的に活動しているのを見た。」(87頁)
「成績そのものよりもむしろ私の善良な意志と火のような熱心とのために与えられた好意ある親切と獲得した好評とが私を鼓舞して、愈々深く教授の本質のなかに深入りさせた。併し一つの大きな学校の組織された全体は鞏固な形式があり、確実な・承認された・外部的に予じめ時間と目標とを規定し得るような課程を有ち、而も総ては時計仕掛けのように互いに噛み合っていなければならない。ところが私の流儀はただ目覚めた生命と目覚めた精神とだけを要求した。」(87頁)
「即ちこれまでの教育方法、殊に単に伝授的で単に外面的歴史的に伝達する基礎学校乃至練習学校の教授法は、一層高い真実の認識に対し、精神的の洞察に対し、将来の真の科学的陶冶に対し、本質直感に対し、従って真の知識に対し、知識における真理に対し、感応を鈍くし、否なそれのみか、私は率直に言いたいのであるが、此等に対して破壊的に影響している。
だから私はこれまでの基礎的な練習教授はその改良されてるものでも全く反対にされなくてはならない、即ち発生的発達的というような全く反対の方法で行われなくてはならないということを、今も確信しているがその時確信した。だから私は私の欲するものが抑々何であるかと尋ねる人には次の如くに答えた。
「今日一般に教育及び教授の部門において行われているものと全く反対のもの。」」(179頁)
「あらゆる現象と存在、従ってまた直感や認識や知識の出発点は実行であり行為である。
だから真の人間教育即ち発展的の人間教育は実行若しくは行為から始まり、実行若しくは行為のうちに芽生え、そこから成長し、そこに基礎を有たなくてはならない。」(185頁)
【個人的備忘録】統一への志向
「当時私の念頭に浮んだ最高原理は次のものだった。総ては統一である。「総ては統一に基づき、統一から出発し、統一に向って努力し、統一に至り、そして統一に還る。」
統一におけるこの努力と統一に向ってのこの努力とは、人間生活における百般の現象の基礎である。併し私の内的直感と外的認識、表現と行為との間には一箇の大きな深淵があった。
だから教育及び教授に依って人間のために生ぜしめねばならない・また生ぜざるを得ない総ての事柄は、人間のうちに・また人間がそのうちに生起する諸関係のうちに・更には人間の必然的の発達段階の本質のうちに必然的に規定され、また与えられると私には思われた。
人間が此等の関係を尊重し、認識し、それに通暁し、且つそれを概観するように教育される時、彼は教育されまた教授されるのだと私には思われた。」(99頁)
「併し私はまた人間は絶対的な統一を認識することが出来るものであり、事物及び現象の多様性を統一のうちに認識することが出来るものであり、この統一のうちに事物及び現象の多様性が不断に発展して行くものである、ということを洞察した。そして私がこのようにして人間の生活と活動と思考と感情と表現との諸現象の多様性を、人間の存在と本質との統一のうちに明らかにし、且つそれを意識した時、私はまたもや教育問題に向った。」(125頁)
「ところが更に進んで、このような生活に依って人類そのものは真にその本質において、自己をあるがままに認め、あるべき姿として認め、一つの大きな全体生命として認め、従ってこの教育は人間を真の人間へ、即ち人間の本質を自己のうちに発展させそして自己から生活し出すような人間へ教育しようとするのであるから、これはまた真の人類学校とならなければならなかった。而も私の始めた教育活動こそは人間をその本質のあらゆる方面とあらゆる関係とからりかいしなければならなかった。即ち――土地として――或いは自然物乃至地上物として――人間として――意識的なまた思索的な生類乃至理性的な生類として――そして神の子として理解しなければならなかった。」(187頁)

フレーベル/長田新訳『フレーベル自伝』岩波書店、1949年

【要約と感想】ペスタロッチー『隠者の夕暮・シュタンツだより』

【要約】教育というものは、相手が身分の高い人だろうが賤しい人だろうが、同じものであるはずです。なぜなら、教育とは人間をつくる仕事だからです。すべての人間は、その本性の奥底に、共通する素質と力を持っているはずです。

【感想】特定の身分や職業に即した教育を否定し、人間すべてに通じる普遍的な教育を目指したという点では、たしかにルソー『エミール』を引き継ぐものと言える。ペスタロッチ自身も若いころに『エミール』を読み込んで、大いに影響を受けている。
ただし、決定的な点で、ペスタロッチーの言っていることはルソーの主張とは異なっているように読める。

決定的な相違の一つ目は、「神」の位置づけだ。ルソーは、自然科学の見識が深まれば、必然的に内部から神の思想に至ると考え、早期からの宗教教育を戒めた。いわゆる「理神論」である。
しかし一方ペスタロッチーの考えでは、神に対する畏敬の念こそがすべての教育活動の基礎とならなければならず、早期からの宗教的心情陶冶は必須となる。
つまり、ルソーは人間の普遍性の根拠としておそらく「理性」をイメージしているが、ペスタロッチーは「理性」というよりも「信仰」を共通イメージの基礎に置いているように見えるわけだ。

もう一つの決定的な相違は、「君主」の位置づけだ。ルソーは、社会契約論の主張者だけあって、彼の体系のなかで「君主」というものが占める位置は大きくない。というか、フランス革命の理論的根拠となるくらい、反王権的だ。
一方、ペスタロッチーは君主の教育権を最大限に確保しようとしているようにみえる。それは「父権」の絶対的な位置づけにも相通じる。家父長制的なのだ。ペスタロッチーは「国民を教化して彼の本質の浄福を悦楽するようにするためにこそ、人民の長たる父があるのだ。そしてすべての国民は家庭の浄福を悦楽することによって、君主の親心に対する子としての純粋な信頼のうちに安らい、そしてその君主が子たちを教育し向上させて、人類のあらゆる浄福の悦楽に到らせる父としての義務を果たすことを期待している。」(30頁)と主張する。ここだけ読むと、パターナリズムの思想であるように理解できてしまう。
なんにせよ、自分の主人は自分だけというルソーからは逆立ちしても出てこない言葉であることは間違いない。

また、現代的な感覚で読むと、ペスタロッチーが体罰を肯定する文章(75頁)には困惑させられる。しかもその体罰肯定の根拠として、肉親の愛情に基づいた暴力は許されるという理屈を持ち出されると、困惑を超えてドン引きしてしまう。解説の長田新は、ペスタロッチーだからこそ体罰も許されるのだと擁護するわけだが。いやいや、ペスタロッチーだから許されるなんてことがあるわけはなく、単に220年前だったから大目に見られただけのことと理解するべきところだ。

そんなこんなで、書かれたものだけから判断するかぎり、完成度にしても人間教育への洞察にしても、どうしてもルソーのほうに軍配を上げざるを得ないというのが正直なところではある。
とはいえ、難しいのは、書き遺した断片からペスタロッチーの全体像を判断してはいけないというところだ。というのも、彼の真骨頂は「実践」にあるからだ。一方のルソーは、言っていることは立派ではあるが、やっていることはゴミのようだ。実践的に見た場合、圧倒的にペスタロッチーのほうを尊敬せざるをえない。

本人の著作から思想構造を再構成しにくいので、ペスタロッチーについて語るのはなかなか厄介だなあと思う次第である。特に『隠者の夕暮れ』は、若くて本格的に教育事業にとりかかる以前の著作であることと、ドイツ語本文の校訂の問題が重なって、解釈が難解である。
が、授業ではしっかり扱わざるを得ないので、各種研究書で補足するのであった。

【個人的備忘録】自然や生活による陶冶
教育方法として決定的に重要なのは、ペスタロッチーが「生活」や「自然」による陶冶を尊重したことにある。この意識は、本書の端々から感じとることができる。
とはいえ、自然や生活による陶冶は既にルソーによって主張されているところだし、さらにロックも生活習慣重視の姿勢を見せているし、さらに遡ればアリストテレスの習慣形成論にも行き当たる。ペスタロッチーの思想がなにに由来し、どこがオリジナルで、類似思想とどこがどう異なっているかは、思想史的に解明すべき課題になる。

「わたしは事物のもっとも本質的な関係を人間に直感させ、健全な精神と天賦の知力とを発達させ、そしてなるほど人生のこのどん底に塵芥に埋もれているようにみえはするが、しかしこの環境の泥土のなかから浄化されると、明るい光で輝き出す諸力を刺激するために、生活そのものからくるもろもろの必要ないし要求が、どれほど多く寄与するかということを知った。」(51頁)
「しかも大抵彼らは、何ら人為的の方法によらず、ただ子供を取り巻く自然や、子供の日常の要求や、いつも活溌な子供の活動そのものを、陶冶の手段として利用しようとする思想も嫌えば、またその思想を実現することも嫌っていた。ところがわたしの企図を完全に実現する基礎をなしているのが、まさに右の思想だった。」(53頁)

ペスタロッチー/長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波書店、1993年<1779,1799