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【要約と感想】加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』

【要約】日本ではジョン・ロックの思想が誤解されているのですが、それは合理的な近代性や自由主義という一面のみ見ているからです。最先端の研究では、ロックの矛盾や挫折から、総合的にロックの思想を理解しようという試みが進んでいます。ロックの「生」に深く根ざした「神学的パラダイム」を踏まえることで、経験主義的な認識論にせよ、社会契約論的な政治論にせよ、実は宗教(プロテスタント)的な道徳への信念が土台となっていることが分かり、一見すると矛盾に満ちて錯綜としたロックの思想構造の全体を掴むことができます。

【感想】さしあたって、著者の言うように世間の教科書的なロック理解が世俗的で自由主義的であるとしても、いちおう私個人としてはロックの思想が宗教によって貫かれていることは既知の基本情報ではあった。たとえばロック『教育に関する考察』の訳者である服部知文は解説で以下のように言っているが、それはもう50年以上前のことだ。

「ロックの体系の主要部をなす認識論、宗教論、政治論の三者が、彼の宗教思想によって貫かれていることが明らかになると思われる。この「教育論」についても、その中心の眼目となるものは、その顕著な世俗主義にも拘わらず、やはり彼の宗教思想を根底とした道徳的性格形成の主張であろう。」『教育に関する考察』351頁

逆に言えば、専門家の間ではロックの思想を「宗教思想」を土台として理解しようと姿勢が少なくとも50年以上前からあったにも関わらず、教科書的な理解はいっこうに変わらなかったということでもある。私が専門とする教育学の世界でも、やはりロックといえば相変わらず「市民革命の世俗主義を背景とするタブラ・ラサと紳士教育」であって、その宗教性にスポットライトが当たることはないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のためのメモ】
さてところで、私の研究の興味関心からいえば、本書でかなり詳しくつっこんでいるところの「プロパティ」概念がとてもおもしろかった。プロパティとは現在では「財産」とか「所有権」という程度の意味ではあるが、ロックはその言葉をもっと広い意味で使用しているとのことだった。

「私有と共有との関係や、法と私的所有との関係を主要論点とする「プロパティ」論の十七世紀的文脈のなかで、「プロパティ」は、動産や不動産のようなモノとしての資産やそれに対する各人の所有権を意味するものとされていた。それに対して、ロックのいう「プロパティ」は、十七世紀の用法よりもはるかに広い意味をあたえられていた。それは、「資産」のほかに、人間の身体や人格にかかわる「生命、健康、自由」までをふくむものとされていたからである。」87頁
「ロックの「プロパティ」は、それなしに人間が神への義務をはたすことができないもの、伝統的な哲学用語を使えば、人間が神に対して負った全義務の基礎をなす「基体」そのものであったからである。」88頁
「まず注意すべきことは、ロック独自の用語法で、「プロパティ」が「神の作品」としての人間に「固有のもの」、人間とそれ以外の被造物とを分かつ人間の全属性を意味していたことである。(……)ロックにおける「プロパティ」の概念は、人格と存在、精神と身体、「不死なる魂と現世的な生」を持って想像された人間の全局面にあいらかにかかわるものであったからである。」88頁

この文脈で「人格」という日本語が出てきて、赤字にしてしまっているが、ハッとしたわけだ。ちなみに私がこだわっている「personality」という言葉は、私個人の印象ではホッブズあたりから現在のような意味で使われ始めたような感じがする。そしてロックの時代には(あるいはその後の英米系思想全体において)、それほどこなれた形で使用されるには至っていない。逆にロックが使う「property」とは、今で言うところの「personality」とか「冒すべからざる人格の尊厳」というような概念を何とか言い表そうとする中で発せられた言葉であるような感じを受けたわけだ。
しかしそういう意味で言うと、現在のコンピュータ界隈で使用される「property」という言葉の意味は、なかなか興味深いかもしれない。たとえばWindowsのシステム関連で使用されるpropertyという言葉には、ただの「所有物」とか「属性」という意味では捉えきれない、もう少し深い何かを言っている感じがするのだ。
「人格」という言葉の意味を捉える上でも、ロックやWindowsの言う「property」は、補助線として極めて有効なのかもしれない。

また、本書では、私が気にしている「人格的同一性」とか「アイデンティティ」という言葉が頻出する。なかなかおもしろい言い回しが多く、感心しながら読んだ。

「ロック自身がいうように「意識が人格的同一性をつくる」とすれば、思考する存在としての自己意識は、ロックがその後の人生において揺らぐことなく持ちつづけたアイデンティティの根底をなすものであった。」9頁
「変容し、矛盾をふくみつつも、全体としては自己同一性を保ちつづけた点にロックの思索の構造的な特質があった」45頁
「論理的な非一貫性や亀裂の存在がかえって思想の自己同一性を暗示するという逆説のうちに、ロックにおける発展する精神の謎を解く鍵がひそんでいる」45頁
「ロックも用いたスコラ哲学の伝統的な概念を使っていいかえれば、それは多面的なロックの思想を個性的な同一性を持つロックの思想それ自体にした「個体化の原理」にほかならなかった。」57頁

絶対矛盾的自己同一という(これは個人的には決して西田幾多郎の専売特許ではないと思っているわけだが)、私の問題関心の核心に触れるものではあった。実は終章で著者が語る「ロックの現代的意義」にはピンとくるものがまったくなかったが、そうでない部分は極めて現代的な意義で溢れているように感じた。おもしろく読んだ。

加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』岩波新書、2018年

【要約と感想】桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』

【要約】ルソー特有の矛盾は、ものごとを論理的に突き詰めた末に、論理の限界に突き当たったことに由来する。ルソーを学ぶということは、まずルソーの自己言及の輪に絡め取られることだ。ルソーが「自伝」ジャンルの確立者ということは、そういうことだ。

■図らずも知ったこと=ルソーは「音楽辞典」で、「趣味」とは「理性には眼鏡の役割をする」と言っている。つまり眼鏡とは、理性にとって趣味のようなものだったのだ。

【感想】「自分が主人だと錯覚しながら教師に従う」とか「自由への強制」とか「自分で自分に法を与える」とか、なるほど自己言及性の問題だ。「一般意志」というものも、民主主義的な手続きの問題というより、再帰的な自己というふうに捉えれば、論理的に説明できそう。そしてその論理は自己実現という教育的概念にも反映する。「告白」という自己言及的制度も、そうか。

桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年

【要約と感想】仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

【要約】ルソーの政治社会思想に焦点を当て、現代政治哲学の成果も交えながら、特に「一般意志」について詳しく解説してくれる教養本。自然的自由を市民的自由へと変換してしまう道筋が、社会契約論の醍醐味。しかしルソーの思想は多義的で矛盾を含むものであって、一貫的な体系性はもともと期待してはいけない。「人間」と「市民」という先鋭化した両極でブレまくる姿こそ、我々がルソーに求めているものかもしれない。

【感想】個人的には、「一般意志」を、あらゆる具体的な属性を剥ぎ取られた理念人の持つ意志というふうに考えるのが、一番落ち着く。男でもなく女でもなく、金持ちでも貧乏でもなく、年寄りでも若者でもなく、手があるのでもないのでもなく、健康でも病気でもなく、日本人でもインド人でもない、そんなふうに具体的な属性を全て喪失した、理念的な「点」としての人間。そういう理念人が持つであろう意志を「一般意志」とすると、誰にでも普遍的に当てはまるような抽象的な共通点が見つかる。その普遍的で抽象的な共通点を憲法として構成した上で、あとは属性を元に戻してやって、多数決で具体的な法律を決めていくという感じ。まあ、ロールズの手続きとほぼ同じだけど。

具体的な人々の個人差を放置したままで集合的人格を構成するには、アクロバティックな飛躍が必要になる。ルソーの言う一般意志は、そのあたりの手続きがかなり杜撰な気はする。いったん個人差を解除するような手続きが挟まれば、多少はハードルが下がりそう。

とはいえ、「自然的自由」を「市民的自由」へ転換するという論理が、強烈な発明なのは間違いない。わがままで自分勝手だからこそ、進んで協力する。日本や中国やインドからはこんな発想は出てこない。近代ヨーロッパの面目躍如だ。

仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』NHK出版 生活人新書、2010年

【要約と感想】野崎歓『フランス文学と愛』

【要約】17世紀以降、フランス文学は「愛」を中心に展開していきます。一方で肉体的な享楽を露骨に表現する作品もあれば、一方で精神的な愛を称揚するような作品も現れます。フランス文学は真正面から「愛」を扱うことで前進し続けます。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=18世紀フランス啓蒙主義が、キリスト教禁欲主義の倫理観を意図的に破壊するような露骨な性表現を伴っていたこと。ディドロやヴォルテールなどが、「愛」よりも「快楽」を自然と見なす態度を示していること。

■図らずも得た知識=ラブレーのウンチ中心主義。19世紀の激しい児童虐待の実態。フランスでも、20世紀の恋愛自由化に伴って非モテ層が出現し、本田透のような作家が現れたこと。非モテは世界的に普遍的な現象だったか。

【感想】一条ゆかりの1970年代発狂系作品が、18世紀~19世紀フランス文学のめざす方向とよく似ていることがわかった。エネルギッシュでおもしろいはずだ。

野崎歓『フランス文学と愛』講談社現代新書、2013年

【要約と感想】篠原一『市民の政治学』

【要約】16世紀西洋に始まった「第一の近代」は、20世紀には「第二の近代」へと変容しました。第一の近代が揺らいでいる現在、新しいデモクラシーの形が必要とされています。その鍵が「討議」です。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=近代の始まりと終わりについての簡潔な見解。近代への道は中世後期(10世紀)から徐々に用意されていたが、16世紀に初期近代が開始され、18世紀半ばに本格的に確立した。まあ、教科書的にはこれで特に問題ない見解と言えますよね、という確認。ルネサンスに近代性を見るか中世性を見るかなんて、マニアックな関心だよなあ。

「ポストモダン」論のように近代が完全に終焉したと極論するのではなく、「第二の近代」というふうに近代を段階的な展開過程として捉える見方。注目する事象そのものは諸々のポストモダン論とそう変わらないけれど、断定口調で時代の断絶を煽るようなポストモダン論とは異なっていて。「第二の近代」と理解する方が、漸進的に議論を積み重ねていこうとする実践的な知恵に優れているように思う。

■図らずも得た知識=日本において「市民社会」概念が議論されていたこと。市民社会論の系譜を辿りつつ、「私」とも「公」とも異なる「公共」という第三の領域を際立たせるという論の運びっぷりは、抽象的に鮮やかで、とても参考になった。真似する。

【感想】今から13年前に出版された本だけど、ものすごく古く感じてしまうのは、現実の変化が早すぎるからなのか。イギリスのEU離脱とトランプ大統領誕生を目の当たりにすると、本書の内容は残念ながら牧歌的に見えてしまう。仕方ない。
筆者が推奨している「討議的デモクラシー」の概念にしても、twitter等でろくに相手の文章も吟味せずに短絡的に「敵-味方」感覚だけで条件反射で吹き上がっている人々を見ると、異なる価値観の人々の間での合理的な討議なんてものが可能かどうか、つい短絡的に悲観してしまう。いや、言葉を発せるだけ、まだマシなのかもしれない。誰の視界からも消えているような、左にも右にもなれない声なき人々の残念な姿を見ると、デモクラシーなんて言っている場合か、と意気消沈してしまう。日本はサバルタンだらけですよ。

短絡的には悲観的になっちゃうにしても、10年スパンで大局的に見たときには、まだ本書が言うところの「楽観主義」は有効であり得る。それを信じて、少なくとも自分の声が届く範囲では、合理的かつ誠実な言葉を吐き続けるしかない。

篠原一『市民の政治学―討議デモクラシーとは何か』岩波新書、2004年