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【要約と感想】マテイ『プラトンの哲学-神話とロゴスの饗宴』

【要約】プラトン思想は、五元構造である。

【感想】まず、フランス人がプラトンを読むとこういう解釈になるのかあ(←ざっくりしすぎ)という感想。率直に言って、何がしたいのかよくわからない。新プラトン主義的な方向に傾いている気しかしないけど、著者はそれを否定しているという。いやはや。

とはいえ、断片的には参考になる解釈もたくさんあって。たとえば「問答法」と「神話」に対する解釈は、補助線の一つとしてはとても有効だと思った。著者によれば、問答法とはつまるところ「総合と分析」にかかわる論理的な手続き(=ロゴス)だ。そしてそれに対して「神話」という異邦人による一人語りは、死すべき者(感覚界)と不死の者(可知界)との境界線をつなぎ、越境する役目を負う。

多くのプラトン解説書は、イデア論を中心として、プラトン思想の論理的・体系的な解釈を目指す。そうすると、問答法=ロゴスは哲学の方法として視野に入ってきても、「神話」(=論駁も論証も受け付けない原初の話し言葉)はこぼれ落ちていく。確かに、この「神話」を視野から除いてしまったら、プラトン体系の半分を無視してしまったことになる。

まあ、ロゴスと神話を陰陽五行説で統一的に解釈する(ロゴス=陰陽二元論、神話=五元的世界論)という構想は、なかなか素敵だ。フランス人の著者がどう思っているか知らないが、言っていることは古代東洋思想とものすごく親和性があるのだった。

ジャン=フランソワ・マテイ/三浦要訳『プラトンの哲学 ─ 神話とロゴスの饗宴』白水社、2012年

【要約と感想】藤沢令夫『プラトンの哲学』

【要約】プラトン思想の核心は徹底的にイデア論である。

【感想】イデア論に関して、個人的には「広義のイデア論」と「狭義のイデア論」があって、後期プラトンで放棄されたのは狭義のイデア論の方だって見えていたわけだけど。まあ大雑把には、そんな見え方で問題ないことは確認できた。が、具体的な論理展開に関しては、ずいぶん勉強になった。

本書は、認識を成立させるために不可欠な根拠としてイデア論が要請される、と考える。経験の総和としては不可能な「先験的な総合判断」というものが成り立つためには、どうしても論理的にイデアという概念が要求されねばならない。そしてこのイデアは、「存在」の体系などではなく、「価値」と「意味」の体系として経験的な知覚を成立させる基盤となる。そしてこの体系に説得力を持たせるためには、認識論から「主語となる個物」を消去する手続きが必要となる。

もう、なるほどなあと。これならイデア論が、確固とした認識論を伴いながら成立する。後期で放棄されたのは、「分有」という述語を伴った狭義のイデア論ということになる。そして、イデア論は現象学と相性がいいという印象がさらに強まった。とても勉強になった。

藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書、1998年

【要約と感想】納富信留『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』

【要約】プラトンの本から有益な何かを一方的に教えてもらおうとしても、得るものはありません。プラトンとの対話の渦に巻きこまれることで、問いの本当の意味が初めて見えてきます。ということで、実際にプラトンと対話してみました。

【感想】「入門書」と銘打ちながら入門書らしからぬ著作が散見される中、本書はしっかりプラトンの著書の概要を伝えていて、なかなか入門書らしい体裁を取っているように思った。しかし一方で、入門書だからこそできる(つまり学術的な手続きに即した論証なしの)意見も前面に出てきている。著者のスタイルは、対話篇が対話篇である本質的な意義を土台に据えているところにある。たとえばその意識は言語論に対する丁寧な扱いに垣間見える。「イデア論」を絶対的な真実と単純に決めつけるのではなく、どうして「イデア論」が必要となるかを、奥歯に物が挟まったような回りくどい言い方を積み重ねて説明していく。

イデア論には明らかな論理的欠陥があって、プラトン自身もそれを認めている。しかし一方で、プラトンにつきあっていると、それでもやっぱりイデア論は必要だと思ってしまう。その行き詰まりと粘り強くつきあうこと自体が重要な哲学的営為なのであって、たとえばイデア論をズバっと単純明快に説明することにはおそらくあまり意味はない。そういう意味では本書は通常の入門書とは言えない書き方になっているが、そもそもプラトンに通常の入門書を求めること自体が原理的に不可能だとも言える。そういう逆説に果敢に挑んだ入門書だと思うのがよいかなあと。

納富信留『プラトンとの哲学―対話篇をよむ』岩波新書、2015年

【要約と感想】竹田青嗣『プラトン入門』

【要約】現象学的な知見を踏まえてプラトン思想(特にイデア論)を捉え直してみると、よくあるプラトン解釈が間違っていることが分かります。

【感想】プラトンが諸イデアの頂点に置いたのが、「真のイデア」ではなく、「善のイデア」だったことは、イデア論を理解する上で決定的に重要な事実だ。世界は「真実」の体系ではなく、「価値=善さ」の体系である。世界は認識の対象ではなく、我々が善く生きることで本当の姿が明らかになるような何ものかである。著者は、こういうことを現象学の術語を用いながら表現していく。なるほどなあと思った。「善のイデア」という概念と現象学の相性は、とてもいいかもしれない。あるいは物語(ミュートス)という語り口と、本質直感という方法の相性とか。そこそこ現象学に関する予備知識を必要とするこの内容は、まあ、入門書ではないだろう。だが、それがいい。

そんなわけで、「入門」と名のつく本にありがちなわけだが、「入門」という体裁をアリバイとして、専門論文としては論証が難しそうな独創的な見解が、確固とした根拠なしに全面的に展開されている。だからというかなんというか、他のプラトン入門書の類では、本書は参考文献として言及されない。プラトン研究体系の中に位置づけるのが難しいのか、単にハブられてるだけか。

あと、本書では数々の思想家の名前が挙げられるけれども、名前の出なかったマックス・シェーラーはどう思われているのか、多少気になった。価値の体系という観点からは、言及が避けられない人なような気はする。

竹田青嗣『プラトン入門』ちくま新書、1999年

【要約と感想】納富信留『プラトン 哲学者とは何か』

【要約】安全地帯に留まったままプラトンから何か有益な知識を得ようと思っても、何も起きません。主体的にプラトンとソクラテスの謎に巻きこまれ、自分の生を問い直すことによって、初めてプラトンを相手にする意味が生じます。だから、従来の入門書が扱ってきた魂の三分説のようなトピックは敢えて無視しました。

【感想】テキストそのものに沈潜するのではなく、プラトンの個人史に寄り添いながら主張を噛み砕いていくという、思想史として王道のスタイル。だが、プラトンが相手では思想史の王道スタイルは成立しにくいらしく、多くの研究者は口を濁してテキストに耽溺するしかないと宣言する。本書は、いっさい言い訳じみた逃げ道を用意せず、敢えてドまんなかの王道で突き進んでいって、とても清々しい。

本書がプラトンを読み解く際、「ギャップ」という言葉がキーワードになっている。対話篇は、様々な登場人物たちの考え方のギャップを際立たせる手法となる。そのギャップから、哲学が立ち上がってくる。洒落た言い方をするなら、間主観性から意味が生まれる、なんて言うところだろうか。

このギャップは教育を成立させる条件でもある。教育とは、知識をモノのようにやりとりする技術のことではない。教育とは、真実の方向へ魂を向け換えることだ。そして人々が「政治」と呼んでいたものは実は「政治」と呼ぶに値するものではない。人々の魂を向け換えること、すなわち教育こそが「政治」と呼ばれるにふさわしい唯一の仕事となる。プラトンは人々が「教育」とか「政治」と呼んでいたものを、それぞれ偽物と見なした。

だから、プラトンの議論が「教育論なのか政治論なのか」と議論することそのものが見当外れとなる。それは世間の人々が言っているような俗論教育論でもなければ俗論政治論でもない、まったく別の何ものかだと言うより他ない。私の立場としては、その何ものかを敢えて「教育」と呼びたいわけだが。というのも、ギャップある対話者同士の間に成立している関係は、「政治」というよりも「教育」と呼ぶにふさわしいという直感があるからだ。この直感は、私が時間をかけて具体的な形にしていくしかない。

納富信留『プラトン 哲学者とは何か』NHK出版、2002年