「一」タグアーカイブ

【要約と感想】深井智朗『プロテスタンティズム―宗教改革から現代政治まで』

【感想書き直し2022/2/12】実は著者が論文の「捏造」をしていたことが、読後に分かった。捏造していたのは他の本ではあるが、本書が捏造から免れていると考える根拠もない。信用できない。読後の感想で、「論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている」と書いたが、それがまさに研究にとって極めて危うい姿勢だということがしみじみと分かった。今後、本書から何か引用したり参考にしたりすることは控えることにする。

【要約】一口にプロテスタンティズムといっても内実は多様で、ルターに関する教科書的理解にも誤解が極めて多いのですが、おおまかに2種類に分けると全体像が見えやすくなります。ひとつは中世の制度や考え方を引き継いで近代保守主義に連なる「古プロテスタンティズム」(現代ではドイツが代表的)で、もうひとつはウェーバーやトレルチが注目したように近代的自由主義のエートスを準備する「新プロテスタンティズム」(現代ではアメリカが代表的)です。前者は中世的な教会制度(一領域に一つ)を温存しましたが、後者は自由競争的に教会の運営をしています。

【感想】いわゆる教科書的な「ルターの宗教改革」の開始からちょうど500年後に出版されていてオシャレなのだが、本書によれば「1517年のルター宗教改革開始」は学問的には極めて怪しい事案なのであった。ご多分に漏れず、ドイツ国家成立に伴うナショナリズムの高揚のために発掘されて政治的に利用された、というところらしい。なるほど音楽の領域におけるバッハの発掘と利用に同じだ。そんなわけで、でっちあげとまでは言わないが、極めて意図的な政治的利用を経て都合良く神話化されたことは、よく分かった。
 古プロテスタンティズム=ドイツ保守主義、新プロテスタンティズム=アメリカ自由主義という区分けも、やや図式的かとは思いつつ、非常に分かりやすかった。ウェーバーを読むときも、この区分けの仕方を知っているだけでずいぶん交通整理できそうに思った。
 全体的に論点が明確で、情報が整理されていて、とても読みやすかった。が、分かりやすすぎて、逆にしっかり眉に唾をつけておく必要があるのかもしれない。(もちろん著者を疑っているのではなく、自分自身の姿勢として)。

【研究のための備忘録】中世の教会の状態と印刷術
 そんなわけで新書ということもあって、論文や研究書の類ではズバリと言えず、言葉の定義や歴史的社会的背景を注意深く整理した上で奥歯にものが挟まったような言い方をせざるを得ないような論点を、端的に言葉にしてくれている。ありがたい。
 まず、宗教改革以前(というか「印刷術」以前)の教会の状態を簡潔に説明してくれている本は、実は意外にあまりない。

「また人々は、教会で聖書やキリスト教の教えについての解き明かしを受けていたわけではない。たしかに礼拝に出かけたが、そこでの儀式は、すでに述べた通りラテン語で執り行われていた。一般の人々には何が行われているのかわからない。もちろん人々の手に高価な聖書があるわけではない。仮にあったとしても、聖書はラテン語で書かれているので理解できなかった。」p.28

 こういう印刷術前の状況は、「教育」を考える上でも極めて重要だ。たとえば印刷されたテキストそのものが存在しない場合、今日と比較して「朗読」とか「暗誦」という営み、あるいは「声」というメディアの重要性が格段に上がっていく。そういう状況をどれくらいリアルに思い描くことができるか。
 で、現代我々がイメージする「教育」は、「文字」というメディアが決定的に重要な意味を持ったことを背景に成立している。もちろん印刷術の発明が背景にある。ルターの見解が急速に広がったのも、印刷術の効果だ。

「ルターの提言は、当時としては異例の早さでドイツ中に広まった。(中略)この当時は、版権があったわけではないから、ヨーロッパ各地で影響力を持つようになっていた印刷所や印刷職人が大変な勢いで提題の複製を開始した。」p.45
「いわゆる宗教改革と呼ばれた運動が、すでに述べた通り出版・印刷革命によって支えられていたことはよく知られている。ルターはその印刷技術による被害者であるとともに受益者でもある。」p.49

 これに伴って「聖書」の扱いが大きな問題になる。

「一五二〇年にルターはさまざまな文章でローマの教皇座を批判しているが、その根拠となったのは聖書である。(中略)しかし、すでに触れたようにこの時代の人々のほとんどは聖書が読めなかった。その理由は写本による聖書が高価なため、個人で所有できる値段ではなく、図書館でも盗難防止のために鎖につながれていたほどであったからである。もう一つ、聖書はラテン語訳への聖書がいわば公認された聖書で、知識人以外はそれを自分で読むことはできなかった。
 この問題を解決したのは、一つはグーテンベルクの印刷機である。写本ゆえに高価であった聖書が印刷によって比較的廉価なものとなったからだ。しかしなんと言っても重要なのはルターがのちに行う聖書のドイツ語訳である。(中略)これは画期的なことであった。聖書を一般人も読めるのである。文字が読めなくても朗読してもらえば理解できる。」pp.58-59

 本書では「近代」のメルクマールを人権概念や寛容の精神に求めていて、もちろんまったく問題ないが、一方でメディア論的にはそういう法学・政治学的概念にはまったく関心を示さず、印刷術の発明による「知の流通量増加」が近代化を促した決定的な要因だと理解している。「教育」においても、印刷されて同一性を完璧に担保されたテキストが大量に流通したことの意味は、極めて大きい。

【研究のための備忘録】フスとの関係
 ルターの主張と宗教改革の先輩ボヘミアのヤン・フスの主張との類似性は明らかだと思うが、教育思想史的にはコメニウスとの関係が気になるところだ。フス派だったコメニウスにはどの程度ルター(あるいはプロテスタンティズム)の影響があるのか。本書で説明される「リベラリズムとしてのプロテスタンティズム」の説明を踏まえると、コメニウスの主張にも反映していないわけがないようにも思える。(先行研究では、薔薇十字など神秘主義的な汎知学との親和性が強調されているし、そうなのだろう。)

「エックは、ルターがフスの考えを一部でも支持して、フスは正しかったと言ってくれれば、それでこの二人は同罪だと指摘すべく準備していたのだ。エックは事前にルターの考えを精査し、ルターとフスの考えの類似性を感じ取っており、また内容それ自体で勝負しようとしているルターを陥れるとしたら、この点だと確信していたのである。」p.54

【研究のための備忘録】中世と近代
 で、歴史学的な問題は「中世と近代の境界線」だ。はたして「宗教改革」は中世を終わらせて近代を開始したのか。本書は懐疑的だ。

「トレルチの有名な命題は、「宗教改革は中世に属する」というものである。ルター派もジュネーブのカルヴァンの改革もそれは基本的に中世に属し、「宗教改革」という言い方にもかかわらず、教会の制度に関しては社会史的に見ればカトリックとそれほど変わらないのだという。」p.107
「近代世界の成立との関連で論じられ、近代のさまざまな自由思想、人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与した、あるいはその担い手となったと言われているのは、カトリックやルター派、カルヴィニズムなど政治システムと結びついた教会にいじめ抜かれ、排除され、迫害を受けてきたさまざまな洗礼主義、そして神秘主義的スピリチュアリスムス、人文主義的な神学者であったとするのがトレルチの主張である。」pp.108-109

 ということで、本書は中世の終わりをさらに後の時代に設定している。それ自体は筋が通っていて、なるほどと思う。とはいえ、メディア論的に印刷術の発明をメルクマールに設定すると、いわゆる「宗教改革」は派生的な出来事として「知の爆発的増加」の波に呑み込まれることになる。このあたりは、エラスムス等人文主義者の影響を加味して具体的に考えなければいけないところだ。

【研究のための備忘録】市場主義と学校
 教会の市場化・自由化・民営化を、学校システムと絡めて論じているところが興味深かった。

「「古プロテスタンティズム」の場合には、国家、あるいは一つの政治的支配制度の権力者による宗教史上の独占状態を前提としているのに対して、「新プロテスタンティズム」は宗教市場の民営化や自由化を前提としているという点である。」p.112
「それ(古プロテスタンティズム:引用者)はたとえて言うならば、公立小学校の学校区と似ているかもしれない。」p.113
「その点で新プロテスタンティズムの教会は、社会システムの改革者であり、世界にこれまでとは違った教会の制度だけではなく、社会の仕組みも持ち込むことになった。それは市場における自由な競争というセンスである。その意味では新プロテスタンティズムの人々は、宗教の市場を民営化、自由化した人々であった。」p.117

 現代日本(あるいは世界全体)は、いままさに学校の市場化・自由化・民営化に向けて舵を切っているが、コミュニティ主義からの根強い反対も続いている。なるほど、これはかつて教会の市場化・自由化・民営化のときにも発生していた事態であった。つまり、教会改革の帰結を見れば、学校改革の帰結もある程度予想できるということでもある。

【研究のための備忘録】一と多
 本書の本筋とは関係ないが、「一と多」に関する興味深い言葉があったのでメモしておく。

トレルチ講演原稿の結び「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」p.208

 カトリックの思想家ジャック・マリタンの発言との異同を考えたくなる。

【要約と感想】『エックハルト説教集』

【要約】神は否定の否定であるところの一なるものであり、魂もまた同じです。一なるものの内には、神もわたしもなく、私は神であり、神はわたしです。「神」のない最内奥の光こそ、この世界のすべてを超えた浄福です。

【感想】エックハルト「獣を超え、人を超え、そして神になる。」
信徒「おお、言葉の意味は分からんが、とにかくすごい自信だ!」

【今後の研究のための備忘録】新プラトン主義
 言っている内容の大半は、ほぼ新プラトン主義の主張を素直に繰り返しているだけのように見える。具体的には「一なるもの」に対する強烈な信仰と、それに基づく自己言及的な流出論である。プロティノスやプロクロスを直接参照しているというよりも、アウグスティヌスおよび偽ディオニュシオス・アレオパギテースからの影響なのだろうけれども、プラトンという固有名詞にも直接言及している箇所がある。

「ところで、大いなる事物について語るのを好む偉大なる師プラトンは、この世にはない純粋性について語っている。それはこの世の内にも外にも存在せず、それは時間の内にも、永遠の内にもなく、外も内もないあるものである。このものから、永遠なる父である神は、神のすべての神性の豊かさと深遠とを現し出すのである。これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである。そして父が生むことは、父が内にとどまることであり、父が内にとどまることは父が外に生み出すことである。常にあるのは、それ自身の内で湧き出ずる一なるものである。「われ(ego)」という言葉は、その一性における神だけに固有な言葉である。「汝ら(vos)」という言葉は、「一性の内で汝らは一である」という意味である。「われ」と「汝ら」、この言葉は一性を指し示している。」p.136

 言っている内容は完全に新プラトン主義の主張そのままではあるが、エックハルトの固有性という観点から興味深いのは、「われ(ego)」および「汝ら(vos)」に対する言及だ。真に主語になることができるのは「神」のみという理屈は古代哲学にも見られるものの、二人称複数型である「汝ら」を一性のうちに捉えるのはユニークな見解と思っていいのか、あるいはこれにも先行例があるのか。そしてこの場合の「汝ら」の具体的な中身は、キリストも共有した「人性=人間の本質」ということになる。「人性」は一つであって、それは私も持ち、あなたも持ち、あるいはその他の誰も彼もが持ち、キリストも持つという、人間すべてに共有のものだ。人間すべてに共有する本質だから、「汝ら」というふうに二人称複数型になる。問題は、この「人性=人間の本質」の共有というアイデアを突きつめていったとき、さて、「人間の平等」を前提に成り立つ近代人権思想に行きつくのかどうか、というところだ。

【今後の研究のための備忘録】神を超える人間中心主義の萌芽
 エックハルトが死後に異端宣告を受けたことは解説でも触れているところで、中身を読んでみると、確かに異端宣告を受けるだろうという、大胆不敵な理屈が並んでいる。なかでも、神がいらないとか、神を超えるという理屈は、かなり強烈だ。

「もしわたしがそう望んだのならば、わたしもすべてのものも存在しなかったであろうし、わたしがなければ、「神」もまたなかったであろう。神が「神」であることの原因はわたしなのである。もしわたしがなかったならば、神は「神」でなかったであろう。」p.173

 このようなまさに神をも畏れぬ物言いは、「わたし」というものの特権性に対する洞察に由来するように読める。「人性=人間の本質」は他人(あるいはキリスト)と共有できるが、「わたしであること」は共有できない。

「わたしがひとりの人間であるということ、そのことは他の人間もまた同様であり、わたしが見たり聞いたり、食べたり飲んだりすること、これもまた動物でもなすことである。しかしわたしであること、このことはわたし以外のだれにも属すことはない。どんな人にも、天使にも、わたしが神と一である場合以外には、神にもこのことは属すことはないのである。それはひとつの純粋さでありひとつの一性である。」p.134

 おそらくエックハルトが「魂」と呼ぶものと「神」との類似性も、この共約不可能な「わたしの特権性・唯一性」に由来する。エックハルトは、「わたし」というものが、他の何ものによっても代替の効かない世界で唯一の何かであるということに対して、強烈な霊感、それこそ「神」の拠って立つところを見ている。この「わたしがわたしである」ことの<唯一性・特権性>(そしてこれが「魂」と呼ばれている何かの根底)が「神が神である」ことの<唯一性・特権性>と同じだということを、エックハルトは繰り返し繰り返し強調する。勢い余って、「わたしがわたしである」という悟りに到った場合、もはや神は必要ないというようなことを言い始める。それはカトリックの論理から言えば、明らかに被造物である分を超えた畏れ多い主張で、異端とされるのも仕方あるまい。が、神を不必要とするエックハルトの異端的見解は、近代人権思想の根底にある「人間の尊厳」(神がいなくても世界が成り立つための根拠)まで、もう一歩のところまで来ているのではないか。

「神が魂の単一なる光(知性)の内で働くただひとつのわざは、全世界よりもすばらしいものであり、神がこれまでにあらゆる被造物の内で働いたすべてのことよりも神の気に入っているものなのである。」p.152

 この魂の働きは、人類に共通の二人称複数である「人性」に基づく。だとすれば、エックハルトが「全世界よりも素晴らしい」と褒め称えているものは、端的には「人間の本質」だということになる。「人間の本質が全世界よりも素晴らしい」という見解は、古代哲学には見当たらない。古代哲学において人間とは、神の前では吹けば飛ぶ塵の如き取るに足らないものにすぎず、だからこそ謙虚になるための教説(ストア派など)が意味を持った。しかしエックハルトは、人間の本質が「全世界よりも素晴らしい」と言う。この新しい感覚は、キリスト教を背景として生じたと考えるべきなのか、あるいはエックハルトの生きた中世の社会経済的な背景が決定的な要因とみるべきところか、あるいはエックハルトだけオカシイのか。しかしこれが近代に入ってからはより広い範囲で聞かれる見解になることも、確かなのだ。果たして、神を必要としなくなった近代の「人間中心主義」に、エックハルトはどの程度踏み込んでいるのか。

【今後の研究のための備忘録】否定神学
 ちなみに否定神学に関する公式見解に満ちあふれている本だった。否定神学とは何かを説明する羽目に陥ったときは、ここから引用しよう。

「ある師は、一とは否定の否定であると語る。わたしが、神は善なるものであると言えば、それは神に何かを付け加えることになる。これに対して、一は否定の否定であり、否認の否認である。「一」とは何を意味するものであろうか。一とは何ものもそれに付け加えられないようなものを意味するのである。魂は、何も付け加えられていない、また何も考え足されていない、それ自身の内で純化されている、神性をつかむのである。一とは否定の否定である。すべての被造物はみずからに否定をたずさえている。つまりある被造物であることは別の被造物であることを否定するのである。ある天使は、別の天使であることを否定する。神はしかしながら、否定の否定である。神は一であり他の一切のものを否定する。なぜならば神の外には何もないからである。一切の被造物は神の内にあり、そして神の固有の神性である。これがわたしがさきに豊かさといった意味である。神は全神性の一なる父である。わたしが一なる神性というのは、そこではいまだ何ものも流れ出さず、何ものも触れず、思惟されることもないからである。わたしが神の何かを否認するとすればそのことにおいて――たとえばわたしが神の善を否認するならば、本当はもちろんわたしは神のいかなるものも否認することはできないのだが――つまり、わたしが神の何かを否認すれば、そのことにおいて、わたしは神ではない何かをつかむこととなるのである。ところでまさにこのなにかが捨て去られねばならないのである。神は一であり、神は否定の否定なのである。」pp.106-108

【今後の研究のための備忘録】同一性と差異性
 フランス現代思想が、近代の哲学を「同一性の哲学」と批判し、意図的に「差異性」の論理を前面に打ち出したことはよく知られているが、エックハルトもそれを彷彿とさせる一文を遺している。

「区別性は一性に由来する。この区別性とは三位一体における区別性である。一性は区別性である。そして区別性は一性である。区別性が大きければ大きいほど、一性もますます大きくなる。というのもこれはまさに区別なき区別性だからである。もしもそこに千の位格があるとしても、そこにあるのは一性の他の何ものでもないであろう。」p.74

 要点は、「区別」と「区別性」の意味の違いにあるのだろう。「区別」とは端的に区別だが、「区別性」とは「区別の本質」のことだ。「区別」と「区別の本質」では、意味がまったく異なる。エックハルトが「一は区別である」と言ってるわけではなく、「一性は区別性である」と言っていることには注意する必要がある。「一の本質」が「区別の本質」と同じだと言っているわけだ。だから仮に感覚的に「区別」のようなものを認めたとしても、それが本質的に「区別」であるとは限らない。「一」か「区別」かを決めるのは、感覚ではないからだ。たとえばいま目の前にある「眼鏡」を「一」とするかどうかは、感覚で決めることではない。というのは、いま目の前にあるのは「一つの眼鏡」ではなく「2つのレンズ」かもしれないからだ。実際に英語では「glasses」と、複数形で理解している。英語話者は目の前にあるものを「2つ」と認識しているのだ。だとすれば、目の前にあるこれは、「一つの眼鏡」なのか「二つのレンズ」なのか。もうそれは感覚で決めることではない。エックハルトが言う「三位一体における区別性」とは、そういう事態を解釈しようとするときに生じる言葉だ。何かが「一」であるかないかを決めるのは、感覚ではなく、「一性」および「区別性」という<本質>であり、それを見極めることこそ「知性」の役割なのだ。
 で、古代からの西洋哲学は確かに「同一性」を土台にして議論を進めて成果を挙げてきた。しかしエックハルトが言うように「一性は区別性」であるのなら、「区別性」を根拠にして議論を展開したらどうなるか。そしてそれは東洋的なセンスが伝統的に表現してきたことなのかもしれないし、「無」とか「空」とか「非連続」とかの哲学が言いたいことなのかもしれない。

『エックハルト説教集』田島照久編訳、岩波文庫1990年

【要約と感想】ボエティウス『哲学の慰め』

【要約】著者ボエティウスは、無実の罪を着せられて処刑されることとなり、牢屋の中でこの世の不条理に絶望しています。そこに「哲学」が現れて、世界は神の摂理で成り立っていることを教え、彼は不幸どころではなく、本当は至福であることを諭そうとします。死を目前に控えながら、「本当の幸福」とは何かに目を開いていきます。

【感想】もうすぐ処刑されて命を落とすことが確実な人間が「論理的に考えれば私は幸福だ」という内容を淡々と書き連ねている本で、そういう状況を思い浮かべると、類書が見当たらないものすごい迫力の本なのだった。同じような前例としてソクラテスという偉大な人物の処刑死もあるにはあるものの、ソクラテス刑死の様子を描いた『パイドン』は長生きするプラトンの手になる書物であって、実際に処刑される当の本人が死を目前にしながら書いている本書とは当事者具合がまるで異なる。本書が内容的に区切りの良くないところでプッツリ終わっているのも、ああ、ここまで書いたところで連行されて処刑されたんだなと、実に生々しいのであった。

 内容としては、『パイドン』の他にもプラトンの影響を顕著に感じる。善人が苦しむ一方で悪人が栄華を誇るのは何故かというテーマは、『国家』序盤で扱われているものだ。またさらに「一」に対する信仰は、プロティノス等新プラトン主義の影響が色濃いように読める。自由意志と決定論に関する問題については、両方が両立すると主張するのはストア派的か懐疑主義的か。いちおうアウグスティヌスもそういう立場ではあるが。ともかく全体的には、あまりキリスト教的には読めないような印象を受ける。
 まあそういう観点からすればオリジナリティや独創性というものを感じることはないのだが、本が書かれた状況が状況だけに、むしろ実践的な説得力の高さは半端ないのだった。死に臨んだ著者の生き様そのものを含みこむ形で、本書特有の迫力が立ち上がってくる。

【個人的な研究のための備忘録】
 「一」に関する記述サンプルをたくさん得た。まあ、内容そのものは新プラトン主義が到達した地点を越えてくることはないのだが、古代思想の到達点を端的に示しているという点で参照する意味があるように思う。

「だが、理由は極めて明白だ。すなはち、その本性上単一的で不可分的なものを人間が誤つて分割し、かくて、真実なもの・完全なものを、偽なもの・不完全なものに変へてしまふのだ。」p.113
「では、その本性上一にして単一なるものが、人間の斜視に依つて、部分に分けられてゐるのだ。そして人間は、もともと部分のないものについて部分を得ようと努力してゐるのであつてみれば、全然存在しないその部分は得られる筈もないし、全く得ようと力めないところのその全体も亦得られる筈がないのである。」p.115

「多くの人々に依つて追求される諸物が真の完全な善でない所以は、それらのものが相互に異つてゐるからであるといふこと、つまりそれらの各々は、互に他のものを欠くが故に充実した・完全な善を与へることが出来ないのだといふことを。更にまたこれらが、いはば一形相・一作用にまで結合される時、例へば満足が同時に勢力であり、尊敬であり、名誉であり、愉快である時には真の善となるが、之に反して、これらすべてがにして同一物でないやうでは、それらは願はしいものの中に数へ入れられる所以の何者をも持たぬといふことを。」p.131
「では、分離しては決して善でない諸物が、たり始めると善になるのだ。それならこれらはたることの獲得に依つて善となるわけではなからうか。」p.131
「それではお前は同様に、たること(unum)と善とは同一であるといふことをも認めなくてはならない。本性上同じ結果をもたらすものは、同じ実体を持つわけだから。」p.132

「存在する一切は、たる限りに於て存続し・持続するが、ひとたびたるを失ふや滅亡し・崩壊するといふことを知つてゐるか。」
「どうして?」
「それは諸生物に就いて考へて見るとわかる、」と彼女は言つた、「すなはち魂と身体とがに結合しそしてたるに留まる限り、それは生物と名づけられる。だが、両部の分離に依つてこのたることが崩壊するや、それは明かに滅亡し、もはや生物でなくなつてしまふ。身体そのものもまた、それが各部分の結合に依つての形相を保持する限り人間の外形を呈してゐるが、しかし、身体の各部分が分裂し・離散してそのたることが壊されるや、今まであつたところのものは無くなつてしまう。これと同様に、その外の諸物をひとわたり観察してみるに、如何なる事物も、それがたる間は存続したるをやめると滅びるといふことが疑ひもなく明白になるのであらう。」pp.132-133

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」p.135
「一切のものはたるを欲する」
「然るに、我々の示したところに依ればそのものが善である。」
「それでは、一切の事物は善を求める。」p.136

 プラトンやプロティノスが抽象的に表現していた思想内容が、本書だとかなり具体的な記述に落とし込まれて分かりやすくなっているような気がする。中世末までよく読まれていたというのも、なんとなく分かる気がする。

【要検討事項】カトリック教義との関連
 中身はキリスト教っぽくないと思ったのだが、しかしボエティウス(480-525)の生きた時代が、西ローマ帝国滅亡(西暦476年)直後のゲルマン人東ゴート族支配の時期で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と国家的にも教会的にも対抗していたことを考え合わせると、当然なのかもしれない。なにしろ、公会議が立て続けに行われた時期で、三位一体やイエスの神性に対する教義そのものが定まっていない。ちなみにフランク人メロビング朝のクローヴィスがカトリックに改宗したのが西暦508年で、カロリング朝カール戴冠が西暦800年。西ローマ教会(カトリック)は、完全にゲルマン人に乗り換えると割り切るまでは、やはり東ローマ(ビザンツ)教会との協調関係を模索せざるを得ない。西ローマ教会と東ローマ教会が教義の面で対立していた段階では、東ゴートとしては西ローマ教会と協力する意義が大いにある。ボエティウスもラヴェンナの東ゴート宮廷で重きをなしていだだろう。しかし西ローマ教会が東ローマ教会に接近すると、東ゴートとしては西ローマ教会を疑いの目で見ざるを得なくなる。ローマ貴族の末裔であったボエティウスの身柄も危なくなる。で、現在私たちがカトリックの教義と思っているもの(三位一体やキリストの神性)は、度重なる公会議の過程で、東ローマ教会に馴染みやすい教義(ネストリウス派、キリスト単性説)と対決しながら鍛え上げられてきたものだ。で、西ローマ教会が東ローマ教会と仲が良かったということは、逆に言えば今わたしたちがカトリックの真正教義と思っているものがないがしろにされていたということでもある。そして、西ローマ教会がネストリウス派や単性説を批判してカトリック特有の理論を打ち出すと、今度は東ローマ帝国との仲が険悪になる。で、ボエティウスが東ゴートに睨まれたということは、西ローマ教会と東ローマ教会が仲が良くなったということで、つまり教義的にはカトリック特有の考えがないがしろにされるということになり、『哲学の慰め』にカトリックの匂いがしないことにも説明がつく。さて、はたして。

ボエティウス『哲学の慰め』畠中尚志訳、岩波文庫、1938年

【要約と感想】富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』

【要約】アウグスティヌスは、近代的な意味での「個」の思想が生まれた出発点です。人は、伝統的な共同体から切り離されたとき、はじめて「私とは何か?」という問いに直面します。そしてアウグスティヌスが活躍したローマ帝政末期とは、まさにそういう時代でした。アウグスティヌスはその問いに対して誠実に真正面から取り組む過程で、神と対面することになりました。それは鏡を通して自分の見慣れない不気味な顔と対面するような奇妙で居心地の悪い体験でありつつ、告白の言葉が自分に折り重ねられて内側に向かい、向かい合わせの鏡に映る顔のように何重にも畳み込まれて重層化します。そして「告白」というものが愛する人に対して行なう行為であるように、「私とは何か?」を問う相手は「愛している者」です。だから誰を愛しているかさえ分かれば答えは分かったも同然かと思いきや、「愛する者」と「私」が合わせ鏡にように無限の問いを生み出して、結局「私とは何か?」という問いに答えが出ることはありません。それが近代的な「個」というものの有り様でしょう。

【感想】アウグスティヌスの概説書ではない。アウグスティヌスを題材として切り口に使っているところまでは間違いないが、言っている内容は徹底的に著者本人の興味関心に即している。アウグスティヌスについて情報を仕入れようと思って本書を繙いた人はおそらくガッカリすることだろう。
 が、個人的には非常におもしろく読んだ。というのは、「一」の思想について示唆に富んでいる本だったからだ。そして「一」とは「無限」であり「特異点」でもあることを改めて確認したのであった。「一」を「一」たらしめるためには何らかの「特異点」が絶対に必要になるのだが、その「特異点」が論理必然的であることは「一」そのものからは証明することができず、論理は「無限」のトートロジーに陥るしかない。そしてそれは合わせ鏡に映る景色のようなもので、論理的に無限であることは分かりつつも、有限な人間の身においては無限を見通すことなどできず、実際に認識できるものは有限回のうちに留まる。その認識が有限回で行き着く限界のそのまた先にあるだろうものがいわゆる「神」というもので、理論的には絶対にあるはずなのに、人間の感覚では捉えることが不可能という。しかしまあ、いわゆる「神」と呼ばれている何かが合わせ鏡に映った像の向こう側にある何かであり、そしていわゆる「私」と呼ばれるべきものが合わせ鏡に映った像を認識している何かだとしても、合わせ鏡の中にいる「それ」が何なのかは結局は分からないのであった。いやはや、合わせ鏡の思考実験と比喩はなかなか優秀なように思う。自分でも使っていこう。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 「一」に関する表現サンプルを得た。ありそうでいて、なかなか多くないので、貴重だ。

「そもそも「一」であること、何であれ、およそ何かが「一つ」であるとはどういうことなのか。そういうふうに考えてみると、キリスト教の教理がどうのといったこととは関係なく、問題はあまりにも身近でありふれているとともに、とても不思議な様相を呈してくる。「一つ」であるということは、自明であるどころか、捉えどころのないものに思えてくる。」p.35
「私というものもまた、そのようなありかたをしている。私の一つの身体には、たとえば二本の腕があり、そこにはそれぞれ五本の指があり、ずっととんで細胞レベルまで行けば、身体全体でおよそ60兆もの細胞があるらしく、その各々がまたそれぞれに多を含む。心のなかにはいつもさまざまな思いが去来し、その思いの一つ一つがまた、さらに微細な感情や思い出や期待や欲望を秘めている。一人の私、一つの心とは言っても、それはとりとめようもないほど多くの多からなっており、にもかかわらず、一人のこの私である。」pp.35-36

 まあ、プラトン『国家』やアリストテレス『形而上学』から問題となっていることで、哲学の本丸ではある。が、実はこの本丸にダイレクトに突っ込んでいくような論述は、あまり多くないように思っていたりする。

 また、「告白」に関する言質も得た。ちなみに個人的には、「告白」に関する論述というと、直ちにフーコー『性の歴史Ⅰ』とか柄谷行人『日本近代文学の起源』を想起するところではある。

「考えてみれば、私たちがふつう「告白」と言えば、罪の告白のこともあるかもしれないが、まず素朴に思い浮かんでくるtのは恋や愛の告白だろう。まして「告白」という言葉が賛美の意味を同時に含みもつとすれば、まさに愛の告白こそがそれにふさわしい。そう言えば、罪の告白もまた、刑事や判事といった人たちにではなく、まずは愛する者に対して行なわれるものなのかもしれない。見ず知らずの、信じてよいのかどうかも分からない人たちにではなく、私が信じ、私を信じてくれている人に対してこそ、告白はもっとも切実で偽りのない告白であるだろう。私が信じている人とは、私が愛している人であり、その人が私を愛してくれていると思うからこそ、その人を信じ、その人の言葉を信じてみることができる。私が私について知るために鏡として引き受ける言葉とは、誰の言葉であってもいいわけではない。それはほかでもない、私が愛し、私を愛してくれる人の言葉である。私が私にとって謎となったとき、私が私を問いかけるその相手は、愛する人である。」pp111-112

 先に内面があって後に告白という行為があるのではなく、先に告白という形式的な行為があって後に内面が作られるという、フーコー=柄谷図式とはどう響き合うか。内面があって愛が生まれるのではなく、愛があって後に内面が生じるということかどうか。

富松保文『アウグスティヌス〈私〉のはじまり』NHK出版、2003年

【要約と感想】苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』

【要約】現代教育学は、相対主義に気圧されて臆病になり、なにが「よい」教育なのかという規範を考えられずにいます。しかし、規範を考察するためのロジックを提出することが教育哲学固有の役割だったはずです。ということで規範学としての教育哲学の課題を真正面から引き受け、「よい」教育とは何かを考えました。フッサール現象学とヘーゲル欲望論を土台として考えれば、教育とは「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」であり、「よい」教育とは<一般福祉>に適う教育であると、断言できます。ちなみに「一般福祉」とは、ルソーの言う「一般意志」に基づいた行政が行なう社会政策の規準です。

【感想】様々なインスピレーションを湧かせてくれる、若々しい本だった。いろいろな刺激を受けた。おもしろく読んだ。とても良かった。

【今後の研究のための個人的備忘録】
とはいえ、思うところは、なくはない。いや、たくさんある。
ということで以下、しつこく批判を連ねていくが、もちろん著者個人に物申すという意図から出たことではなく、私個人の研究をより深めるための備忘録だ、ということはあらかじめ言っておいて。

まず著者が結論として示した「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」という言葉が、教育学研究者として、素直には納得できない。根本的な違和感は、問題の核心である「自由」という言葉にある。著者が「人間は<自由>を欲する存在である、という人間的欲望の本質論」(30頁)と言っている論理が、そもそもおかしい気がするわけだ。というのは、個人的な研究史を踏まえて言わせてもらえば、どうせ同じことを言うなら「各人の<人格>および社会における<人格の相互承認>の<ビルドゥング:陶冶=文化>を通した実質化」と言ったほうが、遙かに良いと思うわけだ。
素人から見たら単に「自由」を「人格」と言い換えているだけのように見えるかもしれないが、研究者視点から言えば、これで論理の最終的な射程距離がそうとう変わってくると思うのだ。というのは、スピノザ風に言わせてもらえれば、「自由」とはそもそも「人格」の<属性>に過ぎないからだ。本質である<実体>は「人格」のほうにある。たとえば、仮に本書の中に登場する「自由」という言葉を全て「人格」に変換しても、まったく違和感なく筋が通るはずだ。「人格」が主で「自由」が属だから、属を主に換えても筋は同じままでよいわけだ。
ちなみに属性である「自由」を軸に論理を組み立てても筋が通るのは、たまたま「教育」というテーマが「人格の属性である自由」と実践的に相性が良かったためだ。しかしおそらく他の一般的議論(たとえば芸術論)に展開した場合には、「自由(属)」よりも「人格(主)」のほうが射程が延びるだろう。実際、著者も「自由」という言葉では論旨を通貫できずに思わず「人格」という言葉を持ち出す個所がある。具体的には196頁で「他者を一個の人格として尊重することを学ぶのである。」と言っている。本書の趣旨から言えば、ここは「自由の相互承認」という表現で貫徹してよかったところだ。しかし「自由」という<属性>では表現しきれない何かを言い表したくなったとき、「人格」という射程距離の長い概念が降りてくる。

さらに哲学的に論理を敷衍すれば、「人格」の本質とは「一」である。たとえば本書に出てくる「自由」を全て「一」と言い換えても、論旨は通じる。つまり「自由」とは「一」の<属性>なわけだ。そしてヘーゲル風に言わせてもらえれば、その場合の「一」とは、「無限定の一」から自己矛盾を経て分離した「対自」と「即自」が再び綜合(アウフヘーベン)されて「再帰的な一」となった現実的な「一」だ。この現実的な「再帰的な一」の諸属性の中に「自由」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった概念が含まれる。つまりヘーゲルの教育論の本質は、私が理解するところでは、「無限定の一(無邪気な子ども)」が、自己自身を限定=否定することで分裂の危機に陥った後、再び綜合(自分自身に戻る)して現実的な「人格」を完成するという弁証法的なプロセスにある。本書はこれを「自由」の欲望論で記述したわけだが、私の研究史的観点から見ればそれは属性的に付随する話に過ぎず、本質的には「弁証法プロセス=再帰的な一」として描くものだと思う。ちなみにこのプロセスは、ルソーが『エミール』でも描いていたような、「なすこと」と「欲すること」の分離と一致の過程ともオーバーラップする。本書でも「なすこと」と「欲すること」のズレと綜合が「自由」の源泉であるようなことが書いてあったが、本来ならそこでは『エミール』が参照されるべきだとも思った。

また、「再帰的な一」は、本書内で繰り返し登場する「生きたいように生きたい」という再帰的なテーゼを、「自由」という<属性>よりもはるかに本質的な次元で言い表す言葉であるように思う。著者は「私たちは皆どうしても、「生きたいように生きたい」、すなわち<自由>を欲してしまうのだ、というヘーゲルの主張」(28頁)と言うが、私の研究史的観点から考えれば、「生きたいように生きたい」という再帰的な命題は、「自由」ではなく、「わたしが<わたし>でありたい」という「再帰的な一=人格」のほうに本質的に結びつくように見える。いや、確かにもちろんそれは「自由」ではあるのだが、「自由」は<属性>として必然的に付随するだけであって、本質は「再帰的な一」にあるわけだ。
そしてこの「再帰的な一」を、人は「人格」と呼ぶ。こうしてみると、実は旧教育基本法第一条に掲げられた「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」という文言は、筆者の言う「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」以外の何物でもない。ということで、私個人としては、「よい」教育とは「旧教育基本法が目指す教育」でファイナルアンサーのような気がしないでもないのだった。

で、こういうふうに「自由」を<属性>と捉えていくと、実は本書138頁や149頁で語られていることは、けっこう危ういように思える。本書で「教育学のアポリア」について何回か言及されるが、私としてもそれらは擬似問題に過ぎないと思う。しかし本当の意味での「教育学のアポリア」とは、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」であるところにあると思っている。このアポリアに対して数々の教育哲学者が膝を屈しているときに、本書はそのアポリアをアポリアとも思わず軽々と飛び越している。それは単に「自由」をパッケージ化したことの副産物ではないかとも思う。
本書は、「自由」についての定義をしっかり試みている(第3章)。それ自体の論旨に特に問題は感じない。しかしいったん「自由」のパッケージ化に成功した後は、「自由」は無謬の審級として威力を振うこととなる。無敵な「自由」の前に、立ちふさがるものはない。いや、まさにそれを成立させるための構成になっているから、論理自体に問題があるのではない。ただ、著者に同意せずに「自由」を無敵だと思っていない立場で読むと、「自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアを「自由のためには許される」という論理でするっと抜けられたとき、「えっ、本当にいいの?」となってしまう。もしもここで論理の底に据える審級が「自由」ではなく「人格=再帰的な一」であったとしたら、筆の運びはまるで違うものになったかもしれない。教育という「自由でないものを強制的に自由にする営み」とは、本当に「再帰的な一」にとって「よい」ことなのか。このあたり、ヘーゲル自身の行論は、なかなか刺激的だったはずだ。具体的にはヘーゲルは次のように言っていた。

「人間はあるべき姿を、本能的にそなえているのではなく、努力によってはじめてそれをかちとることができる。教育されるという子供の権利はこのことに基づいている。家夫長的統治の下にある諸民族もまったく子供と同様であって、この場合人々は、貯蔵庫にあるもので養われ、独立した人間および成人とはみなされない。
だから、子供に奉仕を要求することが許されるのは、奉仕が教育だけを目的とし、教育に関係しうる場合だけである。奉仕が、教育との関係をぬきにして、ただそれだけでなにか重要なことであろうとしてはならない。というのは総じて最も非倫理的な関係は、子供を奴隷にする関係であるからである。
教育の主眼点は躾であり、躾には、たんに感性的で自然的な要素を根絶するために、子供の我意を砕くという意味がある。この場合たんに穏便なやり方で足りると思いこんではならない。なにしろ直接的意志は、とりもなおさず、直接的な出来心と欲望のままに行動するものであって、理由と表象によって行動するものではないからである。
子供に理由を示すということは、その理由を承認するつもりがあるかどうかを子供にまかせることであり、したがっていっさいを子供の気ままな意向にゆだねるということである。そうではなくて、両親が普遍的で本質的なものを成すということ、このことから子供の服従の必要が出てくるのである。おとなになりたいというあこがれを起こさせるところの従属感が子供に養われないならば、生意気とこましゃくれが芽を出してくるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック67頁。

これこそが、「子供の我意を砕く」ための「躾」と「服従」こそが、「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」の具体的内容としてヘーゲルが掲げているものだ。ヘーゲルが描いた教育像を「時代的な制約」ということで済ませて大丈夫なのだろうか。ここはヘーゲルの論理に内在する傾向性が率直に現われている描写ではないのか。ヘーゲルに依拠して教育論を組み立てるのであれば、この「教育とは自由でないものを強制的に自由にする営み」というアポリアに対して、「どうして強制が許されるのか」という論理構成には、相当本気で取りかかる必要があると思う。

まあヘーゲルについては難しいことがたくさんあるので、もっと勉強しなければならない。さしあたって個人的にはヘーゲルよりもカント倫理学のほうが好きなわけだが、ヘーゲルはさすが『精神現象学』という発達理論をものしただけのことはあって、静的なカントと違って自由の生成過程までダイナミックに踏み込んでくるところは、本書の言うとおりだ。確かにヘーゲルを侮ってはならない。
そして同様に(?)、個人的嗜好から言えば、フッサールよりもヴィトゲンシュタインを採りたい。その理由の論理展開は既にこっち(稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』)に記してある。

あと、私も含めて足を掬われるかもしれないと思ったのは、「社会有機体論」に対する構えが薄いというところだ。本書にはルーマンの名前もちらほら出てきているわけだが、スペンサーなりパーソンズなり、社会有機体論的な発想に対しては、そもそも本書の論理は何のインパクトも与えないだろうと思う。なぜなら本書は徹底的な個人主義に拠って構成されていて(本書が扱う共同体主義も所詮は個人主義の枠内にある論理に過ぎない)、社会有機体論者に響く共通要素は何もないからだ。本書はいわゆるライプニッツの「窓のないモナド」的な世界観を無条件に前提しているわけだが、社会有機体論はその前提自体を共有する必要がないのだ。その世界ではもはやフッサールを持ち出すまでもない。ホッブズ以来の「自由」の展開は、実は資本主義の史的展開によって「窓のないモナド」的世界観の無前提的な共有が広がった結果に過ぎないのかもしれない。モナド的でない世界の見方がいくらでも可能だということには、たぶん気をつけなければ、足を掬われる。私個人は著者のモナド的世界観を無前提に受け入れることができるが、しかし著者(あるいは私)の世界観を共有しない「絶対の他者」は、すぐ隣りにいるのだ。社会有機体論は、そういう対象をも射程に入れてくる、なかなか恐ろしい論理ではある。あるいはヘーゲルも社会有機体論に足を一歩踏み入れているとも言える。たとえばヘーゲル自身はこう言っているではないか。

「諸契機のこの観念性は、さながら有機体における生命のようなものである。生命は有機体のどの点にもあるが、すべての点にただ一つの生命があるだけであり、この生命にたいする抵抗はなく、これから離れたときはどの点も死んでいる。いっさいの個々の身分、権力、職業団体の観念性もこれと同じであって、これらのものがどんなに存続し自存しようとする衝動をもっていようと、そうである。これらのものは有機体における胃のようなもので、胃も自分だけの独立の位置を占めてはいるが、しかしそれと同時に揚棄され犠牲にされ、全体に融合されるのである。」
ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシック、305-306頁

この表現は時代性のなせるわざだろうか? 私はヘーゲルの内的な論理から必然的に導き出される本質的な帰結だと思っている。ヘーゲルの論理を突き詰めていくと、著者が依拠する無前提のモナド的世界観を超えて社会有機体論へと変質する一点が、きっとある。そしてそれはおそらく「再帰的な一」という概念そのものに埋めこまれた本質的で回避不可能な特異点であり、その「特異点」を自覚しない限り必ず同じ罠にはまる。特異点に吸い込まれて、メビウスの輪のように、表と思っていたものが知らないうちに裏に変わる。畏れなければならない。

まあいろいろ書いたけれども、あくまでも著者に対して難癖をつけているつもりはなく、私個人の研究を深めるための独り言に近い備忘録だ。なにかしらエキサイトしているように見えるとすれば、著者をやっつけようとしているのではなく、私から対自的に分離した私自身の言葉に対して、それを回収して再び「一」に戻ろうとする内的衝動が原因だ。それは私の心の動きを率直に眺めれば感得できる。それは確かに「自由」でもあるが、より本質的には「再帰的な一」であることを求める私の内なる欲望に基づいているのだ。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社選書メチエ、2011年