「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

【愛知県岡崎市】岡崎城

 岡崎城に行ってきました。2023年の大河ドラマ『どうする家康』で賑わっているかと思いきや、天守閣と三河武士の館は1月上旬段階では工事中でした。

 まあ、高校は岡崎高校に通っていたので、城自体は見慣れたものだったりします。知立から名鉄本線に乗り換えて、進行方向左手に天守閣が見えたら「もうすぐ東岡崎駅だ」という感じ。

 とはいえ、線路を挟んで高校と反対側にあったため、わざわざ岡崎公園まで足を運ぶ機会はそんなになかったような気もします。

 大手門が復元されたのは1993年で、私が岡崎高校を卒業してから2年後のこと。あまり馴染みがない風景だったりします。

 東照公産湯井。まあ、家康が生れた時にはもちろん高石垣や天守閣なんてものはなく、土の城でした。

 本丸はさほど広くないのですが、所狭しと神君絡みの石碑が立ちまくっています。

 まあ、関ヶ原後に家康が作ることになる名古屋城とか丹波篠山城は、真っ直ぐすぎる縄張が人工感バリバリで個人的にはあまり好きではないのですが、岡崎城は自然地形の高低差を活かしたテクニカルな作りになっていて、中世の面影を感じます。空堀もなかなかワイルドです。

 二の丸はけっこう広く、江戸時代はここが政庁の中心だったのでしょう。今は各所に石像が建ちまくっています。この「しかみ像」、昔はなかったような。(2007年に設置のようでした)。現在の歴史学では「しかみ像」みまつわる定説エピソード自体が怪しいとされていますが、そもそも岡崎城ではなく浜松城の出来事ではあります。

 家康像は浜松、静岡、東京などにもたくさんありますが、この銅像はけっこうオーソドックスな印象です。

 本田忠勝の像も。桑名にある像も立派でしたね。

 ちなみに2011年4月に岡崎公園で行なわれた「グレート家康公「葵」武将隊」結成イベントの現場に私もおりまして、その時は東日本大震災直後でテンションが低かったせいもあって「いつまで続くのかな」と思ったものの、メンバー交代を経つつ、現在も頑張っているようです。今後も岡崎を盛り上げていってほしいです。

(2011年4月、2023年1月訪問)

【愛知県名古屋市緑区】桶狭間古戦場はどっちだ

 桶狭間古戦場に行ってきました。とはいえ、桶狭間の合戦は野戦だったため、戦場は大高の東方丘陵地の広範囲に渡り、今川義元が討ち取られた正確な場所などは特定されておりません。有力な場所は2箇所あります。

 まず名鉄中京競馬場前駅を北に出るとすぐ目の前に「桶狭間古戦場伝説地」あります。

 現在は公園として整備されていてのどかなものですが、国指定の史跡になったのは昭和12(1937)年のことで、盧溝橋事件によって本格的に日中戦争が始まった年です。

 江戸時代の石碑が7本ほど立っておりますが、最初の石碑が立ったのは1771年のことで、桶狭間の合戦から200年以上経ってからのことです。どうやら戦死者を葬った塚がこのあたりにたくさんあったようで、今川義元の塚も含まれているという判断だったのでしょう。「桶狭間弔古碑」が立ったのは1809年。
 18世紀半ばから19世紀前半は日本全国各藩で観光地の整備をしていた時期でもあり、東海道の脇に石碑が立ちまくるというのは、学問的な根拠があってのものというよりは、なんとなく観光客目当ての金の匂いがします。江戸から伊勢に向かう東海道の途中だし。

 1771年の一号碑の脇にある塚が「今川治部大輔義元の墓」とされています。が、明治9(1876)年になってから地元民によって作られたものです。

 公園から道を挟んだ向かい側の高徳院には、今川義元公本陣跡の石碑が立っています。

 確かに今川軍本陣がここにあった可能性もありますが、しかし信長公記で義元が本陣を構えていたとされる「おけはざま山」は、ここから西に500mばかり離れたところにあったりします。
 しばらく緩やかな坂を登っていくと、住宅地のど真ん中に「おけはざま山」の石碑が立っていて、「今川義元本陣跡」と記されています。

 つまり500メートルを隔てて「今川義元本陣跡」が2箇所あるわけですが、どっちが正確な位置だったかは分かりません。個人的な感想だけで言うと、中京競馬場前の石碑群には江戸時代の商売の匂いと日中戦争に絡む恣意的な国家意思を感じるのに対し、おけはざま山の方には信長公記という資料的根拠があるので、こちらの方が分が良い気はします。が、まあ信長公記そのものの信憑性の問題もあったりして、断定するのは難しいところです。

 おけはざま山の石碑の周辺は、現在は何の変哲もない坂道の住宅街になっていますが、坂を下りたところにある「桶狭間古戦場公園」に当時の写真を掲載した案内パネルがあります。

 おけはざま山のふもと、いわゆる「田楽坪」と比定される場所が「桶狭間古戦場公園」として整備されています。

 信長と義元の銅像も並び立っています。今川義元はマンガやドラマ等では公家の姿で描かれることが多いのですが、ここでは甲冑をまとっていて格好いいです。

 公園内には今川義元の墓もあります。公園の南側にある長福寺では義元の首を検分したとされています。

 公園内の案内パネルで、桶狭間の戦いの解説をしています。案内パネルの地図の大高城には鵜殿長照が配置されていますが、義元討ち死にの瞬間に大高城に入っていたのは兵糧入れのミッションを終えた徳川家康(当時は松平元康)だったはずです。

 桶狭間の後の家康の行動は大樹寺の記録などでよく分かっていますが、一方、家康に助けられた鵜殿長照が大高城の守備交代後に何をしていたかはまったく分かっていません。
 個人的な感想では、鵜殿軍は桶狭間の合戦に参加せず、大高城から本領の蒲郡上ノ郷城に帰る際には水軍を使って知多半島を回った可能性があると考えています。というのは、もしも陸路で大高から蒲郡に向かうとしたら、桶狭間の前であっても後であっても、地形的に義元の本陣に合流しないはずがないからです。そしてそうなっていたら、桶狭間の合戦そのものに参加していたはずです。しかし鵜殿軍が桶狭間の合戦に参加した様子は見当たりません。だとしたら、桶狭間の合戦の時には、鵜殿軍は伊勢湾に浮かんでいて、義元が大高城に入るのを海から援護しようとしていたはずです。大高の港から北は織田軍が制海権を握っており、今川軍が熱田まで進軍しようと思ったら織田水軍を封鎖しておく必要が絶対にあります。しかし義元は熱田進軍どころか大高城に入る手前、東方3kmほどの田楽坪で討ち取られてしまいました。鵜殿軍はその報を聞いてから、陸に戻ることなく、知多半島を回って本拠地の蒲郡に帰ったのでしょう。これなら桶狭間の合戦に巻き込まれずに無事に帰れます。なんの物的証拠もありませんが、個人的にはそう思います。桶狭間の合戦では名のある今川方の武将が多く討ち取られているのに、要所中の要所であった大高城の守将である鵜殿長照の動向がいっさい不明である上、無傷で本拠地に戻っているのはそうとうのことです。さて、2023年の大河ドラマ『どうする家康』ではこのあたりがどう描かれるでしょうか。(追記:珍しく鵜殿長照がカッコよく描かれていましたが、鵜殿軍が水軍であるという描写はまったくありませんでした。)
(2011.5.2訪問、2023.1.5訪問)

GoogleMAPタイムライン2022

 GoogleMAPがGPSを活用して訪れた地点を勝手に記録するので、2022年にどこに行ったかの総括です。

 関東平野以外では、長野と愛知だけでした。2022年も引き続きCOVID-19を警戒していたから仕方がありません。2020年と2021年とほぼ同じ傾向でした。
 しかし東京だけなら以下のように、行動範囲と頻度が上がっている感じでした。

 まあ、そこそこいろんなところに行っております。打点密度が高いのは、大学周辺、池袋周辺、新宿周辺、渋谷周辺、銀座周辺、上野周辺、といったところです。今年は渋谷周辺をいろいろ開拓したような感じがします。
 2019年暮れに自分が書いた記事を読み直したら、呑気にも「2020年はどういう感じになりますかね。さしあたって、七尾城にリベンジが目標かなあ。」などと書いてあって、この後2年も新型コロナウイルスのために引きこもりを余儀なくされるとは微塵も想像しておりません。まあ、そりゃそうだ、お釈迦様でも気付くめえ。
 さて、2023年はどうなるでしょうか。そろそろ関東平野を越えてうろちょろしたいところ。

【神奈川県鎌倉市】大仏切通し

 中世要塞都市鎌倉に入るための限られた入口、いわゆる「鎌倉七口」のうちの一つ、大仏切通しを突破してきました。北側の「火の見下」というバス停から大仏切通しに通じるハイキングコースに入れるのですが、まるで民家に入っていくかのような佇まいで、本当にこの先に進んで良いのか少々不安を覚えつつ、しばらく行くと鬱蒼とした森に出ます。数メートル手前が住宅街だったとは信じられない光景です。

 真夏だったこともあって、コースに被さるように草が生い茂っており、短パンやスカートなどで生足を出していると酷い目に遭いそうです。夏でも長ズボンでチャレンジすることをお勧めします。
 急な上り坂の下側に、案内パネルが設置されています。

 鎌倉攻めでは激戦地になったとのことですが、いや、ここは突破できないでしょう。ものすごい要衝です。

 坂を登り切ると、「切通し」として一番有名な光景が眼前に飛び込んできます。

 いつもテレビや雑誌で見る景色です。実際に見ると、とても素敵。
 そして、この先ちょっと行ったところが数日前の雨でぬかるんでいて、通行もままならない状態になっていました。鎌倉を攻めるのは、本格的に大変そうです。

 しばらく、まさに「切通し」っぽい道が続きます。この道の上で待ち伏せされて弓の雨を注がれたら、ひとたまりもありません。10回くらい死にます。
 まさに「切通し」な道を抜けると平坦な山道が続きますが、道の南側は崖(崖下は藤沢に向かう道路)になっており、谷津に降りるのも大変そうです。

 しばらく行くと源氏山(北東の方)に向かうハイキングコースの分かれ道が現れますが、野草に覆われていてまともに進める感じがしません。このまま南下して鎌倉大仏を目指します。

 ハイキングコースの出口。トンネルの右側の階段を上がっていくと大仏切通しに向かう山道に入ります。大仏側から行くとこの階段からスタートであまり風情がないし、切通しの光景が眼前に飛び込んでくるスペクタクル感も薄いので、大仏切通しにアタックするなら北西側の「火の見下」(鎌倉駅からバスで一本)から向かうのが断然お勧めです。

 さらに少し南下すると鎌倉大仏が鎮座しておりますが、大仏坂下バス停の真ん前にオープンしたばかりの隠れ家的な喫茶店があって、休憩がてらにふらっと入ったらなかなか居心地が良かったのでした。大仏切通しハイキングで疲れたら、ここで休憩がお勧め。

 鎌倉大仏には数年ぶりに訪れましたが、コロナのせいで中に入ることは禁止となっておりました。残念。
(2022年8/26訪問)