「日々随想」カテゴリーアーカイブ

【感想】青年劇場「きみはいくさに征ったけれど」

青年劇場の演劇「きみはいくさに征ったけれど」を観てきました。とても良かったです。

タイトルにある「いくさ」の話がテーマの演劇と思い込んで劇場に入ったけれども、実際のテーマは、現代の若者が抱える様々な葛藤でした。家族関係や学校や進路の問題に直面して「生きる意味」について悩み、多様な人間関係の中で成長していく若者の姿が、真正面から描かれていました。

教育学に関わる者としては、「いじめ」の描かれかたにも注意を惹かれました。主人公の若者は、いじめに遭っていることを家族に訴えることができないのですが、その描かれかたが繊細で丁寧であったように思います。他人の心を思いやる力があり、相手の立場になって考えることができる人間だからこそ、いじめに遭っていることを打ち明けられないという。勇気がないとか、そういう問題じゃないんですね。周りの大人がどうサポートしてあげられるかが極めて重要であるように思いました。

で、周りの大人の代表である先生の描かれ方には、なかなか切ないものがありました。最初に出てきたときは、形式主義的で権威主義的な、単にテンプレの嫌な奴という感じでした。が、中盤以降では血の通った人間として描かれており、見終わった後となっては、いちばん意外なキャラクターとして印象に残りました。先生の人格が丁寧に描かれていたからこそ、主人公の優しさも説得力あるものになっていたように思います。
情熱と理想に溢れていた彼でしたが、臨時任用を6年も続けている間、だんだん知らず知らずのうちに熱意が削れていき、最終的にはいじめを見逃す事なかれ的な対応に終わります。彼本人の資質や能力の問題ではなく、本来持っていたはずの情熱と理想を削り落としてしまうシステムの問題だったわけです。彼が臨時任用を6年も続けているという設定を鑑みて、情熱と理想が削り落とされていく過程がリアルに分かってしまうだけに、とても切ない思いで観ていました。彼が単なる悪者で終わらず、立ち直るきっかけを掴むことができて、本当に良かったです。

幽霊として登場した詩人・竹内浩三のキャラクターは、たいへん魅力的でした。人気があるのもよく分かります。彼のキャラクターが明るくて前向きで、お芝居全体の雰囲気を底から支えてくれるおかげで、深刻になりそうなテーマにも関わらず楽しく観られました。実際に彼の詩を読んでみようと思いました。

見終わった後も、余韻が残るいい演劇でした。ぜひ若い人たちにも観て欲しいと思います。(東京公演自体は明日で終了ですが、各地を回ることになると思います。)

A級順位戦と将棋界の一番長い日

3/2は、将棋の名人戦A級順位戦の最終戦。将棋界の一番長い日でした。
で、衝撃の結果となりました。トップを走っていた豊島八段と久保王将が負け、追っていた3人が全員勝ち、抜け番だった羽生竜王に勝ち星が並んで、史上最大の6人によるプレーオフとなったのです。フィクションでもやらないような胸熱の展開に、びっくりです。
久保王将は終盤でそこそこ指しやすい局面があったように思ったけど、角切りが悪手だったのかな? そこはさすが藤井くんも負かした深浦九段の粘りが凄かったということでしょうか。久保王将が勝っていたら、2002年以来史上2回目の非眼鏡棋士同士での名人戦ということでヒヤヒヤしましたが、まずは阻止されて個人的には良かったです。まあ、まだ久保王将の挑戦の目は残っていますが。
ともかく、6人によるパラマス式プレーオフ、とても楽しみです。個人的には豊島八段の5人抜きが見てみたいけれども、羽生竜王の挑戦になるのも熱い展開です。どうなるにしても、とても楽しみです。

それから、三浦九段の残留と渡辺棋王の降格も印象的でした。三浦九段の攻めを、渡辺棋王が角を上手に使っていったんは切らしたように見えたんですけども。
渡辺棋王は、自分が負けても深浦九段が負ければ残留だったのですが、深浦九段は見事に久保王将に粘りの逆転勝ちを収めたんですね。最終日に三浦九段と渡辺棋王の直接対決が組まれているというのは、なかなかの因縁でした。久保王将と深浦九段も因縁に絡んでいることもあって、なかなか味わい深い結果となりました。

藤井くんの大躍進に始まって、A級順位戦での史上最大のプレーオフになるという、将棋界にとって実にエキサイティングな年度になっております。名人戦がどうなるか、今からとても楽しみです。
やっぱり人間がやるから将棋はおもしろいですね。

日本保育学会「関東地区研究集会」の個人的まとめ

2018年2/11にお茶の水女子大学で行われた日本保育学会「関東地区研究集会」に行ってきました。汐見稔幸先生の講演を聞きましたが、保育だけに限らず、新学習指導要領の背景を理解する上でも有益な内容だったと思うので、私が理解したことを書き留めます。

法令の改定を、世界史的な流れで理解する

研究集会のテーマは、「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」(以下、三法令)の改訂に関してでした。そして汐見先生の話は、会場が期待していたような(?)具体的な保育実践に関わるものではなく、抽象的な理論の話でした。が、抽象的な理論の話でなければならなかった本質的な理由があったと思います。三法令改定の意味は、お上が命令するから逐条解釈するのだという姿勢では理解できず、世界史的な背景を踏まえて理解しなければならないというわけです。

この「世界史的な流れ」というのは、具体的には「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という動きです。この大きな流れを把握しておかないと、三法令の改定の意味がわからないということです。そして、この「20世紀型の教育から21世紀型教育へ」という世界史的動向は、いったん「19世紀型教育から20世紀型教育への転換」を振り返ると、分かりやすくなります。この19世紀型から20世紀型への教育の転換のことを、教育史では「新教育運動」と呼んでいます。

新教育運動:19世紀型教育から20世紀型教育へ

新教育運動を推進した人物として、教科書にはデューイ、キルパトリック、モンテッソーリといった名前が登場します。それぞれ個性的な教育を展開しましたが、古典的な教育とは異なる観点が共通して6点ほど挙げられます。
(1)子ども中心主義:興味関心をベースに
(2)活動主義:なすことによって学ぶ
(3)生活主義:生活の充実を目標とし、生活の中で豊かに学ぶ
(4)ホーリズム:人格全体、特に感情や自我の育ちを重視
(5)性善説・向善説:プロテスタンティズムの子ども観を転換
(6)民主主義の担い手育て:自分で自分を統治する教育

しかしこうした新教育運動の試みは、教養中心で主知主義的な19世紀型教育からは疑惑の目で見られることになります。20世紀の教育は、新教育と詰め込み教育が葛藤する100年となります。

20世紀教育の展開と限界

実際の20世紀の教育は、新教育が目指したものにはなりませんでした。現実には、産業化や工業化に必要な人材を大量に養成する教育となりました。産業至上主義に対応して選抜システムが洗練され、知能指数や学歴が信仰されるようになり、主知主義的で知識中心主義の教育が蔓延し、企業の中で駒として有能に働く能力の育成が追求されることになります。
こうした資本主義に適合する教育に対抗して、マカレンコ等の共産主義的教育が登場しましたが、それは結局は全体を優先する集団主義教育に過ぎませんでした。資本主義教育と共産主義教育の対立は、全体を優先して「個」を犠牲にするという意味では、結局は主知主義内での争いに過ぎませんでした。

しかし、20世紀後半に至り、こうした教育の限界が認識されるようになります。たとえば現在では、民間企業が率先して20世紀型教育を批判しています。20世紀型教育は指示された作業をこなす能力や枠に縛られたノウハウを育てることはできるものの、それ以上の価値を創造する力が弱く、民間から不満が噴出しています。国民の側も、不登校やいじめ、失業問題や環境問題等、教育が機能不全を起こしていることに不満を表明しています。同時に、情報機器の発展等によって学校以外の様々な教育機関が進展し、学校の相対的位置が低下しています。

こうして、20世紀型教育の限界が認識され、21世紀型教育への転換が叫ばれるようになっているわけです。

21世紀を見通したときに出てくる課題

さて、21世紀型教育が必要となるのは、これまでの教育では対応できないような課題に人類が直面しているからです。新たな課題は、主に3つあります。
(1)解決策がまだ見つかっていないが、解決していかないと地球自体がもたないという深刻な問題を解決するための力の養成。
(2)価値観の多様化と地球規模で人々が交流する時代にふさわしい知性の涵養。
(3)AI、ロボット、コンピュータがあらゆる生活に入り込んで情報処理をしてしまう社会での人間らしさの涵養。

これらに加えて、日本特有の課題もあります。
(1)日本の教育は、「個の充実」、特に「主体であること」の自覚と能力育成が弱く、組織の一員になるための教育へと偏っている。
(2)市民になる力の涵養、民主主義の担い手としての自覚とその力の教育の弱く、シティズンシップ教育が不足している。

20世紀教育の限界を突破する方策

こうした限界を突破するために、3つの方策が考えられます。
(1)すでに20世紀初頭に議論し実践してきた新教育運動の知恵からもう一度学び、必要な修正をしながら課題に対応する。
(2)この100年の実践、生活主義を引き継いで発展させる。
(3)シティズンシップ教育など新たな課題に対応する。

方策(1)新教育運動の知恵

倉橋惣三らが世界新教育運動から学び取った知恵を、もう一度振り返ってみると、それらが21世紀的教育が求める「非認知能力」や「社会情動的スキル」と通じていることに気がつきます。新教育運動の人格主義的性格は、感情・意志・主体性等の育てを重視しており、これは21世紀教育が追求する「心情、意欲、態度」とリンクしています。社会情動的スキルという考えには、心理学や社会心理学における情動研究の進展が反映しており、これがアタッチメントの再評価に繋がってきています。これらが、三法令改定における「資質・能力」という概念に反映しています。
三法令が言う「資質・能力」という概念は、倉橋惣三の仕事をしっかり振り返ることで、明確になっていきます。倉橋の仕事を学び直し、引き継いで、必要な修正を施しながら発展させていくことが、21世紀型教育の確立に結びつきます。

方策(2)生活主義の引き継ぎ

生活の中で学ぶという考えを精緻にしたのはデューイで、それを日本に紹介したのは宮原誠一の仕事です。倉橋惣三が言う「生活を、生活で、生活へ」も、この考えに共鳴しています。

「生活」とは英語では「life」ですが、「life」とは「生命」でもあり「日々の営み」でもあり「人生」でもあり、それらを串刺しにした概念です。人間は生活=いのちの営みを充実させることで必要な文化を身につけ、教育はそれを手伝い、ときには少しコントロールし、社会に必要な市民として子供を育てる営みと言えます。

生活主義の根底には、子供は自ら育っていこうとする存在だという子ども観があります。それを宮原は「形成」という独特の言葉で総称しました。一方で「教育」のことを、「形成」への関わりであり、その首尾良い具体化のための援助であると定義しました。現代の日本では、形成を具体化するための援助のことを「環境づくり」と呼んで、環境を通じた教育を目指しています。倉橋惣三が言う「保育の四層構造=自己充実、充実指導、誘導保育、教導保育」も同じことを言っているわけです。

方針(3)シティズンシップ教育

新たな教育課題として特に市民教育が挙げられますが、具体的な実現を目指して導入されたのが総合教育でした。前回の学習指導要領改訂では総合教育が後退したように見えますが、今回の改訂は総合教育の再登場であり、さらに言えば乳幼児期からの開始という特徴があります。乳幼児期教育は、シティズンシップ教育という観点から小学校以降の総合教育と結びついていくことで大きな意義を発揮すると言えます。

総合教育を成功させるためには、教育の3つの層の統合を考えなければいけません。すなわち(1)個別知(2)実践知(3)人格知の統合されたものです。この統合を目指すために必要となるのが、「主体的・対話的で深い学び」というものです。これを単に「教える方法」だけに矮小化せず、「目的」そのものであることを理解する必要があります。

保育学会の役割

というわけで、保育という営みを、生涯にわたる教育という大きな枠の中に積極的に位置づけていくことが重要になってきます。保育とは乳幼児教育学に他なりません。この大きな背景を見失っては、具体的な保育の方針も見えてきません。
こういう観点を得ると、たとえば保育の五領域についても考え直していく必要が見えてきます。たとえば具体的には、ニュージーランドの教育指針「テファリキ」等と比較したとき、日本の五領域には将来の市民を育成していくという視点が弱いのではないかと思われます。生涯にわたる学習という視点が乏しいということでしょう。

学会は、そうしたことを議論していく場です。ラディカルな議論をしていきましょう。

そんなわけで、単に三法令の逐条理解なんかしても大した意味はありません。改訂の背景にある時代の流れを大きな観点から理解していかなくてはいけません。その理解を促進するためには、20世紀の新教育が目指したものを振り返って学び直すことが極めて重要になってくるわけです。

個人的感想

学習指導要領本文には、20世紀初頭の新教育運動について振り返るような記述はまったくありません。あるいは、宮原誠一や倉橋惣三が行った仕事をリスペクトしているような記述もまったくありません。だから、学習指導要領だけ読むと、先哲の仕事をいったいどう考えているのか、何を引き継ぎ何を発展させるかという問題意識があるのかどうか、たいへん不安になるわけです。
が、汐見先生の話を聞く限りでは、先哲の仕事を十分に踏まえ、その重要性を理解した上で、さらに新たな課題を見据えて修正し、学習指導要領なり保育所保育指針が構成されているだろうことが伺えます。逆に言えば、こういう話がなければ、学習指導要領や保育所保育指針が本当に何を目指しているかは見えてこないように思います。そういう意味で、この講演の内容は、逐条解説なんかよりも、はるかに本質的な理解に繋がる内容だったと思います。

(以上、あくまでも私が講演を聴いて理解し考えたことを私の観点からまとめたものであって、誤解があった場合は汐見先生の責任でないことは書き添えておきます。)

A級順位戦とC級2組順位戦

C級2組順位戦で藤井四段が勝ち、C1への昇級を決めました。一期抜けで、すごいなあ。あとは、増田五段も勝って自力昇級の目が復活したので、こちらも注目。

で、世間の耳目はC2に集まっているようだけれども、個人的に興奮しているのは、同日に行われたA級順位戦。なんと豊島八段が負けて、名人挑戦の目が6人に残るという大混戦になったのだった。6人が6勝4敗で並んだら、パラマス方式のプレーオフになるわけですが。豊島八段が6人のパラマス方式プレーオフから5人抜きで挑戦者になるのが、個人的には一番盛り上がる展開だけれども。羽生竜王が名人挑戦というのも胸熱だし。はてさて、どうなるのか、とても楽しみ。

そして気になるのが、A級順位戦の降級者。一人は残念ながら屋敷九段に決まってしまったのだけれども、もう二人の枠が大問題。最終戦に因縁(?)の渡辺棋王-三浦九段の直接対決が組まれていて、負けた方が降級する可能性が極めて高いという、ものすごい緊迫感(降級が決まるかどうかは深浦九段の勝敗にもよる)。

将棋界の一番長い日は、本当に長い一日になりそうです。

朝日新聞の「公立小中、独自配置の教員1万人」記事に対して、教育学者として思うあれこれ

朝日新聞DIGITALの記事で、「公立小中、独自配置の教員1万人 多忙化解消など図る」という記事が配信されたが、強い違和感を抱いたので、思ったことを記す。

教員加配は多忙化解消のためなのか?

記事では、「各教委が国の定数では不十分だと判断し、独自の予算で定数を超える教員を配置している」と言っている。それ自体は事実としても、理由の説明に疑問がある。記事では教員数を増やすのは「教員の多忙化」のためだと言っているが、私はそう聞いていない。私が聞いた理由は、「少人数学級の実現」だったり「特別の配慮を必要とする生徒への対応」だったり「教育困難校対策」だったり「習熟度別指導」の実施だったりした。「多忙化」への対応というのは、最近打ち出された「働き方改革」に伴って出てきた理由だろうが、その前からずっと教員加配は行われてきた。多忙化解消という理由は、ミスリードの可能性が高い。
そして、この記事のミスリードが問題になるのは、事態の本質が見えなくなるからだ。

人件費の国庫負担が3分の1ということ

記事中では、しれっと「人件費も3分の1を国庫で負担している」と書いているが、実はここに問題の焦点があることに触れないといけない。15年ほど前は、国の負担は2分の1だった。残りの2分の1は、各自治体が負担していた。ところが、小泉改革の「三位一体改革」によって、教育的な効果についての議論がほとんどされることもないまま、国の負担が3分の1に切り下げられた。地方の負担が3分の2に増えた。
差し引き6分の1だとバカにしてはいけない。地方財政を最も圧迫しているのは、公教育費なのだ。公教育費負担が6分の1増えると、ただでさえ貧窮していた地方財政を破綻に追い込みかねない額になる。
もちろん、政府もそんなことは承知していて、代わりに「地方交付税交付金を増やす」と約束していた。だから地方は「義務教育費国庫負担が減っても、代わりに交付金が増えるから問題ない」と考えていた。が、ふたを開けてみたら、地方交付金は増えなかった。2000年に総額21.4億円あった地方交付税は、2016年には20.5億円となっている。地方交付税交付金は増えず、義務教育費の補助金が減っただけだった。
が、もちろん政府もそんなことは承知していて、「税源を地方に移す」と約束していた。これが「三位一体」というやつだ。というわけで、2007年から所得税が減り、住民税が増えることとなった。そして地方は「ふるさと納税」をめぐって熾烈な争いを繰り広げ始めた。税源を確保して潤う自治体も出てきた。しかし一方、破綻したり破綻寸前の自治体も出てくることになる。一般的に言って、地方財政は大赤字に追い込まれていく。今日配信の記事「「誰も関心がない」自治体財政で、今何が起きているか」を読むと、複雑な気分になる。

自治体の格差拡大が、義務教育を壊す

簡単にまとめると、小泉改革の結果、金持ちの自治体と貧乏の自治体で、格差がかなり広がった。この貧富の差が教育の質を直撃する。国の決めた定数を超えてさらに教員数を増やすことができるのは、もちろん金持ちの自治体だ。貧乏な自治体は国の補助金を当てにできない以上、教員を増やすことはできない。だから、地方ごとに教育の質に差が出始める。全国一律平等だった日本の義務教育の基盤が崩れつつある。それを見越した裕福な親は、公立学校から脱出して、子どもを私立学校に入れたがるようになる。私立学校に行く裕福な家庭の子供と、公立学校から脱出できない子どもの学力格差が広がっていく。
つまり、教員数の問題は、もともと「教員の多忙化」とかそういうレベルの話ではなく、税金と結びついた制度の問題として把握されなければならないのだ。義務教育の危機として理解されなければならない問題だ。(いま義務教育が持ちこたえているとしたら、様々な圧力を受けながらも公立学校の先生たちが頑張っているおかげだ。それこそ多忙を極めながら)

非正規雇用教員の増加

そして同時に問題なのは、各自治体が単に教員定数を超えて「独自配置」をしているわけではないということだ。実際には、正規教員の数を削って、非常勤や臨時採用といった非正規雇用の数を増やしているに過ぎない場合が多いはずだ。たとえば正規教員を2人雇うお金で非正規教員を3人雇えるという場合、正規を切って非正規にすれば、見かけ上の教員数は一人増えるわけだ。記事では、このカラクリがまったく見えてこない。
確かに、各自治体が教育予算を独自に付け加えて正規雇用を増やしているのであれば、教育の質にとってはとても良いことだろう。しかし実際は、「少人数学級の実現」や「教育困難校対策」や「習熟度別指導」の実施を目指して行われた教員数増加は、だいたい非正規採用枠の増加によってまかなわれた。あるいは、正規教員の給料切り下げによって財源が確保された。馳浩が2009年の参議院文部科学委員会で指摘したとおりだ。(馳浩は、教育の金を確保するために、かなり頑張って仕事をしているように思う)。

問題の本質は、時間ではなく、金

そんなわけで、この問題を取りあげる場合、「時間」に焦点を当てるのは、100%間違っているというわけではないが、問題の本質に目を覆う結果になる恐れが強い。問題の本質は、「金」にある。誰が誰に金を払っているのか、という問題だ。「誰が」については、国と地方の責任のあり方の問題になる。義務教育費国庫負担を3分の1に切り下げたのは、果たして正解だったか。ややもすれば世間は学力低下を「ゆとり教育」のせいにしがちだが、実は「教育に金を出すのを渋った」のが本質的な原因だった可能性を疑っていいのではないか。「誰に」については、正規雇用と非正規雇用の問題になる。非正規雇用の増加とその悲哀の実態は、「教室を覆う格差と貧困」を参照だ。
確かに「教員の多忙化」が解決すべき大きな問題であることに間違いはないが、それは「独自配置1万人」とは別種の問題である可能性が高いわけだ。

 

※1/22追記 同じような趣旨の批判記事がアップされていた。妹尾昌俊「先生の数が多少増えても、学校は忙しいままだ