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【要約と感想】八木雄二『「神」と「わたし」の哲学』

【要約】「普遍論争」を縦軸に、ギリシャ哲学(理性)とキリスト教(信仰)を横軸に、西洋中世哲学の論理を、日本語の考え方との比較を織り交ぜながら概観し、現代日本で研究する意義を主張します。
 中世哲学はしばしば神の存在証明を試みます。そもそも観察や実験によって物事を「客観的」に主体から切り離して第三者に共有できるような普遍的な真理を三人称で表現しようとする科学に対して、哲学は一対一の対話の場面で共有できる「ことば」を吟味することで主観的な真理を一人称で明らかにしようと努めるものです。中世哲学は、三人称の真理に対して、二人称の「神」を前にした一人称の真理を貫こうとする営為です。

【感想】話の流れの中で思いついたことを言いたい時に言うようなスタイルで、同じ話題が何度も繰り返されたり、論証に必要な前提がすっとばされたりするなど、論点がとっちらかって構造化されておらず、蓄積された研究史の中でどういう意味を持つかも意図的にか言及されないので、「だからなんなの?」と言いたくなるような場面は多いが、まあ、西洋中世哲学の基本的知識を持っていれば「ですよね」というような記述にもでくわして、全体的にはおもしろく読める。あまりにも現代人とは異質な中世人の思考を理解しようとする場合、こういう一人称スタイルの哲学書があってもいいのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格=ペルソナ
 とはいえ、やはり「ことば」は共同主観的に吟味させていただく。著者が言う「人格」と私が考えてきた「人格」とは、どうやら別のものを指しているように見える。

「じっさいヨーロッパは、近代以降、キリスト教会の権威から離れて、啓蒙哲学を通じて民衆道徳を実現する社会を模索する方向に舵を切った。近代フランス革命は、教会が求めた聖性を排除して、世俗性をもとめる「啓蒙主義」を哲学にもたらした。そのためヨーロッパは、たとえばすべての人間に「人格(ペルソナ)権」があることは、あくまでも「哲学」が見出した真理であると主張して、それを公共の真理と認める社会を実現した。しかし実際には、「人権の思想」は中世期の「ペルソナ神学」を機縁としている。たしかに近代哲学によって産業社会における民衆にとっての人権の研究が進んだが、人権の思想が生まれた機縁となったのは、あくまでも「聖三位一体」論というキリスト教の神学問題であった」53頁

 著者が他の著書でも主張している論点だが、個人的には強い違和感を持つ。個人的に研究してきたところでは、近代以降の「人権の思想」を中世からルネサンスにかけての哲学に見出すことは難しいと思っている。ポイントは、おそらく中世法学でlex(自然法)とjus(自然権)が分解していく過程にある。ギリシア哲学ではなく、ローマ法学が肝だ。著者も本文中でキケロに何回か言及しているが、基本的に雑魚扱いで、全体的にローマ文化を軽視している。おそらくその認識が根本的な間違いで、キケロの影響は「哲学」ではなく雄弁術も含み込んだ「法学」に色濃く表れるはずだ。たとえばルネサンス期の「人間の尊厳」概念は、哲学ではなく、雄弁術から立ち上がってくる(ピコ・デラ・ミランドラ)。そんなわけで、著者が「人権」や「人格」の概念の源泉を西洋中世哲学に見出そうとするのは、無理筋に見える。いやもちろん、中世法学は中世哲学と未分化に展開して、簡単に分けられるものではないが。

「キリスト教の「神」がもつ「人格性」(ペルソナ性)を理解することは、日本人にとっては特別なことであって、分かって当たり前のことではない。なおのこと、「三つの人格(ペルソナ)をもつ「一つの神」がキリスト教の神である。これらのすべてを理解することは日本人の手に余ることである。つまり日本語では、説明しきれない。(中略)
 まずボエティウスによれば、「ペルソナ」personaの語は、劇で使われる「仮面」を意味するラテン語である。それが神のもつ「人格」を指すことばに転用された。「仮面」とはいえ、「表面」的なことだと受け取ってはならない。じっさい、キリスト教の誕生以前、キケロは、「顔つき」vultusは、その人間の「人格」を表すと考えた。また、アメリカ大統領リンカーンは、四十を過ぎたら自分の顔に責任があると言ったという。この逸話は、「顔つき」と「人格」との間の関連が、ヨーロッパ文化の基層にあることを示している。」204頁

 哲学の世界では言われがちなこと(坂部恵)で著者の創見ではない記述だが、個人的にはもうこの「仮面」に基づく伝統的な説明が無理筋だと思っている。「法的人格」とは、その個人のあらゆる属性(性別・年齢・地位・財産など)に関わらず、ただルールにのっとって法的責任を果たす一個の主体として認識されるべきものだ。そういう「あらゆる属性を剝ぎ取られた一個の主体」を端的に示すのが「仮面」という表象であり、顔つきとは何の関係もないのではないか。ちなみにヘーゲルも「人格」という言葉を属性を抹消された「点」として認識している。

「そして神は、三つのペルソナでありながら、宇宙を創造し、人間を創造した一個の絶対者であると理解された。したがって、事実上、一方で神は「一個の人格」と見なされた。そして宇宙を創造し、人間を監視している神は、多数の国民を支配する国王と同じように、活発に活動し、すべてを支配している一個の「生きた主体」だと見られた。そして以上のように、「神」を人間の「王」(支配者)のように「生きた主体」であると理解することと、「神」は「人格をもつ」と理解することは、通じ合っている。」205頁
「じっさい『プロスロギオン』におけるアンセルムスの神の存在証明は、祈る相手である神を、「一個の人格」として見るのではなく、教会に属する人々の「客観的な対象」と見直すことによって、行われたものであった。つまり「神」を、「科学が対象にする客観的なもの」と見て、その存在を論じたものであった。他方、中世スコラ哲学によって、神の三つのペルソナが研究された。すなわち、三つのペルソナに共通に言われる「ペルソナ」という語が、注意深く吟味された。
 たどりついた結論は、「人格」(ペルソナ)とは、一個の個別的で完全な理性的主体である、という結論である。それは(1)理性的性格(特徴)をもつが、身体的性格(特徴)をもたない。それは(2)個々の主体(実体)であるかぎり、普遍的に対象化されない。そして(3)理性的主体性をもつゆえに、自発的な意志活動をもつ。これは、ボエティウスに始まり、リカルドゥス、トマスを経て、スコトゥスに至るまでの結論だと理解してほしい。
 ところで、自発的意思活動とは、自発的欲求活動であり、それは生命一般に見られる活動である。人間以外の命も、共通的に、個別で主体的な生命活動をもっている。したがって、個々の生命と、人格の違いは、「人格」には「理性」が加わっている、ということがあるだけである。
 また、「完全」であるとは、「正しい」ということである。したがって、「完全な理性」とは、「正しい理性」racta ratioである。そして「正しい理性」とは、「真なることばに即して考える力」である。そして正しい理性で考えて行動する人は、正しい行動をする人である。そして正しい行動を取って生きる人は、良く生きる人であり、徳の有る人である。そしてこのことにおいて最高度に完全であるのが、神の人格である。」209-210頁

 このあたりは常識的な理解のように見える。ただし三位一体と「人格」の関係を深めたのは、西ローマのカトリックではなく、東ローマ(ビザンツ)のギリシア教父だろう(坂口ふみ)。

「ところで、「ことば」によって考える能力は、「ことば」によって、自己の主体を「反省する」ことができる。そして自己の主体を反省することは、自己の存在を「自覚する」ことである。そして正しく自己を自覚する人は、「わたしが行為する」ことを自覚する人であり、それは自分の行為に責任を取る人である。」211頁

 これは稲垣良典が「再帰的な一」として詳細に展開したところだ。

「それゆえにまた、「今ここに生きて在る」ことを「正しいことば」で自覚する「わたし」は、真に「人格」(ペルソナ)と呼ばれるものである。それは「正しい理性」によってしか生じない「わたし」であり、言い換えれば「正しい理性」によってしか自覚されない「わたし」である。したがって、未熟な理性や、間違った「ことば」に沿って考える理性は、真の「人格」を構成できない。また、自己の人格を知ることが出来なければ、その「わたし」は、他者の人格を正しく理解して尊重することもできない。したがって、そのような人は「よく生きる」ことはできない。」211頁

 哲学的にはそう理解されるところが、法学的には「責任主体としての能力を持つ」という基本的な理解になるだろう。だから近代まで、奴隷や女性や子どもは「理性」があるかどうかを吟味されるまでもなく、人格を持たないことになっていた。哲学的理解の前に、法学的現実があるはずだ。「よく生きる」かどうかは、哲学ではなく、法が決める。ソクラテスもそういうふうに生きた。

「現代のわたしたちが「神」を見失っているのは、わたしたちが「真の人格」を「わたし」の内にもたないからである。すなわち、「わたし」を見失って、「みんなで」神に祈ることで安心しているからである。あるいは、「正しいことば」を得て、それに即して考える「正しい理性」をもたないからである。」215頁

 稲垣良典もそう主張する。なぜなら、「人格」という概念自体が「神の存在」を前提にできていると考えるからだ。田中耕太郎も前提としているだろうそういう発想自体が、個人的にはもうナンセンスに思える。

八木雄二『「神」と「わたし」の哲学―キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』春秋社、2021年

【要約と感想】三嶋輝夫『ソクラテスと若者たち』

【要約】ソクラテスが裁判にかけられた際、罪状の一つは若者を堕落させたことでした。実在した4人の若者、クレイトポン、アルキビアデス、アリスティッポス、プラトンの実際の言動を跡付けながら、ソクラテスの影響を考えると、思わせぶりなソクラテスの言葉にまったく問題がないというわけではないものの、仮に彼らが本当に堕落したとしたらもともとの資質によるものであって、全面的にソクラテスのせいにすることはできないでしょう。

【感想】先行研究に丁寧に当たりながら論点を明確化し、参照し得る限りの史料にあたって論理的に妥当な結論を導いていくという、テクストに即した思想史研究として極めてまっとうな行論で、おもしろく読んだ。また教育学という観点からは、ソクラテスが何を考えたかよりも、若者たちが実際にどのような影響を受けたか、のほうが主要な問題となる。そういう観点でもたいへん勉強になった。
 そして、著者は仄めかしてすらいないものの、現代の日本(あるいは世界全体)の滑稽ながらも危機的な言論状況に響き合う内容になっているのは興味深い。既存の価値観や権威が「正論」によってコテンパンに言い負かされるのを見るのは、昔も今も変わらず面白いことらしい。たとえばアルキビアデスなどは、まさに正論によって「はい論破」と既存の権威(ペリクレス)を滅多斬りにして喝采を浴びたが、それは現代SNSで「オールドメディア」を腐す投稿が喝采を浴びる様を想起させる。しかしアルキビアデスは実質的な実力が伴わないまま無責任な発言を続け、最終的には悲惨な末路を辿った。本人だけが滅びるのなら構わないのだが、国全体を巻き込んで破滅してしまったのだから質が悪い。同じように軽率で無責任に他人を巻き込む輩が、残念ながら現代日本にもうようよいるように見える。
 だからプラトンが論駁(エレンコス)技術の使用には年齢制限をかけようと言い出したわけだが、これは現代ではまさにSNSというテクノロジーの利用に対する年齢制限にあたる。それが良いか悪いかはともかくとして、テクノロジーが進歩してコミュニケーションの形は変わっても、対話作法に関する人間の知恵が2400年間進歩しなかったということは確かなのだろう。こうしてソクラテスは何度も処刑されるのだろう。

三嶋輝夫『ソクラテスと若者たち―彼らは堕落させられたか?』春秋社、2021年

【要約と感想】児美川孝一郎『新自由主義教育の40年』

【要約】臨時教育審議会以降の40年にわたる教育改革は一括りで「新自由主義」と呼ばれがちですが、実際には新自由主義という看板でも時期や論者によって中身はまったく違うし、単に批判して切って捨てるだけでは問題は見えてきません。新自由主義は私たちの生活感覚や社会意識に抗いがたい形で忍び込んで根を下ろしているので、自らが拠って立つ戦後教育学の常識を根底から疑うような覚悟を伴う内在的な批判でなければ生産的な問題解決には至りません。正解が見当たらない苦しさの中で、安易に決断したり逃げたりせず、「本来性」から現実を切り捨てるのではなく、身動きが取れない歯がゆい思いをしながらも思考停止に陥らずに堪える粘り強さが今こそ必要なのでしょう。

【感想】モヤモヤしていたことを力強く言語化してくれる本で、とても面白く読んだ。「内なる新自由主義」という観点は、なるほどだ。
 いま80年代後半から90年代前半の教育学の本を読むと、驚くほどに無邪気な「内なる新自由主義」を確認することができる。「個性」とか「自由」とか「選択」という言葉を能天気に使いまくっている。当時はそれが管理主義教育を改革する言葉だと思われていたし、福祉国家批判の背景に支えられてもいた。40年経って、ようやくそれらが「内なる新自由主義」だと可視化できるような知恵がついた。
 現在は各領域でなし崩しに新自由主義化が進行している。教育産業を含む民間企業が公教育に入り込むのに、もう何の違和感もない。保護者や児童生徒の消費者ムーブも当たり前の前提として学校の業務に組み込まれる一方、PTAは滅び始めている。中学受験が日常化して戦後633学校システムが崩壊し、中等教育から複線化が始まっている。テクノロジーに支えられて個別最適化された学びが実現されつつことに伴い、常態化した不登校が自由と選択の論理で解決されていく。高校授業料の無償化が進むのに伴って公立学校の存在感が低下していく。総じて、教育は「個々人のニーズに応じるサービス」へと突き進んでいる。一方で産業の論理に基づく圧力も高まり、個人主義と資本主義の挟み撃ちで「公共=みんなでつくる生活」の領域が痩せ細る。「こども食堂」が全国的に急速に広がった背景には、公共の領域が痩せ細っていることに対する危機感があるのではないかと思う。
 だがしかし私個人で具体的にできることはあまり多くない。本書の言う通り、切って捨てるような批判を垂れ流すのではなく、答えが出ない手詰まり感の状況の中でも粘り強く堪える知恵が大事なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」に関する言質をたくさん得たので、サンプリングしておく。

「通常、こうした人間像は、産業界の労働力要請との関連で「人材」と呼ばれることが多い。そして、近年の教育政策は、教育の政策であるにもかかわらず、「人格の完成」(教育基本法第一条)には言及せず、「人材」という言葉を多用している。ただ、新自由主義が必要とする人間像は、本来、経済(労働市場)における「人材」であるだけでなく、新自由主義と国家の「主体的」な担い手となり、文化的次元でも新自由主義的な社会意識や価値観を体現するような「人間」である」25頁
「第一に、公教育は、Society5.0を実現し、それを担うための人材を育成するという役割を背負い込む。教育基本法第一条にあるように、本来、教育の目的は「人格の形成」であり、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成である。ここでの「形成者」とは、国家・社会の単なる一員ではなく、主権者や市民として国家・社会に能動的に参画し、共同して創り上げていく主体を意味する。それは、けっして特定の形態の社会像(ましてや経済界や産業界)に貢献し、役立つ「人材」のことを指すのではない。にもかかわらず、文科省が、Society5.0関連で最初に公にした報告書が「Society5.0に向けた人材育成―社会が変わる、学びが変わる」(2018年)と題されていたことに象徴されるように、Society5.0下の公教育においては、教育基本法の教育目的である「人格」や「主体」が蔑ろにされ教育の主人公が子どもではなく、社会像(Society5.0)の側へと転態してしまうのである。」292-293頁

 著者は本書で「本来性」を避けると言っているが、教育の目的である「人格」を語るところでは「本来」という言葉を呼び起こすしかなさそうだ。
 一方、「エージェンシー」という概念にも触れている。

「では、こうした点を自覚しつつ、今日のような教育改革の動向に対して、学校現場はどう向きあっていくべきなのだろうか。結局、問われるのは、学校現場における教師(教師集団)の「エージェンシー」なのではないか。
 「エージェンシー」は、OECDの「Education 2030プロジェクト」において注目を集めるようになった概念である。「主体性」と訳されることもあるが、もう少し正確には、「変革を起こすために目標を設定し、振りかえりながら責任ある行動をとる能力」であるとされる。」263頁

 個人的に思うのは、OECDが持ち出してきた「エージェンシー」なる概念が、従来使われてきた「パーソナリティ」という概念をズラすように機能しているということだ。これまでならパーソナリティという言葉が選択されていたような文脈で、エージェンシーという言葉が登場する。エージェンシーという概念は、これまでパーソナリティという概念を軸に組み立てられていた社会そのものを溶かしにかかっているような印象があるが、さてどうだろうか。

児美川孝一郎『新自由主義教育の40年―「生き方コントロール」の未来形』青土社、2024年

【要約と感想】ジャック・アタリ『教育の超・人類史』

【要約】人類は長い間学校ではなく家庭や職場を通じて知識を伝達してきましたが、500年前の印刷術普及と宗教改革によって知識が社会に広がり始め、120年ほど前から学校による知識伝達が当たり前になりました。
 しかし過去の教訓から考えれば、教育によって社会を改善できると考えるのは幻想に過ぎず、さらに現在はテクノロジーの発達によって急速に状況が変わりつつあり、根本的に考え方を改めないと人類は滅びるでしょう。

【感想】著者出身のフランスの事情だけやたら解像度が高く、他の地域についてはスカスカだというツッコミは置いておいて。まずは女性に対する教育と子どもに対する虐待について全時代・全地域に渡って丁寧に目配りしているのは、ものすごく感心した。素晴らしい。逆に、従来の教育通史がこの問題にいかに無関心だったかが浮かび上がる。
 また、過去の教育から引き出される教訓については、教育学を専攻する者からすれば苦々しい話ではあるが、なるほどと思わざるを得ない。理想的な教育を行ったからといって、理想的な社会になるわけではない。教育にはできないことがたくさんある。
 勢い、悲観的なディストピアに説得力が出てくる。そして現実世界の動きを見ていると、悲しいことに、預言が当たりそうな雰囲気が漂っている。
 まあ私がいくら心配したところで現実は変わらないので、まずは自分にできることをできる範囲で丁寧にやっていくしかない。幸いなことに、著者が示す明るい未来の可能性に関わる仕事に、私も参加できそうではあるのだ。

【要確認事項】
 古代を持ち上げて中世を下げている。これは中世を暗黒時代と決めつける古臭い歴史観のようにも思えるが、大丈夫か。

ローマ時代の記述に続き「ところが、教育の普及はまもなく崩壊した(ただし、ユダヤ人社会は除く)。その後、世界で大衆の教育レベルがこの程度にまで回復するのには一五〇〇年以上を要した。」74頁

 一方、商業が発達したオランダやイタリアでは世俗的な教育が発達しているような記述がある。経済史や教育史の専門家はもうちょっと慎重な書き方をしているように思うが、ここまで断定的に言いきって大丈夫か。

「一〇世紀以降、フランドルの港町の商人や貴族は、「子供は純真な存在」と考えるようになり、子供の教育に熱心になった。なぜなら、読み書き算盤の能力を必要とする仕事が急増したからだ。(中略)仕事に忙しい商人は、自分たちの知らないこれらの知識を(将来の従業員に)教える学校を必要とした。つまり、聖職者がラテン語で祈りを唱える小教区学校の出番ではなくなったのだ。」107頁

 印刷術により知識普及の質と量が格段に上がったことはマクルーハン以来の常識ではある。が、中世の書物の価格が「家一軒分」というのはハスキンズが引用する史料に出てくるくらいだと思うのだが、何の根拠があって言っているのか。まあ中世の書物の価格について具体的に言及するものは少ないので、ありがたく参照させていただくが。

印刷術の登場によって「書物の価格は急落した。手書きの本の価格は家一軒分だったが、キケロの著作の印刷版の本の価格は、すぐに教授の一か月分の給料と同じくらいにまで下落した。」137頁

 私の理解では、デューイは『学校と社会』で「人格」という概念を前面に打ち出すような話をしていないが、著者は何を見てそう言っているのか。

「一八九九年、当時のリベラリズムに触発された心理学者ジョン・デューイは『学校と社会』を出版し、シカゴ大学内に実験学校を設立した。デューイの考える学校のおもな役割は、子供が「人格」を養うこと(完全な自己実現に導く習慣と美徳を身に付けること)だった。」300頁

【個人的な研究のための備忘録】学校教育
 教育史では常識に属するが、人類の長い歴史の中で学校教育という形式は例外的だ。常識が示されたテキストということで、いちおうサンプリングしておく。

「社会を機能させるのに必要な知識の伝達は、世界中で何千年もの間、一九世紀中頃までは、おもに学校抜きで、学校外で、さらには学校に反して行われてきた。学ぶ時期は子供時代であり、これは現在も変わらない。学びの場は一般的には家庭であったが、多くの子供が職場で学んでおり、女子は学ぶ機会を持たなかった。学びの場では虐待が横行していた。」19頁
「今日、われわれが「学校」と呼ぶ施設は、各種教会の神官や権力者に仕える高官の養成を除き、ほとんど何の役割も担っていなかった。」75頁

ジャック・アタリ/林昌宏訳『教育の超・人類史』大和書房、2024年

【要約と感想】北村陽子編著『職業教育とジェンダーの比較社会史』

【要約】比較教育社会史研究会のアンソロジーで、19世紀後半~第一次世界大戦の日本・ロシア・イギリス・ドイツにおける、女性と戦争障害者に対する職業教育と就労支援を対象としています。19世紀末の段階では、日本に限らず女性のキャリアとして考えられるものは学校(しかも初等段階)の教員くらいしかありませんでしたが、家庭重視の立場と労働力重視の立場の間で緊張が高まりつつありました。
 戦争障害者に対するケアと配慮は第一次世界大戦以降に喫緊の課題となり、各国で再教育と就労支援が模索され、現代の福祉行政に繋がっていきます。

【感想】研究対象となる時期については私の専門と同じくするが、地域と対象については盲点となっているものばかりで、たいへん勉強になった。というか、王道本流の教育学理論が見てこなかった、見えなかった、見ようとしなかった対象であって、ここを突き詰めていくことで「教育」という概念そのものが溶けていく。あるいは逆に、急激に発達する資本主義と国民主義(まとめると「近代」)に伴う包摂と排除のメカニズムの中で「教育」という概念の輪郭が引かれ、外部に押し出されたものが見えなくなったと考えるところか。
 ともかく、たまには自分の興味関心とは異なる領域の研究成果に触れなければいけないことは間違いないのだった。

北村陽子編著『職業教育とジェンダーの比較社会史―近現代における女性と戦争障害者の就労支援』昭和堂、2025年