「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】『下田歌子と近代日本―良妻賢母論と女子教育の創出』

【要約】下田歌子は戦前の女子教育に極めて大きな貢献をしたにも関わらず、戦後の教育史研究では保守的な良妻賢母主義論者とみなされ、まともな研究対象とならずに忘れられた存在となっていました。しかし近年の歴史研究の成果に基づいて改めて検討してみると、単に保守反動だったわけではなく、近代的な観点から女性の地位向上を目指した良妻賢母主義を掲げていたことが明らかになります。女子教育への貢献と良妻賢母主義の内実を改めて精査することを通じて下田歌子の実像を多面的に明らかにすることを目指したアンソロジーです。

【感想】お城探訪が好きなもので、日本三大山城である岩村城にも14年前に訪れているのだが、城の麓に岩村町偉人十傑として下田歌子を顕彰する石碑と銅像があったことをよく覚えている。アカデミズムは下田歌子を黙殺したけれど、地元はしっかり覚えているのだった。
 そしてご多分に漏れず私も下田歌子については百科事典的な知識と例のゴシップに基づいた先入観しか持っていなかったので、本書はたいへんな勉強になった。おもしろく読んだ。現実主義的な漸進論で足元を固めながら女性の地位を着実に上げていったという印象だ。ラディカルな改革主義者からすれば鼻持ちならない日和見主義ということにもなるのだろうが、現実を変えていくのはこういう実力者なのだろう。見直した。

【個人的な研究のための備忘録】職業婦人
 渡邊辰五郎の研究を進めている関係で、女性の職業的自立に関する記述にはアンテナを張っている。

「良妻賢母主義で知られている下田だが、「女子の教育」にはむしろ、どのような教育によって女子がどのような仕事に就くことが可能になるのかに関心を寄せている様子がうかがえる。」142頁:志渡岡理恵「自立自営への道―『泰西婦女風俗』とイギリスの女子教育

「下田は女性の自立のために手芸教育を推進しようとした。手芸は必ずしも「女らしく」なるためのものではなく、女性たちが近代社会を生き抜く技能として身に着けることを推奨したのである。」229頁
「多くの手芸家たちと同様に下田が最も重視したものは、「裁縫」である。」234頁
「実際に女子教育者として下田が活躍する時代には、紡績も機織も女学生の日常では必要とはされていなかった。「手芸」の内容の変化は下田にとってある種の危機感となり、女性たちが手仕事の技能を失っていくことを憂う文章を残している。」241頁:山崎明子「下田歌子の手芸論―「手芸」による女子の自立を目指して」

 下田歌子が女子教育における裁縫を、単なる嫁入修行としてではなく、生活費を稼ぐ手段として考えていたということ、つまり良妻賢母主義とは異なる「自立のための裁縫教育」が、渡邊辰五郎の専売特許ではなく、女子教育における潮流として存在していたことは頭の片隅に置いておきたい。上流や新中間層では良妻賢母主義が主流だったとしても、中下層においては(あるいは上流や新中間層においても)ただの観念に過ぎなかったのだろう。女性の自立について、観念的な言説レベルではなく、実態として捉える観点と手法が切実に必要だが、これが難しい。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」という言葉も連発されていた。本書の主題とはまったく関係のないところだが、極めて興味深い記述なのでサンプリングしておく。

「そして「賢母良妻主義」に対抗する考えとして、たとえば「人格主義」という考えがあると述べる。この「人格主義」は、「人が人として立ち得る為には、立派なる人格を持つて居らなければならぬ。立派なる人格を備へた人を、男なら紳士と云ひ、女ならば淑女と云ふのである。さすれば、賢母良妻などゝ云ふ狭い事を目的とせずに、夫人として立派なる人格を養成しさへすれば、其の立派な人格を備へた婦人が、社会に立てば立派な淑女と仰がれ、家庭に入れば賢母良妻と称せらるゝのである」と主張するものであるが、下田はこれに対しても、「倫理学の根本原理から出た説で、如何にも広く行き亘つて居る」と、基本的には是としながらも、「実地の上に当てはめると、存外実際の役に立たぬやうな事がありますまいか」と、その内容が具体性に欠けることに厳しい評価を下し(以下略)」220-221頁
「下田は単なる国家主義的イデオロギーとして「賢母良妻」を説いていたわけではない。「人格が十分出来た、気高い立派な人」を育成したい、しかしそうなれと説いたところで、年若い子どもたちは、具体的にどのような人物になればよいかがわからない。だからこそ「賢母」あるいは「良妻」という具体的目標を設定し、それを達成することで、結果的に「人格が十分出来た、気高い立派な人」となることをめざしていたのである。」221頁:伊藤由希子「下田歌子・女子教育の思想可能性」

「このように、下田は賢母良妻主義を「社会の当面の必要から割り出した説」と捉えて、その狭さを指摘し、抽象的で実践性に乏しい人格主義の方がより「包容的」であると認める。その上で、賢母良妻主義と人格主義は、どちらも「完全なる国民としての布陣を作ると云ふ主義と、一致することができるであらう」と述べ、「完全なる国民としての婦人」の育成という観点から、良妻賢母主義と人格主義の折衷・統合を図ろうとするのである。」323頁:広井多鶴子「下田歌子を捉えなおす」

 「人格」という言葉が哲学的・文学的・教育学的には出てこない文脈で使用されており、非常に興味深い。まあ、形式としての人格主義・内容としての良妻賢母主義、といったところだろうが、どちらかが間違っているのではなく、形式と内容が止揚されたところに現実の女子教育がある、ということだろう。この形式と内容の止揚は、教育基本法を制定した田中耕太郎に影響を与えたジャック・マリタンにおいては「形式としての人格・内容としての個性」という表現を与えられるが、下田歌子は実質的には同じことを言っている。
 ただしこういう理解や表現は、「人格」という言葉の中身を少しずつズラしていく背景ともなる。本来の「人格」という言葉は、具体的な姿を与えられることを通じて、意味を変えて(あるいは豊かにして)いったのだろう。

実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所『下田歌子と近代日本―良妻賢母論と女子教育の創出』勁草書房、2021年

【要約と感想】八木雄二『1人称単数の哲学―ソクラテスのように考える』

【要約】科学のように物事を三人称で表現しようと試みる道具的なことばに対して、ソクラテスは世間(第三者)の評価が紛れ込むような欺瞞的な「わたしたち」のことばを使わず、私とあなたの一対一の問答を通じて主体的な真理を見出すため、自分の知覚したことを率直に表現する一人称単数の哲学を貫きました。しかし西洋哲学は、スピノザやカントなど少数の例外を除き、不肖の弟子プラトンからフッサールに至るまでソクラテスの姿勢に反し、三人称の真理を追究してきました。しかし「死」に直面した時、人は必ず「わたし」に引き戻され、「命」に向き合う大切さに気がつくはずです。

【感想】著者が主張するところの「一人称単数」(かけがえのないわたし)のコミュニケーションの重要性については、よく分かるつもりだ。でもそれは、詩や小説やマンガなど、さらには絵や音楽やダンスなどの芸術表現で常に行われていたことではないか、とも思う。そういう営みに目を向けず、あえて哲学の世界でそれを追及しようとする試みにどのような意味があるのか、疑問なしとはしない。思い返してみると、たとえばフランシス・ベーコンは、そのあたりまでしっかり射程に入れて「学問」全体の議論をしている。個人的な知覚(直観)に基づいたコミュニケーションや表現は芸術に任せて、哲学は別の仕事をする、ではいけないのか。一人称単数のコミュニケーションを目指すなら、哲学者ではなく文学者になるのではいけないか。ルネサンス期にピコ・デラ・ミランドラが哲学者でなく雄弁家を目指したように。あるいは言語学的な探求ではいけないのか。バンヴェニストのように。ソクラテスがやっていたことは、「知を愛する」ことであって、哲学ではないのだろう。あるいは、ソクラテスがやっていたことだけを「哲学」と呼びたいのであれば、なるほど、副題が「ソクラテスのように考える」となっていることに合点がいく。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 本書では、著者は現代の学校教育を反ソクラテス的な営みとして引き合いに出してくる。

「わたしたちは、主観的であるもの(たとえば個人的意見)は、客観的であるもの(たとえば知識)によって、置き換えられるべきだと、学校で、人生の初期に教えられる。主観的意見は、主観的である(各人各様である)という理由で、社会においては、ほとんど無意味であると見なされる。」45-46頁
「ソクラテスが裁判で訴えられた問題の一つは、若者の教育問題であった。訴えたメレトスは、人間の教育は広く社会的になされるものだと主張した。さらに、ソクラテスが『弁明』でさまざまに述べているように、町なかで人を呼び止めて始められる彼の問答は、一人を相手にする一対一の問答であった。」46頁
「現代日本の学校教育は、「みなと同じように考える」ことを教える教育である。これは一様な考えを身に付けた一人の教員によって、多数を相手にできる演説教育である。なぜなら、「一様な考え」を教えることは、つねに「同じこと」を「知るべき知識である」と教えることだからである。しかしこの教育では、そのなかでどんなに「個性の尊重」を唱えても、「自分で考えて世界を変える」個性的判断能力は育たない。」180頁
「人間の一生を支える正しい教育は、「自己」に気づくことができる年齢からの正しい「自己教育」から始まる。なぜなら、「わたし」は、自分が他者とは異なる存在であることを意識していなければ、「自分の知覚」を大切にすることはできないからである。そして、自分の知覚を大切にすることが、すでに述べた理由で、「真理を知る」第一歩である。」183頁

 なるほどだ。しかしその程度のことなら200年前にヘルバルトが既に気がついていて、人格の形成と知識の取得を「思想圏の拡大」や「多方の興味」という契機で止揚している。科学的教育学の始祖によれば、客観的な知識の獲得と個性の尊重は、まったく矛盾しないどころか、相互に補完的な関係にある。あるいは古代中国でも、論語が「學びて思はざれば則ち罔し。思ひて學ばざれば則ち殆し」と言っている。知識だけでは個性を失うが、個性だけでは人々を不幸にする。

八木雄二『1人称単数の哲学―ソクラテスのように考える』春秋社、2022年

【要約と感想】八木雄二『「神」と「わたし」の哲学』

【要約】「普遍論争」を縦軸に、ギリシャ哲学(理性)とキリスト教(信仰)を横軸に、西洋中世哲学の論理を、日本語の考え方との比較を織り交ぜながら概観し、現代日本で研究する意義を主張します。
 中世哲学はしばしば神の存在証明を試みます。そもそも観察や実験によって物事を「客観的」に主体から切り離して第三者に共有できるような普遍的な真理を三人称で表現しようとする科学に対して、哲学は一対一の対話の場面で共有できる「ことば」を吟味することで主観的な真理を一人称で明らかにしようと努めるものです。中世哲学は、三人称の真理に対して、二人称の「神」を前にした一人称の真理を貫こうとする営為です。

【感想】話の流れの中で思いついたことを言いたい時に言うようなスタイルで、同じ話題が何度も繰り返されたり、論証に必要な前提がすっとばされたりするなど、論点がとっちらかって構造化されておらず、蓄積された研究史の中でどういう意味を持つかも意図的にか言及されないので、「だからなんなの?」と言いたくなるような場面は多いが、まあ、西洋中世哲学の基本的知識を持っていれば「ですよね」というような記述にもでくわして、全体的にはおもしろく読める。あまりにも現代人とは異質な中世人の思考を理解しようとする場合、こういう一人称スタイルの哲学書があってもいいのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格=ペルソナ
 とはいえ、やはり「ことば」は共同主観的に吟味させていただく。著者が言う「人格」と私が考えてきた「人格」とは、どうやら別のものを指しているように見える。

「じっさいヨーロッパは、近代以降、キリスト教会の権威から離れて、啓蒙哲学を通じて民衆道徳を実現する社会を模索する方向に舵を切った。近代フランス革命は、教会が求めた聖性を排除して、世俗性をもとめる「啓蒙主義」を哲学にもたらした。そのためヨーロッパは、たとえばすべての人間に「人格(ペルソナ)権」があることは、あくまでも「哲学」が見出した真理であると主張して、それを公共の真理と認める社会を実現した。しかし実際には、「人権の思想」は中世期の「ペルソナ神学」を機縁としている。たしかに近代哲学によって産業社会における民衆にとっての人権の研究が進んだが、人権の思想が生まれた機縁となったのは、あくまでも「聖三位一体」論というキリスト教の神学問題であった」53頁

 著者が他の著書でも主張している論点だが、個人的には強い違和感を持つ。個人的に研究してきたところでは、近代以降の「人権の思想」を中世からルネサンスにかけての哲学に見出すことは難しいと思っている。ポイントは、おそらく中世法学でlex(自然法)とjus(自然権)が分解していく過程にある。ギリシア哲学ではなく、ローマ法学が肝だ。著者も本文中でキケロに何回か言及しているが、基本的に雑魚扱いで、全体的にローマ文化を軽視している。おそらくその認識が根本的な間違いで、キケロの影響は「哲学」ではなく雄弁術も含み込んだ「法学」に色濃く表れるはずだ。たとえばルネサンス期の「人間の尊厳」概念は、哲学ではなく、雄弁術から立ち上がってくる(ピコ・デラ・ミランドラ)。そんなわけで、著者が「人権」や「人格」の概念の源泉を西洋中世哲学に見出そうとするのは、無理筋に見える。いやもちろん、中世法学は中世哲学と未分化に展開して、簡単に分けられるものではないが。

「キリスト教の「神」がもつ「人格性」(ペルソナ性)を理解することは、日本人にとっては特別なことであって、分かって当たり前のことではない。なおのこと、「三つの人格(ペルソナ)をもつ「一つの神」がキリスト教の神である。これらのすべてを理解することは日本人の手に余ることである。つまり日本語では、説明しきれない。(中略)
 まずボエティウスによれば、「ペルソナ」personaの語は、劇で使われる「仮面」を意味するラテン語である。それが神のもつ「人格」を指すことばに転用された。「仮面」とはいえ、「表面」的なことだと受け取ってはならない。じっさい、キリスト教の誕生以前、キケロは、「顔つき」vultusは、その人間の「人格」を表すと考えた。また、アメリカ大統領リンカーンは、四十を過ぎたら自分の顔に責任があると言ったという。この逸話は、「顔つき」と「人格」との間の関連が、ヨーロッパ文化の基層にあることを示している。」204頁

 哲学の世界では言われがちなこと(坂部恵)で著者の創見ではない記述だが、個人的にはもうこの「仮面」に基づく伝統的な説明が無理筋だと思っている。「法的人格」とは、その個人のあらゆる属性(性別・年齢・地位・財産など)に関わらず、ただルールにのっとって法的責任を果たす一個の主体として認識されるべきものだ。そういう「あらゆる属性を剝ぎ取られた一個の主体」を端的に示すのが「仮面」という表象であり、顔つきとは何の関係もないのではないか。ちなみにヘーゲルも「人格」という言葉を属性を抹消された「点」として認識している。

「そして神は、三つのペルソナでありながら、宇宙を創造し、人間を創造した一個の絶対者であると理解された。したがって、事実上、一方で神は「一個の人格」と見なされた。そして宇宙を創造し、人間を監視している神は、多数の国民を支配する国王と同じように、活発に活動し、すべてを支配している一個の「生きた主体」だと見られた。そして以上のように、「神」を人間の「王」(支配者)のように「生きた主体」であると理解することと、「神」は「人格をもつ」と理解することは、通じ合っている。」205頁
「じっさい『プロスロギオン』におけるアンセルムスの神の存在証明は、祈る相手である神を、「一個の人格」として見るのではなく、教会に属する人々の「客観的な対象」と見直すことによって、行われたものであった。つまり「神」を、「科学が対象にする客観的なもの」と見て、その存在を論じたものであった。他方、中世スコラ哲学によって、神の三つのペルソナが研究された。すなわち、三つのペルソナに共通に言われる「ペルソナ」という語が、注意深く吟味された。
 たどりついた結論は、「人格」(ペルソナ)とは、一個の個別的で完全な理性的主体である、という結論である。それは(1)理性的性格(特徴)をもつが、身体的性格(特徴)をもたない。それは(2)個々の主体(実体)であるかぎり、普遍的に対象化されない。そして(3)理性的主体性をもつゆえに、自発的な意志活動をもつ。これは、ボエティウスに始まり、リカルドゥス、トマスを経て、スコトゥスに至るまでの結論だと理解してほしい。
 ところで、自発的意思活動とは、自発的欲求活動であり、それは生命一般に見られる活動である。人間以外の命も、共通的に、個別で主体的な生命活動をもっている。したがって、個々の生命と、人格の違いは、「人格」には「理性」が加わっている、ということがあるだけである。
 また、「完全」であるとは、「正しい」ということである。したがって、「完全な理性」とは、「正しい理性」racta ratioである。そして「正しい理性」とは、「真なることばに即して考える力」である。そして正しい理性で考えて行動する人は、正しい行動をする人である。そして正しい行動を取って生きる人は、良く生きる人であり、徳の有る人である。そしてこのことにおいて最高度に完全であるのが、神の人格である。」209-210頁

 このあたりは常識的な理解のように見える。ただし三位一体と「人格」の関係を深めたのは、西ローマのカトリックではなく、東ローマ(ビザンツ)のギリシア教父だろう(坂口ふみ)。

「ところで、「ことば」によって考える能力は、「ことば」によって、自己の主体を「反省する」ことができる。そして自己の主体を反省することは、自己の存在を「自覚する」ことである。そして正しく自己を自覚する人は、「わたしが行為する」ことを自覚する人であり、それは自分の行為に責任を取る人である。」211頁

 これは稲垣良典が「再帰的な一」として詳細に展開したところだ。

「それゆえにまた、「今ここに生きて在る」ことを「正しいことば」で自覚する「わたし」は、真に「人格」(ペルソナ)と呼ばれるものである。それは「正しい理性」によってしか生じない「わたし」であり、言い換えれば「正しい理性」によってしか自覚されない「わたし」である。したがって、未熟な理性や、間違った「ことば」に沿って考える理性は、真の「人格」を構成できない。また、自己の人格を知ることが出来なければ、その「わたし」は、他者の人格を正しく理解して尊重することもできない。したがって、そのような人は「よく生きる」ことはできない。」211頁

 哲学的にはそう理解されるところが、法学的には「責任主体としての能力を持つ」という基本的な理解になるだろう。だから近代まで、奴隷や女性や子どもは「理性」があるかどうかを吟味されるまでもなく、人格を持たないことになっていた。哲学的理解の前に、法学的現実があるはずだ。「よく生きる」かどうかは、哲学ではなく、法が決める。ソクラテスもそういうふうに生きた。

「現代のわたしたちが「神」を見失っているのは、わたしたちが「真の人格」を「わたし」の内にもたないからである。すなわち、「わたし」を見失って、「みんなで」神に祈ることで安心しているからである。あるいは、「正しいことば」を得て、それに即して考える「正しい理性」をもたないからである。」215頁

 稲垣良典もそう主張する。なぜなら、「人格」という概念自体が「神の存在」を前提にできていると考えるからだ。田中耕太郎も前提としているだろうそういう発想自体が、個人的にはもうナンセンスに思える。

八木雄二『「神」と「わたし」の哲学―キリスト教とギリシア哲学が織りなす中世』春秋社、2021年

【要約と感想】三嶋輝夫『ソクラテスと若者たち』

【要約】ソクラテスが裁判にかけられた際、罪状の一つは若者を堕落させたことでした。実在した4人の若者、クレイトポン、アルキビアデス、アリスティッポス、プラトンの実際の言動を跡付けながら、ソクラテスの影響を考えると、思わせぶりなソクラテスの言葉にまったく問題がないというわけではないものの、仮に彼らが本当に堕落したとしたらもともとの資質によるものであって、全面的にソクラテスのせいにすることはできないでしょう。

【感想】先行研究に丁寧に当たりながら論点を明確化し、参照し得る限りの史料にあたって論理的に妥当な結論を導いていくという、テクストに即した思想史研究として極めてまっとうな行論で、おもしろく読んだ。また教育学という観点からは、ソクラテスが何を考えたかよりも、若者たちが実際にどのような影響を受けたか、のほうが主要な問題となる。そういう観点でもたいへん勉強になった。
 そして、著者は仄めかしてすらいないものの、現代の日本(あるいは世界全体)の滑稽ながらも危機的な言論状況に響き合う内容になっているのは興味深い。既存の価値観や権威が「正論」によってコテンパンに言い負かされるのを見るのは、昔も今も変わらず面白いことらしい。たとえばアルキビアデスなどは、まさに正論によって「はい論破」と既存の権威(ペリクレス)を滅多斬りにして喝采を浴びたが、それは現代SNSで「オールドメディア」を腐す投稿が喝采を浴びる様を想起させる。しかしアルキビアデスは実質的な実力が伴わないまま無責任な発言を続け、最終的には悲惨な末路を辿った。本人だけが滅びるのなら構わないのだが、国全体を巻き込んで破滅してしまったのだから質が悪い。同じように軽率で無責任に他人を巻き込む輩が、残念ながら現代日本にもうようよいるように見える。
 だからプラトンが論駁(エレンコス)技術の使用には年齢制限をかけようと言い出したわけだが、これは現代ではまさにSNSというテクノロジーの利用に対する年齢制限にあたる。それが良いか悪いかはともかくとして、テクノロジーが進歩してコミュニケーションの形は変わっても、対話作法に関する人間の知恵が2400年間進歩しなかったということは確かなのだろう。こうしてソクラテスは何度も処刑されるのだろう。

三嶋輝夫『ソクラテスと若者たち―彼らは堕落させられたか?』春秋社、2021年

【要約と感想】児美川孝一郎『新自由主義教育の40年』

【要約】臨時教育審議会以降の40年にわたる教育改革は一括りで「新自由主義」と呼ばれがちですが、実際には新自由主義という看板でも時期や論者によって中身はまったく違うし、単に批判して切って捨てるだけでは問題は見えてきません。新自由主義は私たちの生活感覚や社会意識に抗いがたい形で忍び込んで根を下ろしているので、自らが拠って立つ戦後教育学の常識を根底から疑うような覚悟を伴う内在的な批判でなければ生産的な問題解決には至りません。正解が見当たらない苦しさの中で、安易に決断したり逃げたりせず、「本来性」から現実を切り捨てるのではなく、身動きが取れない歯がゆい思いをしながらも思考停止に陥らずに堪える粘り強さが今こそ必要なのでしょう。

【感想】モヤモヤしていたことを力強く言語化してくれる本で、とても面白く読んだ。「内なる新自由主義」という観点は、なるほどだ。
 いま80年代後半から90年代前半の教育学の本を読むと、驚くほどに無邪気な「内なる新自由主義」を確認することができる。「個性」とか「自由」とか「選択」という言葉を能天気に使いまくっている。当時はそれが管理主義教育を改革する言葉だと思われていたし、福祉国家批判の背景に支えられてもいた。40年経って、ようやくそれらが「内なる新自由主義」だと可視化できるような知恵がついた。
 現在は各領域でなし崩しに新自由主義化が進行している。教育産業を含む民間企業が公教育に入り込むのに、もう何の違和感もない。保護者や児童生徒の消費者ムーブも当たり前の前提として学校の業務に組み込まれる一方、PTAは滅び始めている。中学受験が日常化して戦後633学校システムが崩壊し、中等教育から複線化が始まっている。テクノロジーに支えられて個別最適化された学びが実現されつつことに伴い、常態化した不登校が自由と選択の論理で解決されていく。高校授業料の無償化が進むのに伴って公立学校の存在感が低下していく。総じて、教育は「個々人のニーズに応じるサービス」へと突き進んでいる。一方で産業の論理に基づく圧力も高まり、個人主義と資本主義の挟み撃ちで「公共=みんなでつくる生活」の領域が痩せ細る。「こども食堂」が全国的に急速に広がった背景には、公共の領域が痩せ細っていることに対する危機感があるのではないかと思う。
 だがしかし私個人で具体的にできることはあまり多くない。本書の言う通り、切って捨てるような批判を垂れ流すのではなく、答えが出ない手詰まり感の状況の中でも粘り強く堪える知恵が大事なのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」に関する言質をたくさん得たので、サンプリングしておく。

「通常、こうした人間像は、産業界の労働力要請との関連で「人材」と呼ばれることが多い。そして、近年の教育政策は、教育の政策であるにもかかわらず、「人格の完成」(教育基本法第一条)には言及せず、「人材」という言葉を多用している。ただ、新自由主義が必要とする人間像は、本来、経済(労働市場)における「人材」であるだけでなく、新自由主義と国家の「主体的」な担い手となり、文化的次元でも新自由主義的な社会意識や価値観を体現するような「人間」である」25頁
「第一に、公教育は、Society5.0を実現し、それを担うための人材を育成するという役割を背負い込む。教育基本法第一条にあるように、本来、教育の目的は「人格の形成」であり、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成である。ここでの「形成者」とは、国家・社会の単なる一員ではなく、主権者や市民として国家・社会に能動的に参画し、共同して創り上げていく主体を意味する。それは、けっして特定の形態の社会像(ましてや経済界や産業界)に貢献し、役立つ「人材」のことを指すのではない。にもかかわらず、文科省が、Society5.0関連で最初に公にした報告書が「Society5.0に向けた人材育成―社会が変わる、学びが変わる」(2018年)と題されていたことに象徴されるように、Society5.0下の公教育においては、教育基本法の教育目的である「人格」や「主体」が蔑ろにされ教育の主人公が子どもではなく、社会像(Society5.0)の側へと転態してしまうのである。」292-293頁

 著者は本書で「本来性」を避けると言っているが、教育の目的である「人格」を語るところでは「本来」という言葉を呼び起こすしかなさそうだ。
 一方、「エージェンシー」という概念にも触れている。

「では、こうした点を自覚しつつ、今日のような教育改革の動向に対して、学校現場はどう向きあっていくべきなのだろうか。結局、問われるのは、学校現場における教師(教師集団)の「エージェンシー」なのではないか。
 「エージェンシー」は、OECDの「Education 2030プロジェクト」において注目を集めるようになった概念である。「主体性」と訳されることもあるが、もう少し正確には、「変革を起こすために目標を設定し、振りかえりながら責任ある行動をとる能力」であるとされる。」263頁

 個人的に思うのは、OECDが持ち出してきた「エージェンシー」なる概念が、従来使われてきた「パーソナリティ」という概念をズラすように機能しているということだ。これまでならパーソナリティという言葉が選択されていたような文脈で、エージェンシーという言葉が登場する。エージェンシーという概念は、これまでパーソナリティという概念を軸に組み立てられていた社会そのものを溶かしにかかっているような印象があるが、さてどうだろうか。

児美川孝一郎『新自由主義教育の40年―「生き方コントロール」の未来形』青土社、2024年