「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国の最期』

【要約】1204年の十字軍による劫掠以降に力を失っていたビザンツ帝国がいよいよ1453年に滅びるまでの最期の半世紀を中心に扱っています。ビザンツ帝国とオスマン帝国の関係は、現在の国民国家の枠組みで捉えると本質を見誤り、妙な感傷にふけったり、逆に一方的に断罪することになります。滅亡寸前だというのに内部抗争や駆け引きに明け暮れ、あまつさえ平気で敵と通じるパライオロゴス朝の人々の醜い選択や行動は、現在の感覚からは愚かに見えますが、当時の中世的な背景を踏まえ、西(カトリック諸国)と東(ムスリム)のパワーポリティクスの文脈に置いて考えると、合理的に理解することができます。

【感想】訳がこなれていることもあるのだろうが、さくさく面白く読めた。記述自体は一見淡々としているのだが、ところどころに本気なのか韜晦なのかよく分からないようなユーモアがあって、飽きない。
 で、ビザンツ帝国の滅亡については、高校世界史レベルではメフメト2世による「船頭多くして船が山をも登っちゃった」くらいしか思い出さないわけだが、本書にはそのエピソードはさらっと出てくるだけだった。代わりに当時の世界状況が丁寧に描かれて、人々の行動や選択の理由がよく分かるようになっている。ローマ教会との教会合同への対応(それに伴う正教会内部の温度差)、ヴェネツィアとジェノヴァによる地中海貿易、東欧諸国の利害関係、オスマン帝国および周辺諸国の軍事的緊張、パライオロゴス朝内部の権力争いなど、考える要素はかなり多いのだが、よく整理されていて、分かった気になった。
 そして本書の特筆すべき特徴は、ビザンツ帝国滅亡後に各地に散り散りになった旧ビザンツ帝国民の生き様と運命について丁寧に記述しているところにあるのだろう。故国の滅亡後、西ヨーロッパに活路を見いだす者もいれば、オスマン内部で生き残りを図る者もいる。が、やはり、祖国を喪った者の極めて厳しい転落人生が印象に残る。
 個人的には、実はビザンツ帝国滅亡後の人々の行方に一番関心があって手に取ったのだが、私の予期とは異なる展開だった。事前には、ビザンツ帝国に蓄えられたギリシアの知識がイタリアのルネサンスにどのような影響を与えたかが分かるような記述を期待していた。で、確かにある程度の関連性を覗わせるエピソードはあったものの、全体的なトーンとしてはそんなに強調すべき事案でもないような感じだった。まあ、現実とはそんなものなのかもしれない。

 また、ビザンツ帝国滅亡に際する人々の冷淡な様子は、近代的な国民国家の枠組で見ると不思議な感じがするのだが、権力が多極化していた中世の文脈に置いてみれば不思議ではないのだろう。現在の目から見て国民国家に「国民」として忠誠を捧げているように見える場合も、実際は家産国家に「臣民」として奉仕しているだけなのだろう。中世では一人の人間が複数の集団に所属し、複数の権力から支配される(あるいは複数の領主に税金を払う)のが当たり前だった。場合によってはある権力者が別の権力者の臣下となることもあった。というかよくあった。本書の主人公パライオロゴス朝の皇帝がまさにそうであった。現在のようにすべての国民が一元化された国家権力に従う(あるいは税金を納めるところが一か所だけ)ということは、中世には考えられなかった。
 そういうふうに権力が多極化(あるいは偏在化)しているとき、おそらく、いわゆる「人格」というものも一元化せず、多極化(あるいは偏在化)するのだろう。そしてそういう中世の世界においては、多極化(あるいは偏在化)した人格(と言っていけないとしたら「関心や欲望の束」と言おうか)を統合するものは「宗教」以外には考えられない。というのは、中世だろうが古代だろうが「死」というものは各人の人生に一度きりしか訪れない問答無用に個人的な出来事であり、その「死」という得体のしれない一回きりの何かを概念化し統御する知恵を一身に担うのが「宗教」という体系だからだ。
 だから1453年のビザンツ帝国の滅亡という出来事のインパクトは、本質的には、地球上からある一つの家産国家(パライオロゴス朝)が消滅したという世俗的な観点から捉えるだけでなく、ギリシア正教という宗教の歴史の流れの中で理解する必要があるのだろう。そしてこの後、教義上のライバルを失った西方キリスト教(カトリック)が急速に世俗化の波に飲み込まれ、代わりに国民国家による権力の一元化が進むとともに、人間が「人格」として一元化されているという意識が浮上してくることも。

ジョナサン・ハリス/井上浩一訳『ビザンツ帝国の最期[新装版]』白水社、2022年

【要約と感想】ダナ・サスキンド『ペアレント・ネイション―親と保育者だけに子育てを押しつけない社会のつくり方』

【要約】乳児の脳の発達は後の成功と幸福に決定的な影響を与えます。周囲の大人が子どもに関心を持ち、たくさん話しかけ、対話を重ねることで乳児の脳が著しく発達します。
 が、アメリカでは、保護者の労働条件や保育環境が劣悪なため、子どもと関わりたくても不可能です。自己責任の原則が元凶です。保護者の努力だけではどうにもなりません。子育てを保護者だけに押しつけず、労働条件(産休や育休の整備、給与上昇、医療保険等)を改善し、チャイルドケアの環境を整え、専門家間の連携を強めるなど、社会全体で責任を負っていきましょう。保護者の利益は、子どもの脳の健やかな成長を通じて、必ず社会全体に帰ってきます。

【感想】翻訳が良いのか、とても読みやすい文章で、内容がするする頭の中に入ってくる。理論的な枠組み(脳科学の知見)が固められている上に、個別具体的な事例もバリエーションが豊富で、主張にも説得力を感じる。アメリカの保育(本書では「米国のチャイルドケア」)の現状や抱える問題がよく分かった。スターバックスや米軍の事例はまったく知らなかった。勉強になった。
 「自己責任の原則」がいかにインチキで胡散臭いかということを改めて認識した。書中ではニクソンとフリードマンが槍玉に挙がっていた。竹中平蔵が読んで反省すべき本だ。

ダナ・サスキンド/掛札逸美訳『ペアレント・ネイション―親と保育者だけに子育てを押しつけない社会のつくり方』明石書店、2022年

【要約と感想】アリソン・ブラウン『イタリア・ルネサンスの世界』

【要約】ルネサンスという概念は、研究が進むにつれ、かつてのような進歩性を剥ぎ取られ、プロパガンダの一種であることが明らかになってきましたが、しかしだからといって中世と一切変わらないというわけではなく、独特の心性が生まれつつあったのも確かです。ルネサンスという概念を一貫性をもちつつも包括的に描写するために、商業的な「交換」や「流通」という観点を盛り込んで、パトロネージの重要性や劇場の表象的な意味を浮き彫りにしました。

【感想】極端な見解(ルネサンスが西洋の近代化に決定的に重要だったとか、あるいはルネサンスなど何の価値もなかったなど)に偏ることなく、最新の研究成果を踏まえた上で、具体的な史料を提示しながら落ち着いた筆致で論を展開しており、大きな違和感もなくナルホドと思いながら読んだ。勉強になった。中世のイタリアは、ガリア(フランス)やゲルマン(ドイツ)とは異なり、古代ローマの共和制の衣鉢を継ぎつつ(政治的)、地中海貿易で蓄えた富とネットワークを背景に(経済的)、「自由」への感覚を独自に展開していったようだ。政治的な自由を確保しようと試みるとき、現在の為政者が支配権を獲得するよりも前の時代に遡って正統性を覆そうとするのは洋の東西を問わない普遍的な現象で、日本では武家政権を倒そうと試みた王政復古に見ることができる(あるいは天皇制を相対化しようと試みるときは、縄文にまで遡る)。イタリアでは王政や貴族制に対抗しようとするとき、古代ローマの共和制が呼び起こされる。この試みが経済的な利益と結びついて共振したとき、新しい時代に対応した新しい人間像(そして社会像)が説得力を持ち、それに応じた新しい教育(人文主義・リベラルアーツ)が生まれるのだろう。

 また本書を読んで意を強くしたのは、「新大陸発見」のインパクトだ。ルネサンスの王者エラスムスがほとんど新大陸発見に関心を寄せていないように見えることからどれほどのインパクトがあったかを推し量りかねていたものの、本書では新大陸発見のインパクトを(印刷術との関係も含めて)そうとう高く見積もっている。ルネサンスや宗教改革を考えるときは、それが同時に大航海時代でもあったことを忘れてはならないように思う。

【今後の研究のための備忘録】教育
 ルネサンス期の教育に関する言及がたくさんあった。

「ペトラルカの本に対する情熱は、次々と他の新たな熱狂をもたらした。その中でも最も重要であるのは、新たな指導カリキュラムを備えた新たな学校であった。彼自身は教師ではなかったが、彼が育んできた教科――歴史記述、詩や文学、手紙の書き方や個人と道徳の問題に関する自問自答――は全て人文主義、つまりはリベラルアーツにかかわるものである。これは中世の教育カリキュラムのより技能志向的な、あるいはより科学志向的な諸教科とは対照的なものである。芸術もペトラルカが育てた教科の一つである。」80頁
「学者たちはノウハウを提供した。まさに彼らが、古代の学校や往事の教育プログラムを当世に伝える古代の書物を復活させ、その内容を実践したのである。この新たな知識人階層が人文主義的教育に、制度的支援や生徒を提供した。これ無くしては何事も変わらなかっただろう。」80-81頁

 そして決定的に重要な本として、クインティリアヌス『弁論家の教育』とプルタルコス『子どもの教育について』を挙げ、「それらは共々に新たな学校と新たな教師の出現を促した」(81頁)と言う。まあ、ここまでは教育史の教科書でもお馴染みのところではあるが、具体的に職業軍人や新たな商人階級の子息に対する教育として機能したことは、なるほどと読んだ。

「ゴンザーガ家のような職業軍人やアルベルティ家のような商人銀行家にとって、この新たな教育の何が魅力的であったのか。表面上、ラテン語やギリシャ語やアーチェリーといったものは、軍人にとっても銀行家にとっても実用的な技能ではない。それらが急速に流行するようになった。(中略)歴史家は人文主義教育によって教えられる自由主義、共和主義の価値観は魅力的なものであったと考えている。なぜならそれらはイタリアの自治都市における政治生活に関わっており、中世の学校における聖職者養成教育に取って代わる、より世俗的かつ「人間的」な尺度を提供してくれるからであった。修辞学のようなコミュニケーション技術や言語、歴史は、市民が政治に積極的に参加する自治社会にとって明らかに有用な知識であった。」85頁

 しかしそれは一方で「旧スコラ哲学よりも自主性を抑制した」(86頁)とされ、「このカリキュラムは、自治市民というよりも忠実な官僚や廷臣を作ることに適合していた」(86-87頁)ということで、「つまり我々は、ルネサンスの教育を共和主義や個人主義と全く同一視すべきではない。」(88頁)と評価されている。

【今後の研究のための備忘録】ルクレーティウス
 ルクレーティウスはルネサンス期に再発見されることになり、個人的には後の社会契約論との関係が気になっているわけだが、本書でも言及されている。

「ネジェミーが述べているようにルネサンスは、ルクレティウスのそれの如き文献の発見とも相まって、それらの持つ恐怖と空想に形を与えることにより、新世界の発見がその克服の助けとなったような、人間の身体の「通常の生活」に関する「懸念の深さ」を思わず露呈させてしまっている。」187-188頁
「ルクレティウスのような古代の文献の再発見もまた、人間性に関するこの新たな「非文明的」視点に寄与した。なぜなら彼の評判は高いが危険な詩『事物の本性について』において、宗教的迷信を非難することによりルクレティウスは、心も魂もそれなしでは生きることはできないと肉体の重要性を強調するだけでなく、さらに重要なことに、人間の動物からの進化に関するダーウィンに先行する記述をも提供しているからである。」189頁

 本書はルネサンスの「野蛮さ」を強調する文脈でルクレティウスに言及しており、私が関心を持っている社会契約論との関係には一切触れていないものの、ルクレティウスがルネサンス期に大きなインパクトを与えていることは確認しておきたい。

アリソン・ブラウン『イタリア・ルネサンスの世界』石黒盛久・喜田いくみ訳、論創社、2021年

【要約と感想】苫野一徳『学問としての教育学』

【要約】これまで教育学は学問として舐められてきましたが、終わりにしましょう。現象学を土台として原理を確立し、現実の教育実践の役に立つ成果を挙げることで、教育学は学問として成立します。

【感想】まあ、タイトルからしてドン・キホーテ的な蛮勇だと思ったが、誰かがドン・キホーテ的な蛮勇を振るわなければ、時代は前に進まないのだった。その意気や良し。おもしろく読んだ。この流れに棹さすことについては吝かではない。ただ専門家としてはマニアックなところも気になってしまうので、以下、ごくごく些細な違和感についてメモしておく。

 思い起こすのは、私の学生時代には既に「学問としての教育学」が木っ端微塵に粉砕されていたことだ。私が東大教育学部に進学した1993年、学部主催で行われたシンポジウム(タイトルは忘れた)は「反教育学」をテーマとしてドイツから反教育学者を招いた。反教育の内部にも様々な流派はあるものの、乱暴にまとめれば、「教育は必ずしも善いものとは限らない」という認識や「教育なんて必要ない」という主張では同じ方向を向いている。若い私にとっては率直に言って意味不明だったが、どうやらそれが世界で流行っているらしいことまでは認識したのであった。
 90年代を通じて、教育学部は「教育学には固有のディシプリンなどない」というメッセージを発し続けたし、「教育学には固有のディシプリンなど必要ない」と開き直っていた。そもそも、当時の東大には一文字学部(法学部・文学部・医学部・農学部など漢字一文字の学部)を正統とし、二文字学部(教育学部や教養学部)をディシプリンの定まらない新参者として軽んじる貴族的意識が根強く残っていた。実際、「文学部教育学科」からの「教育学部」の独立は、学問的というよりは、戦後の政治的な関心(GHQとCIEの戦後改革)の下で進められている。
 私が大学院に進むころには、歴史学や社会学などある程度ディシプリンが定まった立場から教育という現象にアプローチするべきだという立場が急速に台頭し(具体的には広田照幸先生の置かれた微妙な立場を思い出す)、「教育学固有のディシプリンを打ち立てよう」という気概は完全に影を潜めていた。教育学は哲学や歴史学や社会学などとは異なる「ポイエーシスの学」だという主張にナルホドなどと思ったりした。

 しかしそれはポストモダン特有の現象かというと(本書でも昔からの伝統であることに言及はあるが)、実はデュルケムが登場したあたりから100年あまり続いている葛藤だったりするだろう。デュルケムは伝統的(ヘルバルト的)な教育学を「ペダゴジーとしての教育学」と呼んだわけだが、実際に教育学は「公教育(つまり学校)に携わる教員養成」と密接に関わって発展した。近代的な「国民国家」の展開に伴って浮上した教育学は、期待に応えて教育現象に関わる知識と経験の組織化に勤しむこととなるが、それはつまり「教育そのもの」を対象として発展したというよりは、近代という時代に固有の課題に応えることを暗黙の前提として発展したということだ。それ自体は特に良いことでも悪いことでもないが、デュルケムはそういう「学問以外の価値」を持ち込むことを是とせず、教育を社会的事実として実証的に記述することを目指すこととなる。で、「善い教育」でも「教育的価値」でも、なんと呼んでも構わないが、そういう類の「学問以外の価値」を持ち込む際には、膨大な言い訳を要求されるようになる。勝田守一や村井実(ちなみに本書が村井実を引用しない理由がよく分からない)はポストモダンの潮流ではなく、デュルケム的なものと対決していたはずだ。そんなわけで本書は仮想敵をポストモダンの潮流に置いていたが、実はラスボスはデュルケム的なものになるのだろう。
 付け加えるなら、デュルケムが個人の自律性よりも上位の集団である国家や社会の自律性を本質的だと見なしており、いわゆる「社会有機体論」の引力圏にあることには留意しておいていいのだろう。本書はいわゆる「社会有機体論」に関わる要素を最初から考察の対象とせず、一貫して「モナド的な個」を前提に世界を組み立てている。それ自体は良いことでも悪いことでもないが、しかしデュルケム的な立場からはその前提こそが疑わしい臆断と見なされるだろう(このあたりは現象学的には「間主観性」をめぐる表現に関わってくるか)。本書が理論的に依拠するヘーゲルについても、彼の有機体論的な議論に一切触れていないのは、そこそこ気になるところだ。
 そして有機体論的な発想ということで想起するのは、プラトン『国家』だ。プラトン『国家』は、疑いようもなく有機体論的発想で構成されている。そしてプラトン『国家』については「テーマが政治学なのか教育学なのか」という議論が続いているが、私個人の感想では疑いようもなく「教育学」だ。なぜならプラトンにとっては「教育こそが国家の存在意義」であり、その逆ではないからだ。だとすれば、本書が仮に「民主主義こそが教育の存在意義」と考えているのであれば、教育が最上位目標というわけではないので、それを教育学と呼ぶべきなのかどうか、議論の余地はあるように思う。

 もうひとつ、本書の肝は「自由」という概念にあるわけだが、個人的にはそこに多少の引っかかりを感じるところではある。
 個人的な本質直観に従えば、教育(instructionではなくeducationとしての)という概念の核は「自由でないものが自由になる瞬間」にある。(ちなみにカントの表現によると「人間は教育によってはじめて人間となる」となる)。よって、法学や政治学や心理学や経済学では「自由で平等な個人」を所与の前提として話を進めても構わない(つまり特異点は別のところに設定してよい)のだが、教育学は他の学問と異なり、「自由で平等な個人」を所与の前提とするわけにはいかない。「自由で平等な個人」が立ち上がるダイナミックな瞬間(平たく言えば、子どもが大人になる瞬間)こそが、他の学問にはない教育学固有の対象であり、特異点だ。
 そしてそれはおそらく、「自由で平等な共同体」を所与の前提とせず、それが立ち上がる瞬間を捉えようとする努力とも重なってくるはずだ。ルソーは自由が立ち上がるダイナミズムを個人的なレベルでは『エミール』で描き、共同体のレベルでは『社会契約論』で描いた。だから間違いなく『エミール』は教育学の本だし、同様に『社会契約論』も教育学(ペダゴジーではなく)の本だ。またヘーゲルはそれを『精神現象学』で長々と描写した。だとすれば『精神現象学』も教育学の本だ(自由で平等な個人という範囲を遥かに超えて記述が進むが、自由でないものが自由になるダイナミズムという観点から言えば、その主語が個人である必要は特にない)。
 だから本書が言う「自由の実質化」の中身が具体的になんなのかは、かなり重要な話になってくる。たとえばルソーが『エミール』で「自由」についてこう言っているのに耳を傾けてもいいだろう。

「これまでのところ、きみは見かけだけ自由であったにすぎない。まだなにごとも命令されていない奴隷のように、きみにはかりそめの自由があっただけだ。いまこそじっさいに自由になるがいい。きみ自身の支配者になることを学ぶがいい。きみの心情に命令するのだ、おお、エミール、そうすればきみは有徳な人になれる。」(下198頁)
「自由になるためにはなにもすることはないのだ、とわたしには思われる。自由であることをやめようとしなければそれで十分なのだ。ああ、先生、あなたこそ、必然に従うように教えることによってわたしを自由にしてくれた。」(下254頁)
「わたしは、支配と自由とは両立しない二つのことばであって、どんなみすぼらしい家でもその家の主人になれば、かならず自分の主人ではなくなる、ということを知った。」(下254頁)

 ここでルソーが「自由」と呼んでいるものは、どうも本書が言う「自由」とは違った何かのように読めるような気もするわけだ。本書の言う「自由」が、ルソーの言う「見かけだけ自由」とか「かりそめに自由」だという畏れはないか。本書が言う「自由の実質化」とは、ルソーが求めた「じっさいに自由」なのだろうか。個人的には多少の不安があるが、まあ、専門的にマニアックで些細な話ではある。

苫野一徳『学問としての教育学』日本評論社、2022年

【要約と感想】ラ・ボエシ『自発的隷従論』

【要約】たった一人の権力者が多数の人々を支配できるのは一見道理に合いませんが、多数者が自発的に権力者に隷従したがっていると考えることで理解できます。

【感想】ラ・ボエシが書いた本文そのものは極めて分量が少なかった。そして個人的な感想だけでいえば、内容にもさほど感心しなかった。しかし本書に添えられた論文や解説は、やたらと褒めそやしている。個人的な感想では、著者ラ・ボエシの執筆意図を遙かに超えて読み込み過ぎだし、あるいは自分の意見を開陳したいばかりに意図的にありもしない裏を読んでいるような気がする。たとえば、後の「社会契約論」との関連は、(解説でも否定されているとおり)ないだろう。近代的な社会契約論は、個人的な見解ではエピクロスやルクレーティウスの唯物論的な流れから生じてくるが、ラ・ボエシはエピクロス派からの引用を一切していない。社会契約論をイメージして議論を展開しているようにはまったく読めない。また本書のテーマである「自由」についても、近代的な意味はなく、ヘロドトスから引用してきているとおり古代的な意味で使用しているに過ぎないだろう。
 それでも多くの人々が本書について語りたくなるのは、おそらくタイトルが極めて秀逸だからだ。おおげさに言ってしまえば、本文を読まなくても、「自発的隷従」というタイトルだけで何かしらのインスピレーションを受けることが可能だ。たとえば私の専門の教育については、「教育とは自発的に隷従させる営みである」という議論を即座に思い出す。subjectという単語は、名詞で「主体」とか「自我」という意味と同時に、形容詞で「従属する」とか「従うべき」という意味を持っている(ついでに言えば学校の「学科」という意味もある)。まさに学校とは、「従属することによって主体(自我)となる」ようなことを身につける場所だ。「自発的隷従」というタイトルを見ただけで、それくらいのことは一瞬で思い浮かぶ。
 ということでタイトルだけ見てそういう類の逆説的議論が展開されるだろうと予期して本文を読み始めたところ、期待したような鋭い話はまったく出てこなかったので、拍子抜けしたのだった。そこで改めて考えてみると、私が追究したい近代教育の逆説は「自発的隷従」ではなく「隷従的自発」だということに気がついた。それだけでも読んだ意味はあった。

【今後の研究のための備忘録】教育
 「教育」に関する言及があったのでサンプリングしておく。ただし、16世紀のフランス語でどう呼ばれていたかは原典で確認する必要がある。éducationではない可能性は十分にある。ちなみにさくっと英語で読めるものでは「trained」となっていた。個人的には「教育」ではなく「馴致」とか「仕込む」と訳したいところだ。

「たしかに人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである。
 よって、次のように言おう。人間においては、教育と習慣によって身につくあらゆることがらが自然と化すのであって、生来のものといえば、もとのままの本性が命じるわずかなことしかないのだ、と。したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。」43-44頁

 もしもこの「教育」の原語がéducationであったら、まさに近代の「隷従的自発」の逆説を説く文章に読めなくもない。しかしそれが「train」だったら、そこそこ凡庸なことしか言っていない。

【今後の研究のための備忘録】リテラシー
 当時のリテラシー教育のあり方を垣間見せてくれる文章があった。

「そのありさまは、彩色本の目にも鮮やかな挿絵を見たいばかりに読みかたを習う小さな子たちとくらべて、愚かさの点では同じくらいであった(攻略)」54頁

 16世紀半ばは、印刷術が発明されてから既に100年あまりが経過し、宗教改革絡みで両陣営がパンフレット出版に血道を上げていたこともあって、日常生活の中にも「彩色本」が出回っていただろうと推測できる。そこに描かれた挿絵が子どもたちがリテラシーを獲得するための誘因となっているのであれば、知識人ラ・ボエシが「愚か」と決めつけているとしても、それは大きく世界を変える出来事のように思えるのだった。

ラ・ボエシ/西谷修監修・山上浩嗣訳『自発的隷従論』ちくま学芸文庫、2013年