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【群馬県下仁田市】幕末下仁田戦争の犠牲者を偲び、こんにゃくの概念が変わる

下仁田といえば、ネギとこんにゃく。そう思っていた時期が私にもありました。

が、ここは、幕末に水戸天狗党と高崎藩が死闘を繰り広げた、「下仁田戦争」の舞台でもあります。

高崎駅から上信電鉄で約一時間。激しく揺れる電車の旅を楽しんで、終点の下仁田駅に着きます。

上信電鉄の駅には、それぞれ御当地の「上毛かるた」が掲げてあって、昭和の風情が漂います。

駅から歩いて15分くらいで、下仁田町歴史館に着きます。丘を登ると、下仁田戦争と遺跡の案内図が見えてきます。

下仁田戦争は、西暦1864年、上洛を目指して水戸を発った天狗党の一行と、それを阻止しようとする高崎藩が激突した戦いです。この戦いで高崎藩の36名が戦死・処刑されます。戦闘に勝利した天狗党は、下仁田から峠を越えて信州に抜け、さらに京都を目指しますが、敦賀で投降し、悲惨な最期を遂げます。

今はのどかな風景が広がっていて、凄惨な戦闘があったことなど想像もできません。

歴史館が建つ丘の麓には、戦死した高崎藩士の碑が建っています。題字は勝海舟が書いています。

案内板に、下仁田戦争の概要が書いてあります。

丘の上には、水戸の回天神社から献木された梅の木が植えられています。天狗党の変145周年を記念して、2009年に水戸回天神社から送られたものでした。脇には祈念碑が建てられています。水戸と高崎の遺恨も晴れたでしょうか。【参考】回天神社

歴史館は丘の上に建っていて、遠くからでもよく目立ちます。

展示では、さすがに下仁田戦争の経緯や遺物が充実していました。下仁田に逗留した藤田小四郎が揮毫した扇子など、なかなか感慨深いものが展示されています。また、単に高崎藩や天狗党を美化するのではなく、客観的に幕末の情勢を描いているのにも、好感を持ちました。

意外だったのは、縄文時代の出土品が充実していることでした。特に石棒未製品を見られたのは、貴重な経験でした。石器や土器、土偶などの出土品も充実していて、なかなか侮れない縄文先進地域であることが分かりました。

本当は、歴史館の目玉展示は世界遺産にも登録された荒船風穴なのですが、こちらは次の機会にまたゆっくり訪れたいと思います。

さて、下仁田に来たのだから、こんにゃくをいただかなくてはなりません。

ということで、駅前に店を構える常磐館で、こんにゃくフルコースをいただきました。こんにゃくの松前漬けや、こんにゃくそうめん、こんにゃく白和え、酒盗和え、こんにゃくの刺身、田楽など。いやあ、うまい。

さらに、こんにゃくの天ぷらに、こんにゃく炒り鳥と、たいへんゴージャズ。こんにゃくの概念を改めざるを得ません。うめえ!

また、デザートの蒟蒻ゼリーがうまい。いやあ、これだけ食べても低カロリーで、こんにゃくは素晴らしいですね!

(2018年8月訪問)

闘士ゴーディアンの、ここが革新的だ!

闘士ゴーディアンというと、一般的には山本正之の主題歌で知られているような風潮があるが、その神髄が理解されていないのは極めて残念なことだ。ということで、闘士ゴーディアンのどこが凄いか、切々と語らせていただく。

死亡フラグが立つまでもない

闘士ゴーディアンの最大の特徴は、「出死に」だ。お笑いには「出落ち」という概念がある。登場した瞬間に笑いをとることを意味する言葉だ。ゴーディアンには、「出死に」という概念がふさわしい。キャラが登場した瞬間に、視聴者が「あ、このキャラ、この回で死ぬな」と悟るからだ。もはや死亡フラグを立てるまでもない。
以下、どれだけ出死にするか、見てやっていただきたい。

ゲストキャラは、ほぼ死ぬ

ゴーディアンでは、ゲストキャラ皆殺しが繰り返される。
第7話で主人公の生まれ故郷が全滅したのを皮切りに、第11話では友情を交わしたヘンリー含めて第7連隊が全滅、第12話ではメガコン隊員ダルフの家族(母、姉、妹×2、弟)が皆殺しにされ、第16話では任務のために雇われた5人のゲストキャラが全滅、第33話では収容所から脱走した仲間が全滅する。
特に衝撃なのが第33話で、脱走した仲間がロイド将軍を救うために「ここは俺たちが引き受けた。ありったけの武器をおいてってくれ」と100%死亡フラグを立てて頑張ったにもかかわらず、ダイゴに背負われたロイド将軍は基地に着く前に死んでしまう。ふつう、ロイド将軍は助かるだろ。ダイゴは「俺は何をやってきたんだ。みんな死んじまった!みんな死んじまった!みんな死んじまった!」と叫び、マドクターに怒りの鉄拳をふるうのだった。

出死にDATA
■第7話の死亡者:ゲスト全滅。ゲンじいさん(祖父)、サム、幼馴染み
■第11話の死亡者:ゲスト全滅。ヘンリー。カスター隊長。
■第12話の死亡者:ダルフの家族みなごろし。(母、姉、妹×2、弟)
■第16話の死亡者:ゲスト5人全滅。 死亡フラグ:マーチン「俺に任せて早く行きな」
■第33話の死亡者:ゲスト全滅。ロイド将軍、ニッキー、マイルズ、ディランなど。

肉親が、ほぼ殺される

ゴーディアンでは、主要キャラの肉親がよく殺される。計算したところ、主要キャラの肉親は、83%の確率で、登場したその回のうちに死ぬ。
インパクトがあったのはポールの父親が公開処刑される第34話だ。ダイゴはポールの親父さんを助けに行くが、間一髪間に合わず、親父さんは蜂の巣にされるのだった。 ふつう間に合うだろ。
ヒロインの母親が無惨に殺される第58話もすさまじい。

出死にDATA:肉親の死亡者
■第7話の死亡者:ダイゴの祖父
■第12話の死亡者:ダルフの家族(母、姉、妹×2、弟)
■第34話の死亡者:ポールの父親
■第42話の死亡者:ダイゴの母親
■第58話の死亡者:ヒロインの母親

市長は、ほぼ死ぬ

ゴーディアンでは、市長が死ぬ。計算したところ、市長として登場したキャラは、85%の確率で、その回のうちに死ぬ。
20話代でビクトールタウン攻防戦が描かれた後、本格的なサントーレ同盟とマドクターの戦いが全地球規模で始まる。主人公達は他の街を味方につけようと会議を開いたりするが、簡単には味方は増えない。サントーレとマドクターの勢力拡大競争の過程で各タウンの市長が登場するが、ほとんどは惨殺されるか、自業自得の非業の死を遂げ、街は廃墟となる。
各市長が頻繁に登場するのは、このアニメではゴーディアンは切り札であっても決戦兵器ではないことに由来する。ゴーディアン一体では戦局を決着させることができないので、主人公側は各都市を味方につけるために政治をすることになり、その過程で各都市の市長の登場機会が増えるという仕組みになっているのだった。高度に政治的なアニメなのだ。

出死にDATA:市長の死亡者
■第24話の死亡者:ビクトールタウン知事ロビンソン
■第31話の死亡者:ビーサウンドタウン知事(街全滅)
■第39話の死亡者:マイナータウン市長(街全滅)
■第42話の死亡者:ケープギャラクシータウン市長マダムクイーン(街全滅)
■第44話の死亡者:タイガータウン市長(街全滅)、レインボータウン市長
■第47話の死亡者:スタータウン市長クーパー、ジョージタウン市長ジョージ
■第53話の死亡者:ヨーロッパ共同体タウン大統領シュバイツ

「ここは俺に任せてお前は早く行け」と言った奴は死ぬ

ゴーディアンでは、「ここは俺に任せてお前は早く行け」と言ったら、かなりの高確率で死ぬ。計算したところ、89%の確率で死ぬ。死ななかったのはバリー隊長くらいのものだ。
衝撃的なのは第26話のメイスン。バリー隊長を逃がすために戦ったメイスンは、マドクターのロボットに踏みつぶされて死ぬ。踏みつぶされる過程がきちんと丁寧に描かれるのが非情だ。

「ここは俺が食い止める」死亡者DATA
■第7話の死亡者:ゲンじいさん「わしにかまうな。早く街を救ってくれ」
■第16話の死亡者:マーチン「俺に任せて早く行きな」
■第26話の死亡者:フランコ「ここは我々が引き受けた。おまえは撤退しろ」、メイスン「15連隊にかまわず、その間に逃げろ!」
■第42話の死亡者:マダムクイーン「この戦いは私に任せてあなたがたは海岸に避難なさい」
■第59話の死亡者:龍馬「おいはここでできるだけ長く敵を食い止める」
■第60話の死亡者:ガウス「ここは我が隊に任せろ。早く家族たちをサントーレへ」

回心して味方になった人は、間違いなく死ぬ

ゴーディアンでは、回心して味方になったキャラが、容赦なく死ぬ。計算したところ、回心した7人のキャラ全員が死んでいる。死亡率100%。圧倒的だ。
第22話で登場した青シャツ党党首の妹アニタが、最終回一話前まで引っ張られた上で物質崩壊ビームによって木っ端微塵になるのも衝撃ではあるが、最も印象に残るのは第27話のマドクター戦闘員のエピソードだ。サントーレの避難民に詰め寄られ、「いいんだ。俺はみんなに殺されても仕方のない人間だ。今ならジタバタせず死ねるよう!ただ先生に何も恩返しができねえのが」と涙ながらに叫ぶところに、ゴーディアンのエッセンスが凝縮されている。第62話のあっけないテウスの死に様も、感慨深い。

回心したのに死亡者DATA
■第22話の死亡者:青シャツ党首ゲバリスタ
■第27話の死亡者:マドクター戦闘員
■第60話の死亡者:ガウス、メウス
■第62話の死亡者:カレン、テウス
■第72話の死亡者:アニタ(ゲバリスタの妹)

捕虜が虐殺される

ゴーディアンでは捕虜が助からない。
第37話では、マドクター幹部のエリアスが、部下のツアラを殺された腹いせに、300人の捕虜を大量虐殺する。300人はマドクター幹部一同が逃げるための人質だったのだが、ゴーディアンが手出しできずに幹部が逃げ切ったあと、虐殺される。ラストは砂漠に死体が転がっている図で終了する。ダイゴが「貴様ら人間じゃねえ、人間の皮をかぶった獣だ。ゆるさねえ、許してたまるか!」と叫ぶのも当然だ。
第58話では、せっかく解放したマドクターの負傷投降兵が、マドクター将軍の手によって皆殺しにされる。そもそもマドクターの下級兵士を巻き添えにする作戦で、「余分な人間は整理しておくのだー」「生きていても役に立たない者ばかり」というマドクター将軍のセリフが恐ろしい。
ちなみに第34話では、公開処刑にされた捕虜のうち、ポールの父親だけ蜂の巣にされ、他の人は助かる。とても珍しい。良かったね。

捕虜の虐殺DATA
■第33話の死亡者:脱走者多数
■第37話の死亡者:捕虜300人くらい皆殺し
■第58話の死亡者:マドクター負傷投降兵皆殺し

敵幹部は、ほっといても死ぬ

ゴーディアンでは、マドクター幹部を主人公がまともに倒せず、マドクターの内部抗争による陰謀で死ぬことが多い。最終回でクリントを殺されたダイゴは「許せねえ、お前らだけは俺がこの手で倒す」と叫ぶのだが、ダイゴが戦うまでもなくマドクター幹部たちは次々と自滅していった。ゴーディアンは、敵をこの手で倒してないのだった。戦闘隊長のバルバダスは、ゴーディアンが全く別のところで戦っているときに、メカコン隊員の待ち伏せで情けなく倒されているし。
バラス総統はいちおうゴーディアンとの一騎打ちで死んでいるが、構造的にはエリアスとの権力闘争に敗れたために一騎打ちに追い込まれた形となっている。
「お慈悲をー」と叫びつつ死ぬサクシダーなど、哀れすぎる。

マドクター幹部死亡者DATA
■第9話の死亡者:クロリアス(内部抗争による自滅)
■第27話の死亡者:バルバダス(主人公の仲間が爆殺)
■第63話の死亡者:バラス総統(内部抗争による自滅)
■第73話の死亡者:エリアス(自滅)、サクシダー(マドクター内部事情)、ドクマ大帝統(自滅)

どうしてこうなった

ということで、軽快な山本正之の主題歌などのせいで、一見脳天気なマカロニウェスタンに見えるにも関わらず、実際の内容は強烈な鬱展開だ。
ゴーディアンの放映期間は1979年10月~1981年2月。ちなみに『機動戦士ガンダム』の放映期間が1979年4月~1980年1月で、微妙にかぶっている。ゴーディアンの鬱展開は、基本的にはタツノコの『テッカマン』や『キャシャーン』に由来するのだろうが、中盤以降の戦争描写には『ガンダム』の影響を考慮する必要があるような気がする。
世界観は中二的SF世界。彗星衝突による文明崩壊後の世界というのはともかく、敵組織がナポレオンやヒトラーを陰から操っていたとか、ネアンデルタール人とクロマニヨン人の断絶を説明してしまうとか、挙げ句の果てに宇宙論で最終回を迎えるあたりなど、壮絶な超展開には唖然とせざるを得ない。

特別展「縄文―1万年の美の鼓動」に行ってきました

東京国立博物館の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」に行ってきました。とても見応えがありました。

なんといっても、縄文の国宝6点が大集合していたのが大興奮でした。これは、なかなか見られません。
他にも、遮光器土偶(どうしてまだ重要文化財なのだ)とか、火焔式土器大集合とか、縄文ポシェットとか、巨大な石棒どもとか、見所が満載でした。

そんなわけで、お土産もたくさん買ってきました。やはり眼鏡者としては、遮光器土偶は外せません。
まずは遮光器土偶キーホルダー。

さらに、遮光器土偶キャンディ。

ケースに入っていると光の加減でどうなっているのか分かりにくいですが、出したらこう。

コーラ味でした。美味しくいただきました。

いちばんインパクトがあったのは、これですかね。遮光器土偶アイマスク。

これで我々も遮光器土偶になれる!?

縄文時代については、近年急速に見直しが進んでいるようです。未解明の部分も多いので、これからの展開も楽しみですね。私は、土器を見ただけで製作時期を当てられるように研鑽を積みたいものです。(今は中期くらいしか見分けが付かない…)

【要約と感想】ジョン・デューイ『学校と社会』

【要約】子どもたちは、学校で死んだ魚のような目をして、退屈な時間を過しています。学校は、社会の役に立っていません。社会が変化した以上、学校も変化しなければなりません。
 これからの新しい学校は、理想的な家庭を延長した、理想的な小さな社会とならなければいけません。子どもたちは生活で得た経験を学校に持ち込み、その経験は学校の中で豊かに磨き上げられて、人生の洞察に不可欠な科学的知識へと結びつきます。
 そのためには、小学校から大学までの学校システムを統一的に整備し、「教える内容」と「教える方法」を統一しなければいけません。それは子どもの「生活」を中心としたときに初めて可能になります。私が作った実験学校での取り組みの結果、確信を持って言うことができます。

【感想】「児童中心主義」を高らかに宣言する、新教育のマニフェスト的な本だ。背景となる社会理論も心理学理論もしっかり整備されている上に、実験学校における実践も伴っており、説得力あることこの上ない。100年以上前の本であるにも関わらず、「最新の学習指導要領の解説として出た」と言っても違和感がないほど、理論的には古びていない気がする。まあ、個々の具体的事例はもちろん古びているんだけれども。逆に言えば、現代の教育がデューイの議論をちゃんと乗り越えているのか、不安になるところでもある。

【個人的な研究のための引用とメモ】

コペルニクス的転回と児童中心主義

 本書では、児童中心主義をわかりやすく説明するためにコペルニクスの地動説を例に挙げている。いわゆる「コペルニクス的転回」である。

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。(中略)。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」49-50頁

 非常に分かりやすい喩えで、教育にとって「子どもの生活」が決定的に重要であることを明快に示している。

社会に開かれた教育課程

 本書の構成は8章から成っているが、最初の演説では3章構成だったという。その3章が、現在の学習指導要領の構成と極めて近接しているのは、興味深い。すなわち、
第一章 学校と、社会の進歩
第二章 学校と、子どもの生活
第三章 教育における浪費
 という構成なのだが、これはそれぞれ最新学習指導要領と、
(1)社会に開かれた教育課程
(2)主体的・対話的で深い学び
(3)カリキュラム・マネジメントと学校経営
 というふうに対応している。

 たとえば第一章「学校と、社会の進歩」では、デューイは産業社会の急激な進展によって家庭における子どものあり方が根本的に変化したことを指摘し、それに伴って学校の役割も変わるべきことを主張する。

「明白な事実は、社会生活が徹底的な、根本的な変化を受けたということである。もしわれわれの教育が生活にとってなんらかの意味をもつべきであるならば、それは同様に完全な変形をとげねばならぬ。」43頁

 「知識基盤社会」に対応して教育が変わらなければいけないと訴える現今学習指導要領の言い分と、とてもよく似ている。まあ、デューイの言う社会の変化が機械化である一方、学習指導要領の言う社会の変化はIT化、という中身の違いはある。とはいえ、社会の急激な変化を背景とした教育改革の必要性という点では、状況は極めて似ていると言える。
 そしてデューイは、そういった社会変化に、学校がまるでついていけていないと指摘する。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27頁
「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30頁

 上に引用した100年以上前の言葉は、ただの一個所の改変も必要とせず、そのままそっくり現代日本の教育に適用できてしまう。これはかなり恐ろしい事実である。「社会に開かれた教育課程」という合い言葉は、最近になって言われ始めたわけではない。100年前から叫ばれ続けていたにも関わらず実現しなかったのだと、認識しなければならない。学校という組織を変えることは、そう簡単ではない。
 では、デューイはこれからの学校をどうしようと言うのか。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、胎芽的な社会となることになる。」31頁

 ここでは、「生活指導」という概念が見られることに注目しておきたい。

主体的・対話的で深い学び

 続いて、第一章で示された理念を、子どもの発達の側面から見るのが第二章「学校と、子どもの生活」の狙いである。一人ひとりの子どもの個性を重視し、興味を足がかりとして、生活のなかの活動をとおし、自然と社会の本質をつかませる。児童中心主義の本領発揮である。いわゆるアクティブ・ラーニングというものが100年以上前から実践されていたことは、踏まえておいていいかもしれない。
 この章では、「言語」というものに対する考え方と扱い方も注目ポイントである。

「言語本能は子どもの社会的表現の最も単純な形式である。だから、言語はあらゆる教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう。」60-61頁
「旧制度のもとにおいては、子どもたちに自由にのびのびと言語をつかわせることは、疑いもなくきわめて困難な問題であった。その理由は明白であった。言語にたいする自然な動機がほとんどあたえられなかったのである。教育学の教科書においては、言語とは思想を表現する手段であると定義されている。なるほど思考的に訓練されたおとなにとっては言語は多かれ少なかれそういうことになるが、しかし、言語はまず第一に社会的なものであり、それによってわれわれが自己の経験を他人にあたえ、逆に他人の経験を受け取るための手段であることは、あらためていうまでもないことであろう。もしも言語をこの自然な目的からひき離してしまうならば、言語の教授が複雑で困難な問題になることは、怪しむに足りない。」68-69頁

 ここでは、言語というものが「思想を表現する手段」としてよりも、他者とコミュニケーションを図る手段として、より重要な地位をあたえられている。「主体的・対話的で深い学び」を実現する際、あるいは「言語活動」というものを重視する際にも、参考となる言語観だろう。

カリキュラム・マネジメントと学校経営

 以上の「社会に開かれた教育課程」および「主体的・対話的で深い学び」を踏まえた上で、デューイは第三章「教育における浪費」の中で、学校制度改革とカリキュラム構成について言及する。これは最新学習指導要領では、いわゆる「カリキュラム・マネジメント」に相当する部分だ。
 デューイはまず現今のカリキュラムに統一が欠けていると批判する。

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88頁

 これまた一文字の変更もなく現在の教育に適用されて違和感のない文章である。この分断的・散漫的なカリキュラムを変えるために、デューイは「生活」による統一を提言する。

「子どもがこの共通の世界にたいする多様な、しかし具体的で能動的な関連のなかで生活するならば、かれの学習する学科は自然に統合されるであろう。そうなれば諸学科の相関というようなことは、もはや問題ではなくなるであろう。教師は、歴史の課業にわずかばかりの算術をおりこむために、あれこれと工夫をめぐらすといったような必要もなくなるであろう。学校を生活と関連せしめよ。しからばすべての学科は必然的に相関的なものとなるであろう。(中略)。さらにまた、もし全体としての学校が全体としての生活と関連せしめられるならば、学校の種々の目的や理想――教養・訓練・知識・実用――は、もはやこの一つの目的ないし理想にたいしてはこの一つの学科を選び、他の一つの目的ないし理想にたいしては他の一つの学科を選ばねばならぬというような個々ばらばらなものではなくなるであろう。」107頁

 デューイは様々な実例も挙げるのだが、それらはいわゆる「総合的な学習の時間」を彷彿とさせるものだ。というか、「総合的な学習の時間」はデューイの構想を土台として出来ているわけだから、当たり前なのだが。
 が、この部分は、最新学習指導要領と袂を分かつ点かもしれない。デューイは統合の原理を「子どもの生活」に求めているが、最新学習指導要領は統合の原理を「求められる資質・能力」に求めている。デューイはあくまでも一人ひとりの子どもの個性を大事にしようとするが、すべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」については何も言わない。一方、学習指導要領はすべての子どもが共通して身につけるべき「資質・能力」を想定する。ここが決定的に違う。この学習指導要領の姿勢が、果たしてデューイ理論を基礎とする戦後教育改革に対して加えられた「這い回る経験主義」という批判を乗り越える可能性を持つのかどうか、学習指導要領自身は何も述べていない。
 ともかく、最終的で現実的な制度設計において、学習指導要領はデューイを離れてブルーナーに近づいていくのであった。新学習指導要領の狙いが当たるかどうかは、「理念としてのデューイ、手段としてのブルーナー」というあり方が適切かどうかにかかっているように思うのだった。

問題解決学習

 また本書の注目点は、「問題解決学習」についての言及にもある。

「かつまた、前の第一期の特徴である子どもと学習される社会生活との全身的・劇的な同一化に加えて、いまや知的同一化がおこってくる――すなわち、子どもは遭遇せねばならぬ問題の見地に自己を置き、それらの問題を解決する方法をおよぶかぎり再発見するのである。」129頁
「かかる注意はつねに「学習」用のもの、いいかえれば、他人が尋ねるであろうところの問題にたいする、すでに出来上っている解答を記憶することのためのものである。いっぽう、真の、反省的な注意は、常に判断・推理・熟慮をふくんでいる。すなわちそれは子どもが自分自身の問題をもっており、その問題を解決するための関係材料を探求し選択することに能動的に従事し、その材料の意義と関係を――すなわちその問題が要求するような解決の道を考察することを意味する。問題は自分自身のものなのである。であるからして注意への動因・刺激もまた自分自身のものである。それゆえにまた、得られた訓練も自分自身のものである。――それは真の訓練、すなわち統制力の獲得であり、またいいかえれば問題を考察する習慣の獲得である。」180頁

 問題解決学習は、子どもの興味と社会および科学を結びつける重要で決定的な媒介物となることが期待されている。問題解決学習の論理がデューイの発達心理学理論に根拠を置いていることは、知識として知っておいて損はしないかもしれない。

ジョン・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳、岩波書店、1957年

【要約と感想】ヘーシオドス『仕事と日』

【要約】怠け者でロクデナシの弟よ、ちゃんと働け! ちなみに人間が働かなくてはならないのは、神様がそう定めたからです。農業のやりかたについての具体的なアドバイス付き。

【感想】ギリシア神話の最古の古典の内の一つということだけれども、ニートの弟への語りかけという体裁は、ちょっと微笑ましい。というか、ニートの弟を働かせるための説得手段が壮大な神話体系になるところが、古代感覚というところか。

多少気になるのは、プラトンやアリストテレスの時代になると、労働があまり尊いものと見なされなくなっていることだ。労働はもっぱら奴隷がするべきものであって、自由人は観照的生活を送るのが最高だという価値観となる。しかしそこから300年ほど遡るヘシオドスでは、労働が最高に尊いものと見なされている。この違いは、300年という時代の違いのせいなのか、アテネとの場所の違いのせいなのか、それともヘシオドスの個性によるのか。本書を一読するだけでは、分からないのだった。

【個人的備忘録】

労働に価値を認めるのは、プラトンやアリストテレスには見られない記述だ。とはいえ、「労働は決して恥ではない」と言っているということは、逆に言えば「労働は恥」とする価値観が一般的に存在していたということかもしれない。ヘシオドスの価値観が当時のギリシア世界をどれだけ代表しているかは、気になるところだ。

「労働は決して恥ではない、働かぬことこそ恥なのだ。」311行
「これからわしの説くようにせよ、労働につぐに労働をもってして、弛みなく働くのだ。」382行

あと多少気にかかるのは、処女を善いものとする記述があるところだ。処女を重んじるのは近代的な価値観という話をしばしば見かけるところだが、2700年前にもテキストとして存在していることは知っておいていいかもしれない。まあ、ヘシオドスがミソジニーかつ結婚悲観論者であることは、「嗜みを躾ける」という記述に影響しているかもしれない。

「嫁には生娘をもらえ、さすれば妻として心うべき嗜みを躾けることができる。」699行

ヘーシオドス『仕事と日』松平千秋訳、岩波文庫、1986年