【教師論の基礎】教師とは何か?―教師聖職者論・教師労働者論・教師専門職論

教師の本質を何だと考えるかの3類型

 「教師とは何か?」という問いに対する答えには、いくつかのパターンがあります。教科書的に広く見られるのは、(1)教師聖職者論(2)教師労働者論(3)教師専門職論の3パターンに分類する考え方です。

(1)教師聖職者論

 教師を、宗教家になぞらえて、「聖職者」と理解する立場です。

 「聖職者」とは、もともと宗教に人生を捧げる人々を呼ぶときに使用される言葉です。神の威光を背景に、迷える人々を教え導く役割を果たすべき人々を指します。その職務は神から与えられたものですから、報酬を期待して引き受けるものではありません。現世的な報酬が少なかろうと、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

 この「聖職者」という言葉が教師という仕事にも相応しいものだと考える人々が一定程度存在します。教育という崇高な使命に人生を捧げ、ひたすら献身的に職務を遂行する教師のことを、人は「聖職者」と呼び、尊敬します。そしてその役割は「神」から与えられたものですから、高い給料を期待してはなりません。薄給に耐えて、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

 教科書的には、この「教師聖職者論」のスタート地点を初代文部大臣・森有礼の師範教育に求める傾向が強くあります。実際、森有礼は教師に必須の資質として「順良・信愛・威重」の3気質を挙げ、師範学校における教員育成の基礎としました。そして薄給であったり、社会的なステータスが低かったとしても、誇りと使命感を持って崇高な職務を遂行すべきことを説いています。

 個人的には、教師聖職者論の源泉を森有礼とする教科書的見解には強い違和感があります。というのは、教育活動に対価を求めるべきでないという考え方は江戸時代にも広く存在していたからです。
 もともと教育活動は宗教施設と密接な関わりを持っていました。たとえば「寺子屋」は「寺」という宗教施設で教育活動が行なわれていたことを示唆しています。宗教関係者は、基本的には、自身の教育活動に対して報酬を求めません。そして、教育活動を行なう主体(要するにお坊さん)は、まさに言葉の意味通りの「聖職者」でした。教育活動に対価を要求するべきでない聖職者という見方は、ここに一つの淵源があるように思うわけです。(ちなみに、教育活動に対して報酬を公然と要求したのは、福沢諭吉が最初だと言われています。)

(2)教師労働者論

 教師を、民間企業に勤めるサラリーマンと同じく、「労働者」と理解する立場です。

 民間企業に雇用されて、自発的合意に従って交わした契約に従い、定められた仕事を行なうと、所定の報酬(サラリー)が支払われます。それと同じように、教師も定められた仕事を行なって報酬を受け取る「労働者」であると考える立場です。教師聖職者論が人間的な生活を犠牲にするような薄給での奉仕を要求したのに対し、教師労働者論はまともな対価を要求します。
 さらに、労働者であれば憲法で保障された労働基本権に基づいて労働環境を改善するための行動(団体交渉や同盟罷業)を起こせますので、教師も自らの労働環境を改善するために同じような行動がとれるし、とるべきだと考えます。

 たとえば具体的には、「残業」をどう考えるかというときに、この立場をとるかとらないかで、意見の違いが明確に表れます。
 具体的には、民間企業で「残業」を行なうと、法律に従って残業代が支払われます。残業代を支払わない会社は法律違反を犯していることになります。しかし一方、教師が残業を行なっても、残業代は支払われません。現時点では、教師は民間企業のような「労働者」とは考えられていないからです。教師労働者論の立場から見れば、とんでもないことです。教師労働者論に共感する人々は、教師の残業に対して、民間企業と同じく残業代を支払うべきだと主張するでしょう。
 しかし教師労働者論に反対し、教師聖職者論に共感する立場からすれば、教師は人生をかけて教育に奉仕すべきものであって、そもそも「残業」という考え方自体がおかしいと一蹴するでしょう。子どもたちのことを365日24時間考えるのが聖職者ですから。

 しかし一方で、もし教師が単なる労働者なら、アルバイトにやらせてもいいだろうという話が出てきてもおかしくありません。実際に、現在は非常勤講師や臨時採用のような、正規採用ではない教員が急速に増加しています。
 また、教育に熱意や情熱を感じずに、単に金儲けの手段として考えるような「デモシカ教員」が正当化されてしまうことも懸念されます。(「デモシカ教員」とは、仕方ないから先生に<でも>なるかとか、まともな仕事はできないから先生に<しか>なれない、という、社会人失格な残念教師を揶揄する言葉です)。熱意も使命感もないくせに単に金のために教員をやっていいのかと聞かれると、躊躇する人が多いだろうことも確かです。
 また、教育を受ける側の子どもや保護者の意識を想像してみると、目の前の先生を聖職者だと思えれば尊敬して言うことを聞くかもしれませんが、これが単なる労働者相手となれば、コンビニ店員に文句を言うような感覚で教師に文句を言い始めることになるかもしれません。コンビニ店員のようなサービス産業労働者であればお客様の言うことは「はいはい」と聞くのが仕事ですが、教師は同じようにサービス産業労働者となって子どもや保護者の言うことを「はいはい」と聞いてしまって大丈夫でしょうか。

 これが古くて新しい問題なのは、昨今の「働き方改革」を具体的に考えるときに、どうしても通らなければならない議論だからです。教師を「労働者」と考えるか否かで、現在進行中の「働き方改革」がどこに向かって行くか、未来が大きく変わることになります。

(3)教師専門職論

 教師を、医師や弁護士などと同じく、専門的な知識や技術を持つ専門家として理解する立場です。

 この立場では、医者や弁護士が特別なスキルに見合った高額な報酬を得ているのであれば、教師も同じようにスキルに見合った報酬を得ても問題ないと考えるかもしれません。あるいは、高額な報酬を得る方向ではなく、教師という専門家にしか果たせない社会的役割を重視する議論に結びつくかもしれません。そういう意味では、(1)や(2)の立場の代わりというよりは、その両方と結びつくことができるものとも考えられそうです。

 ところでこの立場の急所は、「教師にとっての専門性とは何か?」という問題にあります。「教職の専門性」を説得的に明示できなければ、この立場に説得力はありません。誰でもできる仕事ということになってしまうと、教師専門職論は成立しません。あるいは、この専門性を具体的にどう理解するかで、(1)や(2)の立場と結びつくか相反するかが決まってくるでしょう。
 ここは非常に重要かつ複雑な論点となりますので、教職の専門性とは具体的に何なのか、改めて考えることにしましょう。
【教師論の基礎】教職の専門性につづく。