【要約と感想】森隆夫『校長室はなぜ広い―教育深化論』

【要約】生涯教育における教養の重要性を説く第Ⅰ部と、理想的な校長のあり方を説く第Ⅱ部で構成されています。
第Ⅰ部では、教育を学校だけに任せるのではなく、親や社会全体が関わっていくべきことが示されます。特に「伝統文化」の果す役割が強調され、深みのある「教養」が大事であり、「言葉」を大切にすることが一番の土台であると説かれます。
第Ⅱ部では、校長にとって重要なのは人格的権威であり、道徳教育を率先して行なうべきことが示されます。管理職にとって法的思考も大切ですが、教育的思考はもっと大切にし、熟慮・瞑想しましょう。校長室が広いのは、熟慮と瞑想の場だからです。

【感想】ウィットとユーモアに富んだ洒脱な文章で、なかなか読ませる。2014年に亡くなった著者の最後の本だと思うと、ますます味わい深い気にもなってくる。学ぶべきものは多い。
まあ、「江戸しぐさ」と「マリー・アントワネット」の都市伝説を鵜呑みにしてしまっているところは、ご愛敬というところか。

【今後の研究のための備忘録】
昭和ヒトケタ生まれの著者だけあって、「人格」とか「自己実現」という言葉の用法が、現代とは少々異なる感じがあり、興味深い。
たとえば「自己実現」については、以下のように言葉を連ねている。

「ちなみに、自己実現というと、自分の希望や目標を達成することと安易に使われたりしているが、マズローのいう自己実現とは、人格が完成したような立派な人を指す。」27頁
「生涯教育の観点からみると、人生の道程ごとに「家訓」「校訓」「社訓」等という教育目標が示されているが、それらを貫くものは自己実現(人格完成)のための「信念」という教育理念である。つまり、人生は常に自己実現の道程にあり、それは「信念の駅伝」というか、「心の駅伝」といってもよいだろう。」32頁
「「坐」の字は、土という字の上に二人の人が対面しているのだが、それは「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」で、相互に対話していることを表わすのだという。坐禅は二人の自分の対話なのである。この「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」の対話がなくなると、人は悪事を働くのではないかと思う。(中略)ここで「自己実現」と「自我実現」の違いに気付く。」59頁
「心理学者マズローは、人間像として「自己実現」を説いたが、それは「完全な人間性」の意味だと後の著書で訂正している。というのは、「自己実現」を「自我実現」と誤解していることが多いからでもある。彼は自己実現した人の例として、歴史上に実在した立派な人物を調べることで、完全な人間性の特性を抽出しようとしたのである。」174頁

著者は、現代社会で追究されているものが単なる「自実現」に過ぎず、それは完全な人間性を目指す「自実現」とは無縁のものだと主張する。「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」がどう異なるのかという心理学的・哲学的な議論が十分に展開しなければ深奥を掴むことはできないのだが、本書では入口で終わっている感があり、少し残念ではある。(ちなみに自己と自我の違いについては、東洋哲学者の上田閑照が詳細に語っているという印象はある)。あるいは「人格」と「人間性」の違いについては、もうちょっと突っ込んで吟味しないといけないところのはずだが、著者は同じものとして杜撰に扱っているようには見える。

また、著者は「教養」と「人格」や「個性」との関係についてもこだわっている。

中教審答申にも「教養」についての答申がある。筆者は当時の委員でもあり、ヒアリングをとおして多くを学んだが、審議を参考にした結果、教養とは「知性と感性を軸にした人格形成」という教養観を得た。」88頁
「挨拶は人格の表現。言葉は口から出るものではなく、心から出るもの。」92頁
「だが、こうした挨拶は誰にでもできるわけではない。この校長の人格個性が然らしめたのである。「個性」とは「特化された普遍」(西田幾多郎)であるから、誰しもが努力すれば別の個性的挨拶が可能となるはずである。」92-93頁
人格的芳香も、その人に人格が人並み以上だと認められたときに漂ってくることになる。ところが、今日では人格的芳香(品性)ではなく、人工的香水で人間性をごまかしているようにも思える。」128頁

そして「教育基本法」に関する言及は、なかなか味わい深い。

「教育的教養、それを端的にひと言で要約すれば、「教育基本法の教育学」ということができるだろう。」120頁

こういう文章を見ると、ああこの人は法学者なのではなく教育学者なのだ、と思う。私の大学での講義も「教育基本法の教育学」を志しているわけだが、さて、はたして学生には言葉が伝わっているかどうか。

森隆夫『校長室はなぜ広い―教育深化論』教育開発研究所、2012年