アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

アイデンティティの定義

ありがちな勘違い

アイデンティティとは、個性のことではありません。もしも個性と同じ意味なら、「個性」と言えば用が足りるわけで、わざわざ「アイデンティティ」という別の言葉を使う必要はありません。
また、Wikipedia(2019年12月閲覧)の「アイデンティティ」には「アイデンティティとは自己と同一化している要素」と書いてありますが、トンデモない大間違いです。アイデンティティは、「要素」なんかではありません。Wikipedeiaにはいい加減なデタラメが書いてあることがしばしばあるので、注意しましょう。

アイデンティティの定義

わかりやすく言えば、アイデンティティとは「私が私であること」を表現する言葉です。

「えっ、私が私であるって、当たり前じゃ」と思う人がいるかもしれませんが、実はこれ、よく考えると当たり前のことではありません。以下、アイデンティティが「私が私であること」を示す言葉であることを、哲学的に吟味していきましょう。

ちなみにエリクソンなどが使っているような歴史が浅い心理学的アプローチについては議論の対象としませんので、ご了承ください。

要素が変化しても変わらないもの

私が私であることを証明したいとき

たとえば「IDカード」の「ID」は、identityあるいはidentificationという言葉の最初の2文字を取ったものです。
さて、IDカードが必要になるのは、どんなときでしょうか? たとえばレンタルビデオ屋でDVDを借りたいとき、カウンターにDVDを持っていって「貸してくれ」と言ったところで、貸してくれるわけではありません。あなたがちゃんとした会員であることを店員に証明しなければ、DVDは借りられません。しかし「私は確かに会員だ」と言い張ったところで、店員さんとしては本当かどうか、確かめる手段はありません。こういうときにIDカードの出番です。店員さんにIDカードを示せば、きっと「いつもありがとうございます」と返事をしてもらえるでしょう。
IDカードを示すことで店員さんが理解するのは、「会員であるあなたと、目の前のあなたが、確かに同一人物だ」ということです。店員さんは「あなたがあなた」であることを理解します。私自身には「会員である私と、いまここにいる私が同一人物である」ことは自明なことですが、これを他人に分からせるためにIDカードが役に立つわけです。

だから、identityのことを「自我同一性」と翻訳したりします。「会員である私と、いまここにいる私が、同一」であることを示しているからです。あるいはidentityは「存在証明」と翻訳されることがあります。「いまここにいる私が、会員である私と同じ存在であることを証明する」という役割を果たしているからです。

本当に同一なのか?

しかし、本当に「会員である私」と「いまここでDVDを借りようとしている私」は、同一人物なのでしょうか?
人間は、日々、新陳代謝を繰り返しています。人間は生命活動によってエネルギーを消費し、老廃物を体外に排出します。失った分のエネルギーは、体外から栄養として取り入れて、消化し、新たに自分の肉体としなければいけません。そうして人間は、常に外部から栄養をとりいれると同時に老廃物を外部に排出しています。
つまり、いま現在の私を構成している物質は数ヶ月後にはほとんどが排出され、数ヶ月後の私の体は、これから取り入れるであろう食物の栄養素によって組み立てられることになります。現在の私の体は、数ヶ月前の私の体とは違うし、数ヶ月後の私の体とも異なっているでしょう。こんなふうに新陳代謝を繰り返す私は、本当に過去の私と同じだと言えるのでしょうか?

東洋の例=鴨長明

実はそういう疑問に対して、われわれ人類はかなり昔から取り組んできております。たとえば鴨長明はこのように言っています。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
鴨長明『方丈記』

河というものは依然として河であるにも関わらず、しかしそれを構成する水は刻一刻と変化しています。人間というものが依然として人間であるにも関わらず、しかしそれを構成する物質が刻一刻と変化することと、同じような現象です。
ところが鴨長明は、続けて「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」と述べます。鴨長明は、河が「同じであること」に注目せず、水の泡が「刻一刻と変化する」ことの方に物事の本質を見ています。

いろは歌も、鴨長明と同じように「移り変わること」に物事の本質を見ていますね。

色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
(美しく咲き誇っている花も散ってしまった。われわれ人間だって、いつまでも同じだと言えるだろうか。いや言えない。みんな結局は死んでしまう。)

「ものごとの本質は一定ではない」ということが、東洋的思考の基本にあります。

西洋の例=アリストテレス

ところが同じ現象に対して、西洋の哲学者は「同じ河である」ことのほうに本質を見ます。たとえば古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、鴨長明と同じく河の流れを例に挙げて、次のように言っています。

「ちょうど河や泉は、絶えず或る水は流れ来り或る水は流れ去っていても、それらを同一であるとわれわれが言うのを常としているように」
アリストテレス『政治学』1276b

鴨長明とアリストテレスが同じ現象を見ているにも関わらず、物事の捉え方が完全に正反対になっていることが分かります。同じ河の流れを見て、鴨長明が「変化」のほうを本質と見ているのに対し、アリストテレスは「同一である」ことのほうを本質と考えています。
そしてアリストテレスは、河の流れのたとえに続けて、次のように言い切っています。

「水の流れのようなことを理由にして人間は同一であると言わなければならない」
アリストテレス『政治学』1276b

どんなに水が変わろうとも河の流れが同じであるように、どんなに構成物質が変わろうとも人間は同一である、というわけです。ここにアイデンティティという言葉の本来の意味を見ることができます。
プラトンも、同じようなことに言及しています。

「例えば人が子供の時から老人に成ってしまうまで、同じ人といわれるようなものなのです。実際彼は自分の内には瞬時も同一要素を保有するようなことがないが、それでもなお終始同じ名で呼ばれている。しかも他方彼は髪も肉も骨も血も、要するに肉体の全体にわたって普段に新しくなるとともに、旧いものを失ってゆくのです。」
プラトン『饗宴』

もしもただ単に「同一」と言うだけでは、アイデンティティの本質を捉えているとは言えません。「どんなに要素が変化しようとも、同一である」というところが、アイデンティティという言葉の本質です。ここが、「個性」や「性質」という他の類語と決定的に異なるポイントです。そして、だからこそアイデンティティを「要素」としてしまったWikipediaは最悪の間違いを犯しているわけです。2400年前に、プラトンに間違いを指摘されています。「要素」が変化したとしても「アイデンティティ」は変わりません。つまり「要素」と「アイデンティティ」は一切の関係がないのです。

川の流れのように

というわけで、鴨長明の見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は、構成要素が違っているため別の人物ということになるでしょう。が、アリストテレスの見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は問題なく同一人物ということになります。
ではたとえば、美空ひばりが歌った「川の流れのように」では、どうでしょう?

ああ 川の流れのように ゆるやかにいくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく空が黄昏に染まるだけ
秋元康作詞『川の流れのように』

全編を通じて、変化を感じながらも、ひとつ芯の通った人生観を感じる歌詞ではあります。鴨長明から800年を経て、日本人も西洋的なアイデンティティの感覚を身につけるようになってきたということかもしれません。

主語としてブレないというあり方

私の変わらないところとは何か?

さて、以上までの検討で、「私が私であること」というアイデンティティの定義の具体的な中身が見えてきました。より正確に言えば、「たとえ私を構成している様々な要素が変化したとしても、私が私であること」と言えそうです。水がどれだけ流れていっても河が相変わらず河であるように、私は私であるようです。
が、その場合の「変わらない私」とはいったい何でしょうか? いったい私のどこが相変わらず私なのでしょうか?

年齢は変わります。身長も体重も変わります。肌の張りも変わります。名前だって、その気になれば変えることができます。性格だって、変えることができます。
それら変わることができるものが全て変わったとしても、相変わらず変わらない私とは、何を指しているのでしょうか?
たとえばルソーはこう言っています。

「わたしによくわかっていることは、「わたし」の同一性は記憶によってのみたもたれること、そして、じっさいに同一のものであるためには、わたしは以前にもあったことを思い出す必要があることだ。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』中158頁

ルソーによれば、記憶によって「私が私である」ことが保証されるようです。実はジョン・ロックも、同じように記憶の継続性がアイデンティティを保証すると言っています。ではしかし、記憶がなくなったら、私は私でなくなってしまうのでしょうか? 昨日の昼に食べたものさえ忘れている私は、もはや私ではないのでしょうか?
社会学者の大澤真幸は、次にように言い切っています。

「かつてロックは、人格の同一性とは記憶の継続性にほかならない、と論じた。しかし、この説は、明らかに間違っている。」
大澤真幸『自由という牢獄-責任・公共性・資本主義』岩波書店、105頁

どうも「記憶」というものを持ち出すと、少々厄介な議論に迷い込んでしまいそうです。

私にとって変わらないものとは何か?

改めて、私とは何なのか、一から考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

上に列挙した「私」の説明を吟味してみましょう。
たとえば「私は、東京都民である。」という文章は、2018年現在においては正しいのですが、かつて私は埼玉県民でしたし、その前は愛知県民でした。今後、東京都民でなくなる可能性は極めて高いでしょう。「東京都民」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
同様に、2018年現在、私は「准教授」ですが、将来は嬉しいことに教授に昇任することもあれば、クビになって失業者となる可能性もあるでしょう。「准教授」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
血液型は変わらなそうな気もしますが、問題なく、変わります。2008年に骨髄移植手術をした市川團十郎は、血液型がAからOに変わりました。ちなみに性格は変わらなかったそうです。ということで、血液型も、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
「男」はどうでしょう? これだって現在は変更可能なものと考えられています。
としても、出身地や生年月日はさすがに変わらないのではないでしょうか。このように変わらないものを「アイデンティティ」とするべきなのでしょうか。しかしよくよく考えてみれば、東京都民になったり男に生まれたのがたまたまであったように、愛知県に生まれたり1972年に生まれたのも、たまたまのように思えてきます。たまたまそうであっただけのものを、本当にアイデンティティとして大丈夫なのでしょうか?

再び、私にとって変わらないものとは何か?

もう一度、私とは何なのか、しっかり考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

この文章を無心にじっと眺めていると、実は変わらないところがあることに気がつきます。実はよく見ると、縦の列が、変わっていないのです。一つ目の文章も、二つ目の文章も、常に主語が「私は」となっています。文章を10個並べようが、100個並べようが、1000個並べようが、どこまでいっても絶対に変わりません。私を説明する文章は、常に「私は」という主語で始まります。実は変わらないものとは、主語だったのです。

一方、述語はめまぐるしく変わり、一定を保つことがありません。述語には同一性を認めることはできません。

主語と述語

主語にはアイデンティティが成立し、述語にはアイデンティティが成立しません。このことは、日常的な経験からも裏付けることができます。

たとえば私が女性を口説こうとしたとして、「私は愛知県出身なんだよね。イチローと同じなんだ、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。「私は准教授なんだよね、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。どれだけ述語を積み重ねていっても、私の人となりを伝えることはできません。なぜなら、たまたまそうなっているだけだからです。たまたまそうなっているだけだから、そこに私の本質は見つけられません。どれだけ述語を増やして「私」を説明しても、どこまでいっても「たまたま」を抜けられないので、説得力が生じないのです。これが「アイデンティティが成立していない」という状態です。
しかし一方、「私は、こう思う」とか「私は、こう考える」とか「私は、こう信じる」とか「私は、こういう人間になりたい」とか「私は、こういうふうに社会と関わっていきたい」などと、主語に立ってものを語る人は、一本筋が通っているように見えます。相手がだれだろうが、自分の立場がどうだろうが、ブレていないからです。主語で語る人は、どんなに述語が変化しようと、語るべき内容は変わりません。これが「アイデンティティが成立している」という状態です。

このように、述語に寄りかかるような語りがたいへん情けなく、主語に立つ語りには筋が通っているように見えることは、ギリシア時代の哲学者にも気づかれています。たとえばアナカルシスについて、次のような言葉が伝えられています。

「彼がスキュティア人であることを、あるアッティカの人間が嘲ったとき、「なるほど、わたしの祖国はわたしにとって恥であるが、君の方は祖国の恥になっているのだ」と言い返した。」
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波文庫、96-97頁。

私の価値は述語によって決まるのではなく、主語のあり方によって決まるのだという、ブレない姿を見ることができます。述語に寄りかかるのではなく、主語としてブレない姿勢を保つことが、「アイデンティティ」です。

アイデンティティが表現されている具体例

僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
尾崎豊『僕が僕であるために』

タイトルそのものがアイデンティティ概念を表現しています。歌詞を解釈するのは野暮ではありますが、敢えて解釈を加えてみます。「勝ち続ける」とは、自分自身の在り方が主語としてブレないということを意味します。外側からやってくる「述語」に飲み込まれた時が、「負け」です。「男だから」とか「中学生だから」とか、外在的な述語によって自分自身の在り方を規定されるのが「負け」です。この場合、「勝ち続ける」という言葉の本質は、「勝つ」ではなく「続ける」のほうにあります。常に主語であり「続ける」ことがアイデンティティの本質です。
この曲、ミスチルもライブでカバーしましたね。

秋が終われば冬が来る ほんとうに早いわ
私がオバさんになったら あなたはオジさんよ
かっこいいことばかりいっても お腹がでてくるのよ
私がオバさんになっても 本当に変わらない?
森高千里『私がオバさんになっても』

年をとると、派手な水着は着られなくなります。ミニスカートもはけなくなります。お腹も出てきます。目に見えるものは必ず変わります。それでも「変わらない」ものはあるのか? あるわけです。「あなたが私を愛する」という「主語としての在り方」です。述語が変わっても主語が変わらないことをアイデンティティと呼んでいます。

僕は僕のままで ゆずれぬ夢を抱えて
どこまでも歩き続けていくよ いいだろう? Mr.myself
君は君のままに 静かな暮らしの中で
時には風に身を任せるのも いいじゃない Oh, miss yourself
Mr.Children『innocent world』

「Mr.myself」という単語、天才すぎるだろうと、震えます。アイデンティティ概念を過不足なく言い当てている一言です。凄すぎ。野暮ながら、いちおう解釈を加えておくと、直前に語られている「僕は僕のままで」が、もちろんアイデンティティの表現です。そして「myself」とは「再帰的な自己」を表わす言葉ですが、そこに「Mr.」とつけることで一挙に「主語」と化しているわけです。自分自身が常に「主語」であり続けるというアイデンティティ概念の本質をたった2語で突き刺す、類を見ない強烈な表現です。「様々な角度から物事を見ていたら自分を見失ってた」とか「いつの日もこの胸に流れてるメロディ」も、アイデンティティの在り方を端的に示す天才的な歌詞です。

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるなら
僕だってそうなんだ
Mr.Children『名もなき詩』

神ならぬ身の人間にはアイデンティティを確立することが本質的に不可能であることを示唆している歌詞です。自分が主体的に選んでいたと思っていたものがいつのまにか述語になってしまったものが「自分らしさの檻」です。思い起こすのは、岡倉天心が「最悪の模倣とは自分自身を模倣することだ」と言っていたことです。「自分らしさの檻」とは、「自分自身を模倣すること」です。述語に縛られている状態です。しかし、人間は、その檻から逃れられません。岡倉天心は、芸術という創作活動だけがその可能性を持っていると考えていたのでしょう。

僕が僕であるため oh I have to go
君が君であるため oh you’ll have to go
oh we’ll have to go
Mr.Children『SINGLES』

日本語の部分は、まさにそのままアイデンティティの表現です。気になるのは英語の部分、「I」は現在形なのに対し、「you」と「we」は未来形になっています。この違いには、必ず何かしらの意味が込められています。そしてそれはアイデンティティを超えて「他者性」へ開かれる端緒なのかもしれません。

「僕はボクさ」と主張をしたって 僕もボクをよく知らなくて
ぐるぐる自分のしっぽを追いかけ回して
ひょっとしたらあなたの瞳に いつか出会った本当の僕が
迷い込んでやしないかなぁ?って探してみる
きっと今日もあなたの瞳で
僕も知らない新しい僕は ぐるぐる旅をしてる
Mr.Children『fanfare』

ここではもはや古典近代的な再帰的アイデンティティを超えて、他者の目から見た自分を自分の本質として受け容れる「他者性」というものに拓かれる回路が示されています。

明日にはきっと今日も今日じゃないし
いつもがいつもどおりでも なんか違う ちょっと違う
誰かがわたしになっていく わたしがわたしになりたいの
相対性理論『わたしがわたし』

そのまま、アイデンティティ概念をテーマにしている歌です。「誰かがわたしになっていく」とは、「要素」の次元の話です。私の要素であったはずのものが、誰か別の人のものになっていきます。たとえば可愛かった私は年をとってオバさんになって、別の誰かが可愛くなります。私が彼の恋人であったはずなのに、別の人が彼の恋人になります。要素の次元では、すべてが変わっていきます。それでは「わたしがわたしになりたい」とは、どういうことでしょうか? 要素の次元に留まっていたら、「わたしがわたし」になることはできるでしょうか?

まとめ:「私が私である」とは?

さて、ここまで来て、「アイデンティティとは、私が私である」という定義の中身が、かなり明らかになったようです。たとえどんなに環境や境遇が変化しようとも、相手が変わろうとも、それでも私は主語として変わらない私である。そういう意味で「私が私である」ということが、アイデンティティです。逆に、どれだけ述語の要素をたくさん積み上げても、知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいたり、ぐるぐる自分のしっぽを追いかけるようなもので、永遠に「わたし」には辿り着きません。
だから、「日本人としてアイデンティティを持つ」とか、「男としてアイデンティティを持つ」という発言は、主語に重きを置くという本来の意味からすれば、述語に寄りかかるようなとても奇妙な言い方になっているわけです。本来なら、「日本人であろうとなかろうと、私は私」とか「男だろうが女だろうが、私は私」とならなければいけないはずです。

「なにがあっても、どうなろうと、私は私」と、言えますか? 言えるとしたら、アイデンティティは確立しています。