アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

アイデンティティの定義

ありがちな勘違い

アイデンティティとは、個性のことではありません。個性とは別の状態を示す言葉です。もしも個性と同じ意味なら、「個性」と言えば用が足りるわけで、わざわざ「アイデンティティ」という別の言葉を使う必要はありません。
また、Wikipedia(2018年9月閲覧)には「アイデンティティとは自己を確立する要素の事」とありますが、トンデモない間違いです。アイデンティティは、「要素」なんかではありません。

アイデンティティの定義

わかりやすく言えば、アイデンティティとは「私が私であること」を表現する言葉です。

「えっ、私が私であるって、当たり前じゃ」と思う人がいるかもしれませんが、実はこれ、よく考えると当たり前のことではありません。以下、アイデンティティが「私が私であること」を示す言葉であることを、哲学的に吟味していきましょう。

ちなみにエリクソンなどが使っているような歴史が浅い心理学的アプローチについては議論の対象としませんので、ご了承ください。

要素が変化しても変わらないもの

私が私であることを証明したいとき

たとえば「IDカード」の「ID」は、identityあるいはidentificationという言葉の最初の2文字を取ったものです。
さて、IDカードが必要になるのは、どんなときでしょうか? たとえばレンタルビデオ屋でDVDを借りたいとき、カウンターにDVDを持っていって「貸してくれ」と言ったところで、貸してくれるわけではありません。あなたがちゃんとした会員であることを店員に証明しなければ、DVDは借りられません。しかし「私は確かに会員だ」と言い張ったところで、店員さんとしては本当かどうか、確かめる手段はありません。こういうときにIDカードの出番です。店員さんにIDカードを示せば、きっと「いつもありがとうございます」と返事をしてもらえるでしょう。
IDカードを示すことで店員さんが理解するのは、「会員であるあなたと、目の前のあなたが、確かに同一人物だ」ということです。店員さんは「あなたがあなた」であることを理解します。私自身には「会員である私と、いまここにいる私が同一人物である」ことは自明なことですが、これを他人に分からせるためにIDカードが役に立つわけです。

だから、identityのことを「自我同一性」と翻訳したりします。「会員である私と、いまここにいる私が、同一」であることを示しているからです。あるいはidentityは「存在証明」と翻訳されることがあります。「いまここにいる私が、会員である私と同じ存在であることを証明する」という役割を果たしているからです。

本当に同一なのか?

しかし、本当に「会員である私」と「いまここでDVDを借りようとしている私」は、同一人物なのでしょうか?
人間は、日々、新陳代謝を繰り返しています。人間は生命活動によってエネルギーを消費し、老廃物を体外に排出します。失った分のエネルギーは、体外から栄養として取り入れて、消化し、新たに自分の肉体としなければいけません。そうして人間は、常に外部から栄養をとりいれると同時に老廃物を外部に排出しています。
つまり、いま現在の私を構成している物質は数ヶ月後にはほとんどが排出され、数ヶ月後の私の体は、これから取り入れるであろう食物の栄養素によって組み立てられることになります。現在の私の体は、数ヶ月前の私の体とは違うし、数ヶ月後の私の体とも異なっているでしょう。こんなふうに新陳代謝を繰り返す私は、本当に過去の私と同じだと言えるのでしょうか?

東洋の例=鴨長明

実はそういう疑問に対して、われわれ人類はかなり昔から取り組んできております。たとえば鴨長明はこのように言っています。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
鴨長明『方丈記』

河というものは依然として河であるにも関わらず、しかしそれを構成する水は刻一刻と変化しています。人間というものが依然として人間であるにも関わらず、しかしそれを構成する物質が刻一刻と変化することと、同じような現象です。
ところが鴨長明は、続けて「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」と述べます。鴨長明は、河が「同じであること」に注目せず、水の泡が「刻一刻と変化する」ことの方に物事の本質を見ています。

いろは歌も、鴨長明と同じように「移り変わること」に物事の本質を見ていますね。

色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
(美しく咲き誇っている花も散ってしまった。われわれ人間だって、いつまでも同じだと言えるだろうか。いや言えない。みんな結局は死んでしまう。)

「ものごとの本質は一定ではない」ということが、東洋的思考の基本にあります。

西洋の例=アリストテレス

ところが同じ現象に対して、西洋の哲学者は「同じ河である」ことのほうに本質を見ます。たとえば古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、鴨長明と同じく河の流れを例に挙げて、次のように言っています。

「ちょうど河や泉は、絶えず或る水は流れ来り或る水は流れ去っていても、それらを同一であるとわれわれが言うのを常としているように」
アリストテレス『政治学』1276b

鴨長明とアリストテレスが同じ現象を見ているにも関わらず、物事の捉え方が完全に正反対になっていることが分かります。同じ河の流れを見て、鴨長明が「変化」のほうを本質と見ているのに対し、アリストテレスは「同一である」ことのほうを本質と考えています。
そしてアリストテレスは、河の流れのたとえに続けて、次のように言い切っています。

「水の流れのようなことを理由にして人間は同一であると言わなければならない」
アリストテレス『政治学』1276b

どんなに水が変わろうとも河の流れが同じであるように、どんなに構成物質が変わろうとも人間は同一である、というわけです。ここにアイデンティティという言葉の本来の意味を見ることができます。
プラトンも、同じようなことに言及しています。

「例えば人が子供の時から老人に成ってしまうまで、同じ人といわれるようなものなのです。実際彼は自分の内には瞬時も同一要素を保有するようなことがないが、それでもなお終始同じ名で呼ばれている。しかも他方彼は髪も肉も骨も血も、要するに肉体の全体にわたって普段に新しくなるとともに、旧いものを失ってゆくのです。」
プラトン『饗宴』

もしもただ単に「同一」と言うだけでは、アイデンティティの本質を捉えているとは言えません。「どんなに要素が変化しようとも、同一である」というところが、アイデンティティという言葉の本質です。ここが、「個性」や「性質」という他の類語と決定的に異なるポイントです。

川の流れのように

というわけで、鴨長明の見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は、構成要素が違っているため別の人物ということになるでしょう。が、アリストテレスの見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は問題なく同一人物ということになります。
ではたとえば、美空ひばりが歌った「川の流れのように」では、どうでしょう?

ああ 川の流れのように ゆるやかにいくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく空が黄昏に染まるだけ
秋元康作詞『川の流れのように』

全編を通じて、変化を感じながらも、ひとつ芯の通った人生観を感じる歌詞ではあります。鴨長明から800年を経て、日本人も西洋的なアイデンティティの感覚を身につけるようになってきたということかもしれません。

主語としてブレないというあり方

私の変わらないところとは何か?

さて、以上までの検討で、「私が私であること」というアイデンティティの定義の具体的な中身が見えてきました。より正確に言えば、「たとえ私を構成している様々な要素が変化したとしても、私が私であること」と言えそうです。水がどれだけ流れていっても河が相変わらず河であるように、私は私であるようです。
が、その場合の「変わらない私」とはいったい何でしょうか? いったい私のどこが相変わらず私なのでしょうか?

年齢は変わります。身長も体重も変わります。肌の張りも変わります。名前だって、その気になれば変えることができます。性格だって、変えることができます。
それら変わることができるものが全て変わったとしても、相変わらず変わらない私とは、何を指しているのでしょうか?
たとえばルソーはこう言っています。

「わたしによくわかっていることは、「わたし」の同一性は記憶によってのみたもたれること、そして、じっさいに同一のものであるためには、わたしは以前にもあったことを思い出す必要があることだ。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』中158頁

ルソーによれば、記憶によって「私が私である」ことが保証されるようです。実はジョン・ロックも、同じように記憶の継続性がアイデンティティを保証すると言っています。ではしかし、記憶がなくなったら、私は私でなくなってしまうのでしょうか? 昨日の昼に食べたものさえ忘れている私は、もはや私ではないのでしょうか?
社会学者の大澤真幸は、次にように言い切っています。

「かつてロックは、人格の同一性とは記憶の継続性にほかならない、と論じた。しかし、この説は、明らかに間違っている。」
大澤真幸『自由という牢獄-責任・公共性・資本主義』岩波書店、105頁

どうも「記憶」というものを持ち出すと、少々厄介な議論に迷い込んでしまいそうです。

私にとって変わらないものとは何か?

改めて、私とは何なのか、一から考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

上に列挙した「私」の説明を吟味してみましょう。
たとえば「私は、東京都民である。」という文章は、2018年現在においては正しいのですが、かつて私は埼玉県民でしたし、その前は愛知県民でした。今後、東京都民でなくなる可能性は極めて高いでしょう。「東京都民」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
同様に、2018年現在、私は「准教授」ですが、将来は嬉しいことに教授に昇任することもあれば、クビになって失業者となる可能性もあるでしょう。「准教授」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
血液型は変わらなそうな気もしますが、問題なく、変わります。2008年に骨髄移植手術をした市川團十郎は、血液型がAからOに変わりました。ちなみに性格は変わらなかったそうです。ということで、血液型も、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
「男」はどうでしょう? これだって現在は変更可能なものと考えられています。
としても、出身地や生年月日はさすがに変わらないのではないでしょうか。このように変わらないものを「アイデンティティ」とするべきなのでしょうか。しかしよくよく考えてみれば、東京都民になったり男に生まれたのがたまたまであったように、愛知県に生まれたり1972年に生まれたのも、たまたまのように思えてきます。たまたまそうであっただけのものを、本当にアイデンティティとして大丈夫なのでしょうか?

再び、私にとって変わらないものとは何か?

もう一度、私とは何なのか、しっかり考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

この文章を無心にじっと眺めていると、実は変わらないところがあることに気がつきます。実はよく見ると、縦の列が、変わっていないのです。一つ目の文章も、二つ目の文章も、常に主語が「私は」となっています。文章を10個並べようが、100個並べようが、1000個並べようが、どこまでいっても絶対に変わりません。私を説明する文章は、常に「私は」という主語で始まります。実は変わらないものとは、主語だったのです。

一方、述語はめまぐるしく変わり、一定を保つことがありません。述語には同一性を認めることはできません。

主語と述語

主語にはアイデンティティが成立し、述語にはアイデンティティが成立しません。このことは、日常的な経験からも裏付けることができます。

たとえば私が女性を口説こうとしたとして、「私は愛知県出身なんだよね。イチローと同じなんだ、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。「私は准教授なんだよね、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。どれだけ述語を積み重ねていっても、私の人となりを伝えることはできません。なぜなら、たまたまそうなっているだけだからです。たまたまそうなっているだけだから、そこに私の本質は見つけられません。どれだけ述語を増やして「私」を説明しても、どこまでいっても「たまたま」を抜けられないので、説得力が生じないのです。これが「アイデンティティが成立していない」という状態です。
しかし一方、「私は、こう思う」とか「私は、こう考える」とか「私は、こう信じる」とか「私は、こういう人間になりたい」とか「私は、こういうふうに社会と関わっていきたい」などと、主語に立ってものを語る人は、一本筋が通っているように見えます。相手がだれだろうが、自分の立場がどうだろうが、ブレていないからです。主語で語る人は、どんなに述語が変化しようと、語るべき内容は変わりません。これが「アイデンティティが成立している」という状態です。

このように、述語に寄りかかるような語りがたいへん情けなく、主語に立つ語りには筋が通っているように見えることは、ギリシア時代の哲学者にも気づかれています。たとえばアナカルシスについて、次のような言葉が伝えられています。

「彼がスキュティア人であることを、あるアッティカの人間が嘲ったとき、「なるほど、わたしの祖国はわたしにとって恥であるが、君の方は祖国の恥になっているのだ」と言い返した。」
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波文庫、96-97頁。

私の価値は述語によって決まるのではなく、主語のあり方によって決まるのだという、ブレない姿を見ることができます。述語に寄りかかるのではなく、主語としてブレない姿勢を保つことが、「アイデンティティ」です。

まとめ:「私が私である」とは?

さて、ここまで来て、「アイデンティティとは、私が私である」という定義の中身が、かなり明らかになったようです。たとえどんなに環境や境遇が変化しようとも、相手が変わろうとも、それでも私は私としてブレない。そういう意味で「私が私である」ということが、アイデンティティです。逆に、どれだけ要素をたくさん積み上げても、決して「わたし」には辿り着きません。
だから、「日本人としてアイデンティティを持つ」とか、「男としてアイデンティティを持つ」という発言は、主語に重きを置くという本来の意味からすれば、述語に寄りかかるようなとても奇妙な言い方になっているわけです。本来なら、「日本人であろうとなかろうと、私は私」とか「男だろうが女だろうが、私は私」とならなければいけない言葉です。