「否定神学」タグアーカイブ

【要約と感想】納富信留『ソフィストとは誰か?』

【要約】ソフィストは不当に低く評価されています。一つ目に、ソクラテス以前の知的営みを自然哲学の領域のみに限定する誤りにおいて。二つ目は、ソクラテスの活動した時代の具体的な知的状況を見誤ることにおいて。本書は、ソフィストの知的達成点を具体的に明らかにし、その作業を通じて「哲学者とは何か」を逆照射します。

【感想】ちくま学芸文庫版ではなく、オリジナルの人文書院版で読んだんだけど。表紙の絵が、例によって「アテネの学堂」なのはいいとして。トリミングが、人文書院版では多様な哲学者が含まれているのに、ちくま学芸文庫版はプラトンとアリストテレスをクローズアップしている。本書の趣旨からすると、人文書院版の表紙の方が相応しい気がするなあ。

で、本書の成果が正しければ、「「ソクラテスこそが哲学者であり、ソフィストと生涯対決した」というプラトン対話篇の図式は、プラトンが独自にとった戦略である可能性が高い。」(66頁)というように、なかなか凄いことを言える。「知」とか「無知」という焦点の概念に対しても重要な示唆を与える、大切な仕事のように思える。

あるいは、「哲学者がソフィストを問題にし、それをきびしく批判するのは、「哲学者」という生き方が真理の探究者として成立する契機を、「ソフィストではない」という仕方で追求したからである。」(290頁)という結論を、「否定の否定」と把握してよいか、どうか。

納富信留『ソフィストとは誰か?』人文書院、2006年

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】小島和男『プラトンの描いたソクラテス』

【要約】テキストそのもののみから分かることを丹念に当たった結果、プラトンはソクラテスの徒ではありませんでした。

【感想】表題の問いに対する回答に関しては、ちょっと結論を急ぎすぎてるかなあという印象だけど、まあ、それはいいか。

ソクラテスが言う「知」と「無知」の間の矛盾に関しては、私も前から気になっていたので、本書が示すような見解があると知り、大いに参考になった。「ソクラテスの中にははっきりと「悪と分かっていること」と、「よいか悪いか分からないこと」の二つがあり、そういった構造のもとで、「美しく善なることを全く知らない」と言っている」(60頁)ことが論理的な要点。最初から感じていたように、ソクラテスは積極的に肯定的な何らかの知を示すのではなく、「否定」を重ねることでターゲットを絞っていくということ。この手続きは、「否定の否定」によって語り得ぬものを語ろうとする否定神学へと向かうことになるのだろうかね。

あと、ソクラテスの「神」が「措定かつ前提」(160頁)と言い切ってくれたのはありがたい。私はそこまで言い切れる自信はないが、言いたいので、都合良く引用していきたい。

小島和男『プラトンの描いたソクラテス―はたしてプラトンはソクラテスの徒であったか』晃洋書房、2008年

【要約と感想】斎藤忍随『プラトン』講談社学術文庫

【要約】近年の研究ではプラトン中期と後期を峻別して、後期にはイデア論を放棄したと主張する意見が強くなってきていますが、著者は大反対です。後期にもイデア論は成立しています。

【感想】もっとも熱が入っているのは、もともと後期著作と思われていた『ティマイオス』が実は中期の著作ではないかという議論に対する検討だ。これが著者にとって大問題となるのは、イデア論放棄問題が関わってくるからだ。

後期入口の著作である『パルメニデス』では、イデア論に対して論理的な批判が加えられている。そしてその後に書かれる後期著作においては、エレア派の影響が強くなっており、表面的にはイデア論は背後に退いている。これを以て、多くの研究者が「イデア論放棄」と考えているわけだが、著者はイデア論は維持されていると考える。イデア論が維持されていると考えるのは、著者が「本質的なイデア論」(著者の言葉では「典型イデア」)と「応用的なイデア論」(著者の言葉では「あずかりイデア」)を区別して考えるからだ。確かに応用的なイデア論の方には論理的な難点を認めたが、本質的なイデア論のほうは維持されていると考えるわけだ。

個人的にも、その考え方にはある程度の説得力があると思う。イデア論を無際限に現実のモノに適用していくと、話は当然おかしな方向に向かっていく。しかしそのような批判と、「正真正銘本物の知識(ドクサ=思い込みとは異なる何か)」というものがどこかに必ず存在しているはずだという信念を抱くことは、必ずしも矛盾するわけではない。この「正真正銘本物の知識」を著者が「典型イデア」と呼んでいるのであれば、私の個人的な感想と大きくズレるものではないだろうと思う。(さらに言うと、「正真正銘本物の知識」という信念が有効なのは、人がどう生きるかという「価値」の領域に限るが)

ところで、本書は前半部で概説、後半部で主要著作からの抜粋翻訳が掲載されているわけだが、この翻訳がとても読みやすい。岩波文庫版で分からなかったところが、かなり明確に分かったような気になる。ありがたい。抜粋部分には「否定神学」へと発展していく箇所を前面に打ち出してあったような気がする。「否定」というものの積極的な意義を打ち出す西洋哲学の伝統がプラトン以来のものだと改めて確認できた。

斎藤忍随『プラトン』講談社学術文庫、1997年

【要約と感想】プラトン『饗宴』

【要約】エロスとは何らかの対象というよりは、神(智者)と人間(無智者)を媒介する中間の存在です。エロスの働きによって、人は真や善へと向かう「愛智者」となります。

【感想】究極の真実に、人間は決してたどり着くことはできない(無知の知)。しかし人は常に真実を求めて止まない。エロスとは真実へと向かう動因であり、神と人間を繋ぐ「メディア(中間物)」だ。このように「メディア」という観点を前面に打ち出すことで、本書はプラトン哲学体系全体の中で特異な位置と役割を持つように思う。「メディア」論が適切な位置を得て、ダイナミックな哲学体系となる。

関連して、本書は、否定神学に対する違和感に一つの言葉を与えてくれる。否定神学は、排中律を駆使することで成り立っている。しかし本書は、「中を排除することの愚」を繰り返し主張する。たとえば「美しくないものは必然的に醜いとか、善くないものもまた同様に悪いとかいう風に考えてはいけません」というように。

本書が掬い取った「中」すなわち「メディア」の持つ意義という観点は、中世スコラ学の中で消えて亡くなるように見える。復活するのはカント『判断力批判』あたりか。

プラトン/久保勉訳『饗宴』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】大澤真幸『自由という牢獄』

【要約】無際限に自由になったかと思われるときほど、実は自由ではない。なんでも選択できることによって、逆に自由を可能にする前提が崩壊しているからだ。自由を可能にするためには、「他でもありえた」という根源的な偶有性に開かれ、逆に「まさにこの私」という責任を引き受けなければならない。

■確認したかったことで、期待通り書いてあったこと=郵便的を経た後も、否定神学全開。

【感想】宮台真司は「偶発性」といい、大澤真幸は「偶有性」という。「偶然性」から自己のかけがえのなさを追究した九鬼周造からどれだけ隔てられているのか、というところは気になる。そんなに変わっていない気はする。

しかしこの偶有性という概念は、「排中律」を無効化して、超えていく理屈にはならないのかしらん。大澤は偶有性のことを「必然性と不可能性の双方の否定によって定義できる様相」と言っているけど、そうだとしたら、偶有性を認める世界では、大澤得意の否定神学的理論は使えないはずだ。あるいは、「否定の否定」が過剰さを産出してしまうという否定神学的な操作を成立させているのは、「否定」という操作をする際に、「必然性と不可能性」を都合良く認めたり認めなかったりしているからじゃないのか。「必然性と不可能性」の間を認めない「排中律」が成立しているのなら、「否定の否定」は、「ただの肯定」になるはずだ。「否定の否定」という操作が過剰さを産出するためには、「必然性と不可能性」の間に「排中律」が成立していてはいけない。だとすれば、「人格」や「自由」といった概念に過剰さをもたらしているのは、否定神学的操作そのものではなく、「排中律の破れ」ということになる。「否定の否定」によって過剰さがもたらされるのではなく、否定神学的操作を加えることによって、もともとあった「排中律の破れ」という事態があからさまに暴露されるということではないか。

【眼鏡論に使える】本書では「根源的偶有性」という概念を軸に、アリストテレスのいう「潜勢態」の議論に展開する。眼鏡的に言えば「眼鏡をかけている」と「眼鏡をかけていない」が偶有的であることを考えてみると、新城カズマが提唱した「未がねっ娘」という概念の重要性が際立つ。未がねっ娘とは、眼鏡っ娘という「現勢態=現実性」から純粋に独立した、「潜勢態(潜在的可能性)としての存在」である。それは「眼鏡をかけない」という可能性、つまり「眼鏡をしないでいる」という、己の内なる受動性のことである。アリストテレスの議論の含意は、「眼鏡っ娘への自由」は、それをなさない受動性を、つまり「未がねっ娘」を、超越論的な条件としている。こうした根源的偶有性を暴露する属性というのは、眼鏡くらいのものではないか。

大澤真幸『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』岩波書店、2015年