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【要約と感想】石戸奈々子編著『日本のオンライン教育最前線―アフターコロナの学びを考える』

【要約】日本のオンライン教育は世界から2周ほど遅れていましたが、2019年からようやく本格的に動きはじめ、そして2020年のコロナ禍によって一気にICT整備が進みました。子どもたちの学びを止めないために、行政、教育委員会、学校、教師、保護者、民間企業、教育産業界など、様々な立場の人々が積極的に役割を果たそうと努力しました。様々な立場の人々が、コロナウイルスによる全国一斉学校休校のさなか、何を考え、どのように動いたか、そしてコロナの脅威が去った後の教育をどのように考えているか、そして日本以外の国々では何をしたのか、インタビュー等で明らかにします。
それらを踏まえて考えると、学校教育が始まってから150年、社会の方が大きく変わっているのに学校がまったく変わっていないのは、やはり異常です。学校を変えていくために、ICTの活用は必須です。

【感想】2020年に何が起こったのか、総合的・俯瞰的に理解できるようになるまでには、しばらく時間がかかるだろう。本書は、様々な立場から見える風景が示されて、その点と点を結ぶことで、何らかの全体像が見えるような気にはさせてくれる。その景色は、これまでの教育の常識が根底から大きく変わるような予感に満ちている。様々に具体的な成果が挙がっている。ICTによって個別最適化の教育が実現し、150年来の学校教育の形が大きく変わっていくような雰囲気が醸成されつつある。本書には、改革への期待と実現可能性が随所で表明されている。示された期待と可能性は、確かに2020年のリアルが感じさせてくれるリアリティであった。
とはいえ、ここに掬い上げられていない声が大量に埋もれているのもまた確かだ。日本社会で格差は確実に広がりつつある。ICTが導入されて「教育方法」に革新が起きたとしても、「公教育のシステム」が根本的に見直されない限り、単に格差を拡大したり隠蔽したりするような働きをする恐れもある。「教育の商品化」という経済的な潮流が続く限り、ICTという技術はその流れを変えるというよりは、その流れに乗って加速度を増していくだけのような気もするのだ。「戦術」の革新によって「戦略」のミスをカバーできるのかどうかという話である。
個人的には、ICT活用の可能性を追究していくこと自体は吝かではない。真剣に取り組む価値も意味もおもしろさもあると思う。自分の授業でも存分に活用していきたい。現場で大きな成果を挙げている方々には頭が下がる。が、教育の専門家としては、技術や方法を真剣に追究するのと同時に、社会経済システム全体に対する目配りも忘れてはならないと改めて思ったのであった。

石戸奈々子編著『日本のオンライン教育最前線―アフターコロナの学びを考える』明石書店、2020年

【要約と感想】マーヴィン・ミンスキー/大島芳樹訳『創造する心―これからの教育に必要なこと』

【要約】「考えること」を考えてみましょう。どんなに大がかりで複雑なシステムでもごく単純な部品から組み立てられるし、小さな部品はそれ自体が何であっても構いません。大切なのは小さな部品同士の関係性によって表現された「状態」であり、「状態の変化」です。どのような「状態」を理想とするかが「目標」であり、「現在の状態」との「差異」を理解してそのギャップを埋めるために試行錯誤を繰り返すことが「学習」です。このような「状態の変化」を起こす構造を身につけるためには、特定のカリキュラムに従って何らかの教科を幅広く学ぶ必要はなく、子ども自身の趣味を突きつめていくのが一番です。大事なのは「目標」に向かって「状態の変化」を引き起す効果的な行動とは何かを理解し、身につけ、実行することであり、それが「創造性」というものです。既存の教科教育では、創造性を育むのは無理でしょう。コンピューター・サイエンスが大きな意義を持つはずです。

【感想】小学生の頃からコンピュータに慣れ親しめる環境にあった私にとってみれば、極めて納得感の高い本だった。言っていることが、よく分かる気がする。逆に、コンピュータにまったく触れたことのない人が理解できる内容と形式なのかどうか、気になるところでもある。

教育学的に言えば、「転移」という概念に対して示唆を与える内容だったように感じた。大昔の教育では、「転移」という概念がしばしば持ち出された。具体的には、「ラテン語のような実際に使用しない言語を学んで何の役に立つのか?」という疑問に対して、「ラテン語で身につけた論理的な力が転移して様々な場面に役に立つ」というような形で持ち出された。これを専門用語で「形式的陶冶」という。なんらかの「形式」を身につければ、それがあらゆる「内容」に適用できるという考え方だ。しかしソーンダイクという心理学者によって「転移」は否定されることになる。学んで身につけた知識は、学んだ領域でしか役に立たない。これを「実質的陶冶」という。ラテン語を学んだら確かにラテン語を話せるようになるが、フランス語やドイツ語など他の語学を学ぶ上ではまったく意味がない。ラテン語を学んで身につけたものは、フランス語やドイツ語の学習に「転移」をしないということだ。
しかし一方、本書では身につけたことの「転移」が発生することが示唆される。ポイントは、単なる「知識」や「スキル」のレベルで転移が起こると言っているのではなく、ひとつ上のメタレベルである「問題解決」の領域で応用が効くということだ。そして単に「条件反射の繰り返しで身についたこと」ではなく、「フィードバックの過程で考えて身についたこと」は転移するということだ。「条件反射」は「S→R」という一方向の単純な結果しか導かないが、フィードバックは双方向で再帰的で複雑な構造そのものを作っていくことが決定的に重要ということだ。古典的な心理学と現代的な認知心理学では、環境との相互的なフィードバックの論理を含み込んでいるかどうかが決定的に異なっているということになるのだろう。

しかしまったく別の部分で印象に残ったのは、著者やその弟子たちが、芸能人やスポーツ選手に対する敵意を隠さず、逆に「オタク」への敬意を高めるよう努力しているところだ。これは認知心理学者の先輩であり、本書でもところどころで名前が挙がっていたブルーナーにも同じく見られた傾向だった。どうやらアメリカでは、日本以上に「反知性的」なスクールカーストの風潮が蔓延しているようだ。いやはや。

【個人的な研究のための備忘録】
人格というものの「一性」に関して示唆をするような文章があったのでメモしておく。

「もし、あなたが自分自身のことを私(単数形のI)だと思っている時には、自分自身を単一の「何か」であるかのように考えていて、その中には部分ごとに変更できるようなものはないとみなしていることになるだろう。しかし、もし「私の何か(My)」からなっていると考えてみれば、自分自身を部品から構成されたものだとみなして、特定の部位を変更しながら考え方を改良できると考えられる。言い換えれば、もし自分の心が修理可能な機械だと思うことができれば、その改良法について考えることができるわけである。」194頁

まず思い浮かべるのは、フロイトが人間の心を「自我/エス/超自我」に三分割したことだ。人間は「単数形のI」ではなく、複数の部品が組み合わさったものだという観点が示されている。また同じくプラトンは、人間の心を「哲学者(理性)/戦士(気概)/生産者(欲望)」に分類した。そして「正義」とは、この三者の調和がとれて、心が統一されている状態のことだと説明した。本書では「部分と全体」の関係については言及されるが、「全体」を全体たらしめる原理については言及されていないように思える。プラトンが「正義」に求めた全体の原理を、本書は直接的に明示しているわけではないが、ひょっとしたら「創造」という言葉に込めているのかもしれない。

マーヴィン・ミンスキー/大島芳樹訳『創造する心―これからの教育に必要なこと』オライリー・ジャパン、2020年

【要約と感想】ミッチェル・レズニック『ライフロング・キンダーガーデン 創造力を育む4つの原則』

【要約】現在の教育は、創造力を潰しています。創造力を育むためには、小学校以降の教育も、幼稚園のようにあるべきです。外から何かを付け加えるのではなく、内側から伸びる環境を整えるのです。具体的には、4つのP(Projects・Passion・Peers・Play)が重要です。

【感想】元気が出る本だ。自分が子どもだったら、こういう実践に夢中になっていただろうな。
いやまあ、実際に夢中になっていた。思い出すのは、地元にあった「刈谷少年少女発明クラブ」という、トヨタ系企業が中心となって作っていた組織だ(いまも健在)。設計図さえしっかり書けば、木材からタミヤのギヤボックス、あるいはトランジスタなど電子部品まで無料で提供してくれて、作業用の道具や環境も整っているという、いま思えば非常に恵まれている場所だった(御多分に漏れず、当時はそのありがたさを十分に認識していなかったが)。私に創造力があるかどうかは分からないが、仮にあるとしたら、ここに通っていたことが大きな力になっているのかもしれない。

中学受験を突破するために幼い頃から学習塾に通っても、しょせんは「人に使われる人材」にしかなれないように思う。自分で未来を切り拓いていく力を伸ばすには、本書が示す「幼稚園のような場」がもっともっと必要だと思った。

【今後の研究のための備忘録】
教育を植物に喩える表現は、フレーベル以来の伝統だ。メモしておきたい。

「すべての子供たちは創造的になる能力を持って生まれていますが、彼らの創造力は、必ずしも勝手に発達するとは限りません。それは育まれ、励まされ、そして支援される必要があります。このプロセスは、植物がよく成長するように環境を作り上げて世話をしている、農家や庭師のような行為なのです。同じように、創造性がよりよく成長する学習環境を作り上げることは可能です。」50頁

ミッチェル・レズニック/酒匂寛訳『ライフロング・キンダーガーデン 創造力を育む4つの原則』日経BP社、2018年

【要約と感想】落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる』

【要約】これからの人生100年時代、近代教育の価値観から抜け出せない人は滅びます。他人から働かされる人ではなく、人やAIを使う側に回れるような人が生き残ります。そのためには、他人と同じ価値観に染まるのではなく、自分だけのニッチな価値規準を持ち、自らリスクを引き受けて行動できるようなトレーニングを積みましょう。本当の幸せとは、ストレスなく自分の有り様を自然に発揮し続けることです。

【感想】個人的には「おっしゃるとおり」としか。まあ、若い国家官僚とか経営者とか学者とか含めて、気づいている人はみんな気づいている「当たり前」のことしか書いていないわけだけれども。ただ、その当たり前を誰でも表現できるかどうかは別の話で。著者は実際に自分でリスクを引き受けて新たな価値創出にチャレンジしているぶん、能書きを垂れているだけの国家官僚とか学者よりも、圧倒的に説得力があるわけだ。

というわけで、個人的には、とても勇気が出る本だった。おもしろく読んだ。特に意を強くしたのは、著者が大学教育に関して発言している部分だ。たとえば「僕は今、大学教育に携わる側の人間として、大学を就職予備校のように捉えている人がいることを、とても残念に感じています。」(56頁)と言うが、まさにその通りだ。私も残念に感じている。

また、「大学では、「研究はゲームではないけれど、論文を通すテクニックそれ自体はゲームだ」とよく学生に言っています。」(135頁)の下りでは、涙が出そうになった。いや、ほんと、そう。私も論文を通すために「お作法」に倣って作文する技術を身につけてきたわけだが、いやはや、ほんと「ゲーム」に過ぎない。「研究」へのモチベーションは、そういう「お作法」とはまったく関係がないところから湧いてくる。私も「ゲームとして攻略法を追究することには興味が薄い」(136頁)ので、業績がいつも不足しているわけだが。いまはますます興味が薄くなってきて、誰に読まれるでもない論文を業績のために粗製濫造するよりも、こういうふうにwebでいろいろ発信する方が個人的にも社会的にも意味があるのではないかと割り切りつつある。いまは孤独だが、本書を読んで「これでいいかもな」と、勇気を得るのであった。

【今後の研究のための備忘録】
とはいえ、気になるところはないではない。たとえば著者は「人類にとっての<近代>を終わらせることは、長期的な僕の活動の重要なテーマです。」(100頁)と言っている。これ自体は新しい発想ではなく、宮代真司や上野千鶴子のような社会学者が20年前から言っていることだし、教育の分野ではイリイチやフレイレが半世紀以上前に理論化しているし、あるいは80年前の「近代の超克」論だって参照できる。著者の主張が新しいのは、この「近代の終焉」にテクノロジーが結びついている点だ。著者は「限界費用」の低下による「民主化」と言っている。ただ問題は、はたして本当にテクノロジーと民主化が予定調和できるかどうかという点だ。一般的には、テクノロジーによって民主化が促進されるのではなく、実際には文化資本による格差が拡大するだけではないかと危惧されている。著者に言わせれば、その格差拡大を食い止めることこそテクノロジーの仕事ということになるのだろうが、その論理が現実的にうまく作動するかどうかというところが問題だ。まあ、教育に関わる者として他人事の話ではないので、私もテクノロジーが「民主化」を促進するように努力しなければならないのだが。

あるいは著者は「僕が興味をもっているのが明治時代における教育、さらにこの時代にできた価値観や言葉の定義をどう捉えてどう常識を疑うかです。」(103頁)と言うが、ここはまさに私の専門領域と関心にドンピシャでジャストミートするところなのだった。特に私は「人格」と「個性」という言葉に焦点を当てて研究を続けている。どちらの言葉も、日本が資本主義の離陸期に入る明治20年代半ばに産み落とされたことに、おそらく大きな意味がある。私が長年の研究の積み重ねで得た知見は、おそらく著者の問題関心に大きく貢献するはずだ。が、私の知見を彼に届けるには、やはり「論文」を書かなければならないのだった。ここで「お作法」の意味が出てくる。ああ、仕事しないとなあ。

ちなみに明治教育史専門家として、福沢諭吉に関する記述(99頁)が誤っていることにすぐ気がついてしまった。「明六社」を設立したのは福沢諭吉ではなく、森有礼だ。まあ、著者の主張には何の影響も与えない、Google検索すれば分かるような些細な事実ではあるが、論文でこの類の間違いをやったら確実に死ぬ。

最後に、「自然体でいながら、自分がやりたいことをできている時、「今この瞬間が確かにある」と自覚することができます。その瞬間、瞬間は時の流れが美しく、それでいて幸福に満ちあふれている。」(86頁)という言葉は、本当に美しい。禿同禿同。これは、かつてソクラテスが示したのと同じ知見だ。ソクラテスが言うには、他人の価値観に従って行動している人は、外面的にどれほど裕福であろうと本当に幸せだとは言えない。ソクラテスが言う「ほんものの幸せ」とは、「常にわたしがわたしであること」であった。そういう意味で、落合陽一は「現代の魔法使い」でもいいのだが、「現代の賢者」だと言ったほうがしっくり来る。ひろゆきも、また同じく「現代の賢者」だろう。また私もそうありたいところだが、「世間のしがらみ」というものを振り払うのは、なかなか大変ではあるのだった。

落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる―学ぶ人と育てる人のための教科書』小学館、2018年

【要約と感想】中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』

【要約】実際にSTEM教育を実践してみて、これからの時代には、子どもの興味に即して個性を伸ばすために、豊富な体験に基づいた「探求」型学習が極めて有効であると確信しました。しかし公教育だけでは理想の教育は実現できないそうもないので、民間企業の協力が不可欠です。

【感想】これからの教育の在り方が具体的によく分かる、とてもいい本だと思った。民間教育企業としての経験、公立学校での授業経験、父親としての経験という3つの経験を踏まえた話というところでも、たいへん説得力を感じる。公立学校と民間企業の提携という点でも、実際に東京都と大阪市の教育委員会から委嘱を受けている企業なので、具体的な在り方がとても参考になる。

【今後の研究のための備忘録】
そんなわけで、「社会に開かれた教育課程」に関して大きな示唆を受ける文章があったので、引用する。

それは、「社会に開かれた教育課程」という方針に基づく、民間との連携です。
いままでの学習指導要領にはなかった「前文」が新設され、改訂全体の方針を示すなかでこのことは強調され言及されています。
つまり、社会の変化に合わせて最適な教育を子どもたちに提供するには、学校だけでは困難なので、民間企業やNPOなどが一部を担い、社会全体で公教育をつくっていこうということです。閉ざされた学校から脱却し、民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意の表れだと思います。(173頁)

著者は「社会に開かれた教育課程」の中身が実質的には民間開放であると確信している。しかし実際に学習指導要領を読んでみても、そうは読めない。また文科省の役人が民間開放について触れることはない。教育課程に関する教科書も、「社会に開かれた教育課程」について語るとき、民間企業への開放について触れることなど、一切ない。
が、まあ、著者の言うとおり、実質的に民間開放に繋がっているのは間違いないだろう。いわゆる「既存の教育コミュニティ」の中の人々が、現実から目を背け、無視しているというだけのことだ。
1984年の臨時教育審議会以降、2002年の小泉純一郎「聖域なき構造改革」でブーストがかかり、地方教育行政の絶え間ない改革によって教育委員会の役割が大きく変化した現状において、いよいよ「公教育の民間への開放」が現実的な日程に挙がってきたというわけだ。
「社会に開かれた教育課程」という合い言葉が実質的に「民間開放」を指しているかどうか、従来の教育コミュニティ関係者が固く口を閉ざして知らんぷりを決め込んでいる一方で、しがらみに縛られない著者によって、あっけらかんと「民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意」として語られるのであった。
これがいかにものすごいことであることか、現場がまったくピンと来ていない現状を見続けている私としては、背筋に寒いものが走るのであった。「社会に開かれた教育課程」の現実を示す証拠として、本書に示されたこの一文は重宝したいと思う。

それから気になったのは、著者が「成績評価をしなくてはならないという法的な拘束もありません。」(181頁)と書いているところだ。これは微妙な物言いだ。学校教育法施行令には「それぞれ当該学校に在学し、又はこれを卒業した者の学習及び健康の状況を記録した書類を保存しなければならない」とあり、「指導要録」はこれを根拠として「学習の状況」を記録する文書だ。この「学習の状況」の記録が、実質的には「評価」となる。教育学的な観点からいっても、「評価」をなくした指導など考えられない。「評価」には法的根拠がある。おそらく著者は、181頁に続く文章を読む限り、「評価」と「成績評価」は違うと主張したいのかもしれないが、本文の書き方だと「評価」そのものに法的根拠がないと言っているように読めなくもない。そもそも「成績って何だ?」という定義が必要になる。(「指導要録」とは違って、いわゆる「通知表」には法的根拠がないが、そのことだろうか?)
まあ、著者の主張とはあまり関係のない脇筋の話ではあるが、私の本業に関わるところなので気になった、ということで。

中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』CCCメディアハウス、2018年

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