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【要約と感想】落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる』

【要約】これからの人生100年時代、近代教育の価値観から抜け出せない人は滅びます。他人から働かされる人ではなく、人やAIを使う側に回れるような人が生き残ります。そのためには、他人と同じ価値観に染まるのではなく、自分だけのニッチな価値規準を持ち、自らリスクを引き受けて行動できるようなトレーニングを積みましょう。本当の幸せとは、ストレスなく自分の有り様を自然に発揮し続けることです。

【感想】個人的には「おっしゃるとおり」としか。まあ、若い国家官僚とか経営者とか学者とか含めて、気づいている人はみんな気づいている「当たり前」のことしか書いていないわけだけれども。ただ、その当たり前を誰でも表現できるかどうかは別の話で。著者は実際に自分でリスクを引き受けて新たな価値創出にチャレンジしているぶん、能書きを垂れているだけの国家官僚とか学者よりも、圧倒的に説得力があるわけだ。

というわけで、個人的には、とても勇気が出る本だった。おもしろく読んだ。特に意を強くしたのは、著者が大学教育に関して発言している部分だ。たとえば「僕は今、大学教育に携わる側の人間として、大学を就職予備校のように捉えている人がいることを、とても残念に感じています。」(56頁)と言うが、まさにその通りだ。私も残念に感じている。

また、「大学では、「研究はゲームではないけれど、論文を通すテクニックそれ自体はゲームだ」とよく学生に言っています。」(135頁)の下りでは、涙が出そうになった。いや、ほんと、そう。私も論文を通すために「お作法」に倣って作文する技術を身につけてきたわけだが、いやはや、ほんと「ゲーム」に過ぎない。「研究」へのモチベーションは、そういう「お作法」とはまったく関係がないところから湧いてくる。私も「ゲームとして攻略法を追究することには興味が薄い」(136頁)ので、業績がいつも不足しているわけだが。いまはますます興味が薄くなってきて、誰に読まれるでもない論文を業績のために粗製濫造するよりも、こういうふうにwebでいろいろ発信する方が個人的にも社会的にも意味があるのではないかと割り切りつつある。いまは孤独だが、本書を読んで「これでいいかもな」と、勇気を得るのであった。

【今後の研究のための備忘録】
とはいえ、気になるところはないではない。たとえば著者は「人類にとっての<近代>を終わらせることは、長期的な僕の活動の重要なテーマです。」(100頁)と言っている。これ自体は新しい発想ではなく、宮代真司や上野千鶴子のような社会学者が20年前から言っていることだし、教育の分野ではイリイチやフレイレが半世紀以上前に理論化しているし、あるいは80年前の「近代の超克」論だって参照できる。著者の主張が新しいのは、この「近代の終焉」にテクノロジーが結びついている点だ。著者は「限界費用」の低下による「民主化」と言っている。ただ問題は、はたして本当にテクノロジーと民主化が予定調和できるかどうかという点だ。一般的には、テクノロジーによって民主化が促進されるのではなく、実際には文化資本による格差が拡大するだけではないかと危惧されている。著者に言わせれば、その格差拡大を食い止めることこそテクノロジーの仕事ということになるのだろうが、その論理が現実的にうまく作動するかどうかというところが問題だ。まあ、教育に関わる者として他人事の話ではないので、私もテクノロジーが「民主化」を促進するように努力しなければならないのだが。

あるいは著者は「僕が興味をもっているのが明治時代における教育、さらにこの時代にできた価値観や言葉の定義をどう捉えてどう常識を疑うかです。」(103頁)と言うが、ここはまさに私の専門領域と関心にドンピシャでジャストミートするところなのだった。特に私は「人格」と「個性」という言葉に焦点を当てて研究を続けている。どちらの言葉も、日本が資本主義の離陸期に入る明治20年代半ばに産み落とされたことに、おそらく大きな意味がある。私が長年の研究の積み重ねで得た知見は、おそらく著者の問題関心に大きく貢献するはずだ。が、私の知見を彼に届けるには、やはり「論文」を書かなければならないのだった。ここで「お作法」の意味が出てくる。ああ、仕事しないとなあ。

ちなみに明治教育史専門家として、福沢諭吉に関する記述(99頁)が誤っていることにすぐ気がついてしまった。「明六社」を設立したのは福沢諭吉ではなく、森有礼だ。まあ、著者の主張には何の影響も与えない、Google検索すれば分かるような些細な事実ではあるが、論文でこの類の間違いをやったら確実に死ぬ。

最後に、「自然体でいながら、自分がやりたいことをできている時、「今この瞬間が確かにある」と自覚することができます。その瞬間、瞬間は時の流れが美しく、それでいて幸福に満ちあふれている。」(86頁)という言葉は、本当に美しい。禿同禿同。これは、かつてソクラテスが示したのと同じ知見だ。ソクラテスが言うには、他人の価値観に従って行動している人は、外面的にどれほど裕福であろうと本当に幸せだとは言えない。ソクラテスが言う「ほんものの幸せ」とは、「常にわたしがわたしであること」であった。そういう意味で、落合陽一は「現代の魔法使い」でもいいのだが、「現代の賢者」だと言ったほうがしっくり来る。ひろゆきも、また同じく「現代の賢者」だろう。また私もそうありたいところだが、「世間のしがらみ」というものを振り払うのは、なかなか大変ではあるのだった。

落合陽一『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる―学ぶ人と育てる人のための教科書』小学館、2018年

【要約と感想】中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』

【要約】実際にSTEM教育を実践してみて、これからの時代には、子どもの興味に即して個性を伸ばすために、豊富な体験に基づいた「探求」型学習が極めて有効であると確信しました。しかし公教育だけでは理想の教育は実現できないそうもないので、民間企業の協力が不可欠です。

【感想】これからの教育の在り方が具体的によく分かる、とてもいい本だと思った。民間教育企業としての経験、公立学校での授業経験、父親としての経験という3つの経験を踏まえた話というところでも、たいへん説得力を感じる。公立学校と民間企業の提携という点でも、実際に東京都と大阪市の教育委員会から委嘱を受けている企業なので、具体的な在り方がとても参考になる。

【今後の研究のための備忘録】
そんなわけで、「社会に開かれた教育課程」に関して大きな示唆を受ける文章があったので、引用する。

それは、「社会に開かれた教育課程」という方針に基づく、民間との連携です。
いままでの学習指導要領にはなかった「前文」が新設され、改訂全体の方針を示すなかでこのことは強調され言及されています。
つまり、社会の変化に合わせて最適な教育を子どもたちに提供するには、学校だけでは困難なので、民間企業やNPOなどが一部を担い、社会全体で公教育をつくっていこうということです。閉ざされた学校から脱却し、民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意の表れだと思います。(173頁)

著者は「社会に開かれた教育課程」の中身が実質的には民間開放であると確信している。しかし実際に学習指導要領を読んでみても、そうは読めない。また文科省の役人が民間開放について触れることはない。教育課程に関する教科書も、「社会に開かれた教育課程」について語るとき、民間企業への開放について触れることなど、一切ない。
が、まあ、著者の言うとおり、実質的に民間開放に繋がっているのは間違いないだろう。いわゆる「既存の教育コミュニティ」の中の人々が、現実から目を背け、無視しているというだけのことだ。
1984年の臨時教育審議会以降、2002年の小泉純一郎「聖域なき構造改革」でブーストがかかり、地方教育行政の絶え間ない改革によって教育委員会の役割が大きく変化した現状において、いよいよ「公教育の民間への開放」が現実的な日程に挙がってきたというわけだ。
「社会に開かれた教育課程」という合い言葉が実質的に「民間開放」を指しているかどうか、従来の教育コミュニティ関係者が固く口を閉ざして知らんぷりを決め込んでいる一方で、しがらみに縛られない著者によって、あっけらかんと「民間と連携して新しい公教育の形をつくる決意」として語られるのであった。
これがいかにものすごいことであることか、現場がまったくピンと来ていない現状を見続けている私としては、背筋に寒いものが走るのであった。「社会に開かれた教育課程」の現実を示す証拠として、本書に示されたこの一文は重宝したいと思う。

それから気になったのは、著者が「成績評価をしなくてはならないという法的な拘束もありません。」(181頁)と書いているところだ。これは微妙な物言いだ。学校教育法施行令には「それぞれ当該学校に在学し、又はこれを卒業した者の学習及び健康の状況を記録した書類を保存しなければならない」とあり、「指導要録」はこれを根拠として「学習の状況」を記録する文書だ。この「学習の状況」の記録が、実質的には「評価」となる。教育学的な観点からいっても、「評価」をなくした指導など考えられない。「評価」には法的根拠がある。おそらく著者は、181頁に続く文章を読む限り、「評価」と「成績評価」は違うと主張したいのかもしれないが、本文の書き方だと「評価」そのものに法的根拠がないと言っているように読めなくもない。そもそも「成績って何だ?」という定義が必要になる。(「指導要録」とは違って、いわゆる「通知表」には法的根拠がないが、そのことだろうか?)
まあ、著者の主張とはあまり関係のない脇筋の話ではあるが、私の本業に関わるところなので気になった、ということで。

中村一彰『AI時代に輝く子ども―STEM教育を実践してわかったこと』CCCメディアハウス、2018年

STEMON

【紹介と感想】石戸奈々子『子どもの創造力スイッチ!』

【紹介】21世紀に必要な「学び」とは、教師から一方的に与えられる知識を大量に詰め込むことではなく、多様な他者と協働しながら創造性を発揮する「力」をつけることです。この「創造力」を育むためには、子どもたちの自主性を尊重する「場」を用意して、ITCを活用しながら、大人たちが子どもの活動を温かく見守っていかなければなりません。本書は、そういう国内外の「場」や多彩なワークショップ、そこで行なわれている多様な実践を数多く紹介しています。

【感想】子どもたちが楽しそうに活動している写真がたくさん載っていて、見ているだけでホッコリする。紹介されている海外・国内の様々で多様で工夫された実践は、どれもこれも楽しそうだ。自分が子どものときにこういうワークショップがあったら、喜んで参加しただろうなあ。

まあ思い返してみれば、自分が子どものころには豊田理化学研究所が運営する「発明クラブ」という組織が地元にあって、木や金属やモーターなどの工作材料をかなり自由に与えてくれて、勝手にいろいろ工作したものだった。タミヤのモーターやギヤボックスセットには、本当にお世話になったものだ。ちなみに現在の発明クラブでは、「ロボットプログラミング体験講座」なども開催しているようだ。自分が子どもだったら、きっと喜んで参加したんじゃないかなあ。
ここで得た「ものづくり」の経験は、確かに今でも自分の力になっているような気がする(実証はできないけども)。現在のITCを活用した取り組みは新しいもののように見えつつ、昭和から存在していた「ものづくり」を応援する取り組みの延長にあるものなのかもしれない。この伝統は大切にしていきたいと思った。

石戸奈々子『子どもの創造力スイッチ! 遊びと学びのひみつ基地CANVASの実践』フィルムアート社、2014年

「CANVAS―遊びと学びのヒミツ基地」webサイト
「刈谷少年少女発明クラブ」webサイト

【備忘録と感想】シンポジウム「イノベーションを創出する次世代人材育成のための創造性教育」

東京大学生産技術研究所の次世代育成オフィス(ONG)が主催するシンポジウム「イノベーションを創出する次世代人材育成のための創造性教育」(2018年11/17)に行ってきたので、備忘録がてら感想を記す。

イベントの内容は主に4点で、(1)ONGの取り組み紹介、(2)文部科学省の立場から「創造性教育」への見解、(3)学校現場による創造性教育実践の紹介、(4)産業界から見た「創造性」の重要性と実践紹介、だった。

生産技術研究所ONGは、学校現場で使用できる教材の開発を行なったり、社会人対象のワークショップを開催したり、具体的な形となったデザインワークの展覧会を開いたりするなど、着実な成果を挙げているようだった。特に印象に残ったのは、「ものづくり」の際に、「デザインとエンジニアリングの融合」がきわめて重要になっており、「モノから人、社会へ」の意識の転換が必要で、要するに教育界の具体的な課題が「文系と理系の乖離をなくす」ことであると明示されたことだった。

この「文系と理系の乖離をなくす」という教育界の課題に対しては、産業界からも強い要請があった。かつてマーケティングなど商業系・経済系の学問には数学はあまり必要なかったが、ビッグデータを扱う手法が必須になった現在では、統計学や集合論の知識がない人間にはもはやマーケティングを担うことが不可能となっている。それにも関わらず現在の学校接続システムではあまりにも早い段階で数学の学習を放棄する学生が不可避に発生し、社会に出てから使えない人材を大量生産してしまう。いかに数学を学び続けるかを考えたときに、現在のように文理選択を早くから決定させることは、世界的な流れと逆行する決定的な間違いであると、産業界の人は言う。

しかし同時に、それは文系学問が不要になったことを意味するのではなく、逆に日本の将来を考えたときにはますます人文知の重要性が増すとも言う。というのは、日本が国際的な競争力を失っているのは、決して技術力が低いからではなく、その技術力をイノベーションへ昇華させることができないと分析しているからだ。オイルショック以降は、単に高い品質のものを作れば売れるという時代ではなく、いかに消費者のニーズを掴まえて適切なサービスを提供できるかが勝負の時代となった。単に技術力が高ければ勝負できるという時代はとっくに終わっており、消費者のニーズを的確に捉える「人文知」の重要性が決定的に増しているにもかかわらず、日本はその時代変化に対応できていない。よって現在の日本は、ただの高品質部品サプライヤーへと転落している。メーカーとして生き残るためには、高い技術力に加えて、「ユーザー目線で見た価値の創造」が絶対的に必要となる。ここに文系学問が活躍するフィールドがある。

だから、STEM教育(Science,Technology,Engineering,Mathematics)に代わって、STEAM教育(Artを追加)が提唱されることとなる。この場合のArtとは、もちろん「芸術」という狭い意味ではなく、人間や人間の心への深い洞察へと導く「Liberal Arts」すなわち全般的な教養という概念を担っている。総合的に「人間」を理解するための「人文科学」である。この幅広い教養は、「多様な人々と対話」することを可能にし、「領域を自在に超える」ための力となる。

このような「創造性」に満ちた人材を育成するために、やはり参照にされるのはOECDのキー・コンピテンシーなのであった。これまでにも耳にタコができるほど聞かされてきた話が繰り返されることになるわけだが、一つ新鮮に響いたのは「Agency」という言葉だった。「Agency」とは、単に主体性という意味ではなく、責任をもって社会と繋がるための概念を提供するということだ。個人的につらつら考えるに、Agencyを単純に日本語へ翻訳すると「代理」とか「取次」とか「仲介」となるわけだが、それが取り次いだり仲介しているのはおそらく「私という得体の知れない内部」と「社会という得体の知れない外部」だ。「私=内部」と「社会=外部」を繋ぐ接面で立ち現れ、具体的に働くものが「Agency=仲介」というものなのだろう。しかし、だとしたならば、それは従来から「人格=Personality」と呼ばれていたものに外ならない。ホッブズやヘーゲルが言うところの「Personality」とは、現在の心理学が言うような人間の性格を数値的に可視化する指標などではなく、個人と社会が接する挾間で立ち現れる責任主体の諸条件を指していた。しかし現在、様々な経緯によってpersonalityの意味が通俗心理学的に理解されるに至ってしまったとき、本来必要とされた概念を新たに担うべき言葉として「Agency」が立ち現れてきたということなのだろう。

またあるいは、「繋ぐもの」という意味では、今井康雄先生の「メディアの教育」という概念も想起させる。教育とはそもそも本来的に、「私という得体の知れない内部」と「社会という得体の知れない外部」の間を調和的に取り持つためにこそ必要となる営為であり、だからこそ「Persona=仮面」をつけて主体的かつ従属的(Subject)に振る舞う「責任主体=Personality」を人為的に立ち上げる役割を担う仕事となる。結局我々が行なうべき仕事とは、教育基本法に示された「人格の完成」に他ならない。

まあ、ともかく、現場で日々実践されている先生方の報告は、相変わらず貴いものであった。学校現場ではどのように企業と結びつくか非常に苦労しているということであったし、大学が仲介役として機能するのではないかということも提言に挙がった。また昨今では「ものづくりは終わった、これからは情報中心の世界だ」と叫ぶ声が大きくなりつつあるわけだが、そんな逆風の中でも「ものづくり」に真剣に取り組み、着実に成果を挙げ続ける姿勢には頭が下がる。彼らの役に立てるかどうかわからないけれども、私は私の仕事を誠実に続けていくしかないことを改めて認識して、駒場を去るのであった。

【備忘録と感想】日本STEM教育学会 第一回年次大会

STEM教育とは?

日本STEM教育学会の「第一次年次大会」に参加してきましたので、見てきた内容を備忘録的に記し、併せて個人的な感想を残しておきます。(2018年10/13、於国立科学博物館)。
「STEM」とは、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、数学(Mathmatics)の頭文字を繋げたものです。だから単純に考えると理科系の教育のように思いがちなのですが、これからの社会の変化(情報化・グローバル化)を考えた時には、むしろ文系にとって極めて重要な領域になるだろうことが想定されます。というか、そもそも理系と文系が断絶した現在の教育システムの弊害を超えようとする時に、この「STEM教育」という概念がキーワードになるだろうことが考えられます。
私個人も来年度からICT教育を担当するということもあり、いっちょ噛みしようということで出かけていったわけですが、たいへん刺激的でした。

教育改革とこれからのSTEM教育

残念ながら午前中のメニューには授業のために参加できなかったのですが、鈴木寛氏の記念講演「教育改革とこれからのSTEM教育」には間に合いました。なかなか熱が籠もった講演でした。
まず産業構造が転換し、250年ぶりに人類史が根底から変革するという、例の情報革命テーゼが前面に打ち出されます。情報技術の革新についていけないと、個人は職を失うし、日本は滅びるというわけです。
その認識を前提に、日本の教育を点検します。OECDのPISA調査の結果からは、日本の小中学校の理数教育は極めて優秀で、全世界でトップに立っていることがわかります。具体的には、日本には理数系が得意な学生(Level4以上)が20万人存在していますが、これはアメリカと同じ水準です。つまり潜在的には、日本には科学技術を支える人材が充分に揃っているはずなのです。ところが話が大学教育に移ると、とたんに科学技術を支える人材の数がめっきり減ってしまいます。つまり問題は義務教育段階の実践にあるのではなく、高校と大学の接続にあるだろうことが見えてきます。つまり一番の問題点は、高校のカリキュラムと大学入試にあるわけです。
そこで文部科学省は高校のカリキュラムを改訂した上で、高大接続のあり方にも抜本的に手をつけることになりました。まず高校には新たに理数科の「探究」という科目が登場しました。これは単に教科書の内容を覚えるのではなく、「探求」というタイトルにふさわしく、自ら課題を発見し解決していくというスタイルの「新しい学び」が期待されている科目です。しかし大学入試のあり方が変化しなければ、この「探求」という科目も絵に描いた餅に終わります。この科目の目的を実質化するために、大学入試のあり方として「AO入試」の割合を増やすべきこと(全体の30%目標)が提唱されています。もちろん学力の低い人間が一芸で合格するとかそんな生易しいAO入試を想定しているわけではなく、高校時代の「探求」のあり方が総合的に判断されるような実力本位の入試が要求されます。高校カリキュラム改革と大学入試改革が一体となって、これからの社会に必要となる優秀な人材を確保・育成する環境を整えようというわけです。
また、文科系の人間が数学を放棄する傾向に対しても歯止めをかけるべきことが提唱されています。今後の社会では、文科系の仕事は次々とAIに奪われることが想定されます。AIに代替不可能な創造的な仕事ができる人材を育成するためには、これまでの文系/理系を分断する教育システムではうまくいかないことが容易に想像できます。本来は、ScienceとSocietyを往還するような、理系や文系の分断のない教育こそが求められるべきです。そのために、数学や理科の学習を安易に放棄してしまう学生を生み出す現在の受験システムは早急に改められるべきだという主張です。
また具体的な教育のあり方としては、近代的な一斉教授が消え去り、効果的な個別指導が大規模に展開するという見通しが示されます。というのは、個人別の「スタディ・ログ」が蓄積されて膨大なビッグ・データとなり、それをAIが分析活用することによって極めて精度を高めた学習支援が可能となると見透しているわけです。
そんなわけで、これからの教育改革の方向性として、具体的に一言でいうと「文理分断からの脱却」が喫緊の課題として掲げられた講演でありました。

考えるべきこと

まあ、全体的に言いたいことは分かる気がします。とはいえ、考えなければいけないことはもっとたくさんあるようにも思うわけです。高大接続も確かに大問題ですが、たとえば個人的には大学卒業後の就職システムに本質的な問題があるような気もします。極めて単純化すれば、文系の方が理系よりも稼げる世の中で、優秀な学生がわざわざ理系を目指すかという問題です。東大文Ⅰを目指していたような人間が、敢えて理工学部を目指すかという問題です。あるいは東大文ⅠからSTEM人材が育つかという問題です。もともと慶応湘南藤沢キャンパスを目指すような学生なら言わなくても分かる内容のはずですが、しかし一方で東大文Ⅰを目指す学生に対して説得力を持つかどうか。
つまり、本物の力をもつ人材が持っている力を存分に発揮できる「人材配分」の仕組みを考えた時、これはもはや教育システムの問題ではなく、日本社会全体の構造の問題だろうと思うわけです。それを踏まえると、社会構造全体にメスを入れることなく教育システムだけをいじって「人材配分」をコントロールしようとしても、歪みをさらに増幅させる結果に終わるような懸念も生じます。教育にできることは「本物の力を粛々と伸ばす」ことだけで、人材配分のあり方については産業界の方に反省してもらわないといけないのではないかという感想を持ちます。4年生が就職活動のために授業を休むのが当たり前という、大学が就職予備校に成り下がっている現在の風潮は、教育システムの反省だけでは如何ともしがたい、STEM教育以前の大問題だと思うんですけれどもね。

シンポジウム「小学校プログラミング教育の実際と展望」

さて続いて、小学校プログラミング教育に関するメニューです。シンポジウムでは、3人の立場から報告がありました。(1)文部科学省の役人(2)教育研究者(3)教育委員会の3つの立場です。

(1)文部科学省からは、学習指導要領改訂の狙いについてお馴染みの話(社会に開かれた教育課程とカリキュラム・マネジメント)を踏まえた上で、プログラミング教育について説明がありました。プログラミング教育に向けてほとんどの教育委員会は実際に動けていないというデータ、教育委員会を支援するために文科省が「手引き」を作ったことなどが示されました。
その上で、文科省として教育委員会に求めるのは、まず一度実際にプログラミング教育を試してみることでリソースの確認と予算要求の目処を立て、すべての教員が模擬授業を体験できるところまで学校と教員を支援してほしいということでした。
と言いつつ、文科省の役人という立場を離れ、一人のお父さんとしてプログラミング教育を試してみた経験は、「まずやってみる」ことの重要性が極めてよく分かる、説得力がある上にたいへん微笑ましい話でした。

(2)研究者の兼宗先生はドリトルの開発者ということで、たいへん分かりやすいデモンストレーションを見せてもらいました。個人的に心強かったのは、プログラミング教育を目的ではなく「活用」として理解するべきだと強調していたところです。私も同様に思います。もしもプログラミング教育を「目的」と捉えると、単に教えるべきコンテンツがひとつ増えて現場の教員の負担が重くなるだけです。しかし「活用」と理解すれば、授業をさらに「深い学び」に持っていくリソースが増えることになります。兼宗先生は、プログラミングを低学年で「スキル」として身につけることで、高学年で「活用」できるという見通しを示しましたが、それは「字」というスキルを覚えるのと同じことだと主張します。低学年で覚えた「字」が、高学年で理科や社会で使えるのと同じことだというわけです。要するに、コンピュータは「コンテンツ」ではなく「リテラシー」と理解するべきものだということです。

(3)教育委員会(横浜市)からの報告は、いちばん生々しいものではありました。教育現場ではプログラミング教育に対して漠然とした不安が蔓延しているそうですが、まあ、そりゃそうだなあとしか。で、その不安を解消するために、教育委員会としては、(1)実践推進校で先進的な取り組みを蓄積する(2)研修を通じて人材育成をする(3)授業支援を行なうという具体的な取り組みを始めているようです。まずは柱となる理科・数学での実践を蓄積しながら、ICT支援員を増員しつつ、各種研修会を充実していくことを考えているようです。
文部科学省の「掛け声」はよく分かっても、それを実現するために実際に組織を動かしていくのは大変だよなあと、頭が下がる思いではあります。

考えるべき事

三者三様の立場からの話だったこともあり、当事者の間でも意識が乖離していることがよく見えるシンポジウムでもありました。研究者は「目的ではなくリテラシー」と明確に打ち出しているのですが、教育委員会の方は学習指導要領の要求を実現するために組織を動かすことに必死な状況で、そこまで意識を高める余裕はまったくないように見えました。一方で、文部科学省はその中間で、理念については高く掲げつつ、現実的には具体的な授業に落とし込むことに専念しようとしている感じです。
私としては研究者の見解にたいへん共感するわけですが、それを現実の授業に落とし込む教育委員会の仕事の大変さを思うと、文部科学省のような漸進的なやり方も分からないわけではないというところではあります。いやあ、どうなるのかね(←他人事ではない)

一般研究発表

一般研究発表もたいへん熱が籠もっており、それぞれとても印象に残りました

(R02)つくば市教育委員会の実践は、他の本でも読んで知ってはいたのですが、改めて聞いてすごいなと思いました。具体的な話題に挙がったのは小学校1年生「スイミー」での実践です。総合的な学習の時間であらかじめプログラミングのスキルを身につけた上で、国語の時間の「活用」としてプログラミング(アニメーションの作成)を取り入れた実践です。言語活動の一環としてプログラミング思考を養う姿勢が一貫しており、教科の本質とプログラミングという活用手法が無理なく融合しているように見えました。

(R03)Scrachの公開プログラムを分析して発達段階論の根拠とする手法には、目から鱗が落ちました。この手法、コンピュータ以外のテストや作文の分析にも応用できたら、一般的な発達段階論にも大きなインパクトを与えます。まあ、スタディログを収集してAIでビッグデータを分析するという発想は、まさにそういうことですが。

(R04)Scrachを開発しているLiflong Kindergardenの理念を土台として、実際に教師研修を行なった報告でしたが、とても印象に残りました。Lifelong Kindergardenは日本語に翻訳すれば「生涯幼稚園」となるわけですが、その名の通り、幼稚園の活動に教育の本質を見出して生涯教育に取り入れようとするチームです。幼稚園の教育の本質とは、「まず実際に自分でやってみる」という「構築主義」にあります。試行錯誤を繰り返しながらできることを増やして概念を豊かにしていくという教育手法です。これを幼稚園だけでなく、すべての教育の土台に据えようというとき、プログラミング教育が有効な手法として浮かび上がってきます。Scrachとはそういう理念と哲学の上に作られたプログラミング言語だったんだと、改めて感心した次第です。
そしてその理念を元に教員研修を行なった結果が報告されたのですが、本当に教員一人一人の力がめきめきと伸びていました。構築主義の威力を目の当たりにした思いです。

シンポジウム「これからのSTEM教育の実践と評価」

最後に、様々な立場から今後のSTEM教育の展望が報告されました。

東京学芸大学の大谷忠先生の報告は、産学協同で大規模なSTEM教育プロジェクト(STEMQUESTスタジアム)を実践したもので、たいへん刺激的でした。子どもが興味を持ちそうなアトラクションを作り、具体的な課題を設定し、それを子どもたちが自力で解決していくというプロジェクトです。自分が子どもだったら夢中でハマりそうな、楽しそうな実践です。そして実践の土台となる理念として、STEMの「E」を中核とする話は、ナルホドと思いながら聞きました。とはいえ、「評価」についてはまだまだ難しい問題があるということも分かりました。

電気自動車普及協会の有馬仁志氏からは、学生コンペの話がありました。学生コンペなら眼鏡協会もやっているぞと思いながら聞いたのですが、大きな違いは、コンペの過程で学生たちが産学の専門家たちからアドバイスを受けたり、他の学生チームとコミュニケーションをとりながらプロジェクトを軌道修正していくところでした。完成したものだけを評価するのではなく、「過程」を評価するというSTEM教育の本来のあり方を垣間見たような気がしました。

研究者の赤堀先生からは、プログラミング教育とは単にアルゴリズム(手続き)の知識や技術を身につけることではなく、実は「デザイン」の力をつけることがきわめて重要だという示唆を受けました。デザインの力は、理科系的な手続きの知識や技術から出てくるものというより、文科系的な国語読解力や社会考察力と相関が強いということでした。そして日本人は手続き自体の力は持っていても、デザインの力が弱いのではないかと指摘します。やはり文系と理系が断絶している現在の教育のあり方は、理系にとっても文系にとっても良くないということが見えてきます。

最後に白水始先生が総括をしました。いわゆるアクティブ・ラーニングを実践する際にも、子どもの主体性に任せるという掛け声の下で単なる放任に陥っている場合があるのですが、効果的に自主性を引き出すための有効な問いの立て方=「ドライビング・クェスチョン」が重要であるという話でした。プログラミング教育だけでなく、一般的な教育を考えていく上でも重要な視点でした。

まとめ

まあ、盛りだくさんすぎて一言でまとめられるような感じはしませんが。とても若々しく、未来に向けて希望に溢れた空気を感じました。こういう雰囲気は、他の学会にはない気がするなあ。まあ、第一回ですからね。
私としても、今後の授業や研究に活かしていけるよう、研鑽を重ねたいと思いを新たにし、上野の国立科学博物館をあとにするのでありました。

参考記事等リンク

なぜ今STEM教育が必要なのか――日本STEM教育学会 設立記念シンポジウム
10/11に開催されたJSTEMシンポジウムの記事。プログラミング教育とカリキュラム・マネジメントの関係にも言及されていたりと、これからの教育を考える上で大まかな方向を把握できる。