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【要約と感想】曽和信一『希望の「教育と福祉」―子どもの社会的養護と家庭福祉を考える』

【要約】いま、子どもや若者たちから「希望」が失われています。子どもに「希望」を取り戻すのが、教育や福祉の仕事です。
保育・施設養護・母子生活支援施設・児童自立支援施設について、具体的に理念・制度・歴史・問題・今後の展望を考えました。かつては狭い範囲の限られた子どもたちを囲い込む慈恵的な福祉政策でしたが、現在の制度は全ての子どもや保護者を対象とした幅広い支援体制の構築へと関心を変えてきています。

【感想】社会的養護の全般を「希望」というキーワードで読み解こうとする意図は興味深かったけれども、具体的な制度の読み解きのところで「希望」という概念がどう絡んでくるかがイマイチ見えにくい記述になっていたところは少々食い足りなかった感じがする。
それから「規範意識の低下」や「少年犯罪の低年齢化」については、具体的な統計資料を根拠とした否定的な見解が各所から出されているはずで、客観的な吟味を経ずに無条件で前提している記述に対しては、多少どうかなあという感じもする。
が、まあ、些細なことなのかもしれない。いま困っている子どもや大人立ちがたくさん存在しており、彼らをどのように支援していくのかの知恵が求められているのは確かなのだった。過去の経緯と現在の制度を知り、そして未来へ「希望」を持つために、本書は役に立つのだろう。

曽和信一『希望の「教育と福祉」―子どもの社会的養護と家庭福祉を考える』阿吽社、2012年

【要約と感想】岩本茂樹『先生のホンネ―評価、生活、受験指導』

【要約】先生の言動の裏には、教師それぞれの経験と職員室内外の権力構造が潜んでいます。服装や髪型に関するわけの分からない校則を押しつけたり、生徒を一面的に判断したり、やたら部活動に熱心だったり、進学率ばかり気にしたり、成績で依怙贔屓するのには、それなりの構造的な理由があります。「理想の先生」なんて現実にはあり得ないので、潔く諦めて、目の前の偶然的な出会いを大切にして、関係を築き、お互いに成長していきましょう。

【感想】大勢のキャラクターが関わる一つの事件を多面的に見ることで、物事の真相が徐々に見えてきそうになりつつ、逆に全体像が見えなくなるという展開が、『藪の中』を想起させる構成となっていたわけだが、著者自身が後書きでそれを狙ったと書いていた。なるほど。教師がいかに教員同士の権力関係の網の目に捕らわれながら行動決定し、目の前の学生の個性を蔑ろにしているかが浮き彫りになる、とてもよい手法だと思った。
しかしまあ、「学生のため」という大義名分を振りかざしながら逆に自分のメンツを通していないか、私自身も自分の言動をふりかえらなければならない。いやはや。

岩本茂樹『先生のホンネ―評価、生活、受験指導』光文社新書、2010年

【要約と感想】堀裕嗣『スクールカーストの正体―キレイゴト抜きのいじめ対応』

【要約】1980年代の高度消費社会化を経てオレ様化した子どもたちが、21世紀に入って自己責任圧力を背負わされ、さらに加速度的に変化しています。その変化を象徴的に表現するキーワードが「スクールカースト」です。いま、コミュニケーション能力の三要素(自己主張力・共感力・同調力)の有り様によって、学級内の人間関係が形成されています。現代のいじめを理解する決定的なポイントは、スクールカーストの構造に基づいてクラスの人間関係を把握することです。
そして教師もまたカーストに巻き込まれる一方、「職員室カースト」によって人間関係を形成しています。カーストに巻き込まれた教師が単独でいじめに立ち向かうことは、もはや不可能です。複数の教師のキャラクターを相互補完的に強化して教員全体を「チーム」として機能させると、いじめを解決する道筋が見えてくるはずです。

【感想】結論が「個性的で多様な教師集団と、それをまとめるチーム学校」であって、中央教育審議会が2015年末に出した答申とシンクロしているのは、けっこう面白い。ただ、中教審が「少子高齢化やAI化」といったマクロな時代趨勢から結論を導いているのに対し、本書は教室内のミクロな権力構造から結論を導いている。思考の経過が異なっているのに着地点が同じというところが興味深いわけだ。

ちなみに森口朗が作ったという「スクールカーストの決定要因のマトリクス」は、なかなか興味深い。コミュニケーション能力を3つの要素(自己主張力・共感力・同調力)に分析し、その有無の組み合わせによって「典型的なキャラクター」を8タイプ提出し、その相互権力作用を解析しようとするものだ。なかなか切れ味が鋭く、本書はこのマトリクスだけであらゆる事例を分析し、ぐいぐいと結論を導き出していく。生産性が高い論理枠組だ。なかなか感心した。
このマトリクス、単に教室内権力構造だけでなく、おそらくマンガやアニメなど現代作品の物語構造分析にも応用できてしまう。具体的には、戦隊ものの「レッド・ブルー・イエロー・グリーン・ピンク」のチーム内関係などは、このマトリクスで説明がついてしまいそうだ。著者自身はお笑いバラエティの構造分析に応用していた。そして逆に考えれば、アニメやマンガなどのキャラクター配置論が現実の認識枠組に影響を及ぼしているとも推測できるところではあるが、このあたりの相関関係と因果関係は慎重に考慮する必要がある。

【今後の研究のための個人的メモ】
教師のキャラクター配置論に言及した文章は、フィクションのキャラ配置分析にも応用が利きそうで、なかなか興味深く読める。

「それぞれの独立したキャラクターの教師が独立した仕事をしているのではなく、それぞれのキャラクターの教師が相互補完をしながら生徒たちの教育に当たっているというのが実態なのである。」(200-201頁)

まさに戦隊ヒーローが複数人でチームを組んで一人の怪人を倒す構造と被る気がするわけだ。あるいは単独アイドルが成立せず、グループアイドルが目立つ傾向。「個人プレー」に期待するのではなく「チームプレー」を求める流れは、21世紀以降のOECDの教育関連文書にも顕著な傾向であることを、さて、どう考えるか。

堀裕嗣『スクールカーストの正体―キレイゴト抜きのいじめ対応』小学館新書、2015年

【要約と感想】山脇由貴子『教室の悪魔―見えない「いじめ」を解決するために』

【要約】現代のいじめは極めて巧妙に行なわれるので、親や教師にはまったく見えません。が、必ずサインは出ています。サインを受け取ったら、無責任に正義感を振りかざすのではなく、子どもの立場に立ち、安全の確保を最優先に考え、現実的・戦略的に解決していきましょう。子どもは学校を休ませ、大人は粘り強く組織的に対応しましょう。いじめを解決するのは、子どもではなく、大人の仕事です。
見えないいじめを「見える化」するためのチェックシート付。

【感想】いじめがどうして発生するかという「論理」や「定義」にはまったく関心を示さず、ただただ目の前で起こっている「いじめ」の現実を直視し、実践的・戦術的に解決へ向かう道筋を示す。淡々とした記述から、現場で関わってきた専門家としての凄味と覚悟を感じる。
我々も、ややもすると「論理や定義」を弄びがちになるわけだが、まずは生々しい現実を直視することから始めなければいけない。

【追記】諏訪哲二『いじめ論の大罪』に本書に関するコメントが載っていたが、私の感想とかなり似ていた。「ハウツーについてはおおむね妥当」(231頁)とか、「日本の臨床心理学の、地道な成果」(232頁)とか、「実践と理屈はあまり関係がない」(232頁)というあたりだ。まあ同じような感想を持ちつつ、私は「論理や定義」を云々することから引いたのに対し、諏訪は「理屈」に突っ込んでいったわけだが。

山脇由貴子『教室の悪魔―見えない「いじめ」を解決するために』ポプラ社、2006年

【要約と感想】安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか―教育を生物学的に考える』

【要約】勉強できるかどうかは、だいたい遺伝で決まります。さらに人間は、獲得した知識を他の個体に「教育」という形で伝えていくほぼ唯一の生物ではありますが、実は教育による学習というものは生物学的に見ると簡単に成立するものではありません。
この2つの科学的知見を土台にして考えると、教育とは子供の適性を無視してあらゆる情報を教え込もうとすることではなく、子供が本来持っている可能性を存分に発揮するためにこそ行なわれるべきものだと分かります。人間は一人ひとり違っていてちっとも構わないし、違っているからこそ世の中は成り立つのです。遺伝子に対する科学的知見は、決して差別に結びつくのではなく、むしろ個性を尊重する姿勢へと繋がります。自分の可能性(遺伝子)を最大限に発揮するために、張り切って学習に励みましょう。

【感想】「教育学者」をコケにしているところに関しては、教育学者として言いたいことはある。かつて「生物学を土台とした社会的教育学」なるものが日本でも大流行した歴史があるのだが、どうやら著者はご存知ないようだ。あるいは、「それは村井教育学のことではあっても、私が知ってる教育学とは違うものだよね」とは言いたくなる。たとえば広田照幸あたりは、著者も納得してくれそうなこと(学校にはできないことがたくさんあるとか)をたくさん言ってるはずだ。いやはや。

まあそういう些細な専門的ツッコミどころを抜きにすれば、最先端の科学的知見をとても分かりやすく、しかも実践に落とし込めるように工夫して説明しており、まさに新書として期待されている役割を存分に発揮している、良書だと思う。若い人が自分の個性や進路について真剣に考えるきっかけになるかもしれないし、そうあってほしい。
教育の起源や学校の起源に関しても、これまでの教育学者の漠然とした知見に対して生物学的な観点からスマートに裏付けを与えてくれる。切れ味が鋭く、なかなか爽快ではある。かつての大雑把な進化心理学の水準を遙かに超えて、数々の実証的データを下敷きにし、さらに最新の脳科学の知見とも結びついてきて、納得感は極めて高い。きっと今後の教育学は、生物学と脳科学の知見を踏まえないと成立しないようになっていくだろう。

とはいえ本書の結論は、別に改めて「遺伝」なるものを持ち出さなくても、既に教育学で確認されていることばかりなようには思う。
たとえば本書では「自己実現」という言葉を使っていないが、本書の結論はほぼヘーゲル哲学の言う弁証法と同じものとなっている。すなわち、即自(遺伝子で決められた私)と対自(社会関係の中の私)の間の葛藤を経て即且対自(個性を実現した私)にアウフヘーベンするという、弁証法的な自己実現の論理だ。
またあるいは、アリストテレスの言う「可能態(エネルゲイア)から現実態(エンテレケイア)へ」と言ってもいいのかもしれない。人間はそれぞれユニークな遺伝子を持った可能態ではあるが、その可能性が十全に発揮されて現実態に至るかどうかは本人の学習と環境如何にかかってくる。またアリストテレスの「形相/実質」の議論は、生物学の「遺伝子/表現型」の二項対立図式とも親和性が高い。
そして最終的に、ソクラテス=プラトンの言う「ほんものの幸せとは、私が私であること」という命題に落ち着く。(本書でもソクラテスの「エロス」概念に触れているが(37頁))。
本書は用語こそ最新の科学の言葉を使ってはいるが、やはりその知見を現実社会と繋ぐために解釈する段になると、ヘーゲルやアリストテレスやソクラテス=プラトンの掌の上で踊ることになるのだった。あるいは450年前のモンテーニュの洞察を振り返ってみてもよい。

「生まれつきの傾向は、教育によって、助長され強化されるが、改変され克服されることはほとんどない。今日でも、何千という性質が、反対の教育の手をすりぬけて、あるいは徳へ、あるいは不徳へと走っていった。」モンテーニュ『エセー』第3巻第2章

 本書は、モンテーニュが450年前に書き残した経験的知見を科学的に裏付けたものと言っていいのかもしれない。

【今後の研究のための個人的メモ】
まあ突き詰めれば村井教育学という特異な学統に対する恨み辛みのような気もしないではないのだけれども、教育学に対する批判は記憶しておきたい。

「教育は人間を「よくする」ためではなく、それ以前に「生きるため」「生き延びるため」、そして「命をつなぐため」にうまれたということになります。」(16頁)
「教育の本来の目的は、人格形成といった抽象的な目的や、自分だけのためなのではなく、他者のため、他者と共に生きるためにあるということになります。」(17頁)

さしあたって教育学者として簡単に反論しておくとすれば、「人格形成」という言葉と観念に対する著者の知見は視野狭窄だろうというところか。「人格形成」とは、実質的には最新の脳科学が言う「社会脳=デフォルトモード=自己と他者の区別」を成立させる営みだろう。人間にとって「自己の形成」と「他者との共存」は密接不可分な関係にあり、「人格形成」とはそのような人間性と社会との関係をも含み込んだ弁証法的な概念であったはずだ。単に「抽象的」と切り捨てられると、「え?」となる。まあ、「人格の形成」の掛け声ばかり大きくて中身の伴わない昨今の教育論だけ見ていると、そう思ってしまうのも無理はないかもしれないけれど。

安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか―教育を生物学的に考える』講談社現代新書、2018年