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【神奈川県横浜市金沢区】金沢文庫は学校じゃないが、裏山に北条実時の墓がある

金沢文庫に行ってきました。
「金沢文庫」は、創設者とされる北条実時の名前を伴って、しばしば教員採用試験に出題されます。そして雑な参考書では、金沢文庫が「中世の学校」とされているケースを見かけます。いえいえ、金沢文庫は学校(少なくとも私達が知っている学校)ではありませんでした。

ちなみに、もともとあった金沢文庫の建物自体は既に滅びてなくなっています。現在は県立の博物館となっており、常設展の他、定期的に特別展が開催されています。そして金沢文庫に関して言えば、建築物そのものはあまり大きな意味がないかもしれません。というのは、金沢文庫の本質は、建物ではなく、「書物」そのものだからです。「金庫」の守りたいものが箱などではなく金そのものであるように、「文庫」の守りたいものは建築物などではなく「文」そのものです。仮に建物が滅びてなくなったとしても、「文」を運んでくれる書物が残って現在に伝えられていることが極めて尊いのです。
その書物の大部分が遺されていたのは、金沢文庫からごくごく小さな山を隔てて東隣にある称名寺というお寺です。

花頭窓のある立派な山門を抜けて称名寺の境内に入り、太鼓橋を登って阿字池を突っ切って、金堂に向かいます。この阿字池になんとなく異国情緒を感じるのは、我々が室町以降の枯山水庭園のほうに慣れ親しんでいるからかもしれません。

称名寺の境内を囲むように山があります。というか正確に言えば、三方を山に囲まれた谷地を選んで称名寺が建っている、としたほうがいいでしょう。もともとは北条実時の館だったので、戦争時の防御に適した地形を選んでいるということですね。

称名寺の北の山の中に、金沢文庫を創設したとされる北条実時の墓があります。ハカマイラーとしてはぜひ行かなければなりません。この森は軽いハイキングコースとなっていて、地元の人が散歩を楽しんでおりました。

写真の真ん中が北条実時の五輪塔です。

お墓の脇に案内パネルがあります。この説明では、賢明にも慎重に「金沢文庫の礎を築きました」と書いてあります。軽率に「創設」とは言っていないところに注目しておきましょう。

お墓からさらに西に進むと、山の天辺から八景島を臨む絶景が楽しめます。天気も良かったので、海を眼前に臨んでとても良い気分です。手軽なハイキングコースとしては極めて優秀だと思いました。

さて山を一周して称名寺の境内に降りてくると、西の端に銅像が立っています。僧形の北条実時です。本来は武士ではありますが、お寺の開基ですからね。

そして銅像の西に、トンネルがあります。このトンネルを抜けたところが、県立金沢文庫の入口です。少し不思議な景色です。

トンネル入口に設置された案内パネルには、「金沢文庫」の由来が説明されています。ここに明確に「和漢の貴重書を納めた書庫」と書いてあります。「学校」とは一言も書いてありません。ここは誰かを教育したり指導するための場所ではありませんでした。「貴重書」の収集と保管そのものが目的であり、そしてそれを目当てに知識人が集まってくるような、研究所とかサロンとでも呼ぶような場所でした。

平安時代までは、このような「和漢の貴重書」を集めていたのは貴族や僧侶でした。金沢文庫の最大のポイントは、戦闘集団だったはずの武士が「和漢の貴重書」を集め始めたという明確な痕跡が残っているところです。
鎌倉に武家による権力組織が誕生したのはいいとして、現実的に政治を行なうためには立法・行政・司法に関する広範囲の知識と教養が必要になってきます。そして関東武士の土地財政的な実態に合った権力運用のためには、貴族式の律令制では役に立たず、新たなルールが必要とされます。具体的なルールは「御成敗式目」という形で登場することになるわけですが、これらの整備や運用に際しても知識と教養が必要になります。金沢文庫とは、武士が実際に政治を行なうときに必要とされた知識と教養を蓄え、運用し、表現するための場所だったわけです。

トンネルの北側には、「中世の隧道」が遺されています。現在は金網で封鎖されていて通ることはできません。

案内パネルによれば、称名寺と金沢文庫を繋ぐ通路として実際に使用されていた可能性が高いようです。確かにいちいち山を越えるのは面倒そうです。北条実時も、館から文庫へ赴く際は、この水道を利用していたのでしょう。
北条実時が収集を始め、称名寺に遺された「文庫」は、現在も貴重な資料として各種研究に利用されています。ありがたいことです。
(2020年12/26訪問)

【要約と感想】広田照幸『大学論を組み替える―新たな議論のために』

【要約】1990年代以降、大学改革が急速に進行しています。しかし、改革の論理は行き当たりばったりでデタラメなので、現場はむしろ疲弊しています。本質的で建設的な議論を進めていくためには、大学の存在意義に立ち帰る必要があります。

【感想】個人的な実感として、大学が何かおかしいことになっているなあと思ったのは、非常に優秀な先生が定年退職でもないのに東大を去ったときだ。寺崎弘昭先生と本書の著者である広田照幸先生が定年前に東大から去ったとき、何か変なことが起こっているんだろうなあと。そして特に軌を一にしたわけではないし、そんな偉そうな立場でもないわけだけれども、自分自身も大学から距離をとるような素振りをしてみたり。まあ、「沈みつつある泥船」に乗っているような感じがしていたのは、確かな気がする。
 が、なんの因果か現在は大学にポストを得ることができて、日々「校務分掌」の一環としてまさにNPMのPDCAサイクルに関わる業務に携わっていたりする。現場には教育の「質」を実質的に上げていこうと頑張っている教員もたくさんいるし、そういう教員が板挟みに遭って疲弊していく姿も目の当たりにしている。本書が言っていることは我が事として理解できるし、身にしみる。
 本書は、目の前の汚い現実に疲れたときに、顔を上げて遠くに霞む美しい風景を見て心を癒やされるような、そんな役割を果たすものかもしれない。目線を下げると、大変な現実が待っていることには変わりないのだが、もう一度がんばれる。

広田照幸『大学論を組み替える―新たな議論のために』名古屋大学出版会、2019年

学習指導要領(平成29年版)に対する原理的批判

批判的な吟味

 学習指導要領(平成29年版)の目玉キーワードは、「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」です。この方針で本当に教育や学校は良くなるのか、教育原理的に考えてみましょう。

教育課程を社会に開いて大丈夫か?

「社会」とは何か?

 実はそもそも、「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」が具体的に何を意味するかは、学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかになっていません。しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できてしまいます。あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われてしまいます。
 そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずです。もちろん市民社会も経済を実体とする側面もありますが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もあります。気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点です。もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはありませんが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていません。たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てきますが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところです。「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていません。ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見えるような気がします。それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないでしょうか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないでしょうか?

学校選択制と「社会」

 この観点から問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性です。仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくるからです。もしも「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community(社会)に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示します。一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation(社会)に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示します。「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるわけです。そして、これまで「学校選択制」が積極的に推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体(local community)ではなく利害を共有する結社(association)である可能性が高くなるわけです。
 「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった市場経済に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところです。むしろ「社会」という言葉の曖昧さを逆手にとって、都合のいいところだけ摘まみ食いしているようにすら感じます。(そしてその矛盾の行き着く先には、教育の市場化と公教育の崩壊が待っているかもしれません。)

local communityの問題

 また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community(地域共同体)が問題を抱えていないわけではありません。教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもあります。local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるでしょう(小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意)。小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もあります(佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p.68)。
 このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものは社会から隔離され、一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もあるわけです。しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わってしまうでしょう。「学校を社会に開こう」と言いますが、もしも社会が酷いものだったら、むしろ学校は閉じていた方がいいのではないでしょうか。

global marketとlocal communityの間

 だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくるわけです。その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずです。
 文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がしっかり反映しているでしょうか。このあたり、地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまないところではあります。そういう矛盾に目をつぶって、単に「社会に開かれた教育課程」と唱えて学校だけに課題を押しつけるのでは、むしろ矛盾は拡大するだけに終わることが容易に想像できます。地方自治のあり方を踏まえて、広い視野から教育と学校の未来を考えていかなければなりません。

カリキュラム・マネジメントは可能か?

PDCAサイクルのCHECKについて

 仮にカリキュラムをマネジメントすることが教育実践の質を高めるとしたら、PDCAサイクルを確立することは確かに必須の手続きと言えるでしょう。そしてPDCAサイクルの質を大きく左右するのは、CHECK(評価)のあり方です。CHECKに利用されるべき指標は、学習指導要領や解説に言明されているわけではありませんが、「全国学力・学習状況調査」が想定されているのは間違いないように思われます。実際、カリキュラム・マネジメントの実践報告では、しばしば「全国学力・学習状況調査」の点数の上昇が実践改善の指標として示されています。
 しかし「全国学力・学習状況調査」は、カリキュラム・マネジメントのCHECK指標として本当に意味があるでしょうか? この疑問に対する教育原理的な反省が欠けているとき、PDCAサイクルは前提から破綻している可能性があります。そして、「悉皆調査」という方法がCHECK指標として役立たずの可能性が高いことは、様々な学者が指摘しているところです。「全国学力・学習状況調査」を「C」に据えてPDCAサイクルを構想することは、実は前提からマネジメントが破綻している可能性が高いことを疑ってよいでしょう。
 翻って、安易に「全国学力・学習状況調査」に依拠せず、独自のルーブリックを作成してCHECK指標としているカリキュラム・マネジメントの実践は、常に教育原理的な問い直しに開かれて、前進の可能性に満ちているように見えます。魅力的な取り組みが全国的に行われています。

マネジメントの権限

 マネジメントで有効活用するべき「資源」としては、大雑把には(1)金(2)物(3)人(4)時間の4つの領域が考えられます。一般企業であれば、(1)資金を調達し(2)環境を整え(3)有能な人材を集め(4)工数を区切るというマネジメントの方向性は見えやすいでしょう。
 しかし学校においては、(1)金と(2)物についてはあらかじめ条件が定まっており、校長の自由にできるわけではありません。この領域でマネジメントを行うのは教育委員会の仕事です。また校長は、(3)人についても自由にマネジメントできるわけではありません。自分の頭を飛び越えて割り振られた人材を、研修などで育成し、組織を構築するくらいしかできません。勢い、目先で改善できることは(4)時間のマネジメントくらいだということになってきます。委員会の数を減らしたりとか、会議の時間を減らしたりとか、会議を立って行うなどして、5分10分の時間を捻出するという涙ぐましくセコい努力が積み重ねられることとなります。民間企業の華々しいマネジメント(ITCが整備された機能的な会議室や、明るく働きやすいオフィスの改造など)との圧倒的な落差にガッカリです。
 校長のリーダーシップの下で行うスクール・マネジメントは、一般企業のマネジメントとはかなり勝手が違うことは踏まえておく必要があるでしょう。一般企業で蓄積されてきたマネジメントのノウハウが、そのまま学校で機能するかどうかは、極めて怪しいわけです。特に「教職の専門性」という要素を考慮に入れないスクール・マネジメントは、おそらく容易に破綻するでしょう。

学校民営化?

 それでは、校長先生に学校をマネジメントする権限を大幅に与えてみましょうか。たとえば金もモノも人も自由に調達する権限を校長先生に与えてみたとしましょう。銀行から資金を調達したり、提携企業から寄付金を募ったり、授業料を独自に徴収したり、教員免許を持たない人材を自由に雇ったり。そして銀行から資金を調達するためには、どんな「学校目標」だと受けがいいか、想像してみます。学力を上げて進学実績を作る、あるいはプロスポーツ選手を大量に送り出すなどでしょうか。どちらにせよ市場経済の意向と噛み合った目標となるはずです。それは「人格の形成」を目指す教育ではなく、「カネになる」ようなスキル獲得を目指す教育です。それはもはや現在の公教育とはかけはなれた学校です。というか、学校ではなく「塾」とでも呼んだ方がいいものになっています。
 そして実際、臨時教育審議会以降、学校選択制や中高一貫教育の拡大など、教育の市場化は確実に進行しています。学校へのマネジメントの導入も、市場化傾向の一つであるとも考えられます。このマネジメント万能の傾向が行き着く先には、公教育の解体、学校の民営化が待ち受けている恐れがあります。本当に教育はそれで大丈夫なのでしょうか?

「学び」はマネジメントできるのか?

 仮に学校はマネジメント(運営)できるとしましょう。実際、学校はマネジメントなしでは成立しません。マネジメントが破綻した私立学校は潰れるし、マネジメントが破綻した公立学校は税金の無駄遣いです。しかしだからといって、その内部で行われる「学び」そのものをマネジメントすることは本当に可能なんでしょうか。仮に「学び」をマネジメントできるとして、そこで言われている「学び」とは具体的に何を指しているのでしょうか。たとえば教育の目的が「人格の完成」だとして、本当に「人格の完成」をマネジメントすることなどできるのでしょうか? 個人的には、「人格の完成」がマネジメントできるなどと、無条件で信じることはできません。「人格の完成」は、マネジメントの領域を超えたところでしか起こりえないものだと思います。逆に、マネジメントできる「学び」とは、その程度の範囲をカバーしているだけでしょう。学習指導要領がマネジメントしようとしている「学び」という言葉が、そもそも具体的に何を指しているのか、その射程距離はどれほどなのか、しっかり吟味されなくてはなりません。
 マネジメントでできることとできないことは、教育原理的な観点からしっかり見極めておく必要があります。その上で、マネジメントで改善できることはどんどんやればよいでしょう。逆に、原理的にマネジメントできないことをマネジメントの領域に組み込もうとすると、必ずおかしなことになります。現在のPDCAサイクル万能感に対しては、本来はマネジメントできない領域にまでマネジメントを要求しているように見えるので、不安を感じざるを得ません。「人間とは何か?」とか「教育とは何か?」を真剣に考えていないのに「PDCA!」ばかりを主張する人々は、企業経営は得意かもしれませんが、教育ができるとはとても思えないわけです。

【要約と感想】西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』

【要約】自然科学の考え方で、生徒の行動や考え方を観察して、帰納的に原理原則を考えれば、自ずと学校の在り方が見えてきます。校則は必要ありませんし、定期テストや制服も必要ありません。「ひとつの校長ルール」とは、誰かが勝手に決めたルールを無条件に信奉して演繹的に思考するのではなく、帰納的に物事を考えるということです。

【感想】物事を考えるルールは「帰納的に思考する」ということだが、根底にあるのは、子どもを一人の人間として扱い、人格を尊重するという、人権感覚だ。「大人/子ども」を区別することなく、境界線を引くことなく、徹底的に子どもたちを一人の人間として扱う。この土台が揺らがないから、教師や生徒たちも安心してついていくことができるのだろう。この理念がなかったとしたら、帰納的な自然科学思考を徹底したとしても、たいした成果は挙がらないだろう。徹底的な人間愛の理念の下で大きな成果を挙げた手腕には、ただただ頭が下がる。すごい。

カント・ヘーゲル以降の近代的人間観においては、「大人」と「子ども」の間には確固たる境界線が引かれ、「未成熟な子ども」は一方的に「理性的な大人」の指導を受ける立場だと考えられてきた。その基本的なOSの上に、学校制度を中心とする近代教育は形成されている。「大人/子ども」の厳密な区別を前提として、初めて近代学校制度は動くように組み立てられている。
しかし近代的な「大人/子ども」の峻別は、50年ほど前から向こうになりつつある。大人は決して理性的でないし、子どもは必ずしも未成熟でないという理解が説得力を持ちつつある。1989年「子どもの権利条約」は、子どもを一人の人間として認めようという理念の集大成となった。それに伴い、既存の近代的価値観に寄りかかる学校制度は機能不全を起こしつつある。近代的な「大人/子ども」の区別が説得力を持たなった現代だからこそ、「子どもを一人の人間=おとな」として扱うという根本的な価値転換が大切になってくる。
本書は、根本的な価値転換の在り方を、具体的な形で丁寧に示してくれる。とても貴重な実践だ。現実には賛否両論があるのだが、表面的なところでこの実践を否定している人々の意見は、実にくだらない。「近代的価値観」の是非にまで踏み込んで、初めて賛否両論を検討することに意味がある。

西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』小学館、2019年

【要約と感想】伊藤良高『増補版幼児教育行政学』

【要約】2006年の教育基本法改正以降、新自由主義的行政がさらに進行し、幼児教育を歪めています。幼児教育行政は、サービス消費の観点から営利追求を追認するのではなく、公共性の観点から子ども本位で構想するべきです。首長のリーダーシップの在り方にも注意が必要です。保育学の専門性を確立するために、関係者一同が協力していきましょう。

【感想】単なる事実の羅列に終始するのではなく、保育学確立を願う著者の志と理念を十分に感じられる、格調の高い本だった。2006年の教育基本法改正以来、幼児教育の分野も含めて、教育界では大激変が続いている。教育委員会の形も大きく変わった。そんな中、ただ世間の波に翻弄されるのではなく、自分の立ち位置を見定めるために、良い本だと思った。

伊藤良高『増補版幼児教育行政学』晃洋書房、2018年