「哲学」タグアーカイブ

【要約と感想】藤田正勝『日本哲学入門』

【要約】普遍的であるはずの哲学に「日本」と冠する意味に配慮しつつ、明治以降の日本人が何を考えてきたかをトピック(経験、言葉、自己と他者、身体、社会・国家・歴史、自然、美、生と死)に分けて説明します。特に西田幾多郎と田辺元を中心とする京都学派の活躍を中心に描きます。共通するポイントは変化(動)と主客一致の観点です。

【感想】新書とはいえ、タイトルに偽りありというか、正確には「明治以降京都学派入門」だ。「日本哲学」と冠するのなら、本来であれば聖徳太子や空海、西行や世阿弥、伊藤仁斎や荻生徂徠、本居宣長や藤田東湖について語らなければならない。しかしどうやら本書によればそれらは「哲学」ではなく「思想」らしいので、仮に明治以降にターゲットを絞ったとしても、井上円了や三宅雪嶺、高山樗牛や清澤満之といったところには言及されないし、なんなら鶴見俊輔や吉本隆明はどういう扱いになるのか。ということで、もう、話はもっぱら明治後期から昭和戦前期の極めて短い時間(たかだか40年程度)の京都学派に尽きている(いちおう「美」のテーマだけは多様)。京都学派の仕事が立派なことにはまったく異論がないのだが、それで「日本哲学」が語り尽くせるかと言われると、疑問なしとはしない。主語が大きすぎる。現実はもっと多様だ。本当に、タイトルが「京都学派入門」であれば、まったく問題ない。

【個人的な研究のための備忘録】愛と死
 まあ、とはいえ、知らないことも多く、とても勉強になった。本の内容自体は悪くない、というかとても良い。今後役に立ちそうなテキストをサンプリングしておく。

「田辺の理解では、死者との関わりを可能にするのは「愛」である。「生の存在学か死の弁証法か」のなかで田辺は次のように記している。「自己のかうからんことを生前に希って居た死者の、生者にとってその死後にまで不断に新にせられる愛が、死者に対する生者の愛を媒介にして絶えずはたらき、愛の交互的なる実存協同として、死復活を行ぜしめるのである」。」261頁

 迫力のある考察だ。「愛」について考えるときにはぜひ田辺元の仕事を参照したい。

藤田正勝『日本哲学入門』講談社現代新書、2024年

【要約と感想】岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』

【要約】今や終わりなき日常の退屈の果てに自己イメージを消費するポストトゥルースと善のパッケージ化が横行し、フェイクニュースと陰謀論が跋扈する時代ですが、背景にあるのは相対主義と構築主義の横行による〈私〉の喪失です。〈私〉の外にある情報の洪水に踊らされて、私が本当に何を望んでいるか分からなくなっています。もう一度〈私〉を取り戻す哲学としてデカルトを再評価し、フッサール現象学を踏まえて、コミュニケーションの条件と可能性を探ります。
 人間の認識には確かに主客一致が成立しませんが、しかし相対主義や構築主義に陥ると剝き出しの力だけしか信用できなくなります。〈私〉の確信を支える条件を反省し、他の〈私〉の確信を支える条件との対話を粘り強く続けることで、普遍的な妥当性は確保できます。大切なのは、〈私〉の確信を支える条件を反省する謙虚な姿勢、他の〈私〉とのコミュニケーションを成立させる言語化の努力と技術、迷いと弱さと脆さを抱えたまま決断をしない決断をする勇気ですが、なによりも〈私〉が〈私〉であるというどうしようもない事実を肯定することです。

【感想】過剰な自分語りに満ちている本だが、過剰な自分語りをしなければ説得力を持ちえないコミュニケーションの在り様を語っている以上、積極的に自分語りをするしかないのである。「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」の方が圧倒的に重要な時代なのだ。しかしただ、その自分語りで表現される〈私〉が、「クリスタル」な固有名詞の氾濫に囲まれた空虚な〈私〉ではなく、「欲望」に基づく充溢した〈私〉でなければならない、ということではある。さて、そんなリアルに充実した〈私〉を語る言葉を誰もが持てるかどうかという点で、教育の出番ということになるだろうか。
 ともかく、フッサール現象学に基づいて相対主義や構築主義を乗り越えていこうという姿勢は、教育学ではただちに苫野一徳を思い起こさせる。本書の著者が1987年生まれ、苫野先生が1980年生まれだが(決断主義を前面に打ち出した宇野常寛が1978年生まれか)、こういう「相対主義に一撃をくらわす」ような姿勢は世代的な特徴を持つのか、それとも時代の雰囲気か、あるいは普遍的な動向なのか。個人的には、悪くはない。

■岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』講談社現代新書、2023年

【要約と感想】國分功一郎『はじめてのスピノザ―自由へのエチカ』

【要約】主著『エチカ』の内容を中心にスピノザの思想を解説します。
 まずそれぞれの個体はそれぞれで「完全」です。善悪とはそれぞれの個体の外部で普遍的に決まっているのではなく、それぞれの個体の「力」を増大させるか否かで決まるものです。同じ刺激が別の個体では善だったり悪だったりするので、善悪とは結局は組み合わせです。だとすると、それぞれの個体の本質は、個体を個体たらしめようとする「力」あるいは「欲望」であり、それを増大させるものが善であり、能動的な「自由」です。だとすると、それぞれの個体の「自由」を最大限に保障する体制こそが社会の安定を支えます。逆にそれぞれの個体の自由を妨げる不安定な体制は必然的に滅びます。つまりそれぞれの個体に「あらゆる条件を無視した完全に自由な意志」などはなく、個体の力あるいは欲望の必然性に従って完全性を増大させることこそ自由と呼ぶに値します。こういう「真理」は、真理を獲得しさえすれば自明に理解できます。こういう「真理が真理自身の規範」という考え方は、デカルト以来の科学的真理観には抵触するかもしれません。しかし真理の獲得とは必然性の認識が深まることであり、それはただちに能動性と自由の増大であり、つまり「力」および「欲望」の増大であり、個体の完全性の増大です。逆に言えば、個体の完全性の増大が伴わないところで、真理の獲得もありません。実はこの「精錬」の意義は、スピノザとは異なる思想だと思われているデカルトにも見られます。

【感想】とても分かりやすく書かれていて、初心者にもお勧めだ。スピノザ哲学を理解する上で躓きやすい概念「属性」「様態」についても丁寧に解説してある。個人的には「完全性」という中世スコラ学に由来する難解な概念をうまく処理しているのに感心した。勉強になった。
 そして、終わりの方に示されたデカルト解釈は刺激的だ。真理というものは単に形式論理的に明らかになるものではなく、熟考を充分に重ねた人でないと顕れてこない。何事も表面を撫でただけで分かったような気になってはいけないのである。つまり本書が分かりやすく書かれているからといって、分かった気にならず、精錬を重ねていかなければならない。

【個人的な研究のための備忘録】
 教育に関する言及があったのでサンプリングしておく。

「おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押しつけるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います。」73頁

 完全に文部科学省が推奨する「主体的・対話的で深い学び」の方針とシンクロしている印象だ。まあ、文部科学省の方は「エイドスからコナトゥスへ」ではなく「コンテンツからコンピテンシーへ」と表現しているところではあるが、「力への転換」という意味で、言いたいことはほぼ同じだろう。時代がスピノザに追いついたと言っていいところかどうなのか。

國分功一郎『はじめてのスピノザ―自由へのエチカ』講談社現代新書、2020年

【要約と感想】デカルト『方法序説』

【要約】学校で学ぶことはデタラメで何の意味もないことを悟り、自分自身の内部と世界そのものだけに真実を求めて旅に出ました。そしたら旅先でもみんな言っていることがそれぞれ違うので、人が言っていることは何も信じてはいけないことを確信しました。
 これまでに教師からデタラメを教え続けられたことが分かった以上、曖昧でいい加減な知識は全部捨て去り、焦らず時間をかけて、確実な思考を進めるための原理を考えた結果、4つの規則に落ち着きました。
(1)疑う余地のない明晰で判明な真実以外は判断の材料としない。
(2)解決すべき問題はできるだけ細かい部分に分割する。
(3)もっとも単純で認識しやすいものから階段を上るようにして順番に理解し、最終的に複雑なものの認識に至る。
(4)あらゆる要素を完全に枚挙して見落としがなかったと確信する。
 この思考法を数学で試すとたちまち難問を解きまくることができるようになり、これでいけるという自信を持ったので、最も重要な哲学で同じことができるかチャレンジしてみることにしましたが、焦らず時間をかけて丁寧に考えようと思ったので、決定的な答えを見出す前に暫定的な行動方針を立てました。
(1)わたしの国の法律と慣習、そして最も良識ある穏健な人の意見に従う。
(2)一度決断を下したら、多少怪しくても首尾一貫してそれに従う。
(3)他人を変えようと無駄なことはせず、自分を変える。
 この方針でしばらく大丈夫そうだったので、予定通り少しでも疑わしいものはどんどん捨て去りました。しかしあらゆるものを疑い続けるうちに、考えている自分自身の存在だけは疑えないことは、何があっても揺るぎない確実な真理であることを見つけました。「われ惟う故にわれ在り」こそ探し求めていた哲学の第一原理ということでファイナルアンサーです。そうなるとたちまち(2)仮に身体(物体)がなくても考えるわたし(精神)は存在する。(3)わたしたちが明晰かつ判明に捉えることはすべて真実である。(4)完全な神が存在する。(5)われわれの理性には何かしら真理の基礎がある、という真理が演繹されます。
 この原則に立って考え始めると、これまで哲学上の難問と思われてきたことにも簡単に答えを出すことができます。たとえば地球を含むこの世界全体の成り立ちやあらゆる現象、さらに人間の体の仕組みは、古代哲学やスコラ学が駆使する概念なんかなくても、すべてメカニカルに説明し尽くせます。ただし人間の魂は物質ではないので、別に考えなければいけません。
 ここまでの考えを論文にまとめて出版する準備を進めていましたが、宗教裁判でガリレオが有罪になったのを見て、やめました。しかしやはり自分が到達した真実へ至る方法は人々を幸福に導くものです。なぜなら自然の原理を解明し、それを応用することで、われわれは自然の主人となり所有者となることができるからです。わたしが到達した地点はごくごく初歩的なところにすぎませんが、この方法を貫徹すれば、人間はますます発展していきます。今後の探究では実験が重要になります。序説はこれで終わりますので、次の章から具体的な成果をご覧ください。(翻訳はここでおしまい)

【感想】まあ私が改めて評価するまでもないことだが、新しい時代の幕開けを告げる画期的な論考だ。いよいよ近代に突入した。
 まず重要な事実は、中世的スコラ学を徹底的に排除しているのに加えて、ルネサンス的人文主義も完全に排除している点である。デカルト的近代は人文主義(ヒューマニズム)の伝統から完全に切り離されている。ルネサンス的人文主義の研究者たちはもちろん人文主義こそが近代の幕開けだと主張するわけだが、虚心坦懐に本書を読めば、そんなことはない。むしろ人文主義は近代化を妨げるような世迷言に過ぎない。古代哲学など、現実を理解するのに何の役にも立たない。デカルトに直接連なるのは、コペルニクス、ブルーノ、ベーコン、ガリレオなど、自然科学の発展に果敢に尽くした人々だ。
 とはいえ判断が難しいのは、デカルトの自己主張にも関わらず、既存の権威を相対化するという批判的な姿勢や態度を育む上で人文主義が何の貢献もしていないと即断するわけにはいかない、というところだ。15世紀後半から17世紀前半に至る100年強の時間の中で、人文主義の活動(そして宗教改革)によって少しずつ既存の権威が失われていく。この既存の権威への批判と相対化という地ならしがなければ、デカルトの画期的な論考も芽生えることがなかったかもしれない。というか、たぶんそうだろう。となると、人文主義とデカルトの間に直接的な繋がりがなくとも、時代背景や土台づくりという点で人文主義の意義を認めることはできる。
 また、実は「我惟う故に我在り」というアイデアそのものが既にアウグスティヌス『神の国』に見られるという事実には配慮しておいていいのだろう。デカルト自身がアウグスティヌスに言及することはもちろんないし、残されている書簡によればアウグスティヌスの著作を本当に知らなったようなのだが、あれほどデカルトが「完璧にマスターした」と豪語するイエズス会の学校でアウグスティヌス(しかも主著『神の国』)について聞いていないなんてことがあるのか。
 そんなわけで、ルネサンスや人文主義の歴史的意義については、デカルトの方針に従って、少ない情報のみで即断することなく、時間をかけて丁寧に見ていかなければならない。

 次に個人的な関心から問題になるのは、「かけがえのない人格」という近代的自我の観念形成に対してデカルトがどれほどの貢献をしているか、というところだ。
 まず「我惟う故に我在り」という例のテーゼそのものが「かけがえのない我」という観念を浮上させるのは間違いない。しかも哲学の第一原理ということで、荘子など中国哲学的な独我論とも異なり、あるいは仏教で乗り越える対象となる「欲望の主体としての我」とも異なり、間主観的な議論に発展させることが可能な、つまり民主主義の土台となる健全な個人主義の原理として意味を持つ。デカルトそのものには「かけがえのない人格」という表現を明確に見ることはできないが、ここに個人主義の哲学的土台を見ることは許されるだろう。
 そして本書を通読して改めて思ったのは、デカルトは自身の主張を論理形式のみにおいて成立させようとしているのではなく、自分の独自な生育史を踏まえて説得力を持たせようとしている、ということだ。本書の書き方そのものが「過剰な自分語り」になっていて、たとえば扱っている内容や主張がまったく違うように見えるモンテーニュ『エセー』における「私」と立ち位置が実はよく似ている。こういう「自分語り」は古くはペトラルカやダンテあたりの詩的表現には見られるが、哲学の領域において、プラトンのような対話形式でもなく、アリストテレスのような客観的論文調でもなく、過剰に自分語りをしながら表現してみせたのは実はけっこうすごいことではないか。そもそもデカルトは真理の「伝え方」にそうとう意図的で、客観的な真理として他人に押し付けようとはしておらず、あくまでも「自分自身がたどりついた確信」について述べるという表現形式を徹底している。つまり、自分がたどりついた真理を自分自身の表現形式に忠実に適用している。デカルトが画期的なのは、内容だけでなく表現形式と伝達手法においても「我惟う」を貫いたところだ。ここに近代的自我(かけがえのない人格)の始まりを見たくなるわけだ。

 ちなみに評判が悪い「神の存在証明」は、確かに無理筋だ。「完全性」という中世スコラ的概念を持ち込んだ瞬間に話がおかしくなった。逆に、いかに「完全性」という概念が中世を支配していたかを照射する表現としては注目できる。そして、実はここにこそ「人格の完成」という概念の根っこがあるのかもしれないので、侮れない。ちなみに「神」を必要としない「我惟う」哲学第一原理の確立は、フッサールを待つことになる。

【個人的な研究のための備忘録】
 スコラ学や人文主義に対する批判については直接的な表現を確認できる。

「わたしは子供のころから文字による学問(人文学)で養われてきた。そして、それによって人生に有益なすべてのことについて明晰で確実な知識を獲得できると説き聞かされてきたので、これを習得すべくこのうえない強い願望をもっていた。けれども、それを終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全課程を終えるや、わたしはまったく意見を変えてしまった。」11頁
「わたしは雄弁術をたいへん尊重していたし、詩を愛好していた。しかしどちらも、勉学の成果であるより天賦の才だと思っていた。」14頁
「以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。」17頁
「われわれが人生にきわめて有用な知識に到達することが可能であり、学校で教えているあの思弁哲学の代わりに、実践的な哲学を見いだすことができ、この実践的な哲学によって、火、水、空気、星、天空その他われわれをとりまくすべての物体の力や作用を、職人のさまざまな技能を知るようにはっきりと知って、同じようにしてそれらの物体をそれぞれの適切な用途にもちいることができ、こうしてわれわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめることである。」82頁
「これまでの医学で知られているすべてのことは、今後に知るべく残されているものに比べたら、ほとんど無に等しい」83頁
「しかも実験については、知識が進めば進むほど、それが必要になることをわたしは認めていた。」86頁

 あとはスコラ学や人文主義を批判する文脈で「自然の主人にして所有者たらしめる」という近代の人間中心主義が露骨に表明されていることについては、やはり見逃すわけにはいかない。

「われわれはみな、大人になる前は子供だったのであり、いろいろな欲求や教師たちに長いこと引き回されねばならなかった。しかしそれらの欲求や教師は、しばしば互いに矛盾し、またどちらもおそらく、つねに最善のことを教えてくれたのではない。」22頁

 大人と子どもの比較が表現されていたのでサンプリングしておきたい。またここでさりげなく「教師」に対する批判が見られることも確認しておく(ただしヴィーヴェス等に見られるような倫理的人格に対する批判ではないのだろう)。

「しかし、だからといってわたしは、疑うためにだけ疑い、つねに非決定でいようとする懐疑論者たちを真似たわけではない。」41頁

 モンテーニュと比較されることに対する牽制だと理解していい表現か。ともかく16世紀前半の段階で一般的に「懐疑論」について理解されていただろうことは確認しておく。
 確認しておけば、デカルトは「方法的」に懐疑しているだけで、結論として懐疑を容認しているわけではない。デカルトの「我惟う」は独我論に陥らず、間主観的な議論が成立する土台となる健全な個人主義に結びつく。そういう意味で、フッサール現象学が方法論としてエポケー(判断停止)するのは、確かにまったくデカルト的である。

「続いてわたしは、わたしが疑っていること、したがってわたしの存在はまったく完全ではないこと――疑うよりも認識することのほうが、完全性が大であるとわたしは明晰に見ていたから――に反省を加え、自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。(中略)完全性の高いものが、完全性の低いものからの帰結でありそれに依存するというのは、無から何かが生じるというのに劣らず矛盾しているからだ。そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている。つまり一言でいえば神である本性だ。」48-49頁

 デカルト自身が「スコラ学」から言葉を借りてきていると正直に表明している通り、この神の存在証明に近代的な表現は見当たらない。荒唐無稽だ。
 ただし、「完全性」という概念がヨーロッパ思想史で極めて重要な役割を果たしてきたことだけは明瞭に理解できる。そして近代の「人格の完成」という概念は、私の感想では、おそらくこの「完全性」の概念を背景として成立している。デカルトのこの荒唐無稽でデタラメな神の存在証明には、しかし繰り返し立ち戻ることになるだろう。

デカルト/谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫、1997年

【要約と感想】ベーコン『学問の進歩』

【要約】人類の進歩に貢献するため、あらゆる学問の領域に渡って過去の業績を点検して問題点と課題を明らかにし、未来へ向けた展望を示します。学問は様々な誤解や学者たち自身の問題によって批判されることもありますが、本質的には神と人間にとって極めて高い価値を誇るものです。
 学問の領域は(1)歴史(2)詩(3)哲学(4)神の4つの領域に区分できます。歴史には(1)自然誌(2)社会の歴史(3)教会史があります。詩の領域はテコ入れするまでもなく勝手に発展します。哲学の領域は(1)第一哲学(2)神学(3)自然哲学(4)人間学に分かれます。
 現在の学問水準は、真理を発見する手段の整備や様々な発明のおかげで格段に上がっており、ギリシアやローマの時代を超えて進歩しています。確かに乗り越えなければいけない課題はたくさんありますが、人類の未来は明るいのです。

【感想】現代的な感覚からすれば、学問全体の領域を余すところなく点検してこれからの展望を示すなど、途方もない無理無茶無謀な企てだ。本書が公になったのが1605年で、同じような企ては1531年のヴィーヴェスにも見られた。この後、17世紀序盤にはデカルトが出て、中盤には清教徒革命が発生し、終盤ではニュートンが活躍することになる。学問の全体像を個人で描こうとする企ては見られなくなり、ディドロ「百科全書」のような企画に変わっていくこととなる。
 本書全体を通じて印象に残るのは、「ルネサンスが終わったなあ」ということだ。ルネサンスの定義にもいろいろあるが、共通しているのはギリシア・ローマの文芸に憧れ、再現しようとする熱意である。ベーコンには、その憧れも再現しようとする熱意もない。というか、「ギリシア・ローマを超えた」という認識が各所に噴出している。実際、容赦なくプラトンやアリストテレスを槍玉に挙げる。その認識と姿勢を支えているのが、大航海時代によって地球全体の姿を明らかにした学問の成果への自信だ。哲学的観照や文献読解や雄弁術など古代的な教養では不可能な大事業を実現したという、発明発見と真理と活動に対する自信だ。だから、現実の地球の全体像を写す「地球儀」が完成したこのタイミングで、学問の全体像を示す「学問の地球儀」も完成させなければならない。
 そんなわけで、ベーコンの中でルネサンスは完全に終了しており、つまり近代の夜明け前までは来ている。しかしまだ近代は訪れていない。「かけがえのない人格」という発想はまったく見られない。

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンスの終わり
 当時の学問水準について窺える記述がたくさんあって面白いのではあるが、個人的な研究に役に立ちそうなところだけサンプリングしておく。特に教育や学校に関する記述と、「ルネサンスの終わり」に関する記述が重要だ。

「なお、注意すべきことに、教師たちの生き方は圧政のサルまねだと芝居などでずいぶん嘲笑されてはいるし、また、最近のだらしないなげやりな風潮は学校の教師や家庭の教師の選択に当然はらうべき顧慮を払わなくなっているが、しかし、とおい昔の最良の時代の知者は、国家はその法律のことにあまりにもいそがしく、教育のことにかけてはあまりにも怠慢であると、いつももっともな不満をもらしていたのであって、そのとおい昔の教育のすばらしいぶぶんが、最近イエズス会員の学院によってある程度まで復活されたのである。」38-39頁

 この部分に至るまでの話の流れは「学者の貧乏」をテーマにしていてなかなか身につまされるのだが、サンプリングしたところは文脈からは少々切り離されて唐突に差しはさまれる。実は本書にはそういう行き当たりばったりの思い付きにしか見えない冗長な記述が極めて多く、前近代的な印象が色濃くなる原因にもおそらくなっている。ともかく、16世紀の教師が嘲笑の的になっていたらしいことが分かるが、こういうエピソードはヴィーヴェスなどにもあって、事欠かない。しかし一方「イエズス会員の学院によって復活された」という記述の具体的な中身はよく分からなくて、気になるところだ。イグナチウス・ロヨラの活動のことを指しているのだろうか。

「マルティン・ルターは、(疑いもなく)一段たかい摂理に導かれてではあるが、理性をはたらかせて、ローマの司教と教会の堕落した伝統とを向こうにまわして、自分がどのような仕事をくわだてたかを悟り、またどのみちかれの時代の世論の支持は得られず、まったく孤立していることを悟って、現代にたち向かう党派をつくるためには、古代のすべての作家をよびさまし、むかしの時代に援軍を求めなければならなかった。こうして、それまで長らく図書館のなかに眠っていた、神学と人文学との両方と、古代の作家たちがひろく読まれ、とくと考えられることとなった。(中略)これを助長し促進したものは、それらの遠いむかしのものでありながら見た目には新しい説を唱えた人びとが、スコラ学者に対してもっていた敵意と敵対であった。(中略)これら四つの原因、古代の作家に対する感嘆と、スコラ学者に対するにくしみと、言語の厳密な研究と、説法の効能とが重なって、当時さかえはじめていた雄弁と能弁とのひたぶるな研究がおこることとなった。これはたちまち極端に走った。」49-50頁

 なんだかいろいろ間違った記述になっている。古典文芸復興はルターと関係がない。こういう勘違いが生じるのは、宗教改革と古典研究をセットとして考えるのが当時の認識枠組みとしては常識だったから、と推測しておこう。エラスムスの存在も考慮していいか。
 事実の間違いはともかく、ベーコンの認識では「スコラ学者への敵意」と人文主義的な「雄弁術」の流行がセットになっていることは確認しておく。

「キリスト教会は、一方では、北西ではスキタイ人の侵入と、他方では、東からサラセン人の侵入とのただなかにあって、異教の学問の貴重な建物をも、その聖なるふところに抱き、膝にのせて保護したのであって、それらの遺物は、この保護がなければ跡形もなく消滅したであろう。」77-78頁

 ここでベーコンが言う「キリスト教会」とは、コンスタンティノープルの東ローマ教会のことだろうか。ウクライナにいたスキタイ人にローマが北西から浸入されるとは思えない。そして、となると、「異教の学問」とはギリシア文化のことになる。そうだとすれば、これはベーコンがビザンツ帝国が果たした文化的役割を認識していた証拠になる記述として理解できるが、そんなことあるのか。

「まず第一にヨーロッパにはずいぶん多くのりっぱな学院が設けられているのに、それらはすべて専門科目(神学、法学、医学)に専念して、教養科目(哲学と一般原理の研究)をやる余裕のあるものが一つもないことを、わたしは不思議に思う。というのは、人びとは、学問は行動を目的とすべきであるというとき、判断を誤ってはいないが、しかしそう信じこんで、むかしの寓話に語られているあやまちに陥っているからである。その寓話では、胃は四肢のするように運動の役目もせず、また頭のするように理解の役目もしないので、身体の他の部分は胃が怠けていると推測したのである。」117頁

 これも事実認識としてはどうか。西洋教育史の教科書によれば、大学に付属する学寮(カレッジ)において基礎教養の自由七科が学ばれていたはずだ。ただしベーコンの言う「哲学と一般原理の研究」が、自由七科を眼中に入れていない可能性は考慮してよいか。
 また「胃」の寓話に触れていることも覚えておきたい。胃の寓話は、後にヘーゲルが多用することになる。

「それは、大学の学生が時期尚早に、未熟なままで、論理学や弁論術といった、年はのいかぬ修行中のものよりも大学をおえたものにふさわしい学問をする習慣である。すなわち、両者は、正しく理解されるなら、諸学のうちもっとも重みのあるもの、学問中の学問であり、論理学のほうは判断のためのもの、弁論術のほうは修飾のためのものである。そしてそれらは、内容をどう表現しどうとり扱うべきかの規則と指図なのである。」121頁

 この記述から、ベーコンが「弁論術」をどう認識していたかが具体的に分かる。クインティリアヌスやそれを引き継いだ人文主義的な教育論とはまったく異なる見解となっている。クインティリアヌスやルネサンス教育論では、雄弁術は人格を形成するために欠いてはならない学問だった。ベーコンにおいては、人格形成に関わらないただのスキルである。雄弁術そのものの位置づけがどう変化したかは別に検討する必要があるが、ともかくベーコンの認識のなかではそうとう価値が低くなっていることを確認しておく。

「すなわち、あるものごとがなされるまでは、はたしてなされるだろうかといぶかっているが、なされるとたちまち、こんどは、どうしてもっと早くなされなかったかといぶかるのである。それはアレクサンドロスのアジア遠征にみられる(中略)そして同一のことがコロンブスにも西方への航海のさいにおこったのである。」62-63頁
「というのは、この世界という大建築物が、われわれとわれわれの父祖との時代になってはじめて、ガラス窓から光線を貫通させるようになったのは、現代にとって名誉なことで、古代と競いそれをしのぐものだと主張してもまちがいないと思われるからである。」141頁
航海者の磁針の使用がまず発見されなかったら、西インド諸島もけっして発見されなかったであろう。一方は広大な地域であり、他方は小さな運動なのではあるが。同じように、発明と発見の術そのものがこれまで見おとされていたら、諸学にいま以上進んだ発見がなかったとしても、あえて異とするには当たらない。」211頁
「たとえば、当代の学者たちは優秀で活気をおびている。むかしの著作家の労苦のおかげでわれわれは高貴な助けと光をもっている。印刷術のおかげで書物はあらゆる境遇の人びとに伝えられる。航海のおかげで世界が開け、それによって多くの経験と莫大な自然誌の資料があかるみに出た。(中略)この第三の時期は、ギリシアとローマの学問の時期をはるかにしのぐであろう。」354頁

 コロンブスの西インド諸島到達をはじめとする大航海時代の成果によって「世界という大建築物」の姿が明らかになったことを極めて重要な出来事だと記述している。そもそも本書に見られるベーコンの企てそのものが「地球儀」を完成させようという発想に発している。現実世界の「地球儀」は船乗りたちの冒険によって完成しつつあるわけだが、「知の地球儀」を完成させようとするベーコンの企ても相当の冒険だし、それを自負してもいる。ここに、古典文芸復興として古代ギリシア・ローマ文化にひたすら憧れるルネサンス精神は完全に終わった。
 また、大航海時代を支えた「発明と発見」を高く評価している点も見逃せない。ベーコンがこれからの学問ん課題として設定しようとしているのは、この「発明と発見」の技術だ。「印刷術」への高い評価も記憶しておきたい。
 大航海時代がヨーロッパに与えた知的刺激は低く見積もらない方がいい、と改めて思う。(しかし同じような発明と発見の時代にいて同じ対象の言及しながら完全に冷めているモンテーニュが一方にいることも忘れてはならない)

「それゆえ、デモクリトス一派は、万物の構成のなかに精神とか理性とかを想定せずに、持続してゆくことのできる万物の形態を、自然の無限の試み、あるいはためし、かれらのいわゆる運命(必然性)に帰したので、かれらの自然哲学は、(残存する記録と断片によって判断することのできるかぎり)個々の現象の自然学的原因の説明においては、アリストテレスとプラトンの自然哲学よりも真実で、よく研究されたもののようにわたしには思われる。」171頁

 ここで挙がっている固有名詞はデモクリトスだが、実はルネサンス期からデモクリトス一派としてのエピクロスやルクレティウスの評価も高い。このベーコンの文脈ではもちろん唯物主義的な自然科学の体系に親和的だということだが、社会科学的にも「社会契約論」の文脈で重要な役割を果たしている可能性を考慮したほうがいい。

「第二に、論理学者たちが口にする、そしてプラトンには熟知であったらしい帰納法は、それによって諸学の諸原理が発見され、したがってまたそれらの諸原理からの演繹によって中間の命題が発見されると主張されるかもしれないが、くりかえしていうが、かれらの帰納法の形式はまったく欠点だらけで、無力である。そしてこの帰納法において、自然を完璧にし、ほめそやすことが技術の義務であるのに、かれらはそれとは反対に、自然をきずつけ、はずかしめ、そしったのであるから、かれらの誤りは、なおさらひどいのである。」214頁

 ベーコンの言う「プラトンには熟知であったらしい帰納法」とは、プラトン自身は「仮設廃棄」の方法と呼んでいて、確かに近代科学の言う帰納法とはまったく別のものだ。個人的には「前提さかのぼり法」と呼びたい。そしてベーコンが「自然をきずつけ、はずかしめ、そしった」と評価しているように、プラトンの仮設廃棄の手続きは最終的に「善のイデア」にたどりつき現実の自然や人間の感覚を否定する根拠となる。ベーコンの言う本物の「帰納法」がどういう手続きかは別の本で明らかになるわけだが、ここではベーコンが帰納法について「自然を完璧にし、ほめそやすことが技術の義務である」と言っていることは記憶しておきたい。

「つぎに知識の教育的な伝達についていえば、これには、若者に特有な、伝達上の特異性があるので、それには、大きな効果をうむさまざまな考慮が必要である。
 たとえば、第一に、知識を授ける時期をあやまたず、時節到来を待つ考慮であって、若者に何から教えはじめ、何をしばらく教えずにおくかなどである。
 第二に、どこからもっともやさしいものを手がけて、次第にむずかしいものに進んでゆくか、また、どんな道をとって、かなりうずかしいものをおしつけ、それから比較的やさしいものに若者を向かわせるかの考慮が必要である。(中略)
 第三は、若者の知能の特性に応じた学問の応用についての考慮である。(中略)そしてそれゆえ、どのような種類の知力と性質がどのような学問にもっともよく向いているかを調べることは、すぐれた知恵を必要とする研究である。
 第四に、修練の順序を決めることは、害になったり役にたったりする、重大な問題である。(後略)」258-259頁
「しかし、セネカは雄弁に対して、「雄弁は、内容よりも雄弁そのものを愛好する人びとに害を及ぼす」とすばらしい反撃を加えている。教育は、人びとを教師にではなく、課業にほれこませるようなものでなければならない。」263頁

 ベーコンは、同じような企て(学問の全体像を示す)を完遂したヴィーヴェスとは異なり、教育の論理そのものに対しては大きな関心を示していない。ここにサンプリングした文章も、本書によく見られるように思い付きで挿入されているようにしか見えない形で紛れ込んでいる。とはいえ、ベーコンの教育観を示す記述ではあるので、読み込んでおきたい。好意的に見れば、近代的なカリキュラム論に親和的な論点を示しているようには思える。

「この(全体の善が部分の善に優越する)ことは、たしかな真理として確立されているのであるから、道徳哲学がかかりあっているたいていの論争に裁断と決定を下すものである。というのは、それはまず、観想の生活と活動の生活とのうち、どちらをよしとするかという問題を解決して、アリストテレスとは逆な判定を下すからである。」267頁

 イギリス経験論の面目躍如といったところか。

「人間か神の本性、あるいは天使の本性に近づき、あるいはそれに似ようとすることは人間の本質を完成することであり、そうした完成しようとする善にしくじり、あるいはそれをまちがえて模倣することは、人間の生活のあらしとなる。」275頁

 中世からよく見られる表現ではあるが、果たしてベーコンがどれほど本気で言っているか。ともかく、本気だろうが韜晦だろうが死刑にならないための保険だろうが、ベーコンでもまだスルーできない表現だったということは確認しておく。

「同じようにまた、人間の精神の耕作と治療においても、二つのことがわれわれの意のままにならない。それは天性に関することと運命に関することとである。というのは、生まれつきそなわった性格は、細工を施すようにと与えられた材料であり、境遇は、そのなかでつくりかえの仕事をやりとげるべき条件であって、われわれはそれによって制限され、拘束されるからである。それゆえ、これら二つのものについては、せっせと活用してゆくより手はないのである。」287頁
「それで、この知識の第一項は、人間の天性と傾向とのいろいろちがった性格と気質との確実で正しい分類と記述を書きとめるということである。」288頁

 人間に様々な異なった性格があるということを学問の対象にまで鍛え上げようということで、「個性」という観念を生じさせる必要条件ではあるが、「かけがえのない人格」という概念に至るための十分条件はまだ欠けている。

「信条は、神の本性と神の属性と神のみわざとの教理をふくんでいる。神の本性は、一体である三位から成っている。神の属性は、三位一体である神に共通であるか、三位のそれぞれに特有であるか、どちらかである。(中略)天地創造のみわざは、質量の塊を創造することにおいては父なる神に、形をととのえることにおいては子なる神に、存在を維持し保存することにおいては精霊なる神に関係している。」373頁

 適当な記述である。あまり関心はないのだろう。

ベーコン/服部英次郎・多田英次訳『学問の進歩』岩波文庫、1974年