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【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』

【要約】スピノザの思想はしばしば難解と言われますが、人生や歴史的背景を踏まえ、最新の研究動向をふんだんに盛り込んで、すべての著書に目を配って全面的に解説します。
 最初の本はデカルト哲学の解説本ですが、スピノザはデカルト哲学体系に不満を持っていて、特に方法論を全面的に修正します。デカルトとは異なる総合的方法を準備するために、次の著書『知性改善論』で能動的な実践に導く発生的定義に取り組みますが、不十分なまま未完に終わります。続いて『エチカ』のプロトタイプともみなされる『短論文』では「力」の観点にたどりついていますが、こちらも出版されません。
 主著『エチカ』では、神を含めたすべてを「原因」からの発生的定義で幾何学的に記述し、「目的論」を完全に排除します。精神や延長は神の無限の属性の一つで、個物は神の様態です。「結果」とは個物が「力(コナトゥス)」を発揮した「表現」であり、その「変状」の過程に「自由意志」が介在する余地はありません。客観的な善悪などはなく、個物の「力」を増す組み合わせが善で、減らす組み合わせが悪です。だから「力」を表現する「欲望」の在り様こそが個物の本質ですが、それを「意識」して神の本質とシンクロさせたときが至福であり、自由です。
 『神学・政治論』では旧約聖書の荒唐無稽なデタラメさを言語分析と自然学的な観点から逐一批判しつつ、宗教の現実的機能は否定しません。政治論的には「法=lex」と「自然権=jus」の違いを踏まえた社会契約論的な記述がありますが、自然権の放棄を主張しない(というかできない)ところがホッブズやルソーとの決定的な違いです。

【感想】該博な教養を背景として丁寧な読解に基づいた明快な構成と明晰な文章で、よく分かった気になる。とても勉強になった。読み込みすぎていて、「意識」の説明のあたりはスピノザの意図を超えているような印象が無きにしも非ずだが、優れた「原理」というものは有益な知識を次々と産み出す生産的なものだとデカルトも言っているので、この「意識」に関する議論は少なくともスピノザの原理から必然的に生成された知見ということで問題ないのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格の完成
 「完全性」に関する言及があった。

完全であるとは完成しているという意味であり、そして完成しているとはもともと、人間が何かの制作を企て、その企てを成し遂げた場合を指していたのだろうとスピノザは言う。つまり完全性とはある人の意図した目的が達成されたことを指していた。言い換えれば、完全であるとか不完全であるなどと言えるのは、その意図された目的が知られている場合に限られていたということだ。」279-280頁
「スピノザはそれに対し、それ自体において見られた事物という観点を導入する。事物はそれ自体で見られる限り、完全でも不完全でもない。或る事物が不完全と言われるのは、「それらの物が、我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したというためではない」。したがって、或る意味で全てのものは完全である。」281-282頁

 この「完全性」とか「完成」の議論からただちに想起するのは、教育基本法の第一条に「教育の目的は人格の完成」と規定されていることだ。目的論を排除し、完全性概念にまとわりつく偏見を批判するスピノザからすれば、二重に間違っている規定ということになるだろうか。制定過程を振り返ってみれば、この教育基本法第一条「人格の完成」の規定にこだわったのは、カトリック教徒でもあり、さらには法学者として「自然法」の普遍性を唱える時の文部大臣、田中耕太郎であった。あらゆる面でスピノザと相性が悪いのは当然なのだろう。
 ともかく、スピノザの観点を踏まえて教育基本法第一条「人格の完成」というものを考え直してみると、まず何らかの模範(イデア)に向かって子どもの教育を行うべきだという話にならない(それは子ども固有のコナトゥスに反する強制になる)し、そもそも教育という生成的な営みを「目的」から組み立てるなという話になるだろう。あるいは、子どもには子どもとして「それ自体で見られる限り」の完全性が既にあるのだから、完成しているものの「完成」を目指すのはまったく意味が分からない。このスピノザの観点は、子どもの権利条約や子ども基本法によって子どもにも大人と同様の権利(jus)があることが改めて確認されたことと響き合う。そんなわけで、子どもを「人格が完成されていない者」と決めつけるカトリック的現行教育基本法はスピノザ的には何重にも間違っているし、子どもの権利条約にも噛み合わないので、スピノザ風に目的論ではなく生成的に書き直してみると、たとえば、「教育の役割は、各個人のコナトゥスを活性化し、それぞれの完全性を増すこと」とでもなるか。

【個人的な研究のための備忘録】自然権と社会契約論
 『神学・政治論』に現れる社会契約論について、かなり突っ込んで議論を展開している。

「良心と意識の無区別は、前章で扱った、ホッブズによって指摘された法と権利の無区別ともある程度重なることになる。権利(jus)の届く地点が法(lex)の覆う領域の外にまで及ぶことが着想すらされない場合、つまり、人の為しうることは社会的規範によるその既定の内に収まっていると当然のように想定されている場合、権利と法は特に区別される必要がない。」295頁
「だとすると、以上のスピノザの思想は、ロックが説いたような、意識をその根拠とするいわゆる近代的個人を前提としない仕方で世俗的な国家や政治社会を捉える可能性と必要性を示していることになる。」296頁

 教育学的には、なかなか示唆するところが多い指摘だ。というのは、著者は議論を世俗的な国家や政治社会に限っているが、教育学者の私はここの記述から、「学校」や「教室」という、ある意味では一つの社会と呼べる空間をすぐさま想起する。で、子どもというものは「未だに近代的個人」となっていない存在であって、ロックやルソーのように「近代的個人を前提」とする仕方では社会(学校や教室)を構成できないわけだが、スピノザのように「近代的個人を前提としない仕方」であれば子どもを構成員とする社会における「権利」というものを捉えられる理論的可能性が生じるからだ。
 そもそも、どうして赤の他人である教師が赤の他人である子どもに対して言うことを強制的に聞かせる「権力」が生じるのか、その権力の源泉はどこにあるのか、という議論が教育法学で連綿と続けられており、戦前であれば「特別権力関係理論」、戦後であれば「国民の教育権論」が唱えられてきた。国民の教育権論の構造は、大雑把には、親の持つ教育権が「信託」されることによって教師に権力が生じると説く。ポイントは子どもにはもっぱら「学習権」が認められるべきで、それは放棄も譲渡もできない天賦の権利だとされていることだ。つまり、国民の教育権論の構造では、子ども自身が権利を放棄したり譲渡したり信託したりする社会契約論にはなりようもない。ところがスピノザのように「近代的個人を前提」としないかたちで社会の成り立ちを捉えると、ひょっとしたら子ども自身の「自然権をそのまま」にする形で学校や教室という社会を成立させる理屈が立つのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 有機体論について、気にかかる記述があった。

「この引用箇所は、多数者をまるで一人の人間に準えるかのようにして、国家の権利は、あたかも一つの精神からのように導かれる多数者の力によって決定されると述べている。」388頁
「『国家論』は多数者というアクターに注目した。だが、そのアクターを精神の概念と結びつける時、言い換えれば、指導層がまるで国家の精神のように存在していて、それによって動かされる国家の身体が多数者であるかのような話になる時には、必ずこの特殊な言い回しが現れているのである。」389頁
「つまり、『国家論』では、国家が精神と身体の隠喩で国家が語られるときには、その隠喩性を強調する表現がしつこく繰り返されている。」390頁
「したがってスピノザの国家理論はどちらかと言えば、有機体論的図式に近い。確かに、国家は統治権に基づいて導かれねばならない――あたかも一つの精神によって導かれるかのように。この言い回しを多用する『国家論』は、確かに、国家を一つの生き物のように分析している。」392頁
「この言葉のラディカルな含意を次のように定式化できるであろう。人間を国家のように考えることはできないし、国家を人間のように考えることもできない。」393頁

 私も昔から「有機体論」の表現に注意を払ってきたつもりで、スピノザ『国家論』に連発される有機体論的表現にも着目せざるを得ない。そういう関心から言うと、本書の行論には疑問なしとしない。第2章第6節の「国家の中における国家のように」という表現は、有機体論とは関係ない文脈で突如として挿入されている。確かに「人間を国家のように考えることはできない」と言っているが、「国家を人間のように考えることもできない」とはどこにも書いていない。しかもスピノザは、「精神」を持つのは人間に限らないと主張した哲学者である。国家が「精神」を持っているとさらっと書いていても、何の違和感もない。本書は、少々読み込みすぎているような印象がある。

國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』岩波新書、2022年

【要約と感想】デカルト『情念論』

【要約】昔の人が情念について語っていることは全部デタラメです。
 第1部では身体と精神を区別した上でそれぞれのメカニズムを解明し、相互の関係性を踏まえて情念の動きを説明します。第2部では情念を6つの基本形に分類してそれぞれ説明します。第3部ではさらに特殊な情念について個別に説明します。
 情念とは外界からやってくる刺激に対する受動的な反応なので、意図してなくすことはできませんし避けられませんが、欲望の達成は大きな満足を与えるので、情念を操縦してよいものを取り出す知恵と習慣と理性を兼ね備えている人が最も幸福です。

【感想】現代的な科学的水準からすれば、松果腺や心臓のメカニズム、動物精気に関する議論は荒唐無稽ではあるが、もちろんそのデカルトの限界はデカルトの個人的資質のせいではなく、時代的な制約だ。
 本書の見どころは、古代から中世を通じて押さえつけるべき悪として語られてきた「欲望」を完全に解放しているところだろう。あっけらかんと解放している。これもデカルト個人の資質に還元するのではなく、当時の社会的状況を踏まえて考える必要がある。デカルトが活躍した17世紀前半は、科学革命と産業革命の前夜であり、資本主義の揺籃期に当たる。対外貿易で栄えたオランダ(デカルトはフランス生まれだがオランダで活動していた)は商品経済の最先端地域だった。商品経済を活発に回すためには、人々の購買意欲を煽る必要がある。資本主義にとって、欲望とは押さえつけるものではなく、煽るものである。商品経済と無縁だった古代と中世においては、人間の欲望を煽って良いことなど何もない、というかロクなことがない。キリスト教は(に限らず仏教もイスラム教も儒教もストア派も)欲望を押さえつけるよう努力していた。しかし、資本主義は欲望を煽ることで発展する。欲望を(煽らないまでも)積極的に肯定するデカルトが立っているのは、もちろん資本主義の側である。
 そんなわけで、本書は単に心理学や生理学の古典として読むというより、経済史的な関心を持って当たるべきテクストだと思う。資本主義の発展を土台から支える「人間の欲望の肯定」は、フランスのモンテーニュとデカルトによって明示された。(いちおうさらに早いところではイタリアルネサンスのロレンツォ・ヴァッラに見られるが、まだ表現は抑制的だ)

【個人的な研究のための備忘録】
 人格や個性に関わる記述は皆無である。気になったところをサンプリングしておく。

「子供と老人は、中年のひとより泣きがちであるが、異なる理由でそうなっている。(中略)子どもたちは、喜びのために泣くことはめったになく、悲しみのためによく泣く。」111-112頁

 本書内で子どもに関する記述は驚くほど少ない。デカルトがまったく子どもに関心を持っていないことがよく分かる。

欲望については、異なる認識から生じたとき、それが過度でなく、しかもその異なる認識によって統御されていれば、悪いものでありえないことは明白だ。」119頁
「このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」126-127頁
「なお、精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存するものであり、したがって、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる。」180-181頁

 エピクロスもびっくりの快楽と欲望肯定だ。しばしばエピクロスは快楽主義者と決めつけられるが、実際には情念から解放されることで真の快楽を得ようと主張していて、情念を積極的に肯定するデカルトとは真逆の主張をしている。デカルトに見られる快楽肯定は、モンテーニュに近い。デカルトがどの程度モンテーニュから影響を受けているかは、本書テクストからは分からない。

「自由意志はわたしたちを自身の主人たらしめ、そうしてわたしたちをある意味で神に似たものとするからである。」134頁

 ストア派的な文脈から出て来る文章だが、ここだけ見ればアウグスティヌスが聞いたら卒倒しそうな、ペギラウス主義だ。いやむしろ、ペギラウスが自由意志でもって善行を積むことを唱えていたことを思えば、自由意志によって情念をコントロールしようというデカルトの主張は論外ということになりそうだ。

■デカルト/谷川多佳子訳『情念論』岩波文庫、2008年

【要約と感想】山口雅広・藤本温編著『西洋中世の正義論―哲学史的意味と現代的意義』

【要約】正義とは古代においては四大枢要徳の一つで、中世においては他の知恵・節制・勇気とは異なる性質を持つものとして議論される一方、スコラ学がプラトンの魂の三区分やアリストテレスの正義論を引き継いだり、あるいはキリスト教の愛の観点から「義」に対するまったく別の論点が示されるなど、多様な議論が行われました。
 検討の対象となっている主な思想家は、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、エピクテトス、アンセルムス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、フォンテーヌのゴドフロワ、スコトゥス、ジャン・ビュリダン、スピノザ、カントです。

【感想】知らないことだらけで勉強になった。知的刺激になるので、定期的に他流試合はするべきだ(というか最近は他流試合しかしていない気もする)。
 論点としては、正義は「客観的にある/個人の習慣」、「普遍的/個別なものの集合」、「自由意志/信仰」、「法/権利」といった組み合わせで展開するというところか。

【個人的な研究のための備忘録】人格論
 個人的な興味関心の対象である「人格」についても様々な言及があったのでサンプリングしておくのだった。

「私たちがキリスト個人に正しさを認め信仰するとき、正しさの形相そのものを、私たち自身のうちに分け持つことになる。しかもその形相は、義なる神において存在するだけでなく、キリストのうちにも神性にそくして存在している。そのため、キリストを正しさの模範とするとき、人々は義なる信徒としてキリストに属しながら、自己と神との間に正しい支配関係を成立させる。そして神の義に適うような正しい人として人格的な完成に至ることができる。このような仕方での人格的な完成や幸福の生の獲得に、アウグスティヌスの正義論は関わっている。」75-76頁
「たとえ義人が最後の審判の日まで厳しい状況にあり続けたとしても、この世で意のままにできる力を得ようとせずに、まずは善き意志で人格的な完成を目指す方が、神の義に適う可能性は高くなる。」89頁
「神が人性をとって一つのペルソナとなったキリストを模範として、人間たちは人格の完成や平和な共同体を目指すべきだとされる。」89頁

 ここでは「人格の完成」の中身が、神と人が一つのペルソナとなったキリストを模範として神の義に適う正しい人、となっている。つまり、単なる人間性をどこまで高めていっても人格は完成しない。神性(の一端)を獲得することで初めて人格は完成する。教育基本法に「人格の完成」を押し込んだ文部大臣田中耕太郎は、カトリック信者の立場から正しく上記の意味で「人格の完成」を理解していたはずだ。逆に言えば、カトリック思想を外れたところでは「人格の完成」の意味がまるで分からなくなる。「完成」ってなんだ?ってことになる。つまり、戦後直後に文部省が人間性の多面的な発達という観点から「人格の完成」を語り始めたときに、もはや意味が通じなくなっている。

アンセルムス「神にとって真理、直しさ、義とは同一のことだからである。つまり、神については、直しさはその完全な自己同一性を指示する概念である。」98頁
「被造物は、その存在を神に負い、各々が「存在すべきこと・行うべきこと」を遂行する。それゆえ、直しさとは、神と被造的な世界との関係・構造を指示すると同時に、そこにおいて神へと開かれ、神を志向する被造物の自己同一性の遂行を指示する動的な概念である。」99頁
「いずれにせよ、神の意志に服従しなかったことによって、人間は神の意志と分裂し、また自己自身における意志の分裂、他者の意志との分裂が生じることになる。神からの疎外と同時に、自己自身からの疎外、他者との疎外も生じる。人間の自己同一性は失われたのである。これが罪・不義ということの根本的な事態であろう。」105頁
「救済の中心にあるのは、キリストの義である。キリストの義による救済は、原罪によって歪んでしまった神と人間の関係、人間の自己自身そして他社との関係を真っ直ぐにし人間の自己同一性を回復するものであった。」108頁

 正義とは自己同一性を維持することであるとは、そのままそっくりプラトン『国家』の主張である。さらに、キリスト教の神の義の観点から自己同一性の遂行を指示する動的な概念として示されているとのことだが、もちろんこの視点もソクラテスの言う「アレテー」の概念と響き合っているし、プラトン『国家』の結論でもある。ということで、アンセルムスは明らかにプラトン正義論から霊感を受けているのであったが、すべてキリスト教にアレンジされているのであった。

「中世の大学において正義とそれに関わる基本的語彙の理解について一二~一三世紀に分化が進行していったということ、その分化が今日の法学部と人文学部での「正義」の扱いに遠く影響を与えているということはあり得ることである。」131-132頁

 これは興味深い仮説である。さらに雄弁術等「人文学」一般への影響が分かると、テンションが上がる。

フォンテーヌのゴドフロワ「個別的な善をめざす他の諸徳から区別されるかぎりで、一般的徳がめざす共通的なものは、諸々の個別的なものからの抽象によって共通的あるいは一般的なのではない。むしろそれは何らかの一なる個別的全体である。なぜならこの場合、数的に一なるものがたしかに共通的であり、国家、州、王国において見られるように、それは多くの個別的なものをいわば全体を構成する諸部分として含むからである。これはちょうど、世界全体は何らかの一なる個別的なものでありながら、すべての個別的存在を含んでいるから、ある意味で共通的であるのに似ている。」164頁
「以上のような議論をゴトフロワ自身は第二問末尾で、正義は形相的対象の一性という観点からは特殊的だが、質量的対象の共通性という観点からは一般的であると要約している。」175頁

 「人格」の本質を考える上で重要な論点を含んでいる。「一と多」の弁証法という、キリスト教では三位一体論に当たる論点ではある。ちなみに本書でも序章で名前が出てきたマリタンは、質量的な「個性」は特殊的だが形相的な「人格」は一般的だと論じた。中世の議論がどの程度まで近代の「人格」論への射程を持っているか、気になるところである。

山口雅広・藤本温編著『西洋中世の正義論―哲学史的意味と現代的意義』晃洋書房、2020年

【要約と感想】デカルト『哲学原理』

【要約】哲学とは、人間が知りえるすべての完全な知識を扱い、最初の原因からあらゆることを導き出す原理を解き明かすものです。私が示す原理は、極めて明白で、あらゆる他の事物を導き出すので、完璧です。
 初めに、まず怪しいものは全て疑います(でも普段の生活は普通にね)。すると、我疑う故に我あり。だから思惟と物体は異なります。よって神あり。おかげで我々が明晰判明に下す判断には間違いがありません。そんなわけで物体は存在し、運動法則に従います。
 この原理を理解できるようになるために、第一に道徳的な生活を確立し、続いて数学の練習を通じて理性を正しく導く論理学を習得し、続いて根として形而上学、幹として自然学の原理と全宇宙の構成の在り方、さらに枝として他の諸学(空気、水、火、鉱物、植物、動物、人間、医学、道徳、機械学)を学びましょう。この原理を土台として正しく理性を働かせると、どんどん世界の真理が見いだされ、生活が発展し、人間は幸福になるでしょう。
 続いて第二部では人間の身体を含めた物体と、その運動の原理について解説します。物体の本性は三次元の「延長」で、他の性質は属性です。真空はありません。(第三部と第四部は略)

【感想】本編第一部には例の「我惟ウ故ニ我アリ」のコギトテーゼが極めて整然と体系的に述べられている。本格的な概説書では細かいところも押さえていて誤解は生じにくいように思うが、一般的な哲学の教科書だと雑に扱われていて、デカルトの本意が伝わりにくいかもしれない。「切り抜き」ではなく、しっかりデカルト本人のテクストに当たって確認しておきたいところだ。丁寧に読むと、いくつかの疑念は解消できるようにちゃんと書いてある。

 ただ、個人的な印象では、本書の見どころは序文にあたる「仏訳者への著者の書簡」にある。というのは、デカルトの哲学観・哲学史観・知識観・教育観・進歩史観が有機的に示されているからだ。
 まず哲学観に関して、哲学があらゆる知識の原理的な土台となるべきことがしつこく繰り返されるわけだが、それは哲学が人間の「進歩」のための原理として役割を果たすべきだからだ。この素朴な「進歩」への信仰があって、初めて哲学の果たすべき役割が明確になる(だから逆にこの「進歩」への信仰が崩れたところからデカルトの失墜が始まる)。
 哲学史観に関しては、プラトンとアリストテレスに直接言及しているところが注目だ。個人的にはプラトンの評価にやや「?」となるが、それはデカルト個人の理解の問題というより、当時の書誌的水準の問題と考えた方がいいのだろう。(気になるのは、明らかにプラトンを引き継いでいるアウグスティヌスの主著『神の国』は「我疑う故に我あり」というアイデアを示しているのに、それをデカルトが完全に無視しているところだ。意図的にスルーしているのか、単に不勉強なのか、それとも深い理由があるのか)。ともかくデカルトは、プラトンを「疑い」の元祖、アリストテレスを「確実性」の元祖と見なした上で(しかもエピクロスがそれを引き継ぐと主張する!)、両者とも誤っていると切り捨てる。現在の哲学史的な水準からすれば無茶苦茶だが、デカルト本人が何を目指しているかはよく分かる話になっている。
 教育観については、まず、すべての人間に共通する教育可能性を前提としているところが注目だ。デカルトは他の著書で「特に頭がいいわけではない」などと韜晦しているが、本書でも、自分が到達した「真実」はあらゆる人間が共通して理解できると断言する。そしてご丁寧にも、「三回読んだら必ず分かる」と読書指南までしている。どれだけ自信があるんだ。さらにデカルトは学問を身につける際のカリキュラムのようなものも提示する。そのいちばん土台にあるのが「正しい生活習慣」という意味での「道徳」というところは特に注目だ。そして確かに、他の本でも、ストア的な「正しい生活習慣」の重要性はしっかり指摘されている。一般的な哲学教科書ではスルーされがちなところだが、実は後の教育学の展開を考える上でもしっかり押さえておきたい。「正しい生活習慣」の身についていない人間が「我惟ウ」をやったら必ずおかしなことになるのである。

 ところで第二部の物体論は、現代的な知識から見れば、衝突に関する説明が間違いだらけだ。ちょっと確かめればわかりそうな間違いが堂々と書いてあって、何やってるんだろうと思う。この間違いは、解説にもあったが、デカルトが「質量」というものをまったく度外視して、物事をすべて幾何学的なメカニズムで説明しようとしたことに由来するのだろう。本書には化学の観点も、熱力学の考え方も皆無だ。「有機物」に対する無関心も付け加えておくか。まあそれはデカルトの個人的な資質の問題ではなく、時代の制約だったと考えるべきところなのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】アリストテレスをディスる
 ガリレオ・ガリレイはアリストテレス学説に反したかどで異端審問を受けたわけだが、デカルトがその事件に大きな衝撃を受けて自著の出版を見送った事実はよく知られている。だがそれからしばらく時間が経ち(本書出版はガリレオ裁判から11年後)、ほとぼりが冷めたということかどうか、本書ではアリストテレスへのディスが止まらない。

「ここ幾世紀の間、自ら哲学者たろうと欲した大部分の人は、盲目的にアリストテレスに従い、その結果しばしば彼の著作の意味を曲解し、彼がこの世に生き返ってきたとしたら、自分の意見とは認めないであろうような見解を、彼に帰するに至りました。」20頁

 デカルトの言う「ここ幾世紀」とは具体的にはトマス・アクィナス以降の約400年を指しているのだろう。そしてこの引用箇所でデカルトは、アリストテレス本人の学説が間違っているというより、その追随者が無能であったと主張している。しかし実は別のところでは、「アリストテレスの原理の誤りは、これに従ってきた幾世紀いらい、この手段では、何の進歩もなし得なかった」(34頁)と言っている。そしてその指摘はブーメランとしてデカルト自身に突き刺さってしまったのであった。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 理性を重んじるデカルトは、必然的に子どもを歯牙にもかけない。

「我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物について、さまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。」43頁
「しかも精神は幼年期には、身体に融合していたので、多くのものを明晰にではあっても判明には知覚しなかった。にも拘らず、当時も多くのことについて判断を下していたので、ここから多くの偏見が生じ、大多数の人においては、後に至っても取り除かれていないのである。」81頁
「即ち、幼年期には我々の精神は、身体と密に結合していたので、身体を刺激するものを感覚する思惟(心的現象)だけを受け入れ、他の思惟を受ける余地がなかった。」105頁

 ということで、発達論的な視点が微塵もなかったことをしっかり確認しておきたい。

デカルト/桂寿一訳『哲学原理』岩波文庫、1964年

【要約と感想】苫野一徳『愛』

【要約】現象学の本質直観によって「愛」というものの確信の根拠を探ります。世間で愛と呼ばれるものの中には、単に自己ロマンを投影しただけの偽物があります。丁寧に愛の様々な隣接概念(執着と愛着、友情と友愛、エロティシズムと性愛、恋と恋愛)の本質を言語化する努力を重ねていくと、我々が「愛」を直観するときには必ず「存在意味の合一」と「分離的尊重」の弁証法的関係にあることが観取できます。「存在意味の合一」と「分離的尊重」の欠けているものは、愛とは似ているが非なるものです。つまり「ほんものの愛」が理念的にあり得ることは間違いないので、それを実際に実現できるかどうかは愛を育てようとする「意志」に係ってきます。みんなで幸せになろうよ。

【感想】読後感が爽やかな、良い本でした。
 個人的に「愛」には一家言あって、というのはこの20年来、大学で行う教育学(教職課程でも一般教養でも)の講義の中で「人格」という概念を扱う際、「好きと愛」の違いを通じて本質に迫るという説明をしてきたからだ。ただの感情である「好き」と対象の存在そのものの在り様に関わる「愛」との違いを突き詰めていくと、最終的に「愛の対象」としての「人格」というものが理念的に要請される、という仕組みだ。この私の説明の仕方は、著者の現象学的証明とは異なり、言わば存在論的証明とでも呼べるかもしれない。まあ、学問的アプローチの仕方はまったく異なるけれども、深いところで響き合っているような感じは確かにあるのであった。

 些末なことだが、学問的に気になるのはデカルト『情念論』やスピノザ『エチカ』に記述されている「愛」の扱い方だ。あるいはモンテーニュ『エセー』も加えてよいか。それらは明らかに「存在意味の合一」と「分離的尊重」を欠いている。それでもって彼らが「ほんものの愛」を理解していないと断罪できるのはいいとして、彼らが「ほんものの愛」を眼中に入れていないことを思想史的にどう理解するのか。理性を至上化した近代合理主義の限界として切り捨てるだけでよいのかどうか。

苫野一徳『愛』講談社現代新書、2019年