【要約】私たちが「音楽」と聞いて思い浮かべる音楽は、広い音楽のうちのごくごく一部に過ぎません。学校で教えられているのは、西洋由来のクラシック文法に則った音楽だけです。音楽を音楽だけで取り出すのではなく、音楽を成立させている「場」に目を向けると、学校では教えてくれない様々なことが見えてきます。例えば、音痴はありません。音楽とは個人的な技術に終始するものではなく、複数の人間が「場」をシェアしたり、関係性を作っていくものかもしれません。
【感想】とても良い読後感だった。グルーヴ感に満ち、即興の魅力が溢れる本だった。
本書で示された興味深いアイデアや実践の数々は、もっと広い概念、自己表現の文脈から捉えると面白いかもと思った。そうすると隣接する演劇表現の話とも繋がってくる。ステージに上がって拍手をもらうと子どもたちの顔色が変わるという話も、表現行為という文脈から捉え直すとエキサイティングな話に派生するかもしれない。豊かな可能性が埋蔵されている実践だと思った。
とはいえ、いろいろ「?」と思うところも、なくはない。同じような方向を目指したような実践は、実は世界中各地で行なわれていたりする。例えばカール・オルフという名は音楽教育の世界では基礎教養ではあるのだが、本書はこれをどう位置づけるか。あるいはモンテッソーリとかシュタイナーの実践をどう理解するか。無手勝流が悪いというわけではないけれども、先行する実践をいくつかフォローして損をすることがあるのだろうか?
そういう意味では、先行研究(?)として田中克彦『ことばと国家』の名前が挙がったのは、唐突で意外でもあったが、落ち着いてみれば非常に良く分かる話でもある。ことばを分割する力がことばの本質に根ざすものでなく単に政治的であるのと同様、音楽を分割する力もおそらく音楽の本質とは無関係な政治的なものにすぎない。現在われわれが常識と思っている音楽の分断線を、もっと本質的で原始的なところから無化していく試みは、とても尊い。そういう観点から実践と論理を展開しようとするなら、確かにオルフとかシュタイナーは敢えて無視するほうがいいのかもしれないのだった。
その一方で、音楽の本質的で原始的なところ、本書が言う「場」を作る力が、実は恐ろしいパワーを秘めていることも忘れてはならないかもしれない。
【参考】上尾信也『音楽のヨーロッパ史』
【個人的な研究のためのメモ】
音楽の本質を「個人」ではなく「集団」とか「関係性」に置くことは、いろいろな興味を引き起す。
この部分、個人的には、なにか凄いことを言いあてているような気がするのだ。が、論理的に展開してみろと言われると、よくわからなかったりする。今後の課題だ。
それから、「教育」の文脈で、とても貴重な言質を得た。
教育の本質に関わる「自由を強制する」という論点と響き合うことばだ。しかももともと教育に関心のなかった人から素直に出てきたことばとして、とても尊い。教育学では従来から「型をつくる」ところから「型やぶり」が可能になるという論理を語ってきたが、実は「型をつくる」のではなく「社会の中で自分がどう位置づけられるか」のほうが本質ではないか。
そして著者は続けてこう言う。
「教育」とか「大人になること」とか「子どもと大人の区別」とか、様々なテーマを想起させる、とても痺れる言葉だと思う。頭で捻り出したのではなく、実践の過程で素直に滲み出てきた言葉であるところが、とても尊い。