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【教師論の基礎】教師の服務義務―地方公務員法と教育公務員特例法

公立学校の教師には、法律で定められた服務規程があります。特に「地方公務員法」と「教育公務員特例法」の2つを理解しておく必要があります。他に地方自治体や教育委員会が定める条例や規則があります。規定に違反してしまった場合、懲戒処分(免職・停職・減給・戒告)されますので、しっかり認識しておきましょう。
もちろん教員採用試験にもよく出題されます。たくさん出題されるのでネットで解説しているサイトも多いところですが、根本的に何も理解せずに間違って解説しているサイトも多く、たいへん遺憾なところです。特に憲法や行政法についてまったく無知なサイトが多いのには、閉口するところです。本来は、憲法や「法治主義」に対する本質的な理解を土台にして、具体的な条文を理解するべきところです。
まず、そもそもどうして「義務」に従わなくてはならないのか。その根本的な理由から確認しましょう。

全体の奉仕者

服務の根本基準

地方公務員法第30条(服務の根本基準)
すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

義務に従わなくてはならないのは、「全体の奉仕者として公共の利益のため」に働くためです。しっかりした理由があります。
まずは「全体の奉仕者」と「公共の利益」という言葉の中身と意義について適切に理解しましょう。「全体の奉仕者」という言葉は、もちろん日本国憲法第15条2項に基づいています。

日本国憲法第15条2項
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

ある特定の個人や団体や集団の利益になるようなことを、公務員はしてはなりません。日本に住む全ての人々の生活を豊かにすることが、公務員の務めです。仕事中は、全力で「公共の利益」のために頑張りましょう。
「公共の利益」という言葉については、「公共」と「公」の区別をしっかりつけておきましょう。「公共」とは「みんなの」という意味です。「公共の利益のために勤務」とは、みんなが幸せになるために自分の能力を働かそうということです。一方「公」となると、ただちに「国家」を意味する場面が多くなります。国家の利益がみんなの利益といつも同じなら問題ないのですが、実は、国家の利益がみんなの利益と同じとは限らない場面がたくさんあります。そういうときは、「国家の利益=公」ではなく「みんなの利益=公共」を優先して働くべきだということです。(※ただ難しいのは、「みんな」の範囲ですけどね。)

服務の宣誓

地方公務員法第31条(服務の宣誓)
職員は、条例の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。

絶対に勘違いしてはいけないことは、誰に対して宣誓するのか、ということです。最悪の勘違いは、知事や教育長など、任命権者に宣誓すると思ってしまうことです。第30条の根本基準を踏まえれば、そんなわけはありません。公務員は「公共の利益」のために働くのであって、任命権者のために働くのではありません。宣誓の対象は、住民です。そもそも知事や教育長も、住民のために働いている、いわゆる「公僕=public servant」です。そういう意味では対等な立場なのであって、教員が知事や教育長に宣誓するいわれなどありません。極めて重要な事実ですので、絶対に勘違いしてはならないところです。
具体的には、宣誓内容はこんな感じになっています。

私は、ここに、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、且つ、擁護することを固く誓います。
私は、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的且つ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として、誠実且つ公正に職務を執行することを固く誓います。
(※東京都の場合)

極めて重要なポイントは、宣誓の内容が「日本国憲法を尊重し、且つ、擁護する」となっているところです。この内容は、日本国憲法第99条に基づいています。

日本国憲法第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ

99条において、公務員は日本国憲法を尊重し擁護する義務を負っていると規定されています。この規定をしっかり遵守することを、公務員になる際に「宣誓」するということです。そして、「憲法を守る」ことは、「法律を守る」こととはまったく異なることには、くれぐれも注意しましょう。この違いを認識していなければ、そもそもなぜ「宣誓の義務」が必要なのかが分からないでしょう。ネット記事等を見ると、分かっていない人が多すぎるところです。「ちゃんと仕事をするぞ」とか、そういう低レベルの話ではありません。
「憲法を守る」とはどういうことかについては、別のところでしっかり考えます。

続いて具体的な義務の内容を見ていきますが、すべてこの30条が土台にあることを踏まえていると、全体像が見えやすくなります。
さて、教員の義務は、内容によって、「職務上の義務」2つと、「身分上の義務」5つの2種類に分けられます。

職務上の義務2つ

職務上の義務は、「働いているとき」に守らなければならない義務です。逆に言えば、プライベートの時間では守る必要はありません。
(※ちなみに、教員採用試験関連の参考書等では、職務上の義務が「3つ」とされていることがあります。上ですでに見た「服務の宣誓」を、こちらの職務上の義務に含めている場合が多いです。ただし法的に3つである根拠もありませんし、論理的に考えても「服務の宣誓」は根本規定として理解する方が相応しいので、大半の参考書の記述とは異なり、このページでは「職務上の義務は2つ」と考えます。ご了承ください。)

職務上の命令に従う義務

地方公務員法第32条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)
職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

法治主義」を確認している項目です。なぜか日本人は「法治主義」と聞くと、ただちに「刑法」が行き届いていることだと勘違いしてしまう人が多いのですが、大間違いです。犯罪が少ないことと、法治主義が徹底していることは、まるで関係がないことです。法治主義とは、国家機構が「行政法」に基づいて客観的に運営され、人間の恣意的・主観的な判断が差し挟まれないということです。「人が治める=人治主義」ではなく「法が治める=法治主義」ということなので、間違えないようにしましょう。
公務員に関して言うと、「法治主義」とは、公務員は自分の判断ではなく、法律に従って仕事をしてくださいということです。この場合の「法律」とは、もちろん人を殺しちゃダメとか物を盗んじゃダメというような「刑法」ではなく、「行政法」です。公務員のするべき仕事は、すべて法律で規定されています。それ以外のことは、基本的にはやってはいけません。人間の勝手な判断で勝手に仕事をすることは、公務員には期待されていません。法律に従って、粛々と働くことが期待されています。そのような法律を「刑法」や「民法」と区別して「行政法」と呼んでいます。
上司の命令には絶対服従とか、そんなマヌケなことを言っている条文ではありません。ネットではそういう勘違いも蔓延しているようですので、くれぐれもご注意ください。

職務専念義務

地方公務員法第35条(職務に専念する義務)
職員は、法律又は条例に特別の定がある場合を除く外、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、当該地方公共団体がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない。

職務に専念するのは、法律に言われるまでもなく当たり前のことです。ここではむしろ例外規定の「特別の定」について、どういう場合に職務専念義務を外れても大丈夫なのか、しっかり認識しておくべきところです。一般的にはもちろん有給休暇とか育児休暇を指します。教員に関しては、「研修」と「兼業」に絡んで、教育公務員特例法に特別の規定がありますので、そこはしっかり押さえておくのがよいでしょう。

身分上の義務5つ

身分上の義務は、働いていないときにも適用される義務です。プライベートな時間にも適用されます。365日24時間、しっかり守る必要のある義務です。

信用失墜行為の禁止

地方公務員法第33条(信用失墜行為の禁止)
職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない。

教員採用試験の面接でやたら聞かれるのは、この項目です。個人的には、この項目ばかりが聞かれ、一方で30~32条の極めて重要な規定があまり問われることがないことに、不当な偏りを感じるところではありますが。
ともかく、校長先生や教育委員会が一番関心を持っている規定は、これです。というのは、ただちに自分たちの責任問題に関わってくるからでしょう。
「信用失墜行為」とは、具体的には、刑法に触れる行為(窃盗、殺人、傷害、贈収賄、体罰等)、セクハラやパワハラ、交通事故などを起こして、教師という職に対する世間の信用を貶めてしまうことです。法律に言われるまでもなく、やってはいけないことです。が、教師という職業は全ての人の生活や人生に深く関わってくることもあり、一般的なサラリーマンよりも注目を集めやすいのも、また事実です。何かするとマスコミなどに報道されてしまいます。校長先生や教育委員会がぴりぴりするのも、現実的には仕方がないところなのかもしれません。

守秘義務

地方公務員法第34条(秘密を守る義務)
職員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も、また、同様とする。
2 法令による証人、鑑定人等となり、職務上の秘密に属する事項を発表する場合においては、任命権者(退職者については、その退職した職又はこれに相当する職に係る任命権者)の許可を受けなければならない。
3 前項の許可は、法律に特別の定がある場合を除く外、拒むことができない。

公務員は、国家権力の一部として働いているため、一般人が決して知り得ない情報にアクセスすることができます。法律に則って粛々と仕事をするために知り得た情報ですので、もちろん個人的な利益や興味のために使用するのは、「公共の利益」に反します。
教員の場合は、生徒たちの個人情報だけでなく、家族に関する情報にもアクセスすることになります。本人の口からは絶対に出てこないような情報を知ることになります。興味本位で外部に漏らすなど、常識的に考えても、絶対に許されることではありません。
かつては、通知表を電車の網棚に置き忘れたという事例があったりしましたが、近年では電子機器の扱いに注意が必要です。生徒の個人情報データが入ったUSBメモリを落としてしまったり、パスワードが漏れて学校のパソコンに侵入されるなど、電子機器を通じた情報漏洩が数多く報告されています。
単に倫理的な問題というだけでなく、国家機構の健全な運営という観点から考えても、一部の人間が自分の勝手な判断で情報を扱うことは極めて危険なことです。注意していきたいものです。
ただし、例外規定があります。裁判や国会等で証人となる場合には、国家権力は背後に退かなくてはなりません。仮に国家権力の不利益になる場合でも、一私人の利益を保護するためには「職務上の秘密」を明らかにすることも必要になるかもしれません。

政治的行為の制限

この項目は、地方公務員法ではなく、「教育公務員特例法」が規定します。

教育公務員特例法第18条1(公立学校の教育公務員の政治的行為の制限)
公立学校の教育公務員の政治的行為の制限については、当分の間、地方公務員法第三十六条の規定にかかわらず、国家公務員の例による。

たらい回しされました。国家公務員法を確認しましょう。

国家公務員法第102条(政治的行為の制限)
職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らかの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。
2職員は、公選による公職の候補者となることができない。
3 職員は、政党その他の政治的団体の役員、政治的顧問、その他これらと同様な役割をもつ構成員となることができない。

またたらい回しされました。「人事院規則で定める政治的行為」について確認する必要があります。

人事院規則1417(政治的行為)
6 法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。
一 政治的目的のために職名、職権又はその他の公私の影響力を利用すること。
二 政治的目的のために寄附金その他の利益を提供し又は提供せずその他政治的目的をもつなんらかの行為をなし又はなさないことに対する代償又は報復として、任用、職務、給与その他職員の地位に関してなんらかの利益を得若しくは得ようと企て又は得させようとすることあるいは不利益を与え、与えようと企て又は与えようとおびやかすこと。
三 政治的目的をもつて、賦課金、寄附金、会費又はその他の金品を求め若しくは受領し又はなんらの方法をもつてするを問わずこれらの行為に関与すること。
四 政治的目的をもつて、前号に定める金品を国家公務員に与え又は支払うこと。
五 政党その他の政治的団体の結成を企画し、結成に参与し若しくはこれらの行為を援助し又はそれらの団体の役員、政治的顧問その他これらと同様な役割をもつ構成員となること。
六 特定の政党その他の政治的団体の構成員となるように又はならないように勧誘運動をすること。
七 政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。
八 政治的目的をもつて、第五項第一号に定める選挙、同項第二号に定める国民審査の投票又は同項第八号に定める解散若しくは解職の投票において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること。
九 政治的目的のために署名運動を企画し、主宰し又は指導しその他これに積極的に参与すること。
十 政治的目的をもつて、多数の人の行進その他の示威運動を企画し、組織し若しくは指導し又はこれらの行為を援助すること。
十一 集会その他多数の人に接し得る場所で又は拡声器、ラジオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。
十二 政治的目的を有する文書又は図画を国又は行政執行法人の庁舎(行政執行法人にあつては、事務所。以下同じ。)、施設等に掲示し又は掲示させその他政治的目的のために国又は行政執行法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し又は利用させること。
十三 政治的目的を有する署名又は無署名の文書、図画、音盤又は形象を発行し、回覧に供し、掲示し若しくは配布し又は多数の人に対して朗読し若しくは聴取させ、あるいはこれらの用に供するために著作し又は編集すること。
十四 政治的目的を有する演劇を演出し若しくは主宰し又はこれらの行為を援助すること。
十五 政治的目的をもつて、政治上の主義主張又は政党その他の政治的団体の表示に用いられる旗、腕章、記章、えり章、服飾その他これらに類するものを製作し又は配布すること。
十六 政治的目的をもつて、勤務時間中において、前号に掲げるものを着用し又は表示すること。
十七 なんらの名義又は形式をもつてするを問わず、前各号の禁止又は制限を免れる行為をすること。

いろいろ決められていますが。要するに、教員は地方公務員よりも厳しく政治的行為が制限されるということのようです。他の地方公務員には許されても、教員には許されないことがたくさんあるわけですね。
「全体の奉仕者」という立場から当然できないと主張する人もいれば、「全体の奉仕者」の理念からここまで規定することはできないと主張する人もいて、論争的な問題が含まれるところです。

争議行為等の禁止

地方公務員法第37条(争議行為等の禁止)
職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又はその遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。

「争議行為」とは、一般的には「ストライキ」のことです。民間企業の労働者には法律で認められた権利ですが、「全体の奉仕者」である公務員には認められないという理屈です。
海外の教員にはストライキの権利が認められているところもありますが、「日本では認めていない」という事実として理解しておきましょう。

兼職の禁止

この項目は、教育公務員特例法による例外規定があります。
まず基本的には、教員に限らず公務員一般は、民間企業への兼業が禁止されています。

地方公務員法第38条(営利企業への従事等の制限)
職員は、任命権者の許可を受けなければ、商業、工業又は金融業その他営利を目的とする私企業(以下この項及び次条第一項において「営利企業」という。)を営むことを目的とする会社その他の団体の役員その他人事委員会規則(人事委員会を置かない地方公共団体においては、地方公共団体の規則)で定める地位を兼ね、若しくは自ら営利企業を営み、又は報酬を得ていかなる事業若しくは事務にも従事してはならない。

公務員は、一般人が知り得ない情報や近づき得ない個人・集団に容易に近づき、強大な国家権力を動かすことができます。そのアドバンテージを営利企業が利用するのは、公共の利益を損なう不当な行為であるということです。

しかし一方、教員には例外が用意されています。

教育公務員特例法第17条(兼職及び他の事業等の従事)
教育公務員は、教育に関する他の職を兼ね、又は教育に関する他の事業若しくは事務に従事することが本務の遂行に支障がないと任命権者において認める場合には、給与を受け、又は受けないで、その職を兼ね、又はその事業若しくは事務に従事することができる

他の地方公務員には許されていないことが、教員には許されています。というのは、教育に関する知識や経験は、本来は広く共有すべきもののはずです。兼業の禁止規定は、この利益を損なってしまう可能性が高いものです。たとえば教育に関する記事や本を書いたり、学校で講演をしたり、教員を対象にワークショップを行なったりすることなどが、兼業禁止規定のためにできないとすれば、とても残念なことです。
もちろん条件はあって、本来の仕事に支障がなく、教育に関する知恵や経験を共有しようとする場合に限って、例外として認められます。

【教師論の基礎】教員免許制度

教師になるためには、通常は「教員免許状」の取得が必要となります(様々な抜け道が用意されていますが、ここではいったん脇に置きます)。近代国家の中で学校という組織が一定の役割を期待されている以上、教員の能力には一定程度の水準を確保する必要があるからです。

教育職員免許法

教員免許状は、「教育職員免許法」という法律に則って発行されます。たとえば教職課程における必要な取得単位はこの法律で厳密に決められており、大学の裁量でどうにかなるものではありません。

教員免許は国家資格ではない

医師や弁護士の資格は、国家資格です。「国家試験」があって、それにパスしないと取得できないものは、国家資格です。しかし教員には、「国家試験」がありません。つまり、国家資格ではありません。
教員免許を発行しているのは、文科大臣ではなく、都道府県の教育委員会です。なぜ国家ではなく教育委員会が発行しているかというと、「教育行政は一般行政から独立しているべきだ」という理念が土台にあるからです。この理念については、「教育制度論」等で詳しく学んでください。
近年は、教員資格を国家資格化するべきという主張を掲げて活動している人々もいます。

相当主義

免許は学校種(幼・小・中・高)や教科・分野ごとに区別されています。基本的には、中学校の免許を持っていても、小学校で教えることはできません。中学数学の免許を持っていても、中学理科を教えることはできません。ただし何事にも例外はあって、都道府県教育委員会からハンコをもらえれば、可能になる場合もあります。
ちなみに大学の教員には、教員免許が必要ありません。

種類

普通免許状・特別免許状・臨時免許状の3種類があります。大学の教職課程を修了して獲得できるのは、普通免許状です。
普通免許状には、二種免許(短大・専門学校)・一種免許(学士)・専修免許(修士)の3段階があります。給与や職能がそれぞれ違っています。

近年の変化

教員免許更新制度

2009年から教員免許に有効期限(10年)が設けられました。更新するためには教員免許更新講習を受ける必要があります。

複数種の取得

小中連携(2016年に義務教育学校が登場)や中高連携を推進するために、複数種の免許取得を推奨する動きが強まっています。たとえば、小学校一種と中学英語二種を同時取得する例が増えています。

再課程認定―旧カリ/新カリ

教育職員免許法が改訂されたために、各大学は2019年に「再課程認定申請」に対応する必要に迫られました。このタイミングで教職課程をとりやめた大学・学部もたくさんあります。世間一般にはあまり知られていませんが、未来の日本において教師の質が変化したとしたら、これが原因である可能性が高いだろうと推測します。
業界では、2018年以前の教職課程を「旧カリ」、2019年から開始された課程を「新カリ」と呼んで区別しています。変更されたのは、具体的には「教職に関する科目」と「教科に関する科目」の調整(大括り化)でした。詳しくない人から見ればひょっとしたら些細な変更かもしれませんが、教職に関わっている立場からすると、「教職の専門性」の議論に関わって、教師観の大転換に見えます。

【教師論の基礎】教師のなりかた―養成・採用・研修

もともと「師」になるための条件は特に決まっていませんし、そもそも決められるものでもありません。誰かが弟子となって自分のことを「師」と仰げば、それでもう「師」でした。多くの人が「人生の師」と呼べる人を持っているだろうと思いますが、その「師」は特に何かしらの資格を持っているわけではありません。どんな観点だろうが、どんな基準だろうが、誰かが誰かを「師」と仰ぐことを止めることはできません。自由です。
しかし一方で、現代日本の学校で働く「教師」となるためには、制度に則った手続きを経なければなりません。

養成・採用・研修

教師になる道筋を一般的には3つの段階に分けています。(1)養成(2)採用(3)研修、の3段階です。
(※それぞれの段階で様々な脇道がありますが、ここでは脇に置きます)

(1)養成=開放制

現在は大学で教職課程を履修すれば教員免許を取得することができます。これが当たり前だと思っている人もいるかもしれませんが、実は当たり前の制度ではありません。
かつて80年ほど前までの日本では、大学に教職課程は設置されていませんでした。教師を志望する人は、大学ではなく、「師範学校」に進学していました。師範学校とは、教師のみを養成することを目的とした教育機関です。師範学校を卒業すると尋常小学校(現在の小学校に当たる)の教員になることができましたし、基本的にならなくてはいけませんでした。尋常中学校の教師を志望する場合は、さらに高度な養成を行なう「高等師範学校」に進学しました。(高等師範学校は全国に2つしかなかった、高レベルな教育機関でした。現在の筑波大学と広島大学に当たります。筑波と広島が教育に強いのは、高等師範の伝統があるからです。また、女子高等師範も全国に2つだけで、現在のお茶の水大学と奈良女子大学に当たります。※ちなみに金沢・岡崎の高等師範、広島女子高等師範は、戦時中設置のため、例外扱いさせていただきます)
このように教員のみを養成する専門教育機関が存在する方が、かつては当たり前だと思われていました。しかし敗戦後の教育制度改革において、教員養成は大学で行なうことが確認されました。単に専門的な知識や技術を身につけただけでは教師としては不十分だと考えられたからです。教員はまず大学で幅広い一般教養(リベラルアーツ)を身につけた学士である必要があり、その上で専門性を身につけなければならない、という考え方が説得力を持ちました。
戦後教育改革から現在に至るまで、教員養成専門機関ではなく、大学という「一般教養」を身につける施設において、教員養成が行なわれるようになりました。これを「開放制」と呼んでいます。
現在は、開放制の理念の下、各大学が建学の精神を土台とした教員養成を行なっています。多様で個性的な教員を供給する上でも、開放制は基本的な考え方となっています。

(2)採用=教員免許を取得しても教師にならない(なれない)

医師や弁護士の資格を取得した人は、だいたいその職に就きます(もちろんならない人もたくさんいますが)。ところが教員免許を取得したからといって、教師になるとは限りません。あるいは、なれるとは限りません。現場に立つためには、教員免許の取得だけでは不十分で、都道府県および政令指定都市の教育委員会が実施する「教員採用試験」に合格しなければなりません。大学の教職課程で免許が取れても、教育委員会による「採用」の段階で弾かれてしまうことがあるわけです。
ところで、従来の教育委員会は「採用」の段階で顔を出してきましたが、20年ほど前から「養成」にも深く関わり始めています。「採用」の段階で影響力を行使するだけでは、教育委員会が望むような即戦力の教師を確保できないという、大学での教員養成に対する忸怩たる思いが背景にあるのでしょう。東京都「教師養成塾」や千葉県「ちば!教職たまごプロジェクト」など、教育委員会主催の「養成」の影響力が大きくなりつつあります。これが「養成と採用の一体化」というものですが、大学における教員養成の理念(開放制)とどう整合性がとれるのか、本質的に考える必要があるところです。

(3)研修=法的に規定されている

採用されたら終わり、というものではありません。教師になった後も、たゆまない研鑽を続けることが期待されています。そのため、教師の研修が、法律で規定され、保障されています。具体的には初任者研修や十年経験者研修が法律で規定されている他、10年ごとの教員免許更新講習も義務化されています。
ただし医師の世界での研修医のような考え方は、教育の世界にはありません。教育の世界では、研修を受けていなくても、採用後すぐに担任を持たされたりします。学校で本番の授業を行ないながら、並行して初任者研修を行ないます。
現在は、養成・採用・研修の一体的改革が急速に進行している最中です。

近年の動き

「開放制」の理念に基づく教員養成が、急速に揺らぎつつあります。具体的には、「教員の養成・採用・研修の一体化」の掛け声の下で、じっくりと腰を据えた一般教養(リベラルアーツ)ではなく、現場で活躍できる即戦力を現場で育てようという動き(OJT)が強まっています。
即戦力を求める上で分かりやすい動きとして、インターンシップの単位化やボランティアの強化と充実が図られています。
大学のほうには「質保証」が求められ、「教職コアカリキュラム」が導入されました。
そういう中で、大学と教育委員会の連携も多面的に強化され、お互いの役割が新たに模索されつつあります。

教員採用試験

教員の採用は、都道府県と政令指定都市の教育委員会が行なっています。したがって、教員を採用するための試験も、教育委員会が実施しています。全国で統一されているものではありません。地域によって大きく特徴が異なります。
とはいえ、もちろん共通した特徴もあります。

筆記試験

普通は筆記試験が課されます。筆記試験の問題は、大きく分けて3種類あります。(1)教職教養、(2)専門教養、(3)一般教養です。

(1)教職教養
教師として必要な知識や考え方を身につけているかをテストします。具体的には、教育に関する法律、文科省答申、教育振興基本計画、学習指導要領、生徒指導提要など公的文書の他、教育史・教育課程論・教育心理等の知識や、各地域の教育政策等が出題されます。

(2)専門教養
同じ教師といっても、学校種(小学校か中学校か高校か)や教科が異なれば、必要となる知識や技術も異なります。それぞれの学校種や教科に特化した問題が出ます。

(3)一般教養
幅広い知識と教養を身につけているかが問われます。自治体によって傾向はまちまちで、センター試験のように国社数理英の問題が出題される一方で、時事問題やローカル問題も扱われたりします。

面接

近年は「人物重視」の掛け声の下、筆記試験よりも面接のほうの比重が重くなる傾向があります。面接には「個人面接」と「集団面接」の二種類がありますが、両方とも「人柄」を見るような出題傾向が強まっています。答える「内容」ももちろん大事なのですが、同じ程度に「答え方」とか「表情」というものが重要になってきます。明るく、元気にいきましょう。自分の良いところや持ち味を自覚して、それを積極的に前面に打ち出しましょう。試験官に「この人を部下に持ちたい」と思わせましょう。

本番で緊張しないための工夫を各自容易しておくといいだろうと思います。個人的に伝授したい技は、面接室に入る前に「コント。面接。」と呟くというものです。

論作文

出題傾向は自治体によって大きく異なります。学習指導要領の中身を理解しているかどうかを確認するものか、人柄を見るようなものかに大きく分かれます。
いずれにせよ、評論家のごとく他人事のように問題を分析するのは御法度でしょう。現場の最前線に出る当事者としての自覚と熱意を示せるかどうかがポイントとなります。採点者に「この人が教師にならないと、日本の損失だ」と思わせましょう。

模擬授業・実技

実際に模擬授業を行なわせる自治体があります。また保健体育や家庭科など、実技が重要な科目に関しては、実技試験が行なわれる場合もあります。自治体によって出題傾向や採点形式などがまったく異なるので、事前に情報は収集しておくのがよいでしょう。

特例

各自治体によって、様々な特例が設けられています。大学推薦枠で一次筆記試験が免除されたり、臨時採用教員経験者が優遇されたり、社会人特別枠があったりなど、優秀な教員を確保しようとして各自治体が様々な工夫をしています。

対策の立て方

自治体によって出題傾向がかなり異なります。まずはどの自治体を受験するか決めた上で、過去3~5年分の過去問に当たり、傾向をつかむのがよいでしょう。
ただし、「人物重視」の傾向が強まっていることを踏まえて、お手軽に場当たり的な対策をするのではなく、本質を見据えて充実した日々を過ごすことをお勧めしたいところです。
教育実習に行くのであれば、ぜひ校長先生と仲良くなりましょう。教員採用試験に合格する人とは、校長先生から「この人をうちの学校のスタッフに欲しい」と思われる人です。校長先生がどういう人材を欲しているかが分かれば、自動的に合格への道が見えてきます。予備校に通うよりは、現場の最前線にいる校長先生と仲良くなる方がはるかに意味があるだろうと思います。しかも校長先生は、採用試験の面接官だったりもするわけですから。教育実習先の校長先生が採用試験の時の面接官というレアケースすらあります。
また、現役の大学生であれば、教職センター(名称は各大学でいろいろ異なります)を有効に活用することをお勧めします。教職センターの先生は優秀な場合が多いので(もちろん例外はたくさんありますが)、高い金を払って予備校に行くまでもなく、教職センターを活用するのが賢いやり方でしょう。細かい情報もよく手に入ります。私の経験から言えば、教職センターによく顔を出す学生は、合格率が極めて高かったです。

私立学校の教員

私立学校の教員になるためには、特に自治体の教員採用試験を受ける必要はありません。民間企業における採用と同じく、私立学校からの求人に応募し、面接等の就職活動を経て、学校の設置者と雇用契約を結ぶことができれば、それで教員になれます。筆記試験がある場合もあれば、ない場合もあります。教育実習で私立学校に行った際に気に入られて、すぐに採用というケースも稀に発生します。公立学校ではあり得ないことですが、民間企業ではアリです。
また都府県によっては、「私学教員適性検査」という筆記試験が用意されている場合があります。この試験で良い成績を収めていると、優秀な教師を欲している私立学校から連絡が来る場合もあります。

非正規採用

残念ながら教員採用試験に合格できなかった場合でも、実はすぐに教壇に立てる手段が用意されています。「臨時的任用教員(省略して臨採と呼ぶことが多い)」や「非常勤講師」と呼ばれる道を選ぶことができます。
実は現在、正規に採用された教員だけでは、学校に期待されるニーズを満たすことができておりません。産休や病欠による一時的な欠員が生じているだけでなく、新学期からの担任すら足りなかったりします。また、自治体によっては、法律で決められた人数よりも多くの教員を配置しようと努力しているところもあります。そこで、正規に採用というわけにはいかないけれども、現場のニーズを満たすための要員が、かなり大量に必要になっております。
自治体によって臨採の制度は異なりますが、基本的には各教育委員会に登録しておけば、向こうで必要になったときに連絡が来るような仕組みになっています。今はどこの教育委員会でも教員の数が足りないので、新学期が近づいた3月になると、大学の教職センターに「余っている学生はいないか?」と教育委員会からよく電話がかかってきます。学生には、大学の教職センターやキャリアセンターから連絡が来ることもあるでしょう。

仕事の内容は、正規採用の教員とまったく同じです。授業は当然ふつうにやりますし、担任を持たされることもあります。校務分掌を任されることもあります。給料も、短期的には正規採用と同じです。
が、やはり非正規ではあるので、いつクビになっても文句は言えません。また身分保障や社会保障、研修の面でも待遇の差があります。そして自治体によっては、正規採用の人数を抑えて非正規を増やそうとしているところもあります。一般社会での非正規問題と同じく、多くの問題を抱えている制度です。

【教師論の基礎】教職の専門性

問題の所在

「教師とは何か?」という問いに対して、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」と回答するとしましょう。この場合に決定的な問題となるのは、教師にとっての「専門性」とは何か?ということです。この教師という仕事にとっての専門性のことを、一般的に「教職の専門性」と呼びます。教職の専門性を具体的かつ説得的に示せない限り、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」という回答には何の意味もありません。

ところが、この「教職の専門性」を示すことは、実はなかなか複雑で厄介な話になるのです。

古典的な専門性と、その変化

教師の地位を確立するための議論

専門的な仕事としては、他に医師や弁護士といったものが考えられます。医師や弁護士という職業が持っている特徴とは、
(1)他の仕事にはない独特の領域と方法を支える知識と技術=専門性
(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割=公共性
(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位=自律性
といった3要件が考えられます。だとすれば、教師にも同じような特徴が備わっていることを示すことができれば、教職の専門性を明らかにすることができそうです。50~60年ほど前には、このような観点から教職の専門性を明らかにしようとする動きが活発化しました。
つまり、教師には(1)他の仕事にはない独特の知識と技術が必要であり、(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割を担っているから、(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位が確立されるべきである、という議論です。
しかし現実的には教師には自律的な地位が与えられていませんでした(※このことを考えるためには当時の日本の政治状況を理解する必要がありますが、いったん脇に置いておきます)。そこで教職の専門性が議論される際には、教師は専門家としての「地位」を確立しなければならないという現実改革的な主張が伴うこととなりました。「教職の専門性」を考えることは、単なる脳内の議論に留まるものではなく、現実を変革していく政治的な運動と結びつきやすくなります。

状況の変化

ところが現在では、様相が大きく変わってきています。そもそも医師や弁護士などといった「専門家」に対する考え方そのものが変わってきています。
医師の専門性は、「インフォームド・コンセント(informed consent)」という概念によって大きく変容してきています。古典的には、素人である患者は、専門家である医師の決定を無条件に聞き入れるものだと思われていました。しかしインフォームド・コンセントの考え方では、最終的な決定を下すのは素人である患者のほうです。専門家の役割は、決定を下すことではなく、素人にも判断ができるように状況やリスクを分かりやすく説明することに変化しました。
医師における専門性の変化は、弁護士の世界にも「セカンド・オピニオン(second opinion)」という形で取り入れられてきています。素人であるクライアントが納得するかどうかが重要なのであって、専門家が一方的に結論を出すべきではないという考え方です。専門家の役割として重要なのは、素人の判断を助けるための助言や援助となります。

この変化が人々を幸せにするものだとしたら、専門家としての教師の役割も大きく変化しなければならないのではないでしょうか。仮にこれまでの教師が教育の専門家として学ぶ内容や学び方に対する判断を一方的に下す側だったとすれば(※話はそんなに単純ではありませんが、いったん脇に置きます)、これからは学ぶ側の主体性を尊重し、学び方や学ぶ内容に対する助言や援助に徹するべきだということになってきます。
またあるいは「セカンド・オピニオン(second opinion)」が可能になるような制度を整えるべきだという話にもなります。具体的には、学びが上手くいかない場合には、クライアントが医者や弁護士を変えられるのと同じく、担任を変えたり学校を変えたりすることが可能でなければならないということになります。

そんなわけで、「専門家としての教師の地位を確立する」という論点だけでは、もはや現代の「専門性」は語りにくくなってきています。とはいえ、論点そのものが無効になったわけではありません。「地位」については、新たな論点も噴出しており、引き続き丁寧に考えていく必要があります。この論点については後にまた改めて考えます。

技術的熟達者と省察的実践家

古典的な専門性に関する議論に代わって新しく説得力を持ってきているのが、「技術的熟達者(technical expert)/省察的実践家(reflective practitioner)」という概念をもとに専門性について考える議論です。
この新しい議論はドナルド・ショーン(米:1930-1997)が展開し、教育の世界だけでなく、医師や弁護士などの専門性についての議論も含め、幅広い分野に大きな影響を与えています。

極めて単純に整理すれば、「技術的熟達者」とは、あらかじめ決められた枠組の中で専門的な知識や技術を身につけて仕事をこなす人を指します。一方の「省察的実践家」は、枠組みそのものを変えていく力を持って実践的な活動をする人を指します。要点は、「枠組み」の中にとどまるか、「枠組み」を超えていくかの違いです。

急激に世界が変化するときの専門家の役割

古典的な「専門家」のイメージでは、専門的な知識や技術には決まった「枠組み」が固定されていて、その枠組みの内側で知識や技術をしっかり身につけた者が「専門家」と呼ばれるに相応しいと思われます。具体的に、教師であれば、教えるべき内容と教え方をしっかり学んで、現場で知識と技術を活用する者が「専門家」です。ずっと変化が起きない世界であれば、これで問題がありません。具体的には、日本でも1990年くらいまではあまり問題が目立ちませんでした。
ところが2020年現在においては、新型コロナウイルスの影響のために、従来型の「教室での講義」の知識や技術がいくらあっても、役に立たないような状況となりました。既存の「枠組み」の中で知識や技術を身につけただけの人は、この事態に対応できません。いま求められているのは、既存の「枠組み」を打ち壊して「イノベーション」を起こせる人材です。このような力を持っているのが、「省察的実践家」です。「枠組み」そのものを変革していく力が期待されているのです。

「省察」をすることができる専門家

既存の「枠組み」を打ち破ってイノベーションを起こすために必要なのが「省察(reflection)」です。「古典的な専門家」は、「省察」などするまでもなく、仕事を遂行します。というか、迅速な仕事の遂行には「省察」などというものは邪魔でしかありません。頭で考えるまでもなく自然に体が動くまで技術が染みこんだ者が「古典的な専門家」と呼ばれるに相応しいわけです。
しかしそうやって自然に体が動いてしまうまで専門的な知識や技術が染みこんでしまうと、逆に状況が変わったときに、臨機応変に対応することが難しくなります。「省察」をすることができなくなっていることが、弱点となります。
状況が変化したときに必要なのは、「枠組み」から飛び出して、外側から「枠組み」そのものを客観的に観察し、相対化し、変革するような力です。「枠組み」そのものを相対化して客観的に吟味することを「省察」と呼びます。世界が急激に変化する時代に「専門家」と呼ぶに相応しいのは、既存の「枠組み」そのものを作り替えることができる「省察」の力を持った人のことです。教育の世界で言えば、新型コロナウイルスのために既存の学校体系が機能不全に陥った中でも、子どもたちの学びを支えるために臨機応変に柔軟な取組みを打ち出せる人のことです。

「目的」と「手段」を原理的に考える力

「省察」とは、「目的と手段を原理的に考えること」と言い換えてもいいかもしれません。既存の枠組みに縛られる技術的熟達者は、「目的と手段」を原理的に考え直すことをしませんし、そうする必要はありません。「目的と手段」は既存の枠組みから与えられるものであって、自分自身で考えるべきものではないからです。
しかし省察的実践者は、「目的と手段」を自分自身で考えます。既存の枠組みから与えられる「目的と手段」は、もはや役に立たないからです。そして既存の枠組みからは絶対に出てこないようなアイデアと行動力で、専門家に期待される役割に応えていきます。
急激に変化する世界の専門家に必要なのは、「目的」と「手段」を原理的に考える力です。教育で言えば、「何のために教育を行なうのか?」という目的や、「目的を達成するために学校は本当に役に立っているのか?」という手段について、原理的に考えることができる力が必要となるわけです。

一般教養の必要性

既存の「枠組み」の内部で知識を身につけたり技術を磨くだけでは、省察的実践者として既存の「枠組み」を超えることはできないかもしれません(※話はそう単純ではありませんが、今のところは脇に置きます)。枠組みの内部でどれだけ技術を追究しても、どこまでも「枠組み」の中に留まります。枠組みを超えて行くには、枠組みの「外側」に立つための力が必要となります。その力を与えてくれるのが、いわゆる「一般教養」です。自然や人間や社会に対する幅広く多面的な知見が、新しい知恵をもたらすことになります。
教師に関して言えば、自分が受け持つ教科に対する知識を深めたり、授業のやり方に習熟するのでは、「既存の枠組み」の内部での技術的熟達者に留まります(まあそれも大変なことなのですが、脇に置きます)。急激に変化する世界の中で「専門家」として期待される役割を果たしていくためには、自然や人間や社会に対する多様で幅広い知見=一般教養をどれだけ身につけられるかが決め手となります。

AIと教育

そして「技術的熟達者/省察的実践者」の違いが際立つのは、これからコンピュータが現場に入ってくるからです。単なる「技術的熟達者」の仕事は、その多くがコンピュータに奪われることになる可能性が高いでしょう。しかし一方で、「省察的実践者」の仕事は、コンピュータでは代替できません。現時点でのコンピュータにできるのは、与えられた「枠組み」の中で効率を上げることだけです。「枠組み」そのものを作ることは、コンピュータにはできません。

教師の脱専門化

一方で、日本では1980年代後半(つまり臨時教育審議会の後)から教師の「脱専門化」が進行しつつあります。「教師は専門家ではない=誰でもできる」という発想の下、教師や学校に関する制度が急激に変化しつつあります。

特別免許状制度

具体的には、1988年から、教員免許状を持たなくても学校で教壇に立てる「特別免許状制度」という手段が用意されています。
「特別免許状制度について」文部科学省

民間人校長

また、2000年に学校教育法施行規則が改正され、教員免許状を持たないでも校長先生になることが可能となっております。

臨時教育審議会と新自由主義の影響

つまり現状は、「教員免許状を持たないと教師になれない」という免許状主義が、なし崩し的になくなりつつある過程にあります。「専門家としてのトレーニングを受けなくても教師になれる」という考えが説得力を強めているということです。このように「教師は専門家である必要がない」という考えが広がっているのが「教師の脱専門化」と呼ばれる事態です。
その背景にあるのが、臨時教育審議会(1984年)以降から現時点まで幅広い範囲で影響を与えてきている「新自由主義」という考え方です。新自由主義は、国による規制を極力なくして、民間の力を活用しようと考えます。教育に関しても、国による規制を取除き、民間の力を活用しようというのが基本的な方針となります。「教員免許状を持つ者しか教員になれない」という考え方は、新自由主義を信奉する人から見れば無用な「規制」に過ぎず、撤廃するべき邪魔者ということになります。新自由主義を信奉する人々の考えでは、教育を専門家に任せる必要はまったくなく、民間企業に任せれば全てうまくいくということになります。時を同じくして、受験産業が活発に活動し始めることになります。

教員免許状の高度化(専修免許状の創設)

このような状況を踏まえて、教員の「地位」が改めて大きな問題となります。具体的には、教員免許状の取得をどう考えるかが問題となります。教員免許状がなくても教壇に立てるのなら、大学で苦労して教職課程を履修する意味があるかどうかという話です。
そこで打ち出されたのが「専修免許状」や「教職大学院」という制度です。これまでの教員免許状は、学士(大学4年)で取得することができました。学士の数が少なかった1970年以前であれば、学士が教師であることに大きな説得力がありました。しかし大学進学率が40%を超えてくるようになると、保護者の学歴も上がり、教師が学士というだけでは専門性に説得力を感じなくなってきます。大学進学率の上昇に伴って、世間が要求する「専門性」のレベルが上昇したのに、教員免許制度が追いついていないわけです。
そこで、世間が要求する「専門性」のレベルに対応するために打ち出されたのが、「修士レベル(6年間の履修)の専修免許状」です(1989年法改正)。これに伴って、従来の学士レベルの免許状は「普通免許状」となります。「専門家」と呼ぶに相応しいのは修士レベルの「専修免許状」だというわけですね。
ところが専修免許状の取得はなかなか進みません。そこで「専修免許状」の取得を推進するために打ち出されたのが「教職大学院」という教育機関です(2008年)。高度で複雑化した要求に対応するための「高度専門職業人」を養成しようという施設で、従来の教育学系大学院のような「研究家」を育成しようという施設と目的が異なっています。
こうして世間の一般的な保護者が学士レベルであるときに、教師が修士レベルであれば、「高度な専門家としての地位」が担保できるというわけです。その専門性の内容が「技術的習熟者」か「省察的実践者」かは大きな問題とはならず、あくまでも形式的な話です。

まとめに代えて

以上概観したように、1980年代後半から現在までの間に、急激に考え方や制度が変わってきています。「教職の専門性」を考える視点が多様で複雑になっています。こういう大変化の時代だからこそ、一人一人が「教職の専門性とは何か?」を自分の言葉で考えることの重要性が高まっているとも言えます。

【教師論の基礎】教師とは何か?―教師聖職者論・教師労働者論・教師専門職論

教師の本質を何だと考えるかの3類型

「教師とは何か?」という問いに対する答えには、いくつかのパターンがあります。教科書的に広く見られるのは、(1)教師聖職者論(2)教師労働者論(3)教師専門職論の3パターンに分類する考え方です。

(1)教師聖職者論

教師を、宗教家になぞらえて、「聖職者」と理解する立場です。

「聖職者」とは、もともと宗教に人生を捧げる人々を呼ぶときに使用される言葉です。神の威光を背景に、迷える人々を教え導く役割を果たすべき人々を指します。その職務は神から与えられたものですから、報酬を期待して引き受けるものではありません。現世的な報酬が少なかろうと、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

この「聖職者」という言葉が教師という仕事にも相応しいものだと考える人々が一定程度存在します。教育という崇高な使命に人生を捧げ、ひたすら献身的に職務を遂行する教師のことを、人は「聖職者」と呼び、尊敬します。そしてその役割は「神」から与えられたものですから、高い給料を期待してはなりません。薄給に耐えて、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

教科書的には、この「教師聖職者論」のスタート地点を初代文部大臣・森有礼の師範教育に求める傾向が強くあります。実際、森有礼は教師に必須の資質として「順良・信愛・威重」の3気質を挙げ、師範学校における教員育成の基礎としました。そして薄給であったり、社会的なステータスが低かったとしても、誇りと使命感を持って崇高な職務を遂行すべきことを説いています。

個人的には、教師聖職者論の源泉を森有礼とする教科書的見解には強い違和感があります。というのは、教育活動に対価を求めるべきでないという考え方は江戸時代にも広く存在していたからです。
もともと教育活動は宗教施設と密接な関わりを持っていました。たとえば「寺子屋」は「寺」という宗教施設で教育活動が行なわれていたことを示唆しています。宗教関係者は、基本的には、自身の教育活動に対して報酬を求めません。そして、教育活動を行なう主体(要するにお坊さん)は、まさに言葉の意味通りの「聖職者」であったわけです。教育活動に対価を要求するべきでない聖職者という見方は、ここに一つの淵源があるように思うわけです。(ちなみに、教育活動に対して報酬を公然と要求したのは、福沢諭吉が最初だと言われています。)

(2)教師労働者論

教師を、民間企業に勤めるサラリーマンと同じく、「労働者」と理解する立場です。

民間企業に雇用されて、自発的合意に従って交わした契約に従い、定められた仕事を行なうと、所定の報酬(サラリー)が支払われます。それと同じように、教師も定められた仕事を行なって報酬を受け取る「労働者」であると考える立場です。教師聖職者論が人間的な生活を犠牲にするような薄給での奉仕を要求したのに対し、教師労働者論はまともな対価を要求します。
さらに、労働者であれば憲法で保障された労働基本権に基づいて労働環境を改善するための行動(団体交渉や同盟罷業)を起こせますので、教師も自らの労働環境を改善するために同じような行動がとれるし、とるべきだと考えます。

たとえば具体的には、「残業」をどう考えるかというときに、この立場をとるかとらないかで、意見の違いが明確に表れます。
具体的には、民間企業で「残業」を行なうと、法律に従って残業代が支払われます。残業代を支払わない会社は法律違反を犯していることになります。しかし一方、教師が残業を行なっても、残業代は支払われません。現時点では、教師は民間企業のような「労働者」とは考えられていないからです。教師労働者論の立場から見れば、とんでもないことです。教師労働者論に共感する人々は、教師の残業に対して、民間企業と同じく残業代を支払うべきだと主張するでしょう。
しかし教師労働者論に反対し、教師聖職者論に共感する立場からすれば、教師は人生をかけて教育に奉仕すべきものであって、そもそも「残業」という考え方自体がおかしいと一蹴するでしょう。子どもたちのことを365日24時間考えるのが聖職者ですから。

しかし一方で、もし教師が単なる労働者なら、アルバイトにやらせてもいいだろうという話が出てきてもおかしくありません。実際に、現在は非常勤講師や臨時採用のような、正規採用ではない教員が急速に増加しています。
また、教育に熱意や情熱を感じずに、単に金儲けの手段として考えるような「デモシカ教員」が正当化されてしまうことも懸念されます。(「デモシカ教員」とは、仕方ないから先生に<でも>なるかとか、まともな仕事はできないから先生に<しか>なれない、という、社会人失格な残念教師を揶揄する言葉です)。熱意も使命感もないくせに単に金のために教員をやっていいのかと聞かれると、躊躇する人が多いだろうことも確かです。
また、教育を受ける側の子どもや保護者の意識を想像してみると、目の前の先生を聖職者だと思えれば尊敬して言うことを聞くかもしれませんが、これが単なる労働者相手となれば、コンビニ店員に文句を言うような感覚で教師に文句を言い始めることになるかもしれません。コンビニ店員のようなサービス産業労働者であればお客様の言うことは「はいはい」と聞くのが仕事ですが、教師は同じようにサービス産業労働者となって子どもや保護者の言うことを「はいはい」と聞いてしまって大丈夫でしょうか。

これが古くて新しい問題なのは、昨今の「働き方改革」を具体的に考えるときに、どうしても通らなければならない議論だからです。教師を「労働者」と考えるか否かで、現在進行中の「働き方改革」がどこに向かって行くか、未来が大きく変わることになります。

(3)教師専門職論

教師を、医師や弁護士などと同じく、専門的な知識や技術を持つ専門家として理解する立場です。

この立場では、医者や弁護士が特別なスキルに見合った高額な報酬を得ているのであれば、教師も同じようにスキルに見合った報酬を得ても問題ないと考えるかもしれません。あるいは、高額な報酬を得る方向ではなく、教師という専門家にしか果たせない社会的役割を重視する議論に結びつくかもしれません。そういう意味では、(1)や(2)の立場の代わりというよりは、その両方と結びつくことができるものとも考えられそうです。

ところでこの立場の急所は、「教師にとっての専門性とは何か?」という問題にあります。「教職の専門性」を説得的に明示できなければ、この立場に説得力はありません。誰でもできる仕事ということになってしまうと、教師専門職論は成立しません。あるいは、この専門性を具体的にどう理解するかで、(1)や(2)の立場と結びつくか相反するかが決まってくるでしょう。
ここは非常に重要かつ複雑な論点となりますので、教職の専門性とは具体的に何なのか、改めて考えることにしましょう。→【教師論の基礎】教職の専門性につづく。