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【教師論の基礎】教職の専門性

問題の所在

 「教師とは何か?」という問いに対して、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」と回答するとしましょう。この場合に決定的な問題となるのは、教師にとっての「専門性」とは何か?ということです。この教師という仕事にとっての専門性のことを、一般的に「教職の専門性」と呼びます。教職の専門性を具体的かつ説得的に示せない限り、「教師とは専門的な仕事をする人のことだ」という回答には何の意味もありません。

 ところが、この「教職の専門性」を示すことは、実はなかなか複雑で厄介な話になるのです。

古典的な専門性と、その変化

教師の地位を確立するための議論

 専門的な仕事としては、他に医師や弁護士といったものが考えられます。医師や弁護士という職業が持っている特徴とは、
(1)他の仕事にはない独特の領域と方法を支える知識と技術=専門性
(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割=公共性
(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位=自律性
 といった3要件が考えられます。だとすれば、教師にも同じような特徴が備わっていることを示すことができれば、教職の専門性を明らかにすることができそうです。50~60年ほど前には、このような観点から教職の専門性を明らかにしようとする動きが活発化しました。
 つまり、教師には(1)他の仕事にはない独特の知識と技術が必要であり、(2)社会から必要不可欠とされる独自の役割を担っているから、(3)仕事に対する判断が他領域から干渉されない自律的な地位が確立されるべきである、という議論です。
 しかし現実的には教師には自律的な地位が与えられていませんでした(※このことを考えるためには当時の日本の政治状況を理解する必要がありますが、いったん脇に置いておきます)。そこで教職の専門性が議論される際には、教師は専門家としての「地位」を確立しなければならないという現実改革的な主張が伴うこととなりました。「教職の専門性」を考えることは、単なる脳内の議論に留まるものではなく、現実を変革していく政治的な運動と結びつきやすくなります。

状況の変化

 ところが現在では、様相が大きく変わってきています。そもそも医師や弁護士などといった「専門家」に対する考え方そのものが変わってきています。
 医師の専門性は、「インフォームド・コンセント(informed consent)」という概念によって大きく変容してきています。古典的には、素人である患者は、専門家である医師の決定を無条件に聞き入れるものだと思われていました。しかしインフォームド・コンセントの考え方では、最終的な決定を下すのは素人である患者のほうです。専門家の役割は、決定を下すことではなく、素人にも判断ができるように状況やリスクを分かりやすく説明することに変化しました。
 医師における専門性の変化は、弁護士の世界にも「セカンド・オピニオン(second opinion)」という形で取り入れられてきています。素人であるクライアントが納得するかどうかが重要なのであって、専門家が一方的に結論を出すべきではないという考え方です。専門家の役割として重要なのは、素人の判断を助けるための助言や援助となります。

 この変化が人々を幸せにするものだとしたら、専門家としての教師の役割も大きく変化しなければならないのではないでしょうか。仮にこれまでの教師が教育の専門家として学ぶ内容や学び方に対する判断を一方的に下す側だったとすれば(※話はそんなに単純ではありませんが、いったん脇に置きます)、これからは学ぶ側の主体性を尊重し、学び方や学ぶ内容に対する助言や援助に徹するべきだということになってきます。
 またあるいは「セカンド・オピニオン(second opinion)」が可能になるような制度を整えるべきだという話にもなります。具体的には、学びが上手くいかない場合には、クライアントが医者や弁護士を変えられるのと同じく、担任を変えたり学校を変えたりすることが可能でなければならないということになります。

 そんなわけで、「専門家としての教師の地位を確立する」という論点だけでは、もはや現代の「専門性」は語りにくくなってきています。とはいえ、論点そのものが無効になったわけではありません。「地位」については、新たな論点も噴出しており、引き続き丁寧に考えていく必要があります。この論点については後にまた改めて考えます。

技術的熟達者と省察的実践家

 古典的な専門性に関する議論に代わって新しく説得力を持ってきているのが、「技術的熟達者(technical expert)/省察的実践家(reflective practitioner)」という概念をもとに専門性について考える議論です。
 この新しい議論はドナルド・ショーン(米:1930-1997)が展開し、教育の世界だけでなく、医師や弁護士などの専門性についての議論も含め、幅広い分野に大きな影響を与えています。

 極めて単純に整理すれば、「技術的熟達者」とは、あらかじめ決められた枠組の中で専門的な知識や技術を身につけて仕事をこなす人を指します。一方の「省察的実践家」は、枠組みそのものを変えていく力を持って実践的な活動をする人を指します。要点は、「枠組み」の中にとどまるか、「枠組み」を超えていくかの違いです。

急激に世界が変化するときの専門家の役割

 古典的な「専門家」のイメージでは、専門的な知識や技術には決まった「枠組み」が固定されていて、その枠組みの内側で知識や技術をしっかり身につけた者が「専門家」と呼ばれるに相応しいと思われます。具体的に、教師であれば、教えるべき内容と教え方をしっかり学んで、現場で知識と技術を活用する者が「専門家」です。ずっと変化が起きない世界であれば、これで問題がありません。具体的には、日本でも1990年くらいまではあまり問題が目立ちませんでした。
 ところが2020年現在においては、新型コロナウイルスの影響のために、従来型の「教室での講義」の知識や技術がいくらあっても、役に立たないような状況となりました。既存の「枠組み」の中で知識や技術を身につけただけの人は、この事態に対応できません。いま求められているのは、既存の「枠組み」を打ち壊して「イノベーション」を起こせる人材です。このような力を持っているのが、「省察的実践家」です。「枠組み」そのものを変革していく力が期待されているのです。

「省察」をすることができる専門家

 既存の「枠組み」を打ち破ってイノベーションを起こすために必要なのが「省察(reflection)」です。「古典的な専門家」は、「省察」などするまでもなく、仕事を遂行します。というか、迅速な仕事の遂行には「省察」などというものは邪魔でしかありません。頭で考えるまでもなく自然に体が動くまで技術が染みこんだ者が「古典的な専門家」と呼ばれるに相応しいわけです。
 しかしそうやって自然に体が動いてしまうまで専門的な知識や技術が染みこんでしまうと、逆に状況が変わったときに、臨機応変に対応することが難しくなります。「省察」をすることができなくなっていることが、弱点となります。
 状況が変化したときに必要なのは、「枠組み」から飛び出して、外側から「枠組み」そのものを客観的に観察し、相対化し、変革するような力です。「枠組み」そのものを相対化して客観的に吟味することを「省察」と呼びます。世界が急激に変化する時代に「専門家」と呼ぶに相応しいのは、既存の「枠組み」そのものを作り替えることができる「省察」の力を持った人のことです。教育の世界で言えば、新型コロナウイルスのために既存の学校体系が機能不全に陥った中でも、子どもたちの学びを支えるために臨機応変に柔軟な取組みを打ち出せる人のことです。

「目的」と「手段」を原理的に考える力

 「省察」とは、「目的と手段を原理的に考えること」と言い換えてもいいかもしれません。既存の枠組みに縛られる技術的熟達者は、「目的と手段」を原理的に考え直すことをしませんし、そうする必要はありません。「目的と手段」は既存の枠組みから与えられるものであって、自分自身で考えるべきものではないからです。
 しかし省察的実践者は、「目的と手段」を自分自身で考えます。既存の枠組みから与えられる「目的と手段」は、もはや役に立たないからです。そして既存の枠組みからは絶対に出てこないようなアイデアと行動力で、専門家に期待される役割に応えていきます。
 急激に変化する世界の専門家に必要なのは、「目的」と「手段」を原理的に考える力です。教育で言えば、「何のために教育を行なうのか?」という目的や、「目的を達成するために学校は本当に役に立っているのか?」という手段について、原理的に考えることができる力が必要となるわけです。

一般教養の必要性

 既存の「枠組み」の内部で知識を身につけたり技術を磨くだけでは、省察的実践者として既存の「枠組み」を超えることはできないかもしれません(※話はそう単純ではありませんが、今のところは脇に置きます)。枠組みの内部でどれだけ技術を追究しても、どこまでも「枠組み」の中に留まります。枠組みを超えて行くには、枠組みの「外側」に立つための力が必要となります。その力を与えてくれるのが、いわゆる「一般教養」です。自然や人間や社会に対する幅広く多面的な知見が、新しい知恵をもたらすことになります。
 教師に関して言えば、自分が受け持つ教科に対する知識を深めたり、授業のやり方に習熟するのでは、「既存の枠組み」の内部での技術的熟達者に留まります(まあそれも大変なことなのですが、脇に置きます)。急激に変化する世界の中で「専門家」として期待される役割を果たしていくためには、自然や人間や社会に対する多様で幅広い知見=一般教養をどれだけ身につけられるかが決め手となります。

AIと教育

 そして「技術的熟達者/省察的実践者」の違いが際立つのは、これからコンピュータが現場に入ってくるからです。単なる「技術的熟達者」の仕事は、その多くがコンピュータに奪われることになる可能性が高いでしょう。しかし一方で、「省察的実践者」の仕事は、コンピュータでは代替できません。現時点でのコンピュータにできるのは、与えられた「枠組み」の中で効率を上げることだけです。「枠組み」そのものを作ることは、コンピュータにはできません。

教師の脱専門化

 一方で、日本では1980年代後半(つまり臨時教育審議会の後)から教師の「脱専門化」が進行しつつあります。「教師は専門家ではない=誰でもできる」という発想の下、教師や学校に関する制度が急激に変化しつつあります。

特別免許状制度

 具体的には、1988年から、教員免許状を持たなくても学校で教壇に立てる「特別免許状制度」という手段が用意されています。
「特別免許状制度について」文部科学省

民間人校長

 また、2000年に学校教育法施行規則が改正され、教員免許状を持たないでも校長先生になることが可能となっております。

臨時教育審議会と新自由主義の影響

 つまり現状は、「教員免許状を持たないと教師になれない」という免許状主義が、なし崩し的になくなりつつある過程にあります。「専門家としてのトレーニングを受けなくても教師になれる」という考えが説得力を強めているということです。このように「教師は専門家である必要がない」という考えが広がっているのが「教師の脱専門化」と呼ばれる事態です。
 その背景にあるのが、臨時教育審議会(1984年)以降から現時点まで幅広い範囲で影響を与えてきている「新自由主義」という考え方です。新自由主義は、国による規制を極力なくして、民間の力を活用しようと考えます。教育に関しても、国による規制を取除き、民間の力を活用しようというのが基本的な方針となります。「教員免許状を持つ者しか教員になれない」という考え方は、新自由主義を信奉する人から見れば無用な「規制」に過ぎず、撤廃するべき邪魔者ということになります。新自由主義を信奉する人々の考えでは、教育を専門家に任せる必要はまったくなく、民間企業に任せれば全てうまくいくということになります。時を同じくして、受験産業が活発に活動し始めることになります。

教員免許状の高度化(専修免許状の創設)

 このような状況を踏まえて、教員の「地位」が改めて大きな問題となります。具体的には、教員免許状の取得をどう考えるかが問題となります。教員免許状がなくても教壇に立てるのなら、大学で苦労して教職課程を履修する意味があるかどうかという話です。
 そこで打ち出されたのが「専修免許状」や「教職大学院」という制度です。これまでの教員免許状は、学士(大学4年)で取得することができました。学士の数が少なかった1970年以前であれば、学士が教師であることに大きな説得力がありました。しかし大学進学率が40%を超えてくるようになると、保護者の学歴も上がり、教師が学士というだけでは専門性に説得力を感じなくなってきます。大学進学率の上昇に伴って、世間が要求する「専門性」のレベルが上昇したのに、教員免許制度が追いついていないわけです。
 そこで、世間が要求する「専門性」のレベルに対応するために打ち出されたのが、「修士レベル(6年間の履修)の専修免許状」です(1989年法改正)。これに伴って、従来の学士レベルの免許状は「普通免許状」となります。「専門家」と呼ぶに相応しいのは修士レベルの「専修免許状」だというわけですね。
 ところが専修免許状の取得はなかなか進みません。そこで「専修免許状」の取得を推進するために打ち出されたのが「教職大学院」という教育機関です(2008年)。高度で複雑化した要求に対応するための「高度専門職業人」を養成しようという施設で、従来の教育学系大学院のような「研究家」を育成しようという施設と目的が異なっています。
 こうして世間の一般的な保護者が学士レベルであるときに、教師が修士レベルであれば、「高度な専門家としての地位」が担保できるというわけです。その専門性の内容が「技術的習熟者」か「省察的実践者」かは大きな問題とはならず、あくまでも形式的な話です。

まとめに代えて

 以上概観したように、1980年代後半から現在までの間に、急激に考え方や制度が変わってきています。「教職の専門性」を考える視点が多様で複雑になっています。こういう大変化の時代だからこそ、一人一人が「教職の専門性とは何か?」を自分の言葉で考えることの重要性が高まっているとも言えます。

【教師論の基礎】教師とは何か?―教師聖職者論・教師労働者論・教師専門職論

教師の本質を何だと考えるかの3類型

 「教師とは何か?」という問いに対する答えには、いくつかのパターンがあります。教科書的に広く見られるのは、(1)教師聖職者論(2)教師労働者論(3)教師専門職論の3パターンに分類する考え方です。

(1)教師聖職者論

 教師を、宗教家になぞらえて、「聖職者」と理解する立場です。

 「聖職者」とは、もともと宗教に人生を捧げる人々を呼ぶときに使用される言葉です。神の威光を背景に、迷える人々を教え導く役割を果たすべき人々を指します。その職務は神から与えられたものですから、報酬を期待して引き受けるものではありません。現世的な報酬が少なかろうと、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

 この「聖職者」という言葉が教師という仕事にも相応しいものだと考える人々が一定程度存在します。教育という崇高な使命に人生を捧げ、ひたすら献身的に職務を遂行する教師のことを、人は「聖職者」と呼び、尊敬します。そしてその役割は「神」から与えられたものですから、高い給料を期待してはなりません。薄給に耐えて、やりがいのある崇高な使命を果たすこと自体が喜びとなるわけです。

 教科書的には、この「教師聖職者論」のスタート地点を初代文部大臣・森有礼の師範教育に求める傾向が強くあります。実際、森有礼は教師に必須の資質として「順良・信愛・威重」の3気質を挙げ、師範学校における教員育成の基礎としました。そして薄給であったり、社会的なステータスが低かったとしても、誇りと使命感を持って崇高な職務を遂行すべきことを説いています。

 個人的には、教師聖職者論の源泉を森有礼とする教科書的見解には強い違和感があります。というのは、教育活動に対価を求めるべきでないという考え方は江戸時代にも広く存在していたからです。
 もともと教育活動は宗教施設と密接な関わりを持っていました。たとえば「寺子屋」は「寺」という宗教施設で教育活動が行なわれていたことを示唆しています。宗教関係者は、基本的には、自身の教育活動に対して報酬を求めません。そして、教育活動を行なう主体(要するにお坊さん)は、まさに言葉の意味通りの「聖職者」でした。教育活動に対価を要求するべきでない聖職者という見方は、ここに一つの淵源があるように思うわけです。(ちなみに、教育活動に対して報酬を公然と要求したのは、福沢諭吉が最初だと言われています。)

(2)教師労働者論

 教師を、民間企業に勤めるサラリーマンと同じく、「労働者」と理解する立場です。

 民間企業に雇用されて、自発的合意に従って交わした契約に従い、定められた仕事を行なうと、所定の報酬(サラリー)が支払われます。それと同じように、教師も定められた仕事を行なって報酬を受け取る「労働者」であると考える立場です。教師聖職者論が人間的な生活を犠牲にするような薄給での奉仕を要求したのに対し、教師労働者論はまともな対価を要求します。
 さらに、労働者であれば憲法で保障された労働基本権に基づいて労働環境を改善するための行動(団体交渉や同盟罷業)を起こせますので、教師も自らの労働環境を改善するために同じような行動がとれるし、とるべきだと考えます。

 たとえば具体的には、「残業」をどう考えるかというときに、この立場をとるかとらないかで、意見の違いが明確に表れます。
 具体的には、民間企業で「残業」を行なうと、法律に従って残業代が支払われます。残業代を支払わない会社は法律違反を犯していることになります。しかし一方、教師が残業を行なっても、残業代は支払われません。現時点では、教師は民間企業のような「労働者」とは考えられていないからです。教師労働者論の立場から見れば、とんでもないことです。教師労働者論に共感する人々は、教師の残業に対して、民間企業と同じく残業代を支払うべきだと主張するでしょう。
 しかし教師労働者論に反対し、教師聖職者論に共感する立場からすれば、教師は人生をかけて教育に奉仕すべきものであって、そもそも「残業」という考え方自体がおかしいと一蹴するでしょう。子どもたちのことを365日24時間考えるのが聖職者ですから。

 しかし一方で、もし教師が単なる労働者なら、アルバイトにやらせてもいいだろうという話が出てきてもおかしくありません。実際に、現在は非常勤講師や臨時採用のような、正規採用ではない教員が急速に増加しています。
 また、教育に熱意や情熱を感じずに、単に金儲けの手段として考えるような「デモシカ教員」が正当化されてしまうことも懸念されます。(「デモシカ教員」とは、仕方ないから先生に<でも>なるかとか、まともな仕事はできないから先生に<しか>なれない、という、社会人失格な残念教師を揶揄する言葉です)。熱意も使命感もないくせに単に金のために教員をやっていいのかと聞かれると、躊躇する人が多いだろうことも確かです。
 また、教育を受ける側の子どもや保護者の意識を想像してみると、目の前の先生を聖職者だと思えれば尊敬して言うことを聞くかもしれませんが、これが単なる労働者相手となれば、コンビニ店員に文句を言うような感覚で教師に文句を言い始めることになるかもしれません。コンビニ店員のようなサービス産業労働者であればお客様の言うことは「はいはい」と聞くのが仕事ですが、教師は同じようにサービス産業労働者となって子どもや保護者の言うことを「はいはい」と聞いてしまって大丈夫でしょうか。

 これが古くて新しい問題なのは、昨今の「働き方改革」を具体的に考えるときに、どうしても通らなければならない議論だからです。教師を「労働者」と考えるか否かで、現在進行中の「働き方改革」がどこに向かって行くか、未来が大きく変わることになります。

(3)教師専門職論

 教師を、医師や弁護士などと同じく、専門的な知識や技術を持つ専門家として理解する立場です。

 この立場では、医者や弁護士が特別なスキルに見合った高額な報酬を得ているのであれば、教師も同じようにスキルに見合った報酬を得ても問題ないと考えるかもしれません。あるいは、高額な報酬を得る方向ではなく、教師という専門家にしか果たせない社会的役割を重視する議論に結びつくかもしれません。そういう意味では、(1)や(2)の立場の代わりというよりは、その両方と結びつくことができるものとも考えられそうです。

 ところでこの立場の急所は、「教師にとっての専門性とは何か?」という問題にあります。「教職の専門性」を説得的に明示できなければ、この立場に説得力はありません。誰でもできる仕事ということになってしまうと、教師専門職論は成立しません。あるいは、この専門性を具体的にどう理解するかで、(1)や(2)の立場と結びつくか相反するかが決まってくるでしょう。
 ここは非常に重要かつ複雑な論点となりますので、教職の専門性とは具体的に何なのか、改めて考えることにしましょう。
【教師論の基礎】教職の専門性につづく。

重松清『せんせい。』

【要約】学校の先生(保健室の養護教諭含む)が主人公だったり重要なキャラクターとして登場する短編小説6本のオムニバスです。
ほぼ全ての作品に共通しているのは、おとなになるとはどういうことかということ、そしてそれを受け容れる際のほろ苦さとの付き合い方です。

【感想】40代になってから読むと味わいがある作品群のような気がするんだけど、若い人はどう読むのかなあ。分かるのかなあ。言葉の表面的な意味は追うことができても、ある程度の人生経験を積まないと本当のところは分からないような気がしないでもないのだが、どうだろう。

【言質】「おとな」に関する文章がたくさん出てくる作品群だ。

「センセ、オトナにはなして先生がおらんのでしょう。先生なしで生きていかんといけんのをオトナいうんでしょうか。」51頁、白髪のニール

教育史学の知見から言えば、その通りなのであった。学校教育(すなわち教師)と「大人/子ども」の分離という事態は、理論的に同時に発生する。

「私は両親に言った。「高校は卒業できなかったけど、立派におとなになってました」とつづけると、」243頁、泣くな赤鬼
「悔しさを背負った。おとなになった。私の教え子は、私の見ていないうちに、ちゃんと一人前のおとなになってくれたのだ。」245頁、泣くな赤鬼

「そういうあだ名を付けられる教師は、じつは意外と生徒から好かれているものなのだ。――おとなになったいまなら、なんとなくわかるのだけど。」253頁、気をつけ、礼
「不満が顔に出たのだろう、父親は「子どもじゃのう」と笑い、静かに言った。」268頁、気をつけ、礼

要するにつまり、「おとな」とは現実と折り合いをつけて自己を自己として定位した存在を言うようだ。確かにそれは論理的にも「自己実現」のモードだ。本書では夢に破れ理想を失いながらも、現実の中に自分を定位させていく姿が切なく描かれていく。それが「おとな」になるということと言いたいわけだ。
まあ、いろいろ思うところはあるが、切ないのは間違いない。なれなかった自分や切り捨てていった可能性に対する諦め、そしてそれを抱えながら前に進む姿勢が、切なさを増幅させるのであった。
そして「せんせい」とは、そういう自己実現を強制する役割を課せられているからこそ、おとなになることの意味を扱う作品群で重要なポジションを得るのかもしれない。教育とは自己実現を促すことであり、自己実現とは子どもを断念(止揚)することなのだ。

重松清『せんせい。』新潮文庫、2011年

【要約と感想】小谷川元一『いじめ・学級崩壊―教師と親の「共育」で防ぐ』

【要約】起こってしまったいじめや学級崩壊を対症療法的に解決するための本ではなく、丁寧な学級経営や保護者対応をこころがけることで未然に防ごうという、特に小学校教師向けに書かれた本です。
学級崩壊は、必ずいじめを伴っています。学校だけに責任を押しつけても解決しません。こうなったのは、家庭に大きな原因があるからです。解決するためには、家庭と学校が協力しなければなりません。
教師は、丁寧な学級経営と保護者対応をこころがけましょう。崩壊学級を何度も立ち直らせた学級担任としての知恵と工夫の数々を見てください。

【感想】ひとりの小学校教師としての経験と知恵が詰まっている本だ。まずはその知恵をぜひ次世代に継承していきたいものだ。10年以上前の本ということもあり、多少古いものも混じっているが、そのあたりは読者が取捨選択すればいいだけの話だ。

とはいえ、現代社会そのものが人間の生き方を決定的に変質させ、子どもの生活環境が劇的に変化したことの意味については、本書は直視できていないようにも思う。親が脆弱になったと嘆いても、どうしようもない。現代社会の特質そのものを直視し、冷徹に見透す力は、今後ますます必要になってくる。ひょっとしたら、学級という制度そのものが賞味期限切れを起こした時代に突入しているのかもしれないのだ。
そういう意味では、「子どもの権利」の視点が弱いことも気にかかる。今後学校が生き残れるかどうかは、教師の強力なリーダーシップというより、子どもの参画が鍵になってくるような気もするのだ。

【言質】「自己実現」とか「人格」という言葉の用法に関して様々なサンプルを得た。

「教師の専門性を高め、子どもに優れた人格を陶冶することよりも、形式的に平準化を目指す血の通わない技術論が先行している気がします。」21頁
「いじめという構図は社会全体からすれば極めて特異な人間関係であると捉えられがちですが、人格完成前の子どもたちが集う学校では、ありとあらゆる関係がいじめの構図を孕んでいると考える方がむしろ自然です。」41頁
人格を陶冶するプロの教師としてのほめ方・しかり方の極意をお伝えします。」147頁
「言葉遣いや表情仕草に限ったことではなく、親は子どもの人格の陶冶に唯一無二の影響を与えます。」189頁

本書では「人格」という言葉が「陶冶」という言葉とセットに鳴って使われる場面を散見する。もちろん近代教育的な概念としては、王道である。だがしかし、1970年以降、あるいは「子どもの権利条約」以降、こうした近代教育的概念は急速に説得力を失いつつあるのも確かである。「子どもを独立した人格」として見るのが、現在の考えの主流である。こういう観点からすると、「人格完成前の子ども」という言葉は完全に近代的な物言いであって、逆に言えば「子どもの権利条約」以前の考え方を代表するものでもある。これをどう考えるか。

また「自己実現」について。

「たとえ一教科でも子どもたちが学習の中で自己実現を図れれば、学級崩壊の危機は未然に防ぐことができるでしょう。」121頁
「子どもたちは自己実現をめざし、学校に集ってきます。」155頁

こちらは近代的な「自己実現」の概念からは、多少ズレて拡大解釈されているように見える。「成功体験」や「成長」という言葉とほとんど同義となっているように見えるわけだ。近代的な「自己実現」は、もうちょっと厳密な概念である。

また本書では学力の定義を試みているが、上から論理的に降りてきたものではなく、実践と経験から導かれたものであるところが尊いように思う。

「①学力とは、単に学業成績ではなく、人間生活の基盤を支える基礎的力であること。
②学力とは、特定の学習で獲得されるものだけではなく、生活全般に必要なバランスのとれた基礎的力であること。
③学力とは、どの子も努力により獲得可能な基礎的力であること。
④学力とは、小学校六年間を見通し、大人になっても必要な最低限度の基礎的力であること。」136頁

小谷川元一『いじめ・学級崩壊―教師と親の「共育」で防ぐ』大修館書店、2007年

【要約と感想】大塚謙二『教師力をアップする100の習慣』

【要約】主に中学校の教師向けの本です。
教育とは、子どもたちの人格形成をお手伝いすることです。そのためには、教師自身の人格を磨き続けなければなりません。上司や先輩の技を盗み、地域や保護者にも気を配り、生徒の気持ちになって、様々な二項対立の極端に走らず、中庸をこころがけましょう。

【感想】「○○力」という言葉が盛んに使用されるようになったのは、いつの頃からか。
ちなみに「教師力」という言葉は、国会図書館デジタルライブラリーの検索によれば、1950-59年では1件、1960-69年では1件、1980-89年では3件、1990-99年は3件なのに対し、2000-09年では54件、2010年以降は61件となっている。21世紀に入ってから急速に使われるようになったことが分かる。(ちなみに50-99の計8件は、単に誤植の疑いが高い)

本書の内容自体は、まあ、ナルホドと思うことが多い。私自身も、自分の実践を振り返り、反省する材料としたい。
とはいえ、「教師力」という言葉を使うこと自体がどういう場を形成するかについては、原理的に考察すべき対象となる。個人的な直感では、けっこう怪しい気がしているわけだ。というのは、「教師力」という言葉を使うと簡単に「何か言った気になる」ことができるわけだが、そういう言葉こそ危険だからだ。
本書のように具体的な事例に噛み砕かれていれば問題ないのだが、抽象的な次元で話が進むと、かなり危ない気がする。

【言質】
「人格」という言葉の用法サンプルを得た。

「罪を非難しても、人格まで否定しないこと。」63頁
「自分自身の人格を高める努力をする」「人格は、地道な長期的なプロセスによってしか形成できないもの。」126頁

まあ、「教師力」とは、要するに完成した人格から発せられる総合的な力のことではある。何も言っていないのと同じという感じがするとすれば、そういうことなのだろう。

大塚謙二『教師力をアップする100の習慣』明治図書、2011年