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【要約と感想】浅野和生『イスタンブールの大聖堂―モザイク画が語るビザンティン帝国』

【要約】コンスタンティノポリス(現イスタンブール)に建つソフィア大聖堂は、先行するモデルもなく登場し、後続する建築も現れなかった、ビザンティン帝国を代表するユニークな建造物です。アーチを組み合わせた見事な構造が出現する至る経緯や、美麗なモザイク画の解釈を通じて、ビザンティン帝国1000年の栄枯盛衰の歴史を辿ります。

【感想】基本的には美術史の本なのだが、建築やモザイク画を通じて垣間見える人間ドラマがおもしろい。西ヨーロッパとイスラム世界に挟まれて、高校世界史レベルでは無視されがちなビザンツ帝国であったが、とても豊かな世界が広がっているのであった。伊達に千年も続いていない。というか逆に、ビザンツ帝国が視野に入っていないと、「ヨーロッパ」とか「ルネサンス」などの概念を本当に理解したことにならない。ギリシア人が現在でもコンスタンティノポリスを心の故郷のように思っているらしい記述があったが、その場合の「ギリシア」の中身(要するにコンスタンティノポリス)が西欧人が考える「ギリシア」の中身(要するにアテネ)とずいぶん違っていることが印象的なのだった。この勘違いを土台として、ビザンツ帝国を忘却しながら、いわゆる「近代ヨーロッパ」なるものが成立してくるわけだ。しかしその亡霊が「第三のローマ」としてモスクワに跋扈して西ヨーロッパに異議申し立てをしている2022年の現状なのだった。一方が忘れ去ったとしても、もう一方は現実に生き残っている。仮にモスクワの亡霊を消し去ったとしても、必ずまた新たに亡霊が立ちあがってくるのだろう。

浅野和生『イスタンブールの大聖堂―モザイク画が語るビザンティン帝国』中公新書、2003年

【要約と感想】阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』

【要約】日本人は「人格」「個人」「社会」「愛」という概念を、明治以降にヨーロッパから輸入しましたが、今に至るまでその意味を理解していません。
 西欧で「個人の人格」という概念が形成され始めるのは12世紀頃からのことです。決定的に重要な契機はキリスト教の告解という制度の成立です。男女の性愛が反省の対象として意識化され、霊と肉の統一体としての人格が浮上します。

【感想】斯学の権威に対して私が言うのもなんだけど、一次史料をほとんど使わずに、もっぱら二次史料から議論を組み立てて、自分の価値観に都合の良い結論に引っ張っていく行論には、あまり感心しない。人格の形成において「告解」という制度が重要だという本書の核心にある論点はもちろんフーコーが提出したものだし、それを援用した議論は柄谷行人が先に展開していた。
 まあ、日本が「民主主義」とか「個人の尊厳」という観点から西欧に遅れているという問題意識と危機感はよく伝わってくる。いわゆる西洋近代がルネサンスではなく12世紀に起源をもつという議論が一般化した以上は、西欧中世史家として専門的な観点から状況を説明する義務感をもつのは当然ではある。そういう意味では、いわゆる「12世紀ルネサンス」の専門的な歴史議論と現代日本の日常生活を繋げるという使命を果たした本であることには間違いない。著者が示す危機感に共鳴するか反発するかはともかく、遠いヨーロッパの「12世紀ルネサンス」の議論が現代日本の我々の生活にも関係しているだろうことは頭の片隅に置いておいていいのだろう。

【研究のための備忘録】人格
 タイトルに「人格」とついているとおり、西欧中世における「人格」概念の形成に関する記述がたくさんあったので、サンプリングしておく。
 まず専門的な歴史の話の前に、日本人が「人格」という概念を理解していないという危機感が繰り返し表明されている。

「私たちは明治以後、近代学校教育の中で、自分を個人として意識し、一つの人格をもつ存在であることを学んできた。そのばあい、人格とは何かとか、近代以前において日本人は個人の人格をどのように考えてきたのか、などと問うこともなく、私たちは過ごしてきたように見える。とくに周囲の人間関係の中で、一個人が自分の人格をもちつつ活きることの意味について、深い省察はなされれていないように思われるのである。」48頁
「私たちは社会科学、人文科学のいずれを問わず、学問のすべての分野において西欧的な人格概念を前提にして議論をしている。しかし日常生活の分野においては、西欧的な人格概念ですべてを通すことは少なくとも日本国内においては不可能である(後略)」156頁
「明治十七年(1884)にindividualという語に個人という訳語が定められてから、一〇〇年が経過しているにもかかわらず、日本には個人の尊厳の思想は根づいていないといってよいであろう。」172頁

 苅谷剛彦は2019年の著書で、日本人は「人格」とか「個性」という概念を完全に理解しているという見解を示しており(苅谷『追いついた近代 消えた近代』)、阿部の論述と真っ向から対立している。阿部論文が1990年発行なので、およそ30年の間に受け止め方が変わったということか、どうか。

 で、現代日本の問題を踏まえた上で、西欧がどのように「人格」概念を形成していったかの話に入る。ポイントは、従来の歴史学では15~16世紀のルネサンス期が近代的個人の始まりだとされていたところ、中世史の進展によって12世紀こそが決定的なターニングポイントだったと理解されているところだ。

「グレーヴィッチは、かつて主張されたように、中世からルネサンスまでは個人は存在せず、個人は社会の中に完全に組み込まれ、社会に完全に服従させられていた、という説はいまでは支持しえないと述べている。(中略)そしてまさに中世において、人格という概念が形成されていった、というのである。」61-62頁
「十三世紀には、個人の自己意識に転機が訪れる。(中略)これまで人間の霊魂のみを問題にしていた哲学者たちは、十三世紀には、不可分の統一体としての霊と肉体に目を向け始めるようになったが、それこそ人格を形成するものなのであった。」66頁

 このあたりは著者やその周辺が勝手に言っているのではなく、学会というか知識人全体の共通理解になっている。
 で、歴史的な論述を具体的に進める際に著者がとりわけ注目してこだわっているのだ、男女の性愛関係だ。

「私たちは、人格や個人のあり方を考えるときに、抽象的、あるいは形而上学的に語るばあいが多い。しかし現実の個人や人格のあり方は、人と人の関係の中で現れるのであって、対人関係を抜きにして、個人や人格を語ることはできないのである。(中略)男女の関係こそは、人間と人間の関係の基礎であり、個人や人格の問題も、そこからはじめて考察しなければならないのである。それと同時に、個人や人格について抽象的に語るのでなく、具体的に語らねばならないとするなら、人間の肉体と人格の関係についても語らねばならないであろう。」74頁
「人間と人間の関係のなかで、男と女の関係が最も親密なものであろう。この親密な関係を肉の面で棄てることによって得られるもの、それが「一つ心」であった。自分の肉体の奥底にある「真の自分」を発見し、絶対者である神に直面しようとする態度である。ここには冒頭でのべた、ペルソナのキリスト教的理解が明確な形で示されているように見えるのである。三位一体の神を構成する三つのペルソナに対して、ひとつのペルソナである人間が、自己のペルソナを発見することによって応えようとしているのであり、絶対者と人間の個とが直面する構図があり、近代のヨーロッパ哲学における人格の概念につらなってゆくものをみることができるのである。」p.88

 個人的に言えば、なんとなくこのあたりは論理が飛躍しているようにも思えるところではある。「人格の形成」と「男女の性愛」はいきなり繋がるようなものなのか、またさらにそれがキリスト教のペルソナといきなり接触するものなのかどうか、疑問なしとはしない。まあ、言いたいことそのものは分からないでもない。
 で、「男女の性愛」が「人格の形成」に結びつくのは、カトリックが制度化した「告解」という仕組みが媒介するという論理になっている。本論が成立するかどうかは、この論点の説得力にかかっている。

「告解という制度が個人による自己の行為の説明からはじまる以上、個人が自己を意識する大きなきっかけとならざるをえなかったのである。(中略)ヨーロッパにおいては、このような個人の内面に対する上からの介入を経て、近代的個人が成立する道がつけられたのである。」132頁
「告白の中で個人は自分の行為を他人の前で語らねばならないのである。自己を語るという行為こそ、個人と人格の形成の出発点にあるものだからである。たとえ強制されたものであったにせよ、そこには自己批判の伝統を形成する出発点があった。ヨーロッパ近代社会における個人と人格は、まさにこの時点で形成されつつあった、といってよいだろう。」140頁

 まあ、なんとなくフーコーと柄谷行人の議論でお馴染みの話ではあるように思える。ここに納得するかどうか。言いたいことは分からないではないけれども、そうとう眉に唾をつけておきたい気分だ。別のストーリーも大いにあり得るところだ。個人的に気になっているのは、いわゆる「近代的個人」の成立が「近代的国家」とパラレルになっているというところだ。「告解」という制度から攻めるよりも、「近代的国家と近代的個人の相似」のほうに注目する方が説明としては説得力をもつのではないか。まあ、「告解」を重視する議論は一つの仮説として留意はしておきたい。
 話はさらに、12世紀トゥルバドゥールの宮廷風恋愛の具体的分析に進む。

「ここで注目しておきたいのは、トゥルバドゥールにおける想像力の問題である。恋人の裸身に手で触れ、接吻をしながらも性交にはいたらない彼らの行動は、自己に制約を課すことによって肉欲を霊的な脈絡の中に置き換え、愛を理想化し、エネルギーを詩作に向けたというのである。風景や自然に対する愛が歌われるのも、彼らの想像力の結果なのである。それは自分たちの愛を人間独自の世界の中で完成されるものとし、神の愛に連なるものと見なかった結果なのである。このようにみてくると、トゥルバドゥールの恋愛が、西欧における個人の人格の成立と不可分の関係にあったということがうなずかれるであろう。」263-264頁
「この頃にヨーロッパの多くの人が愛について語り始めた背景には、第二章で述べたように個人・人格が成立しつつあったことがあるであろう。真の意味での恋愛が成立するためには、男女両性が独立した人格をもっていなければならない。(中略)宮廷風恋愛は、このような西欧における愛の発見の一環として生まれたものであった。そしてその大前提として、個人の成立・人格の成立があったのである。」p.277

 うーん、どうなんだろう。牽強付会な感じがしないでもない。本論でもちょこっと言及されているが、こういう恋愛の技法はアラビア経由で入ってきたという説も有力なところで、そうなると特に「西欧に個人が誕生した」という文脈で語るべきことではなくなってくる。実際にトゥルバドゥールの詩を読んでみても、中身は極めて抽象的で、具体的な個性が描かれているわけではなく、「個人」とか「人格」の誕生に繋がるとは素直に受け取ることはできない。
 まあしばらくは、眉に唾を大量につけつつ、一つの仮説として頭の片隅に置いておく、という扱いでいこうと思う。

阿部謹也『西洋中世の愛と人格―「世間」論序説』講談社学術文庫、2019年<1992年

【要約と感想】C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』

【要約】西欧中世は、通説では無知蒙昧で野蛮な暗黒時代とされてきましたが、とんでもない勘違いで、実際にはいわゆる15世紀のルネサンスに直接繋がっていくような、好奇心に満ち溢れた創造的な時代です。近代ヨーロッパの原型は、この時代に生まれました。

【感想】大学の一般教養レベルでも「十二世紀ルネサンス」という言葉はよく耳にするわけだが、本書はその一番のモトネタということになる。原著は1927年出版で、もう95年も前のことだ。おそらく個々のトピックについては後の研究が乗り越えているところが多いだろうと想像するが、大枠の歴史観については相変わらず通用しそうだ。おもしろく読んだが、出てくる人名は馴染みのないものばかりで、現代に至ってもいかにこの時代が高校世界史なども含めて一般教養の世界からハブられているかが分かるのだった(いや、私の勉強不足なだけかもしれないぞ)。

【研究のための備忘録】ルネサンス
 中学の教科書レベルでは、いわゆるルネサンスは14世紀イタリア(具体的にはダンテやペトラルカ)に始まるとされているが、本書はその教科書的通説を批判する。ルネサンスは中世を通じて段階的に形になってきたもので、具体的には8世紀カロリング・ルネサンス→12世紀ルネサンス→15世紀ルネサンス(クァトロチェント)を経て展開したとして、特に12世紀ルネサンスが決定的に重要だったという主張だ。相対的に、従来は重要視されてきた15世紀ルネサンスを軽く見ることになる。

「イタリア・ルネサンスは中世から徐々に形をあらわしてきたもので、いったいいつをはじまりとするか学者の間でも意見がまちまちで、クァトロチェント(1400年代)の名称はもとより、その事実さえ否定する人がいるくらいなのだ。」4頁
「十四世紀は十三世紀から出てきているし、十三世紀は十二世紀から出てきているという具合で、中世ルネサンスとクァトロチェントの間にはほんとうの断絶はない。ある学生がいつか言ったものだ。ダンテは「片足を中世に入れて立ち、片足でルネサンスの星の出にあいさつを送る」!」18頁

 ダンテやペトラルカが「ルネサンスの始まり」とされているのには、かねてから個人的にも強い違和感を持っていたので、そう主張する際には「ハスキンズも言ってた」と応援を頼むことにする。
 また、ダンテやボッカッチョなど14世紀イタリア人文主義者が痛烈な聖職者批判を繰り広げていることを見て個人的には凄いなあと思っていたし、私以外にもそういう感想を漏らしている文学研究者がいるのだけれども、実はありがちだったということも分かった。これからは堂々と聖職者批判をしているテキストに触れても、驚かないようにする。

「こういう作品は、パロディであると同時に風刺にもなっていて、またこの時期のラテン語の詩は風刺が非常に多いのである。そして風刺の対象は、中世にはいつも悪罵の的になっていた女と農奴、あるいは特定の修道会のこともあったが、とりわけ強い毒を含んだ攻撃は教会組織、特にローマ教皇庁と高位聖職者に向けられていた。こういった毒舌に類するものは、叙任権闘争のパンフレットに起源を求められるが、程度はさまざまであれ、おおむね絶えることなくつづいて、結局はプロテスタントの反逆にいたる。」185頁

 気になるのは、さりげなく「叙任権闘争のパンフレットに起源」と述べられているところだが、この論点は本書ではこれ以上は膨らまない。叙任権闘争の結果としてカトリックが俗世間に染まったのが聖職者批判の原因ということかどうか、ちょっと気にしておこう。

【研究のための備忘録】本
 西欧中世において「本」の値段がべらぼうに高かった(というかむしろ買うことすら不可能だった)ことは各所に述べられているのだが、これまで確かな出典には出くわしていなかった。ここにあった。ありがたい。

「蔵書は、もらうか買うか、その場で作るかしてふえていった。十二世紀には、本を買うことは珍しかった。というのは、パリとボローニャがすでに本を売買する場所として登場してはいるものの、筆写を職業とする人も、本を取引する市場もまだなかったからである。写本はもとより値が張るし、とりわけ共唱用の大部な典礼書など大へんなもの。大きな聖書を十タレントで買ったとか、ミサ典書をぶどう畑と交換したというような話もある。一〇四三年にバルセロナの司教は、プリスキアヌスの本二巻をユダヤ人から買うのに、家一軒と土地一区画を提供した。」70頁

 ネットにも「中世の本の値段は家一軒」と書いてあるサイトが散見されるのだがが、ネタモトはこれだな。有象無象のネット記事が根拠では恐ろしくて授業で使うわけにいかなかったが、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて堂々と言うことにする。

【研究のための備忘録】教育
 12世紀の教育に関する記述がたくさんあって、いろいろ勉強になった。もちろん学部生向けの基本的な教科書にも書いてあることではあるが、古典の言質を確保できたので、今後は「ハスキンズも言っていた」と添えて胸を張って言える。

「十一世紀のイタリアで注目すべきもう一つの事実は、俗界でも教育が命脈を保っていたことである。(中略)この階層は、書物という形で自分を表現しなかったにせよ、少なくとも法律と医学という在俗専門職の育つ土壌は作ったはずで、この二つはイタリアの社会で急速な発展をとげた。」30-31頁
「農民がその後何百年もの間読み書きの能力なしですませる一方、北方の都市住民は、基本的な教育を授ける世俗の学校をつくりはじめた。(中略)なかでもイタリアでは、世俗の教育の伝統が公証人や写字生の間にずっと生きつづけていて、たとえばヴェネツィアなど、読み書きは商人の階層にまでひろがっていた。すでにイタリアの諸都市は、それぞれ地元の法律学校のみならず、公文書や年代記も持っていた。その上、地中会見の商業共和政諸国は、東方とのコミュニケーションの要衝でもあった。」65頁

 イタリアでは古代ラテン的な教養が生き残っていたということで、ダンテやペトラルカやボッカッチョの古典的教養は改めてビザンツ帝国やアラビアから学んだものではなく、イタリアの知的伝統を背景にしていることをよく理解した。気になるのは、どうしてイタリアの俗界(商人階級)で教育が生き残っていたか、その理由と背景だ。本書では地中海貿易の要衝ということが前面に打ち出されているが、古代ローマからの伝統はどれくらい意味を持っているのだろうか。

 大学に起源についても、古典からの言質を得られて、ありがたい。「教科書に書いてあった」と言うより、「ハスキンズが言っていた」と根拠を示せる方が格好よく思えるのだった(要するにただの見栄だったか)。

「十二世紀は、単に学問の分野で復活の時代だったにとどまらず、制度の分野、とりわけ高等教育制度の分野でも、新たな創造の時代だった・はじめは修道院付属学校と司教座聖堂付属学校、終わりになって最初の大学が登場するわけで、高度の学問を制度化した時代、少なくとも制度化の動きを定めた時代だと言うことができよう。一一〇〇年にはまだ「教師が学校に先行する」が、一二〇〇年になると「学校が教師に先行する」。同時に言えるのは、その間の百年は、まさしく学問が復興したというその事実によって、一歩進んだ学校を作り出したということである。十一世紀の末には、学問は七自由学芸という伝統的なカリキュラムの枠の中に、ほぼ完全におさめられていた。十二世紀は、三学芸と四学芸を新論理学、新数学、新天文学で充実させるとともに、法学、医学、それに神学という専門の学部を生み出した。それまで大学は存在しなかった。存在してもおかしくないだけの学問が西ヨーロッパになかったからである。この時代の知識の膨張とともに、自然に大学も生まれることになった。知的な革新と制度上の核心が相携えて進行した。」347頁
「もともと大学(universitas)という言葉は、広く組合、あるいはギルドを意味するもので、中世にはこういう共同体がたくさんあった。それが次第に限定されて、やがて「教師と学生の学問的な共同体ないしは組合」だけを指すようになった。これは大学の定義としてはいちばん最初にあらわれた、しかも最善の定義と言うことができる。このような一般的な意味からすれば、同じ町にいろいろなギルドがあるのと同じく、いくつかの大学(universitas)があってもかまわないわけで、法律や医学などその一つ一つの大学は自分たちの共同体を大切に守り、いくつかの専門学部を擁する単一の大学に合体する段にはなかなかならなかった。」348頁

C.H.ハスキンズ『十二世紀のルネサンス―ヨーロッパの目覚め』別宮貞徳・朝倉文市訳、講談社学術文庫、2017年<1989年

【要約と感想】伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』

【要約】ヨーロッパの近代はいわゆるルネサンス(16世紀)後に急に始まったわけではありません。西欧の転換点として決定的に重要な時期は12世紀です。しかも、ビザンツ帝国やイスラム教から刺激と影響を受けたことが極めて重要です。西欧から失われた古代ギリシアの知恵は、キリスト教異端(ネストリウス派と単性論)によって東方ビザンツ帝国やイスラム世界に伝わり、シリア語やアラビア語への翻訳を通じて保存され、さらにイスラム学者達が発展させていきました。ただの辺境にすぎなかったヨーロッパは、12世紀になってから、イスラム世界で発展していた科学的精神をラテン語に翻訳して受け容れることで大きな飛躍を遂げ、近代に繋がっていくことになります。

【感想】とてもおもしろかった。勉強になった。個人的には、長いあいだ謎だったミッシングリンクをぴったり埋めてくれるような、知的爽快感がある良い本だった。「12世紀ルネサンス」という言葉そのものは各方面から様々な形で聞いてはいて、概要くらいは小耳に挟んでいたのだが、改めて自分事として革新的な意義がよく分かった。というのは、私の興味関心に直接応えてくれるような知識だったからだ。

【研究のための備忘録】三位一体
 キリスト教神学の奥義とされる「三位一体」を一笑に付しているのは、爽快感がある。私としても三位一体論は破綻しているようにしか見えないが、他の学者もそう思っているのだと分かると安心する。

「「三位一体」というのは、どうなのでしょう。私なども、キリスト教神学のなかで、これが一番わかりにくい。どうして父と子と聖霊が一体になっているのか、特に父と息子がひとつになったりするのか、一番わかりにくい。だから、キリストを神ではなく預言者であるとするイスラムの考えのほうが筋が通るのではないかなどと思ってしまうのですが。」pp.68-69
「それでは正統は何かといえば、それは神と人と聖霊との三位一体を認める立場です。前講でいったように三位一体というのはなかなかわかりにくい教義です。アウグスティヌスが論じたり、他にもいろいろな神学者が一生懸命弁じていますが、我々にとってはなかなかわかりにくい。むしろネストリオス派とか、単性論者のほうが、ある意味で割り切っていて話の辻褄が合うわけです。」p.134

 で、カトリックに異端と決めつけられてビザンツ帝国から追放されたネストリウス派と単性論者が東(シリアとペルシア)に向かい、そこで古代ギリシアの知恵が生き残るというのが趣深い。だからいわゆるルネサンス(復興)と言った時、実は何が本当に復興したのかというと、もう紛う方なき「異端」なのだ。ルネサンスとは、「異端の異端による復興」だ。キリスト教が批判して止まなかった多神教古代ギリシアの世界が育んだ科学的な知恵が、カトリックに排除されたネストリウス派や単性論者によって保存され、カトリックを批判する人文主義者たちによって西欧にもたらされる。追い出したはずの異端が西ヨーロッパに逆流してきたのがルネサンスということになれば、自分たちの方から排除したヨーロッパは本来なら神妙な顔をして受け容れなければいけないはずで、「これが俺たちの原点だ」などとデカい顔をする権利はない。というか、もともとローマ・カトリック(ラテン語)の世界にはそういう合理的精神が息づいていなかったのだから、実ははじめから「原点」なんかではなく、「復興」と呼ぶのもおこがましい態度なのかもしれない。本当は単に「外国から学んだ」と言えばいいだけの話に過ぎないのに、そのオリジナルを自分たちのものだと言い張るのは、端的に言って傲慢な態度だ。「ルネサンス」とは、その言葉自体からして西欧史の隠蔽と捏造を試みたものである疑いが強い。
 ということで、個人的にはかねてから「ルネサンスの経緯がわかりにくいなあ」と思ったいたのだが、歴史が捏造されていたのだとすれば、私がわからないのも当たり前だ。私がミッシングリンクだと思っていたものは、私が見失っていたのではなく、実は最初からなかったのだ。ルネサンスが「復興」などではなく「異端からの輸入」だったという事情が分かれば、極めてすっきりと流れを理解できる。この「異端からの輸入」という事実を隠蔽して辻褄を合わせようとするから、ルネサンスの説明が変なことになる。

【研究のための備忘録】ダンテやペトラルカはルネサンスなのか。
 そして図らずも、知りたいと思っていたルネサンス問題に直接切り込んでくる文章があった。ありがたい。ここでもミッシングリンクがイスラム世界であったことが明らかになる。

「十一世紀に頂点に達したイスラムにおける愛の伝統がトゥルバドゥールの発生を刺激したことは疑いえないと思われます。」p.283
「トゥルバドゥールがアラビアの影響を受けたと言われるのは(中略)さらに内容の上で両者ともに官能的な恋愛を歌うこと、そして恋人を守るために自分の身を犠牲にする男性の心情を歌うことも共通しています。(中略)このロマンティック・ラブの理想が、西欧に初めて生じたのは、十二世紀のラングドックやプロヴァンスの地であったわけですが、それが十三世紀に北方に移ってトゥルヴェールになり、さらにドイツへ行きますとミンネジンガーになります。これが十四世紀にイタリアに伝わるとダンテ耶ペトラルカを含む清新体の詩というものを生み出します。」p.267
「トゥルバドゥールの愛は、さらにイスラム神秘主義の変容を経て、十四世紀にイタリア「清新体」の詩人に引きつがれ、古典主義やキリスト教をも打って一丸とし、ダンテとペトラルカに最も完成された姿を現したといってよいでしょう。」p.268

 まあ、なるほどだ。高校の世界史レベルの教科書では、ルネサンスを扱うところで何の脈絡もなくいきなりダンテやペトラルカが登場して、なんでこの時代のこの地域に新しい思想が現れたのか理由がサッパリ分からないわけだが、辻褄が合わないまま話が先に進んでしまう。しかし「実はイスラム世界の影響だったんだよ」と言われれば、いきなり視界がクリアになる。クリアになった目で歴史の流れを見てみれば、ダンテやペトラルカは、いわゆるルネサンスなんかではない。それは明らかに、中世に属する事象だ。11世紀イスラム世界から12世紀ルネサンスを経て13・14世紀に至る、一連の中世的な文脈の末期に見られる事象だ。だから、15世紀のいわゆる教科書的なルネサンスと、ダンテやペトラルカの活動は、別の文脈にある事象だ。そしてダンテやペトラルカをイスラム世界の影響から切り離して「西欧固有のルネサンス」なる文脈で語られるのは、ただただ西欧人が歴史を隠蔽・捏造して辻褄を合わせようとしただけのことだ。カラクリがよく分かった。
 ルネサンスという言葉は、やはりそれを人文主義的な動向に及ぼして使用するのは好ましくない。もともとの意味通り、ミケランジェロやラファエロなど芸術方面に限って使用するべきだろう。そして仮に敢えて人文主義的な動向に及ぼそうとするのであれば、「自分たちが追い出した異端が保存してくれた知識をイスラム世界から教えを請うて学んだ12世紀ルネサンス」という理解の下で使用した上で、従来ルネサンスと呼ばれてきた15世紀以降のたとえばエラスムスなど人文主義者の仕事については改めて「印刷術」との関係で理解するべきということになるだろう。そしてこの時点で、破綻している「三位一体」の論理は問題にもならなくなる。

【研究のための備忘録】人格
 さてそこで気になるのが、「人格」という言葉の変化だ。ラテン語のpersonaは、周知の通りキリスト教の奥義「三位一体」を語る上で極めて重要な言葉だったのだが、その大本である三位一体が破綻していたということになれば、perosnaという言葉は理論体系から放り出されて宙に浮いてしまう。この宙に浮いたpersonaという言葉がどういう経緯で近代の「人格」という言葉に着地していくのか。このあたりは極めて不可解なミッシングリンクだったのだが、ヒントは12世紀ルネサンスにあるのかもしれないと思った。三位一体の正統教義から排除された異端が「復興」と称して西欧に戻ってきた際に、三位一体の呪縛から解き放たれたpersonaという言葉が改めてどう理解されるか、ということである。もちろんそういう話は本書には出てこない。

伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』講談社学術文庫、2006年<1993年

【要約と感想】清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』

【要約】本書で言う「中世」とは12~15世紀の盛期中世を指し、「イタリアの都市」とは主にヴェネチア・ジェノヴァ・ピサなどの港湾商業都市を指し、ローマやミラノなど古くからの政治都市は対象としていません。
 これまでの都市研究は、フランドルや北ドイツの都市については近代的市民社会に直結する重要な役割を果たしたと評価する一方、イタリア諸都市については豪族・領主層や特権階級の影響力が大きいとみなされ、軽んじられていました。しかしイタリア諸都市の公証人の活動や都市周辺農村との関係を具体的に調べてみると、北欧と南欧の違いは明確には認められません。

【図らずも知った知識】1492年以降大航海時代の新航路開拓によって東南アジアからヨーロッパに香辛料が直接運ばれるようになり、一般的には地中海貿易は衰退したとイメージされているが、実際にはインド→イスラム→イタリアの交易ルートはしぶとく生き残り、そんなにすぐには衰退していない。

【感想】関心があったのは、フィレンツェなど北イタリア諸都市でどうして「ルネサンス」が盛り上がったかということで、本書はまさにその時代をドンピシャで対象にしているにも関わらず、ルネサンスについてはほとんど語っていない。まあ、ちゃんとした西洋史学とはそういうものなのだろう。
 とはいえ、関心に直接応えてくれる記述がたくさんあった。ダンテとかペトラルカとかボッカッチョなどが俗語(トスカーナ語)による文筆活動を成立させるためには、どうしても背後に広範な識字階層が必要になる。読者が存在していないところで、執筆ができるわけがない。で、フィレンツェにおける識字階層は、単純に考えれば、ヨーロッパを股にかけて活動していた商人たちとしか思えない。当時一般的に識字力があったのはキリスト教のお坊さんたちくらいなものだが、彼らはラテン語を用いて俗語は扱わないはずだし、ダンテやボッカッチョのようなキリスト教を批判したり揶揄したりする本を好んで読むとも思えない。ダンテやボッカッチョの読者は、商人たちだったと考えてよいと思う。で、本書はその仮説を傍証してくれるように、フィレンツェにおいて多くの公証人が活動していたことを記している。インドからの香辛料貿易や、イングランドに至るまでの羊毛・毛織物貿易を行うとなれば、どうしても記録類の作成や情報の伝達と共有のために文字を使いこなす必要がある。公証人が作成した公文書には保存義務があって後世まで残りやすく、かつての商業活動に際して文字がどのように活用されたか、一端を垣間見せてくれるわけだ。

【研究のための備忘録】教育
 で、教育に関して直接言及があったのでメモしておく。

「十三世紀から十四世紀にかけて公証人層の急速な増大が見られるが、その準備教育は、各地に多数存在した公証人学校において行われた。これは、多くの場合、小規模な私塾的な教育機関であって、大学ではなかった。中世イタリアの主要都市のうち、公証人に大学教育を義務づけている唯一の都市はボローニャであるが、これも、著名な法学部での勉強を要求しているのではない。むしろ、その母体となったと考えられる七自由学科(とくに修辞学、文法)の学校での勉強が必要だったのである。」
「十四世紀イタリアの大都市においては、中・上層市民における教育のレヴェルは、われわれの想像以上に高いものであった。」
「商人の子弟は、五、六歳で学校(私塾)に入り、五年間ほど勉強したのち、算術学校で二年半ないし三年の課程をおさめ、この後ラテン語学校に学び、さらに公証人のもとで修行するわけである。したがって、公証人になるにはかなり長期の準備教育が必要であった。ラテン語および修辞学がその教養の基礎になっていたのであるから、たとえばコルッチオ・サルターティのようなルネサンスを代表する人文主義者が公証人の中から生まれて来るのも不思議はないであろう。」129-130頁

 まず当たり前であるが、「公教育」という観点がまったくないことが分かる。教育とは徹底的に私事に属するものであって、市政当局が関わるべき仕事ではない。そして初等教育を扱う寺子屋のような施設があり、中等職業教育を行う私塾があり、高等教育を行う大学(七自由学科だから教養学部のようなもの)という段階もあったのだろう。それら教育機関は、もちろん商業に携わるための実務的な関心から作られて発展してきたわけだが、付随的に人文主義を支える教養の土台となり、ダンテやボッカッチョの読者層を送り出していったということだろう。
 そう考えると、やはりイタリアのルネサンスは、商業活動がまず背景にあって、それに付随して行われた識字教育が前提となり、広範な読者層を得て浮上してきたと考えるべきところになる。これはラテン語をベースとしてイスラム経由でアリストテレスに触れて活発化したスコラ学者たちの活動(十二世紀ルネサンス)とは根本的に異なる性格を持っていると理解するべきだろう。この2つ(ラテン語べースの十二世紀スコラ・ルネサンスと、俗語ベースの十四世紀イタリア・ルネサンス)の交差するところは、やはり15世紀半ばの印刷術発明ということになるのではないか。(十三世紀の大学という場だったという仮説も侮れないが)。印刷術の発明によって「本屋」という商売が歴史上初めて成立し、その本屋という空間にアリストテレスの哲学書とボッカッチョの艶笑譚(あるいはもっと酷いゴシップ誌)が並んで置かれるという従来はあり得なかった現象が発生して、そこで初めていわゆるルネサンスという空気が立ち上がってくるのではないか。

清水廣一郎『中世イタリアの都市と商人』講談社学術文庫、2021年<1989年