「中世」タグアーカイブ

【要約と感想】新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』

【要約】現代の後知恵はオスマン帝国を非キリスト教・非ヨーロッパの東方専制国家として扱いますが、実際の歴史過程を見てみると、オスマン帝国はキリスト教徒も人材として有効に活用しながらローマ帝国の後継を自認して地中海で勢力を維持する一方、ヨーロッパ諸国(特にハプスブルクを牽制するフランス王家)はオスマン帝国と手を結びながら勢力を伸ばそうと試みており、単純にキリスト教とイスラム教が対立していたと考えてはいけません。オスマンはイスラム教で統一されていたわけではなく、様々な民族や宗教や立場が渾然となりながらも、人材登用や土地経済の制度等で統一が保たれていた帝国です。だからこそイスラム教の立場が強くなり始めると、むしろ従来の寛容な人材登用や土地経済制度が機能しなくなり、力が弱くなっていきます。近代ヨーロッパの形成を考える上では、寛容と規律の精神で強力な統一国家を作り上げたオスマン帝国のインパクトを無視できません。

【感想】歴史を遡って国と「国でないもの」の間に境界線を引こうとするとき、たとえば中国にとって戦国時代の秦は境界線の内であるのに対し、匈奴は境界線の外だ。春秋時代の呉や越は境界線の内であるのに対し、三国時代の南蛮は境界線の外だ。しかしおそらく紛争の真っ最中にこういう境界線が明確に引かれていたのではなく、もともとは緩やかなグラデーションだったものが、後に歴史書を編纂する過程で徐々に細部が忘れられ、大雑把な二分化が進行し、境界線が固定されていったのだろう。
 ヨーロッパにとってのオスマン帝国もそういうものなのだろうが、中国史と決定的に異なるのはビザンツ帝国の存在だ。ローマ帝国の正統な後継として、西ローマ帝国滅亡後も約千年間存続した東ローマ帝国→ビザンツ帝国は、同時代のヨーロッパ(あるいはそれを束ねるローマ教会)にとっては極めて厄介な存在だった。このカトリックにとって厄介で目障りな存在だったビザンツ帝国を滅ぼしてしまった(1453年)のが、オスマン帝国にとっては結果的によくなかったような気がする。オスマン帝国はコンスタンティノープルを掌握したことで「ローマ帝国の正統な後継」を自認し、実際に地中海への進出を目論むようになった一方、厄介なグラデーション地帯だったビザンツ帝国が滅んだことでオスマン帝国から剥き出しの圧力を受けるようになったヨーロッパのほうは、かえって曖昧なグラデーションではなく明確な境界線を引っ張って、オスマン帝国を「外」として認識する地政学、そして旧ビザンツ=東ローマ=ギリシアを内として認識する歴史認識が成立したのではないか。だとすれば、ルネサンスとは西欧が忘れていたギリシアを「取り戻した」のではなく、実際にはもともと西洋ではなかったもの(ビザンツ=東ローマ)を境界線の内側に簒奪するムーブメントで、それはオスマン帝国という「明らかな外側」を設定することで初めて成立するものではないか。
 ということを考える上でも、後知恵からは「境界線の外側」に設定されているオスマン帝国について、歴史過程に基づいて境界線が曖昧なまま把握しようとする本書は、とても刺激的なインスピレーションを与えてくれるのであった。

【知りたくて書いてあったこと】遅れたヨーロッパ
 中世までのヨーロッパが世界的に後進地域だったことは周知の常識ではあるが、周知の常識過ぎて引用できる文章はそんなになかったりする。本書にはしっかり「文化果つる地」と書いてあった。ありがたい。

「たしかにビザンツによって東地中海の拠点奪回は緊要だったから、各地で戦闘が繰り返されていた。しかし、そうした軍事的・政治的対立が、経済や文化の交流を完全に遮断することにはならなかった。したがって商人たちの活動は絶えることなく続いたが、ただしイスラム勢力にとって、東地中海からさらに西に向かう公益は、魅力に乏しいものだった。そのため、この方面での公益活動は、もっぱらユダヤ系やアルメニア系の商人が担うことになった。
 一方西ヨーロッパは、イスラム勢力の進出以降、地中海地方から自らを隔絶させ、内陸化することによって独自の世界を形成し始める。文明の中心を離れた彼等にとって、地中海はもはや「異域」であって、彼らがこの地域へ乗り出してくるには一一世紀後半を待たねばならない。そして、この「文化果つる地」西ヨーロッパと地中海地方とを結ぶ上で重要な役割を果たし始めたのが、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの商人たちだった。」122頁

 イスラム・ビザンツ・ユダヤ・アルメニア・イタリアの商人たちの活動商圏についても簡潔にまとまっている。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスは、言葉そのものが西欧視点のものであるため、もちろん西欧史の文脈でのみ語られる。そして実態は語義通りの「復活」なんてものではなく、輸入と言った方が正確だろう。西欧のガリアやゲルマンには、ローマはともかくとして、ギリシアの伝統があるはずがない。ギリシア文化は、ビザンツから輸入して学びとっている。復活ではない。ルネサンスとは、西欧がギリシア文化を簒奪し僭称するために捏造した概念だ。そういう事情は、イスラム側から見ればさらにはっきりする。

「コンスタンティノープル陥落によって、文人、芸術家の多くがイタリアへ避難し、それによってルネサンスが開花したと、ほとんど決まり文句のように言われてきたが、多くの芸術家やユマニストが――「トルコの征服者」に関する、さまざまなまがまがしい噂が流布していたにもかかわらず――コンスタンティノープルを訪れようと望み、そして実際にイタリアからオスマンへの人の流れが存在していたことを指摘するのも、公平を図る上で無意味ではあるまい。」110頁

 ビザンツ=ギリシア正教が必ずしも西欧=カトリックと結びついていたわけではなく、オスマン=イスラムとも容易に結びついていたことを思い起こさせる、大切な指摘だと思う。

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社学術文庫、2021年<2002年

【要約と感想】トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』

【要約】西郷隆盛「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして修道士の大業は成し得られぬなり。」
玉川カルテット「金もいらなきゃ女もいらぬ、あたしゃも少し愛が欲しい。」

【感想】世界中で聖書に次いでよく読まれた本という謳い文句で知られている本だが、確かに内容は分かりやすく、具体的な指針が明確で、人々の需要に応えたのもナルホドというところだ。言いたいことは非常にシンプルで、「世俗的な価値にこだわるな」ということに限る。だが、この実践が極めて難しい。本当に幸せになりたいのであれば、金や名誉に執着するな、食欲や性欲をコントロールせよ、という理屈は頭の中では分かるとしても、実際に行動に移すのは並みの人間では無理だ。だから「神の恩寵」に縋るしかないわけだが。
 また、現代的価値と決定的に異なるのは、自己肯定感を徹底的に挫こうとしているところだ。が、本書にとってみれば自己肯定感こそが最大の堕落の原因であり、悪魔の誘惑の根本なので、繰り返し繰り返し、徹底的に、執拗に、挫こうと試みることになる。まあ本書が修道士向けに書かれたものであって、世俗信者向けにメッセージを発したものではないだろうことを念頭に置けば、こういう姿勢にもそんなに違和感を持つ必要はないのだろう。(逆に言えば、こういう出家者に対する行動規範を世俗信者にまで求めるようになるとカルトになってしまうのだろう)
 で、それ故にというか、一本気な神に関する記述はともかくとして、糾弾の対象である世俗的な悪に対する描写は極めて精彩に富んでいて、おもしろい。人間的な自然から生じる悪の数々を微に入り細を穿って懇切丁寧に描写するのだが、これがたいへんな迫力だ。正義は一つだが、悪は多様だ、というところか。世俗的な快楽に流れようとする人間性の本質というものが、現代も中世ヨーロッパもまったく変わらないことがよく分かるのだった。

【個人的な研究のための備忘録】反知性主義
 本書の特徴の一つは、「反知性主義」的なメッセージを執拗に繰り返し発しているところだ。

「人間はみな生まれながらを望みもとめる。けれども神を畏れることのない知識が何の役に立とうか。まことに、神に仕える卑しい田舎の男は、自身をゆるがせにして天体の動きを測る傲慢な哲学者に優るのである。」第1巻第2章1
「つつましくわずかな理知によって、少しばかりの知恵をもつ方が、大そうな知識の宝庫を、空しい自惚れと共にもつよりまさっている。」第3巻第7章3
「神によって光を与えられた信心ふかい者の知恵と、学問のある篤学な聖職者の知識には、大した違いがあります。天上からの尊い御力より流れ出る教えは、人間の才能で骨を折って獲られる教説よりも、ずっと貴いものです。」第3巻第31章2
「お前がいろんな本を読んでたくさん知識を積んでいても、いつも唯一の根本原理に立ち帰らねばならない。人間に知識を与えるのは私だ、ということ、そして私が小さい者どもにわかち与える知恵は、人間の教えるところよりも、ずっとはっきりしたものだということを。」第3巻第43章1
「わが子よ、多くのことにおいてお前は無知なのがよい」第3巻第44章1
「お前に要求されているのは、信仰と真率な生活であって、理知の高遠さとか、神の玄義についての深い知識ではない。」第4巻第18章2

 人間の持つ「知識」などは大したことがなく、神の恩寵に由来する「知恵」こそが重要だというメッセージだ。近代的な価値観から見れば、とうてい受け容れることができない戯れ言ではある。完全に中世だ。
 問題はこの反知性主義の射程距離だ。少なくともルネサンス期のエラスムス『痴愚神礼讃』には明らかにこの反知性主義の反映が見られるし(そして初期人文主義者ペトラルカ『無知について』を想起してもよい)、啓蒙期ルソー『エミール』の自然主義教育(消極教育)や、啓蒙主義に反発したロマン主義の流れも同じベクトルの延長線上にあると考えてよいか。この反知性主義的な傾向を、どう思想史に位置づけるべきか。
 そして現代に至っても、カルト系キリスト教団体の教義の核心にはこの反知性主義が居座っており、それは信者から健全な批判能力を奪う結果に陥っているように見える。この反知性主義を、我々は実践的にどう扱うべきなのか。

【個人的な研究のための備忘録】わたしらしいわたし
 「わたしがわたし」というアイデンティティの思想は、もちろんプラトンから始まって古代ストア派哲学を経由し、キリスト教神秘主義にも見られる考え方だ。ご多分に漏れず、本書にも見られたのでメモしておく。

「人が自分と一つになり、内において単純となるにつれ、彼はいよいよ苦労なしにいっそう多くのさらに高いことを悟るようになる。」第1巻第3章3
「世の賞讃を博したからといって、それでいっそう聖人になるわけではなく、悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に出ることはできない。」第2巻第6章3

 こういう「誰から褒められようがけなされようが、わたしがわたしであることに対しては何の影響も与えない。気にするな。」という考え方は、古代ストア派もしばしば表明するテーゼだが、SNS時代の現代にも非常に良くマッチする。逆に言えば、人から何か言われるてクヨクヨするのは、SNS時代の現代文化に特有の現象ではなく、2000年前から続く人間の本質に根ざした何かだということだ。

【個人的な研究のための備忘録】人性(human nature)
 いつの世も変わらない人間の本性について執拗に記述しているのが興味深い。

「十字架を担い、十字架を愛し、身体を責め苛み、苦役に服させ、名誉を遁れ、侮辱を喜んで堪え忍び、自分自身を蔑み、人にも蔑まれるのを願い、あらゆる不幸を損失と共に忍びとおし、何の仕合わせもこの世では乞い求めないというのは、人性のままではない。」第2巻第12章9

 日本語で「人性」となっている言葉は、英語ではhuman natureだが、原文ではどうなっているのか。ともかく、人間というものが何かと快楽と名誉を欲し、苦役を避けて怠けたがることを、畳みかけるように表現している。そしてその「人間としての自然」を徹底的に打ち砕くことが、本書の目的だ。

「自分を愛することは、この世の他のどんな物事よりも、身を害なうものだ、ということをわきまえなさい。」第3巻第27章1
「人間の本当の霊における向上は、されば、我、すなわち自己、を否定し去ることにある。そして、自己を否定した人間は、全く自由であり、安固である。」第3巻第39章4
「完全な勝利とは自分自身に打ち克つことである。というのは、自身をいつも服従させておき、こうして官能を理性に従わせ、理性を万事につけて私に従うようにする者こそ、まことに自己に打ち克った者、この世界を支配する者なのだ。」第3巻第53章2
自己を内に捨てるというのが、すなわち神に結ばれることなのである。」第3巻第56章1

 特に「自己愛」とか「自尊感情」というものを徹底的に挫くことを目指している。現代的感覚からは信じられない。が、この自己否定のポイントは「自己を内に捨てる」というところなのだろう。外に捨てるのではなく、内に捨てるという感覚を掴めるかどうかだ。自己を内に捨てると、無限後退のプロセスに陥り、特異点が発生する。そしてこの特異点が果たして弁証法的なプロセスを経て近代的自我というものに繋がってくるのかどうかは気になるところだ。

【個人的な研究のための備忘録】持ち味と個性
 人それぞれ個性を持っているという描写があったので、メモしておく。ただもちろん「個性」本来の概念を示したものではなく、人それぞれに持ち味があるという以上の表明ではない。この程度なら日本の戦国時代に織田信長や武田信玄も言っている。こういう意味での「個性」の把握と理解は、特に近代的な思考枠組みがなくても十分に可能だ、ということの証拠である。

「誰も彼もが、みな一つの勤めをおこなうことはできない。ある人々にはこれ、他の人々にはそれが、いっそう適するというものだ。さらにまた、それぞれの時季に応じて、それに従い、あれやこれやの勤めが適当しよう。」第1巻第19章5

トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、1960年

【要約と感想】ホイジンガ『中世の秋』

【要約】14世紀~15世紀のブルゴーニュ公国(現在のオランダとフランス東部)を主な対象とした歴史書です。この14~15世紀をルネサンス期と見なす人たちがいますが、実際には何もかもが中世、しかも爛熟期(だから秋)だということを明らかにします。
 中世思考の特徴とは、アレゴリー(擬人化)と過度の一般化・普遍化志向です。極端から極端へと激しく揺れ動く感情を枠に押し込む「形式」こそが決定的に意味を持った時代です。現実の経験から帰納的な論理を導き出す科学的な志向など一切なく、すべてが想像上の形式的な図式に当てはめられて解釈されます。それに伴って、生活の隅々まで騎士道精神と宗教的な形式で埋め尽くされます。ブルゴーニュ公国は騎士道精神を土台としたド派手な宮廷文化で彩られる一方、静謐で敬虔な「新しい信仰」も芽生えていますが、精神的な根は共通しています。
 しかし中世後期には生活全体が新しい「調子」に変わる兆しが見え始めます。古典主義には実は近代に向かう要因はなく、むしろ無為自然な感情に任せた表現にもっとも近代への可能性が見られます。もう少しでルネサンスです。

【感想】原著出版が1919年ということで、さすがに具体的なところはいろいろと古い。しかし中世とルネサンスの関係に対する本質的な理解が、この100年でどれほど進歩したというのか。ホイジンガ手前のブルクハルトの見解が、未だに教科書的な理解となっていないか。「ルネサンス」という概念を相対化する上では、本書はまだ現実的な力を持っているように思う。
 しかし個人的な不満として、経済史的な条件を一顧だにしていないところは挙げておきたい。まあ著者自身もその程度のことには自覚的で、本書内で「形式/内容」を峻別するんだという方向で繰り返し言い訳をしている。ここで著者の言う「内容」の中に、具体的には経済史的な条件が含まれている。この「内容」を切り捨てて、本書はもっぱら「形式」の叙述に集中する。この場合の「形式」とは、生活の現実を解釈し表現する、騎士道精神とキリスト教に彩られた思考様式のことだ。まあ、言いたいことは分からなくもない。確かに、14世紀~15世紀の生活を彩る「形式」は、宗教にしろ騎士道精神にしろ、中世そのままの様式を貫いて、むしろ深めている。しかしだからこそ個人的には、経済的な発展を背景にした「内容」が与えたインパクトがよりいっそう気になる。「形式と内容」のズレやギャップというものこそ、歴史を動かすエネルギーになるはずだろうと思うからだ。14世紀~15世紀のフランドルが羊毛加工と流通によって経済的に隆盛していたことはハンザ同盟の活動等から周知の事実であり、その商品経済世界を背景にして現世重視の唯物主義思考が発達するだろうことは容易に想像できるところだ。内容(つまり衣食住の唯物的基礎)が根底から商品経済によって規定されている以上、形式(いわゆる中世的な生活の調子)が影響を受けないわけがない。ホイジンガの言う近代へ向けての「内容(つまり経済史的条件)」のほうは、もう十分に整っていたはずだ。しかしホイジンガは「内容」は扱わないと宣言したうえで、もっぱら「形式」のみを対象として記述を進めた。
 ここまでくると、ホイジンガが徹底的に「内容」を排除して「形式」から歴史記述を行なったのは、当時勃興しつつあったであろう唯物主義史観に対する貴族主義的な反抗だったのではないか、と想像してしまう。それはなんとなく、ヴェーバーに対するゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』の関係にも似ているような感じがする。
 ともあれ結局、実際に中世を終わらせて近代を準備したのは、高踏的なペトラルカやダンテの人文主義でもなく、反動的(自由意志を認めないという意味で)な宗教改革でもなく、おそらく徹底的に唯物的な経済史的大転換であって、それは大航海時代から産業革命に至って決定的な流れになるように見える。地中海貿易を中心に経済圏が構築されていた中世の段階は北イタリア諸都市が文化をリードしていたのが、大航海時代以降はイギリスが近代化をリードする。どれだけ「形式」が貴族主義的に頑張ろうと、「内容」のほうは容赦なく現実を塗り替えていく。14世紀~15世紀のブルゴーニュ公国の「生活の調子」が本書の主張通り確かにどっぷり中世に浸かっていたとして、でもそれは単に大航海時代と印刷術発明の前だったからかろうじて成り立っていた、ということでファイナルアンサーにならないのか。
 まあこのあたりは私が指摘するまでもなく、アナール学派あたりがもの凄い勢いで展開しているところではある。だから逆にそういう歴史学の発展を踏まえて冷静になってみると、現代にまで語り継がれて読む価値があると認められている本書の凄さというものも、改めて認識せざるを得ない。確かに、おもしろく読んだのだった。

【今後の研究のための備忘録】マルクス主義からの距離
 おそらく当時勃興しつつあった唯物主義史観に対してホイジンガが意図的に距離を取ったような記述をメモしておく。

「それは党派の感情であり、国家意識ではない。後期中世は、大きな党派争いの時代であった。(中略)党派対立の様相を、近ごろの歴史研究のやりかたで、政治、経済上の諸要因から解明しようとしても、どうもうまくいかない。(中略)よく経済利害の対立が党派対立の基礎とされるが、それは、通例、図式にすぎず、資料にその根拠をよみとることは、どうしてもできないのである。」上巻36頁

 経済理解の対立を党派対立の基礎と見なす考え方は、たとえば日本史で言えば、幕末史において坂本龍馬や西郷隆盛などの下級武士を新興ブルジョワジーに見立てて、旧来の土地支配にしがみつく上級武士に対抗させる立場がある。実際、勝海舟や坂本龍馬のような金に汚い「商魂」を見ると、そう考えたくなる気持ちも良く分かる。またたとえば南北朝対立の理解においても、楠木正成のような「悪党」の興隆を商品経済の広がりから説明したり、南朝を支えた人々を狩猟採集経済の集団と捉えて農村経済に基盤を持つ北朝との違いを強調する立場がある。
 本書が議論の対象としている西洋15世紀については、もちろん北イタリア諸都市の羊毛産業を背景とした資本主義的発達段階が大きな論点となる。しかしホイジンガは、資料からよみとることはできないとして、経済史的な視点を切って捨てる。集団間の争いは経済的な立場の違いから生じるのではなく、「党派」の間の憎しみと報復の連鎖から生じるという。実際のところ、確かにそうかもしれない。日本史でも、平安末期の源氏と平氏の争いは、少なくとも平治保元の乱の段階では単に党派的なものに見える。南北朝の争いの基礎を経済利害の対立に見ようとするのは、さすがにやりすぎな感じもする。しかしとはいえ、鎌倉幕府成立の段階に至ると経済史的なものの見方(具体的には京都とは異なる東国独自の土地制度に立脚した政治体制の確立)をしたくなる誘惑に駆られるのと同様、中世末期西欧においても、たとえば仮にゲルフ党とギベリン党の間の争いには単なる党派性を見るとしても、宗教改革の段階になるとヴェーバーよろしく経済史的なものの見方(新興ブルジョワジーの立場の反映)をしたくなってくるのであった。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンス概念への批判
 本書では、全編を通じて、主にブルクハルトとその追従者のルネサンス概念に対する批判が繰り返される。具体的には、14世紀~15世紀の諸事象を近代から中世の方に引き寄せようという意図で以て、中世とルネサンスの境界線よりもルネサンスと近代の境界線のほうが決定的だと主張する。

「ひとたび、積極的な世界改良への道が切りひらかれるとき、新しい時代がはじまり、生への不安は、勇気と希望とに席をゆずる。この意識がもたらされるのは、やっと十八世紀にはいってのことである。ルネサンスは、まだこの意識を知らず、そのおうせいな生の肯定は、さまざまな欲望充実のうちからひきだされていたにすぎない。まず、十八世紀が、人間と社会の完成という考えを、時代の基本ドグマにまで高めた。その考えの素朴さは、続く世紀の経済、社会の志向にはみられない。」上巻69-70頁
「生活の美についての考えかたには、ルネサンスと、それよりも新しい時代とのあいだにこそ、大きなへだたりがある。潮の変わり目は、生活と芸術とが分離するときである。」上巻73頁

 このあたりは、近年においてもアナール派のジャック・ル=ゴフが繰り返し表明している考えに似ているようにも思う。
 また、後にルネサンスに見られるような諸要素が、既に中世末期に豊富に見られることを繰り返し主張する。

「このように、はっきりと意識された生活芸術、ぎこちなく素朴なかたちをとってはいるが、これは、はっきりいって、完全にルネサンスである。シャトランのいう、シャルル突進候の「なにか人並みはずれたことをやって、ひとに注目されたいと願う心のはなやかさ」、それは、ブルクハルトのいうルネサンス人の、もっともきわだった特徴なのである。」上巻79頁
「シャルル突進候のケースは、ルネサンス精神、つまり、古代のイメージにあわせて美しい生活を追い求める心が、直接、騎士道理想に根ざすものであることを示すに、まことにふさわしい例である。」上巻133頁
「だから、ファン・アイクの自然主義は、美術史においては、ふつう、ルネサンスを告知するひとつの徴表と考えられているのだが、むしろ、これは、末期中世の精神の完璧な開花とみてしかるべきものなのである。」下巻216-217頁

 こうして豊富な具体的事例を挙げて先行研究の不備をあげつらった上で、ルネサンスという概念そのものに疑義を呈する。

「中世とルネサンスとを截然と分けようとの試みは、これまになんどもなんどもくりかえされてきたのではあったが、しかし、そのたびごとに、いわば、その境界線は、うしろへうしろへとすさるばかりなのであった。(中略)それならば、中世とルネサンスと、このふたつを対立させて考えることは、もうやめたらどうなのか。やはり、そうもいかないのである。(中略)だが、ともかくも、このルネサンスという概念を、できるかぎり、その初源の意味内容にまでひきもどすことが必要である。もともと、これは、中世という言葉とはちがい、ある限られた時間の区切りをさすというような性格のものではないのだ。」下巻236-237頁

 こう理論的に図式を提示した上で、返す刀で具体的にイタリアを腐す。イタリアをサゲようと思ったら、実はルネサンス概念を攻撃するのがよい。

「イタリア十五世紀の文化は、他の地域における中世末期の生活にひきくらべて、一見、輝かしい対照をみせている。だから、おおかたの人は、これを観察して、均整、歓喜、自由の文化、静穏晴朗の文化との印象をいだいた。そして、この諸特性をもって、ルネサンスの味わいとし、さらには、新しい時代、近代の到来を告げる指標とみなしさえもした。だが、これは、どうみても一方に偏したみかたであった。(中略)いわばルネサンスに対する偏愛からして、十五世紀のイタリアにあってもまた、その文化の基底には、なお、真に中世的なるものが、ぶあつく残っていたのだといゆことを、さらにいえば、ルネサンスの精神を体現しているとふつう考えられている人びとにあってさえも、その精神構造には、中世的なるもののしるしが、想像以上に深く刻みこまれていたのだということを、すっかり忘れてしまっていたのである。かくして、現在、わたしたちは、十五世紀イタリアに対して、いわば完全にルネサンス調のイメージをいだいているといおうか。」下巻330-331頁
「実際、わたしたちには、ペトラルカやボッカチオを、もっぱら近代の側からだけみるという傾向がありはしないか。わたしたちは、かれらを最初の革新者たちとみる。それは正しい。だが、もしこう考えるとしたら、それは正しくないのである。すなわち、だから、かれら、最初の人文主義者たちは、もともと十四世紀という時代から、すでにはみでていたのだ、と。いかに革新の息吹きがその著述に感じられようとも、やはり、かれらは、かれらの時代の文化のただなかに立っているのである。」下巻335頁
「この点で、フランスは、いわばイタリアとネーデルラントとのあいだの比例中項という役割を演じている。その言語、思想が、真正、純正の古代から遠ざかることもっともすくなかったイタリアにおいては、人文主義のスタイルは、高度な民族生活の自然の発展にさからうことなく、ごく自然に、人びとのあいだにうけいれられたのであった。(中略)イタリアの人文主義は、イタリアの民族文化の順当な成長を体現していたのであり、だからこそ、かれらが近代人の最初の典型とされるのである。」下巻342-343頁

 こうしてペトラルカやボッカッチョなどルネサンスの代表者と見なされていたイタリア人が中世人に引き寄せられるわけだが、勘ぐってみれば、それによってオランダ人である著者の民族意識を満足させるような形になっている、ような気もしなくない。そしてそれは、15世紀北イタリアの資本主義発達段階を無視するからこそ可能になる類の物言いでもあることは忘れてはならない。ホイジンガが経済史的な「内容」を無視して、言語とか民族生活という「形式」のみから論述を進めていることは、話の前提である。
 そしてさらに根底的な問題は、果たしていわゆる「人文主義」なるものが近代と順接するものなのかどうか、という問いだ。たとえば具体的には、自然科学的な観点から言えば、人文主義(特にプラトン主義)はむしろ近代的な世界の見方と矛盾しかねない。それに類することは、ホイジンガもさらっと述べている。

「だから、未来は古典主義にあったのではない、まさしく、その古典にとらわれぬところ、いわば無為自然にこそ、未来が約束されていたのである。ラテン語法をまねよう、古典をとりいれようとの努力は、むしろ阻害因としてはたらいていた。」下巻344頁

 ホイジンガは、ここでは具体的に詩を対象として議論を進めている。詩を近代的に前進させようとする時に、古典主義は役に立たないどころか、むしろ阻害要因になるという主張だ。そしてよくよく考えてみれば、後に西洋の優位性を確固たるものとする数学的自然科学の精神は、古典主義とはまったく関係がない。数式で世界を記述するという近代科学の姿勢は、人文主義からは逆立ちしても出てこない。ペトラルカやダンテの仕事は、コペルニクスやガリレオ、ましてやニュートンには結びつかない。(まあピュタゴラスに影響を受けたプラトン主義の数学重視の姿勢がどの程度影響力を持ったかは慎重に検討する価値はあるか)。

「たしかに人文主義的な諸形態をうけいれはしたものの、その実、十五世紀フランスの数すくない人文主義者たちの打ち鳴らす鐘の音は、けっして、ルネサンスを迎えいれるものではなかったのだ。かれらの心がまえ、かれらの志向は、いぜん、中世ふうのものであったのだから。生活の調子が変わるとき、はじめてルネサンスはくる。」下巻355頁

 というか、人文主義の本質そのものが世俗的な唯物論に対して反動的で貴族的だった可能性すらあるだろう。そして近代に直接繋がってくる世俗的な唯物論は、やはり商品経済の浸透による資本主義的発達段階に関わってくるのではないだろうか。だとしたら、「ルネサンスがくる」ということがどういうことか、形式をいくら分析しても理解できず、内容を精査しなければならない。

【今後の研究のための備忘録】ばら物語
 そしてルネサンス(世俗的な唯物主義としておこう)が浸透する上で、ホイジンガがエポック・メイキングな作品と見なしているのが『ばら物語』だ。

「教会用語を性的なことがらの表現に使うことは、中世においては、実にあけっぴろげに行なわれていたのである。」上巻218頁
「その完全な異教性において、『ばら物語』は、これをルネサンスへの第一歩とみなすことができる。」上巻227頁
「このにぎやかで淫蕩な中世紀の詩作のため、すすんで擁護者になろうとした人びとのサークルこそ、はじめてフランス人文主義の萌芽がみられた土壌であったのだ。」上巻231頁
「中世文化の愛欲表現の分野、真に異教の世界はここにあった。幾世紀このかた、ヴィーナスや愛の神は、ここを隠れ家とし、たんなるレトリックにはとどまらぬ讃仰の声を享受してきたのであった。」下巻353頁

 なるほど。これはしっかり読んでおく必要がある。

【今後の研究のための備忘録】キリスト教の現実
 そして中世キリスト教に対する一般民衆の態度についても、いろいろ教えられた。ルネサンス特有の現象だと思われていることが、実は中世から既に見られるという指摘だ。

「聖職者に対する潜在的な憎しみが、つねにあったのだ。」下巻9頁

 なるほど、このあたりの事実を知らないと、ダンテやボッカッチョが聖職者批判をしているのを見て彼らが何か途方もない冒険に踏み出したかのように思ってしまうわけだが、実は中世においても多くの説教師が同じように聖職者批判を繰り広げていたようだ。ダンテやボッカッチョは、聖職者批判という点では特別だったわけではなく、中世的な感覚でも彼らの仕事は可能であり、だとすれば特にルネサンスや近代の萌芽とみなす理由もなくなる。
 また、14~15世紀がむしろ宗教的に逆行的な現象を示しているともいう。

「きわだって、十五世紀は、魔女迫害の世紀であった。十五世紀といえば、ふつう、わたしたちは、ここに中世が幕をおろし、ヒューマニズムの花がよろこばしくも咲きそめた時代とみなす。だが、中世思想のおそるべき増殖現象たる魔女妄想は、まさしくこの時代にこそ、その最盛期を迎えたのである。」下巻156頁

 確かにそうだ。このあたりはギンズブルグが敷衍していくところか。

【今後の研究のための備忘録】個性とペルソナ
 本書の本筋とはズレるが、「個性」とか「ペルソナ」という言葉の周辺についてメモをしておく。

「人びとが、事象のうちにさがし求めたのは、まさに、非個性的なもの、モデルとして、標準ケースとして使えるものであった。個別的理解の欠如は、ある程度まで、故意にもとづくものであった。それは、精神の発展段階の低さを示すものではなく、普遍主義的ともいうべきものの考えかたが、人びとの心を完全に支配したことの結果なのである。」下巻95頁
「中世人の日ごろのものの考えかたは、神学の思考様式と同じであった。スコラ哲学が実念論と呼んだ構造的関連論が、やはり、その基礎になっている。あらゆる想念を、ひとつひとつきりはなし、存在としてのかたちを与え、それらを集めて、階層的システムに組みたてる。ちょうど、子供が積木で遊ぶように、宮殿や大聖堂に組みたてようとするのである。」下巻123-124頁

 唯名論とか実念論について考える時、純粋にスコラ学の問題として捉えるのと、こうやって中世一般の傾向として捉えるのとでは、まるで結論が変わってきそうだ。注意したい。
 そして本文とはまったく関係ないところで注目したいのは、教会そのものを擬人化した人物がいて、そこで「人(ペルソナ)教会」(下巻83頁)なる用語が使用していたことだ。擬人化した教会のことを「ペルソナ教会」と呼ぶのは、どうしたことか。覚えておきたい。
 またあるいは、「個性」という言葉の使い方について。

「聖者は、それぞれ、はっきりした絵姿に描かれて、じかに民衆に語りかけていた。つまり個性をもっていた。」上巻345頁

  まあおそらく正確にいうと「個性」を持っていたというよりは「キャラクター化」を施されていたということだろう。日本の七福神と同じだ。このあたりは中世とかルネサンスの話というよりは、ホイジンガが生きていた1919年段階での「個性」という言葉の具体的用法として考えるべきところになるのだろう。

【今後の研究のための備忘録】子どもに対する意識
 中世における子どもに対する意識が記述されていたので、メモしておく。

「デシャンの詩は、人生に対する、うじうじした悪口でいっぱいだ。子供をもたぬものはしあわせだ。子供なんて、しょせん、わめき声、悪臭、面倒、心労だ。着物も着せなければならぬ、靴もはかせ、食べさせもしなければならない。いつ、どっかから落ちて、けがをしないとも限らない。病気になって死ぬこともある。大きくなればなったで、悪くなり、牢屋いきということにもなりかねない。人生の重荷、悲しみでしかない。育てあげる苦労、費用がべつにむくわれるでもない。」上巻66頁

 まるで伊武雅刀「子供達を責めないで」を彷彿とさせるが、もちろんデシャンの詩のほうが500年古い。作詞の秋元康がデシャンを知っていたのかどうか。

「このように心うたれる、子供の生命を惜しむ声は、後期中世の文学からは、ほんのまれにしか、きこえてはこないのだ。重苦しくもぎこちなく、壮大なスタイルの当時の文学には、子供をいれる余地なぞ、なかったというのか。はっきりいって、子供のことは、教会文学、世俗文学を問わず、当時の文学の知るところではなかったのだ。」上巻299頁

 このあたりの事情は後にアリエス『<子供>の誕生』が敷衍することになるが、1919年の段階で既にホイジンガが気づいていたということは記憶しておいてよいのだろう。

【要約と感想】エラスムス『痴愚神礼賛』

【要約】私は痴愚神。ちなみに女神。誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒めちゃおっかな。バカ最高!
 まず覚えてほしいのは、実はみんなバカが大好きだということ。口でいくら立派なことを言おうと、行動を見ればみんなバカが好きってことは一目瞭然だし、昔の偉い人たちも口をそろえて言っています。バカ最高!
 そしてもっと重要なのは、バカなほうが幸せになれるってこと。頑張って勉強して賢くなっても、健康を損なうのが関の山です。みんなでバカになって幸せになろう!バカ最高!
 でも決定的に大切なのは、バカはキリスト教徒が目指すべき生き方だということ。だってイエス・キリスト自身がそう言ってるし、そもそもイエスその人が最高にバカだからね。イエスを見習ってみんなでバカになろう!バカ最高!

【感想】抜群のオリジナリティで類書が他に見当たらない文句なしの傑作。パリ大学神学部も怒髪天を衝くおもしろさだ。刻の試練を乗り越えて現代まで語り継がれている理由がよく分かった。
 先行研究も構成についていろいろ検討しているところだが、私は3段構えのように読んだ。第1段では、エラスムス専門の古典教養が遺憾なく発揮されて、様々な古典文献からこれでもかというほど大量に「バカ」を礼賛する章句が引用される。自由闊達で縦横無尽な引用には、圧倒されて唖然とするしかない。第2段では、現実世界の人々が実際にいかに愚かが活写される。市井の人物から王侯貴族、さらに修道士や神学者まで、めっためたに撫で切りされる。確かな社会観察眼を土台にしたテンポ良い皮肉と諧謔が酷すぎる(褒め言葉)。しかし恐ろしいのは、聖書の記述をふんだんに引用しながらキリスト教の本質に切り込んでいく第3段だ。やはり引き続きユーモアに満ちた記述ではあるのだが、いきなり本質的な問いをぶつけられて、「痴愚神って実は本当にすごいんじゃないか」と真顔に戻ってしまう。それは、「キリスト教は本質的に反知性主義ではないか」という問いだ。そしてさらに「表面的に反知性であることが真の知性」という反転を見せられると、もう恐れ入るしかない。

【今後の研究のための備忘録】子ども観
 テーマが「痴愚」である以上、「子どもの痴愚」に関しての記述がそこそこある。教育史研究者としては、当時の子ども観を伺う上で重要な証言になるので、メモしておきたい。

「わけのわからぬことを言ったり、めちゃなことを言ったりすること以外に、幼年期の特徴があるでしょうか? 右も左もわからないこと以上に、もっと大きな魅力がこの年ごろにあるでしょうか? おとなのような知恵を持った子どもなど、いやらしい化け物ではないでしょうかしら?」38頁
「クピドは、いつでも子どもでいますね。なぜでしょうか? なぜかと申しますに、ふざけまわっていて、「まじめなこと」はいっこうにやりもせず、考えもしないからです。」45頁

 この文章からは、子どもを一人の人間として見るのではなく、ただただ理性を欠きつつも微笑ましく愛くるしい生き物として捉えている中世人の姿が浮かび上がってくる。キューピッドがいつも子どもの姿で描かれることにエラスムスが言及していることは記憶しておきたい。
 本書の全体構成としては、この子どもの痴愚が「老人の痴呆」に結びついて循環思想を示しているところがおもしろかったりする。昨今流行った「老人力」を先取りしているような洒落た文章もあったりして、エラスムスは侮れない。

【今後の研究のための備忘録】消極教育
 「教育」に言及した文章も見つけた。

「ねえ皆さん、その他の動物のうちで、いちばん快適な生活をしているのは、教育などをいちばん授けられておらず、自然だけに教え導かれているようなものだとは思いませんか?」95頁

 見ようによってはルソー『エミール』を経てロマン主義的な消極教育論に流れ込んでいくような発想ではある。しかも『エミール』の論理で決定的に重要な役割を果たす「自然に教え導かれる」という発想が寸分違わず登場している。おそらくエラスムス自身は本気で消極教育を唱えているわけではなかろうが、こういう発想そのものがルネサンス期に既に見られることは記憶しておきたい。逆に言えば、ルソーはまさに痴愚神から霊感を受けたということかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】自己肯定感・自尊感情
 また昨今教育界でもてはやされている自己肯定感あるいは自尊感情について、エラスムスが「自惚れ心」という言い回しで以て痴愚の一種として描いていることは、なかなか興味深かった。

「どうでしょうか、うかがいますが、いったい、自分を憎んでいる人間は他人を愛せるものでしょうかしら? 自分といがみ合っている人間がだれかほかの人と折れ合えるものでしょうか? 自分の荷厄介になっている人間がだれかほかの人を喜ばせられるものでしょうか?」62頁

 エラスムスの言う「自惚れ心」は、なんらかの根拠があって自信を持つような社会的自尊感情ではなく、なんの根拠がなくても自信を持つような根源的自尊感情を意味している。なんの根拠もないのに自信を持つのだから、痴愚にされているわけだ。しかしこの痴愚の固まりである自尊感情を持っているからこそ、人間はなんとか生きていくことができる。こういう自尊感情の存在意義について、エラスムス以前に誰か言及しているだろうか? 少なくともストア派やエピクロス派の倫理説や、キリスト教系思想家には見あたらないように思う。個人的にはかなりのオリジナリティを感じるのだが、如何か。
 そしてエラスムスは、この「自惚れ心」をナショナリティに結びつける。

「自然はこの自惚れ心というものを、どの人間にもつけて生まれさせるわけですが、どの国民にもどこの都市にも同じくそれをつけてくれました。」123頁

 そして具体的に、イングランド、スコットランド、フランス、イタリア、ローマ、ヴェネツィア、ギリシア、トルコ、ユダヤ、イスパニア、ゲルマニアの特徴を挙げ、それぞれ無根拠に「自惚れ心」を持っていると言う。ルネサンス期のナショナリズムを考える上でも重要な証言だが、現代的には自己肯定感とか自尊感情という概念が持つ射程距離を改めて考えさせるような記述でもある。エラスムスは侮れない。

エラスムス『痴愚神礼賛』渡辺一夫・二宮敬訳、中公クラシックス、2006年

【要約と感想】金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』

【要約】エラスムスは16世紀を代表する人文主義者で、確かに人間の尊厳を大事にしつつ、ギリシア・ラテン古典とキリスト教を統合しようと試みますが、17世紀以降の啓蒙主義と比較するとキリスト教に軸足を置いているところが決定的に異なっており、本書では敢えて「キリスト教人文主義」と呼びます。
 エラスムスが後の時代へ与えた影響を考える際、ルターとの違いが決定的に重要です。エラスムスは文献学者として聖書テキスト批判を通じスコラ神学を相手に宗教改革の精神を準備し、ルターとも通じるものがありましたが、穏健なエラスムスと苛烈なルターは袂を分かたざるを得ません。エラスムスは神律の範囲内と断りつつ人間の自由意志を尊重する一方で、ルターは断固否定します。それは古代のアウグスティヌスとペラギウスの間で行なわれた論争を引き継いでいますが、17世紀啓蒙主義以降では人間の自由意志が無制限に尊重され、それがむしろ逆に不幸を招き寄せることになります。

【感想】とてもおもしろく、勉強になった。
 著者がアウグスティヌスとルターの専門家としてキリスト教神学の要点を押さえているところが、エラスムスを理解するうえで極めて重要だった。エラスムスの『痴愚神礼賛』も『自由意志論』も、やはり人文知の観点からのみ理解しようとする態度は片手落ちの謗りを免れず、キリスト教神学の土台を踏まえた上で読み込む必要があることを痛感した。
 その理解の上で、著者が16世紀ルネサンス期と18世紀啓蒙期を明確に区別していることを承知できる。著者の見解によれば、16世紀ルネサンス期には人文主義とキリスト教神学はそんなに離れていなかった。具体的には、エラスムスはあくまでもカトリック教義の枠を踏まえて、人文知とキリスト教を統合しようと試みた。14世紀のペトラルカもまた同様。だから本書のタイトルにも「キリスト教人文主義の巨匠」というサブタイトルがついている。しかしルターによって宗教改革が開始された後は、人文主義とキリスト教がみるみる分裂していく。物別れのポイントは「自由意志」の位置づけにある。エラスムスが自由意志の存在意義を(最小限度に限るにしても)認めたのに対し、ルターは徹底的に否定しにかかる。その結果、100年以上を経た18世紀啓蒙期には、人文知は神様抜きで「自由意志」を語るようになる。逆に言えば、エラスムスは「神様抜きの自由意志」の萌芽であったとしても、彼自身にはそういう意図はまったくない。ルネサンスは、未だ中世に属している。

【今後の研究のための備忘録】人文主義の位置づけ
 「人文主義」とは、乱暴に言えば、中世に忘れ去られていた古代ギリシャ・ラテンの知恵を学んで甦らせようという知的ムーブメントだ。それが政治的・宗教的なスキャンダルになってしまうのは、この古代ギリシャ・ラテンの知恵が無色透明の中立的な知ではなく、キリスト教とは相容れない多神教の異端という点にある。だからキリスト教保守派は、異端の匂いがする古代ギリシャ・ラテンの知恵そのものを排除しようとする。その動機は単純明快で、よく分かる。
 しかし逆に、古代ギリシャ・ラテンの知恵をキリスト教に結び付けようという人文主義に共通する知的行為を成立させるためには、単純明快とはいかず、アクロバティックなこじつけを必要とする。こじつけのロジックを放棄したときに、人文主義は容易にキリスト教から乖離し、「神様ぬきでの人間」を語り始めることになる。
 エラスムスは、この難解なこじつけのロジックを放棄せずに、人文主義とキリスト教を統合しようと試みた、最後の世代に当たるようだ。最後の世代とは、その直後からキリスト教が宗教改革によってまったく新しいステージに突入することになるからだ。宗教改革によって、人文主義はキリスト教のロジックから切り離されていく。
 こうしてみると、ルネサンスだけでも近代は訪れないし、宗教改革だけでも近代を招来することはできない。両方の合わせ技によって18世紀啓蒙主義が用意されたことが理解できる。勉強になってナルホドと思ったところを以下に引用しておく。

「エラスムスの決定的に重要な特徴点は、人文主義の方法をキリスト教神学に適用し、両者を統合したことであり、さらにそれによって神学における根本的変革を創造したことに求められる。この統合過程はペトラルカにはじまりエラスムスにおいて完成する。それはキリスト教的人文主義に結晶した思想として提示されている。」15頁
「この人文学[イタリア・ルネサンスの新しい人文学]の復興こそエラスムスの生涯にわたって遂行された事業であったが、そこには新しい人間観が誕生してきていた。この人間観は、この時期の全過程を貫いている共通の主題で表現すると、「人間の尊厳」(dignitas hominis)であると言うことができる。ルネサンスは最初14世紀後半のイタリアに始まり、15世紀の終わりまで続いた文化運動である。」22頁
「こうした状況にもかかわらず、わたしたちがルネサンス思想を全体として考えるならば、それは中世思想よりもいっそう「人間的」であり、いっそう「世界的(世俗的)」であったといえよう。」23頁
「彼[ペトラルカ]の人間の尊厳についての論考はルネサンスにおけるこの主題を先取りするものであった。」26頁
「[ピコの言う]世界を超えて無限に上昇しようとする魂の運動は近代的主体性の根元に見られるものであり、一方において神性の意識を生みだし、他方において自律的な自由意志を確立して来たものである。」39頁

エラスムスとルターの訣別とを以て、「ここに人文主義と宗教改革の二つの運動の統一は最後の可能性を失い、分裂する。その結果、人文主義はキリスト教的宗教性を失って人間中心主義に変質する道をとりはじめ、他方、宗教改革も神学という狭い領域に閉じこもり、ドグマティズムによって人間性を喪失する方向を宿命的に辿らざるをえなくなった。」201頁
「ルターはエラスムスが力説する「人格の尊厳」(dignitas personae)は恩恵による義と矛盾するので、神の前には通用しないという。ルターは人間のdignitasではなく、「神の荘厳」(majestas Dei)の前に立っている。二人の間の論争は実にこの二つの存在の関係を明らかにするものであるが、そこには人間性の偉大さと卑小さ、栄光と悲劇が語られているということができる。」224頁
「ルターはノミナリズムのビールの神学のなかに育ち、このセミ・ペラギウス主義を批判的に超克することによって宗教的な高次の自由に到達した。この自由は罪の奴隷状態からの解放を内実にしているため、献身的に隣人に奉仕する強力なエートスを生みだしていった。他方、エラスムスは人文主義を土台にして新しい神学を形成し、人格の尊厳のゆえに神と隣人とに向かいうる主体的自由と責任、およびそこから生じる実践的倫理の確立の必要を説いた。しかし両者とも神への信仰によって人は根源的には自律しうることを徹底的に信じていた。そこに「神律」(Theonomie)の立場が共有されており、自由意志を最終的に「恩恵を受容する力」として把握していた。ここに近代自由思想の共通の源泉が見えてくる。自由は神律においてはじめて可能である。これこそノミナリズムの自由論が哲学的な「偶然性」に自由の源泉を求めたのとは異質な、もう一つの源泉であり、二つの流れが合流することによって近代の自由思想の源流が形成されるのである。」240-241頁
「ここには人文主義に固有なヒューマニズムにまつわる問題が剔抉されたことによって、古代から現代にいたるヒューマニズムの歴史は、真に意義深い決定的瞬間に到達したといえよう」273頁
「エラスムスは自律を可能とみる理想主義者である。このような自律は近代的な自主独立せる個人の特徴であって、カントの倫理思想において最終的に確立されるに至った。」276頁
「すでに明らかにしたように、神の恩恵は人間の自由意志を助けてよいわざを実現させると説いて、少なくとも最小限において人間の主体性は肯定されていた。それゆえ神中心的と称された彼のヒューマニズムは、やがて人間中心的ヒューマニズムとして18世紀啓蒙主義の思想を生んでゆくことになる。」278頁

 上記引用部で個人的に気になるのは、やはり「人格の尊厳」というものが浮上してくる経緯だ。エラスムスの段階では既に人文主義の文脈で洗練されており、浮上のポイントはもっと前、ペトラルカ、ヴァッラ、ピコ、フィチーノが鍵を握っている。だとすればやはり古代ギリシャ(特にプラトン)の異教的な知恵が決定的な意味を持つことになる。
  しかし一方で、人文主義とはまったく関係なく、キリスト教の三位一体の教義から「人格の尊厳」が浮上してくると言う人もいる。果たして異教的センスが外から加えた圧力が重要なのか、それともキリスト教神学の内側から盛り上がるエネルギーが重要なのか。ともかく、論点は絞られてきたような気もする。
 個人的に思うところでは、古代ギリシャ・ローマの知恵とキリスト教の教えを統合することはむちゃくちゃアクロバティックな無理難題にしか見えないのだが、その無謀を可能にするロジックの要に来るのが「人格の尊厳」という観念ではないだろうか。人文知とキリスト教を統合しようとすればするほど、その無理無茶無謀でアクロバティックな知的行為の過程から「人格の尊厳」なるものが剔抉されてくるのではないだろうか。だとすれば人文知とキリスト教のどちらかに「人格」の種のようなものがあると決めつけるのは悪手で、実は両者をむりやりすり合わせているうちに隙間から立ち上がってきたと考えるべきものではないだろうか。

【今後の研究のための備忘録】自由意志に関する論争の歴史
 おそらく著者の別の研究所で詳述されているのだろうが、自由意志に関する論争の歴史が簡潔にまとめられていて、勉強になったので、引用して忘れないようにしておく。

「近代以前においては人間的な自由は主として「自由意志」(liberum arbitrium)の概念によって考察されてきた。それはアウグスティヌス以来中世を通して哲学と神学の主題となり、とくに16世紀においては最大の論争点となった。今日では自由意志は選択意志として意志の自発性のもとに生じていることは自明のこととみなされる。この自発性についてはすでにアリストテレスにより説かれており、「その原理が行為者のうちにあるものが自発的である」との一般的命題によって知られる。そして実際この選択意志としての自由意志の機能を否定する人はだれもいないのであって、「奴隷意志」(servum arbitrium)を説いたルターでもそれを否定してはいない。
 では、なぜペラギウスとアウグスティヌス、エラスムスとルター、ジェスイットとポール・ロワイヤルの思想家たち、さらにピエール・ベールとライプニッツといった人々の間で自由意志をめぐって激烈な論争が起こったのか。そこでは自由意志が本性上もっている選択機能に関して争われたのではなく、自由意志がキリスト教の恩恵と対立的に措定され、かつ恩恵を排除してまでもしれ自身だけで立つという「自律」の思想がこの概念によって強力に説かれたからである。こうして自由意志の概念はほぼ自律の意味をもつものとして理解され、一般には17世紀まで用いられたが、やがてカントの時代から「自律」に取って換えられたのである。
 近代初期の16世紀ではこの自律の概念は、いまだ用語としては登場していないけれど、内容的には「恩恵なしに」(sine gratia)という表現の下で述べられていたといえよう。ところで、このように恩恵を排除した上で自由意志の自律性を主張したのはペラギウスが最初であった。」284-285頁

 やはり16世紀ルネサンスの段階と18世紀啓蒙主義の段階で、自由意志に関する態度も根本的に違うことが分かる。そしてその分岐点に立つのがエラスムスとルターだということも分かる。個人的には明解な見取り図であるように思えるので、しばらくはそういう歴史観で以って勉強していく所存。

【今後の研究のための備忘録】
 ほか、気になる記述が散見されたのでメモをしておく。

「エラスムスにはホッブズの社会契約という思想は未だ認められていないが、それに近い思想が芽生えている。」248頁

 私の理解では、いわゆる「社会契約」という思想は古代ギリシアのエピクロスに既に見られる。そしてエラスムスはエピクロスに関して様々な言及をしている。だとすれば、著者がエラスムスに感じた社会契約に近い思想とは、エピクロスからもたらされている可能性はないか。

「エラスムスは君主たちが臣下の民族意識を利用して戦争を企てていることに気付いてた。パウロはキリスト者の間に分離の生ずることを望まなかったが、問題は民族感情である。」263頁「「私たちがトルコ人と呼んでいる人々の大部分は、半ばキリスト教徒と称してもよく、あるいはむしろ、わたしたちの大部分以上に、真の意味でのキリスト教のそば近くに位置するかも知れない」」267頁

 確かにエラスムスは著書のそこかしこでヨーロッパ各国の民族的な特徴をあげつらって記述していて、興味深い。民族性の自覚は主権国家の成立以後のことと言われる場合があるが、実はエラスムスの生きていた時代に既に民族感情がかなり明確に自覚されていたことが分かる。
 いっぽう、トルコ人に対する記述も、特にエラスムスが生まれる直前にトルコがビザンツ帝国を滅ぼしているという事情を考え合わせると、たいへん興味深い。滅びたビザンツ帝国からギリシア人学者がヨーロッパに流入してきたおかげでヨーロッパ全体の人文学の水準が上がったことは周知のとおりだ。ただしエラスムスがトルコ人やビザンツ帝国をどう思っていたかは、私の乏しい読書の範囲ではほとんど出てこない。なんとも思っていなかったという可能性もあり得るか。たとえば、同時代のヨーロッパは新大陸発見で沸き上がっていたはずなのだが、その痕跡がエラスムスにまったく見られないのはどういうことか。

「エラスムスはもう一つの例をあげて説明する。それは妻に対する愛で、三つに分けられる。(1)名目上の愛。妻であるという名目だけで愛する場合には異教徒と共通したものである。(2)快楽のための愛。これは肉をめざしている。(3)霊的な愛。」94頁

「愛」は、言うまでもなく、アウグスティヌス以来の伝統を誇るキリスト教神学の中心テーマだ。御多分に漏れずエラスムスも言及していたという事実は覚えておきたい。

金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』知泉書院、2011年