「イタリア」タグアーカイブ

【要約と感想】アルベルティ他『イタリア・ルネサンス期教育論』

【収録論文】
(1)ヴェルジェーリオ(1370-1444)「学芸について」
(2)ブルーニ(1370-1444)「諸学問ならびに文学について」
(3)アルベルティ(1404-72)「家庭教育論」
(4)ピッコローミニ(1405-64)「子どもの教育について」

【要約】子どもたちが持つ本来の特性を見極めて、早期に善い習慣を身につけさせ、悪習を取り除き、自由諸学芸を学ばせましょう。歴史や修辞学、詩の古典などを幅広く学ばせ、特に雄弁術の修得を通じて徳を身につけさせましょう。教育は早く始めるに越したことはありません。体罰はだめです。

【感想】15世紀、イタリア・ルネサンスの教育論アンソロジーなわけだが、この周辺の事情は学部生向け教育学の教科書ではそうとう手薄い印象がある。私の基礎教養が欠けているのも学部の概論でしっかり学んでいないせいだ(ということにしておこう)。
 一般論としては、ペトラルカ以来のイタリア・ルネサンスによってギリシア・ローマの古典が暗黒の中世から甦り、人文主義(ヒューマニズム)が勃興・充実・発展して、現代のリベラル・アーツ(教養主義)にまで繋がることになっている。確かに本書に収められた諸論考はギリシア・ローマの古典からの引用に満ちている。特にキケロ、プルタルコス、クインティリアヌスからの引用は飽き飽きとするくらい大量だ。というか、教育に関する考え方そのものはクインティリアヌスからほとんど進歩していないようにすら見える。古代とルネサンスの距離は、論旨だけに注目すれば、極めて近い。つまりキリスト教による影響は目につかない。
 しかし一方、ルネサンス期教育論と近代的教育論との距離は、極めて遠いように思う。ルネサンスの教育論からは、ちっとも近代的な臭いがしない。体罰禁止という主張そのものには近代的な臭いを嗅ぎ取ることもできようが、禁止の根拠はまったく近代的ではない。ルネサンス期教育論と近代的教育論が似ていないと思うおそらく最も大きな原因は「雄弁術」の位置づけだろう。ルネサンス期ヒューマニストたちが雄弁術を最大限に称揚するのは、彼らの教育論の土台がクインティリアヌスにあるのだからまったく不思議ではないというか、当たり前ではある。しかし一方彼らが拝み奉る雄弁術なるものは、近代的教育論ではほぼ完全に抹殺されている。ルネサンス期人文主義を引き継いだとされる現代リベラル・アーツでも、雄弁術そのもののトレーニングなどしない。
 近代的な教育においては、任意のテーマについて雄弁に語るより、真実を見極めること(およびその手続き)の方が決定的に重要だ。もちろんそれはガリレオ、コペルニクス、ニュートン等による自然科学の仕事がベーコン、デカルト、カント等によって帰納的・論理的・理性的・科学的な思考法に定式化されて以降のことだ。現代のリベラル・アーツも、雄弁的な素養を身につけることよりも、論理的・理性的・科学的・批判的な思考を育むことを目指している。そういう近代的な観点からすると、自然科学革命以前のイタリア・ルネサンス期の教育論がやたらめったら雄弁術の重要性を前面に打ち出してくるのは、時代背景を踏まえれば理屈では分かるとしても、少なくともその雄弁術への情熱はどう頑張っても共有できない。近現代においては、雄弁術の教育的意義は地に落ちている(まあ福沢諭吉が「演説」の重要性を説いていたことは思い出しておいても損ではないか)。
 そして個人的な研究上の関心に焦点を絞ると、教育基本法第一条でいう「人格の完成」という旧制高等学校的観念が雄弁術とどういう関係にあるかが問題となる。言い換えれば、雄弁術の伝統がキケロ的古代からイタリア・ルネサンスを経て近代以降にどう引き継がれているか。あるいは仮説として、たとえば近代的合理主義の浄化作用によって「人格の完成」という古代的・ルネサンス的観念から雄弁術の伝統が漂白され、背景と文脈を失った単なる観念あるいは理念としてより純化した、と見なすべきか。ともかく、雄弁術がリアルに政治的・法的・文化的意味を担っていた時代(たとえばキケロ的古代)であれば具体的にイメージできただろう「人格の完成」というものは、近代合理主義を経て高度に抽象化してしまった結果、現代では内容を失ってただのお題目にしか聞こえない状況になっている。かつて「教養」と呼ばれていた何かが説得力を失っているのもそのせいかもしれない。
 ひるがえって。本書収録の諸論文は、科学革命以前(というか前夜)の、雄弁術がまだ大きな権威と説得力を維持していた段階における、具体的な「人格の完成」を当然の前提とするような教育論たちだ。現代的な「人格の完成」概念に至る道筋のヒントが何かないかと思って本書を手に取ったわけだが、結果として欲しかったもの(自分のストーリーに都合の良い言質)は手に入らなかった。というか、ますます混迷の度を深め、軽い眩暈に襲われているのであった。

【個人的な研究のための備忘録】個性
 欲しかったものの一つは「個性」という概念(の萌芽)だったが、「かけがえのない個人」というものを指し示すような言葉は皆無だった。モンテーニュの段階(16世紀後半のフランス)では明瞭に見いだせる「かけがえのない私」という観念は、15世紀イタリア・ルネサンスには見いだせない。むしろ14世紀ペトラルカのほうが近代的自我を彷彿とさせるくらいだ。まあ、「ルネサンス期にはかけがえのない私という個性観念は一般論としては成熟しなかった」と、しばらくはみなしておいていいのだろう。
 一方、「様々な特性を持った個体がある」という個性観念は極めて重要な論点として前面に打ち出されている。それは古代のクインティリアヌスにも明瞭に見られる考え方で、その論理をそのままそっくり引き継いだルネサンス期教育論が同じような見解を示しているのは当然と言えば当然ではある。まあ、まずは「様々な特性」という意味での個性観念がやたらめったら表明されていることは事実として押さえておく。(とはいえそれは西洋に特徴的な現象でもなく、東洋でも伊藤仁斎などが「性」概念を論究する際に盛んに主張していたことも忘れてはならない)。だから問題は、ここからどうやって近代的な「かけがえのない私」という個性観念に繋がるか、あるいは繋がらないかだ。具体的にはモンテーニュとの関係がポイントになるか。

「各人は生まれたときからその固有の才能をたいせつにしなければなりません。(中略)生来、生まれついているものがなんであるかを熱心に窮めることがすべての人にもっとも重要なこととなります。」(V.20頁)
「ある者にとっては、親たちの期待そのもの、あるいは幼児期からの習慣が障害となります。子どものころから慣れ親しんだことはおとなになってもたやすくおこないます。そして、そのゆえにこそ生み育ててくれた親たちの技術や職業を子どもはみずから選ぶのです。われわれの教育という仕事のもう一つの障害は、生まれた土地の流儀です。われわれは、そこで生活する人びとが承認し、おこなうことを純金の財宝でもあるかのように尊重するのです。そこで、人びとはその固有の人生の方向を選択することが、非常にむずかしくなっています。」(V.37-38頁)
「ところで、才能が多様な性質をもっていることは事実です。ある者は自分の思想を論証する論点と証明を、よういになにごとのなかにでも見いだします。ある者は、それとは反対に、そのようなことには時間をかけなければなりませんが、しかし判断においてはより深くかつすぐれております。(中略)また、ある者は才能にはめぐまれていながら、ことばがさわやかでないということもあります。(中略)ついで、抜群の記憶力をもった人びとがおります。」(V.53頁)
「思弁的で実務的な二重の才能にめぐまれている者は、いずれの方向に自分がより適しているかを各自が判断することによって、のぞましいとおもわれる学問研究に専念すべきです。ついで、才能のおとっている者、つまり法律用語でいう<土地につながれた者>は、普通にはなにごとにおいてもうまくいかないようにおもわれておりますが、しかしなにか一つのことで成功することを示しております。そして場合によってはかなりの力を発揮するものです。したがって当然のことではありますが、このような人びとは、彼らにもっともふさわしいある一つの教育に専念すべきです。」(V.54頁)
すべての学習者に画一的規則をもうけることはのぞましくないし、また各自が自分の能力の状態ならびにその程度を判断すべきであることをわたしはつけくわえたいとおもいます。」(V.57頁)

「父親は子どもたちに適したことをやらせて欲しいものです。「お前の性質や才能がお前をひき寄せるところに、熱心に従い、はげみなさい」と、キケロに答えたアポロンの神託をお聞きなさい」(A.101頁)
「彼等によって、息子たちがどんな修行や徳に向いているかということを知ることは、それほど困難なことではないでしょう。」(A.102頁)
「日々、子どもたちにどんな習慣が生じるか、どんな欲望が持続するか、彼らはどんなことにしばしば関心を示しているか、何に一番熱心なのか、そして、どんな悪い欲望にとらわれやすいかを、父親は注意深く観察して欲しいと思います。そうすれば、子どもたちの、多くの明瞭な特徴をひき出し、彼らを完全に認識することができるでしょう。」(A.103頁)
「子どもが生来の傾向を何がしか示しはじめる最初の日から、彼らがどんな性向を持っているかということにあなたは気がつくでしょう。」(A.104頁)
「父親は多くの場合、子どもがそれぞれ何にむいているか、かなりよく気がつくものです。」(A.105頁)
「私たちの子どもたちの漠然とした隠れた傾向に注意を払って認めた後で、天性にしたがって彼らがひかれていた傾向に反した、新しい他の道へ彼らを矯正し、導くことが、私たちにとって、非常に困難でほとんど不可能なことではないと思うのですか?」(A.122頁)
「多血質の人は憂うつ質のひとよりももちろん恋をしやすく、胆汁質の人は怒りっぽいということでもわかるように、本来、多かれ少なかれ人間の欲望には何らかの刺激が自然に付与されているということを、おそらく私は告白しなければならないでしょう。」(A.124頁)

天性は教育がなければ盲目であるように、教育は天性がなければ不具であります。両者とも訓練をしなければあまり役に立ちません。」(P.139頁)

【個人的な研究のための備忘録】習慣
 というわけで具体的な教育方法としては、特に幼少期は子どもの「個性」を見極めたうえで、悪い習慣を抑えて良い習慣を身につけさせることがポイントとなる。

「したがって、悪い習慣は大変ふさわしく、良く作られた天性をことごとく堕落させ、汚すと言うことができましょう。時を得た良い習慣は、理性的でない欲望や不備な理性をことごとく克服し、改めます。」(A.125頁)

 このあたりの理屈や筆運びはただちにジョン・ロックの教育論を想起させるところだ。自然科学革命を経た近代合理主義であっても、「習慣」という観念や教育上の意義について変更された気配は感じない。このあたりに「人格の完成」観念の連続性を考えるヒントがあったりするか。

【個人的な研究のための備忘録】体罰
 ちなみに体罰は徹底的に非難される。このルネサンスの伝統はエラスムスにまで引き継がれる。

殴打を用いるのではなく注意するべきです。たとえ、弟子を殴るのは許されることで、クリシップスがそれを非難しなかったとは言っても、そしてまた、「成人したアキレスが故郷の山で歌った時、彼はなお鞭をおそれていた」というユウェナリスの言葉がしばしば用いられても、私にとっては、クィンティリアヌスとプルタルコスの方がずっと重要であります。彼らによれば、子どもたちは、なぐったり、鞭をあてたりするのではなく、勧告や討論により、善い生活をするように導かなければなりません。殴打は奴隷にはよくても、自由人には適しません。」(P.141頁)
殴打からは憎悪が生まれ、おとなになっても残ります。学ぶ者にとっては教師に対する憎しみ以上に有害なものはありません。」(P.142頁)

 ただし、古代のクインティリアヌスが体罰を徹底的に非難しており、それを無批判に引き継いだルネサンス期教育論が体罰を否定するのも当然というところではある。ルネサンス期の具体的な状況から帰納的に体罰否定の論理が編み出されているわけではない印象だ。

【個人的な研究のための備忘録】自由諸学芸
 教育内容としては、もちろん自由諸学芸(人文主義)が全面的に推奨される。

「手職であれ商売であれ、あるいは財産の管理であれ、なりわいのもろもろのわざに専念している人びとは、自由学芸に没頭しながらもそれをいやしいなりわいにかえてしまっている人びとと同様に、実際にはすぐれた諸習慣とはまったく反対の事柄に専念しているのです。」(V.25頁)
「卑俗な諸技術がその目的としてかせぎを快楽とを目ざすように、徳と栄光とが自由諸学芸の目的となります。」(V.34頁)

 解説では以下のようになっている。

「これはヒューマニストたちの教育論の中心的テーマである。古典的人間教養研究Studia humanitatisは、完全で統合的な人間の形成をめざし、また人間を自由人とすることをめざす。Leonardo Bruniはhominem perficiunt(人間を完成する)という表現をしている。
 この定義については、セネカ、『書簡集』(Epistola 88, 2)参照。かれによれば「なぜ自由諸学芸とよばれるかといえば、それらが自由な人間にふさわしいものだからだ」。(Quare liberalia studia dicta sint, Vides: Quia honine libero digna sunt.)とされている。
 ヒューマニストたちが、自由諸学芸の教育的価値を重視していたことが注目されなければならない。それは、自由なる人間に装飾的なものとしてにつかわしいから、自由で人間的な学芸であるのではない。それが人間を人間たらしめ(古典的人間教養研究とよばれるのは人間を完成するからだ。Humanitatis studia nuncupantur quod hominem periciant.)、人間を形成し、光へみちびく古典文学lettereだからである。奴隷の状態から自由へといざなうのは古典文学研究によってである(人間を自由にするから、それゆえに自由なのである。idcirco est liberalis, quod liberos homines facit.)。」

 しかし率直に言って、現代的な感覚から言えば、「教養」なるものは単に「装飾的なもの」に過ぎず、それによって「人間を人間たらしめる」ようなものではない。おそらく、我々現代人には既に失われた何らかの前提を設定しなければ、自由諸学芸は「人間を完成する」ものにはならない。しかしその前提は、キケロを読んでもクインティリアヌスを読んでも、もちろんルネサンス期教育論にも見出すことはできない。その前提とは、たとえば奴隷の存在のようなものだ。ルネサンス期教育論は、学問を日常生活で役に立たせることを自由人に相応しくないことだと見なしている。日常生活に役に立たないことこそ人間を人間(自由人)たらしめる。そしてその具体的な内容は、政治や裁判の場で発揮される「雄弁」だ。政治や裁判の場で雄弁を発揮することだけが自由人(完成した人間)に相応しいと言われても、現代人にはもはや何のことやらサッパリだ。だから、現代においてリベラル・アーツなるものに権威と説得力を持たせようと思ったら、古代とルネサンスの遺産に頼るだけではうまくいかない。そんなわけで、古代とルネサンスで言われている「人間」とは、「奴隷」というものの存在を前提とすることで初めて理解できる概念だということを忘れてはいけないだろう。

【個人的な研究のための備忘録】大人と子どもの区別
 大人の嗜みとしては許されるが子どもからは遠ざけておくべきもの、という観念をいくつか見ることができた。

「舞踏や愛欲をテーマにした演劇から子どもを遠ざけておくことはのぞましいことです。」(V.28頁)
「子どもの時期には、特にブドー酒について子どもが節制するようにとわたくしは申しあげたいとおもいます。」(V.29頁)
「酒飲の傾向のある子どもほど不愉快なものはありません。」(P.147頁)

 淫猥な演劇やアルコールは子どもに相応しくないと見なされていて、「教育的配慮」の存在を確認できる。アリエスによればアンシャン・レジーム期にはなかった心性のはずだ。というわけで、アリエスが間違っていると見なすか、フランスがイタリアよりも2世紀ばかり田舎だと考えるか、というところだ。

【個人的な研究のための備忘録】歴史的背景
 解説の記述について考えてみたい。

「人間の個性ならびに能力の発達をうながす条件は、中世的秩序の崩壊にともなう不安定の意識の高まりにくわうるに都市生活そのものによっても準備されることになる。」(200頁)
「都市の独自の発展に由来する地方主義regionalismの伝統と意識は今日でも顕著にみられる。イタリア人としての民族的自覚よりもさきにナポリ人でありフィレンツェ人であるとする郷土意識は、都市的伝統にもとづくものだ。これは諸都市の独自性を前提とする意識であり、また都市内部においてはそれをささえ構成する市民たちの個性が尊重された。したがって文化的諸成果も市民による個性的能力のあかしとなるものであった。」(201-202頁)
「いじょうにみたようにルネサンス期イタリア都市はそこに展開される諸現実をその所与性、一面性においてうけいれるのでなく、むしろ現実との格闘をとおしてそれをつくりかえ、選択し、展望をきりひらくように、市民たちにせまったのである。そのような環境のもとで、市民たちはその運命にかかわる自己決定や独立独歩の精神を容赦なくせまられることとなり、それを主体的につちかわざるをえなかった。そしてその反映と興亡がそこで生活する市民たちの努力と資質にかかわる都市において、市民たちの多様な個性と諸能力が社会的に重視され、またその発達を可能とするような土壌の準備がなされたことはけだしとうぜんというべきであろう。」(202頁)
「ルネッサンス期も後半にいたるとペダントリーと古代作家の模倣の現象があらわれる。しかし、これはヒューマニズムの思想からすればあくまでも派生的現象であって、けっしてその本質ではない。その理想に個性的で創造的な、しかも実践的な人間の形成がかかげられるいじょう、模倣や衒学は自己撞着であり、その否定こそヒューマニズムのもとめてきたものだったからである。つまり、キケロを読むのは外面的にキケロに似ることのためではなく、自分自身のなかにキケロいじょうの個性と可能性とを発見することをめざしたからであった。」(205頁)

 都市国家形成を重要な契機と見る視点は教科書的な記述としては問題がないのだろうが、気になるのは古代との直接的な連続性である。たとえばピレンヌテーゼによれば西ヨーロッパがローマ文化を喪失したのは7世紀中盤のイスラムによる地中海封鎖によるが、イタリア半島だけはビザンツ帝国との繋がりを保ちながらローマ文化を一定程度保存できている。また12世紀シチリア王国がイスラムやビザンツとの交流の中で文化的に栄えていたこともよく知られている。だとしたら、イタリア・ルネサンスに見られる人文主義的伝統は、解説が言うような都市国家形成と市民階級の勃興を待つまでもなく、直接的にローマ帝国からの連続性を保っていたと考えることも可能だ。
 あるいは、人文主義が中世のスコラ学とも近代のサイエンスとも異なるユニークな教育論を持っていたことにも留意したほうがいいのだろう。たとえば日本で言う本居宣長の国学のようなものだと理解したらどうなるだろうか。本居宣長は市井の活動の中から中世の漢学とも近代の洋学とも異なる別のストーリを打ち立てた。一定の平和と安定と経済的余裕という前提の下、郷土的意識という土台に立ち、学問に対する熱意と情熱が既存の制度の外にユニークな学統を打ち立てた。そういう観点から言ってしまうと、人文主義と翻訳調で呼ぶより、イタリアで「ローマ学」が流行したと考える方が個人的には落ち着いたりする。

「これ[中世スコラ学]にたいして、ひとしく古代の著作をとりあげ過去にモデルをもとめながらも、非歴史的態度におちいることなくまさに歴史を動かす主体としての自覚から未来へ目をむけたのがヒューマニストたちである。この歴史における主人公としての意識から、古典研究は人間形成、つまり教育の問題としてとらえられることになった。」(204頁)
「基本テーマはあくまで人間形成の問題であり、とくに重要なのは教育における人間の多面的把握の必要の強調とその視点である。教育における人間の本来的自然の重要性が強調され、そこから出発して具体的な個々の子どもの個性と人間としての可能性との調和的均衡的な発達の人間形成にしめる役割がくりかえしのべられている。」(205頁)

 私の読解では、ルネサンス期教育論から「歴史における主人公の意識」を読み取ることはできない。確かに「具体的な個々の子供の個性」に対する関心は極めて高いのであるが、それが「教育における人間の多面的把握」かと言われると首を傾げざるを得ない。そう見えてしまうのは、私の勉強不足が原因なのかどうか。

アルベルティ他『イタリア・ルネサンス期教育論』前之園幸一郎・田辺敬子訳、明治図書世界教育学選集81、1975年

【要約と感想】フランチェスカ・トリヴェッラート『世界をつくった貿易商人―地中海経済と交易ディアスポラ』

【要約】イタリア発の歴史学ミクロヒストリアが果たすべき役割は、マクロヒストリーとの関係から考えれば極めて重要です。具体的には商業資本主義の発展過程について決定的に重要な知見を与えてくれます。たとえばマクロヒストリーの文脈では、ユダヤ人とアルメニア人は祖国を追われて世界中に離散(ディアスポラ)しつつ民族的一体性を土台に世界的商業の発展に貢献してきたと理解されてきましたが、ミクロヒストリアの知見からすれば婚姻や契約の形態のような内部的な構造の違いが大きく、乱暴に結論を出すべきではないということが分かります。

【感想】誤字が多くて訳もこなれておらず少々読みにくかったけれども、巧遅よりも拙速を重んじるべき分野と内容のようにも感じたのでこれでいいのかもしれない。

 本書を手に取ったのはルネサンスと資本主義(あるいは民主主義)の関係を深めたい(イタリア都市が果たした役割など)という理由からで、その期待には予想以上に応える内容だった。資本主義といっても産業資本主義ではなく商業資本主義に限られるが、レビューが豊富でヨーロッパの経済史の最前線動向が分かったような気になっている。さすがに最先端の経済史的議論の内容にはついていけてないが、この領域で何を具体的な問題としているかは仄かに理解した。
 伝統的には、資本主義の離陸・発達は家族的経営(親密な関係を前提とする)から企業的経営(自由な契約を基本とする)への転換が鍵を握っていると理解されているが、その問題意識は現代でも引き継がれている。そこで具体的には合名会社(原始的な無限責任)から合資会社(有限責任によって自由な契約を促進)への発展過程が検討の対象となり、ルネサンス期イタリア商業都市が格好の史料を提供する。合名会社から合資会社へ転換しているとすれば、親密性を前提とした経営から自由な契約へと脱皮している証拠となり、資本主義が発達している指標となる。特に祖国を失って世界各地に離散(ディアスポラ)したユダヤ人が組織的に発展させたと考えられてきた。
 が、著者はそのストーリーに異議を申し立てる。商業書簡という具体的な資料を用いて、実はルネサンス期のユダヤ人たちも完全に自由な契約を活用して商売を繰り広げていたわけではなく、「信頼」を確認・確保するために前近代的な手段に依拠していたことが明らかになる。ユダヤ人たちが法的なサンクションを利用できない(つまり民法的な自由契約を全面的に採用できない)ことが側面からの支援となる。ということで、ルネサンス期イタリア商業都市に資本主義の萌芽を見ることについては、一定の留保をつける必要がある、ということになる。

 となると、ここからは教育学に関心を寄せる個人的な感想に過ぎないが、やはりルネサンスは近代というよりは中世的な枠組みで捉えておいたほうが無難ということになるかもしれない。というのは、本書の知見を踏まえれば、自由な契約を土台とした経済発展は「民法による契約の保護」が確保されているところでしかありえず、それはつまり「国民国家の後ろ盾」が重要であることを示唆する。中世において国民国家の保護がないところでサンクションを発動する仕組みは主に地方領主権力と教会権力に頼っていたのだろうが、世界を股にかける自由貿易では頼りなさすぎる。近代国民国家は商業的なサンクションを保障する期待を担って膨張してきた感がある。だとしたら民法・商法の整備が極めて重要な話になってきて、西欧の場合はもちろんフランス革命およびナポレオン法典が分水嶺となる。イタリア・ルネサンスは、各都市の軍事力を背景としてサンクションを保障しており、それが前近代的地中海貿易の規模では機能していたとしても、果たして大航海時代後の大西洋貿易や産業資本主義の規模には対応できたか。
 それを踏まえると、イタリア・ルネサンスの「人文主義」についても、宗教から人間を解放した近代性(世俗性)を見るよりは、むしろ科学的な唯物論に対する反動として理解するほうが適切なのかもしれない。問題は「ラテン語」の扱いになる。もちろんイタリア(ペトラルカやダンテ)であればラテン語はただの古語なので馴染み深いだろうが、エラスムスのようにオランダを根拠としたインターナショナルな学者がラテン語で書かなければいけない本質的な理由はなんなのか。エラスムスなどルネサンス期人文主義者が大航海時代の時代的熱狂に対して冷淡に見えるのはどういうことか。また本書は人文主義者がオスマン・トルコに剝き出しの敵意を示していたことを強調しているが、それは彼らが世俗性に対して反動的だったことの証拠になるのかどうか。
 しかしそれはもちろん即座に人文主義が中世的ということを意味しない。本質的には大航海時代がもたらした広範な俗物主義的堕落に対するカウンターとして、従来の宗教的禁欲主義に期待することができず、新たな対抗馬として「人文主義的」な高踏性を持ち出してきたということなのではないか。プラトンやキケロ―は、キリスト教がなかった時代にも俗物主義に陥らず高踏性を保ったところが尊かった、とみなされたのではないか。そうなると「科学的唯物主義」と「人文主義」の関係は、脱宗教の共犯者というよりは、近代におけるライバルとみなすべきものとなる。そうなればペトラルカやエラスムスがアリストテレス主義(科学的唯物主義)に対して冷淡だったのも首肯できる。逆にアリストテレス主義(もっと言えばエピクロスの徒)にとっては、宗教勢力だけでなく人文主義も敵陣営に属していることになる。しかし宗教勢力にとってみれば、人文主義はかつての自分たちのポジションを奪いかねない強力なライバルということになる。人文主義の内部にしても、宗教に近いか世俗主義に近いかで立ち位置はまったく変わってくるのだろう。

 まあ本書とは関係ないことをいろいろ考えたが、インスピレーションが湧いてくる本だった、ということだ。

フランチェスカ・トリヴェッラート『世界をつくった貿易商人―地中海経済と交易ディアスポラ』玉木俊明訳、ちくま学芸文庫、2022年

【要約と感想】マキアヴェッリ『フィレンツェ史』

【要約】イタリア半島の都市国家フィレンツェの、ローマ帝国滅亡(5世紀)から1492年までの歴史を描きました。フィレンツェ以外のイタリア半島の諸勢力(特にミラノ公国、ナポリ王国、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ローマ教皇)の動向にも目を配りつつ、フィレンツェ内の党派争いを詳述しているのが類書と異なる著しい特徴です。

【感想】ところどころにマキアヴェッリ節(目的のためなら手段は選ばない)が垣間見えて、単純に読み物としても面白い。ただ、訳者によるツッコミを見ると、単なる事実誤認もかなりあるようで、そのまま歴史的事実として受け取るのには気をつけた方がよさそうだ。

 歴史的に事実かどうかはともかく、面白く読めるのが、市内の党派争いに勝つためなら市外の敵と組むことも厭わない事件が連発する、一般的に言われる「内憂と外患が連動する」というメカニズムがよく分かるような、フィレンツェ市内の党派争いの醜さだ。まさに「目的のためなら手段は選ばない」というマキアヴェッリ理念を体現したような醜さで、しかも前書きから察するに、マキアヴェッリは意図的にこの醜さを強調するように全体を構成している。自身が権力闘争の渦中にいたマキアヴェッリとしても、度しがたい連中だと心底苦々しく思っていたのだろう。
 そして本書を踏まえると、『君主論』や『ディスコルシ』の表現の背後にあるものもなんとなく見えてくるような気がするのだった。

【今後の研究のための備忘録】有機体論
 都市を一つの「人体」に喩えている議論をサンプリングしておく。

「祖国に対して武器を取るのを、どんな理由からであれ、非難する者はいないでしょう。なぜなら、都市はいろいろな部分からなるとはいえ、一個の人体に似ているからです。都市には、鉄と火なしには治せない病いが幾度も生じますが、都市にたいへん不幸な事態が多発して鉄が必要になった際、祖国に忠実な善人が都市を治療せずに放置するとしたら、その人は間違っているのです。こういうわけですから、共和国という一個の人体にとって、隷属よりも重い病いなどありうるでしょうか?」第5巻第8章

 都市国家(ポリス)を一つの人体に喩えるのは、もちろんプラトン『国家』の伝統を踏まえたものであり、その観点から言えば極めて人文主義的な議論ではある。が、これがフィレンツェ自体を攻撃することを正当化するレトリックに使われているのが、なんともいやはやな議論だ。

【今後の研究のための備忘録】ペトラルカ
 ペトラルカは、もちろん教科書的にはイタリア人文主義の嚆矢と位置付けられる詩人であり、マキアヴェッリを200年遡る人物だ。マキアヴェッリがペトラルカに触れているところはサンプリングしておく。

「彼に期待を抱かせたのは、とりわけ「この手足を支配する崇高な精神」で始まる、ペトラルカの詩の数行であった。詩人はこう歌う。
 タルペイアの丘の上で、歌よ、汝は出会うであろう
 全イタリアが讃える一人の騎士
 わが身よりも他人の身を案じる者に
 ステファーノ殿は、詩人たちが神々しい予言者の精神にしばしば満たされるのを知っていた。だから、ペトラルカがこの歌の中で予言したことを何としても実現しなければならない、そしてそのような栄光に満ちた事業を成し遂げるべき者は自分である、と思ったのである。」第6巻第29章

 ペトラルカは古代ローマ賛美を通じてイタリア・ナショナリズムを浮上させたと見なされている。それが近代的なナショナリズムとどれくらい同じでどれくらい隔たっているかは丁寧に検討する必要があるが、この引用箇所でマキアヴェッリはペトラルカをイタリア・ナショナリズムを体現する詩人として扱っている。日本で言えば頼山陽の日本外史が幕末の志士たちを鼓舞したのと似た現象なのだろう。

【今後の研究のための備忘録】フィレンツェの人文主義
 コジモ・メディチがフィレンツェの人文主義を保護した記述をサンプリングしておく。

「コジモは、さらに文人を愛し、賞讃した。そこで彼は、ギリシア生まれで当時最高の教養人であったアルギュロプロスをフィレンツェに招聘したが、それは、フィレンツェの若者がこの人からギリシア語やそのほかの学識を習得できるようにするためであった。プラトン哲学の第二の父であり、彼が熱愛したマルシリオ・フィチーノの生活の面倒を自宅でみた。そして、マルシリオがより快適に学問の研究に打ち込めるように、またより気楽に使うことができるように、カレッジの別荘近くの土地と家屋を贈った。」第7巻第6章

 ここにフィチーノの名前が挙がり、「プラトン哲学の第二の父」と言われていることは気に留めておきたい。

【今後の研究のための備忘録】ひろゆき
 ひろゆきがもてはやされる風潮が分析されていた。

「多くの場合は平和なときに生じがちな災厄が、この都市に起きた。というのは、通常よりも束縛のなくなった若者たちが、衣服や宴会やそのほかの同様な放縦に常軌を逸した浪費をおこない、暇をもて余しては賭け事や女に時間と資産を空費したからである。かれらの努力は、華麗な衣服や、利口ぶった抜け目ない話しぶりをみにつけることにあった。他人をうまくへこますことのできる者が、より利巧とされたし、より高く評価された。」第7巻第28章

 人間の性は、洋の東西や歴史の違いに関わらず、そんなに変わらないということか。

【今後の研究のための備忘録】印刷術
 印刷術が宣伝合戦に活用された事例が記述されていた。

「教皇は狼であって羊飼いではないことが明らかになったので、在任として貪り食われてしまわないように、ありとあらゆる手段を使って自分たちの大義を正当化し、自分たちの国家に対して為された背信行為をイタリア全体に周知させた。」第8巻第11章

 ここに「フィレンツェ人は、モンテセッコの告白録を導入されたばかりの活版印刷によって刊行し、ここに正真正銘の文書合戦が始まった」と註が付されている。これが1478年のこと。グーテンベルク活版印刷の発明が1450年頃のこととされているので、本当だとしたらまさに直後の出来事だ。活版印刷を使用したプロパガンダ合戦はルター以後の宗教改革の事例がよく知られているが、これはもちろん1517年以降のことになる。宗教改革プロパガンダよりも40年早くイタリアの勢力争いで活版印刷が利用されていたことは気に留めておきたい。

マキアヴェッリ『フィレンツェ史』(上)齊藤寛海訳、岩波文庫、2012年
マキアヴェッリ『フィレンツェ史』(下)齊藤寛海訳、岩波文庫、2012年

【要約と感想】マキァヴェッリ『ディスコルシ―「ローマ史」論』

【要約】真の実力(ヴィルトゥ)を身につけて、運(フォルトゥナ)を乗り越えていこう!

【感想】代表作『君主論』と比較すると、こちらのほうが論の運びが丁寧で、実例も多く、視野も広い。が、その分、勢いには欠け、全体を通じての統一感は薄い。そして表面上、『君主論』のほうは君主制を称揚する一方、本書は共和政を重視しているように読める。また本書はローマ帝国の事例を豊富に扱っているだけあって、古典教養を重視する人文主義の傾向が強くなっている。
 とはいえ共通点ももちろん多く、まず解説でも指摘されているとおり「力(ヴィルトゥ)」への志向は一貫している。日本語ではいろいろな言葉に翻訳されているが、要するに、現実に影響を及ぼすことができる真の実力を意味している。偏差値や学力などのように相対的で潜在的な可能性を意味している言葉ではない。これがいわゆるマキアヴェリズム(目的のためなら手段を選ばない)に直接通じる傾向だ。
 そしてもう一つの共通点は、心理主義的な傾向だ。人々の行動の裏にある欲望や心情を推察し、その流れに乗ると何事もうまく運ぶし、逆らうと失敗する、と一貫して主張している。これは現代では当たり前のことなのだが、中世までは「こうあるべし」という規範を土台に据えた議論ばかりで、人間の欲望や心情を根本に据えて展開する議論にお目にかかることはない。この傾向が、いわゆるマキアヴェリズムの「手段」の説得力に関わってくる。
 ということで、「力への志向」と「心理主義」の二つが組み合わさって、目的のためなら手段を選ばないというマキアヴェリズムが成立するように思える。この2つとも中世までには見当たらないものだし、後の近代の傾向を先取りしているようにも思える。
 逆に言えば、「目的」についてはさほど大きな関心を持っていないように思える。『君主論』は確固たる君主制の実現を目指す方法を説き、『ディスコルシ』は国家を発展させるためには共和政のほうがよいと言っていて、表面上は矛盾しているわけだが、そもそも著者が「目的に関心を持っていない」と考えれば、辻褄が合ってしまう。いったん何かしらの目的を置いてしまえば、あとはそれを実現するための「手段」の考察に全力をかける、というわけだ。これは確かに「目的論の世界」にどっぷり浸かっていた中世から離陸した態度と言えるような気がする一方、アリストテレス(あるいはアヴェロエス主義)の姿勢を極端に推し進めたものとして中世から連続するものと考えてもよいような気もする。こうなると、マキアヴェッリが当時の「自然科学」からどの程度の影響を受けていたかが俄然気になってくるのであった。

【個人的な研究のための備忘録】マキアヴェッリにおける教育
 「教育」に関わる文章がそこかしこに出てきた。が、いま我々がイメージする「学校教育」を語っているわけではないことには注意する必要がある。

「英雄的な偉業は正しい教育のたまものであり、正しい教育はよき法律から生まれる。」42頁
「こうした連中が腐敗した都市に住みなれて、彼らの心に立派な人格を作る教育を受けていないような場合には、どんなささいなことにでも必ず異議を差し挟むものだ。」595頁
「このように好運に恵まれれば得意になり、逆境に沈めば意気消沈する態度は、君たちの生活態度とか、受けてきた教育から生ずるものなのである。教育が浅薄であれば、君たちはそれに似てくる。教育がそれと逆の行き方であれば、君たちは違った性質になる。」602頁
「同じような行為とはいうものの、地域によってその内容に優劣があるのは、それぞれの地域で教育の仕方が違うので、それにつれて異なった生活態度を掴み取るようになるからである。」642頁
「それぞれ異なった家風をもたらす原因は、教育差に基づくものである。なぜならば、若者は幼い時から、事の理非善悪をたたきこまれてはじめて、やがて必然的にこの印象がその人物の全生涯を通じて行動の規範となるからである。」649頁

 上記引用文で言及されている「教育」は、明らかに社会教育を含意している。子どもたちを一定期間教育施設に閉じ込めてもっぱらトレーニングを課す学校教育ではない。そして社会教育とは、「法律」を通じた人格形成を意味している。知識を脳味噌に詰め込むことではない。マキアヴェッリは本書を通じて「良い法律」の制定と遵守を極めて重視している。それは単に治安を維持するためだけでなく、それ以上に、ここで言及されているように「教育=人格形成」に対する効果を考慮してのことだ。「法律」を通じた平時の教育によって確固たる人格を形成することで、緊急時(主に戦争)においても毅然たる行動をとることが可能となる。
 このような「法律」を通じた教育は、なにもマキアヴェッリだけが主張しているわけではなく、プラトン(あるいはソクラテス)以来の伝統だ。またあるいは、「学校教育」による人工的な教育など近代になってから初めて登場したものであって、西洋だろうが東洋だろうが、「教育」と言えば法律を通じた社会教育を含意していたことには注意しておいていいのだろう。だからinstituteという言葉は、現在では「制度を設ける、制定する」という意味で理解されているが、中世までは「教育」を含意していた。(そういう観点から、上記引用部の「教育」の原語が何かは調べておいていいのかもしれない・・)

 一方、「学校」に関して興味深い記述があった。

「市内の上流貴族の子弟が学んでいた学園の一教師が、カミルスとローマ軍の歓心を買おうと考えた。彼は城外において実習を行なうという口実を作って、カミルスの陣営へ生徒全員を連れて行った。そして生徒をカミルスに引き渡し、彼らを人質にすれば、この都市はあなたの手に落ちましょうと言った。だがカミルスは、贈り物を受け取らないばかりか、この教師をまる裸にして後手に縛りあげ、生徒の一人ひとりに鞭を渡し乱打させたあげく、生徒の手で市内に送り返した。」561頁

 街の外で「実習」を行なうということだが、いったいどんなカリキュラムでどんな実習を想定していたかがとても気になる。

【個人的な研究のための備忘録】昔はよく見える
 「昔はよかった」という語りをけちょんけちょんにやっつけている文章があったので、引用しておく。

「人間は、しばしば理由もなしに過ぎ去った昔を称え、現在を悪しざまに言う。このように古い時代に愛着をそそられがちな人びとは、歴史家が書き残した記録を手がかりとして知りうるような古い時代だけにとどまらず、すでに年をとった人びとがよくわるように、自分たちの若かった頃に見聞きした事柄までも褒めあげるものである。人びとのこんな考え方は、たいていの場合間違っていることが多い。」267頁

【個人的な研究のための備忘録】自由
 「自由な政体」のほうが軍事的にも経済的にも発展するという主張は、古代のトゥーキュディデース『戦史』にも見えるところだ。現代の中国やロシアは、果たしてどうなるか。

「国家が領土でもその経済力でも大をなしていくのは、必ずといってよいほどその国家が自由な政体のもとで運営されている場合に限られている」283頁

【個人的な研究のための備忘録】人格
 「人格」という言葉を見つけたのでメモしておく。原語が何かは未調査。

「当人の人格を侮辱すること」479頁
「この人物が立派な人格と力量とで」594頁

マキァヴェッリ『ディスコルシ―「ローマ史」論』永井三明訳、ちくま学芸文庫、2011年

【要約と感想】ダンテ『新生』

【要約】愛した女性のためにたくさん愛の歌を詠んだけど、死んじゃったので死にたくなるほど悲しい。ということを後になって回想したら、その女性がほとんど神だということに気がつきました。

【感想】愛を歌う詩に、作者自身の解説がついている。作詩の教科書として利用されることを狙ったもののようにも勘ぐる。特に「愛」を擬人化して表現した描写について、その意図や狙いを細かく説明しているところなどは、詩の初学者向けの案内のように感じる。
 肝心の詩の内容はとにかく「愛している」ということは強く伝わってくるものの、一方で極めて抽象度が高く、具体性に乏しい。髪の色とか仕草など、現代の散文で描かれるような描写がほとんどない。ベアトリーチェの個性や特徴が浮き彫りになるような表現はまったく見あたらず、極度に一般化された「美」と「徳」への賛美と傾倒に終始する。そういう意味では、やはり分析的思考の近代ではなく、どっぷり象徴的思考に浸かった中世ということなのだろう。やたら「9」という数にこだわるのも、中世の象徴的思考の表れだろう。(ちなみにいちおう、つまらないということではない。)

【個人的な研究のための備忘録】俗語

「昔は俗語で愛を歌つた者はなく、ただラテン語で愛を歌つた詩人だけがいくたりかあつた(中略)。即ち我等のうちでは(おそらく他の人々のうちにも同じ事が、たとへばギリシヤに於ける如く、昔あつたのみならず今もあるであらうが)俗語詩人でなく雅語詩人がこれらの詩材を取扱つたのである。そしてこれら俗語詩人(韻を踏んで俗語で歌ふのは、ある範囲内では韻律によつてラテン語で歌ふのに等しい)が始めて現れたのは久しい以前のことでない。久しくないといふしるしには、オコの国語やシの国語に求むるに、今より百五十年以前のその先には何等の作品も見当らない。ある拙い人たちが詩家たるの名を得た理由は、かれらがシの国語で歌つたいはば最初の者であつたからである。また俗語詩人として歌ひはじめた最初の人がさうするやうになつたのは、ラテン語の詩をよく理解しえない一婦人に自分の言葉を理解させようとの心からであつた。そしてこれが愛以外の詩材を捉へて韻文を作る人達にとつては不利なのである。かかる表現の方法はもともと愛を歌ふために見出されたものであるから。」84頁

 このダンテの認識は、解説でも指摘されているように、事実としては間違いだらけだ。まず俗語の詩作が始まったのは、ダンテの言うように「百五十年」ではない。さらに100年は遡る。また詩材が恋愛に限られるという認識も誤っている。
 ただしだからといって無意味な記述ではない。当時超一流の詩人の認識が素直に現れている言質として、事実誤認そのものも含めてとても価値がある。特に、俗語で詩作することに対して、ダンテが誇りを持っているらしいことが表現されているところが貴重だ。
 たとえば日本でも、漢詩から和歌への切り替わりのタイミングで、古今和歌集の仮名序のように、「敢えて和歌を詠うことの意味」を表明するものが現れる。俗語で歌を詠むことが「芸術に価するかどうか」について、なんらかのためらいが存在し、それを意識的に打ち破る必要があった、ということだ。
 ダンテの場合、詩の内容として「愛」を扱うことが詩の形式として「俗語」を採用することの決定的な理由だ、というところが重要だ。歴史的には間違っているが、14世紀初頭の超一流詩人がそう理解していた、ということが重要だ。
 日本でも、愛の歌は漢詩ではなく和歌で扱われた。「俗語」を尊重する動きに関しては国民国家形成との絡みがよく指摘されるところだし、実際に重要な論点だとは思うものの、個人的には恋愛の観点もとても重要だと思うのだ。

ダンテ『新生』山川丙三郎訳、岩波文庫、1948年