「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】鶴見俊輔『教育再定義への試み』

【要約】教育とは、「死」や「老い」も含めて「生き方」を伝える試みで、正しいことからではなく失敗や逸脱から糸口が見つかるようなものです。大人から子どもに一方的に伝えるものではなくて、お互いに乗り入れるようなものです。
 あるいは、教育とは無抵抗に植え付けられた「痛み」から始まり、逃走や抵抗から自己教育に向かうようなものです。老いや耄碌も含みこんで、言葉にならないようなまなざしや仕草として、死ぬ準備のための自己教育を行いたいのです。

【感想】内容よりも先に、その著述形式の斬新さに驚いた。注で話を続けるのかい!
 内容については、とりとめもまとまりもない、としか言いようがない。だからこそ、多様な読み込みが可能な隙も多い。おそらく著者が言いたいだろうこととは無関係に、読者自身が分かりたいと望むことを勝手に読み取るような文章になっている。そしてそういうものでいいと著者本人も言っている。なら、そう読むしかない。何かを学ぶために読むものではなく、まなざしや仕草を自分らしくするために読む本なのだろう。

鶴見俊輔『教育再定義への試み』岩波現代文庫、2010年<1999年

【要約と感想】鷲見誠一『中世政治思想史講義―ヨーロッパ文化の原型』

【要約】ヨーロッパ文化の本質とは「普遍性」と「合理性」であり、その原型は中世にあります。中世はシャルルマーニュによるローマ復興に始まりますが、政治権力の正統性としてキリスト教と手を結んだことが重要です。キリスト教は現実的な政治権力と親和的です。
 11世紀グレゴリウス改革によって、それまで権威的に人々から信仰を集めていたカトリック教会は、官僚組織を備えた実質的権力によって人々を統治するように変化しました。それが世俗国家のモデルとなります。世俗国家は「特殊」的な地域権力として発展していきますが、正当性を獲得するためには何らかの形で普遍と繋がる必要があり、その際に合理性が発揮されます。
 しかし教皇が2人以上並び立って教会が分裂し、公会議運動が盛り上がることで中世は終わりはじめ、宗教改革によって決定的に近代に入ります。

【感想】うーん、著者は「合理性」はヨーロッパ(特にキリスト教)に特有のものだと主張するけれど、本書で具体的に言及される合理的なものの例を見る限り、その程度のものなら日本にも中国にもあるようにしか思えない。たとえば豊臣秀吉が関白を名乗る際に平安貴族の養子になってみたり、徳川家康が征夷大将軍になる際に新田氏との繋がりを僭称して源姓を名乗ったのは、本書が言う中世封建国家がキリスト教やローマ帝国の「普遍性」に繋がろうとして発揮した「合理性」と何ら変わりがない。中国では、たとえば歴代皇帝はどうして儒教を保護して「天」との繋がりをあれほど強調するのか。いや日本でも何かあるごとに「天」を持ち出して普遍性を主張したではないか。「政治的「特殊」は特殊のままでは政治的権威・権力としては正当性を獲得することができず、普遍性となんらかの形で関係を持たなくてはならない」(216頁)のは、西欧に限った話ではない。そして、著者はやたらと「歴史」について西欧と日本を区別するけれども、その根拠も薄弱なようにしか思えない。北畠親房や水戸光圀の営為をどう思っているのだろうか。ともかく要するに、本書を読む限り、ヨーロッパ中世に日本中世や中国中世と異なる個性を見出すことはできなかったのであった。まあ、よくある前近代の一つに過ぎない。
 一方、西欧における「中世の終わり」は日本や中世とはかなり異なる個性的な出来事のように見えた。やっぱり日本や中国やイスラムになく、ヨーロッパにだけあったのは、「世俗化」の徹底だけだったのではないか。前近代の日本で古事記や日本書紀の虚構性を暴こうとした人はいないし、前近代の中国で「天」に基づく社会秩序を覆そうとした人はいない。

鷲見誠一『中世政治思想史講義―ヨーロッパ文化の原型』ちくま学芸文庫、2024年<1996年

【要約と感想】J.L.アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』

【要約】16世紀以降に西ヨーロッパはアメリカ大陸からの収奪によって原始蓄積を進めることでグローバルな世界システムの覇権を握りましたが、それはヨーロッパの科学や技術や思想や文明にアドバンテージがあったからではなく、ただそれ以前の13世紀から存在した世界システムの衰退による権力の空白にたまたま便乗できただけです。
 13世紀には西欧―東地中海ー中東ーインドー東南アジアー中国の各サブシステムが連動して各地域を結ぶ交易が活発に行われ、資本主義的な流通・金融・生産様式が発達しました。モンゴル帝国の覇業によって、中央アジア内陸ルートの終着点である中国北部と、紅海・ペルシャ湾を経由するインド洋ルートの終着点である中国南部が繋がり、世界システムが駆動するようになりました。しかし14世紀半ば以降はペストの流行やモンゴル帝国の衰退に伴って世界システムに綻びが生じ、元を引き継いだ明にもインド洋海上交易ルートを確保する経済的余裕がなく、インド洋海上ルートに権力の空白が生じ、そこに西欧がつけ込みました。

【感想】まあ、広域的な統一権力が成立すると国家が積極的に関与しようがしまいが流通や金融取引のコストとリスクが下がって交易が盛んになり、都市後背地の商品作物生産とマニュファクチュアも発達するという、言ってみればそれだけの話を、世界的規模で地政学的な知見も絡めながら展開したからおもしろく読める本になっているのかな、と思ってしまった。本書でも言及されているように、紀元前後のローマ帝国と漢帝国のように東西に広域権力が並び立った時にはシルクロードを通じた交易が栄えた。本書が扱う14世紀には、モンゴル帝国が中央アジアと中国北部さらに中国南部を広域支配し、ムスリムがエジプトからペルシャまでを広域支配したことで、政治的安定を背景に交易が栄えた。またたとえば江戸時代の日本は幕藩体制による広域的な政治的安定を土台として商品経済が発達した。海賊や山賊の恐れがなければ流通のコストが下がり、ルール違反者を取り締まる治安が良ければ金融のコストが下がる。戦争がなければ商品作物の生産力やマニュファクチュアが発達する。広域的統一権力は、民兵を取り締まり、治安を強化し、戦争を起こさないことで、経済を発展させるための土台となる。
 しかしその広域統一権力による平和と安全を土台とした経済発展が永久に続くことはない。なぜなら、商品経済の進展に伴って地域ごとの役割が固定して格差が拡大し、矛盾が看過し得ないところまで拡大したところで広域統一権力の破綻が起きるのは必定だからだ。もちろん21世紀の現在は、大方の世界システム論者が予見したとおり、パックス=アメリカーナが破綻しつつあるところ、ということになるのだろう。やれやれだ。

【個人的な研究のための備忘録】ルネサンス
 本書の趣旨からいえば脇筋のテーマになるのだが、ルネサンスに関わるイタリア諸都市の位置づけについてメモしておく。

「南ヨーロッパは、北西ヨーロッパが被った世界からの分離や再結合の過程を経験することはなかった。暗黒時代に北西ヨーロッパではたとえ光が消えたとしても、イタリアでは光が灯りつづけていたのである。」58-59頁
「もしこの定義を使うとすれば、ジェノヴァとヴェネツィアの都市国家(フィレンツェや他のイタリアの内陸商業都市は言うまでもなく)が、多少のちがいこそあれ、十三世紀までにはほぼ資本主義国家であったことに、疑う余地はほとんどないだろう。」155-156頁

J.L.アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前(上)』岩波現代文庫、2022年<2001年
J.L.アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前(下)』岩波現代文庫、2022年<2001年

【要約と感想】梅田百合香『甦るリヴァイアサン』

【要約】三十年戦争やピューリタン革命の時代に生きたホッブズは、宗教の影響力を全面否定し、世俗の主権者が統治する国家理論を打ち立てました。ホッブズの言う「自然状態」は、自由意志を持たない人間は神と善悪の基準を共有できず、自然法を持たないという考え方に基づいています。善悪の基準=法は国家が成立した後に初めて登場します。平和に暮らしたいという人間の「希望」に支えられて熟慮の総和が「意志」となったとき、自己保存のための合理的な帰結として自然法が立ち上がり、神の意志と結びいた倫理的法則となります。一方、カトリックの言う「神の王国」は既に存在しません。自然法に従うべく自らの自然権を放棄する契約に基づいて国家が成り立ちますが、実際に権力を維持するためには軍事力が必要であり、それを支えるのは教育です。
 この自然状態の考え方を国際関係に適用する風潮がありますが、ホッブズ解釈としては間違っています。希望に支えられた「意志」によって自然法が立ち上がり、教育や文化や市民的活動などによって自然法の隣人愛精神が国家内部に根づくことで、国際関係は自然法以前の「自然状態」とは異なる秩序と平和を形成できるはずです。

【感想】現代に生きるわれわれにとっては「法=lex」と「権利=jus」が異なるのは当然の感覚だが、どうやらそれを明確に峻別し切ったのはホッブズらしいことが分かる。そして我々がlexとjusを峻別するのは「国家状態」にあることを当然の前提としているからであって、国家以前の「自然状態」にあってはlexとjusを区別する指標は存在しない。人間はサバイバルのために自分にできること=jusはなんでもするし、自分にできることは神に定められたこと=lexだからだ。しかし自分にできること(自然権)=jusを放棄して、主権者の定めたルール=lexに従うことを「意志」したとき、「国家状態」に突入する。できること=jusと従うこと=lexを区別しなければいけなくなる。こうなるとlexとjusがカバーする範囲の相違が問題となるが、基本的にホッブズは個人の内面をjusの範囲とし、外面に出る行動をlexの適用範囲とする。これをもって「個人の誕生」と見なすかどうか。逆に言えば、個人主義が誕生していないことのメルクマールをjusとlexの混同に置いてよいかどうか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 教育に関する言及がたくさんあり、しかも急所に刺さる論点として提示されている。

「ホッブズによれば、このような人民の指導は、根本的には、彼らの指導者となる人々の教育、すなわち「大学における若者の正しい教育にまったく依存している」のである。それにもかかわらず、イングランドの大学では、ここで教育を受けた多くの説教者たちや法律家たちが、まったく反対に、主権者の権力に反対する学説を人々に説いてきた。したがって、ホッブズからすれば「正しい教育」が施されてきたとは言いがたく、まずは大学が、そこで学ぶ将来のエリートたちに主権者への服従義務を教育するよう改革されねばならないのである。」82頁
「彼にとって、軍事は教育と密接にかかわる問題であった。」84頁
「一人一人の兵士の強さを統一するにはどうすればいいのか。それは、一人一人の兵士の国家および主権者に対する服従心を養うしかない。それをもたらすのは武力ではなく、教育である。ホッブズは、国の平和と主権者権力の定着に必要なのは教育であると主張する。」99頁

 結局もっともらしい理屈を並べても、問題を実際に解決するためには人々に受け入れられる必要があり、それは「教育」という形でしか実現しない。ホッブズの言う社会契約説を見えない土台で支えるのは「教育」であり、おそらくそれはロックやルソーの社会契約論にも当てはまる。だからルソーは『社会契約論』を世に問うたのとまったく同じ年に『エミール』を用意しなければいけなかったのだ。
 そしてそれぞれの論者の社会契約説の性格は、それぞれの論者の教育論の性格を素直に反映する。ルソーは自立した個人としての人間、ロックは経済的主体としての市民、ホッブズは絶対主権者に従う臣民だ。ということは、逆に言えば、教育論を欠いて社会契約説の理屈やメカニズムだけ云々してもあまり意味がないということになる。

梅田百合香『甦るリヴァイアサン』講談社選書メチエ、2010年

【要約と感想】上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』

【要約】スピノザは聖書(特に旧約聖書)には真実が書かれていないことを次々と実証していきますが、聖書の誤謬を明らかにしたかったのではなく、聖書の内容に真実を読み込もうとする態度自体に何の意味もなく、信憑の形式的な条件を明らかにすることを目指しているのです。聖書とは一般の人々が正義と愛徳の世界で隣人を愛しながら平和に生きていくために「意味」があるものであって、科学的な真実を明らかにするために必要なものではありません。だから聖書が語る「内容」が正しいかどうかを詮索することにまったく意味はなく、預言や信託を語る人が「敬虔」であることに信憑に対する決定的に重要な効果があり、隣人愛を実現するための宗教というものはそれで問題ないのです。同じように、現実の国家政治においても、発言の「内容」の正しさなんてものはどうでもよく(だって人々は多様なのだから)、「形式」として正義と愛徳が実現できていることが決定的に重要です。だからこそ思想と表現の「自由」が尊いのです。
 しかしこのスピノザの真意は当時の人々にはまったく通じず、もちろん教会関係者から弾劾されますが、加えてデカルト的合理主義に与する人々からも非難されました。

【感想】「形式」と「内容」を峻別することでスピノザ(およびその敵対者)の論理を明らかにするお手並みは、お見事だった。そして確か丸山真夫が「形式と内容の峻別こそが近代」と言っていたような記憶があるが、だとすればスピノザこそが近代だ。しかし「実は内容と形式は峻別できない」と分かったのが現代なのだった。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約説
 社会契約説についても興味深い論が展開されていて、勉強になった。「形式」と「内容」を峻別して人々の形式的な自由を確保したとしても、しかし実際には具体的な「内容」が問題となる場合があり、その時に必要となる手続きがいわゆる社会契約説ということになる。しかしスピノザは「社会契約説は理論に過ぎない」とか「自然権は放棄できない」と言っていて、これはつまり「形式」から峻別された「内容」を完全に制御することはできないという洞察を示している。人間が具体的な権力において合意できる(あるいは国家権力が強制力を行使できる)のは「形式」としての自由の確保までで、「内容」については不断の対話の努力によって更新していくしかない。これが本来のリベラルというものなのだろう。

上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』ちくま学芸文庫、2014年