社会に開かれた教育課程とは―新学習指導要領の理念―

簡単にまとめれば

閉鎖的な学校での教育が行き詰まったので、家庭や地域にもがんばってもらって、社会に貢献できる人材をみんなで育てましょう、ということです。

まあ、これだけならわかりやすく感じますが、難しくなってしまうのは、「じゃあ、どうやって具体化するの?」と考えたときです。具体化を考えると、
(1)社会に貢献できる人材をどうやって育てるの?
(2)閉鎖的な学校を変えるために何をすればいいの?
という課題が見えてきます。

社会に開かれた教育課程の課題

(1)社会に貢献できる人材をどうやって育てるの?という課題に応えるのが「カリキュラム・マネジメント」です。カリキュラム・マネジメントとは、「社会に開かれた教育課程」の理想を実現するための具体的な方策です。→【参考】カリキュラム・マネジメントとは

(2)閉鎖的な学校を変えるために何をすればいいの?という課題に応えるのが、コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)や、チーム学校など、学校制度改革です。「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」とは、「社会に開かれた教育課程」を実現するための新しい学校の姿です。

というふうに、「社会に開かれた教育課程」は、学校が抱える現実的な課題と密接に結びついています。逆に言えば、「社会に開かれた教育課程」が分かると、自然に他のキーワードも理解できます。

大雑把に問題の所在を踏まえた上で、まず文部科学省が「社会に開かれた教育課程」をどう説明しているかを確認していきましょう。

「社会に開かれた教育課程」の定義

学習指導要領の記述

学習指導要領』(平成29年版)の前文には、「社会に開かれた教育課程」の定義が次のように示されています。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

この定義を正しく読み取るためには、
(1)「これからの時代に求められる教育」って何?
(2)「よりよい社会」って何?
(3)「資質・能力」って何?
(4)「社会との連携及び協働」ってどうするの?
について考えなければいけません。

それぞれの問いに大雑把な答えを与えるとしたら、次のようになるでしょう。

▼「これからの時代に求められる教育」とは、少子高齢化・グローバル化・情報化(さらには人工知能の進化)・雇用環境の変容という、急激に変化する予測困難な社会に対応するための教育を指します。キーワード的には「知識基盤社会」の進展に対応する教育を指します。

▼「よりよい社会」とは、学習指導要領そのものが指し示すキーワードとしては「持続可能な社会」が想定されます。またあるいは「第二期教育振興基本計画」の理念に従えば、「自立・協働・創造の3つの理念の実現に向けた生涯学習社会」が想定されるところです。
(が、しかし、政府や文部科学省の姿勢を総合的に考慮すると、実際には「知識基盤社会」の進展に対応して産業を発展させ、日本が国際社会で経済的に存在感を高めるのが「よい社会」と考えているように見えてしまうところではあります。)

▼「資質・能力」とは、教科等を横断する汎用的なスキル、あるいは「コンピテンシー」という概念が想定されます。この場合の汎用的なスキルとは、例えば問題解決、論理的思考、コミュニケーション能力等を指します。またあるいは自己調整や内省、批判的思考を可能にするものとして「メタ認知」の能力を指します。さらに「教科等の本質に関わるもの」あるいは「教科等ならではの見方・考え方」を指します。このあたりは「21世紀型スキル」として改めて考えるべきところですので、必要なら別のページをご参照ください。→【参考】育成を目指す資質・能力とは

▼「社会との連携及び協働の具体的な形」とは、「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」という制度的な整備を押さえた上で、学校評価やその公開など、学校を運営(マネジメント)する体制の構築を指します。

そんなわけで、一口に「社会に開かれた教育課程」と言っても、教育や学校に関わるあらゆる面から総合的に物事を考えなければいけないことが分かります。逆に言えば、文部科学省が今回の学習指導要領に込めた狙いは、ほぼすべて「社会に開かれた教育課程」の中に含まれています。

カリキュラム・マネジメントとの関係

さて、定義についてはなんとなく分かったので、次に、具体的に何をすればいいかについて確認しましょう。結論から言うと、学校が具体的にするべきことは「カリキュラム・マネジメント」です。ということで、具体的にするべき仕事については別のページをご参照ください。→カリキュラム・マネジメントとは

このページでは、「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」の関係を確認しておきます。『学習指導要領解説 総則編』は、次のように言っています。

中央教育審議会答申においては、“よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創る”という目標を学校と社会が共有し、連携・協働しながら、新しい時代に求められる資質・能力を子供たちに育む「社会に開かれた教育課程」の実現を目指し、学習指導要領等が、学校、家庭、地域の関係者が幅広く共有し活用できる「学びの地図」としての役割を果たすことができるよう、次の6点にわたってその枠組みを改善するとともに、各学校において教育課程を軸に学校教育の改善・充実の好循環を生み出す「カリキュラム・マネジメント」の実現を目指すことなどが求められた。
① 「何ができるようになるか」(育成を目指す資質・能力)
② 「何を学ぶか」(教科等を学ぶ意義と、教科等間・学校段階間のつながりを踏まえた教育課程の編成)
③ 「どのように学ぶか」(各教科等の指導計画の作成と実施、学習・指導の改善・充実)
④ 「子供一人一人の発達をどのように支援するか」(子供の発達を踏まえた指導)
⑤ 「何が身に付いたか」(学習評価の充実)
⑥ 「実施するために何が必要か」(学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策)
(2頁)

「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」が密接に関連した概念であることが読み取れたでしょうか。大雑把には、「社会に開かれた教育課程」が教育改革全体の理念とすれば、「カリキュラム・マネジメント」は学校が行うべき具体的な課題です。つまり、「社会に開かれた教育課程」を実現するためには、どうしても「カリキュラム・マネジメント」は避けて通れないわけです。逆に言えば、「カリキュラム・マネジメント」を進めるに当たっては、常に「社会に開かれた教育課程」を意識しなければいけません。

「社会に開かれた教育課程」の背景

以上、学校が実際にやらなければいけない仕事も分かりました。でも、どうしてやらなければいけないのでしょうか? このままの学校ではダメなのでしょうか。平成28年12月の「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」には、「社会に開かれた教育課程の実現」がなぜ必要なのか、背景が以下のように説明されています。

このような「社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。
① 社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。
② これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自らの人生を切り拓ひらいていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。
③ 教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること。

この記述では、「社会に開かれた」という言葉の意味がかなり具体的に明らかになっています。まとめると、以下のようになります。
(1)「社会に開かれた」とは、まずは学校教育の目標が社会と共有されている状態を指すようです。ということは、逆に言えば、これまでの学校教育は、必ずしも目標を社会と共有していなかったということを示唆しています。学校と社会の目標がズレていたら、社会で役に立つ人材が育つわけがないですね。
(ただ、本当に学校が社会から閉ざされていたのか、あるいはそれが良いことか悪いことかについては、改めて吟味する必要があります。)
(2)次に「社会に開かれた」とは、社会や世界に通用する資質・能力を育てることを意味します。逆に言えば、これまでの学校は社会や世界に通用する資質・能力を育ててこなかったと判断されているわけですね。かなり舐められていますが、その判断の根拠としては、PISA調査や全国学力調査などで、単なる知識としてのA問題の正答率は高いのに、生活場面で活用するB問題では大幅に正答率が下がるという現象が意識されているでしょう。
(ただし、その場合の「社会」や「世界」が具体的に何を指しているかについては、しっかり吟味しておく必要があるでしょう。)
(3)最後に「社会に開かれた」とは、もはや学校だけが教育を独占して担うべきではない、ということを示唆しています。
(この論点については、チーム学校やコミュニティ・スクールという制度改革だけでなく、改めて「市場化」や「民営化」という観点を忘れずに吟味していく必要があります。かなり怖い話に繋がっていきます。)

要するに、現在の学校や教育が抱える問題を解決するためには、どうしても学校を社会に開く必要があると考えているわけです。このまま学校を放っておいてはダメなようですね。

具体的な実践例について

さて、定義と背景について確認したところで、気になるのは「社会に開かれた教育課程」の実践例です。が、個人的には、改めて「実践」をつくり出す必要はないと思います。
たとえば、報告されている種々の「社会に開かれた教育課程の実践例」を見る限りでは、これまでにも積み重ねられてきた総合的な学習の時間や特別活動の実践と基本的には変わりがありません。具体的な実践は、これまでのもので充分ということです。
というのも、「社会に開かれた教育課程」という概念に期待されているのは、実践そのものの新たな創出や改善ではないのです。期待されているのは、既存の取り組みの位置づけをメタ認知的に総括し、改めて意識付けすることです。具体的な作業として学校に求められていることは、教育の「目標」を再検討したり、「目標」と実践との結びつきを確認したり、実践を効果的に行うための組織のあり方について整備したり、実践の効果をチェックする仕組みを工夫したり、成果を発表する体制を整えたりすることなのです。そしてこれが「カリキュラム・マネジメント」に期待されているものです。
逆に言えば、ただ実践そのものを工夫するだけでは「社会に開かれた教育課程」を実現したことには絶対になりません。「社会に開かれた教育課程」を理解するためには、地域の環境や条件から切り離された実践例をいくら検討しても、意味がありません。まず必要なのは、学校も含めた地域の現実を把握することです。実践は、その後です。
雑誌記事なりインターネット上の報告等を見ると、社会と関わりのある実践を行いさえすれば「社会に開かれた教育課程」を実現しているかのように考えている記述を散見しますが、もちろんそれだけでは文科省の言う「社会に開かれた教育課程」の目指しているものにはなりません。むしろ、どれだけ社会との関わりがあろうと、「目標」に照らして意味がない実践だと結論が出た場合は、やめてしまって良いのです。
根本から、原理的に、基本に立ち戻って、偏見と先入観を取り除いて、前例にこだわらず、教育と学校のあり方を独創的に考えていこうというのが、文部科学省の狙いです。

教員採用試験の小論文

そして教員採用試験の小論文のテーマとしても、「社会に開かれた教育課程」はよく出てきます。というのも、ここに文部科学省の言いたいことがすべて詰まっているので、問題にしやすいわけですね。
まあ、ここまで読んで内容を理解していれば、書くべきことは自然に見えてくると思います。こんな感じで書けばいいでしょう。

【起】「社会に開かれた教育課程」の「定義」を理解していることをアピールする。
【承】なぜ「社会に開かれた教育課程」が必要なのか、「背景」を理解していることをアピールする。
【転】「社会に開かれた教育課程」の具体的な「課題」がどこにあるのか理解していることをアピールする。
【結】実際に学校や教員が行うべきことが「カリキュラム・マネジメント」であることを踏まえ、実践に向かう意欲をアピールする。

肝に銘じておくべきことは、教員採用試験の小論文は評論家的に知っていることを書くのでは印象が悪くなるということです。現場は、他人事のように問題を語る評論家などいりません。自覚を持って子供と向き合える実践家が欲しいのです。小論文や面接では、しっかり主体的に問題を捉えて、当事者意識を前面に出していく必要があります。そのためには、「カリキュラム・マネジメント」と「主体的・対話的で深い学び」について、「社会に開かれた教育課程」との関係を意識しながら理解しておくといいでしょう。
カリキュラム・マネジメントとは
主体的・対話的で深い学びとは

参考文献

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年

東京大学教育学部が本気でカリキュラム改革に挑んだ記録。収録されている個々の論文が、参考になります。

▼本田由紀「カリキュラムの社会的意義」27-40頁
・日本の学校が提供してきたカリキュラムが、いかに社会的意義とかけ離れていたものだったか、OECDの各種調査を元に明らかにしています。「「生きる力」や「人間力」をはじめとする様々な「力」の形成や、生き方を考えるための「キャリア教育」といった、抽象度の高い「社会的意義」が、いかなるカリキュラムを通じていかに形成されるのかということについての経験的な吟味がきわめて不十分なままで、スローガンとして掲げられているのが現状である」(37頁)という指摘は、重いですね。

▼市川伸一「「社会に生きる学力」の系譜」 41-50頁
・1990年代の学力低下論争から、00年代の「生きる力」の具体化まで、教科学力ではない「社会に生きる学力」の重要性が浮上する文脈がコンパクトにまとまっています。

▼金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」123-135頁
・「社会に生きる学力」が、単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧しています。教師に期待されるのは、産業社会を超えるビジョンを示す力であることを示しています。

▼牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」195-208頁
・学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは、単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧しています。

『新教育課程ライブラリVol.11 「社会に開かれた教育課程」を考える』ぎょうせい、2017年11月

『学習指導要領』本体や中教審答申が出る前の、2016年8月段階の「審議のまとめ」記述を元に構成されています。そのせいか、プリミティブで総論的な問題意識を生々しく伺うことができる記事が散見されます。安彦忠彦が寄せた痛烈な批判記事は、賛否はともかくとして、なかなか興味深く読めます。

 

批判的な吟味

そんなわけで文部科学省の言い分を確認してきましたが、本当にこの方針で大丈夫でしょうか? 教育原理的に考えてみましょう。

「社会」とは何か?

実はそもそも、「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」が具体的に何を意味するかは、学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかになっていません。しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できてしまいます。あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われてしまいます。
そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずです。もちろん市民社会も経済を実体とする側面もありますが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もあります。気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点です。もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはありませんが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていません。たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てきますが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところです。「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていません。ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見えるような気がします。それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないでしょうか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないでしょうか?

学校選択制と「社会」

この観点から問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性です。仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくるからです。もしも「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community(社会)に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示します。一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation(社会)に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示します。「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるわけです。そして、これまで「学校選択制」が積極的に推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体(local community)ではなく利害を共有する結社(association)である可能性が高くなるわけです。
「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった市場経済に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところです。むしろ「社会」という言葉の曖昧さを逆手にとって、都合のいいところだけ摘まみ食いしているようにすら感じます。(そしてその矛盾の行き着く先には、教育の市場化と公教育の崩壊が待っているかもしれません。)

local communityの問題

また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community(地域共同体)が問題を抱えていないわけではありません。教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもあります。local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるでしょう(小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意)。小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もあります(佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p.68)。
このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものは社会から隔離され、一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もあるわけです。しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わってしまうでしょう。「学校を社会に開こう」と言いますが、もしも社会が酷いものだったら、むしろ学校は閉じていた方がいいのではないでしょうか。

global marketとlocal communityの間

だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくるわけです。その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずです。
文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がしっかり反映しているでしょうか。このあたり、地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまないところではあります。そういう矛盾に目をつぶって、単に「社会に開かれた教育課程」と唱えて学校だけに課題を押しつけるのでは、むしろ矛盾は拡大するだけに終わることが容易に想像できます。地方自治のあり方を踏まえて、広い視野から教育と学校の未来を考えていかなければなりません。