社会に開かれた教育課程―新学習指導要領の吟味―

社会に開かれた教育課程とは?

簡単にまとめれば、学校だけが教育するのでは子供がしっかり育たないから、家庭や地域にもがんばってもらって、社会で役に立つ能力を備えた人材をみんなで育てましょう、ということです。

まあ、これだけならわかりやすく感じるけれど、難しくなってしまうのは、「じゃあ、どうやって具体化するの?」と考えたときです。具体化を考えると、(1)学校のカリキュラムをどのように社会と繋ぐか、(2)学校を社会に開くために何をすればいいのか、(3)学校と家庭・地域との連携をどう構築するか、という3つの課題が見えてきます。

(1)学校のカリキュラムをどのように社会と繋ぐか?という課題に応えるのが「カリキュラム・マネジメント」という考え方です。これについては、改めてしっかり考える必要があります。【参考】カリキュラム・マネジメント
(2)学校を社会に開くために何をすればいいのか?については、教育委員会改革や、学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)や、チーム学校など、法律や制度の問題に踏み込んでいく必要があります。
(3)学校と家庭・地域との連携をどう構築するか?については、生涯教育や社会教育という観点を踏まえて、社会の中における学校の位置づけそのものを考え直す必要があります。
というふうに、理念としては「社会に開かれた教育課程」が分かったとしても、具体化するためには考えなければいけないことが多すぎて、教育課程や教育制度や法律の問題と連動して、問題がややこしくなってしまうわけですね。

大雑把に問題の所在を踏まえた上で、以下、学習指導要領や解説編の本文を参照しながら、「社会に開かれた教育課程」とは何かを確認していきましょう。

学習指導要領の記述

今時学習指導要領改訂の最大のキーワードの一つは「社会に開かれた教育課程」である。『学習指導要領』(平成29年版)の前文には、教育基本法に定める教育の目的と目標に続いて、「社会に開かれた教育課程」の重要性が次のように述べられている。

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(2頁)

この文章で意図されているものを正確に読み取るためには、まずここで言われている「これからの時代に求められる教育」とはどういうものかを認識した上で、「よりよい社会」とは具体的にどのような社会かという展望を明らかにし、ここで言われている「資質・能力」とは具体的にどのようなものかを理解し、「社会との連携及び協働」の具体的な形と実現のための方策を適切に見極める必要がある。またもちろん、「必要な教育内容」を具体的に選択し、「どのように学」ぶかについて洞察することも必要となる。

大雑把に整理してみれば、
▼これからの時代に求められる教育=少子高齢化・グローバル化・情報化→人工知能の進化・雇用環境の変容という、急激に変化する予測困難な社会に対応する教育を指す。キーワード的には「知識基盤社会」の進展に対応する教育を指す。
▼よりよい社会=学習指導要領そのものが指し示すキーワードとしては「持続可能な社会」が想定される。あるいは「第二期教育振興基本計画」に従えば、「自立・協働・創造の3つの理念の実現に向けた生涯学習社会」が想定される。しかし文部科学省の姿勢を鑑みると、実際には「知識基盤社会」の進展に対応して産業を発展させ、日本が国際社会で経済的に存在感を高めるのが「よい社会」と考えているように見える。
▼資質・能力=教科等を横断する汎用的なスキル、あるいは「コンピテンシー」という概念が想定される。この場合の汎用的なスキルとは、例えば問題解決、論理的思考、コミュニケーション能力等を指す。またあるいは自己調整や内省、批判的思考を可能にするものとして「メタ認知」の能力を指す。さらに「教科等の本質に関わるもの」あるいは「教科等ならではの見方・考え方」を指す。参考=育成を目指す資質・能力
▼社会との連携及び協働の具体的な形=「コミュニティ・スクール」や「チーム学校」という制度的な整備を押さえた上で、学校評価やその公開など、学校を運営(マネジメント)する体制の構築を指す。
▼必要な教育内容=育成すべき資質・能力を踏まえた上で、「カリキュラム・マネジメント」をどのように構想するかを考える必要がある。参考=カリキュラム・マネジメント
▼どのように学ぶか=いわゆる「主体的・対話的で深い学び」に対する洞察が必要となる。参考=主体的・対話的で深い学び
という具合だろう。これらそれぞれの論点については、また個別に吟味しておく必要がある。

学習指導要領解説 総則編の記述

学習指導要領解説 総則編』には、「社会に開かれた教育課程」について、以下のように記述されている。

中央教育審議会答申においては、“よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創る”という目標を学校と社会が共有し、連携・協働しながら、新しい時代に求められる資質・能力を子供たちに育む「社会に開かれた教育課程」の実現を目指し、学習指導要領等が、学校、家庭、地域の関係者が幅広く共有し活用できる「学びの地図」としての役割を果たすことができるよう、次の6点にわたってその枠組みを改善するとともに、各学校において教育課程を軸に学校教育の改善・充実の好循環を生み出す「カリキュラム・マネジメント」の実現を目指すことなどが求められた。
① 「何ができるようになるか」(育成を目指す資質・能力)
② 「何を学ぶか」(教科等を学ぶ意義と、教科等間・学校段階間のつながりを踏まえた教育課程の編成)
③ 「どのように学ぶか」(各教科等の指導計画の作成と実施、学習・指導の改善・充実)
④ 「子供一人一人の発達をどのように支援するか」(子供の発達を踏まえた指導)
⑤ 「何が身に付いたか」(学習評価の充実)
⑥ 「実施するために何が必要か」(学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策)
(2頁)

「社会に開かれた教育課程」と「カリキュラム・マネジメント」が密接に関連した概念であることがわかる記述となっている。大雑把には、「社会に開かれた教育課程」が新学習指導要領及びそれを実現するための制度改革の全体的な方針を示す掛け声とすれば、「カリキュラム・マネジメント」は具体的な方策の総称と言い得るものか。
また『解説編』には、今時改訂の基本方針について、以下のように記されている。

今回の改訂は中央教育審議会答申を踏まえ、次の基本方針に基づき行った。
① 今回の改訂の基本的な考え方
ア 教育基本法、学校教育法などを踏まえ、これまでの我が国の学校教育の実践や蓄積を生かし、子供たちが未来社会を切り拓くための資質・能力を一層確実に育成することを目指す。その際、子供たちに求められる資質・能力とは何かを社会と共有し、連携する「社会に開かれた教育課程」を重視すること。(2頁)

ここで言う「中央教育審議会答申」とは、平成26年11月に文部科学大臣から中央教育審議会に諮問され、平成28年12月に示された「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」を指す。

中央教育審議会答申の記述

平成28年12月の「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」には、「社会に開かれた教育課程の実現」に関して、以下のような記述がある。

このような「社会に開かれた教育課程」としては、次の点が重要になる。
① 社会や世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を持ち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと。
② これからの社会を創り出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自らの人生を切り拓ひらいていくために求められる資質・能力とは何かを、教育課程において明確化し育んでいくこと。
③ 教育課程の実施に当たって、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりし、学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させること。

ここまで来て、ようやく「社会に開かれた」という言葉の意味が具体的に明らかになる。つまり、
(1)まず学校教育の目標が社会と共有されている状態を指す。ということは、これまでの学校教育は、必ずしも目標を社会と共有していなかったということを示唆している。
ただ、「社会から閉ざされた教育課程」が具体的に何を意味するか、あるいはそれが良いことか悪いことかについては、改めて吟味する必要があるだろう。
(2)社会や世界に通用する資質・能力を育てる。逆に言えば、これまでの学校は社会や世界に通用する資質・能力を育ててこなかったと判断されているということを意味する。その判断の根拠としては、PISA調査や全国学力調査などで、単なる知識としてのA問題の正答率は高いのに、生活場面で活用するB問題では大幅に正答率が下がるという現象が意識されてる。
ただし、その場合の「社会」や「世界」が具体的に何を指しているかについては、しっかり吟味しておく必要があるだろう。
(3)そしてもはや学校だけが教育を独占して担うわけではないことの確認。
この論点については、チーム学校やコミュニティ・スクールという制度改革だけでなく、改めて「市場化」や「民営化」という観点を忘れずに吟味していく必要がある。

具体的な実践例について

報告されている種々の実践例を見る限りでは、実際に「社会に開かれた教育課程」の名の下で行われている教育実践そのものは、これまでにも積み重ねられてきた総合的な学習の時間や特別活動の実践と基本的には変わらない。いったい何をどのように改善するべきか、あるいは基本的な方向は変えなくて構わないのかは、さほど明確な話になっていない。
というのも、「社会に開かれた教育課程」という概念に期待されているのは、実践そのものの新たな創出や改善というよりも、既存の取り組みの位置づけをメタ認知的に総括し、改めて意識付けするための論理だからだ。具体的な作業として求められていることは、実践そのものを創出することではなく、教育の「目標」を再検討したり、「目標」と実践との結びつきを確認したり、実践を効果的に行うための組織のあり方について整備したり、実践の効果をチェックする仕組みを工夫したり、成果を発表する体制を整えたりすることだ(これが「カリキュラム・マネジメント」と呼ばれるものに期待されているものだ)。逆に言えば、ただ実践そのものを工夫するだけでは「社会に開かれた教育課程」を実現したことにはならない。「社会に開かれた教育課程」を理解するためには、環境や条件から切り離された実践例をいくら検討しても意味がなく、学校を含めた地域全体の構造を見透す論理と組織が必要となる。
雑誌記事なりインターネット上の報告等を見ると、社会と関わりのある実践を行いさえすれば「社会に開かれた教育課程」を実現しているかのように考えている記述を散見するが、もちろんそれだけでは文科省の言う「社会に開かれた教育課程」の目指しているものにはならない。

参考文献

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年

東京大学教育学部が本気でカリキュラム改革に挑んだ記録。収録されている個々の論文が、参考になる。

▼本田由紀「カリキュラムの社会的意義」27-40頁
・日本の学校が提供してきたカリキュラムが、いかに社会的意義とかけ離れていたものだったか、OECDの各種調査を元に明らかにしている。「「生きる力」や「人間力」をはじめとする様々な「力」の形成や、生き方を考えるための「キャリア教育」といった、抽象度の高い「社会的意義」が、いかなるカリキュラムを通じていかに形成されるのかということについての経験的な吟味がきわめて不十分なままで、スローガンとして掲げられているのが現状である」(37頁)という指摘は、重い。

▼市川伸一「「社会に生きる学力」の系譜」 41-50頁
・1990年代の学力低下論争から、00年代の「生きる力」の具体化まで、教科学力ではない「社会に生きる学力」の重要性が浮上する文脈がコンパクトにまとまっている。

▼金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」123-135頁
・「社会に生きる学力」が、単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧している。教師に期待されるのは、産業社会を超えるビジョンを示す力であることを示す。

▼牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」195-208頁
・学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは、単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧している。

『新教育課程ライブラリVol.11 「社会に開かれた教育課程」を考える』ぎょうせい、2017年11月

『学習指導要領』本体や中教審答申が出る前の、2016年8月段階の「審議のまとめ」記述を元に構成されている。そのせいか、プリミティブで総論的な問題意識を生々しく伺うことができる記事が散見される。安彦忠彦が寄せた痛烈な批判記事は、賛否はともかくとして、なかなか興味深く読める。

批判的な吟味

「社会」とは何か?

「社会に開かれた教育課程」と言った場合の「社会」とは具体的に何を意味するかは、実は学習指導要領や中教審答申では必ずしも明らかではない。しかし全体的にOECDの議論を意識した記述を見る限り、そこでイメージされているのが「経済」を実体とした世の中であることは容易に想像できる。あるいは、学習指導要領の言う「社会」とは、自由な権利の主体としての個人がつながる「市民社会」ではなく、生き馬の目をぬくような厳しい国際競争の場としての「知識基盤社会」を想定しているように思われる。
そもそも言葉の成り立ちから「社会」を考えた場合には、普通は自由な権利の主体としての個人が構成する「市民社会」というものを思い浮かべるはずだ。もちろん市民社会も経済を実体とする側面もあるが、もう一方では「自由な権利の主体」を構成要素とする側面もある。気になるのは、『学習指導要領』が経済的な生産や消費の主体としての資質・能力の育成に重点を置き、市民的な権利の主体としての資質・能力の育成にはさほど意を用いていないように見える点だ。もちろん学習指導要領が言う「批判的能力」や「コミュニケーション能力」が市民的な権利の主体としても重要な資質・能力であることに間違いはないが、明らかな事実としては、「権利」という言葉そのものが「社会に開かれた教育課程」との絡みではまったく打ち出されていない。たとえば中教審答申では「権利」という言葉は5回出てくるが、そのうち4回は「障害者の権利」に絡み、残りの一つは「消費者の権利」に触れられるところである。「社会に開かれた教育課程」に関わる記述では、一切触れられていない。ここで言われている「社会」というものの本質が、ここに垣間見える。それは英語で言うsocietyとかassociationという概念とは、まったく別のものを指しているのではないか? それは「社会」という日本語の曖昧さを利用して、明確に定義もせずに、global marketとlocal communityの都合の良い側面を文脈によって使い分けているだけのものではないのか? 学習指導要領の「社会に開かれた教育課程」で言うところの「社会」が具体的に何を指しているのかは、しっかり吟味されるべきだろう。

「学校」の役割と性格

さて、もしも「社会に開かれた教育課程」で言うところの「社会」が、仮に人権的な要素を排除したような経済的な実体のみを想定しているのだとしたら。そういう「社会」に「開かれた」ような学校とは、極言すれば国際的な市場(global market)に組み込まれた学校を意味するに過ぎないものとなりかねない。そして、それで問題ないという立場や価値観もあり得るだろう。
しかし一方で、そういう「社会」に対する障壁として学校が機能するべきだという立場や価値観もあり得る。優勝劣敗の市場原理から子供たちを隔離して保護するアジールとしての学校である。
どちらの考え方が正しいかどうかという問題ではなく、まずは「社会に開かれた教育課程」が言うところの「社会」の具体的な姿を見極めた上で、学校がそれに「開かれる」ことのメリットとデメリットを比較考量していく必要があるということだ。しかし学習指導要領と中教審答申では、前提として「開かれる」ことは無条件に善だということで話が進んでおり、そのデメリットが真剣に検討された形跡を見いだすことは難しい。

「教養」の意義

そしてそれは、「教養」というものの意義が完全に忘却されていることでもある。中教審答申では「教養」という言葉は1ヶ所しか登場しないし、しかもそれは教育基本法の引用においてのみである。社会に役立つ知識が善であるとすれば、社会に役に立たないような教養には退場願おうという姿勢が反映しているということではないか。「社会に開かれた教育課程」という概念の中に、果たして「教養」というものが位置付く余地はあるのか。「社会」という言葉の意味を見極め、学校の果たすべき役割が明確になったとき、「教養」というものの運命が演繹されることになるだろう。それがいいことか悪いことかは別として、「社会に開かれた教育課程」という概念が「教養」というものの生殺与奪権を握っていることは間違いない。

学校選択制と「社会」

また問題になるのは、これまで推進されてきた学区の弾力化や学校選択制という制度と、今回の「社会に開かれた教育課程」という概念との整合性だろう。仮に学校を社会に開くとしても、その学校が「学区」に基づくものか、それとも「学校選択制」に基づくものかで、意味や機能がまったく異なってくる。「学区」に基づく学校であれば、それは地域内のあらゆる多様な住民を含むlocal community(社会)に位置付くものであり、その場合の「社会に開かれる」とはlocal communityに開かれることを示す。一方「学校選択制」に基づく学校であれば、それは一定の価値観に従って集まった比較的一様な集団の利益を代表するassociation(社会)に奉仕するものであって、その場合の「社会に開かれる」とはassociationに開かれることを示す。「社会に開かれる」と言っても、「学区」に基づく場合と「学校選択制」に基づく場合では、「社会」のイメージが大きく異なるのである。そして、これまで「学校選択制」が推進されてきたことを鑑みれば、実際に学校を社会に開いた場合、その「社会」とは地域共同体(local community)ではなく利害を共有する結社(association)である可能性が高くなる。
「学区」による学校と「学校選択制」による学校で、「社会に開かれた教育課程」は変わるのか変わらないのか。あるいはコミュニティ・スクールと学校選択制と「社会に開かれた教育課程」との関係はどのように構想されるのか。地域に根付いた学校を目指すのか、利害で繋がった結社に奉仕する学校を目指すのか、文科省の狙いは明確には見えてこないところである。

local communityの問題

また、global marketの弊害が広く認識される一方で、それと対立するlocal community(地域共同体)が問題を抱えていないわけではない。教育に限らず、実はlocal communityのほうが遙かに保守的で官僚的で人権侵害的である例はいくらでもある。local communityに財政的な裏付けを欠くために、教育水準が保障されない例だってあるだろう(小泉改革が、義務教育費国家負担の割合を縮小させたことなどに留意)。小泉改革以後の地方分権化によって教育水準が低下したという指摘もある(佐藤学「教師に対する管理と統制」『誰のための「教育再生」か』p.68)。
このようにlocal communityに問題がある場合、学校というものはそこから一定程度の自律性を持って運営されることで意味を持つ場合もある。しかし無条件に学校が「社会に開かれた」とき、学校は単にlocal communityの利害に取り込まれ、権力構造を再生産するだけに終わる。

global marketとlocal communityの間

だとすれば、教育や学校の在り方を考えるとき、global marketに振れるのでもなく、local communityに振れるのでもなく、まずは人々がより良く生きるための条件とは何かという視点が必要となってくる。その条件は、おそらく「共生」とか「公共性」という概念と結びついて浮上してくるはずだ。文部科学省が「社会に開かれた教育課程」と言うとき、そこで言われている「社会」というものに「共生」や「公共性」という概念がどのように反映しているのか。地方自治や地方分権や地方教育行政などの制度設計として具体的な焦点となるところであって、単にカリキュラムの問題ではすまない。