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社会契約論とは何か

問題の所在

 人間はどうして集団で生活するようになったのか。どうして支配する者と支配される者に立場が分かれているのか。その支配は正当なものか、もし正当化できるのならどういう理屈なのか。仮に不当な支配だとしたら支配を覆すことは許されるのか。あるいは理想的な集団とはどういうものか。
 こういう一連の問いに対して、「神」を持ち出さずに、「人間」に関わる原理原則だけで解答を与えようと試みるものが社会契約論である。神を持ち出さないことから唯物論に親和性があり、社会の存在を前提とせず「個」から議論を起こすことから自然科学的には原子論と親和性が高い。逆に、あらゆる領域にわたって「神」の原理原則が貫徹し、原子論ではなく調和的・階層的宇宙論に基づいて世界を理解しようとする中世においては、社会契約論が出現する余地はない。「人間」の原理原則に基づいた社会論が説得力を持つのは、古代(キリスト教がないから)と近代(キリスト教が衰えるから)ということになる。
 ただしキリスト教という宗教が、旧約でも新約でも「契約」という手続きに基づいて成立していることには留意しておく必要がある。ルネサンス期以降の西欧で社会契約論が説得力を持ち得たとすれば、おそらくキリスト教による「契約」の論理が地ならしをしているからだ。古代的ヒューマニズム(人文主義)に基づく社会論と中世的キリスト教に基づく契約論の領域が重なったところに、近代的な社会契約論が立ち上がってくる。
 以下、古代に社会契約論の芽を確認した上で、近代の議論を精査する。

古代

 古代ギリシアとローマでは、もちろん近代的な社会契約論に類する議論を見ることはできない。アリストテレスは、人間が集団で生活するのは「自然な本性」だとみなし、議論の対象になるとは考えなかった。プラトンは「理想的な国家のあり方」については徹底的に考え抜いたけれども、「そもそも国家が必要か」については丁寧に掘り下げることがなく、神話的なエピソードを示して神からの賜りものという理解を示すにとどまる。
 ただし古代的民主政が発達したギリシア(特にアテナイ)や共和制期ローマにおいては「正義あるいは法律」(ラテン語ではどちらもius)の本質に関する議論が展開され、そこに社会契約論の芽のようなものがあったことを確認できる。特に確認しておきたいのは、人間の本質的な性質に基づいて(つまり神様なしで)社会の成立を考えようとする姿勢である。

ルクレーティウス『物の本質について』

 エピクロス派のルクレーティウス(紀元前99頃 – 紀元前55)は『物の本質について』の中で以下のように、人間が社会を構成する以前の原始状態について記述している。

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力なか、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

 この原初の自然状態で人間が人間をコントロールするものは「欲望」「力」「報酬」に限られ、神様に言及されないことには注意を払っておきたい。この描写に続いて、ルクレーティウスは社会状態への移行メカニズムを説明する。

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

 ここに素朴な「約束」が締結されるにいたるプロセスが描かれているが、その変化の理由が神様ではなく、人間の性質を踏まえたうえで、「安全」と「弱者の保護」から説明されていることに注目したい。そしてここでは保護の対象となる「弱者」として具体的には子どもと女性が挙げられているわけだが、頭の片隅に置いておきたいのは、子どもと女性が人類(男性)にとって一番最初の「私有財産」であった可能性(現実かフィクションかは問わない)である。原初の家父長制は、子どもと女性を家長の所有物と見なす。たとえば旧約聖書やホメロス『イリアス』などを見ると、古代においてはあからさまに女性や子どもを家長の所有物と見なす描写が散見される。そうなると、ルクレーティウスが「弱者の保護」とした記述は、実質的には「私有財産の保護」という意味を持っている。こういうことを確認しておくのは、もちろん後に「安全」を強調して契約論を唱えるのがホッブズで、「私有財産の保護」を強調して契約論を唱えるのがロックであるからだ。ホッブズとロックの主張の芽は、ルクレーティウスに確認できる。

【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

エピクロス

 ルクレーティウスは忠実なエピクロス主義だとされているが、元祖エピクロス(紀元前341-紀元前270)のテキストは完全に失われてしまっている。いちおうディオゲネス・ラエルティオス(3世紀前半)の『ギリシア哲学者列伝』に教説の概要が記されており、ここに「契約」への言及を見出すことができる。

(31)自然のは、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。」
『エピクロスー教説と手紙』83-84頁

 このエピクロスの教説を祖述したと思われるテキストで現実的に問題になっているのは「正義」の由来と根拠であり、具体的に展開されているのは「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の弁証法である。唯物主義のエピクロスにおいて、「正義」の由来はもちろん神様ではなく、人間の本性に求められる。そしてノモス(人為の法)の観点から「契約」という手続きが示され、ピュシス(自然の法)の観点から「正」はすべての人間に同一だという法則が示される。このように神様抜きで人間の原則から「正義」の根拠を導き出してくる論理構成は、後のホッブズにそのまま見ることができる(自然権と自然法の弁証法)だろう。

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』
【要約と感想】ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』

プラトンが描くソフィスト

 伝統的なピュシス(自然の法)を否定してノモス(人為の法)を前面に打ち出す議論を始めたのは、ソクラテス(紀元前5世紀)と同時代に活躍したソフィストたちである。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。プラトンは『国家』の中でソフィストの議論をこう描写している(もちろんプラトン自身はこれに反対する立場だ)。

自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
 これがすなわち、<正義>なるものの起源であり、その本性である。つまり<正義>とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。」上巻106-107頁
「すべて自然状態にあるものは、この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって、ただそれが、法の力でむりやりに平等の尊重へと、わきへ逸らされているにすぎないのです。」上巻108頁

 このテキストに関してまず注目したいのは、ソフィストが「自然本来のあり方」から議論を起こしていることだ。その認識が正しいかどうかはともかく、神様ではなく人間本性(特に欲心)という「自然」から議論を組み立てようとする態度だ。そして「自然(ピュシス)」から始まった話が、「契約」という「人為(ノモス)」へ着地するという論理構成だ。
 また共和政期ローマのキケローもほとんど同じことを言っているが、これは明らかにプラトンに倣ったものだろう。後世のラテン文化圏の読書人たちは、プラトンではなくキケローからこの考え方を知ることになったはずだ。

ピルス「しかし互いに相手を恐れ、人間が人間を、階級が階級を恐れるとき、誰も自己を頼ることができないので、一種の協定が国民と権力者のあいだに結ばれます。(中略)すなわち、正義の母親は自然でも意志でもなく、無力なのです。」
キケロー『国家について 法律について』154頁

 キケローの議論は「恐れ」という人間本性から話が始まるが、「自然(ピュシス)」も「意志(ノモス)」も否定され、「力」の不在が正義の根拠とされる。もちろんキケロー本人はこれに反対する立場であり、この発言者の議論は後に克服されることになるわけだが、ともかく神様抜きで人間本性から話を起こし、「自然(ピュシス)」と「人為(ノモス)」の弁証法を展開する議論がプラトンとキケローによって記述されていたことは押さえておきたい。
 また、プラトン最晩年の著書『法律』にも注目すべき記述がある。

「公的に見て、万人は万人に対して敵であり、私的にもまた、各人みずからが自分自身に対して敵である、ということなのです。」626D

 これは直ちにホッブズ『リヴァイアサン』を想起させる記述になっている。さらに「自然状態」に言及した記述も見られる。

「そうした時代の国政は、一般に家父長制(デュステイアー)と呼ばれているように思われます。そしてその制度は、今日でも、ギリシアや外国のいたるところに存在しているのです。思うに、ホメロスもまた、次のように歌いながら、キュクロプスたちの暮し方には、この制度の存在していたことを語っています、すなわち、
――
この者たちには 審議の集会も法令もないのだ
彼らは 高い山々の頂き うがたれた洞窟の中に住みなし
各自その子供や妻を支配し
互いに無関心のまま 過ごしているのだ」680B

 ここでは自然状態において各家族がバラバラに生活していることと同時に、子どもと女性が家父長制のもとに所有物として扱われている状況が描写されている。
 以上みたように、既に古代ギリシアとローマに後の社会契約論へと発展しそうな芽を確認することができる。実際、多くの先行研究が影響を認めている。ただし「契約」に関する議論は「正義論」の中で出現するだけで、国家や社会の構成原理の話に展開することはない。国家論にならない以上、統治の正当性や抵抗の可能性について触れることもない。近代に至るには、まだ様々な条件が整備される必要がある。

【要約と感想】プラトン『国家』
【要約と感想】プラトン『法律』
【要約と感想】キケロー『国家について 法律について』

中世

 ローマ帝国が滅びて中世キリスト教世界の時代に入ると、プラトンの著作もエピクロスの著作も失われ、しばらく忘れ去られることとなる。キケローの著作はラテン世界で読み継がれるものの、アウグスティヌスはともかく、基本的にはラテン語文法典範として活用されるにとどまり、精神世界には『聖書』の権威が君臨する。
 キリスト教においては、人間の歴史は『旧約聖書』に記されたアダムとイブのエピソードから始まる。この創世記における人類創造の記述が妥協されることは絶対にない。アダムとイブには「自然状態」(さらには子ども期)が存在せず、創造の瞬間から「コミュニケーション可能=社会状態」が成立している。したがって、子どもから大人への移行プロセスに一切の関心が払われないのと同様、自然状態から社会状態への移行プロセスにも関心が持たれることはない。キリスト教の関心の中心は、「人の国/神の国」の相違と移行プロセスにあるのであって、「自然の国/人為の国」の境界線などまったく問題にならない。キリスト教的宇宙論のなかでは、人間のみならず神や天使や動物も含めた階層的かつ調和的な世界像が示される。剥き出しの個人が世界から切り離されて単独で生活する原初の自然状態など想像もされなかった。確かに俗世間を離れた修道的隠遁者はいくらでもいたが、彼らは神と繋がっていて、剥き出しの個人ではなかった。こういう環境では、社会契約論どころか「社会」の形成に関わる議論が行われる余地すらない。
 ただしもちろん西暦500年から1500年まで千年もの時間があって、何も変わらなかったということはない。叙任権闘争(それに伴う世俗権力の剔抉)、封建国家から絶対王政への展開(それに伴う主権概念の発達)、都市やギルドの発展(それに伴う法人格概念の萌芽)、大学の誕生やスコラ学の成熟(特に普遍主義論争)、正義論の成熟(iusとlexの区別など)、東方教会とも連動しているであろう神秘主義の勃興(特に神との関係における個の剔抉)などなど、伏線となるような動きはいくらでも確認できる。また個人的には、三位一体論の成熟が大きな伏線(persona概念に絡んで)になっているのではないかと睨んでいる。ただこれらの流れがひとまとまりとなって奔流となり、世の中を大きく動かしていくのは、宗教改革とルネサンスを待たなければならない。

ルネサンス

 1453年のビザンツ帝国崩壊をきっかけとして、失われていた古代のテキストがイタリア半島に流れ込むと同時に、グーテンベルクによる活版印刷が書物の流通を加速させる。それまでプラトンのテキストは『ティマイオス』がもっともよく知られていたが、ルネサンス以降は『国家』が広く読まれ始めるようになる。このプラトン『国家』で描写されたソフィストの議論に社会契約論の芽があったことは先に確認した。

ルクレーティウスの再評価

 そして最大限に確認しておきたいことは、ルネサンス期においてルクレーティウス『物の本質について』が高く評価されたという事実である。たとえばロレンツォ・ヴァッラ(『快楽について』)、テレジオ、パトリーツィ、エチエンヌ・ドレなどがルクレティウスに好意的に言及している。また内容的にはルクレティウスを非難するピコ・デラ・ミランドッラも、雄弁的な観点からはルクレティウスを評価している。そしてルネサンスの雄エラスムスについては「エラスムスにはホッブズの社会契約という思想は未だ認められていないが、それに近い思想が芽生えている。」(金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』248頁)との指摘があり、詳細は説明されていないのだが、ルクレーティウス経由の可能性が高い。またエラスムスの友人トマス・モアについては以下の指摘がある。

「たとえば、ユートピア的理想社会の倫理に注目すれば、モアはエピクロスの教義やストア哲学を知っていたことが明らかになる。エピクロスやストア哲学の要素がユートピアにおける倫理概念に含まれていることは疑いない。とくに、人間の存在目的としての快楽、満足に関する教義、真理および虚偽の満足に対する認識においてそうである。」И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム』218頁

 エピクロス自身のテキストが失われている以上、仮にモアがエピクロスの教説を知っていたとしたらルクレーティウスを経由した可能性が高い。ただしもちろん、エラスムスやトマス・モアを含めて、ルネサンス期には近代の社会契約論の水準に到達している議論を見ることはできない。古代以来の「正義論」の範囲内で話が進むだけだし、大枠ではキリスト教宇宙論の射程圏内にある。エピクロスの影響といっても自然科学から人生論まで範囲は広大であり、ただちに社会契約論が立ち上がるわけではない。
 ちなみにルクレーティウスについては、近代以降も、モンテーニュが盛んに引用したり、ホッブズがヒントを得ていたり(田中浩『ホッブズ』)、デカルトやホッブズとも交流のあるガッサンディが強い影響を受けていたり、ルソーも影響を受けていたりする(ルソー『人間不平等起原論』解説)ことが指摘されている。社会契約論を考えるうえでキーパーソンであることは間違いない。
 そしてもう一人、後の社会契約論の展開を考えるうえでルネサンス期で忘れてはならない人物は、マキアベッリである。マキアベッリが社会契約論に類する議論を展開した形跡はまったくないものの、神様を排除して「人間」の原理原則だけで国家の動向を考察する姿勢は間違いなく近代に向かっている。ルソーも『社会契約論』でマキアベッリの人格と業績を極めて高く評価している。

【要約と感想】ロレンツォ・ヴァッラ『快楽について』
【要約と感想】金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』
【要約と感想】И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム』
【要約と感想】マキアヴェッリ『君主論』

近代への離陸

 何をもって近代と見なすかについて難しい問題は多々あるが、ここでは便宜的に大航海時代・宗教改革・ルネサンスを目印としておく。
 大航海時代は南北アメリカ大陸やアフリカ大陸から人類学的知見をもたらし、社会契約論を展開するうえで必須の要素である「自然状態」に関する想像力を刺激した。
 宗教改革の空気は聖書に対する書誌的研究を可能とし、旧約新約両聖書における「契約」の概念に関する洞察を深めた。またイギリス国教会に典型的なように、世俗国家がカトリック教会からの独立性を高める動きは権力の正当性の問題を露骨に浮かび上がらせる。
 ルネサンスの雰囲気は、社会の成立を「神」による創造ではなく「人間」の本性に基づいて考察する姿勢を後押しした。
 これらの動きが総合的に絡み合いながら近代を準備していくことになる。

近代

 近代に入り、様々な論者が様々な形で社会契約論を提示することになる。あらかじめすべての論者に共通する要素を示すと、
(1)人間の「自然状態」と「社会状態」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態」を聖書の記述によらず、人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。その結果、自然科学における原子論と響きあうように、まず人間を「個人」として理解する。
(3)人間の「社会状態」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。その結果、理性的で合理的な「合意」を重視する。
(4)統治の正当性の原理を示すことを目的としている。その結果として、道徳的な「正義」や「公正」に関する洞察が伴う。
 といったところだろうか。
 一方、それぞれの論者の論理構成の違いを理解する目安となるのは、
(1)自然状態の定義。この相違は「自由」や「権利」という概念に対する理解の違いに基づくだろう。
(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。この相違は、社会契約の性質の違いや、抵抗の正当性に対する態度の違いに帰結するだろう。
(3)社会状態の定義。この相違から政府の権限の範囲に関する見解も異なってくるだろう。
(4)カトリック教会への対応。それぞれの論者の宗教観の違いだけでなく、現実的に直面していた課題に対応して異なるだろう。
 となるだろうか。ちなみに古代の理論には、(4)はあるわけないとして、(1)はルクレーティウスとホメロスの詩に、(2)はルクレーティウスとエピクロスに、(3)はプラトンとキケローが描写するソフィストとエピクロスの正義論に見られるが、それぞれが論理として有機的に結びついているわけではなく、バラバラに記述されている。
 以下、社会契約論と称されるいくつかの理論の内容と構成を確認する。

ホッブズ『リヴァイアサン』

 まず、極めて独創的な発想で社会契約論の水準を一気に引き上げたのが、イングランドの思想家トマス・ホッブズ(1588-1679)である。
 背景として、先行研究においてはピューリタン革命の影響が強調されるが、個人的には宗教改革のほうが、特にイングランド国教会とカトリックとの確執の方が根が深いように思える。というのは、個人的な見解では、ホッブズは民主派ではなく王党派であり、王党派の利害関心に依ってカトリックの影響を排除しようと目論んだ結果が『リヴァイアサン』に強く反映しているように見えるからだ。実際、『リヴァイアサン』は後半でしつこくカトリック批判を繰り返して世俗権力への一本化を主張する。前半で自然状態から社会状態への移行を詳細に記述しており、それによって民主派と評価されるわけだが、個人的には、ただ後半戦に備えて世俗権力を一本化しておきたかったからのように見える。
 個人的に強い関心を持つのは、ホッブズが「人格」という言葉について極めて深い洞察を示している点だ。ホッブズは「人格」にまつわるギリシア語とラテン語の相違を丁寧にたどって定義を明確にしたうえで、全編にわたって、しかも要所要所で頻繁に使用する。しかもキリスト教最大の奥義「三位一体論」に関わる記述で「人格」という言葉を巧みに使いながら、それを主権論の文脈に降ろしてくるところなど、ぜんぶ分かったうえで意図的に仕組んでいるような印象を持つ。侮れない。
 以下、論者の論理展開の相違を浮き彫りにする4観点からホッブズの特徴をまとめる。

(1)自然状態の定義。
 ホッブズは自然状態の記述に先立ち、デカルト『情念論』やスピノザ『エチカ』を想起させるような筆致で人間の「情念」を丁寧に分析して、人間は欲望や嫉妬から逃れられないと喝破する。そして、人間は生まれながらにあらゆることを自由に行う「自然権」を平等に持つ一方で、だからこそ情念に支配される人間たちの自然状態は「万人の万人に対する戦争」に陥ると定義した。この状態では人間の生活は「孤独で、貧しく、下劣で、野蛮で、短い」もので、常に不安と恐怖に苛まれる。
 ホッブズの理論が説得力を持つかどうかは「情念」の理解にかかっている。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 ホッブズによれば、安全を実現しようとしたときに理性が必然的に見出す「自然法」の条理に基づいて、生存権を保障するためにこそ各人は「自然権」を自発的に放棄し、絶対的な権力者リヴァイアサンへ委譲する。この理屈を成立させるため、ホッブズは中世まで混同されていた「法:lex」と「権利:jus」の概念の違いを強調し、理性が見出す「自然法」の必然性を前面に打ち出す。
 ホッブズの理論が説得力をもつかどうかは「自然法」の理解にかかっている。

(3)社会状態の定義。
 ホッブズは秩序と安全を確保するために権力を絶対的な一点に集中するべきことを提唱し、君主政を擁護する。いったん社会状態が成立した以上は、統治者に逆らうことは許されない。「正義」とは統治者が決めたルールである。まさに古代のソフィストが主張したとおりの絶対的統治体制となっている。
 ホッブズの理論が説得力を持つかどうかは、絶対王政による強権を是とするかどうかの姿勢にかかっている。

(4)カトリック教会への対応。
 ホッブズはカトリック教会を極めて強い態度で批判し、権力の根拠をいっさい持たないことを丁寧に示したうえで、宗教的な指導力も世俗権力が握るべきだと主張する。カトリック教会に許されているのは示唆する程度の強制力を持たない教育に過ぎず、国家運営に口出しをするなどもってのほかだと言う。

【要約と感想】ホッブズ『リヴァイアサン』
【要約と感想】梅田百合香『甦るリヴァイアサン』
【要約と感想】田中浩『ホッブズ』
【要約と感想】田中浩『人と思想ホッブズ』

スピノザ『神学・政治論』

 オランダの思想家スピノザ(1632-1677)はホッブズと同時代を生き、お互いに影響を与え合っていると理解されている。政治学の教科書において社会契約論の論者として扱われることは滅多にないが、個人的には、『旧約聖書』の「契約」概念を現実の社会に降ろしてきた発想はかなり重要な意義を持つと思っている。

(1)自然状態の定義。
 スピノザは自然状態を個人が無限の「自然権」を持つ状態と見なし、自由は他者の干渉がない状態で自己保存を追求する能力として定義する。一方で、ホッブズのような「万人の万人に対する闘争」が起こるとは考えない。このホッブズとの違いは『神学・政治論』だけでは分からないが、おそらくスピノザ『エチカ』で示される「情念」論と合理的・調和的な世界観によると考えられる。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 スピノザは合理性に基づく自発的な協力として社会契約を見ており、個人が共同の利益のために自由の一部を制限することが社会全体の最大の自由をもたらすと考える。極めてユニークなのは、『旧約聖書』において神と人民の間に結ばれた「契約」の在り方を徹底的に掘り下げたうえで、それを現実社会において政府と人民の間に結ばれる「契約」と実質的に同じ性質の服従契約だったと見なす点である。キリスト教が「契約」の宗教であったことが世俗国家における「契約」という発想をもたらした可能性(つまり中国やインドやイスラムではそうならなかった)を、ここに見ることはできるだろう。

(3)社会状態の定義。
 スピノザは社会状態を個人の理性と合理的な欲望に基づく自由な協力の産物と見なし、政府はこの自由と秩序を維持するために存在すると考える。またどれだけ政府が人々をコントロールしようと思っても、人民は自らの本性に従って行動するだけで、無駄なことだという。これは空想ではなく、歴史上のオランダ共和国に実際にあり得た現実的な見方でもある。スピノザ自身はホッブズ理論との違いについて、社会状態においても「自然権」が手つかずのまま残っていると証言している。

(4)カトリック教会への対応。
 スピノザ『神学・政治論』は社会契約論を示そうとして書かれたものではなく、真の自由と理性に基づく社会を実現するために宗教と政治の完全な分離を支持し、キリスト者として最低限必要な信仰箇条を守っていれば問題ないと主張することを眼目としている。その結果、カトリック教会からは無神論のチャンピオンとして蛇蝎のごとく敵視されることになる。

【要約と感想】スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』
【要約と感想】スピノザ『エチカ―倫理学』
【要約と感想】上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』
【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』
【要約と感想】吉田量彦『スピノザ―人間の自由の哲学』

ロック『統治二論』

 イングランドの思想家ジョン・ロック(1632-1704)は、スピノザと同年に誕生している。二人の直接的な交流は確認できていないが、オランダ滞在時に著書を読んでいるなど影響を受けているだろうことは分かっている。またホッブズとの接触も確認できていないが、著書を読む限り意識していただろうことは推測できる。思想的背景として名誉革命(1688)との関連を云々されることもあるが、歴史的研究により、執筆時期そのものは名誉革命に先行することが分かっている。

(1)自然状態の定義。
 ロックは自然状態を自然法に基づいた平和的秩序がある程度は成立している状態と考える。自由は自然権としての生命、健康、自由、財産の保護を含むが、特に労働に基づいた「私有財産」の不可侵性を強調する。また自分が被った被害を回復する権利を各人が持つだけでなく、他人に被害を与えた者を罰する裁判権・執行権も自然に与えられていると主張する点はユニークだ。
 ポイントは「私有財産」の正当化にある。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 ロックは財産権を確実に保障するために政府への権力の委譲が必要だと主張するが、どうして自然状態で平和的秩序が実現しているのに権利を放棄しなければいけないのかという説明は不十分かつ不明確で、社会状態への移行の必要性が厳密に説明されているとはみなしがたい。一方、他人に被害を与えた者を罰する裁判権・執行権を各人から取り上げて政府に一本化するメリットは明確にされている。

(3)社会状態の定義。
 ロックは社会状態を法と政府による自然権の保護と定義し、政府は民衆の同意に基づいて設立されるとする。そして極めて限定的な条件付きではあるが、政府による自然権(特に財産権)の保護が不可能となった場合、政府への抵抗が許容される。
 ポイントは、抵抗権の理解にある。

(4)カトリック教会への対応。
 『統治二論』の前編は王権神授説に対する批判であり、世俗権力を正当化する原理としてのキリスト教は明確に否定している。また、別著で宗教的寛容を説く一方、カトリックに対する敵意は隠していない。ただしロック自身は敬虔なキリスト者であり、その社会契約論のいちばん根底にも「神の制作物」という人間理解が前提にある。

【要約と感想】ジョン・ロック『完訳 統治二論』
【要約と感想】加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』

ルソー『社会契約論』『人間不平等起原論』

 ジュネーブで生まれフランス語で活動したルソー(1712-1778)は、ホッブズやロックを意図的に批判しながら、独自の社会契約論を打ち立てる。歴史的背景としてはアメリカ独立に深く関わったりフランス革命の理論的支柱になったとみる向きもあるが、実証研究のレベルではフランス革命にはさほど関係していないと理解されている。
 ルソーの論理の全体像を理解するためには、『社会契約論』だけでなく『人間不平等起原論』も併せて読む必要がある。先行研究においては両著書間の矛盾や論理的不整合が指摘されてはいるが、「自然状態の定義」や「自然状態から社会状態へ移行するメカニズム」は『社会契約論』で詳述されておらず、『人間不平等起原論』を参照しなければルソーの見解は分からない。確かに不整合なところは散見されるが、全体像を理解するうえで致命的な障害になるとも思えない。

(1)自然状態の定義。
 各人は完全に生まれながらに自由と平等をもつ。全員が自己保存に一番の関心を注ぎ、それぞれが生存に必要な行動をとるが、お互いの生活を侵害することはあり得ない。アメリカ大陸や類人猿の生活等にも触れながら、自然状態が人類にとって極めて理想的な状況だったと描く。あまりにも「自然人」が理想的に描かれ、当時から多くの批判を浴びている。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 『人類不平等起原論』では、人類が堕落した結果として、自然状態のままではいられなくなると主張する。特に私有財産の発見によって貧富の差が拡大し、その貧富の差が不可逆的に権力の偏在化に向かうと言う。
 一方『社会契約論』では詳細にメカニズムを語らないが、社会状態への移行がもはや不可避となった時点で理想的な形の移行が起こると言う。自然状態の自由と平等をそのまま実現するために、人民と統治者の間の「服従契約」ではなく、まずは人民同士が水平に「社会契約」を結んでひとかたまりの集団になる。この生命と一般意志を持った集団に従うことで、各人は自然状態と変わらずに自分の主人のままでいられる。どういう形の政府にするかは、契約段階の話ではなく、契約が結ばれた後に一般意志が判断すればよい。

(3)社会状態の定義。
 『人間不平等起原論』においては、滅びゆく人類の堕落の極みとして悲観的に描かれる。文化や芸術は、老人の杖のようなもので、健康な自然人には必要ないが、堕落しきった現代人にとってのみ必要になるものだと言う。
 一方の『社会契約論』においては、社会状態とは「自然の自由」に代わって「市民の自由」を得た状態であり、それに加えて「道徳的な自由」も得た素晴らしい状態であると主張する。政府も一般意志を実現するための公僕として理解されるため、一般意志と相容れない政府を覆すのはまったく問題がない。ただし一方、社会契約を結んだ以上、共同体の構成員は一般意志に絶対的に従わなくてはならない。たとえ多数決で少数者の側になろうと、命を失うような義務が発生しようと、無条件に従わなければならない。

(4)カトリック教会への対応。
 『社会契約論』においては、キリスト教の考え方は世俗的国家の現実とはまったく相容れないものだと厳しく批判したうえで、社会的紐帯を根底から支える基盤として「市民宗教」が必要であると説き、この宗教に忠誠を誓えない人間は追放せよとまで言う。しかし実質的にはこのような市民宗教が成立する見込みはないので、次善の策として宗教的寛容に徹するべきことを主張する。もちろんカトリック教会は大激怒し、『社会契約論』には禁書の指令が下ることになる。

【要約と感想】ルソー『社会契約論』
【要約と感想】ルソー『人間不平等起原論』
【要約と感想】仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

古代に還る:ソクラテス

 こうしてルソーは、人民がいったん合意して社会を形成した以上、共同体の成員は命を投げ出すような理不尽な法にさえも従うべきだと主張する。そして実際にそうした人物を、我々は古代に見出すことができる。『クリトン』に描かれたソクラテスである。

自ら市民として遵守するとわれわれに誓った契約や合意に背いて逃亡しようとしているお前は、最も無恥な奴隷でもしそうな振舞いをするのだ。」84頁
「またお前は今、われわれ自身に対してした契約と合意とを蹂躙しようとしていはしないか。しかもお前がその契約と合意とを与えたのは、余儀なくされたためでもなく、欺かれたためでもなく、短時日の間に考慮決定することを強いられたためでもない、もしわれわれがお前の気に入らず、この合意が不当だと思われたならば、ここを立去ることがお前に許されていた時日は、七十年もあったのだから。」
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫、84頁

 このソクラテスの態度について、先行研究はこうコメントして、ルソーの論理との関係を見出している。

「思うにソクラテスのこのような国法観は、幼若な時代はいざ知らず、人が理性の年齢に達するや否や自己の理性的思惟によって祖国を放棄し、またはこれを選択する自由を認め、それをなさないで国内に居住するかぎり、暗々裡に国法の遵守を祖国に対して契約したものであることを認めるとともに、いったんこのような契約を認めたからには、「国家が汝の死が国家のために必要であるというときには、喜んで死なねばならない」と言うルソオの社会契約説と一味相通ずるものがあるであろう。
 この意味においてソクラテスの国法観は、確かにルソオの社会契約説の先駆をなすものともいいうるのである。」
稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』福村出版、1973年、184頁

 個人的には、ソクラテスの態度がルソーに相通じるというよりは、アテネの国政とソクラテスの生き様を念頭に置きながらルソーが『社会契約論』を書いた、というほうが真実に近いように思う。ホッブズはソクラテスの敵であるソフィストの議論を下敷きにして『リヴァイアサン』を書いたように見えるが、ルソーはソクラテスの生き様を踏まえて『社会契約論』を書いたように思える。紀元前5世紀に行われたソクラテスとソフィストの対決は、2000年以上後の18世紀にまで続いていたのである。あるいは今も延長戦の最中か。

【要約と感想】プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』
【要約と感想】稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』

まとめ

論者による相違

 以上確認したように、一口に「社会契約論」と言ったとしても、その具体的な論理展開や実質的な内容は論者によってまるで異なる。先行研究においても、その相違を前面に打ち出してくるものが多いような印象だ。
 それぞれの論理の相違に注目すると、日本における歴代政治体制の相違についても新たな視点を得られるように思う。(あくまでも日本の政治体制の特徴を相互に浮き彫りにするために社会契約論の特徴を借りて考察するだけであって、西洋の論理をそのまま日本の歴史的政治体制の実態に当てはめようとするものではない)

(1)ホッブズを踏まえて豊臣秀吉の惣無事令を考える。
 日本の中世においては鎌倉・室町時代を通じて地方小領主同士の私闘が相次ぎ、室町中期から安土桃山には広域大領主間の私闘に発展するが、豊臣秀吉による1585~87年の惣無事令によって実質的な天下統一が成ったとされる。実証的には豊臣政権の実態をどう考えるかには様々な立場があるが、各大名に絶対服従を確約する誓紙を納めさせて私闘を禁じる一方で、刀狩令や海上賊船禁止令、喧嘩停止令など被支配民の武装解除を進めたことを踏まえると、理念的には、豊臣家をリヴァイアサンとする絶対主義体制が整ったと見なすこともできる。実質的には武力を背景とした威嚇による統一ではあるが、形式的にはホッブズが言うように不安と恐怖から逃れて平和と秩序を構築するために自発的に自然権を返上する服従契約となっている。
 もちろん農民を含めた日本の全住民が自発的な契約を秀吉と結ぶわけはないのだが、ホッブズ自身も果たしてイングランドの無産者や一般庶民や、あるいは陪臣たちすら視野に入れていたかは怪しいところではある。

(2)スピノザ・ロックを踏まえて徳川政権下の幕藩体制を考える。
 江戸幕府統治下265年間には、島原の乱などいくつかの悲惨な戦乱はあるものの、おおむね平和だったと言ってよい。その間、全国約300あった藩(一万石以上)やそれ以下の小領主の領地では、法も裁判も経済も、基本的には領地内の自治に任された。これはスピノザの言う「自然権が手つかずのまま放置」の状態であり、ロックが言うように私有財産が保障(領地が安堵)された状態である。この自然権の恣意性が目に余るようになったときには公共の福祉を保障するために公権力(いわゆる公儀)が発動する。恐怖や不安に基づいたホッブズ型権力というより、平和と安定を保障するための公権力ということで、理念的にはスピノザ・ロック型と言えるだろう。また政府の専横が目に余った場合に百姓たちが武器を持って立ち上がったのは、ロックが言う抵抗権の発露と考えてよいか(あるいはホッブズ的なやむにやまれない生存権の主張のほうか)。
 ただしもちろんパックス・トクガワ―ナは身分制を土台とした暴力装置の偏在が支える制度であり、オランダの共和政を背景としたスピノザ理論やブルジョワ階級的ロック理論にそのまま適用するのは乱暴ではある。

(3)ルソーを踏まえて廃藩置県+大日本帝国憲法+教育勅語を考える。
 大名や領主たちが先祖代々実力で制圧してきた領地をいったん天皇(公)に戻したうえで、元の土地に行政官として戻ってくるという版籍奉還と廃藩置県の手続きは、まさに自然権を市民権へと転換して権力を一元化する社会契約論的なカラクリである。そして教育勅語は日本の建国神話を土台として日本人民を一体のものとして創出するフィクショナルな試みだったが、それはルソーが言う「市民宗教」を土台とした人民の組織化の手続きである。市民宗教(教育勅語)は、政治的統合を促進するために共有されるべき価値観や信念体系を提供し、国家が個々人の意識の中に深く根ざす共通のアイデンティティを形成した。その土台の上に大日本帝国憲法で定めた権利と義務の体系が作動し、市民権と公民権が実質化する。天皇制(ルソーが言う君主制)であることは、ルソーも『社会契約論』本文で主張するように、共和政であることとまったく矛盾しない。ただしそれは美濃部達吉の天皇機関説のようなものとして天皇が機能している限りの話にはなる。親政により天皇が無謬の審級かつ皇軍の大元帥としての役割を期待され始めると、とたんに人民主権が破綻する。これが大日本帝国に限られた話に過ぎないのか、それともルソーの理論が内在的に抱える根本的な問題かは、「一般意志」の絶対性・抑圧性と絡んで、実はなかなか厄介な話である。あるいは大日本帝国の司馬遼太郎史観的な勃興と頽廃の過程は、ルソー理論の射程範囲内の話になるのか。これを理論的な水準で克服するのは、カントやヘーゲルの仕事になるのだろう。

論者を超えた共通点

 さてしかし個人的には、論者による理屈の違いを強調するよりも、共通点を強調した方が実りが多いように感じる。その共通点とは、繰り返しになるが以下の4点である。
(1)人間の「自然状態」と「社会状態」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態」を聖書の記述によらず、人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。
(3)人間の「社会状態」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。
(4)統治の正当性の原理を示すことを目的としている。
 これは古代や中世には見られない特徴的な論理構成だ。

教育学への応用

 なぜ私が社会契約論に共通する論理を剔抉することが実り多いと考えるかと言うと、それがそっくりそのまま近代教育のありようを説明する原理になるからだ。
(1)人間の「自然状態(子ども)」と「社会状態(おとな)」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態(子ども)」を人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。
(3)人間の「社会状態(おとな)」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。
(4)教育の正当性の原理を示すことを目的としている。
 これを認めるにせよ批判するにせよ、「近代」という時代の原理を理解するうえで、政治にも教育にも貫徹する論理を把握しておくことに意味がないわけがない。

【要約と感想】ルソー『人間不平等起原論』

【要約】自然状態においてすべての人間は平等でしたが、人間は固有の完成能力によって自己を改善した挙句、ついに私有財産を思いついて社会状態に移行します。しかし社会状態においては金がすべての頽廃した世の中となって貧富の差が拡大し、不平等が正当化されます。しかしもう後戻りはできないので、文芸によって徳を保つ努力をするしかありません。

【感想】自然主義の元祖のような本だ。まあ文明社会に嫌気がさして自然に還るという発想は東洋では老子・荘子から見られるし、西洋でも隠遁的修行者や修道会主義など反文明主義的に振る舞う個人・団体は古代から近代まで枚挙にいとまがない。おそらくそういう自然主義的心性の系譜に連なりながらも本書をその元祖的なものに感じさせる理由は、人類学や生物学の洞察を基にした科学的な自然状態の描写(もちろん現在の知見からは素朴すぎるが)と、ホッブズを批判的に継承した法的・政治的な社会状態の描写(もちろん後の社会契約論に比べれば素朴だが)という独創性にあるのだろう。個々のパーツには既視感があるし、全体的なメンタリティについても類似のテキストはいくらでもあるのだが、勃興しつつある資本主義社会の矛盾を(成功しているかどうかはともかく)本質的に抉ろうとする論理構成がユニークだ。ところどころ隙だらけの記述(18世紀当時からツッコミ満載)だが、それを補って余りあるオリジナリティと描写力で、名著に数え入れて間違いない。まあ、反ワクやEM菌の人が読むと大喜びしそうな本ではある。同時収録のヴォルテールの手紙は科学至上主義の人が反ワクの人を揶揄するかのような論調でルソーを批判しているわけだが、人間は300年前からあまり変わっていないようだ。

【要検討事項】本書に展開された人間論については、「尊厳」という概念と関わって、精査を要する。本書の人間論がルネサンス期までの論調と決定的に異なるのは、大航海時代のインパクトが露骨に反映している点だ。南北アメリカ大陸の人類学的知識や、アフリカの類人猿に関する生物学的知見が、議論のそこかしこで極めて重要な役割を果たしている。その新たな科学的知見は、古代以来の宇宙論的ヒエラルキーであった「神/人間/動物」の「地位」を揺るがす。たとえばルソーの論敵であるフィロポリスは、「人間は世界のなかに占めるべき地位の要求するとおりのものなのです」(201頁)と言っているが、これは素直に古代以来のヒエラルキーを踏まえた伝統的な物言いだ。フィロポリスは続けて、人間は「神」とも「オラン・ウータン」とも異なるように造られたと強く主張する。ルソーが古代以来のヒエラルキーに反して人間と動物の境界線を破壊したことを批判しているのだ。ルソーは自然状態における「未開人」について人類学や霊長類学の知見を踏まえて述べたが、それは従来の「人間/動物」の「地位」の区別をないがしろにする姿勢と受け取られた。ちなみにフィロポリスの言う「地位」が原語でdignityだとすれば、それは現代では「尊厳」という意味を持つ。ルソーの主張はフィロポリスからは伝統的な人間の「地位=dignity」を変更しようとする試みと受け取られたが、だとするとそれは同時に人間の「尊厳=dignity」に新たなステージを切り開く試みということでもある。ちなみに「神/人間」の境界線については、既に14世紀エックハルトやクザーヌスなどの神秘主義が「神」の側から切り崩し、15世紀以降はピコやエラスムスが「人間」の側から切り崩し始めている。こういう動きの中から人間の「地位=dignity」が変更され、「尊厳=dignity」の再定義が進行したのではないか。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 ホッブズと比較したときに、ルソーはほとんど「人格」という言葉を使わない。というか、ロックやスピノザと比較しても、ホッブズだけが突出して「人格」という言葉を頻発する。それ自体が大きな論点になるわけだが、ルソーにも用例がないわけではない。以下にサンプリングしておく。

「私は、国家の機関の運動がすべて共通の幸福以外にはけっして向かわないようにするために、主権者と人民とがただひとつの同じ利害しかもちえないような国に生れたいと思ったでしょう。だが、そういうことは、人民と主権者とが同一の人格ででもなければ生じえないことですから(後略)」10頁

 この用例の「人格」は、責任がとれる法的主体というような意味合いを持つ。「人民」は複数の人間から構成され、「主権者」も君主制以外では複数の人間から成る以上、ここでいう「人格」がある特定個人の身体をイメージさせることはあり得ない。だから現代日本における「人格」の用例(ある特定個人を想起させる)からはそうとう外れていて、法的な意味での「人格」を意識しない人にとっては意味がとりにくい記述になっているだろう。

「(前略)法律が為政者に人格についての判定を禁じて行為の判決だけをまかせているということは、まことに賢明なやり方である。」188頁

 この用例の「人格」とは、ある特定個人の「道徳的な善悪」という意味合いを持つ。こちらは現代日本の「人格」という言葉の用例と極めて近い響きを持ち、違和感なく理解されるだろう。

【個人的な研究のための備忘録】改善能力
 本書を理解するうえで重要なキーワードの一つにperfectibilitéがあり、本書は「改善能力」と訳している。解説では「ルソーは、人間と動物を区別する重要な特徴、つまり人間が社会を、歴史をつくりだす能力の潜在を指摘する。それをルソーは「改善能力」perfectibilitéと名づける。」(273頁)と言っている。

「人間と動物とのこの差異について(中略)両者を区別して、なんらの異議もありえない、きわめて特殊な特質が存在する。それは自己を改善[完成]する能力である。すなわち、周囲の事情に助けられて、すべての他の能力をつぎつぎに発展させ、われわれのあいだでは種にもまた個体にも存在するあの能力である。」53頁

 この概念が教育学的に問題になるのは、たとえば教育基本法第一条で言う「人格の完成を目指し」の「完成」という概念に深く関わってくるからだ。また「完全性」という概念は古代プラトンやアリストテレスから中世スコラ学、あるいはニーチェに至るまで「個性」という概念と密接な関連を持つ。そういう概念史を踏まえると、この段階(近代の入り口)でルソーがperfectibilitéという言葉を造語したことは、なかなか奥が深い意味を持つように思えるわけだ。
 ただ、スピノザやライプニッツの言う完全性という概念はアリストテレスの「個」に関する議論を引き継いで目的因とかエンテレケイアという概念と響きあうのに対し、ルソーの言うperfectibilitéには目的因とかイデアという観念の色は薄い、というか、ない。だからなのか、本書の訳でも「完全」とか「完成」というニュアンスの日本語ではなく、「改善」というプロセスを前面に打ち出す言葉を選択している。教育学的に「教育可能性」とか「発達可能性」という言葉で言い表そうとしてきた概念に近い印象を受ける。ルソーが他の思想家と異なる特徴を持っているとして、その根本的な要因は実はこのあたりにあるのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 本書は教育を中心に語ったものではないが、教育に言及しているところはサンプリングしておく。

教育は教養のある精神とそうでない精神との間の差をつけるだけでなく、前者の間にも教養に比例して見出される差をひろげる。(中略)自然の不平等が人類においては制度の不平等によっていかに増大せざるをえないかが理解されるであろう。」81頁

 教育という営みが自然状態に属するものではなく、堕落した社会状態に伴って出現し、不平等を拡大する制度的原因になると批判しているところだ。ルソーの主張するメカニズムが正しかったかどうかはともかく、現代日本において教育が不平等を拡大し、固定し、正当化するものになっていることは間違いない。

 また別のニュアンスで「教育」という言葉を使用している。

「いま、スパルタを唯一の例外として、というのはそこでは、法律が主として児童の教育を監督し、リュクルゴスが法律をつけ加える必要がほとんどないような醇風美俗を確立したからだが(後略)」121頁

 この「教育」は、先ほどの不平等を拡大する制度としての教育ではなく、道徳的な人格を形成する機能という意味合いで使用されている。スパルタでは大人たちが意図的に関与するという教育で子どもの人格が形成されたのではなく、質実で純朴な「法律」の精神そのものが子どもの人格形成に決定的な役割を果たしたという主張である。おそらくこの見解は、『エミール』においても「もはや現代では不可能な理想的教育」というニュアンスで言及されている。法が教育にとって決定的な役割を果たすという見解はルソーにオリジナルなものではなく、プラトン『法律』やキケローに見られる西洋思想に伝統的な考え方ではあるが、現代資本主義社会では完全に失われた感覚だ。現代では、法律は単なるルールに過ぎず、道徳や教育とは無関係なシステムと理解されている。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
 本書は社会契約論について真正面から考察したものではないが、「自然状態」と「社会状態」を原理的に区別して、その移行メカニズムに言及する以上、必然的に社会が成立する条件について考察せざるを得ない。まずルソーはホッブズを批判する。

「ホッブズは自然法の近代のすべての定義の欠陥を非常によく見てとった。しかし彼が自分の定義から引きだした結果は、彼がやはり間違った意味にそれを解していることを示している。(中略)ところが彼は、未開人の自己保存のための配慮のなかに、社会の産物であり、法律を作る必要を生みだした多くの感情を満足させたいという欲求を、故なくして入れた結果、まさに反対のことを言っている。悪人とは頑丈な子供なのだ、と彼は言う。」70頁

 ホッブズは「自然状態」をそのまま「戦争状態」と描写したが、ルソーはその認識を批判して「自然状態」こそが理想的な平和を実現していたと主張する。だから「社会状態」についての見解も必然的に異なり、ホッブズは社会状態を必要悪としたが、一方のルソーは端的な堕落状態(つまり悪)と理解した。
 そしてルソーの「社会状態」や「契約」の理解について、本書と後の「社会契約論」でどういう関係にあるのかが研究的には大きな論点となる。

「あらゆる政府の基本的な契約の性質についてまだますべき探求には、いま、深入りしないで、私はただ、世の通念にしたがって、ここでは、政治体の設立を、人民と彼らが選んだ首長との間の一つの真の契約だとみなすだけに止めておこう。それは、その両当事者が、そこに規定され、双方の結合のきずなを形づくる法律を守ることを相互に義務づける契約である。人民は、社会的な関係という点では、そのすべての意志をただひとつの意志に結合したので、この意志が説明されているすべての条文は、それぞれ基本的な法律となり、それらは社会の全成員を例外なく義務づけている。そして、その中の一つは、残りの法律の執行を監視する任務をもった為政者の選択とその権力を規定している。この権力は政治構造を維持しうるすべてのものに及ぶが、それを変更するまでには至らない。(後略)」117頁

 解説ではこの文章に触れて「ルソーはここではまだ『社会契約論』の思想に達していない。服従契約の考え方を出ていない。」(240頁)と言っているが、個人的には疑問なしとしない。確かにルソーは「服従契約」に即した記述をしているが、それはただ「深入りしない」で「世の通念にしたがって」「みなす」というふうに、何重にも留保をつけている。そして続く文章で「その中[基本的な法律]の一つは、残りの法律の執行を監視する任務をもった為政者の選択とその権力を規定している」としているので、実はこの時点で『社会契約論』と同じ水準の理解に達していて、本当に単に「深入りしない」だけだったに過ぎない可能性があるように思う。
 また社会契約論に関しては、以下の解説の記述も気になる。

解説「プラトンには、その理想主義的な発想において多くの親和性をもっているし、少くとも自然状態が仮説にとどまらず理念的な性格をもおびるのはそこに由来するであろう。尤も、自然状態の一時期に定位される原始的な農村共同体ふうのユートピアについては、プラトンばかりでなく、ルクレティウス(『物の本質について』)のよりつよい影響を認める研究家もある。」267-268頁

 ルクレーティウスはルネサンス以降再評価されていて、ホッブズやガッサンディなど社会契約論者も読んでいることが分かっている。ルソーへの影響がどれほどのものだったか、気になるところだ。

ルソー/本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起原論』岩波文庫、1972年<1933年

【要約と感想】ジョン・ロック『完訳 統治二論』

【要約】(前半)王権神授説はあらゆる点から見て、デタラメです。
(後半)あらゆる人間は自然法に従って自由に生きるという点で平等です。知性がない子どもは法を認識できず、従って自由もないので、両親が導き教育をしなければいけませんが、成人に至れば親と同じく自由です。各人の自由な労働から所有権が発生します。生命や自由や所有権を侵害された場合に各人には自分の権利を回復する権利が当然あるだけでなく、自然権に基づいて他者を罰する権利も持っています。しかし自然状態では確実に固有権(生命・自由・財産)を保障できるとは限らないので、人々は合意して社会状態に入り、一つの政府を作ります。政府の役目は、人々が自然状態で保有していた固有権を社会状態において確実に保障するために、ルールを作り、ルールに基づいて裁き、罰を実行することです。逆に言えば、固有権を保障できない政府は人民の合意によって変更されても文句は言えません。

【感想】本文中でもホッブズを批判しているが、個人的にはホッブズとロックの最大の違いは、ホッブズが「情念」に対する分析を丁寧に行った上でそれに基づいて自然状態を想定したのに対し、ロックが「情念」に対して一切の関心を払っていないところのように感じた。ロックが想定する自然状態下の人間はまさに「タブラ・ラサ(白紙説=生得観念の否定)」で、一切の情念を持っていないように見える。加えて、ロックの「タブラ・ラサ」と「情念」に対するスタンスは首尾一貫しておらず、ところどころに生得観念を前提して話を進めたり、自然状態から社会状態への移行に際しては「恐怖」や「不安」という情念を仄めかしながら「安全への志向」を持ち出したりする。論理の一貫性という観点から言えば、ホッブズの方が徹底しているように思える。また、自由と必然に関する哲学的考察についても、結論はともかくとして、ホッブズは原理的に検討したうえで議論を展開しているのに対し、ロックの方は無頓着に「自由」という概念に依っているように見える。だからホッブズの方は人間に必然的に生じて自分ではコントロールできない「恨みつらみ、嫉妬、軽蔑」という情念による闘争発生を必然と見たのに対し、ロックの方は情念を原因とする闘争発生を一切考慮しない。
 先行研究ではホッブズとロックの違いを「生産力」に見ているようだが、個人的には極めて大きな違和感を持つ。「生産力」よりも「情念」や「自由と必然」に対する考え方のほうが決定的な違いのように見える。昭和の先行研究が「生産力」にやたらと注目するのは、もちろんロックを中産階級代表とみなしたい資本主義発達史的な関心によるのだろう。研究関心が偏ること自体は特に問題ないのだが、テキストの読み方も偏ることは自覚しておいた方がいい。
 一方、ホッブズにはなくロックの方で手厚いのは、親子間の権力関係に対する洞察だ。ホッブズの方は子に対する生殺与奪権を親に無造作に与えている。しかしロックの場合は、論敵フィルマー理論の核心にある「アダムという父が持つ無限定の父権」を否定するためにも、父と子の間の権力関係を丁寧に解きほぐさなければならず、父権の内実を徹底的に限定していくことになる。この議論は、ホッブズにはいっさい見られない、ロックの決定的な特徴のように思える。そして、ロックが描く自然状態から社会状態への移行の記述が極めてアッサリ風味(しかも契約の単位は個人ではなく家族ではないか)なのに対し、父権を限定しようとする議論を綿密に展開しているのを見ると、先行研究が言うような王権神授説に対する社会契約説(人々の合意による政府の形成)の主張よりも、「アダム由来の父権」説に対抗する自然的家族観の提出の方が本質的に重要な話にも見えてくる。さらに「タブラ・ラサ」の原則が崩れる記述も、親に自然に与えられた子どもへの愛情、そしてそれに裏打ちされた、自由な市民相互の関係には解消されない子どもの自然な義務、という文脈で登場してくる。親や子どもに「自然」に与えられた愛情や尊敬の感情という議論は、本書の訳者が前面に打ち出す「神の作品」という観点から生じてくるもののようにも思う。ということで、本書は政治学(自由で平等な市民相互、あるいは市民と政府の間の権力関係)としてだけではなく、教育学的(親と子の間の権力と義務、およびその原則を超える自然の愛情)に読まれて初めて十全な意味を持つ、と主張したい。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
 とはいえ、もちろんまずは政治学的な議論は丁寧に押さえておかなければならない。押さえるべき要所はホッブズ理論との違いであり、「自然状態」「戦争状態」「社会状態」の定義と相互の関係に対する理解がポイントとなる。

「われわれは、自然状態と戦争状態との間の明白な相違を知ることができる。ある人々は両者を混同したが、それらは、平和と善意と相互扶助と保全との状態が、敵意と悪意と暴力と相互破壊との状態とは著しくかけ離れているのと同じ程度に、まったく異なったものなのである。」315頁

 ホッブズは「自然状態」と「戦争状態」を重ねて同じものと見なしたが、ロックは「自然状態」であっても「戦争状態」になるとは限らないと考える。後のルソーも、ロックの理屈とはかなり異なる議論を展開するが、「自然状態」を「戦争状態」と理解しない点においてはロックに通じる。それを前提に、ロックは「社会状態」を描く。

人間は、生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、あるいは世界における数多くの人間と平等に、完全な自由への、また、自然法が定めるすべての権利と特権とを制約なしに享受することへの権原をもつ。それゆえ、人間には、自分の固有権、つまり、生命、自由、資産を他人の侵害や攻撃から守るためだけではなく、更に、他人が自然法を犯したときには、これを裁き、その犯罪に相当すると自らが信じるままに罰を加え、自分には犯行の凶悪さからいってそれが必要だと思われる罪に対しては死刑にさえ処するためにも、生来的に権力を与えられているのである。しかし、政治社会は、それ自体のうちに、固有権を保全し、そのためにその社会のすべての人々の犯罪を処罰する権力をもたない限り、およそ存在することも存続することもできないから、政治社会が存在するのは、ただ、その成員のすべてが、自然法を自ら執行するその自然の権力を放棄して、保護のために政治社会が擁立した法に訴えることを拒まれない限り、それを共同体の手に委ねる場合だけなのである。こうして、個々の成員の私的な裁きがすべて排除され、すべての当事者にとって公平で同一である一定の恒常的な規則によって、共同体が審判者となるのである。」392-393頁

 つまり社会状態において各個人から政府に委託されているのは「立法権」(ルールを決める)と「司法権」(ルールに従って裁く)であって、生命権はともかく所有権や財産権も手つかずで各人の元に残っている。さらに親と子の間の関係も手つかずで残り、政府のルールではなく自然法に従うことになる。(ただし自然法に従わない他者を裁く権利が本来的に各人にあるので、親と子の関係が自然法から逸脱している家庭に対しては政府が関与する余地が生じる)。この結論はもちろん主権者に絶対的な力を与えたホッブズとはまるで違ったものになっている。そして所有権や財産権が手つかずで残ったことが後に資本主義発達史的に深刻な問題になったのと同じく、親子関係が共同体から切り離されて「自然(の愛情)」と見なされたことが教育の場面で深刻な問題になっていく。
 しかし当座の問題は、どうして「自然状態」から「社会状態」に移行するのか、その理屈とメカニズムである。

「自然状態においては人は確かにそうした権利をもっているが、しかし、その権利の享受はきわめて不確実であり、たえず他者による権利侵害にさらされているからだということに他ならない。というのは、万人が彼と同じように王であり、彼と同等者であって、しかも、大部分の者が、公正と正義との厳格な遵守者ではないので、彼が自然状態においてもっている固有権の享受はきわめて不安定であり不確実であるからである。これが、彼をして、どんなに自由であっても、恐怖と絶えざる危険とに満ちた状態をすすんで放棄させるのである。」441頁
「従って、人が、政治的共同体へと結合し、自らを統治の下に置く大きな、そして主たる目的は、固有権の保全ということにある。自然状態においては、そのための多くのものが欠けているのである。」442頁

 そして「ルール」と「審判」と「強制執行者」がいないのが根本的な問題だ、と話が続くわけだが、「情念(つまり人間に課せられた生物学的な必然)」から話を起こすホッブズに対して、ロックはあくまでも「権利(つまり人間に許された自由)」から話を進めようとする。だから、自然状態から社会状態へ移る際に「不安」とか「恐怖」などの情念を持ち出してくる展開には、唐突感が否めない。ここを「権利」の理屈で推し進められると首尾一貫した強力な理論になるわけだが、それはルソーが後に『社会契約論』で達成することになるだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 ホッブズは「人格」という言葉を連発したが、ロックは散発するにとどまる。

「人の身体への権威が土地に対する所有権に由来するということを証明するのではなく、ただ契約によってのみそれが与えられるということを証明する」92頁

 解説によれば上記引用部の「身体」の原語はpersonsだ。前後の文脈から「人格」と訳さなかったのだろう。実際、personをどう訳すかは、かなり難しい。

「(前略)主権への権原も、為政者が臣民に対してもつような政治的権威を所有しない人格への義務なのである。私人としての父親の人格と、至高の為政者に対して行われるべき服従への権原とは一致しないものであるからである。それゆえ、われわれの自然の父親の人格を必然的に含む「汝の父を母とを敬え」というその命令は、統治者への服従とは区別されて、われわれが父親に対して負う義務を意味するものとならざるをえない。」130頁

 上記引用文で使用される「人格」という言葉は、日本語の文章の中に置かれるとかなりの違和感を醸し出す。現代日本語における「人格」という言葉は人柄とか性格のような意味を含みこむが、上記引用文の「人格」にはそういう意味合いが一切ない。ここでの「人格」は、ホッブズが『リヴァイアサン』で使用していたのと同じく、「何らかの裏付けがある権力や権威に基づいて行動を起こす主体」という意味を持つ。以下もまた同じである。

「(前略)人々が服従すべき君主の人格を定め、その王座を樹立するこの父たる地位は、(後略)」140頁
「(前略)われわれにも、彼が、どのようにして、また、まずまずの分別をもって、すべての王の権威を、一人の人格の中では必ずしも合致しない別々の権原であるアダムの自然の支配権と私的な支配権と、つまり父たる地位と所有権との双方から引き出すことができるかわからないであろう。」153頁
「すべての権力は神の定めにより相続を通してアダムから伝えられたものであり、農園主は、自分の家で生まれたか自分の金銭で買ったかした家僕に対して権力をもつのだから、彼の人格権力も神の命じたものであることが証明されるなどとすることは、まったくもって賞賛に値する議論だと言う他ないであろう。」230-231頁
「しかし、われわれの著者は、『パトリアーカ』の十九頁において、「神は、ある特定の人を王たるべき者に選ぶときはいつでも、その認可では父親しか名指してはいないにせよ、彼の子孫も、父親の人格のなかに十分に含まれるものとして、その認可の利益に浴するように意図しているのである」と語っている。」273頁
「なぜなら、イスラエルの民がエジプト虜囚から脱してダビデの下に戻った四〇〇年の間、イスラエルを支配した士師たちの間で、父の死後、息子の誰かがその統治を引き継ぐほどには、子孫は「父親の人格のうちに十分に包含されている」『パトリアーカ』一九頁ということは決してなかったからである。」276頁
「われわれの著者は、『パトリアーカ』一九頁で「神の認可においては父親しか名指しされていないにせよ、子孫も父親の人格のなかに十分に含まれている」と述べている。」279頁
「彼が権力を要求しうるのは、法の権力を付与された公的人格としてだけであって、従って、彼は、法のうちに表明された社会の意志によって動かされる政治的共同体の表象化身あるいは代表と考えられなければならない。」476頁

 論敵フィルマーの引用文を含めて「人格」という言葉が使用される場面では、必ず「権力」や「権威」や「地位」が問題とされ、それを「表象」「化身」「代表」する何らかの具体的な身体がイメージされている。だから一人の身体がイメージできる場合には日本語の「人格」という言葉で違和感はないが、一人の身体の境界を越えて「権力」や「権威」や「地位」が拡大して使用される際に「人格」という言葉が使われると、現代日本人の感覚からは違和感を覚えることになる。個人的にはだから「人格」という訳語は不完全で不適切であり、他に良い言い回しがあるはずだと、前々から思っている。

【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
 「人格」という概念に深く関わってくるのが、「人間の尊厳」という概念だ。しかしこの「人間の尊厳」という概念を問題にしたいのは、「尊厳」の原語がdignityだとして、それが実質的には神と獣の中間にある人間の「地位」を表現しているに過ぎないと思えるからだ。

フッカー『教会政治の法』からの引用「われわれは、自分だけでは、われわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、従って、自分ひとりで孤立して生活しているときにわれわれのうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、われわれは本性上、他者との交わりと共同関係とを求めるように導かれるのである。」308-309頁

 上記引用文はロックのオリジナルではなくフッカーからの引用である。ここで訳者が「人間の尊厳」と訳している言葉は、おそらく「人間の地位」と言っても通用するような、ルネサンス以来の伝統的な用法に従っているように見える。これがいつからルネサンス的な「地位」という意味合いでは不十分で、近代的な「尊厳」というニュアンスを帯びるようになるのか、実は見極めが難しい。個人的には、フッカーやロックの段階では「尊厳」という意味合いは極めて薄く、単に「地位」と考えたほうがよいのではないかと感じている。一人一人のかけがえのない「尊厳」となるのは、古代以来の「獣/人間/神」というヒエラルキーが無効になってから後のことで、具体的にはルソーとカント以降になるのではないか、という直感がある。

【個人的な研究のための備忘録】子どもの権利
 で、教育学を専門とする私の価値観から言えば、本書の見どころは、市民同士あるいは市民と政府の権利関係を明らかにした政治学だけではなく、親(特に父)と子の権利義務関係を詳細に記述したところにあると思う。

「自分の子供に対する権力の証として、子供を遺棄したり売り払ったりする人類の慣行を言い立てる人は、サー・ロバート同様、巧妙な論者ではあるが、彼らは、自分の意見を、人間本性がなしうるもっとも恥ずべき行為、もっとも不自然な殺人の上に基礎づけることによってそれを世人に推奨していると言わざるをえない。ライオンの洞穴、狼の巣穴ににも、そのように残忍な行為は見られない。これら荒野に住む野獣たちも、子供たちに優しく、また注意を払う点では、神と自然とに従っているのである。」114-115頁
子供というものは、自然の定めによって弱く生まれつき、自分を自分で扶養することはできないから、その自然の成り行きを定めた神自身の命により、両親によって養育され扶養される権利を、それも、単なる生存への権利だけではなく、両親の条件が許す範囲で最大限の生活の便宜と安寧とを与えられる権利をもつ。」170頁
「もし、神と自然とが子どもたちに与え、両親に対しては義務として課した権利、すなわち両親によって扶養され維持される権利がなかったならば、父親が息子の財産を自分の孫に優先して相続することも理に適うことになろう。」171頁
「彼[アダム]以来、世界には彼の子孫が住むようになったが、彼らは、すべて、知識も知性もなく、弱く無力な幼児として生れ落ちる。しかし、この不完全な状態の欠陥を補うために、成長と年齢とによる進歩がその欠陥を取り除くまでは、アダムとイブ、それ以降はすべての両親が、自然法によって、自分たちが儲けた子供たちを保全し、養育し、教育する義務を課せられることになった。ただし、その場合にも、子供たちは、両親の作品ではなく、両親を創造した全能の神の作品であり、両親は、子供たちのことについて、この全能の神に責任を負わなければならないのである。」357-358頁
「従って、子供たちに対して両親がもっている権力は、自分たちの儲けたものたちが幼少で不完全な状態にある間はその面倒を見なければならないという彼らに課せられた義務から生じる子供たちがまだ無知で未成年のときに、彼らの精神を陶冶し、彼らの行動を律してやるということは、理性が親にとって代わり、親のその種の苦労を軽減してくれるまでは、子供たちの欲するところであり、また、両親の義務である。」359頁
「人間が、自らの意思を導くべき知性をもたない状態にある間は、彼は従うべき自らの意志を何一つもつことはない。その場合には、彼に代わって知性を働かせてくれる者が、彼の代わりに意志せざるをえず、また、彼の意志に支持を与え、彼の行動を規制しなければならない。しかし、彼が、自分の父親を自由人にした状態に達すれば、息子としての彼もまた自由人になるのである。」360頁
「それ以後は、父親と息子とは、ちょうど家庭教師と成人後の生徒との場合がそうであるように、ひとしく自由となり、ともに同じ法の臣民となるのである。そこでは、彼らが、自然状態の下で自然法の支配下にあろうと、あるいは、確立された統治の実定法の支配下にあろうと、父親に、息子の生命、自由、資産に対するいかなる統治権も残されてはいないことに変わりはない。」362頁
「このように、分別のつく年齢に達した人間の自由と、その年に達しない子供の両親への服従とは十分に両立し、十分に区別しうるのだから(後略)」363頁
は、自分たちが儲けた者に配慮することを両親の務めとし、また、子供たちがその下にあることを必要とする限り、子供たちの幸福のために神の叡智の計画に従って権力を用いさせるために、両親に彼らの権力を和らげるにふさわしい優しさと思いやりとの性向を与えたのである。」365-366頁
「いや、この権力は、何か特別な自然の権利によって父親に属するというよりは、子供たちの保護者である限りで父親に帰属するものであるから、彼が子供たちへの配慮をやめれば、彼は子供たちに対する権力を失うことになろう。その権力は、子供たちに対する養育や教育とともにあるものであり、それらと不可分に結びついているからである。」366頁
「未成年者の服従は父親の手に一時的な支配権を与えるが、それは、子供の未成年期が終わるとともに終わってしまう。」370頁

 以上、親と子どもの間の権力関係に関する文章を抜粋したが、全体を一瞥してまず気がつくのは、「神」とか「自然」という言葉が連発されている点だ。ロックは、一般的な市民の間にあるような契約に基づく権力関係を、親子関係には認めない。それはまず論敵フィルマーの王権神授説を否定する決定的な論点になるからだろう。しかしさらに重要なのは、これこそがロックにおける「自然法」の核心をなす論点だからではないかとも思える。ロックは「家族」というものを共同体から切り離して独立した組織と見なして議論を進めるが、論敵フィルマーにはそうした発想がそもそもあり得ないし、おそらくホッブズにもない。フィルマーやホッブズにとって、家族はそのまま政治的共同体へと連続・拡大していく組織だ。また一方、ロックは社会契約説の契約単位として「個人」ではなくどうやら「家族」を想定しているであろう記述も散見される。というのは、ロックの議論に従えば「家族」とは「神」に設計されて「自然」の愛情に満ちたものであり、政治体のように契約に基づいて人工的に作られたものではない。この家族に関わる議論を展開する過程で、「子どもの権利」と「親の義務」が剔抉されてくる。この発想と論理展開は、前近代までには見られない、ロックにオリジナルなものだと思う。

「このように、父親の権力、というよりもその義務の第一の部分をなす教育は、一定の時期に終わるものとして父親に属する。つまり、それは教育の仕事が終了すれば自ずから終わるものであり、また、それ以前に他人に譲り渡すこともできるものである。というのは、人は、自分の息子の教育を他人の手に委ねてもよいからである。」372頁

 上記引用文で、父親に与えられた「権力」が子どもに対する教育の「義務」に基づいて生じたと喝破しているのは、極めて重要だ。たとえばこの論理の系として、課せられた「義務」が終了すること(子育ての終了)があれば、自ずから与えられた「権利」も消失する。さらに、神と自然によって課せられた「義務」を果たさない者からは「権利」を剝奪することも可能となる。また課せられた義務の一部は「教育を他人に手に委ね」ることで社会的に共同化できるが、それは法的には「権利」を「他人に譲り渡す」ことと表現できる。要するに、近代的な「国民の教育権論」の原型がここに見られる。そして重要なのは、この子どもの権利と親の義務に基づく「教育権論」が承認されて「家族」が成り立つことで初めて社会契約説も可能になる、という論理構成をロックが展開しているということだ。つまり、政治学(市民同士の権力関係、および市民と政府の権力関係)に対して、教育学(親と子の間の権利義務関係)の方が論理的に先行するのだ。
 ただ気になるのはこれと矛盾する発言をロックがしていることだ。

「私は、父親は子供たちに対してもっている権力を譲渡することはできない、彼はある程度それを失うことはあるかもしれないがそれを譲渡することはできない、もし他の誰かがそれを獲得するとすれば、それは父親の認可によってではなく、獲得した人自身の行為によってである、と答えよう。」182頁

 ロックが言うように「権力を譲渡することはできない」とすれば、権力の一部をなしていた教育を他人と共有化することができなくなる。さて、この前半と後半の矛盾をどう理解するか。

【個人的な研究のための備忘録】社会有機大切
 ホッブズが社会有機体的な観点ばりばりの議論を展開したのに対し、ロックにはそういう素振りは極めて少ないのではあるが、しかし一部ぽろりと触れている記述がある。

「この立法部こそ、政治的共同体に形態と生命と統一とを与える魂であり、そのさまざまな成員が、相互に影響しあい、共感し、結びつきあうのも、この立法部によってなのである。」552-553頁

 勢いあまって出てしまった余計な言葉なのか、ロックの論理に有機的に結びついて必然的に出てきた言葉なのか、気になるところだ。

ジョン・ロック/加藤節訳『完訳 統治二論』岩波文庫、2010年

【要約と感想】ライプニッツ『モナドロジー』

【要約】モナドは、あります。それは目で見たり手で触れたりできるような物質的な何かではなく、人はそれを魂とか精神などとも呼んだりするような形而上学的点ですが、現実に存在しているのは実はこれだけで、何かが何かであるのはモナドの「一」なる働きによります。モナドは独立に自存する単純な存在ですが、他の実体すべてを含んだ世界全体を独自の観点から表象し、固有の内的な欲求に基づいて即自的に変化しながら自己実現を目指します。あらゆるモナドは神によってプログラムされた予定調和の秩序に従って多様な世界全体の完全な完成に向かいます。人間の魂は特殊な道徳的理性を持ち、神の下で精神的共同体を構成するので、真の幸福は神への愛にしかありません。

【感想】何を目的にした論考なのかを全く明らかにしないでいきなり「モナド」の定義から始まるので、最初から置いてきぼり感が半端ない。いちおう一通り最後まで読み切って、全体像を低解像度のままなんとなく把握して、その後に構成を整理して解像度を上げていくと、まあ、存在論と倫理学を貫く世界観が垣間見えてくる印象ではある。で、垣間見た結果としては、真顔でよくもこんなデタラメが言えるものだと、呆れるしかない。予定調和とか最善な可能世界とか、SF作家として成功しそうなくらい想像力豊かですね~とは思うものの、現代的観点からは、どうしようもなく荒唐無稽でバカバカしく見えてしまう。いや、現代の私がそう思うだけでなく、どうやら当時の人も荒唐無稽だと批判しているようだ。そりゃそうだろう。個々の論点でナルホドと思うところもなくはないが、全体を無矛盾な論理体系として構築しようとした結果、辻褄合わせのために苦し紛れの屁理屈を言い出す羽目になって、屁理屈を擁護するために無駄な労力を割いているように見える。そして、無駄な労力のおかげで仮に論理体系そのものが無矛盾になったとしても、妥当性があるかどうかにはまったく関係がないのであった。そして妥当性はまるで欠けている、ファンタジーだ。
 そういう現代的な感覚から見てトホホに思える屁理屈に目をつぶり、虚心坦懐に哲学史的な資料だと心して読めば、近代の入り口に立ちつつある香りが濃厚に漂ってくることは、あるかもしれない。少なくとも中世スコラ学が逆立ちしても捻り出せないであろうオリジナリティには満ち溢れている(しかし一方で、新プラトン主義やアリストテレスやボエティウスで十分というか、そっちのほうが世界を説明する理論として妥当性が高い気がしないでもない)。またあるいは著者の数学的・物理学的な業績については圧倒的すぎて私ごときが文句をつける余地など寸毫もないわけだが、それを踏まえた上で、本書のように限られた有限の前提から無矛盾な体系を構築して全世界を説明し尽くそうという「数学的に無矛盾な世界観」への欲望そのものが近代的に極めて大きな歴史的意義を持つということかもしれない。
 またあるいは思考の生産性という観点からは、隙があること自体に意味があるのかもしれない。たとえばライプニッツ自身はモナドのような「形而上学的点」を打ち出しながらも、それを「社会的点」と見なす社会契約論的な政治論・社会論を残していないわけだが、ライプニッツの概念を援用して社会構成の理論を考えるのは面白いかもしれない。具体的には、モナド同士の完全な「平等」と「自由」、そしてそれぞれの「完成」を最も尊ぶ「多様性」という考え方は、近代民主主義的な社会を構成しようとする際には何かしら前向きな意味を持ちそうだ。一つ一つのモナドが内在的な法則に従って世界全体を反映しながら自己表現するという主張は、個々人の固有の尊厳と権利を保障する「人権」という概念となにかしら響き合うものがあるかもしれない。独立自存のモナドが調和して全体の秩序を成しているという考え方は、なにかしら民主主義と響き合う世界観かもしれない。
 言っていること自体は無茶苦茶で荒唐無稽だけれども、思考の生産性という観点からは名著と呼ばれるに相応しいということか。

【個人的な研究のための備忘録】一性
 ライプニッツは「一性」を表現するためにギリシア語由来の「モナド」という言葉を使い、「実体の原子」とか「実在的一性」とか「形而上学的点」とも言い換えているが、哲学史を踏まえれば、形式的には新プラトン主義者が言うところの「一」であり、内容的にはアリストテレスが言うところの「エンテレケイア=完全態」である。

「モナスというのはギリシア語であり、「」もしくは「一なるもの」を意味している。複合的なもの、すなわち物体は、多である。そして単純な実体、生命、魂、精神は、である。」77頁
「多なるものはその実在性を真の一性からしか得られない。真の一性は[物質とは]別のところに由来するが、それは数学的点とはまったく別のものである。数学的点は延長するもの[延長体]の端にすぎず、様態にすぎないから、数学的点から連続体を合成できないことは確かである。それゆえ、そうした実在的一性を見いだすために、私はいわば実在的で生きた点、すなわち実体の原子に頼らざるをえなかった。」97-98頁
「実体的形相の本性はにあり(中略)アリストテレスはそれを第一エンテレケイアと呼んでいるが、私は、おそくらもっと理解しやすいように、原初的力と呼ぶ。」98頁
「さらには、もしくは形相によって、私たちのなかの自我とよばれるものに呼応する真の[統]一性が存在する。」105頁
実体の原子、すなわち部分を全然もたない実在的一性だけが、作用の源泉であり、事物の合成の絶対的第一原理であり、いわば、実体的事物の分析の究極的要素である。これは、形而上学的点と呼ぶことができよう。」105頁

 このあたりは古代後期のボエティウスの議論に既視感が濃厚ではあるのだが、少なくともキリスト教中世やスコラ学には見えなかった議論で、ライプニッツが復活させたこと(しかも本人がそれを自覚している)には近代的な意義はあるのかもしれない。しかも数学的な微分積分の創始者であるライプニッツが「数学的点」と「形而上学的点」の違いを明確に理解していることは、実は「人格」とか「個性」という概念の展開を考える上で重要かもしれない。ここは侮れない。
 こういう古代の個体化議論の影響に配慮する一方、古代の「原子論」の影響も視野に入れておく必要がある。原子論は、アリストテレスやボエティウスとは異なる学統に属するデモクリトスやそれに影響を受けたエピクロス派に特有の議論だった。この派閥はルネサンス期にルクレーティウスが再発見・再評価されてから目立ち始め、モンテーニュには色濃い影響を確認することができる。そしてエピクロス主義は、デカルトやスピノザ、ホッブズと同時代のガッサンディによって本格的に復権する。ライプニッツも、この古代原子論やガッサンディに言及している。

「初めアリストテレスの軛から脱したとき、私は思わず空虚と原子へと気持ちが傾いた。」97頁
「ガッサンディ派が彼らの原子に付与している持続を、形相に与えるだけのことだからだ。」99頁

 で、近代に関わる問題は、原子論が物理的な現象の説明に留まらず、その想像力の射程が政治的・社会的な議論に及ぶかどうかだ。原子論に反対するストア派やカトリック神学は、政治や社会を有機体的な宇宙秩序(コスモス)と理解し、一人一人の人間を単位とした政治や社会を構想しなかった。それが近代の入り口に差し掛かった段階(1642年の清教徒革命)で、ホッブズがリヴァイアサンにおいて個人(実際には小家族だったかは問題になるが)を単位として社会を構成する論理を提示した。そして実は、その社会契約的なアイデアそのものは古代のエピクロスにもそっくりそのまま見いだせる。エピクロス派は単に物理学的な原子論を主張しただけでなく、政治的・社会的な単位としての「個人」も剔出していた。だとしたら同様に、「モナド」という概念でもって物理的・精神的な個体化の論理を打ち出したライプニッツが、国家共同体を個体化の論理で構成する議論を打ち出したってよかったはずだ。しかしライプニッツには、政治的・社会的共同体をモナドから構成しようとする発想はまったく見られない。むしろ中世キリスト教的な宇宙秩序による説明に終始しているような印象がある。どうしてモナドを国家論に適用しなかったか。まさかホッブズやスピノザ、そしてジョン・ロックが展開した社会契約論の議論を知らなかったわけではあるまい。

【個人的な研究のための備忘録】完全性
 さて、古代哲学のアリストテレスやボエティウスが扱った「一性」の概念には「完全性」の概念も密接に関係していたが、ライプニッツもその議論を踏襲している。

「すべての単純な実体つまり創造されたモナドに、エンテレケイアという名を与えてもよいだろう。なぜならモナドはなかに、ある種の<完全性>をもっているからだ。」24-25頁
「どの実体も自分に可能な最高の完全性に達しなければならず、その完全性は実体に内包されている」134頁
「神がきわめてよく配慮されたので、物質のいかなる変化によっても、理性的魂からその人格の道徳的性質が失われることはない。すべては、宇宙全般の完全性に向かっているだけでなく、これら被造物一つ一つの完全性にも向かっている」102-103頁

 ちなみにライプニッツは「完全性」の概念を定義して「完全性とは、事物のもつ限界や制限を除いて厳密な意味に捉えた積極的実在性の大きさに他ならない。」(38頁)と言っている。
 引用部で特に個人的に注目したいのは「人格」という用語が絡んでいるところだ。原文でどうなっているか確認しておきたい。
 また、この「完全性」の概念が「愛」の概念とも絡んでいるところは注目しておきたい。

真の純粋な愛とは愛されるものの完全性と至福の内に喜びを認めるようになった状態のこと」91頁

 ここで言う「愛」が、愛する者の「喜び」という感情を含みつつも、愛されるものの「完全性」から定義されていることに大着目だ。「好き」という感情と「愛」という概念の決定的な違いは、おそらくここにある。「完全性」という概念は、「愛」を理解する上でそうとう重要だ。
 また、ライプニッツが「完全性」の概念に絡めて「多様性」を尊重しているところはユニークなオリジナリティとして大いに注目しておきたい。

「そしてこれは、できるだけ多くの変化に富む多様性を、しかもできうる限りの優れた秩序とともに得る方法である。言い換えれば、できうる限りの完全性を得る方法である。」52頁
「神の至高の完全性からして、神は宇宙をつくり出すにあたって可能なかぎり最善の計画を選んだということになる。そこには最大の秩序とともに最大の多様性がある計画だ。」87頁

 本書は「一と多」や「完全性と多様性」という、一見すると矛盾する対概念の止揚を目指した、古くはプラトン『国家』『パルメニデス』やアリストテレス『形而上学』の意図を引き継いだ論考と言える。そういう意味では、中世で忘れられていた古代哲学の問題意識を復活させたものとして大きな意義を持っているのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】同一性
 本筋とは直接的には関係ないが、アイデンティティという概念の理解に絡んで、ライプニッツが「川」の比喩を用いているところはメモしておく。

「すべての物体は川のように永続的な流動状態にあり、その諸部分は絶えずそこに入ったりそこから出たりしている」61頁

ライプニッツ/谷川多佳子・岡部英男訳『モナドロジー』岩波文庫、2019年

【要約と感想】ホッブズ『リヴァイアサン』

【要約】第1部:コモンウェルス(国家)は神の技術を真似して作られた人工的人間ですが、その材料となる人間の性質についてまず考察します。人間は感覚を通じて考えを形成し、様々な情念を抱いて行動します。人間本性の本質上「力」への志向には限りがありませんが、そういうものとして人間は皆が心身の力を平等に作られており、平等だからこそ利得・安全・評判・名誉を求めてお互いに争い合います。すべての人間を共通に統治する権力が存在しない自然状態では、人間の本性によってすべての人間がすべての人間の敵となり、戦争状態の中であらゆる文化と文明が存立基盤を失い、法と正義は存在の余地を持たず、常に死の危険と恐怖に悩まされる人間の生は惨め極まりないものになります。だから死の恐怖と安全への意欲という人類共通の情念に基づき、理性による示唆に従って、人々は平和に向かって生存権を守ろうとします。ポイントは、自由に基づいた権利(jus)と義務によって拘束する法(lex)が異なるものだということです。人間は自分を守るために自然権(jus)を持ちますが、しかし理性が見出す自然法(lex)は第一に「平和のためにはあらゆる手段を用いよ」と示唆し、第二に「自分の権利(jus)を捨てることで平和が訪れるなら、他の人々と共に進んで捨てるべきだ」と結論し、さらに平和な共同体を維持するために全部で19個の自然法を導き出します。バカにもわかりやすく「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」とか「己の欲する所を人に施せ」と要約できます。そして「人格」の定義と用例について詳述して、人間の群衆がひとつの人格に代表されるとき、群衆はひとつの人工的な人格と見なされることを示します。
第2部:こうして群衆を人工的に一人格に統一したコモンウェルスこそが可死の神であるリヴァイアサンです。しかしどれほど強力なリヴァイアサンであろうとも、可死である以上は、うまく運営しなければ滅びます。最大のポイントは、主権者が君主であれ合議体であれ、権力と暴力と正義の一切を握って内部分裂を起こさないことです。臣民たちの義務と権利(自由)の範囲、経済政策(栄養)や相続の段取り(生殖)、法制や裁判や刑罰の運営、教育に対する介入など、自然法が示唆する諸条項を理性より導き出します。
第3部:カトリックとローマ法王はコモンウェルス内で一切の権力を持たず、単に最後の審判後の救済へ至る道を示す教師としての役割を持っているにすぎません。旧約聖書を精査すれば、神との契約(旧い信訳)を結んで現実的な「神の国」の実定法に従う義務を負ったのはアブラハムとその子孫であるユダヤの民だけであって、契約を引き継いだモーシェの権威も人民の同意と服従への約束に基づいており、ユダヤ以外の国民は旧約聖書の法とはまったく関係がありませんし、ユダヤの民にしてもサウルを王に選んだ時に神との契約は破棄されています。そして救世主が新しい信約で約束したのは最後の審判後に現実世界に神の国が実現することであって、復活後に神の国は現れておらず、現在のコモンウェルスの諸法に対しては守るようにとしか勧めていません。そしてコモンウェルスの主権者たちがキリスト教に改宗する前であれば教会もなんらかの指導力を持ったかもしれませんが、主権者たちがキリスト教信者になった以上は、コモンウェルス内で精霊の人格を代表できるのは主権者だけです。そもそも現在のカトリック教会が精霊を代表することは聖書のどこを読んでも書いてありませんし、教会が「神の国」だという根拠は何もありません。イエスが救世主であることを信じている限り、他の相違は些末なことで、コモンウェルスのやりかたに教会が口を出す理由も権限もありません。
第4部:カトリック教会は煉獄とか魔物のような聖書からは証明できないようなデタラメを平気で言う上に、偶像崇拝までしています。教会はコモンウェルスの権力を掠め取ろうとしていい加減な嘘をついているので、コモンウェルスからは排除されるべきです。プラトンやアリストテレスのような古代哲学者やスコラ学者もデタラメを言っています。私の論理がいちばん世界を平和にします。

【感想】自分なりに読み込んでみた結果として、先行研究の言っていたことはなんだったんだろう?という、先学諸氏に対して不遜な感想を抱くことになった。大半の先行研究は、決定的に重要なことをことごとく見逃しているとしか思えない。本書で決定的に重要なのは「人格」という言葉だ。キリスト教最大の秘儀である三位一体論と世俗的な法学論を貫いて機能する「人格」という概念の定義とその運用が、本書の極めてユニークな論理を底から支えている。個人的には古代からルネサンス、そして近代初期に至る重要な哲学書をそこそこ読んできたつもりだが、ここまで「人格」という概念を使いこなしている著述には初めて出くわした(いやまあ、20年前にはそうではないかと見当はつけていたのだが)。エラスムスやモアやビーヴェスやモンテーニュにはない、ベーコンにもデカルトにもスピノザにもライプニッツにもない。このホッブズにだけあるのが「人格」という概念の厳密な定義と縦横無尽な運用であり、そしてこの概念なくしてリヴァイアサンの論理は成立しない。リヴァイアサンの社会契約論とカトリック批判は、「人格」という概念があって初めて成り立つ上に、両者が整合的に結びつく。この極めて重要な論点に、解説を含めて先行研究はまったく触れない。何を見ているんだ?という感想しか出てこない。

 リヴァイアサン研究では、ホッブズが民主主義者か専制君主論者かで意見が真っ二つに割れているそうだが、虚心坦懐に通読した印象としては、専制君主論者という説に与したい。というのは、民主主義論者が大きな論拠としている「抵抗権」と「内心の自由」というテーマについて、確かに丁寧に論じられているところだけ切り取ると民主主義的に読めなくもないが、しかしその背後にある人間観と世界観が民主主義的な個人主義ではなく、「人間に自由意志はなく、すべては必然」という哲学であり、だからこそ利己的な情念を持つ人間本性を突き詰めた結果として「必然的」にそう考えざるを得ないという記述に至る。この論理展開を「民主主義を擁護しよう」として書かれたものと理解することはできない。本書の全体的な記述を踏まえても、ホッブズが心から主張したいことはコモンウェルス(イギリス王国)の教会権力からの独立にしか読めず、「抵抗権」とか「内心の自由」どころではない大量のエピソードが主権者権力擁護のために費やされており、民主主義擁護の論理として読むのは無理筋すぎる。民主主義論者がリヴァイアサンをアクロバティックに読み替えようと試みることは問題ないし、積極的に行っていいと思うが、ホッブズの執筆意図にまで及ぶのはフェアだとは思えない。そういうものとして批判すればよい。
 いずれにせよ、極めて重要な古典であり、これを読まずに近代を語るのはモグリ、というところまでは言っていいと思う。オリジナリティに溢れる怪作。

【要検討事項】スピノザやデカルトとの関係
 第6章「情念」に関わる記述で「努力」という単語が止揚されるが、この語はただちにスピノザの「コナトゥス」概念を想起させる。

「人間の身体のなかにあるこれらのちいさな運動の端緒が、あるくこと、はなすこと、うつこと、その他の見える諸行為に、あらわれるまえには、《努力》それらはふつうに、努力とよばれる。」1巻98頁
「あなたがもし、かれらは重さによってなにを意味するのかと、たずねるならば、かれらはそれを、大地の中心へいこうとする努力だと、定義するであろう。」4巻122頁

 この文章内の「努力」という語は、明らかにスピノザの言うコナトゥスと同じく「傾向性」という意味を持つ。ホッブズとスピノザは完全に同時代の思想家なわけだが、なんらかの影響関係があってこういう似た記述になっているのか、翻訳の問題か、それとも二人だけに限った特別なことではなく同時代的な常識に属する記述なのか。
 また、そもそも第1部で展開される「情念」に関する記述は、ただちにデカルト『情念論』とスピノザ『エチカ』第3部を想起させるものだ。どういう影響関係にあるのか、またはないのか。デカルト本人はホッブズの感覚論を剽窃だと批判したらしいが。

【要検討事項】dignityの意味について
 ホッブズが使用しているdignityという英単語を、訳者は「位階」と翻訳している。

「ある人の公共的な値うちは、コモンウェルスによってかれにつけられた価値であり、それは人びとがふつうに、位階DIGNITYとよぶものである。」1巻153頁
「人びとはたえず、名誉と位階[ディグニティ]をもとめて競争しているが(後略)」2巻31頁

 しかしこのdignityという英単語は、現代日本においては「位階」ではなく「尊厳」と訳されることが多い。そして「尊厳」と聞くと、ただちにルネサンス期に現れた「人間の尊厳」という観念を想起する。残念ながら不勉強のせいでルネサンス期のラテン語において「人間の尊厳」がどういう単語で表記されていたかが分からないのだが、仮に原語がdignitatis humanaeであったとして、ルネサンス期の論者たちがdignitatis humanaeをホッブズと同じく「人間の位階」という意味で使用していた可能性はないか。というのは、ルネサンス期に「人間の尊厳」というテーマで具体的に議論されていた中身は、神と獣の中間にある人間の性格規定についてだったからだ。つまり、ひょっとしたら議論されていた内容は神→人間→獣という「位階」の関係というくらいのニュアンスに過ぎず、われわれがいまイメージするような「尊厳」について語ろうという意図はなかったかもしれないのだ。仮にそうだとすると、人権に関わる様々な話の歴史的前提(特にルネサンスという時期が持つ意義)が違ってくる。
 また訳文ではこうもある。

「これらの犯罪は、ラテン人が、尊厳を毀損する犯罪Crimina lœsœ Majestatistとして理解するもの」2巻221頁

 ここで訳者が「尊厳」としているラテン語の「Majestatist」とは日本語では「陛下」とも訳されるし、本文では「不敬罪」について言及されるところなので、もちろん「人間の尊厳」という意味での「尊厳」ではなく、「陛下」という意味で理解してよいところだろう。dignitatisとはニュアンスがかなり異なる。ちなみに3巻208頁ではマジエスティが「王の威厳」と訳されている。このあたり、「尊厳」とはいったいなんなのか、古英語とラテン語に造詣のある識者に聞いてみたいところだ。

【要検討事項】資本主義における「生産」と「労働」
 解説は「生きるための殺し合いという矛盾(中略)この矛盾は、ホッブズが生きるための生活資料の生産に気づかなかったために起こった」(1巻378-379)とか「ホッブズの論理のなかで、生活資料の生産という観点の欠如が、自然状態を戦争状態とせざるをえなくした」(2巻6頁)というが、今になってみると、この非難は言いがかりに過ぎなかったのではないか。なぜなら、現代日本のように生活資料に困らないほど生産力が上がったところで、悲惨な戦争状態は続いているからだ。SNSを見よ。日々戦争状態にある。人間が生活資料のために争うだけではなく、ホッブズが第1部の情念論で明らかにしたように名誉とか評判というもので争う本性を持っているとすれば、いくら生活資料が増えようが、戦争状態は終わらない。仮に生活資料が万人に行き渡ったとしても、名誉や評判は万人に行き渡らない。生産力が上がって生活資料が行き渡ることで戦争状態が終わると夢想したのは、ただただ資本主義を賛美する立場からの世迷言に過ぎなかったのではないか。人間が名誉や評判をめぐっていつまでも争いをやめないと「情念」の本質を見切ったホッブズの方が何枚も上手でははなかったか。
 あるいはホッブズはコモンウェルスの経済活動を分析する部でこう言っている。

「人間の労働もまた、他のどんなものともおなじく、便益と交換しうる財貨なのである。」2巻138頁
所有権の導入がコモンウェルスの結果であり、コモンウェルスは、それを代表する人格によらずにはなにもできないことをみれば、それは、主権者のみの行為である。」2巻139頁

 このような「交換財としての労働」という現実的な把握の仕方や「後付けの所有権」という考え方は、ロックのような「所有権を正当化する労働」という資本主義の矛盾を覆い隠すファンタジーよりも遥かに健全ではなかったか。

【要検討事項】ホッブズは「個人」を想定しているのか
 ホッブズに限らず社会契約論を語る時には互いに闘争したり社会を構成する単位を無条件に「個人」だと思い込む傾向があるが、実は「個人」ではなく「家族」だということはないか。たとえばホッブズは以下のように言っている。

「人びとが小家族をなして生活していたあらゆるところでは、たがいに強奪し略奪することが、ひとつの生業であって」(2巻28頁)
「父および主人は、コモンウェルスの設立以前には、かれら自身の家族における絶対主権者であった」2巻120頁

 ホッブズと同じくロックやルソーが社会契約論の単位として想定しているのは「家族」(あるいは家長のみを個人とみなす)ではないのか。

【個人的な研究のための備忘録】人格の定義
 本書では「人格」という単語が連発されるだけでなく、その定義や使用法についても原理的に突っ込んだ話が展開する。さらに、この概念そのものがリヴァイアサンの論理展開に必要不可欠な前提となっていく。「人格」という概念なくして、リヴァイアサンは成立しない。記述の順番は逆になるが、まず「人格」の語源的考察についてホッブズが何と言っているか見てみよう。

「《人格という語はどこからきたか》人格という語は、ラテン語である。それのかわりにギリシャ人は、プロソーポンという語をもっていて、それは顔をあらわし、ラテン語のペルソナPersonaが、舞台上でまねられる人間の仮装や外観をあらわし、ときには、もっと特殊的に、仮面や瞼甲のように、それの一部分で顔を仮装するものを、あらわすのとおなじである。そして、それは舞台から、劇場においてと同様に法廷においても、ことば[スピーチ]と行為を代表するすべてのものに、転化した。それだから、人格とは、舞台でも日常の会話でも、役者Actorとおなじであって、扮するPersonateとは、かれ自身や他の人を演じるActこと、すなわち代表するRepresentことである。そして他人を演じるものは、その人の人格をになうとか、かれの名において行為するとかいわれる。(キケローがUnus sustineo tres Personas; Mei, Adversarii, & Judicisすなわち、私はひとりで三つの人格をもつ、私自身と私の敵たちと裁判官たちの人格である、というばあいに、かれはそれをこの意味でもちいているのだ)。そしてそれは、さまざまなばあいに、代表者Representerまたは代表Representative代行者Lieutenant代理人Vicar代人Attorney副官Depty代官Procurator行為者Actorなどと、さまざまによばれる。

 ギリシャ語やラテン語の語源は現代において「人格」を説明する際にも触れられてお馴染みのものではあるが、個人的には370年前のホッブズの方が切れ味が鋭い。というのは、ギリシャ語とラテン語の捻じれに言及している他、「代表」という概念との関係にも丁寧に触れているからだ。現代の「人格」語源論には、これが欠けている。「人格」と「代表」という概念の関係は、このあとのリヴァイアサンの展開にとって決定的に重要な役割を果たすことになる。
 次に「人格」の定義を確認しよう。

「第16章 人格、本人、および人格化されたものについて
 《人格とは何か》人格PERSONとは、「かれのことばまたは行為が、かれ自身のものとみなされるか、あるいはそれらのことばまたは行為が帰せられる他人またはなにか他のもののことばまたは行為を、真実にまたは擬制的に代表するものとみなされる」人のことである。
 《自然的人格人為的人格》それらがかれのものとみなされるならば、そのばあいにはかれは、自然的人格Naturall Personとよばれる。そして、それらがある他人のことばと行為を代表するものとみなされるならば、そのばあいには、かれは仮想のFeignedまたは人為的なArtificiall人格である。」1巻260頁
「《行為者と本人》人為的人格のうちのあるものは、かれらのことばと行為が、かれらが代表するものに帰属Ownedする。そしてそのばあい、その人格は行為者[役者]であって、かれのことばと行為が帰属するものは本人AUTHORであり、こういうばあいに、行為者は、本人の権威によって行為するのである。」1巻260-261頁

 簡潔にして明確な定義である。「人格」という概念(特に人為的人格)と「代表」という概念の密接な関係をチェックしておこう。
 話は「人格化」へと進む。

「《人格化された無生物》擬制[フィクション]によって代表されることができないものは、ほとんどない。教会、慈悲院、橋のような無生物は、教区長、院長、橋番によって、人格化Personateされうる。(中略)そういうものは、市民政府のなんらかの状態が存在するよりまえには、人格化されることができない。」1巻263頁
「《非理性的なもの》同様に、子ども、愚人、狂人、すなわち理性を使用できないものは、後見人や管理人によって、人格化されうるが、(中略)これもまた、社会状態State Civillのなかにしか、場所をもたない。なぜなら、そのような状態よりまえには、人格に対する支配はないからである。
 《虚偽の神がみ》偶像すなわち頭脳のたんなる虚構は、異教徒の神がみがそうであったように、人格化されうる。(後略)」1巻263-264頁

 社会契約論を理解しようとする立場からは「市民政府のなんならかの状態」とか「社会状態」という表現が気にかかるところだが、ここに続く「神」に絡む記述はさらに興味深い。1巻の市民社会論だけでなく、3巻のカトリック批判の場面もまとめて確認しよう。

「《真実の神》真実の神は、人格化されうる。たとえば、まずモーシェによって人格化されたのであり、かれはイスラエル人たち(それはかれのではなく神の人民であった)を、かれ自身の名において、「これをモーシェがいうHoc dicit Moses」といってではなく、神の名において、「これを神がいう」といって統治したのである。第二には、人の子であり神自身の子であり、われわれの祝福された救世主であるイェス・キリストによって、人格化されたのであり、かれは、ユダヤ人たちをかれの父の王国に復帰させ、すべての国民をそこへみちびくために、かれ自身でではなく、かれの父によってつかわされたものとして、きたのであった。そして第三に、使徒たちのなかでかたりはたらく、精霊すなわちなぐさめるものComforterによって、人格化されたのであり、その精霊は、かれ自身できたのではなく、かれら双方によって、つかわされ、生じてきたのである。」1巻264-265頁
「《まさに同一の神が、モーシェにより、キリストによって、代表されている人格なのである》したがって、われわれの救世主は、おしえることと支配することとの、双方において(モーシェがしたのとおなじく)神の人格を代表する。その神は、そのとき以後、しかしそのまえにではなく、父とよばれる。そして、しかも、まさに同一の実体でありながら、モーシェによって代表されたものとしての人格と、かれの息子、キリストによって代表されたものとしての人格とは、べつなのである。なぜなら、人格は、代表者につながるものなので、まさに同一の実体の人格であっても、複数の人格があることが、代表者が複数であることに一致しているのだからである。」3巻200頁
「《三位一体について》ここにわれわれは、これで三度目にうまれた神の人格をもつ。すなわち、モーシェと祭司長たちが、旧約において神の代表であり、われわれの救世主自身が、かれの地上滞在の間、人間としてそうであったように、それいらいずっと、精霊Holy Ghostが、いいかえれば精霊Holy Spiritをうけた使徒たちと、説教と教化の職務におけるかれらの継承者たちが、かれを代表してきた。しかしながら、ひとつの人格は、それによって代表される人なのであって、かれが代表されるたびにそうである。したがって、三回代表されてきた(すなわち人格化されてきた)神は、人格という語も三位一体Trinityという語も聖書のなかではかれに帰せられないにしても、三つの人格であるといっても十分にただしいであろう。(中略)すなわち、そのようにして、父である神は、モーシェによって代表されたものとして、ひとつの人格であり、そして、使徒たちにより、またかれらからひきだされた権威によっておしえた博士たちにより、代表されたものとして、第三の人格である。しかもここにおける各人格は、まさに同一の神の、人格なのである。(中略)それらすべては、かれらの時代において、神の人格代表したのであり、イェス・キリストを予言するか説教するかしたのである。(中略)天の三位一体では、その諸人格は、三つのちがった時期と機会において代表されるにしても、まさに同一の神の諸人格なのである。結論すれば、三位一体についての教義は、聖書から直接に推論しうるかぎりでは、実質的にはつぎのことである。すなわち、つねにまさに同一である神は、モーシェによって代表される人格、肉化したかれの子によって代表される人格、使徒たちによって代表される人格であった。(中略)すなわち、それらは人格であって、そのことは、かれらがその名称を代表することからえる、ということである。そういうことは、さまざまな人が、神のもとで支配し指導するにあたって、かれの人格代表してしまうまでは、ありえなかったのである。」3巻203-205頁

 この三位一体に絡む記述は、もちろん神の3つの「位格」がラテン語でpersonaと表記される事実を踏まえている。ちなみに1巻部分の記述に対しては、リヴァイアサンのラテン語版への付録の第3章「リヴァイアサンに対するいくつかの反論について」で「著者は三位一体の教義を、三位一体とよんではいないけれども、説明しようとしたよう」だと触れた上で、「意図は敬虔であるが、説明はあやまりである」(第4巻320頁)としている。
 この記述が極めて重要なのは、1巻と2巻で展開されてきた世俗世界のコモンウェルスにおける社会契約の論理が、そのままそっくり旧約におけるユダヤ人や新約における使徒の契約の論理として反復されているところだ。というか、旧約聖書における契約と「神の国」のありかたを解明するための道具として、世俗世界における社会契約論が用意されていたかのようにすら読める。というのは、「人格」という本来であれば三位一体に関わる神学用語が、ここでは本来の神学用語ではなく一貫して社会契約論における法学的な「人格」として運用されているからだ。しかも話の流れから言ってここまで突っ込んで三位一体論に言及する必要があるか分からないところで、ホッブズは敢えて意図的に深く三位一体論に突っ込んでいる。おそらくホッブズは、「三位一体」というカトリック最大の秘儀においてpersonaという用語が極めて重要な役割を果たしていることを十分に理解した上で、そのpersonaという用語を敢えて世俗社会の法学的用語として貫徹しようと試みている。そして、それはカトリック教会の論理を完全にひっくり返すための前提となる。社会契約論が世俗世界と神的世界を貫く論理として期待されていたとすれば、その論理にとって決定的に重要なのは「人格」という概念の定義と、その運用にある。教科書が言うような「万人の万人に対する闘争」というアイデアでは、世俗社会の話ができたとしても、カトリック教会の論理を突き崩す材料にはならない。カトリック教会を倒すには、三位一体という最大の秘儀に関わる「人格」という概念が絶対に必要となる。
 そして三位一体については、ラテン語版付録第1章「ニケア信仰箇条について」で詳細に触れている。

「聖書のどこに、あるいはニケア信仰箇条に、三つの位格、すなわち三つの実体、すなわち三つの神があるということ、あるいはほかの、これにひとしいことが、書いてあるだろうか。もし書いてあるならば、なぜラテン教会が、そのことばを援用することを拒否するのか。なぜ、アウグスティヌスが、ギリシャ人がもっと適切なことばをもたないことを、ゆるすのか。ギリシャ語に、ラテン語の人格Personaに対応する語がないことは、たしかである。しかし、かれらは位格という語を使用する必要はなかったのであって、それは、かれらがその神秘を説明する必要がなかったからである。」4巻220頁
「A  それでは、三位一体の諸位格はどうやって区別されるのか。
B 信仰箇条においても、聖書においても、三位格は、区別も命名もされていない。
A しかしわたくしのみるところ、アタナシウス信仰箇条には三位格があるし、それはイングランド教会の典礼の一部分である。
B しかしそこでは、ギリシャ語で位格Hypostasisというところを、ラテン語および英語で人格Personaといっている。
A これらの位格人格実体substantiaと、その他の多くのことばについては、あなたが信仰箇条全体を説明するときに、たずねることにしよう。」4巻251-252頁
「A (前略)しかしこんどは、位格Personaが、真実かつ本来的になにを意味するのかを、かたってもらいたい。
B それはラテン語で、自分の意志または外部の意志でうごいているある単一の物を意味する。だからキケローはいう、「わたしはひとりで三つの位格[ペルソナ]をもつ。すなわち、わたくし自身の位格、審判者の位格、反対者の位格をである。」キケローが自分に固有の役割、審判者の役割、反対者の役割を演じるのでないとすれば、それはなんのことか。イングランドの教理問答にみられるように、(中略)この教理問答のなかにみいだされるものは、なんであるのか。それは神がその固有の位格においてすべてを創造し、その子としての位格において人類を救済し、そして、精霊の位格において聖教会を聖別したということに、ほかならない。神の諸位格については、これ以上に明らかで信仰に合致するどんなことがいいえようか。しかしもし、位格のかわりに、ギリシャの教父たちのように、われわれが(ヒュポシュタシス実体が同じ意味をもつとして)ヒュポスタシスということばをもちいるならば、三つの位格にかわって、三つの神的実体うなわち三つの神がえられる。(中略)これらを三つの神的実体とすることは、信仰に反している。ベラルミーノはラテン語の位格Personaの意味を知っていなかった。もしこの語が第一実体を意味するとしたら、プロソーポンがギリシャ語で同じ意味をもつことにならないだろうか。それは真実ではなく、プロポーソンの固有の意味は、自然の顔にしろ、仮面のような人工的な顔にしろ、さらには代表的な顔にしろ、人間の顔なのであり、それは、劇場だけでなく、議場Forumおよび教会において、そうなのである。代表的な顔とは、代表されるものの影像または像Character以外のなんであろうか。したがってわれわれの救世主は、ヘブル・一・四で、聖パウロによって神の実体の像とよばれるのである。
A しかし、プロソーポンは聖書においてなにを意味するのか。
B 顔あるいは表情以外に、固有の意味はない。換喩により、それは、プロソーポレープシアということばのばあいのように、時として人間そのものを意味するように、つかわれる。しかし信仰箇条は、位格ヒュポスタシスあるいは三位一体について、なにものべていない。(後略)
A それではなぜ、古代の教父たちや最近のおおくの博士たちは、それらのことばを用いたのか。
B そのわけは、(後略)」4巻270-272頁
「A (前略)もし位格をそれ固有の真の意味で、それ固有のおよび他のものの役割を演じるものという意味で、理解するならば、父、子、精霊というこれらの三つは、三つの位格よりなる唯一の神なのだと、ある。しかし、もし位格という語が単純に、ペテロ、パウロ、ヨハネのような(ベラルミーノが把握するように)単一の知性的実体の意味で、あるいは(同じことであるが)ヒュポスタシスの意味で理解されるとするならば、わたくしには、父と子と精霊が、なぜ個別の三つの実体すなわち数的に区別される神でないのか、わからないし、どのようにしてそれを聖書によって証明することができるのかわからないのであって、聖書では神においてヒュポスタシス位格も、識別できないのである。(後略)」4巻278頁

 後半は議論が錯綜しているような印象だが、まずペルソナの定義を「ラテン語で、自分の意志または外部の意志でうごいているある単一の物を意味する」としているところには注目しておきたい。リヴァイアサン本文の定義とは、けっこうニュアンスが違っているような印象だ。
 さて、ギリシャ語のヒュポスタシス(ラテン語では実体=substantiaにあたる)とラテン語のペルソナを比較・吟味しているが、これはもちろん三位一体論をテコにしてカトリックをやっつけようとするホッブズの罠である。(ちなみにこのギリシャ語とラテン語の言葉の違いはカトリックと東方教会の教義の違いの根底にあるわけだが、ホッブズはそれを理解しているかどうかは分からない)。三位一体の神をラテン語のペルソナと厳密に理解することで、社会契約論の肝にある「人格」という概念が教会にダメージを与える武器となる。
 本書の記述の順番を入れ替えて教会批判パートにおける「人格」の働きを確認したが、世俗社会の説明で「人格」概念がどのように働いているか確認しよう。

「《人間の群衆がどのようにしてひとつの人格となるか》人間の群衆a Multitude of menは、かれらがひとりの人、あるいはひとつの人格によって、代表されるときに、ひとつの人格とされる。だからそれは、その群衆のなかの各人の個別的な同意によって、おこなわれる。なぜなら、人格をひとつにするのは、代表者の統一性であって、代表されるものの統一性ではないからである。そして、その人格をになうのは、代表者であるが、しかしひとつの人格をになうのであり、統一性ということは、群衆については、このようにしか理解されえない。」1巻265頁
「ひとりの人間または人びとの合議体を任命して、自分たちの人格をになわせ、また、こうして各人の人格をになうものが、共通の平和と安全に関することがらについて、みずから行為し、あるいは他人に行為させるあらゆることを、各人は自己のものとし、かつ、かれがその本人であることを承認し、そして、ここにおいて各人は、かれらの意志をかれの意志に、かれらの判断をかれの判断に、したがわせる、ということである。これは同意や和合以上のものであり、それは同一人格による、かれらすべての真の統一であって、この統一は、各人が各人にむかってつぎのようにいうかのような、各人対各人の信約によってつくられる。すなわち、「私は、この人、また人びとのこの合議体を権威づけAthorize、それに自己を統治する私の権利を、与えるが、それはあなたもおなじようにして、あなたの権利をかれに与え、かれのすべての行為を権威づけるという、条件においてである」。このことがおこなわれると、こうして一人格に統一された群衆は、コモンウェルス、ラテン語ではキウィタスとよばれる。これがあの偉大なリヴァイアサン、むしろ(もっと敬虔にいえば)あの可死の神Mortall Godの、生成であり、われわれは父子のImmortall神のもとで、われわれの平和と防衛についてこの可死の神のおかげをこうむっているのである。」2巻33頁
「《コモンウェルスの定義》それは(それを定義するならば)、「ひとつの人格であって、かれの諸行為については、一大群衆がそのなかの各人の相互の信約によって、かれらの各人すべてを、それらの行為の本人としたのであり、それは、この人格が、かれらの平和と共同防衛に好都合だと考えるところにしたがって、かれらすべての強さと手段を利用しうるようにするためである。
 《主権者および臣民とは何か》そして、この人格をになうものは、主権者とよばれ、主権者権力Soveraigne Powerをもつといわれるのであり、他のすべてのものは、かれの臣民である。」2巻34頁

 上記引用部は、リヴァイアサンにおける社会契約論の核心部分にあたるが、ここでまさに「人格」という言葉が連発されていることに注意しておきたい。「人格」という言葉がなければ、社会契約論を記述することは不可能なのだ。あるいは逆に、「人格」という言葉を厳密に定義しようとすると、どうやら「代表」という概念に絡んで社会契約論的な議論が展開されることになる。そしてこの社会契約論的な「人格」の用法をそのまま神学的な三位一体論の記述に滑り込ませると、「代表」という概念も滑り込んでいき、旧約聖書(父なる神)も新約聖書(救世主)も使徒(精霊)も、世俗の社会契約論と同じ水準で記述できてしまうのだ。三位一体論にペルソナという言葉が使われているからこそ可能になった、アクロバティックな展開である。「万人の万人に対する闘争」どころのアイデアではない(だってそれは既に古代のエピクロス主義が言っていて、ホッブズだけでなく知識人はみんな知っている)。凄いことになっている。どうして先行研究はこの論理展開に注目しないのか。あるいは業界の常識になっていて研究者が触れるまでもないことなのか?

 ということで、今後の研究に役に立つこともあろうかと、リヴァイアサンにおける「人格」の用例をできるかぎりサンプリングしておいた。文脈によって意味は微妙に異なるが、分類はまた暇なときにやろう。

「かれ[シドニー・ゴドルフィン]のりっぱな人格」1巻31頁
「ある人が、かれ自身の人格の影像と、他の人の諸行為の影像とを複合させるとき」1巻50頁
「これらの善、悪、軽視すべきという語は、つねに、それらを使用する人格[パースン]との関係において使用されるのであって」1巻100頁
「(コモン・ウェルスがないばあいは)その人の人格から、あるいは(コモン・ウェルスにおいては)それを代表する人格から」1巻100頁
「社交をもとめての、人物[パースン]への愛は、親切とよばれる。」1巻105頁
「そのばあいには、論究はものごとにかんするよりも、人格にかんするものなのである。」1巻120頁
「その人格への信用ではなく、その教義の告白と承認」1巻121頁
「われわれが信頼あるいは信用するのは、話し手または人格であり」1巻121頁
「時と所と人格が識別されなければならない交際と事業のことがら」1巻126頁
「われわれの救世主が、病気にむかって、人格に対するようにかたったことについていえば…」1巻139頁
「人間の力のなかで最大のものは、きわめて多数の人びとの力の合成であって、それは同意によって、自然的または社会的な一人格に合一され、その人格は、かれらのすべての力を、コモンウェルスの力がそうであるように、かれの意志にもとづいて使用しうるか…」1巻150頁
「社会的名誉については、その源泉は、コモンウェルスの人格であり、主権者の意志に依存する。」1巻157頁
「詩人が人格としてかれの詩のなかにいれることができたもので、かれらが神か悪魔かどちらかにしなかったものは、なにもなかったほどであった。」1巻189頁
「自分をおびやかすほどのおおきな力を、ほかにみないように、強力または奸計によって、できるかぎりのすべての人の人格[パースン]を、できるだけながく支配することである。」1巻209頁
「第一は自分たちを他の人びとの人格、妻子、家畜の支配者とするために、暴力を使用し(中略)それらが直接にかれらの人格にむけられたか、間接にかれらの親戚、友人、国民、職業、名誉にむけられたかをとわず、暴力を使用する。」1巻210頁
「どんな法も、それをつくるべき人格についてかれらが同意するまでは、つくられえない」1巻212頁
「すべての時代に、王たち、および主権者の権威をもった諸人格は…」1巻213頁
「権利のこの放置と譲渡がひきおこされる動機と目的は、かれの身がら[パースン]を、その生命において、また声明を嫌悪すべきものとしてではなく維持する手段において、安全に確保することにほかならない。」1巻221頁
「債務の遅延はかれら自身に対する侵害であるが、強盗と暴力は、コモンウェルスの人格に対する侵害なのだからである。」1巻244頁
「えこひいきacception of Persons」1巻250頁
「かれらすべての人格を表現する権利」2巻36頁
「かれらの人格を、それをになっているものから、他の人または人びとの合議体へと、移転させることもできない。」2巻37頁
「神との信約は、神の人格を代表するなにものかの媒介によらなくては、ありえないのだが」2巻37-38頁
「未成年相続者たちの財産と人格を処分する権力」2巻46頁
「人びとがもし、「すべてをいっしょに」というときに一人格としての集合体collective bodyを意味しないならば、そのばあいには、「すべてをいっしょにしたもの」と「おのおの」とはおなじものをあらわし、このことばは背理である。しかし、もし、「すべてをいっしょに」というときに、かれらがそれらを一人格(その人格を主権者がになう)として理解するならば、そのばあいには、すべてをいっしょにしたものの権力とは、主権者の権力とおなじであって、このことばもやはり背理である。」2巻48-49頁
「諸コモンウェルスのちがいは、主権者すなわち、群衆のすべておよび各人を代表する人格の、ちがいにある。」2巻52頁
「各人はその人格をふたりの行為者によって代表されることになり」2巻54頁
「人民の人格をになうもの、あるいはそれをになう合議体の成員であるものは、だれでも、同時にまたかれ自身の自然的人格をもになうのである。そして、かれが自分の政治的人格において、共通利益の獲得に注意ぶかいにしても、しかもかれは、かれ自身とその家族、親戚、友人の、私的な善の獲得については、それ以上あるいはそれにおとらず、注意ぶかいのである。」2巻55頁
「未成年者(中略)かれの人格と権威の管理者および保護者として」2巻58頁
「かれらは、ひとつの人格に統治されたのであり、それはローマの市民については、市民の合議体すなわち民主政治であったが、しかし、統治に参加する権利をまったくもたないユダヤの人民については、君主であった。」2巻62頁
「臣従する人格[パースン・サブジェクト]のなかにある」2巻63頁
「ある人の人格に対して支配をもつものは、かれが有するすべてに対してもそうなのであって、そうでなければ支配は、効果のない称号にすぎない」2巻74頁
「あるいは、政治体および法人格Persons in Lawともよばれる」2巻106頁
「かれが団体の人格においてすること」2巻109頁
「かれは自分以外のなにものの人格をも代表しない」2巻109頁
「政治体の人格がひとりの人にあり」2巻110頁
「統治の運営はさまざまな人格に委任される」2巻113頁
「植民地のだれかの身柄[パースン]や財貨」2巻114頁
「全国を代表する一人格をもってする」2巻119頁
「代表的な一人格において結合されるから、正規とみなされる」2巻120頁
「自分たちを代表的な一人格に結合する」2巻120頁
「なにか外国の人格の権威」2巻120頁
「権威をもってそのコモンウェルスの人格を代表する」2巻128頁
「かれらは代表的人格に奉仕するものであって」2巻130頁
「一兵士は、命令権をもたなければ(中略)その人格を代表するのではない。」2巻130頁
「かれらはの裁判の席において、主権者の人格を代表し」2巻131頁
「これらの公共的人格は、自然人の肉体における発声諸機関に比較するのがふさわしい」2巻133頁
「諸外国に対して、かれら自身の主権者の人格を代表する人びと」2巻133頁
「仕事は私的であり、自然的資格におけるかれに属しているのだから、私的人格である。」2巻134頁
「それは公共的人格ではない」2巻134頁
「コモンウェルスの人格に対しては、かれの忠告者たちが、記憶と心の説話のかわりをつとめる」2巻156頁
「それより少数の、もっとも精通している諸人格からなり」2巻160頁
「市民法については、命令する人格の名称だけがつけくわえられるが、それは都市の人格Persona Civitatisすなわちコモンウェルスの人格である。」2巻163-164頁
「コモンウェルスは人格ではないし、代表(すなわち主権者)によらなければなにをする能力もない」2巻165頁
「どのような人格にとっても、かれ自身に拘束されることは不可能」2巻165頁
「コモンウェルスは、その代表においてただひとつの人格であるから」2巻170頁
「コモンウェルスの人格においては、公正と理性に一致するものとつねに想定される」2巻173頁
「特定の一国民または特定の諸人格だけにつげられるもの」2巻189頁
「ひとりまたは数人の人格に対してなされる諸侵害」2巻221頁
「一私人に対する犯罪もまた、人格と時と所によって、おおいにおもくなる。」2巻222頁
「有罪とされる人格を、本人としてもたない」2巻227頁
「コモンウェルスの人格としてでなく、かれの自然的人格として考察された」2巻236頁
「それはひとつの独立のコモンウェルスではなくて、三つの独立の分派であり、また、ひとつの代表人格ではなくて、三つのそれである。神の王国では、三つの独立の人格が、おさめる神における統一をやぶることなく存在しうるが、しかし意見の相違をきたしがちな人間たちがおさめるところでは、それはそうではありえない。したがってもし、王が人民の人格をにない、一般的合議体もまた人民の人格をにない、もうひとつの合議体が人民の一部の人格をになうとすれば、かれらはひとつの人格でもひとりの主権者でもなく、三つの人格と三人の主権者なのである。」2巻251頁
「反乱によって自然的人格におけるかれ自身におよぶべき危険」2巻263頁
「富裕で有力な人格も、貧乏で無名の人格も」2巻270頁
「上流の諸人格[グレート・パーソンズ]」2巻271頁
「かれら自身の人格についてのみならず、さらにおおくの人格について、債務者でありうる」2巻272頁
「賦課の平等は、消費する人格の財産の平等よりもむしろ、消費されるものの平等にある」2巻272頁
「私的諸人格の慈恵にまかせられるべきではなくて」2巻273頁
「忠告する諸人格は、忠告される人格の諸構成員なのだから」2巻278頁
「隊長の人格だけでなくその大義名分をも愛しているばあい」2巻281頁
「神は、そういうようにしてではなく、個別的な諸人格に、そして、ちがった人びとにちがったことを、かたる」2巻287頁
「公共的なとは、コモンウェルスがひとつの人格として遂行する崇拝である。」2巻293頁
「コモンウェルスは、ただひとつの人格であるから」2巻299頁
「これら三つは、それぞれのときにおいて、神の人格を代表した。」3巻48頁
「しかし、教会は、もしそれがひとつの人格であるならば、キリスト教徒のコモンウェルスとおなじものであって、それは、ひとつの人格すなわちかれらの主権者において合一した、人びとからなるために、コモンウェルスとよばれ、そして、ひとりのキリスト教的主権者において合一した、キリスト教的な人びとであるために、教会とよばれる。けれども、もし教会が、ひとつの人格でないとすれば、そのばあいには、それはまったく権威をもたない。」3巻50-51頁
「神の人格においてかたっている」3巻67頁
「どんな国の王も、公共の人格であり」3巻87頁
「その主権者すなわち公共の人格の、国民である。」3巻88頁
「神はときどき、かれがその人格を容認していなかった預言者たちによってかたる」3巻116頁
「侵犯された人格person offended」3巻159頁
「《どんな意味で教会は一人格であるのか》そして、このさいごの意味においてのみ、教会はひとつの人格と解されうる。すなわち、それは、意志し、断定し、命令し、服従され、諸法をつくり、あるいはなんであれその他の行為をする力を、もつものといわれうるのである。」3巻166頁
「イスラエル人にたいして神の人格[パースン]を代表した」3巻174頁
「地上で神の人格を代表する人びとの法」3巻176頁
「政治的および教会的権力は、ともに、一にして二ならぬ人格、すなわち祭司長において、結合されていた」3巻178頁
「神の人格、すなわち父である神の人格を、代表した」3巻186頁
「他の主権者人格」3巻211頁
「その神の人格は」3巻219頁
「べつべつの人格の代行者」3巻260頁
「公共収入は、公共的人格であったもの、そして(捕囚までは)王であったものの、処理にゆだねられていた」3巻264頁
「精霊によって意味されるものが、三位一体における第三の人格ではなくて、牧者の職務にとって必要なおくりもの(資質)であることに、注意されたい。」3巻278頁
「救世主がかれの教会を聖ペテロの身がらPersonのうえにたてることを意図して」3巻285頁
「ある一人格としての特定的な反キリストがあり」3巻289頁
「臣従、指揮権、権利、権力は、諸権力のではなく諸人格の、偶有性なのだから」3巻318頁
「自然の肉体の四肢が、それらをいっしょにしておくひとつのたましいの欠如のために、解体して土になる」3巻321頁
「手段の運営における一人格の他の人格への臣従」3巻321頁
「異端とは、公共的人格(いいかえればそのコモンウェルスの代表者)がおしえられるべきだと命令した意見に反対して、頑強に保持された私的な意見」3巻324頁
「《キリスト教徒の信仰において信じられるべき人格はだれであるか》(前略)われわれが信じる人格についていえば、その人がなにをいうかをわれわれがしるまえには、いかなる人格を信じることも不可能なのだから(中略)アブラハム、イサーク、ヤコブ、モーシェおよび預言者たちが信じた人格は、かれらに超自然的にかたりかけた、神自身であった。そして、キリストとことばをかわした使徒たちおよび弟子たちが信じた人格は、われわれの救世主自身であった。しかしながら、父なる神もわれわれの救世主も、かつてかたりかけたことのない人びとについては、かれらの信じた人格が神であったとはいえない。(中略)現在ではキリスト教徒が神からのはなしかけをきく唯一の人格なのである。(中略)特別の啓示をもたぬすべての人びとが信じるべき人格は、(どのコモンウェルスにおいても)、最高の牧者、いいかえれば政治的主権者なのである。」3巻341-342頁
「すべてのキリスト教徒に対してかれの人格を代表すべきだとか」4巻21頁
「それぞれに人格において、および全三位一体において」4巻28頁
「かれらの個別的な人格において、生殖という種の永遠性なしに、永遠に生きる」4巻44頁
「それは種族の不死性であるけれども、人びとの人格(身がら)のそれではない。」4巻46頁
「かれらの人格の名誉のため」4巻48頁
「三位一体の第三の人格である精霊にそむいてかたることは、精霊がすんでいる教会にそむいてかたることである」4巻50頁
「かれらの死んだ友人たちの人格にかわって」4巻51頁
「教会とコモンウェルスとは同一の諸人格であるから」4巻140頁
「キリストの代行者の人格」4巻149頁
「知恵の人格においてかたられたソロモンのことば」4巻221頁
「もし、武力と財力が、ひとつの人格の手のなかにあつめられていないならば、権力はただのことばであって」4巻226頁

 最後に、これほど「人格」という言葉を連発したリヴァイアサンが、ついぞ一回たりとも「個性」という言葉を使用しなかったことには注意しておくのがよいだろう。完全な近代は、「人格」と「個性」が出そろったところで始まる。つまりリヴァイアサンは、まだ近代ではない。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 ホッブズの論理から言えば脇筋ではあるが、教育学者である以上は「教育」に関わる記述も気になるところだ。まず注目すべきところは、ホッブズが心身の能力において諸個人が平等だと前提しているが、知力の格差の原因を「情念」の違いに見出している点だ。

「知力のこのちがいの諸原因は、諸情念にある。(中略)もっともおおく知力のちがいをひきおこす諸情念は、主として、力、財産、知識、名誉に対する大小の意欲である。それらすべては、第一のものすなわち力への意欲に、帰着させうる。」1巻130頁

 文部科学省流の学力の三要素に落とし込めば、「主体的な態度」に対応するところか。
 続いて、「教育権」の記述に注目するが、ここはホッブズの表記が揺れているところだ。全体を通じてみても、教育権がコモンウェルスの主権者にあるのかカトリック教会にあるのか判然としないところだが、おそらく「キリスト教に改宗した主権者」か「異教徒の主権者」かで話が異なっていて分かりにくいのが原因だと推測する。

「《人民の指導のためのもの》つぎのような権威をもつ人びともまた、公共的代行者である。すなわち、人民に対して、主権者権力に対するかれらの義務をおしえ、何が正しく何が不正であるかの知識についてかれらを指導し、そうすることによって、かれらがますます、かれらのあいだで敬虔に平和に生活し、公共の敵に抵抗しようという、傾向をもつようにする、あるいは、他の人びとがそれらのことをするのを可能にする、という権威である。(中略)君主または主権合議体だけが、人民を教育し指導するという権威を、神から直接に有するのであり、他のだれでもなく、主権者だけが、ただ神のめぐみによってDei gratia、いいかえれば、他のなにものでもなく神だけの好意によって、かれの権力をうけとるのである。」2巻130-131頁
「主権者の職務は、(それが君主であれ合議体であれ)、かれがそのために主権者権力を信託されたところの、目標に存する。それはすなわち、人民の安全の達成であって、かれは、自然の法によってそれへ義務づけられ、その法の創造者である神に対して、しかもかれのみに対して、それについて説明するように義務づけられる。(中略)
 そしてこのことは、個々人に対して、かれらが不平をうったえるばあいの、諸侵害からの保護以上に与えられる配慮によってではなく、学説および実例による公共的指導[パブリック・インストラクション]と、個々の人格がそれに対して自己のばあいを適用しうるよい法の、作成および実施とのなかにふくまれる、一般的な慎慮によって、なされるように意図されている。」2巻259頁

 上記引用部では、臣民への教育権を持つのは明らかにコモンウェルスの主権者であり、さらに注目されるのは「神」に対して責任を持つとしているところだ。社会契約論(政治)においては、主権者の権力の源は臣民たちの同意と服従にあるが、教育に関しては「神」が召喚される。つまり、ホッブズにあっては政治を語る言葉と教育を語る言葉は完全に異なっている。
 続いて、親の教育義務について触れている。

「そして、子供たちの最初の指導は、かれらの親たちの配慮にもとづくのであるから、かれらが親たちの補導下にあるあいだは、親たちに対して従順であることが必要である。それだけではなく、かれらが、のちになっても、(報恩が要求するように)、尊敬の外的なしるしによって、親たちによる教育の便益をみとめることが必要である。この目的のためにかれらがおしえられるべきことは、ほんらい各人の父は、かれに対して生殺の権力をもつ、かれの主権者的主人であったことであり、そして、諸家族の父たちが、コモンウェルスの設立にさいしてその絶対権力をゆずりわたしたばあいにも、かれらが与えた教育に対してうけるのが当然な尊敬を、うしなうべきだとは、けっして意図されなかったことである。なぜなら、こういう権利の放棄は、主権者権力の設立に必要ではなかったし、また、人びとがのちに子供からうける便益が、もし他人からのそれとおなじであるとすれば、だれも、子供たちをもとうと意欲したり、かれらを養育し指導するように配慮したりすべき理由は、なにもないだろうからである。」2巻266-267頁

 ここでホッブズは極めて重要なことをさらりと言っている。教科書ではリヴァイアサンでは絶対権力とされているが、その絶対権力には「親が子どもの教育から尊敬と便益を受ける権利」は含まれていないのだ。究極の絶対権力の下にあってすら、政治と教育の論理は異なるのである。
 そしてホッブズは現実の大学教育や人文主義を非難する。

「したがってあきらかに、人民の指導は、大学における青年のただしい教育に、まったく依存する。(中略)ヘンリ八世のおわりごろまで、法王の権力が主として大学によって、つねにコモンウェルスの権力に反対して支持されたこと、および、そこで教育をうけたあれほどおおくの説教者によって、また法律家やその他の人びとによって、王の主権者権力に反対する諸学説が主張されたことは、大学が、それらの虚偽の学説の創造者ではなかったにせよ、真実のものをいかにしてうけつけるべきかを知らなかったという、十分な証拠である。」2巻269-270頁
「《ギリシャ人たちの学校は有益でない》(前略)かれらの読書と論争によって獲得されたどんな科学が、今日存在するか。すべての自然科学の母である幾何学について、われわれがもつものについて、われわれはそれらの学校のおかげをうけてはいない。(中略)自然科学において、今日アリストテレースの形而上学とよばれているもの以上に背理的なことを、なにもいうことはできないし、彼がその政治学においていったことのおおくよりも、統治に反することを、またかれの倫理学の大部分よりも無知なことを、なにもいうことはできない。
 《ユダヤ人の学校は無益である》」4巻110-111頁
「プラトーンは、かれ自身すぐれた哲学者であり幾何学者であったが、それは学校のおかげではなかった。」4巻217頁
「《大学とはなにか》現在、大学とよばれているものは、同一の町または都市にあるおおくの公共的な学校を、ひとつにまとめたもの、ひとつの統治のもとに一体化したものである。そのなかで、主要な諸学校は、三つの職業すなわちローマの宗教、ローマの法律、医術のためのものとして、制定された。そして、哲学の研究のためには、大学は、ローマの宗教の侍女としての場所しかもっていない。」4巻112頁

 ホッブズは現実の大学教育の内容が反国家的だと非難している。どこかで見た風景だ。またアリストテレスのことがそうとう嫌いらしく、折に触れて強烈に非難している。
 で、問題になるのは教育に関わる教会の権力である。

「《教会権力とはおしえる権力にすぎない》(前略)われわれの救世主によってかれらにはなんの強制権力ものこされていないで、つぎのような権力、すなわち、キリストの王国を布告し、人びとがみずからそれに服従するように、かれらを説得し、服従した人びとに、おきてとすぐれた忠告によって、神の王国がきたときにそれにうけいれられるためには、なにをなすべきかを、おしえる権力だけがのこされているということ、そして、使徒たちやその他の福音の代行者たちが、われわれの学校教師であって、われわれの指揮者ではなく、かれらのおきてが法ではなく有益な忠告にすぎないということが、あきらかになるとすれば、そのばあいには、それらの議論はすべてむなしいであろう。」3巻207頁
「ようするに、破門の権力は、教会の使徒たちと牧者たちが、かれらの使命をわれわれの救世主からうけたことの目的をこえては、拡大されえない。その使命とは、命令と強制によって指導することではなく、きたるべき世界における救済への道に、人びとをおしえ方向づけることによって、指導することである。そして、どの科学の教師でも、かれの弟子が、かれが指導することの実行を頑強に無視するならば、その弟子をすててもいいけれども、しかし、その弟子はけっしてかれに服従するように拘束されたのではないから、弟子にたいして不正義の非難をしてはならないのであって、これとおなじように、キリスト教の教義の教師も、頑強に非キリスト教的な生活をつづけるかれの弟子たちをすてていいけれども、しかしかれは、かれらがかれにたいして不正をなしたということはできない。なぜなら、かれらは、かれに服従することを義務づけられてはいないからである。」3巻231-232頁
「法王の権力は、かれが聖ペテロであったにしても、君主政治ではなく、また首長的あるいは有力者的ななにものでもなく、教師的Didacticallななにかであるにすぎない。」3巻311頁

 上記引用部だけ読めば、カトリック教会に服従させる権力はなくとも、少なくとも「おしえる権力」は保持しているように読める。しかしどうやらそうではない。

「おのおののコモンウェルスにおいて、政治的主権者が最高の牧者であり、かれの臣民たちという羊のむれの全体が、かれの責務にゆだねられ、したがって、かれの権威によって他のすべての牧者がつくられ、おしえる権力をもち、他のすべての牧者としての職務を遂行する、ということからすれば、とうぜんにまた、つぎのことがでてくる。すなわち、他のすべての牧者が、その職務に属する、教授、説教、その他の諸機能についての権利をひきだすのは、政治的主権者からであること、かれらはかれの代行者たちにすぎず(中略)これについての理由は、おしえる人びとがかれの臣民であるからではなく、まなぶべき人びとがそうであるからなのである。」3巻270-271頁
「キリスト教の博士たちは、キリスト教についてのわれわれの学校教師である。しかし王たちは諸家族の父であり、かれらの臣民たちのための学校教師たちを、ひとりの外来者のすいせんによってうけいれるかもしれないが、その外来者の命令によってはそうしない。」3巻271頁
各主権者は、キリスト教以前に、おしえる権力、教師叙任の権力をもっていたのであり、したがってキリスト教はかれらに、あたらしい権利をあたえたのではなく、真理をおしえる道にかれらをみちびいたにすぎない。」3巻279頁

 どうやら「おしえる権力」なるものも教会が本来的に保持しているわけではなく、主権者の代行として許されているに過ぎないようだ。この部分が分かりにくいのは、おそらく「キリスト教に改宗した主権者」と「異教徒の主権者」によって「おしえる権力」の実際の運用が異なるからだろう。
 ホッブズは、自らの見解がどういう扱いを受けるかについて、以下のように言及する。

「キリスト教のコモンウェルスをあつかう部分のなかには、いくつかのあたらしい学説があって、それはおそらく、その反対がすでに十分に決定された国家においては、公表の許可をもたない臣民としては、まちがいであろう。それは教師の地位を、僭取することだからである。」4巻169頁

 あくまでも「教師の地位」はコモンウェルスの主権者が決める者であって、ホッブズ個人の自由になるものではないらしい。
 また教育に関しては、以下の記述は興味深い。

「しかし、もし、おしえることが信仰の原因であるならば、なぜすべての人が信じないのか。だから、たしかに、信仰は神のおくりものであって、かれはそれを、かれがあたえたいとおもうものだけにあたえるのだ。それにもかかわらず、かれは、それをあたえる人びとにたいして教師たちをつうじてあたえるのだから、信仰の直接の原因は、きくことなのである。学校において、おおくの人がおしえられ、ある人は利益をえて他の人はそうではないが、利益をえる人における学識の原因は、教師である。それでも、そこから、学識は神のおくりものではないと、推論することはできない。すべての善なるものごとは、神からでてくる。」3巻344-345頁

 どうして人は「教えられたものごとを理解することができるのか」という問題である。ただちにアウグスティヌス「教師論」の論理を想起するところだ。
 ほか、教育に言及した箇所をサンプリングしておく。おそらくラテン語の原語はそれぞれ違っている。ここまで出てきた「教育」についても、educationではないはずだ。

「これらの双方[勇気と臆病]が、同一の人格のなかに両立するのは不可能だと、人びとはいうのである。(中略)それにたいして、わたくしは、これらはたしかにおおきな困難ではあるが、不可能なことではないとこたえる。なぜなら、教育と規律によって、それらは和解させられうるし、ときどき和解させられているのだからである。」第4巻158頁

「第一の意味において、大地に投下された労働は、育成Cultureとよばれ、子供たちの教育は、かれらの精神の育成とよばれる。」2巻291頁

【個人的な研究のための備忘録】大航海時代
 本書には、大航海時代の知識を前提とした記述を散見することができた。メモしておく。

「虚偽の哲学の導入に、われわれは、真理の判定者たる能力を合法的な権威によっても充分な研究によってももたぬ人びとが、真実の哲学を抑圧することをも、むすびつけていい。対蹠人というものがいることを、われわれ自身の諸航海は明白にするし、人間の諸科学についての学識があるすべての人びとは、いまでは承認する。」4巻134頁

【個人的な研究のための備忘録】ラテン語
 ラテン語に対する見解もメモしておく。

「かれらが教会とかれらの公共的行為との双方において使用する言語もまた、ラテン語であって、それはこんにちの世界のどの国民によっても、ふつうには使用されていないのであるが、それは、ふるいローマの言語の幽霊以外のなにものであろうか。」4巻150-151頁

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 本書はもちろん最初から最後まで徹頭徹尾「国家有機体論」で記述されているわけだが、国家にとって都合の悪いものを「ガン」だと表現しているのはどれくらい一般的に見られるのか。

「合法的なものは筋肉に、非合法なものは、わるい体液の不自然な合流によって生じさせられた、こぶや胆汁や膿腫と比較されうるのである。」2巻125頁

【個人的な研究のための備忘録】子ども
 この時代は、もちろん子どもは人間と見なされていない。関連記述をメモしておく。

「それは、ちいさな子どもたちが、よい態度わるい態度について、自分たちの親や教師からうける匡正のほかには、なんの規則ももたないようなものであって、ただちがうのは、子どもたちはかれらの規則に忠実であるのに、人びとはそうではないということである。」1巻176頁
「法は命令であり、命令は、命令するものの意志の、声や書面やその他の、それについての十分な証拠による、宣告または表示であるが、われわれはこのことから、コモンウェルスの命令は、それを知る手段をもっている人びとに対してのみ法であることを、理解しうる。うまれながらの白痴や、子供たちや狂人たちに対しては、野蛮な獣に対するとおなじく、法は存在しないし、かれらは正または不正という称号を与えられる資格がない。」2巻171頁
「ただ子供たちと狂人たちだけが、自然法に対する犯行から免罪されるのである。」2巻213頁

ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(1)』岩波書店、1954年
ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(2)』岩波書店、1964年
ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(3)』岩波書店、1982年
ホッブズ/水田洋訳『リヴァイアサン(4)』岩波書店、1985年