【要約】日本が植民地化されなかったのは、江戸時代の教育のおかげかもしれません。たとえば経済的合理主義と実用主義に基づいた教育が庶民に行き渡っており、個人的な向上という観念が根付き始めていたことは、明治以降の国民教育のすみやかな浸透にとって有利な条件でした。また儒学が普遍的な原理を志向して創造性を発揮する余地を残していた上に、実績による競争原理が一定程度導入されていたことは、明治維新期の変革にはずみをつけました。
とはいえ、日本人が純粋に「学ぶこと」を喜びを感じる民族であったことが、教育にとってはとても幸せなことでした。
【感想】もう50年近く前の本だ。明治維新で教育が途切れていると見るのではなく、江戸時代と近代を連続的に捉えようとする視点は、石川謙の仕事と本書が常識にしていったのかもしれない。今ではお馴染みの論旨になっている。
経済的合理性と業績主義=メリトクラシーの展開に焦点を当てて江戸時代と近代教育の連続性を捉えようとする理論枠組は、極めて明快だ。が、使用している史料はほぼ刊行済みの資料集ばかりだ。もっぱら刊行済資料の読み取りと理論仮説の検証に終始する。足で史料を稼いで新しい知見を加えるというタイプの地道な研究ではない。また著者がイギリス人だけあって、イギリスとの比較教育史的な見解とユーモアも多々示される。本書の持ち味と限界は、このあたりの方法論に由来するだろう。
この50年の間に寺子屋や藩校など江戸時代の教育に関わる様々な新史料が発見され、様々な知見が加わっている。このような地道な史料捜索の努力を本書に見ることはできない。また講座派や労農派が積み重ねてきた江戸時代の経済史的な背景についても触れられておらず、もっぱら教育関係史料に依拠しているのも、本書の限界だろう。江戸時代と近代の連続・非連続を議論の対象にするなら、やはり日本資本主義論争の成果を踏まえておく必要があったのではないか。
とはいえ、本書の見解を根本的に覆すような画期的な新発見があったかというと、必ずしもそうとは言えないだろうとも思う。本書が示した理論枠組は、50年経った今でも基本的に有効なようにも思う。今でもなお読む価値があるかと聞かれれば、「あるんじゃないの?」と言うしかないのだった。
【今後の研究のための個人的メモ】
Educationという言葉の意味に関して、ネイティブの見解が示されているところは、なかなか興味深い。
また、江戸時代の学習手法として、現在で言うところの「アクティブ・ラーニング」が常識的であったことは、改めて思い起こされてよいかもしれない。
「彼らとて、もし問われれば、児童にとって何か他の形での組織的訓育が必要であろうということをおそらくは否定しなかったかもしれないが、彼らの関心は主として教義の「学問」learningにあった。」p.31
「講釈」というような一斉教授の形態について、「それは、個々の生徒の能力に応じて教材を類別することを不可能にするもので、従って学生にとって有害である。それは形式的な衒学ばかりを教え、独自の探求を行なう能力を失わせ、生徒を受動的な学習機械に変えてしまう、と徂徠は説く。」p.129
また、ネット上には江戸期の識字率を80%と見積もるような驚くべき常識外の見解を示している文章も散見されるが、本書の著者が「就学率」を慎重に見積もっていることは、押さえておきたい。
そしてまたナショナリズムについて、明治以後に「想像の共同体」が成立するという議論が90年代に流行ったが、著者が江戸期から「想像の共同体」が成立しつつあったと言っていることには、注意しておいていいかもしれない。
「寺子屋教育の内容の中にも、人が単に将軍の城下の町人や岡山藩主の百姓ではなく、日本国の一員であるという意識を児童に植付けるだけのものがあった。児童は国内の遠く離れた地方の地名や産物のことを習った。」p.273
■R.P.ドーア/松居弘道訳『江戸時代の教育』岩波書店、1970年