【要約】ソクラテスは誤った裁判で無実の罪を着せられ、間違って処刑されました。ソクラテスほど敬虔で清廉で潔白で気高く立派に生きた人はいません。
【感想】プラトンの描くソクラテス像と比較されて、なにかと悪口を言われることの多いクセノフォンではあるが、実際に読んでみるとそんなに酷いわけではないことが分かる。むしろプラトンの方がソクラテス像を歪めていて、クセノフォンの方に真実があるのではないかと思わせる描写もあるくらいだ。まあ、どちらが正しいかは、今となっては分からないのだけれども。
ソクラテス像に関して、プラトンとクセノフォンの描写では主に4点の相違が目についた。すなわち、(1)家族軽視と家族重視(2)労働軽視と労働重視(3)本質主義と功利主義(4)普遍重視と活用重視の4点だ。
(1)家族軽視と家族重視
プラトンの著作に現われるソクラテスは、家族関係をそれほど重視しない。特に『国家』では婦人と子供の共有を主張し、家族関係の解体さえ主張している。しかし一方のクセノフォン描くところのソクラテスは、家族関係の大切さを説いている。(ただしプラトン初期対話篇の「エウテュプロン」では、家族関係を大切にする姿勢は見える)
「そして男は己れと協力して子供を作る相手を養い、いずれ生れるであろう子供のために生涯の利益となると考えるあらゆる準備をなし、しかもそれをできるかぎりたくさん用意するのである。」79頁
(2)労働軽視と労働重視
プラトンやアリストテレスは、消費生活に必要な労働に価値を認めない。それは奴隷が負担するべき作業だと考え、立派な市民は労働から解放されて観想的な生活を送るべきだと主張している。プラトン描くところのソクラテスも同様の主張を繰り広げる。一方、クセノフォン描くところのソクラテスは、生活に必要な金銭取得のための労働を積極的に推奨している。単に金を稼ぐために推奨するだけでなく、個人の精神的な幸福に加えて人間関係を円満にするためにも労働を推奨する。ヘシオドス的な労働観が表われているようにも読める。
「怠けているのと、有益な仕事に励むのと、人間はどちらが一層分別があるのであろうか。仕事をするのと、怠けていて物質の論議をしているのと、どちらが一層まともな人間であろうか。」106-107頁
(3)本質主義と功利主義
プラトン対話編で活躍するソクラテスは、物事の本質をとことん突き詰めることによってソフィストたちの詭弁をやりこめていく。一方、クセノフォン描くところのソクラテスは、相手を説得する際、本質を追究するのではなく、功利主義的な理由を前面に打ち出してくる。たとえばデルフォイ神殿の「汝自身を知れ」という箴言の解釈に対し、ソクラテスは「己の力量を弁えないと失敗する」というような、功利主義的な解釈を示す。研究者たちがクセノフォンよりもプラトンを高く評価するのは、こういった功利主義的な描写がソクラテスの本質を歪めていると見なされているからだ。
いちおう、本質を追究する姿勢は、クセノフォン描くところのソクラテスにも見ることができる。しかしその場合の本質とは、プラトンが掲げるイデア的な普遍不動の真実というよりは、常に人間の立場から見た本質だ。クセノフォンが描くソクラテスは、イデアリストではなく、プラグマティストである。
(4)普遍重視と活用重視
プラトンとクセノフォンが決定的に異なっているのは、知識に対する態度だ。プラトンは未来永劫絶対不変の確実な知識を追究し、数学に真理のモデルを見出した。しかしクセノフォン描くところのソクラテスは、あっさり数学的真理を放棄している。
クセノフォン描くところのソクラテスは、数学は実際の経済活動に「役に立つ」から学ぶべきと主張し、それ以上の学習は無駄であると言明する。幾何学と同様に、天文学や算術も、役に立つから学ぶべきであって、それ以上の知識追究は意味がないと見なしている。
また例えば「善」に対して、プラトン描くところのソクラテスからは逆立ちしても出るはずがないセリフを吐く。
プラトン描くところのソクラテスが絶対的な普遍的真理を求めて「善のイデア」に辿り着くのに対し、クセノフォン描くところのソクラテスは、そんなものに微塵も関心を寄せない。徹底的に個別具体的な状況に寄り添って、人間の立場からの「善」を追究しようとする。
こうして見ると、プラトンの描くソクラテスは、やはり歴史的なソクラテスをそのまま再現しているというよりは、ピュタゴラス学派に数学的な真理観を学んだプラトンの立場を色濃く反映していると見る方が良さそうな気がする。本来のソクラテスは、やはり徹底的に「人間の立場」に立ち、神の視点に立つことを斥け、個別具体的な状況に寄り添う姿勢を貫いたのではないか。
ただし難しいなと思うのは、クセノフォン描くところのソクラテスはあくまでも「顕教」であって、プラトンは「密教」を伝えているのではないかということだ。もしもソクラテスが本当に個別具体的な人間の立場に立ったのであれば、クセノフォンに対してはクセノフォンの立場で理解できる範囲での働きかけに終始した一方、プラトンに対してはプラトンの個性に即した形で働きかけただろう。だとしたら、確かにクセノフォンが理解したソクラテスもソクラテスの真実の一面を表わしている一方で、プラトンが描いたソクラテスもソクラテスの真実の一面を確かに捉えていることになる。そしてクセノフォン自身が証言しているように、ソクラテスは幾何学や天文学や算術の深奥を極めることに意味がないと言いながらも、本人は実際には学問を修めているのだ。実際に幾何学や天文学の普遍的な真理の一端を理解していたとしたならば、プラグマティックなクセノフォンには活用的な知識観で以て働きかけた一方で、普遍主義的なプラトンには普遍的な真理観で以て働きかける能力があったことになる。
ともかく両者に共通しているのは、ソクラテスが信念の人であり、自分も他人をも裏切らず、最後の最後まで徹底的に誠実に生きた、希有な人間だったということだ。
あと、『弁明』において、職人たちが物事の普遍的な真実をまったく理解していなかったという話が出てくるが、プラトン対話編では分からなかったその具体的な対話の内容は、本書でしっかり確認することができる(155頁あたり)。
■クセノフォーン『ソークラテースの思い出』佐々木理訳、岩波文庫、1953年