【備忘録と感想】シンポジウム「イノベーションを創出する次世代人材育成のための創造性教育」

東京大学生産技術研究所の次世代育成オフィス(ONG)が主催するシンポジウム「イノベーションを創出する次世代人材育成のための創造性教育」(2018年11/17)に行ってきたので、備忘録がてら感想を記す。

イベントの内容は主に4点で、(1)ONGの取り組み紹介、(2)文部科学省の立場から「創造性教育」への見解、(3)学校現場による創造性教育実践の紹介、(4)産業界から見た「創造性」の重要性と実践紹介、だった。

生産技術研究所ONGは、学校現場で使用できる教材の開発を行なったり、社会人対象のワークショップを開催したり、具体的な形となったデザインワークの展覧会を開いたりするなど、着実な成果を挙げているようだった。特に印象に残ったのは、「ものづくり」の際に、「デザインとエンジニアリングの融合」がきわめて重要になっており、「モノから人、社会へ」の意識の転換が必要で、要するに教育界の具体的な課題が「文系と理系の乖離をなくす」ことであると明示されたことだった。

この「文系と理系の乖離をなくす」という教育界の課題に対しては、産業界からも強い要請があった。かつてマーケティングなど商業系・経済系の学問には数学はあまり必要なかったが、ビッグデータを扱う手法が必須になった現在では、統計学や集合論の知識がない人間にはもはやマーケティングを担うことが不可能となっている。それにも関わらず現在の学校接続システムではあまりにも早い段階で数学の学習を放棄する学生が不可避に発生し、社会に出てから使えない人材を大量生産してしまう。いかに数学を学び続けるかを考えたときに、現在のように文理選択を早くから決定させることは、世界的な流れと逆行する決定的な間違いであると、産業界の人は言う。

しかし同時に、それは文系学問が不要になったことを意味するのではなく、逆に日本の将来を考えたときにはますます人文知の重要性が増すとも言う。というのは、日本が国際的な競争力を失っているのは、決して技術力が低いからではなく、その技術力をイノベーションへ昇華させることができないと分析しているからだ。オイルショック以降は、単に高い品質のものを作れば売れるという時代ではなく、いかに消費者のニーズを掴まえて適切なサービスを提供できるかが勝負の時代となった。単に技術力が高ければ勝負できるという時代はとっくに終わっており、消費者のニーズを的確に捉える「人文知」の重要性が決定的に増しているにもかかわらず、日本はその時代変化に対応できていない。よって現在の日本は、ただの高品質部品サプライヤーへと転落している。メーカーとして生き残るためには、高い技術力に加えて、「ユーザー目線で見た価値の創造」が絶対的に必要となる。ここに文系学問が活躍するフィールドがある。

だから、STEM教育(Science,Technology,Engineering,Mathematics)に代わって、STEAM教育(Artを追加)が提唱されることとなる。この場合のArtとは、もちろん「芸術」という狭い意味ではなく、人間や人間の心への深い洞察へと導く「Liberal Arts」すなわち全般的な教養という概念を担っている。総合的に「人間」を理解するための「人文科学」である。この幅広い教養は、「多様な人々と対話」することを可能にし、「領域を自在に超える」ための力となる。

このような「創造性」に満ちた人材を育成するために、やはり参照にされるのはOECDのキー・コンピテンシーなのであった。これまでにも耳にタコができるほど聞かされてきた話が繰り返されることになるわけだが、一つ新鮮に響いたのは「Agency」という言葉だった。「Agency」とは、単に主体性という意味ではなく、責任をもって社会と繋がるための概念を提供するということだ。個人的につらつら考えるに、Agencyを単純に日本語へ翻訳すると「代理」とか「取次」とか「仲介」となるわけだが、それが取り次いだり仲介しているのはおそらく「私という得体の知れない内部」と「社会という得体の知れない外部」だ。「私=内部」と「社会=外部」を繋ぐ接面で立ち現れ、具体的に働くものが「Agency=仲介」というものなのだろう。しかし、だとしたならば、それは従来から「人格=Personality」と呼ばれていたものに外ならない。ホッブズやヘーゲルが言うところの「Personality」とは、現在の心理学が言うような人間の性格を数値的に可視化する指標などではなく、個人と社会が接する挾間で立ち現れる責任主体の諸条件を指していた。しかし現在、様々な経緯によってpersonalityの意味が通俗心理学的に理解されるに至ってしまったとき、本来必要とされた概念を新たに担うべき言葉として「Agency」が立ち現れてきたということなのだろう。

またあるいは、「繋ぐもの」という意味では、今井康雄先生の「メディアの教育」という概念も想起させる。教育とはそもそも本来的に、「私という得体の知れない内部」と「社会という得体の知れない外部」の間を調和的に取り持つためにこそ必要となる営為であり、だからこそ「Persona=仮面」をつけて主体的かつ従属的(Subject)に振る舞う「責任主体=Personality」を人為的に立ち上げる役割を担う仕事となる。結局我々が行なうべき仕事とは、教育基本法に示された「人格の完成」に他ならない。

まあ、ともかく、現場で日々実践されている先生方の報告は、相変わらず貴いものであった。学校現場ではどのように企業と結びつくか非常に苦労しているということであったし、大学が仲介役として機能するのではないかということも提言に挙がった。また昨今では「ものづくりは終わった、これからは情報中心の世界だ」と叫ぶ声が大きくなりつつあるわけだが、そんな逆風の中でも「ものづくり」に真剣に取り組み、着実に成果を挙げ続ける姿勢には頭が下がる。彼らの役に立てるかどうかわからないけれども、私は私の仕事を誠実に続けていくしかないことを改めて認識して、駒場を去るのであった。