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【要約と感想】ヘシオドス『神統記』

【要約】ウラノス→クロノス→ゼウスと、神々のトップが交替しました。神々が交わった結果、さらにたくさん神様が生まれました。それぞれの神様は、権能をそれぞれ与えられています。

【感想】いわゆるギリシア神話の、最古の原典の一つ。世界の創出からゼウスを頂点とする秩序形成まで描かれている。私がそれについて言うべきことは特にない。

個人的に気になったのは、作者のヘシオドスがミソジニー(女性嫌悪と蔑視のカタマリ)かつマチズモ(腕力主義+権威主義)ということだ。やたら女に対して厳しい一方で、ゼウスには寛大だ。このあたり、ホメロスとは違うところで、本来のギリシア神話のあり方を歪めている可能性があるような気がしてならない。

手がかりは、結婚について、やたら悲観的なところか。ひょっとしたら、妻に酷い目に遭わされていただけなのかもしれない。

個人的備忘録

女が金持と結婚して貧乏人には見向きもしないという下りがあるけれども。まあ、2700年前もそりゃ変わらないよねー、というところではある。女に対する罵詈雑言は、570行~600行まで、かなり長々と続く。

「彼女たちは 死すべき身の人間どもに 大きな禍いの因をなし 男たちといっしょに暮らすにも 忌わしい貧乏には連合いとならず 裕福とだけ連れ合うのだ。」592-593行

結婚に対して批判的な下り。結婚してもしなくても男にとっては禍となるらしいが、ゼウスの呪いだから仕方ないらしい。結婚の呪いについては、602行~612行まで、そこそこ長く描かれている。

「また 彼は 善きものの代りに 第二の禍悪を 与えられた。
すなわち 結婚と 女たちの惹き起す厄介事を避けて 結婚しようとしない者は 悲惨な老年に到るのだ」602-604行

「ヘカテ」という神格についても、気になる。ホメロスにはまったく出てこないのに、神統記ではやたらと格が高い神様になっている。そして子供の養育者という権能を与えられているところは、教育学としては気になるところだ。

「クロノスの御子は 彼女を また 子供らの 養育者とされたのだ 彼女の後から 数多の事物をみそわなす曙の光を その目でみることになった子供たちの。 このように はじめから 子供の養育者であり これが彼女の特権である。」450-452行

ヘシオドス『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫、1984年

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』

【要約】快楽主義を推進します。ただし注意してほしいのは、私が言う快楽とは肉体的な欲望を叶えるようなものではなく、精神的に平静をもたらすようなものです。

【感想】本屋で本書を見かけたとき、エピクロスの諸説が単体でまとまっているとはありがたい、などと思ったのだけど、実は内容はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』10巻をまるまるシングルカットしただけのもので、既に読んでいたものだった。まあ、翻訳の仕方がそこそこ違って勉強になったのでよかったんだけれども。

で、エピクロスの特徴は、プラトンやアリストテレスと比べたとき、(1)唯物論(2)自由意志(3)社会契約論にあるように思う。そして個人的に思うのは、実はヨーロッパ近代思想(デカルトやホッブズ)に直接繋がっていくのは、プラトンやアリストテレスではなくて、エピクロスの思想ではないかということだ。

(1)唯物論に関しては、デモクリトスの原子説などを引き継いで、あらゆる現象を物質一元論で説明する。いま見ると「光」の説明なんかには思わず笑ってしまうわけだけれども、あらゆる現象を唯物的に説明し尽くそうとする姿勢は徹底している。これはプラトンやアリストテレスの体系よりも、近代自然科学の姿勢に親和的であるに思う。

(2)にもかかわらず、自由意志が発生する余地を残しているのも大きな特徴だ。まあ自由意志の源泉も唯物論的に説明しているわけだけれども、倫理が成立する根拠を「自由」に据えているのも間違いない。ここでデモクリトスなど他の唯物論者と一線を画し、自由意志に基づく倫理の世界についての記述が可能となる。
この唯物論と自由意志のスッキリしない関係は、ヨーロッパ近代思想に通じているような気がしてしまう。

(3)個人的に一番の見所は、社会契約論的な論理だ。
ソクラテスの時代に「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の分裂が問題になり出したことは、様々な論者が指摘している。ソクラテスの時代、ソフィストたちが跋扈して、ピュシス(自然の法)の権威を否定し、現実の正義は所詮はノモス(人為の法)なのだと喧伝し始める。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。
この流れのなか、エピクロスもまたピュシス(自然の法)を否定し、現実の正義はノモス(人為の法)であることを主張する。これは自然科学と倫理を断絶するエピクロスの立場からすれば、必然的な帰結ということかどうか。
そしてこの社会契約論的な発想は、もちろんホッブズに繋がっていく。

ということで、エピクロスが侮れないことを再確認するのであった。

個人的な研究のための備忘録

社会契約論を思わせる論説は、本書の見所の一つである。ただしもちろんこの時点では「自然権」と「自然法」の関係が論理的に整理されておらず、それがホッブズ以降の近代社会契約論との決定的な違いをもたらすように思う。

【個人的備忘録:社会契約論】
(31)自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」p.83
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。
「主要教説」p.84

それから、「個性」に関する発言は、現代にも通じるものがあって、なかなか趣深い。

【個人的備忘録:個性に対する言及】
ちょうどわれわれが、自分自身に特有な性格を――それがすぐれていて、われわれが人々から賞められようと、あるいは、そうでなかろうと――尊重するように、そのように隣人の性格についても、かれらがわれわれに寛容であるかぎり、われわれはこれを尊重すべきである。「断片15」p.89

『エピクロス―教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫、1959年

【要約と感想】『アリストテレス詩学・ホラーティウス詩論』

【要約】アリストテレス「おもしろい物語を作る上で重要なのは、キャラクターよりもプロット」
ホラーティウス「なにより重要なのは、キャラ立ち」
アリストテレス「えっ」
ホラーティウス「えっ」

【感想】それぞれ細部までおもしろく読んだけれども、今回は特に「性格」という言葉に注目した。「性格」とはギリシア語の「エートス」を翻訳した言葉だが、本来の「エートス」は現代日本語で「性格」と言った場合よりも広い範囲をカバーする言葉であることに注意が必要だ。さしあたってこの感想文では、「性格」のことを現代的に「キャラクター」とでも言いかえようか。

さて、まずアリストテレスは物語を構成する要素を6つ挙げ、そのうち「筋=ミュートス」をもっとも重視する。この「筋」とは、現代の感覚で言うと「プロット」のようなものだろう。マンガに詳しければ、「ネーム」と言ったほうがより正確に伝わるかもしれない。アリストテレスは物語を組み立てる骨格の出来こそが作品そのものの出来を左右すると考える。だから相対的に「性格=キャラクター」を軽視する。アリストテレスの立場では、仮にキャラクターが立っていなくても、プロットが優れていれば良い作品になる。
ただしもちろん、アリストテレスはキャラ立ちそのものを否定しているわけではなく、ホメロスのキャラ立てが巧妙なことを賞讃してもいる。

一方のホラーティウスは、キャラ立てにかなりこだわっている。物語が成功するかどうかは、キャラクターの首尾一貫性にかかっていると言う。そしてキャラクターを立てるために、しっかり現実から人間観察すべきことを主張している。

現代でも物語を作る場合、小説であれマンガであれ、「プロット」と「キャラクター」の関係はやはり問題となる。プロットを優先させるとご都合主義でキャラクターの動きが不自然になり、キャラクターを立てるとプロットが破綻するという、二律背反に陥る場合がある。アリストテレスは、キャラクターを立てるあまりにプロットが破綻すること(=機械仕掛けの神)をひどく嫌う。それに対しホラーティウスは、キャラクターの一貫性を重視する。
現代では、ホラーティウスの立場のほうに説得力があるように思える。たとえばマンガやライトノベルでは、プロットより先にまずキャラクターをしっかり作って、「キャラが勝手に動く」ような作品が結果的に成功しやすいように思う。アリストテレスが賞讃するような「プロットが巧妙な作品」は、現代では玄人受けはしても、一般受けはあまり望めないような気がする。だからだろう、アリストテレスは吐き捨てるように、「最近の読者はバカばかりで、つまらない作品が流行する。嘆かわしい」と何度も書きつけるのだった。うーん、こういうふうに「キャラ重視作品」をけなす人、今でもいますねえ。2300年前から変わらない光景なのだった。

今後の研究のための個人的メモ

この本は、現代的な観点からもなかなか見所が多い。たとえば、性格の首尾一貫性に関して、両者とも興味深いことを書き残している。

【個人的備忘録:性格の首尾一貫性】
「たとえ再現の対象とされる人物が首尾一貫しない性格をもっており、そのような首尾一貫しない性格が前提とされる場合においても、その人物は首尾一貫しない性格の点で首尾一貫していることが求められる。」アリストテレス1454a
「しかしこれまで試みられたことがないものを舞台にのせ、あえて新しい人物をつくり出すなら、それは最初舞台に現われたときの性格を最後まで保持し、己れに忠実でなければならない。」ホラーティウスpp.237-238

また、アリストテレスがホメロスのキャラ立ちを褒める文章も、現代的関心から見ても興味深い。

「これに反しホメーロスは、短い序歌を歌ってから、ただちに男または女、あるいはほかの役の人物を登場させる。しかも、彼らの一人として性格をもたないものはなく、めいめいがその性格をそなえている。」アリストテレス1460a

また、どのような人間が作家に向いているかについてのコメントは、現代にも通じるように思う。これが2000年前の文章かと思うと、なかなか怖いものがある。

「それゆえ、詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、そのどちらかをもつ人がすることである。天分に恵まれた者は、さまざまな役割をこなすことができるし、狂気の者は自分を忘れることができるからである。」アリストテレス1455a
「称賛に値する歌ができるのは、生まれついた才能によるのか、それとも技術によるのか――これはよく尋ねられることだ。だが、いくら努力しても豊かな鉱脈がなければなんの役に立つのか、あるいは、いくら才能があっても磨かなければ何ができるのか、わたしには分からない。このように才能と努力は互いに相手の助力を求め、友好の契りをむすぶ。」ホラーティウスp.252

そして、演劇が自由によって栄えたにも関わらず、自由すぎて個人を中傷する表現が溢れ、あまりに表現が過激になりすぎた結果、法によって規制されたという記述は、現代の表現規制問題を思い起こさせ、なかなか考えさせるものがある。人間、2000年前から進歩しねえなあ。

「しかし自由は放縦に流れ、法の取りしまりを受けてもおかしくない暴力に堕した。法が布かれ、コロスは人を傷つける権利を奪われて沈黙したが、それは恥ずべきことであった。」ホラーティウスpp.246

『アリストテレス詩学/ホラーティウス詩論』松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年

【要約と感想】アリストテレス『弁論術』

【要約】説得は、技術です。説得方法は主に3つあります。すなわち、(1)いい人と思われる(2)相手の感情に訴える(3)論理性です。本来なら論理性を貫くことで説得できることが望ましいのですが、残念ながら大衆の頭が悪いためにうまくいかないことが多いでしょう。仕方ないので、いい人に見られる技術や、手軽に相手の感情を揺さぶる様々な方法を身につけていきましょう。
そんなわけで、「弁論術」とは、弁証術(論理一貫性を追究する技術)と倫理学(人間の性格を見極める知恵)を土台として構成される、説得の技術です。

【感想】人間の「性格=エートス」に関する記述が、当初思っていたよりもかなり多い。人格心理学の教科書では、人間の性格を記述した古典としてテオプラストス「性格論」が挙げられることが多いわけだが、テオプラストスの同僚であったアリストテレス「弁論術」も無視できない古典であるように思った。アリストテレスがやったように年齢(青年/老年/壮年)によって性格を類型化することが、当時から一般的に行われていたことなのかどうか、要確認事項。
しかしまあ、一般大衆をバカにして、どうせ論理が通じないようなバカ相手には感情に訴えかけた方が手っ取り早いと繰返しているところは、なかなかヤバい。

【個人的備忘録】論理よりも人柄
「優れた人物には、その言論が正確であると思われるよりも、人間が立派だと思われるほうが相応しいのである。」1418a-b
【個人的備忘録】個人の「性格」と国制「性格」の類比
「ところで、説得は、論証的議論のみならず、性格をよく表わしている議論によってもなされるのであるから(なぜなら、論者が或る性格の人物であると思われることで、つまり、彼がよい人間、もしくは好意的な人間、もしくはその両方、であると思われる場合に、われわれは彼に真を置くからである)、われわれは、国制のそれぞれが持っている性格を把握しておく必要があろう。というのは、各国制が持っている性格は、当の国制にとっては、当然、最も信頼のおけるものであるに違いないからである。だが、それらの性格は、個人の場合と同じ手だてによって把握されることができよう。なぜなら、性格は何かを選択するときに顕わとなるものであるが、ところが選択は目的に照らして決まるからである。」1366a

アリストテレス『弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫、1992年

【要約と感想】アリストテレス『政治学』

【要約】国家の形には様々ありますが、いずれにせよ、国家の目的としていちばん重要なのは教育であり、そして国家を維持していく手段としていちばん重要なのも教育です。

【感想】タイトルは「政治学」となっているけれども、教育思想の本として読むわけだ。
というのも。ニコマコス倫理学で一人の人間の幸福について考察したアリストテレスは、その興味関心と結果を引き継いで、人間の集団である国家へと議論を展開していく。さすがアリストテレスだけあって、多様な国家の形態を緻密な議論の運びで縦横無尽に検討していく。しかしアリストテレスの議論は、最終的に教育へと着地するのだ。教育は「目的」と「手段」の二つの意味で、国家にとっていちばん重要なものとされている。

まず、アリストテレスは国家の存在意義について検討し、社会契約論的な見方を明快に切り捨てる。アリストテレスによれば、お互いの利益を図るために作られた国家など、形式的に成立しているだけの、まがいものの国家に過ぎない。ほんものの国家は、ただの互助団体や軍事同盟などとは全く違うものである。国家は国民を幸福にするために存在するものでなければならない。そして幸福とは、ニコマコス倫理学で既に明らかになっているように、徳に満ちた生活を送ることだ。つまり国家とは、ただ人々が「生きる」ために存在するのではなく、人々が「善く生きる」ために存在しなければならないのだ。そして、「善く生きる」ことを知るためには、教育を受けなければならない。ただ単に「生きる」だけなら、食料や住居など生活必需品が行き渡るように工夫するだけでよい。しかし「善く生きる」ためにはそれだけでは不十分で、人々が「徳」について自覚を深めなければならない。だからほんものの国家は、国民の「徳」を呼び覚まし、ほんものの幸福な人生を与える。国家の本質は、教育機能にあるのだ。
そんなわけで、本書の解説も「それなら国は簡単には何団体と呼んだらよいか。敢えて言えば、優れた意味において、「教育団体」である。従って国はその国民のいろいろな徳の涵養を第一の、主要な任務としなければならない。」(460頁)と言っている。
ただし、ちなみにこの場合の教育とは、我々がすぐさまイメージするような学校教育を指してはいない。アリストテレスがイメージしているのは「社会教育」である。実際、アリストテレスが生きた時代には、中等教育は存在していなかった。教育=人間形成は、実際の社会の中で行われる。だから社会教育の具体的な手段が真剣に議論され、その際に「法律」が大きな問題となるわけだ。さらにちなみに言えば、ルソーが『エミール』の中で「ほんものの市民教育は失われ、二度と復活しない」というようなことを言っているが、おそらくギリシア時代に行われていた「法律を土台とした社会教育」のことを指していると思われる。

このような教育国家は、おそらくアリストテレスだけのものではなく、東洋にも広く見られる考え方であるように思う。特に儒教的な考えでは、善い君主は同時に善い教育者であらねばならない。というか、「天」から与えられた「道」を人々に指し示すことが君主の役割なのだから、そもそも善き教育者であることは君主であることの必須条件だといえる。そしてそれは「教」という漢字の成り立ちからも伺うことができるだろう。人々を支配するとは、「道」と「教」を手に入れることに外ならない。教育権を放棄した権力などというものは、想像することすらできない。支配するとは、教育するということなのだ。
もちろんこの場合の教育も、我々がただちにイメージするような学校教育のことではない。「宗教」も含め、人間の価値観全体を一つの方向に染め上げるような権力のことだ。「教育」の「教」という漢字が「宗教」の「教」でもあることを想起しなければならないところだ。「教育」は、近代的な感覚では、ただ単に価値中立的な知識を与えることを意味しがちだ。しかしアリストテレスにせよ儒教にせよ、「教」とは価値中立的な知識を機械的に与えるものなどではなく、人の価値観全体を強制的に作り上げる力だ。

だから当然、あらゆる国家を滅亡から救うのは、「教育」以外にはない。国家のあり方に相応しいような形で教育が行われているとき、国家は存続していく。逆に、国家のあり方に逆らうような形で教育が行われるとき、国家は容易に滅亡する。これは「教=人に価値観を植えつける」の定義からして必然的な帰結であると言える。というわけで、教育は国家存在の「目的」であると同時に、国家を保持存続させるために最も重要な「手段」でもある。というわけで、本書の全8巻のうち、最後の第8巻はまるまる教育に関する議論に費やされることとなる。
この教育の議論が、なかなか興味深い。たとえば、どのような順番で教育を行うかという議論では、まず「体育」を施してから「音楽」へ展開するという道筋を示す。この「体育→音楽」という順序にアリストテレスはかなりこだわっているわけだが、事情を知らない人には、どうしてアリストテレスがこんなにも長々と記述するのか理解できないだろう。実はこの論述でアリストテレスが試みているのは、プラトンの教育思想への反駁なのだ。プラトンは『国家』で教育思想を全面的に展開し、そこで「音楽・文芸→体育」という教育順序を示している。アリストテレスは、このプラトンの見解に真っ向から勝負を挑んでいるわけだ。かつての師匠であるプラトンの教育説と勝負するわけだから、自然と熱が籠もる。現在の我々から見ると「体育→音楽」だろうが「音楽→体育」だろうがどうでもいいように思えてしまうわけだが(あるいは「体育と音楽は同時並行でやれよ」などと思うわけだが)、プラトンやアリストテレスにとってみれば、この問題は自分の人間観全体(具体的には肉体と魂の関係をどう捉えるか)の価値を示す試金石となるものなのだ。教育論での勝敗は、思想全体の優劣を決する。アリストテレスが本書の末尾を教育に関する議論に費やしているのは、教育思想こそが哲学大系全体の要石であることを痛感しているからだ。
個人的におもしろく読んだのは、カリキュラム論だ。どのような内容を教えるべきかというカリキュラム論では、素朴な形ではあるものの、教科分類を試みている。アリストテレスは(1)読み書き(2)体操(3)音楽(4)図画というように、全教科を4つの領域に分類する。その上で、特に「音楽」の教育効果に関する具体的な議論が長々と展開される。「音楽」は何のために教えられなければならないのか? この議論は、まさに現代の「カリキュラム・マネジメント」の精神にも通じるような内容となっている。プラトンの音楽教育論と比較しながら読むと、とてもおもしろい。

研究のための個人的備忘録

本書を通じて目立つのは、一貫して「子供」を価値のないものとして理解する態度だ。そしてそれは、「奴隷」や「女性」を価値のないものとして理解する態度と通底している。アリストテレスにとって、「人間」とは「自由のある成人男性」だけなのだ。これはアリストテレスを含め、ギリシア時代の教育を考える上で頭の片隅に置いておかなければならない事実と言える。

【子供観】
「従って支配するものと支配されるものとには本性上多数の種類があることになる、すなわち自由人の奴隷に対する支配と男性の女性に対する支配と大人の子供に対する支配はそれぞれ別である、そして魂のいろいろの部分は凡ての人々のうちにあるけれども、しかしそのあり方に相違がある。つまり、奴隷は熟慮的部分を全く持たないが、しかし女性は持っている、けれどもそれは権威を持たない、また子供も持っているが、不完全である。」1260a
「しかし子供は不完全なものであるから、子供の徳も自分と自分との関係に属するものではなく、完全なる者や指導する者との関係に属するものであるということは明らかである。」1260a
「すなわち子供や老人たちは或る仕方で国民だと言わなければならないが、しかし全然条件ぬきにではなく、むしろ附け足しをして、子供の方は「未成年の」国民と言い、老人の方は「男盛りを過ぎた」国民、或は、別のこういう類の「なになにの」国民(というのはわれわれの言おうとしていることは明らかなので、どんな言葉を使っても構わないから)と言わなければならないのである。」1275a
「何故なら国民の子供でさえも大人と同じように国民であるのではなく、一方の大人たちは無条件に国民であるが、他方はただ[国民になり得るという]前提のもとに国民なのであるから。というのは、子供たちは国民ではあるが、しかし「不完全な」国民であるのだから。」1278a

このように子供を価値のないものとみなす態度は、「欲望」にたいする考え方を土台としている。子供は自分の「欲望」に打ち勝つことが出来ないために不完全な存在とみなされるのだ。

【欲望と子供】
「というのは勇気や節度や思慮の何らの部分も持たず、傍を飛ぶ蠅は恐れるが、食ったり飲んだりする欲望が起れば、極端なことさえ何一つせずにおくことはなく、一文のために最愛のものすら亡ぼす者を、しかしまた同様にその心のことでも、子供や気狂いのような風に考えがなかったり、間違っていたりする者を、誰も至福な者とは言わないだろうから。」1323a

そんなわけで、教育の存在意義は、人間の「欲望」を制御するところにある。

【教育と欲望】
「しかしなお、たとい、ひとが凡ての人に中庸を得た財産を規定したにしても、何の役にも立たない。というのは財産よりも欲望を平均化することの方がむしろ必要だからであるが、このことは法律によって充分に教育されたものにとってでなければ不可能なのである。」「しかし、その教育はどのようなものであるだろうか、それを言わなければならない。一つで同じものだと言うだけでは何の役にも立たない。というのは同じ一つのものではあるが、しかしそれは金銭なり名誉なり或はその両方なりを余分に取ることを望む者にするような教育であり得るのである。」1266b
「さらに、また、人間どもの賤しい欲望は飽くことを知らないものである。例えば、初めのうちはただ二おろぼすで充分であるが、しかしすでにそれが伝統的なものになると、常にそれ以上のものを必要とし、遂に無限に進んでいくのである。というのは欲望の本性は無限であって、これを充たすために大衆は生きているのだからである。従って、かようなことがらの源は、財産を平均化することよりも、むしろ策を施してその本性の優れた人々は、これを余分のものを取ることを欲しないような者にし、賤しい人々は、これをそれの出来ないような者にすることである、そしてこのことはこの賤しい人々の数が少く、また不正に取扱われなければ、可能なのである。」1267b

人々の欲望をコントロールし、国を存続させるためには、教育を最重要の仕事として認識しなければならない。

【国家の仕事としての教育の至高性】
「このことによってまた、ただ言葉の上でなく、いやしくも真の意味で国と呼ばれるものなら、徳について意を用いるところがなくてはならぬということも明らかである。というのはもしそうでなかったら、この共同体は一つの軍事同盟体であることになるからであるが、それは他の互に離れている軍事同盟体にくらべて、[その同盟者は離れず接しているので]その他のものとはただ場所によってのみ異なっている。また、もしそうでなかったら、法律は契約であることになり、ソフィストのリュコプロンが言ったように、ただ双方に対して正しいことを保証してやる証人であることにはなるが、しかし国民を善き者や正しき者にすることは出来ないことになる。」1280b
「国とは氏族や村落の完全で自足的な生活における共同である、そしてかかる生活は、われわれの主張するように、幸福にそして立派に生きることである。従って国的共同体は、共に生きることの為ではなく、立派な行為のためにあるとしなければならない。」1281a
「しかし国制が存続するために、私の語った凡てのことのうちで最も重要なことは、今日凡ての人々に軽んじられているけれど、それぞれの国制に応じて教育がほどこされることである、というのはもし国制の精神によって習慣づけられ教育されていなければ、例えばもし法律が民主制的なものなら、民主制的に、もし寡頭制的なものなら、寡頭制的にそうされていなければ、その法律が最も有益なものであり、凡ての国民によって是認されたものであっても、何ら益するところはないからである。」1310a 以下も教育について語られる。
「ところで立法家が特に努力を致さなければならないのは、若者の教育についてであるということを、とやかく問題にする者はひとりもいないだろう。というのは実際国においてそのことが為されないならば、国制は害われるからである。何故なら国民はそれぞれの国制に応じて教育されねばならないからである。何故ならそれぞれの国制に固有の性格がその国制を維持するのを常とし、またもともとその国制を作り出すものだからである。」1337a
「また政治家はいろいろの生活と行為の選択に関しても同様でなければならない、というのは国民は事業と戦争とを行うことが出来なければならないが、しかし一そう多く平和と閑暇とに生きることが出来なければならないからである。また生活に必要なことや有用なことを為さなければならないが、一そう多く立派なことを為さなければならないからである、従ってこれらのものを目標にして、国民がまだ子供である時にも、また教育を必要とするその他の年齢にある時にも、教育をほどこさなければならない。」1333a-b

アリストテレス/山本光雄訳『政治学』岩波文庫、1961年