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【茨城県ひたちなか市】甲斐武田家は実は茨城県発祥

武田氏館に行ってきました。茨城県にありますが、武田信玄を輩出した甲斐武田家発祥の地ということです。
JR勝田駅(水戸のひとつ先)から南に2kmほど下ったところに位置しています。

那珂川の河岸段丘上、城作りの定石通り、舌状台地の先端に築かれた武家館です。写真では分かりにくいですが、南北共にかなりの比高差があって、天然の要害として機能していたと思われます。
現地には武家館と門、馬小屋等が復元されています。

案内パネルによると、新羅三郎義光に連なる源氏の末裔が居住し、地名を取って武田冠者と名乗ったのが甲斐武田氏の祖先ということのようですね。

筑波山の山麓西側一帯は10世紀前半は平将門の本拠地で、将門没後は常陸平氏(大掾氏)が切り取っていたイメージがあります。12世紀にはその勢力範囲が筑波山の北東側、那珂川の南側一帯まで及んでいたような記述です。
新羅三郎義光の長男義業は佐竹氏の初代となり、その後裔は戦国期に常陸平氏を掃討して常陸の王者となるわけですが、甲斐武田家の祖である三男義清は常陸から追われたもののようです。

復元された武家館の中は、歴史展示室となっております。初代義清の事績や、甲斐武田家への繋がり、あるいは古代史跡から発掘された土器などが展示されています。古代史跡の様子を鑑みるに、このあたり一帯は古代から住みやすい土地だったようです。

お馴染み武田の四菱紋を掲げた等身大武者人形もありました。義清と清光の親子です。平安時代の鎧兜ですね。

武家館を出て、舌状台地の先端に向かってゆるやかに降りていくと、湫尾神社が鎮座しています。こちらに「甲斐武田氏発祥の地」の石柱が立てられています。

神社にも案内パネルが設置されています(市町村合併前の勝田市名義となってますが)。新興勢力の武田氏が旧来勢力に権力闘争で敗退した様子が記されています。平安末期の社会変動の一端を伺えます。

武田信玄を輩出したおかげでこの地は脚光を浴びることになりましたが、一方で知らないうちに没落して歴史の波の中に消えていった家系は無数にあるわけだな(たとえば熊野鵜殿家とか)と、諸行無常を噛みしめながら武田氏館を後にするのでした。
(2019年9/5訪問)

【茨城県常総市】平将門一族墳墓之地など関連史跡

常総市にある平将門関連史跡を訪れました。

まず平将門公本拠豊田館跡。現在はお寺の脇にちょっとした公園のような感じで整備されていて、モニュメントや説明板が設置されています。

モニュメントは、将門が主人公となった1976年の大河ドラマ「風と雲と虹と」の放映から10年後に建てられたもののようです。

平将門の父である平良将が豊田館を本拠としておりました。豊田館は、説明板によると、関東平野の中世城跡に多く見られるような、沼沢地の中に浮かぶ島のような要害であったようです。北方2kmほどのところには、南北朝時代に関東の南朝拠点だった関城や大宝城があります。

将門の死後、当地は向石毛城として機能したもののようです。佐竹氏との戦いの中で没落していったようですね。

地図を見ると鬼怒川の河岸段丘に築かれた要害のようですが、現在は宅地として開発が進んでおり、当時を偲ぶ手がかりは残されていません。

豊田館跡から鬼怒川に沿って南に500mほど行ったところに、「平将門公赦免供養之碑」があります。

もともとは別の場所にあったものを、鬼怒川河川工事の折に現地に移設したもののようです。

案内板によると、鎌倉幕府第五代執権の北条時頼が執奏勅免を得て建てたもののようです。タイミングとしては親王将軍が誕生する翌年のことですが、関東の武家政権として将門に対して何か思うところがあったのでしょうか。動機についてはちょっとよく分からないところです。

さらに鬼怒川沿いに南に行くと、将門の父良将の墓とされる古墳があります。上記の石碑はもともとこちらにあったもののようです。

が、これはどう見ても前方後円墳で、良将の墳墓のわけがありません。

とはいえ少なくとも古墳時代にはここまでヤマトの影響が及んでいたことは分かりますね。

鬼怒川の河畔に近づくと、平将門公一族墳墓の地を示す石碑が建っています。

堤防から一段下がったところに、石柱と案内パネルが建っています。

もともとは将門の親族が葬られていたところで、将門本人が葬られているかどうかは伝説にすぎないもののようではあります。

鬼怒川の堤防に上がると、はるか北のほうに筑波山が見えます。この地から見ると、ちょうど北極星が筑波山の上に見えるような感じになるのでしょうか。
ちなみに写真を撮った地点のちょうど対岸が、2015年の台風で堤防が切れた地点に当たります。

訪れた冬の日は、風と雲はあったものの、残念ながら虹は出ませんでした。(2020年2/27訪問)

【茨城県常陸太田市】太田城で、関東七名城全制覇

常陸太田市にある太田城に行ってきました。これで「関東七名城」を全て制覇したことになります。

とはいえ、太田城の遺構は破壊されてほとんど残っておらず、現在、本丸は小学校となっております。

校門から覗くと、石碑が見えます。通りかかった学校の先生に声を掛けると「気の済むまでどうぞ」ということだったので、気の済むまで見学することにしました。

石碑には「舞鶴城址」とあります。太田城の愛称が舞鶴城だったのですね。

石碑の裏には、太田城の由緒が記されています。源平合戦の頃から関ヶ原の合戦まで、波瀾万丈の城であったことが分かります。

本丸跡は学校敷地として整備されていて、城の遺構のようなものを確認することはできません。ただ、かなりまとまった広さの平地が広がっており、かなり大規模な城であったことが想像できます。

坂を下りて台地の中腹から学校を見上げると、かなりの比高差が確認できます。

関東の城なので石垣はもちろん確認できないのですが、この造成ぶりを見るだけでも、土の城として相当の規模を誇っていただろうことが推測されます。

Googleマップの航空写真で見ても、かなり大規模で堅固な城であっただろうことが分かります。

上の地図に赤線を引っぱったラインは断崖となっているところです。太田城は西も東も断崖で囲まれた要害であったことが分かります。通常は舌状台地の先端に本丸を築くことが多いように思うのですが、太田城は台地の中程に本丸を構えています。西と東は断崖となっているので、南からの攻撃に備えた作りになっている感じです。

本丸の南側を守る二の丸は、現在は若宮八幡宮になっています。

南と西が断崖となっている、守りの要衝です。本丸(現在は小学校)との間には、人の手が入っているであろう堀切っぽい痕跡に道路が通っています。

八幡宮なので、戦いの神が祀られているわけですね。

由緒書にも太田城二の丸であったことが記されています。

南側には階段があり、坂の下に降りてみます。これだけでも相当の比高差で、土塁が残っていたらかなりの迫力だっただろうことが想像されます。

ところで、太田城本丸(小学校)から北に500mほどのところ、Googleマップに「金砂山城跡」の印がありましたので、「?」と思いながら寄ってみました。

現在は小さな祠が残っているだけで、城についての説明板も何もありません。祠には「金砂神社」という名前がついておりますが、特に由緒書きもないので、どういう神様が祀られているかはよく分かりません。

というか、いわゆる金砂合戦等で著名な金砂山城は、太田城からはずいぶん北にある西金砂神社だと認識していたので、ここにある「金砂神社」が「金砂山城跡」とされるのには、ちょっと腑に落ちないところがあります。Googleマップには嘘が多いのではありますが、この金砂山城がどういう根拠に基づいているのか、気になるところです。

近くの郷土資料館は月曜日で閉まっていたので、もう一度訪問して事情を確認しようと思い、太田城を後にするのでした。

(2019年2月訪問)

【茨城県大子町】袋田の滝に行ったら、ぜひ月居城にも登りたい

茨城県の「袋田の滝」に行き、ついでに月居城に登ってきました。

まず月居城を目指します。というのは、袋田の滝から月居城へは急激な上り坂で、行くのがとても大変だからです。月居城から滝へは下り道が多く、らくちんなのです。
で、袋田の駅から、月居城の登山道入口までタクシーで向かいます。1,500円くらいかな。登山道入口は旧道にあって、旧道入口に「通行止め」と書かれた車止めがあったのですが、タクシーの運転手は気にせずに車止めの脇をすり抜けて旧道をがりがり登り、登山道入口まで連れて行ってくれました。

登山道入口まで車で来られると、かなり楽です。行程をGoogleマップで確認すると上図のような感じで、駅で配布していたハイキングマップでは下図のような感じです。地図下部の「月居山登山口」までタクシーで、その先の緑色の部分が今回の徒歩行程部分です。

登山口から緩やかな道を北東方面に登ると、まず「月居峠のたたかい」があった場所に出ます。

水戸天狗党はここで敗れて西へ向かったということか。月居峠の戦いの様子は、こちらの記事「天狗党西上大子で戦う」に詳しいですね。
現在の峠には、当時を偲ぶよすがは何も残っておりません。

峠を越えると少し広い場所に出て、月居観音堂が見えます。ここから道が四方向に分かれ、袋田の滝に繋がる道と月居城に向かう道がありますが、まずは城に向かいます。

三叉路には城の説明板が立っております。

うっすらと雪の残る道を上ると、崖が迫ってきます。足だけで登ることはできず、ロープを頼りに登っていくこととなります。足を踏み外すと、えらいことになります。鎧を着たまま、どうやって登ったんだ?

厳しい斜面をなんとか登りきると、本丸に出ます。

山頂には月居城の由緒を示したモニュメントが建っています。佐竹氏の部下が治めていた城でしたが、佐竹氏の秋田転封に従って廃城となった模様です。
曲輪の跡は比較的良好に残っているように見えました。

上の写真は、二の丸から本丸を見た図です。本丸が少し高く造成されているのが分かります。周囲は絶壁となっていて、そうとう守りは固かったように思います。

さて、城跡を満喫したら、もと来た絶壁を恐る恐る降りて、袋田の滝に向かいます。途中で「月居観音堂」に登ります。

階段等が朽ち果てておりますが、眺めは良好です。絶景。
ここから袋田の滝への道が、けっこうな急峻です。下りが多いのですが、勾配が急なので、翌日は筋肉痛になりました。袋田の滝から月居城に向かうのは、登りばかりで、かなり大変だと思います。

途中で「生瀬の滝」に向かう分かれ道があります。せっかくなので寄っていきましょう。

まるで蜀の羨道のようです。

遠くに「生瀬の滝」が見えます。秋はとても良さそうですね。

袋田の滝に向かう道の途中で、大岸壁が目に入ります。袋田の滝の対面側にある石壁です。袋田の滝からは見えない景色で、このハイキングコースを通る人だけが堪能することができます。いやあ、すごい景色なのですが、写真だと凄さが分からないなあ。あの絶壁具合は、なかなか他で見ることはできない気がします。

しばらく行くと、袋田の滝を上から眺め下ろす場所に出ます。こちらも写真では凄さが伝わりにくいのですが、たいへん良い景色です。

天狗岩等の景勝地も抜け、袋田の滝の麓まで来ました。この時点で既に他に類のない景色となっておりますが、まだまだ序の口です。

トンネルを通ってエレベーターで昇って観瀑台に出ると、まさにセンス・オブ・ワンダー。絶景が広がります。いやあ、すごい。このパノラマ感は、写真だと絶対に伝わりませんね。日本には他で見られない、ここだけの特別な光景です。

袋田の滝はテレビの映像などでも何度も見ていて「こんなもんだろう」と先入観がありましたが、ぜんぜん違います。これは生で見てみないと分からない凄さですね。圧倒的です。

さて、袋田から電車でひとつ北の駅が常陸大子ですが、改札から出て右手に銅像が建っています。根本正という人の銅像です。

地元の人でもどんな人か認識していなかったのですが、明治教育史を専門的にやっていると、ちょくちょく出くわす人です。国会議員となって教育法制に尽力した人で、未成年者飲酒禁止法や未成年者喫煙禁止法の成立に貢献しています。明治初期は、子どももけっこう平気で酒を飲んだり煙草を吸ったりしていたのですが、この人の活躍で法的に禁止されるようになったんですね。他にも国語改革など、教育関係の国会議論ではよく顔を出します。

地元では、「水郡線開通の功労者」として顕彰されているんですね。

そんなわけで自然の美と人間の仕事を堪能して、常陸大子をあとにするのでした。紅葉の綺麗な季節にまた来たいですね。
(2019年2月訪問)

【茨城県つくば市】小田城を語るときには北畠親房も忘れないでね。附:関城・大宝城

茨城県つくば市の小田城跡に行ってきました。
国指定史跡だけあって、極めて保存状態が良好な城跡で、たいへん見応えがあります。

小田城は、関東戦国史最大の萌えキャラと呼び名の高い(?)小田氏治との関係で語られることが多い城です。何度も何度も落城しているのに、なぜか部下が活躍して取り戻してくれるんですね。

が、私個人としては、断然、北畠親房ゆかりの城として興味があります。

東の虎口から城跡を眺めるの図。

堀にかかる橋の向こうに筑波山が見えます。小田城は、筑波山のほぼ真南に位置しているので、夜になると北極星が筑波山の真上に見えるわけですね。北畠親房に何か霊感を与えていないでしょうか。

城の南側から本郭を見下ろすの図。立派な庭園があったような雰囲気です。

西側の虎口。ここを抜けると南西馬出がありますが、さすがに親房が滞在していた頃にはまだなかったでしょうね。

南西馬出しにあった案内板。北畠親房が神皇正統記を書き始めたことなど、事跡も少し説明されています。小田城包囲後、関城に移ったことも書かれています。

本郭にある案内パネル。

本郭を出て北西の方に行くと、神皇正統記起稿之地碑があります。ある意味、日本の歴史を決定づけた本がここで書き始められたわけですね。

北畠親房は、後醍醐天皇崩御の後、後村上天皇に献上するために、日本を神の国とする「神皇正統記」の執筆を開始します。そして親房の皇国史観は山﨑闇斎や水戸学に影響を与え、幕末尊皇思想の流れを作り、明治期以降の国体思想にも反映していくわけですね。日本の保守思想の土台を理解するためには、神皇正統記の内容と執筆背景を押さえておく必要があるなあと。

小田城を後にして、北畠親房が逃れた先の関城へ。といっても、訪問したのは2013年6/6でした。

小田城からは西北西に20km弱という感じでしょうか。

関城も国指定史跡に指定されています。保存状態は小田城には劣りますが、大規模な開発から逃れて、遺構もしっかり残っており、たいへん見応えがあります。

城主の関宗祐の墓。南朝に尽くした忠臣ということで、明治以降は人気が出たんでしょうね。

案内板によると、北畠親房が神皇正統記を完成させたのは関城にいた頃のようですね。関城は1343年、北朝の高師冬に攻められて落城し、城主は討ち死に、親房は吉野に逃れているようです。案内板に「下妻城」とあるのは、次に行く大宝城と同じ城のはずです。

関城の東側に回ると、筑波山が遠くに見えます。南北朝の時代には、このあたり一帯は沼になっていて、難攻不落の要塞になっていたんでしょうね。今は一面の水田になっています。

続いて南朝のもう一つの本拠地だった大宝城へ。

大宝城は、関城から南へ1kmほどのところに位置しています。南北朝の当時は、関城と大宝城の間には沼があって、舟で行き来していたようです。

大宝城の石碑の脇に、紫陽花が咲いていました。

案内板。こちらには小田城から逃れた春日顕国が入っているようですね。

跡地に立つ八幡宮の御由緒。南朝方に感情移入するような説明になっています。

1343年の戦いで討ち死にした大宝城主、下妻政泰の忠臣碑。明治になってから、忠臣として顕彰されたんでしょうね。

搦め手の方には、紫陽花園があります。

南北朝時代には大激戦地でしたが、現在は紫陽花が咲き誇って、とても平和です。

そんなわけで、皇国史観の土台を作った茨城県を都道府県魅力度ランキング47位にしてしまう日本人って浅はかかもねと思いつつ、茨城県を離脱するのでした。そういえば小田城・関城・大宝城とも百名城にも続百名城にも選ばれていないなあ……
(2018年2/5訪問)