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社会契約論とは何か

問題の所在

 人間はどうして集団で生活するようになったのか。どうして支配する者と支配される者に立場が分かれているのか。その支配は正当なものか、もし正当化できるのならどういう理屈なのか。仮に不当な支配だとしたら支配を覆すことは許されるのか。あるいは理想的な集団とはどういうものか。
 こういう一連の問いに対して、「神」を持ち出さずに、「人間」に関わる原理原則だけで解答を与えようと試みるものが社会契約論である。神を持ち出さないことから唯物論に親和性があり、社会の存在を前提とせず「個」から議論を起こすことから自然科学的には原子論と親和性が高い。逆に、あらゆる領域にわたって「神」の原理原則が貫徹し、原子論ではなく調和的・階層的宇宙論に基づいて世界を理解しようとする中世においては、社会契約論が出現する余地はない。「人間」の原理原則に基づいた社会論が説得力を持つのは、古代(キリスト教がないから)と近代(キリスト教が衰えるから)ということになる。
 ただしキリスト教という宗教が、旧約でも新約でも「契約」という手続きに基づいて成立していることには留意しておく必要がある。ルネサンス期以降の西欧で社会契約論が説得力を持ち得たとすれば、おそらくキリスト教による「契約」の論理が地ならしをしているからだ。古代的ヒューマニズム(人文主義)に基づく社会論と中世的キリスト教に基づく契約論の領域が重なったところに、近代的な社会契約論が立ち上がってくる。
 以下、古代に社会契約論の芽を確認した上で、近代の議論を精査する。

古代

 古代ギリシアとローマでは、もちろん近代的な社会契約論に類する議論を見ることはできない。アリストテレスは、人間が集団で生活するのは「自然な本性」だとみなし、議論の対象になるとは考えなかった。プラトンは「理想的な国家のあり方」については徹底的に考え抜いたけれども、「そもそも国家が必要か」については丁寧に掘り下げることがなく、神話的なエピソードを示して神からの賜りものという理解を示すにとどまる。
 ただし古代的民主政が発達したギリシア(特にアテナイ)や共和制期ローマにおいては「正義あるいは法律」(ラテン語ではどちらもius)の本質に関する議論が展開され、そこに社会契約論の芽のようなものがあったことを確認できる。特に確認しておきたいのは、人間の本質的な性質に基づいて(つまり神様なしで)社会の成立を考えようとする姿勢である。

ルクレーティウス『物の本質について』

 エピクロス派のルクレーティウス(紀元前99頃 – 紀元前55)は『物の本質について』の中で以下のように、人間が社会を構成する以前の原始状態について記述している。

「彼らには共同の幸福ということは考えてみることができず、又彼ら相互間に何ら習慣とか法律などを行なう術も知ってはいなかった。運命が各自に与えてくれる賜物があれば、これを持ち去り、誰しも自分勝手に自分を強くすることと、自分の生きることだけしか知らなかった。又、愛も愛する者同志を森の中で結合させていたが、これは相互間の欲望が女性を引きよせた為か、あるいは男性の強力なか、旺盛な欲望か、ないしは樫の実とか、岩梨とか、選り抜きの梨だとかの報酬がひきつけた為であった。」958-987行

 この原初の自然状態で人間が人間をコントロールするものは「欲望」「力」「報酬」に限られ、神様に言及されないことには注意を払っておきたい。この描写に続いて、ルクレーティウスは社会状態への移行メカニズムを説明する。

「次いで、小屋や皮や火を使うようになり、男と結ばれた女が一つの(住居に)引込むようになり、(二人で共にする寝床の掟が)知られてきて、二人の間から子供が生れるのを見るに至ってから、人類は初めて温和になり始めた。なぜならば、火は彼らにもはや青空の下では体が冷え、寒さに堪えられないようにしてしまったし、性生活は力を弱らしてしまい、子供達は甘えることによってたやすく両親の己惚れの強い心を和げるようになって来たからである。やがて又、隣人達は互いに他を害し合わないことを願い、暴力を受けることのないよう希望して、友誼を結び始め、声と身振りと吃る舌とで、誰でも皆弱者をいたわるべきであると云う意味を表わして、子供達や女達の保護を託すようになった。とはいえ、和合が完全には生じ得る筈はなかったが、然し大部分、大多数の者は約束を清く守っていた。もしそうでなかったとしたならば、人類はその頃既に全く絶滅してしまったであろうし、子孫が人類の存続を保つことが不可能となっていたであろう。」1011-1027行

 ここに素朴な「約束」が締結されるにいたるプロセスが描かれているが、その変化の理由が神様ではなく、人間の性質を踏まえたうえで、「安全」と「弱者の保護」から説明されていることに注目したい。そしてここでは保護の対象となる「弱者」として具体的には子どもと女性が挙げられているわけだが、頭の片隅に置いておきたいのは、子どもと女性が人類(男性)にとって一番最初の「私有財産」であった可能性(現実かフィクションかは問わない)である。原初の家父長制は、子どもと女性を家長の所有物と見なす。たとえば旧約聖書やホメロス『イリアス』などを見ると、古代においてはあからさまに女性や子どもを家長の所有物と見なす描写が散見される。そうなると、ルクレーティウスが「弱者の保護」とした記述は、実質的には「私有財産の保護」という意味を持っている。こういうことを確認しておくのは、もちろん後に「安全」を強調して契約論を唱えるのがホッブズで、「私有財産の保護」を強調して契約論を唱えるのがロックであるからだ。ホッブズとロックの主張の芽は、ルクレーティウスに確認できる。

【要約と感想】ルクレーティウス『物の本質について』

エピクロス

 ルクレーティウスは忠実なエピクロス主義だとされているが、元祖エピクロス(紀元前341-紀元前270)のテキストは完全に失われてしまっている。いちおうディオゲネス・ラエルティオス(3世紀前半)の『ギリシア哲学者列伝』に教説の概要が記されており、ここに「契約」への言及を見出すことができる。

(31)自然のは、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
(32)生物のうちで、互いに加害したり加害されないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、むすぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
(33)正義は、それ自体で存在する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。」
(36)一般的にいえば、正はすべての人にとって同一である。なぜなら、それは、人間の相互的な交渉にさいしての一種の相互利益だらからである。しかし、地域的な特殊性、その他さまざまな原因によって、同一のことが、すべての人にとって正であるとはかぎらなくなる。」
『エピクロスー教説と手紙』83-84頁

 このエピクロスの教説を祖述したと思われるテキストで現実的に問題になっているのは「正義」の由来と根拠であり、具体的に展開されているのは「ピュシス(自然の法)/ノモス(人為の法)」の弁証法である。唯物主義のエピクロスにおいて、「正義」の由来はもちろん神様ではなく、人間の本性に求められる。そしてノモス(人為の法)の観点から「契約」という手続きが示され、ピュシス(自然の法)の観点から「正」はすべての人間に同一だという法則が示される。このように神様抜きで人間の原則から「正義」の根拠を導き出してくる論理構成は、後のホッブズにそのまま見ることができる(自然権と自然法の弁証法)だろう。

【要約と感想】『エピクロス―教説と手紙』
【要約と感想】ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』

プラトンが描くソフィスト

 伝統的なピュシス(自然の法)を否定してノモス(人為の法)を前面に打ち出す議論を始めたのは、ソクラテス(紀元前5世紀)と同時代に活躍したソフィストたちである。その様子は、プラトンが描写するカリクレスやトラシュマコスの諸説に鮮やかに見出すことができる。プラトンは『国家』の中でソフィストの議論をこう描写している(もちろんプラトン自身はこれに反対する立場だ)。

自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。
 これがすなわち、<正義>なるものの起源であり、その本性である。つまり<正義>とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。」上巻106-107頁
「すべて自然状態にあるものは、この欲心をこそ善きものとして追求するのが本来のあり方なのであって、ただそれが、法の力でむりやりに平等の尊重へと、わきへ逸らされているにすぎないのです。」上巻108頁

 このテキストに関してまず注目したいのは、ソフィストが「自然本来のあり方」から議論を起こしていることだ。その認識が正しいかどうかはともかく、神様ではなく人間本性(特に欲心)という「自然」から議論を組み立てようとする態度だ。そして「自然(ピュシス)」から始まった話が、「契約」という「人為(ノモス)」へ着地するという論理構成だ。
 また共和政期ローマのキケローもほとんど同じことを言っているが、これは明らかにプラトンに倣ったものだろう。後世のラテン文化圏の読書人たちは、プラトンではなくキケローからこの考え方を知ることになったはずだ。

ピルス「しかし互いに相手を恐れ、人間が人間を、階級が階級を恐れるとき、誰も自己を頼ることができないので、一種の協定が国民と権力者のあいだに結ばれます。(中略)すなわち、正義の母親は自然でも意志でもなく、無力なのです。」
キケロー『国家について 法律について』154頁

 キケローの議論は「恐れ」という人間本性から話が始まるが、「自然(ピュシス)」も「意志(ノモス)」も否定され、「力」の不在が正義の根拠とされる。もちろんキケロー本人はこれに反対する立場であり、この発言者の議論は後に克服されることになるわけだが、ともかく神様抜きで人間本性から話を起こし、「自然(ピュシス)」と「人為(ノモス)」の弁証法を展開する議論がプラトンとキケローによって記述されていたことは押さえておきたい。
 また、プラトン最晩年の著書『法律』にも注目すべき記述がある。

「公的に見て、万人は万人に対して敵であり、私的にもまた、各人みずからが自分自身に対して敵である、ということなのです。」626D

 これは直ちにホッブズ『リヴァイアサン』を想起させる記述になっている。さらに「自然状態」に言及した記述も見られる。

「そうした時代の国政は、一般に家父長制(デュステイアー)と呼ばれているように思われます。そしてその制度は、今日でも、ギリシアや外国のいたるところに存在しているのです。思うに、ホメロスもまた、次のように歌いながら、キュクロプスたちの暮し方には、この制度の存在していたことを語っています、すなわち、
――
この者たちには 審議の集会も法令もないのだ
彼らは 高い山々の頂き うがたれた洞窟の中に住みなし
各自その子供や妻を支配し
互いに無関心のまま 過ごしているのだ」680B

 ここでは自然状態において各家族がバラバラに生活していることと同時に、子どもと女性が家父長制のもとに所有物として扱われている状況が描写されている。
 以上みたように、既に古代ギリシアとローマに後の社会契約論へと発展しそうな芽を確認することができる。実際、多くの先行研究が影響を認めている。ただし「契約」に関する議論は「正義論」の中で出現するだけで、国家や社会の構成原理の話に展開することはない。国家論にならない以上、統治の正当性や抵抗の可能性について触れることもない。近代に至るには、まだ様々な条件が整備される必要がある。

【要約と感想】プラトン『国家』
【要約と感想】プラトン『法律』
【要約と感想】キケロー『国家について 法律について』

中世

 ローマ帝国が滅びて中世キリスト教世界の時代に入ると、プラトンの著作もエピクロスの著作も失われ、しばらく忘れ去られることとなる。キケローの著作はラテン世界で読み継がれるものの、アウグスティヌスはともかく、基本的にはラテン語文法典範として活用されるにとどまり、精神世界には『聖書』の権威が君臨する。
 キリスト教においては、人間の歴史は『旧約聖書』に記されたアダムとイブのエピソードから始まる。この創世記における人類創造の記述が妥協されることは絶対にない。アダムとイブには「自然状態」(さらには子ども期)が存在せず、創造の瞬間から「コミュニケーション可能=社会状態」が成立している。したがって、子どもから大人への移行プロセスに一切の関心が払われないのと同様、自然状態から社会状態への移行プロセスにも関心が持たれることはない。キリスト教の関心の中心は、「人の国/神の国」の相違と移行プロセスにあるのであって、「自然の国/人為の国」の境界線などまったく問題にならない。キリスト教的宇宙論のなかでは、人間のみならず神や天使や動物も含めた階層的かつ調和的な世界像が示される。剥き出しの個人が世界から切り離されて単独で生活する原初の自然状態など想像もされなかった。確かに俗世間を離れた修道的隠遁者はいくらでもいたが、彼らは神と繋がっていて、剥き出しの個人ではなかった。こういう環境では、社会契約論どころか「社会」の形成に関わる議論が行われる余地すらない。
 ただしもちろん西暦500年から1500年まで千年もの時間があって、何も変わらなかったということはない。叙任権闘争(それに伴う世俗権力の剔抉)、封建国家から絶対王政への展開(それに伴う主権概念の発達)、都市やギルドの発展(それに伴う法人格概念の萌芽)、大学の誕生やスコラ学の成熟(特に普遍主義論争)、正義論の成熟(iusとlexの区別など)、東方教会とも連動しているであろう神秘主義の勃興(特に神との関係における個の剔抉)などなど、伏線となるような動きはいくらでも確認できる。また個人的には、三位一体論の成熟が大きな伏線(persona概念に絡んで)になっているのではないかと睨んでいる。ただこれらの流れがひとまとまりとなって奔流となり、世の中を大きく動かしていくのは、宗教改革とルネサンスを待たなければならない。

ルネサンス

 1453年のビザンツ帝国崩壊をきっかけとして、失われていた古代のテキストがイタリア半島に流れ込むと同時に、グーテンベルクによる活版印刷が書物の流通を加速させる。それまでプラトンのテキストは『ティマイオス』がもっともよく知られていたが、ルネサンス以降は『国家』が広く読まれ始めるようになる。このプラトン『国家』で描写されたソフィストの議論に社会契約論の芽があったことは先に確認した。

ルクレーティウスの再評価

 そして最大限に確認しておきたいことは、ルネサンス期においてルクレーティウス『物の本質について』が高く評価されたという事実である。たとえばロレンツォ・ヴァッラ(『快楽について』)、テレジオ、パトリーツィ、エチエンヌ・ドレなどがルクレティウスに好意的に言及している。また内容的にはルクレティウスを非難するピコ・デラ・ミランドッラも、雄弁的な観点からはルクレティウスを評価している。そしてルネサンスの雄エラスムスについては「エラスムスにはホッブズの社会契約という思想は未だ認められていないが、それに近い思想が芽生えている。」(金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』248頁)との指摘があり、詳細は説明されていないのだが、ルクレーティウス経由の可能性が高い。またエラスムスの友人トマス・モアについては以下の指摘がある。

「たとえば、ユートピア的理想社会の倫理に注目すれば、モアはエピクロスの教義やストア哲学を知っていたことが明らかになる。エピクロスやストア哲学の要素がユートピアにおける倫理概念に含まれていることは疑いない。とくに、人間の存在目的としての快楽、満足に関する教義、真理および虚偽の満足に対する認識においてそうである。」И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム』218頁

 エピクロス自身のテキストが失われている以上、仮にモアがエピクロスの教説を知っていたとしたらルクレーティウスを経由した可能性が高い。ただしもちろん、エラスムスやトマス・モアを含めて、ルネサンス期には近代の社会契約論の水準に到達している議論を見ることはできない。古代以来の「正義論」の範囲内で話が進むだけだし、大枠ではキリスト教宇宙論の射程圏内にある。エピクロスの影響といっても自然科学から人生論まで範囲は広大であり、ただちに社会契約論が立ち上がるわけではない。
 ちなみにルクレーティウスについては、近代以降も、モンテーニュが盛んに引用したり、ホッブズがヒントを得ていたり(田中浩『ホッブズ』)、デカルトやホッブズとも交流のあるガッサンディが強い影響を受けていたり、ルソーも影響を受けていたりする(ルソー『人間不平等起原論』解説)ことが指摘されている。社会契約論を考えるうえでキーパーソンであることは間違いない。
 そしてもう一人、後の社会契約論の展開を考えるうえでルネサンス期で忘れてはならない人物は、マキアベッリである。マキアベッリが社会契約論に類する議論を展開した形跡はまったくないものの、神様を排除して「人間」の原理原則だけで国家の動向を考察する姿勢は間違いなく近代に向かっている。ルソーも『社会契約論』でマキアベッリの人格と業績を極めて高く評価している。

【要約と感想】ロレンツォ・ヴァッラ『快楽について』
【要約と感想】金子晴勇『エラスムスの人間学―キリスト教人文主義の巨匠』
【要約と感想】И.Н.オシノフスキー『トマス・モアとヒューマニズム』
【要約と感想】マキアヴェッリ『君主論』

近代への離陸

 何をもって近代と見なすかについて難しい問題は多々あるが、ここでは便宜的に大航海時代・宗教改革・ルネサンスを目印としておく。
 大航海時代は南北アメリカ大陸やアフリカ大陸から人類学的知見をもたらし、社会契約論を展開するうえで必須の要素である「自然状態」に関する想像力を刺激した。
 宗教改革の空気は聖書に対する書誌的研究を可能とし、旧約新約両聖書における「契約」の概念に関する洞察を深めた。またイギリス国教会に典型的なように、世俗国家がカトリック教会からの独立性を高める動きは権力の正当性の問題を露骨に浮かび上がらせる。
 ルネサンスの雰囲気は、社会の成立を「神」による創造ではなく「人間」の本性に基づいて考察する姿勢を後押しした。
 これらの動きが総合的に絡み合いながら近代を準備していくことになる。

近代

 近代に入り、様々な論者が様々な形で社会契約論を提示することになる。あらかじめすべての論者に共通する要素を示すと、
(1)人間の「自然状態」と「社会状態」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態」を聖書の記述によらず、人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。その結果、自然科学における原子論と響きあうように、まず人間を「個人」として理解する。
(3)人間の「社会状態」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。その結果、理性的で合理的な「合意」を重視する。
(4)統治の正当性の原理を示すことを目的としている。その結果として、道徳的な「正義」や「公正」に関する洞察が伴う。
 といったところだろうか。
 一方、それぞれの論者の論理構成の違いを理解する目安となるのは、
(1)自然状態の定義。この相違は「自由」や「権利」という概念に対する理解の違いに基づくだろう。
(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。この相違は、社会契約の性質の違いや、抵抗の正当性に対する態度の違いに帰結するだろう。
(3)社会状態の定義。この相違から政府の権限の範囲に関する見解も異なってくるだろう。
(4)カトリック教会への対応。それぞれの論者の宗教観の違いだけでなく、現実的に直面していた課題に対応して異なるだろう。
 となるだろうか。ちなみに古代の理論には、(4)はあるわけないとして、(1)はルクレーティウスとホメロスの詩に、(2)はルクレーティウスとエピクロスに、(3)はプラトンとキケローが描写するソフィストとエピクロスの正義論に見られるが、それぞれが論理として有機的に結びついているわけではなく、バラバラに記述されている。
 以下、社会契約論と称されるいくつかの理論の内容と構成を確認する。

ホッブズ『リヴァイアサン』

 まず、極めて独創的な発想で社会契約論の水準を一気に引き上げたのが、イングランドの思想家トマス・ホッブズ(1588-1679)である。
 背景として、先行研究においてはピューリタン革命の影響が強調されるが、個人的には宗教改革のほうが、特にイングランド国教会とカトリックとの確執の方が根が深いように思える。というのは、個人的な見解では、ホッブズは民主派ではなく王党派であり、王党派の利害関心に依ってカトリックの影響を排除しようと目論んだ結果が『リヴァイアサン』に強く反映しているように見えるからだ。実際、『リヴァイアサン』は後半でしつこくカトリック批判を繰り返して世俗権力への一本化を主張する。前半で自然状態から社会状態への移行を詳細に記述しており、それによって民主派と評価されるわけだが、個人的には、ただ後半戦に備えて世俗権力を一本化しておきたかったからのように見える。
 個人的に強い関心を持つのは、ホッブズが「人格」という言葉について極めて深い洞察を示している点だ。ホッブズは「人格」にまつわるギリシア語とラテン語の相違を丁寧にたどって定義を明確にしたうえで、全編にわたって、しかも要所要所で頻繁に使用する。しかもキリスト教最大の奥義「三位一体論」に関わる記述で「人格」という言葉を巧みに使いながら、それを主権論の文脈に降ろしてくるところなど、ぜんぶ分かったうえで意図的に仕組んでいるような印象を持つ。侮れない。
 以下、論者の論理展開の相違を浮き彫りにする4観点からホッブズの特徴をまとめる。

(1)自然状態の定義。
 ホッブズは自然状態の記述に先立ち、デカルト『情念論』やスピノザ『エチカ』を想起させるような筆致で人間の「情念」を丁寧に分析して、人間は欲望や嫉妬から逃れられないと喝破する。そして、人間は生まれながらにあらゆることを自由に行う「自然権」を平等に持つ一方で、だからこそ情念に支配される人間たちの自然状態は「万人の万人に対する戦争」に陥ると定義した。この状態では人間の生活は「孤独で、貧しく、下劣で、野蛮で、短い」もので、常に不安と恐怖に苛まれる。
 ホッブズの理論が説得力を持つかどうかは「情念」の理解にかかっている。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 ホッブズによれば、安全を実現しようとしたときに理性が必然的に見出す「自然法」の条理に基づいて、生存権を保障するためにこそ各人は「自然権」を自発的に放棄し、絶対的な権力者リヴァイアサンへ委譲する。この理屈を成立させるため、ホッブズは中世まで混同されていた「法:lex」と「権利:jus」の概念の違いを強調し、理性が見出す「自然法」の必然性を前面に打ち出す。
 ホッブズの理論が説得力をもつかどうかは「自然法」の理解にかかっている。

(3)社会状態の定義。
 ホッブズは秩序と安全を確保するために権力を絶対的な一点に集中するべきことを提唱し、君主政を擁護する。いったん社会状態が成立した以上は、統治者に逆らうことは許されない。「正義」とは統治者が決めたルールである。まさに古代のソフィストが主張したとおりの絶対的統治体制となっている。
 ホッブズの理論が説得力を持つかどうかは、絶対王政による強権を是とするかどうかの姿勢にかかっている。

(4)カトリック教会への対応。
 ホッブズはカトリック教会を極めて強い態度で批判し、権力の根拠をいっさい持たないことを丁寧に示したうえで、宗教的な指導力も世俗権力が握るべきだと主張する。カトリック教会に許されているのは示唆する程度の強制力を持たない教育に過ぎず、国家運営に口出しをするなどもってのほかだと言う。

【要約と感想】ホッブズ『リヴァイアサン』
【要約と感想】梅田百合香『甦るリヴァイアサン』
【要約と感想】田中浩『ホッブズ』
【要約と感想】田中浩『人と思想ホッブズ』

スピノザ『神学・政治論』

 オランダの思想家スピノザ(1632-1677)はホッブズと同時代を生き、お互いに影響を与え合っていると理解されている。政治学の教科書において社会契約論の論者として扱われることは滅多にないが、個人的には、『旧約聖書』の「契約」概念を現実の社会に降ろしてきた発想はかなり重要な意義を持つと思っている。

(1)自然状態の定義。
 スピノザは自然状態を個人が無限の「自然権」を持つ状態と見なし、自由は他者の干渉がない状態で自己保存を追求する能力として定義する。一方で、ホッブズのような「万人の万人に対する闘争」が起こるとは考えない。このホッブズとの違いは『神学・政治論』だけでは分からないが、おそらくスピノザ『エチカ』で示される「情念」論と合理的・調和的な世界観によると考えられる。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 スピノザは合理性に基づく自発的な協力として社会契約を見ており、個人が共同の利益のために自由の一部を制限することが社会全体の最大の自由をもたらすと考える。極めてユニークなのは、『旧約聖書』において神と人民の間に結ばれた「契約」の在り方を徹底的に掘り下げたうえで、それを現実社会において政府と人民の間に結ばれる「契約」と実質的に同じ性質の服従契約だったと見なす点である。キリスト教が「契約」の宗教であったことが世俗国家における「契約」という発想をもたらした可能性(つまり中国やインドやイスラムではそうならなかった)を、ここに見ることはできるだろう。

(3)社会状態の定義。
 スピノザは社会状態を個人の理性と合理的な欲望に基づく自由な協力の産物と見なし、政府はこの自由と秩序を維持するために存在すると考える。またどれだけ政府が人々をコントロールしようと思っても、人民は自らの本性に従って行動するだけで、無駄なことだという。これは空想ではなく、歴史上のオランダ共和国に実際にあり得た現実的な見方でもある。スピノザ自身はホッブズ理論との違いについて、社会状態においても「自然権」が手つかずのまま残っていると証言している。

(4)カトリック教会への対応。
 スピノザ『神学・政治論』は社会契約論を示そうとして書かれたものではなく、真の自由と理性に基づく社会を実現するために宗教と政治の完全な分離を支持し、キリスト者として最低限必要な信仰箇条を守っていれば問題ないと主張することを眼目としている。その結果、カトリック教会からは無神論のチャンピオンとして蛇蝎のごとく敵視されることになる。

【要約と感想】スピノザ『神学・政治論―聖書の批判と言論の自由―』
【要約と感想】スピノザ『エチカ―倫理学』
【要約と感想】上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』
【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』
【要約と感想】吉田量彦『スピノザ―人間の自由の哲学』

ロック『統治二論』

 イングランドの思想家ジョン・ロック(1632-1704)は、スピノザと同年に誕生している。二人の直接的な交流は確認できていないが、オランダ滞在時に著書を読んでいるなど影響を受けているだろうことは分かっている。またホッブズとの接触も確認できていないが、著書を読む限り意識していただろうことは推測できる。思想的背景として名誉革命(1688)との関連を云々されることもあるが、歴史的研究により、執筆時期そのものは名誉革命に先行することが分かっている。

(1)自然状態の定義。
 ロックは自然状態を自然法に基づいた平和的秩序がある程度は成立している状態と考える。自由は自然権としての生命、健康、自由、財産の保護を含むが、特に労働に基づいた「私有財産」の不可侵性を強調する。また自分が被った被害を回復する権利を各人が持つだけでなく、他人に被害を与えた者を罰する裁判権・執行権も自然に与えられていると主張する点はユニークだ。
 ポイントは「私有財産」の正当化にある。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 ロックは財産権を確実に保障するために政府への権力の委譲が必要だと主張するが、どうして自然状態で平和的秩序が実現しているのに権利を放棄しなければいけないのかという説明は不十分かつ不明確で、社会状態への移行の必要性が厳密に説明されているとはみなしがたい。一方、他人に被害を与えた者を罰する裁判権・執行権を各人から取り上げて政府に一本化するメリットは明確にされている。

(3)社会状態の定義。
 ロックは社会状態を法と政府による自然権の保護と定義し、政府は民衆の同意に基づいて設立されるとする。そして極めて限定的な条件付きではあるが、政府による自然権(特に財産権)の保護が不可能となった場合、政府への抵抗が許容される。
 ポイントは、抵抗権の理解にある。

(4)カトリック教会への対応。
 『統治二論』の前編は王権神授説に対する批判であり、世俗権力を正当化する原理としてのキリスト教は明確に否定している。また、別著で宗教的寛容を説く一方、カトリックに対する敵意は隠していない。ただしロック自身は敬虔なキリスト者であり、その社会契約論のいちばん根底にも「神の制作物」という人間理解が前提にある。

【要約と感想】ジョン・ロック『完訳 統治二論』
【要約と感想】加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』

ルソー『社会契約論』『人間不平等起原論』

 ジュネーブで生まれフランス語で活動したルソー(1712-1778)は、ホッブズやロックを意図的に批判しながら、独自の社会契約論を打ち立てる。歴史的背景としてはアメリカ独立に深く関わったりフランス革命の理論的支柱になったとみる向きもあるが、実証研究のレベルではフランス革命にはさほど関係していないと理解されている。
 ルソーの論理の全体像を理解するためには、『社会契約論』だけでなく『人間不平等起原論』も併せて読む必要がある。先行研究においては両著書間の矛盾や論理的不整合が指摘されてはいるが、「自然状態の定義」や「自然状態から社会状態へ移行するメカニズム」は『社会契約論』で詳述されておらず、『人間不平等起原論』を参照しなければルソーの見解は分からない。確かに不整合なところは散見されるが、全体像を理解するうえで致命的な障害になるとも思えない。

(1)自然状態の定義。
 各人は完全に生まれながらに自由と平等をもつ。全員が自己保存に一番の関心を注ぎ、それぞれが生存に必要な行動をとるが、お互いの生活を侵害することはあり得ない。アメリカ大陸や類人猿の生活等にも触れながら、自然状態が人類にとって極めて理想的な状況だったと描く。あまりにも「自然人」が理想的に描かれ、当時から多くの批判を浴びている。

(2)自然状態から社会状態へ移行するメカニズム。
 『人類不平等起原論』では、人類が堕落した結果として、自然状態のままではいられなくなると主張する。特に私有財産の発見によって貧富の差が拡大し、その貧富の差が不可逆的に権力の偏在化に向かうと言う。
 一方『社会契約論』では詳細にメカニズムを語らないが、社会状態への移行がもはや不可避となった時点で理想的な形の移行が起こると言う。自然状態の自由と平等をそのまま実現するために、人民と統治者の間の「服従契約」ではなく、まずは人民同士が水平に「社会契約」を結んでひとかたまりの集団になる。この生命と一般意志を持った集団に従うことで、各人は自然状態と変わらずに自分の主人のままでいられる。どういう形の政府にするかは、契約段階の話ではなく、契約が結ばれた後に一般意志が判断すればよい。

(3)社会状態の定義。
 『人間不平等起原論』においては、滅びゆく人類の堕落の極みとして悲観的に描かれる。文化や芸術は、老人の杖のようなもので、健康な自然人には必要ないが、堕落しきった現代人にとってのみ必要になるものだと言う。
 一方の『社会契約論』においては、社会状態とは「自然の自由」に代わって「市民の自由」を得た状態であり、それに加えて「道徳的な自由」も得た素晴らしい状態であると主張する。政府も一般意志を実現するための公僕として理解されるため、一般意志と相容れない政府を覆すのはまったく問題がない。ただし一方、社会契約を結んだ以上、共同体の構成員は一般意志に絶対的に従わなくてはならない。たとえ多数決で少数者の側になろうと、命を失うような義務が発生しようと、無条件に従わなければならない。

(4)カトリック教会への対応。
 『社会契約論』においては、キリスト教の考え方は世俗的国家の現実とはまったく相容れないものだと厳しく批判したうえで、社会的紐帯を根底から支える基盤として「市民宗教」が必要であると説き、この宗教に忠誠を誓えない人間は追放せよとまで言う。しかし実質的にはこのような市民宗教が成立する見込みはないので、次善の策として宗教的寛容に徹するべきことを主張する。もちろんカトリック教会は大激怒し、『社会契約論』には禁書の指令が下ることになる。

【要約と感想】ルソー『社会契約論』
【要約と感想】ルソー『人間不平等起原論』
【要約と感想】仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

古代に還る:ソクラテス

 こうしてルソーは、人民がいったん合意して社会を形成した以上、共同体の成員は命を投げ出すような理不尽な法にさえも従うべきだと主張する。そして実際にそうした人物を、我々は古代に見出すことができる。『クリトン』に描かれたソクラテスである。

自ら市民として遵守するとわれわれに誓った契約や合意に背いて逃亡しようとしているお前は、最も無恥な奴隷でもしそうな振舞いをするのだ。」84頁
「またお前は今、われわれ自身に対してした契約と合意とを蹂躙しようとしていはしないか。しかもお前がその契約と合意とを与えたのは、余儀なくされたためでもなく、欺かれたためでもなく、短時日の間に考慮決定することを強いられたためでもない、もしわれわれがお前の気に入らず、この合意が不当だと思われたならば、ここを立去ることがお前に許されていた時日は、七十年もあったのだから。」
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波文庫、84頁

 このソクラテスの態度について、先行研究はこうコメントして、ルソーの論理との関係を見出している。

「思うにソクラテスのこのような国法観は、幼若な時代はいざ知らず、人が理性の年齢に達するや否や自己の理性的思惟によって祖国を放棄し、またはこれを選択する自由を認め、それをなさないで国内に居住するかぎり、暗々裡に国法の遵守を祖国に対して契約したものであることを認めるとともに、いったんこのような契約を認めたからには、「国家が汝の死が国家のために必要であるというときには、喜んで死なねばならない」と言うルソオの社会契約説と一味相通ずるものがあるであろう。
 この意味においてソクラテスの国法観は、確かにルソオの社会契約説の先駆をなすものともいいうるのである。」
稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』福村出版、1973年、184頁

 個人的には、ソクラテスの態度がルソーに相通じるというよりは、アテネの国政とソクラテスの生き様を念頭に置きながらルソーが『社会契約論』を書いた、というほうが真実に近いように思う。ホッブズはソクラテスの敵であるソフィストの議論を下敷きにして『リヴァイアサン』を書いたように見えるが、ルソーはソクラテスの生き様を踏まえて『社会契約論』を書いたように思える。紀元前5世紀に行われたソクラテスとソフィストの対決は、2000年以上後の18世紀にまで続いていたのである。あるいは今も延長戦の最中か。

【要約と感想】プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』
【要約と感想】稲富栄次郎『ソクラテスのエロスと死』

まとめ

論者による相違

 以上確認したように、一口に「社会契約論」と言ったとしても、その具体的な論理展開や実質的な内容は論者によってまるで異なる。先行研究においても、その相違を前面に打ち出してくるものが多いような印象だ。
 それぞれの論理の相違に注目すると、日本における歴代政治体制の相違についても新たな視点を得られるように思う。(あくまでも日本の政治体制の特徴を相互に浮き彫りにするために社会契約論の特徴を借りて考察するだけであって、西洋の論理をそのまま日本の歴史的政治体制の実態に当てはめようとするものではない)

(1)ホッブズを踏まえて豊臣秀吉の惣無事令を考える。
 日本の中世においては鎌倉・室町時代を通じて地方小領主同士の私闘が相次ぎ、室町中期から安土桃山には広域大領主間の私闘に発展するが、豊臣秀吉による1585~87年の惣無事令によって実質的な天下統一が成ったとされる。実証的には豊臣政権の実態をどう考えるかには様々な立場があるが、各大名に絶対服従を確約する誓紙を納めさせて私闘を禁じる一方で、刀狩令や海上賊船禁止令、喧嘩停止令など被支配民の武装解除を進めたことを踏まえると、理念的には、豊臣家をリヴァイアサンとする絶対主義体制が整ったと見なすこともできる。実質的には武力を背景とした威嚇による統一ではあるが、形式的にはホッブズが言うように不安と恐怖から逃れて平和と秩序を構築するために自発的に自然権を返上する服従契約となっている。
 もちろん農民を含めた日本の全住民が自発的な契約を秀吉と結ぶわけはないのだが、ホッブズ自身も果たしてイングランドの無産者や一般庶民や、あるいは陪臣たちすら視野に入れていたかは怪しいところではある。

(2)スピノザ・ロックを踏まえて徳川政権下の幕藩体制を考える。
 江戸幕府統治下265年間には、島原の乱などいくつかの悲惨な戦乱はあるものの、おおむね平和だったと言ってよい。その間、全国約300あった藩(一万石以上)やそれ以下の小領主の領地では、法も裁判も経済も、基本的には領地内の自治に任された。これはスピノザの言う「自然権が手つかずのまま放置」の状態であり、ロックが言うように私有財産が保障(領地が安堵)された状態である。この自然権の恣意性が目に余るようになったときには公共の福祉を保障するために公権力(いわゆる公儀)が発動する。恐怖や不安に基づいたホッブズ型権力というより、平和と安定を保障するための公権力ということで、理念的にはスピノザ・ロック型と言えるだろう。また政府の専横が目に余った場合に百姓たちが武器を持って立ち上がったのは、ロックが言う抵抗権の発露と考えてよいか(あるいはホッブズ的なやむにやまれない生存権の主張のほうか)。
 ただしもちろんパックス・トクガワ―ナは身分制を土台とした暴力装置の偏在が支える制度であり、オランダの共和政を背景としたスピノザ理論やブルジョワ階級的ロック理論にそのまま適用するのは乱暴ではある。

(3)ルソーを踏まえて廃藩置県+大日本帝国憲法+教育勅語を考える。
 大名や領主たちが先祖代々実力で制圧してきた領地をいったん天皇(公)に戻したうえで、元の土地に行政官として戻ってくるという版籍奉還と廃藩置県の手続きは、まさに自然権を市民権へと転換して権力を一元化する社会契約論的なカラクリである。そして教育勅語は日本の建国神話を土台として日本人民を一体のものとして創出するフィクショナルな試みだったが、それはルソーが言う「市民宗教」を土台とした人民の組織化の手続きである。市民宗教(教育勅語)は、政治的統合を促進するために共有されるべき価値観や信念体系を提供し、国家が個々人の意識の中に深く根ざす共通のアイデンティティを形成した。その土台の上に大日本帝国憲法で定めた権利と義務の体系が作動し、市民権と公民権が実質化する。天皇制(ルソーが言う君主制)であることは、ルソーも『社会契約論』本文で主張するように、共和政であることとまったく矛盾しない。ただしそれは美濃部達吉の天皇機関説のようなものとして天皇が機能している限りの話にはなる。親政により天皇が無謬の審級かつ皇軍の大元帥としての役割を期待され始めると、とたんに人民主権が破綻する。これが大日本帝国に限られた話に過ぎないのか、それともルソーの理論が内在的に抱える根本的な問題かは、「一般意志」の絶対性・抑圧性と絡んで、実はなかなか厄介な話である。あるいは大日本帝国の司馬遼太郎史観的な勃興と頽廃の過程は、ルソー理論の射程範囲内の話になるのか。これを理論的な水準で克服するのは、カントやヘーゲルの仕事になるのだろう。

論者を超えた共通点

 さてしかし個人的には、論者による理屈の違いを強調するよりも、共通点を強調した方が実りが多いように感じる。その共通点とは、繰り返しになるが以下の4点である。
(1)人間の「自然状態」と「社会状態」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態」を聖書の記述によらず、人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。
(3)人間の「社会状態」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。
(4)統治の正当性の原理を示すことを目的としている。
 これは古代や中世には見られない特徴的な論理構成だ。

教育学への応用

 なぜ私が社会契約論に共通する論理を剔抉することが実り多いと考えるかと言うと、それがそっくりそのまま近代教育のありようを説明する原理になるからだ。
(1)人間の「自然状態(子ども)」と「社会状態(おとな)」を厳密に区別する。
(2)人間の「自然状態(子ども)」を人間の自然本性に基づいて理解しようと試みる。
(3)人間の「社会状態(おとな)」を自然なものと見なさず、何らかの人為的な手続きを経てできたものと考える。
(4)教育の正当性の原理を示すことを目的としている。
 これを認めるにせよ批判するにせよ、「近代」という時代の原理を理解するうえで、政治にも教育にも貫徹する論理を把握しておくことに意味がないわけがない。

【要約と感想】ルソー『社会契約論』

【要約】人間はもともと自由で平等なものとして生まれたので、あらゆる社会秩序は自然にできたものではないし、力に基づくものでもなく、約束で成立しているものです。社会秩序を作るには、それがどういう形(君主制・貴族制・民主制)になるにせよ、まず人々がバラバラの烏合の衆ではなく、ひとかたまりの人民になっている必要があります。この、社会秩序が形成される前提として人々同士が結合する最初の約束が「社会契約」であり、それは共同体に属する構成員すべての人格と財産を守るための約束です。これを実現する条件は、すべての人間が一切の権利を共同体に譲渡したうえで、一人一人が共同体全体にとって切り離せない不可欠な一部となることです。それによって自我と生命を持つ一つの集合的精神が誕生し、主権者となります。各構成員は主権者の一般意志に従うことで、契約締結以前の自由と平等をそのまま受け取ります。しかし権利だけ主張して義務を果たさない個人の不正は共同体を破壊するので、一般意志への服従は絶対強制です。こうして自然状態で自然的に自由だった人間は、社会状態で市民的に自由となり、道徳的自由も手に入れて、初めて自分の主人となることができます。
 一般意志は個別の案件に口を出すことはなく、常に全員に関わる公の利益だけ考えるので間違うことは絶対にありませんが、しかし啓蒙されていない民衆の議決は個人の利害に左右されて間違うことがあります。特に部分的団体が影響力を持ち始めたり、国が大きすぎたり小さすぎたり、代議制に頼ったり、人々が金儲けばかりに関心を持ち始めるとおかしくなりやすく、憲法制定は人民の成熟度合いや隣国との関係など極めて厳しい条件を満たしていなければ不可能です。
 執行権を持つ政府は、主権とは異なる単なる仲介団体であり、一般意志に従うべき公僕です。政府の適切な大きさや種類(民主制・貴族制・君主制)は主権者が置かれた状況や環境によって異なります。良い政府か悪い政府かを決めることは一概にはできませんが、目安としては、人口が増えているときは良く、減っているときには悪いと考えていいでしょう。政府が堕落すると国家が解体します。
 社会契約が成立した以上、健全であれば投票によって過半数で決まったことは一般意志の決定と前提できるので、少数者も従いましょう。もしも一般意志が過半数の側になければ、反対側の意見も一般意志ではなく、国内に別々の国(つまり一般意志)があったというだけのことです。行政官の選出は抽籤によるのがいいでしょう。実際の選挙制度や行政の仕組みについては古代ローマを参考にしましょう。最後に宗教について、これはもともと主権者にとっては国家の法に結びついたもので問題になりませんでしたが、世俗的な権力と切り離されて反俗世(反社会)的な権力となったキリスト教は様々な問題を生じさせます。そこで主権者はキリスト教も含めた既存の宗教とは異なる「純粋に市民的な信仰告白」を決めて、それを信じない者は追放したり、信じたふりをした者は処刑するべきです。そうできないなら、市民生活と矛盾しないあらゆる宗教に対して寛容であるべきです。

【感想】自然状態から社会状態に移行する条件についての記述は、極めてアッサリ風味で、訳文では4行で説明される。このあたりは別著『人間不平等起原論』で説明したということなのだろう。本書は社会状態を実現する前提と条件について掘り下げている。
 社会状態の記述は、解説が指摘するとおりホッブズの論理を換骨奪胎したものだろう。たとえば一般意志へ絶対服従を説く点など、リヴァイアサンの絶対性とまったく変わりがない。ただしもちろん決定的に異なるのは、ルソーにおいては主権者が人民自身という点にあり、ホッブズにおいて同じものであった主権者(国)と政府をルソーは厳密に峻別する。ホッブズにおいては絶対的権力者であった行政のトップ(君主)は、ルソーにおいてはただの公僕(政府)だ。そして国と政府はそれぞれ違うものだという洞察から、国にとって都合の悪い政府は取り替えてもよいという革命的な結論が導かれる。また、原理的に自由を否定して必然性を強調するホッブズが普遍的な「自然法」を前面に打ち出しているのに対し、ルソーのほうはいったんすべての共同体に通底する原理的な社会契約を結んだあとは個別の一般意志(必ずしも自然法に従わない)による自由で個性的なルール作りを認めている(57頁「法について」)。ただし自由なルール作りと言ってもその集団固有の慣習や世論というものに従うことになるので、現実的にはモンテスキューに近い感じか。
 いっぽうロック『統治二論』と異なるのは、ロックが「服従契約」を祖述したのに対し、ルソーがそれ以前の「社会契約」の段階を前面に打ち出した点にある。ロック理論で抵抗権の根拠が曖昧になるのは、単なる服従契約では政府への抵抗が被支配者の側からの契約解除という形をとってしまうからだ。しかし社会契約に基づくルソーの論理では、政府が主権者(国家)と完全に切り離された別の法人格として扱われるので、単に政府を覆しただけでは主権者(国家)の側の契約不履行とはならない。つまり「主権」の所在を人民主権と明確に規定したことで理論上の紛れがなくなっている。

 具体的に憲法を制定して政府を作るところでは、明治維新後の日本の歩みが自然と想起される。明治15年から伊藤博文が西欧各地を巡って憲法調査を行うが、どこに行っても誰に聞いても日本人民の未熟さを指摘されて憲法制定など時期尚早と諭される羽目に陥る。その際、伊藤を諭した法学者がルソーを意識していたかどうかは分からないが、憲法を制定する前提として人民が成熟していなければならないという認識は共有されている。伊藤はプロイセンでシュタイン国家学に出会って憲法制定への道筋を見出すことになるが、それはやはり人民主権を前提するルソー流ではなく、家産国家の延長として行政を理解する官房学(ポリツァイ)の系譜に連なる。
 また「市民宗教」の下りは、露骨に教育勅語を想起させる。ひょっとしたら井上毅はルソーを読み込んでいたかもしれない。自由民権運動の論理的支柱であったルソーの名前を井上毅があからさまに前面に打ち出すことはなくても、社会契約論の論理については当然勉強しているはずだし、「市民宗教」の理屈に何かしらの光明を見出していても不思議はない。

 そんなわけで、本書は確かに徹底的な人民主権論に立ち、後の市民革命を正当化する理論的支柱となった民主主義のバイブルに違いないのだろうが、やはり一方で(ルソーは本書内で気を使って書いてはいるものの)全体主義に利用されてしまう空気も纏っているように思える。私が思うところでは、本書の限界は一国内民主主義に留まり、グローバルな視点に欠けている点にある。どれだけナショナルな単位で人民主権が成立しようとも、いやむしろナショナルな単位で人民主権が成立してしまうがゆえに、国際秩序は剥き出しの「力」が支配するホッブズ的な闘争世界に陥る。大日本帝国を想起するまでもなく、目の前で繰り広げられるロシアによるウクライナ侵攻とかイスラエルによるガザ破壊とかアメリカの独善的な振る舞いを見れば、一国単位の人民主権の限界は明らかだ。そしてそれはルソーが結論において「残されている問題」と記述したものに他ならない。
 またあるいは国内に二つの国が分裂するという問題については、ジェンダー論や世代論、あるいはアメリカの分裂などが想起される。これを単に本書のように「2つの国がある」と切って捨ててよいのか。ルソーは通分可能な人々の間で成立する社会契約で押し通したが、もはや同類項を想定できない通分不可能な多様性において「共存」が成立する原理を考えなくてはいけないのではないか。
 ただ本書を民主主義の聖典としてありがたがっている場合ではなく、人類はその限界を認識して次のステージに進まなければいけない時期に来ていると思う。

【要検討事項】身体
 本文中の訳語で「身」とか「身体」となっているところは、原文を確認しておきたい。というのは、それがフランス語ではpersonneであり、実質的には「人格」と理解するべきものである可能性がある上に、本文中に「一般意志」という言葉が最初に使われる文章にも関わってくるからだ。

「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。」29頁
原文:Trouver une forme d’association qui défenfe et protége de toute la force commune la personne et les biens de chaque associé, et par laquelle chacun, s’unissant a tous, n’ovéisse poutrant qu’a lui-même, et reste aussi libre qu’aparavant.
「われわれの各々は身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下に置く。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受け取るのだ。」31頁原文:Chacun de nous met en commun sa peronne et toute sa puissance sous la suprême direction de la volonté générale; et nous recevons encore chaque membre comme partie indivisible du tout.
「臣民は公けの平穏を、市民は個々人の自由を誇る。一方は、財産の安全を、他方は、身体の安全を欲する。」118頁
「政治体は、人間の身体と同様に、生まれたときから死にはじめ、それはみずからのうちに、破壊の原因を宿している。」125頁
「最下層の市民の身体も、最上級の行政官の身体と同じく神聖で不可侵なものになる。」130頁
「市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや(後略)」131頁

 で、少し調べたところでは、予測通り訳文で「身体」とか「身」となっている原語の多くはフランス語でpersonneとなっていた。そしてそうだとすると、「身体」よりも「人格」と理解した方がルソーの趣旨が徹底する場面も多いように思う。というのは、ルソーは単に物理的に身柄を云々したいわけではなく、自由や道徳性や尊厳も含めた「人格」を対象としたかっただろうからだ。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 ということで、本書ではpersonneという単語が連発され、訳書でも「人格」という言葉が使われるが、注目したいのはそれが有機体論的に使用されている点だ。「人格」の用法という観点から見ると、ホッブズに近く、ロックから遠い。

「この結合行為は、直ちに、各契約者の特殊な自己に代って、一つの精神的で集合的な団体をつくり出す。その団体は集会における投票者と同数の構成員からなる。それは、この同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命およびその意志を受けとる。このように、すべての人々の結合によって形成されるこの公的な人格は、かつては都市国家という名前をもっていたが、今では共和国(Republique)または政治体(Corps politique)という名前をもっている。それは、受動的には、構成員から国家(Etat)とよばれ、能動的には主権者(Souverain)、同種のものと比べるときには国(Puissance)とよばれる。構成員についていえば、集合的には人民(Peuple)という名をもつが、個々には、主権に参加するものとしては市民(Citoyens)、国家の法律に服従するものとしては臣民(Sujets)とよばれる。」31頁
「外部のものにたいしては、この団体は、単なる一存在、一個人となるのだから。」33頁
「そして彼は、国家を構成する精神的人格を、それが一個の人間ではないという理由から、頭で考え出したものとみなし、臣民の義務をはたそうとはしないで、市民の権利を享受するであろう。」35頁

 こうして国家に「精神的人格」を見出したルソーは、有機体論的な記述を次々と繰り出す。

「彼らは、主権者をば、いろいろな部分をよせ集めて作られた架空の存在にしている。それは多くのからだ――眼だけしかもたない、腕だけしかもたない、あるいは足だけしかもたないところの、からだから人間を作るようなものである。」44頁
「もし、国家または都市が精神的人格にほかならず、その生命が構成員の結合のうちに成りたつとすれば、また、国家の配慮のうちで一番大切なものは、自己保存の配慮であるとすれば、国家は各部分を、全体にとって最も好都合なように動かし、配置するために、普遍的な、また強制的な力をもたなければならない。ちょうど、自然が、各々の人間に、その手足のすべてにたいする絶対的な力を与えているように、社会契約も、政治体に、その全構成員にたいする絶対的な力を与えるのである。そしてこの力こそ、一般意志によって指導される場合、すでにいったように、主権と名づけられるところのものなのである。
 しかし、われわれは、この公の人格のほかに、これを構成している私人たちを考えねばならない。そして後者の生命と自由とは、本来、前者とは独立のものである。そこで、市民たちと主権者との、それぞれの権利を区別し、また市民たちが臣民として果さねばならない義務を、人間としてうくべき自然権から、十分に区別することが問題となる」49頁
「政治体の生命のもとは、主権にある。立法権は国家の心臓であり、執行権は、すべての部分に運動を与える国家の脳髄である。脳髄がマヒしてしまっても、個人はなお生きうる。バカになっても、命はつづく。しかし心臓が機能を停止するやいなや、動物は死んでしまう」126頁

 そして国家と同様に、その公僕としての「政府」に対しても精神的人格を見出す。

「政府は、政府を含む大きな政治体の縮図である。それは、いくつかの属性をそなえた精神的人格であり、主権者のように能動的であり、国家のように受動的でもあって、他の同じような関係に分解することもできる」88頁
「しかしながら、政府という団体が、国家という団体から区別されるところの一つの存在、つまり現実の一つの生命をもつためには、また、政府のすべての構成員が一致して行動し、それがつくられた目的に応じうるためには、特殊な「自我」、その構成員に共通の感受性、自己保存に向おうとする一つの力一つの固有の意志、が政府に必要だ。」88-89頁
「統治者と主権者とが、全く同一人格でしかないので(後略)」95頁
「貴族政には、二つのはっきり違った精神的人格、つまり政府と主権者とがある。」98頁
「これまで、われわれは統治者を、法の力によって結合され、国家のなかで執行権を委任された精神的にして集合的な人格として考えてきた。しかし今、われわれは、この権力が、法律にしたがって権力を行使する権利をもったただ一人の自然人、実在の人間の手に統合された場合を考えねばならぬ。これが、君主あるいは王と呼ばれるところのものである」101頁

 ここで言う「人格」とは法学的には「法人格」ということになるが、この時点でルソーが現代法学的な意味での人格を考えていたかどうか定かではない。とはいえ、国家に人格を認め、さらに政府にもそれと異なる人格を認めるという論理構成は、あらゆる団体に擬制的に人格を付与しようという発想と紙一重だ。そしてそうなると、自然人と社会人を鋭く峻別したルソー理論にあっては、「人=自然人」と「人格=社会人」の峻別まであと一歩である。

「社会的権利を侵害する悪人は、すべて、その犯罪のゆえに、祖国への反逆者、裏切者となるのだ。彼は、法を犯すことによって、祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。だから、国家の保存と彼の保存とは、両立し得ないものとなる。二つのうちの一つが、ほろびなければならない。そして、罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告なのだ。ところが、彼は、少なくともそこに住んでいるということによって、自分をその国家の一員と認めていたのだから、彼は、契約を破った者として、追放によって切りはなされるか、あるいは公衆の敵として、死によって切りはなされるか、されなければならない。なぜなら、そういう敵は、道徳的人格ではなく、[たんなる]人間なのであって、そういう場合には、戦争の権利は、負けた者を殺すこととなるからだ。」55頁
「われわれは、行政官の人格のなかに、本質的に異なった三つの意志を区別することができる。第一は個人の固有意志であり、それは自己の特殊な利益のみを求める。第二は、行政官の共同意志であって、もっぱら、統治者の利益にのみかかわりをもつ。それは団体意志とも呼ぶことができるもので、政府にたいしては一般的であるが、政府をその部分とする国家にたいしては、特殊的である。第三は、人民の意志、または主権者の意志であり、それは全体として考えられた国家にたいしても、全体の部分として考えられた政府にたいしても、同様に一般的である。」90-91頁

 ここでは、ルソーが「道徳的人格」と「たんなる人間」を区別していることを確認しておきたい。自然状態における人と、社会状態における人格は、論理的に異なる存在だ。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約
 本書の論理的なかなめは服従契約と社会契約の違いにあるので、該当箇所をサンプリングしておく。

「多くの人々は、この設立行為は、人民と、人民が自らにあたえた首長たちとの間の一つの契約であるとあえて主張した。すなわち、一方は支配する義務をもち、他方服従する義務をもつという条件を、両当事者の間に定める契約だという。」137頁
「国家には、ただ一つの契約しかない。それは結合の契約だ。これがただ一つあるというだけで他のすべては排除される。前者[社会契約]を破壊しないような、他のいかなる公共の契約をも、考えられないであろう。」128頁
「政府をつくる行為は、決して契約ではなく、一つの法であること。執行権をまかされた人々は、決して人民の主人ではなく、その公僕であること。」140頁

 ホッブズについては、自然状態に対する理解の相違の他、キリスト教(特にカトリック教会)に対する態度に関しても批判をしている。

「すべてのキリスト教徒の著者のうちで、哲学者のホッブズのみが、この悪とその療法とを十分に認識した唯一の人であって、彼はワシの双頭を再び一つにすること、またすべてを政治的統一へつれ戻すことをあえてとなえたのであった。この統一がないかぎり、国家も政府も決して良く組織されることはないであろう。」183頁

 ただしホッブズが『リヴァイアサン』の大部分をカトリック批判と俗世的権力の優位の弁償に費やしたのに対し、ルソーは最後の最後でちょいと付け足しをしているだけだ。この態度の違いが何に由来するかは、少々気になるところではある。

【個人的な研究のための備忘録】自由と平等
 自由について、近代のアポリアの焦点を突くような発言がまとまって見られる。

自由であるように強制される」35頁
「政治体の本質は、服従と自由の合致にあり、「臣民」と「主権者」という言葉は、盾の両面であって、この言葉の意味は、「市民」という一語の下に結合している」129頁

 これが近代の特徴を端的に言い表すアポリアであり、近代教育の根源を規定しているテーゼである。これを表面的に解こうと思ったら、まずは自然状態における「自然的自由」と社会状態における「市民的自由」の区別(36頁)が不可欠だ。実質的に強制されるのは、「自然的自由」を奪われる代わりに「市民的自由」を与えられることだ。そしてルソーはさらにこれに「道徳的自由」(37頁)の獲得も付け加えたうえで、こう言う。

「たんなる欲望の衝動[に従うこと]はドレイ状態であり、自ら課した法律に従うことは自由の境界である」37頁

 まさにこれが近代的な自由と自律であり、カントの言う立法能力であり、近代教育が「人間を人間とする」とか「人格の完成」というときに目指す境地である。自然的自由を享受する子どもから、市民的自由を享受する大人へと成長を促すことが、近代教育の使命なのだ。教育の役割は「自由(自然的に)なものを自由(市民的に)にする」ことだ。またそれは同時に「平等(自然的に)なものを平等(法的あるいは道徳的に)にする」ことでもある(41頁)。ルソーは立法の最大の目的は自由と平等だと明言している(77頁)。人は生まれながらに自由であり平等であるが、それは自然に与えられたものではなく、約束(根源的な社会契約)によって保障されたものだ。だから教育の出番がある。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 ちなみに教育について真正面から語る本ではない(その課題は『エミール』で果たされる)が、父権に絡む記述はサンプリングしておく。

「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。ところが、子供たちが父親に結びつけられているのは、自分たちを保存するのに父を必要とする間だけである。この必要がなくなるやいなや、この自然の結びつきは解ける。子供たちは父親に服従する義務をまぬがれ、父親は子供たちの世話をする義務をまぬがれて、両者ひとしく、ふたたび独立するようになる。もし、彼らが相変わらず結合しているとしても、それはもはや自然ではなく、意志にもとづいてである。だから、家族そのものも約束によってのみ維持されている。」16頁
「人間は、理性の年齢に達するやいなや、彼のみが自己保存に適当ないろいろな手段の判定者となるから、そのことによって自分自身の主人となる。」16頁
「子供たちは、人間として、また自由なものとして、生まれる。彼らの自由は、彼らのものであって、彼ら以外の何びともそれを勝手に処分する権利はもたない。彼らが理性の年齢に達するまで、父親は彼らに代って、彼らの生存と幸福とのために、いろんな条件をきめることはできる。しかし、とりかえしのつかぬ仕方で、無条件で彼らを他人にあたえてしまうことはできない。」22頁

 ロックは親子間で成立する愛情についてそうとう詳細に記述を凝らしているが、ルソーは極めてアッサリ風味である。それはロックのほうにフィルマーの父権論を論駁する必要があったという事情を加味するとしても、やはり態度の違いは明白なように思える。『エミール』においても父親の出番は限りなく少ない。

 ちなみにフランス語原文ではéducationという言葉が2箇所にだけ現れるが、いずれも君主が支配者にふさわしいものとして育成されることに何の意義も認めないという否定的な文脈で使用されている。

【個人的な研究のための備忘録】人物評
 マキアベッリに対しては好意的な記述が残っている。ルソーはマキアベッリを君主主義派ではなく逆説を余儀なくされた共和派と理解している。

「マキャベルリの『君主論』は共和派の宝典である。」103頁
「マキャベルリは、誠実な人、よき市民であった。」103頁

 一方、キケローに対しては厳しい。まあ私としても「ですよね」という感じではあるが。

「彼自身は、ローマ人でありながら、自分の祖国よりも自分の名声を愛していたから、国家を救うためのもっとも合法的でもっとも確実な方法をさがすよりは、むしろ、この事件に関するすべての名誉を自分がにぎる方法を求めた。」174頁

ルソー/桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』岩波文庫、1954年

【要約と感想】ルソー『人間不平等起原論』

【要約】自然状態においてすべての人間は平等でしたが、人間は固有の完成能力によって自己を改善した挙句、ついに私有財産を思いついて社会状態に移行します。しかし社会状態においては金がすべての頽廃した世の中となって貧富の差が拡大し、不平等が正当化されます。しかしもう後戻りはできないので、文芸によって徳を保つ努力をするしかありません。

【感想】自然主義の元祖のような本だ。まあ文明社会に嫌気がさして自然に還るという発想は東洋では老子・荘子から見られるし、西洋でも隠遁的修行者や修道会主義など反文明主義的に振る舞う個人・団体は古代から近代まで枚挙にいとまがない。おそらくそういう自然主義的心性の系譜に連なりながらも本書をその元祖的なものに感じさせる理由は、人類学や生物学の洞察を基にした科学的な自然状態の描写(もちろん現在の知見からは素朴すぎるが)と、ホッブズを批判的に継承した法的・政治的な社会状態の描写(もちろん後の社会契約論に比べれば素朴だが)という独創性にあるのだろう。個々のパーツには既視感があるし、全体的なメンタリティについても類似のテキストはいくらでもあるのだが、勃興しつつある資本主義社会の矛盾を(成功しているかどうかはともかく)本質的に抉ろうとする論理構成がユニークだ。ところどころ隙だらけの記述(18世紀当時からツッコミ満載)だが、それを補って余りあるオリジナリティと描写力で、名著に数え入れて間違いない。まあ、反ワクやEM菌の人が読むと大喜びしそうな本ではある。同時収録のヴォルテールの手紙は科学至上主義の人が反ワクの人を揶揄するかのような論調でルソーを批判しているわけだが、人間は300年前からあまり変わっていないようだ。

【要検討事項】本書に展開された人間論については、「尊厳」という概念と関わって、精査を要する。本書の人間論がルネサンス期までの論調と決定的に異なるのは、大航海時代のインパクトが露骨に反映している点だ。南北アメリカ大陸の人類学的知識や、アフリカの類人猿に関する生物学的知見が、議論のそこかしこで極めて重要な役割を果たしている。その新たな科学的知見は、古代以来の宇宙論的ヒエラルキーであった「神/人間/動物」の「地位」を揺るがす。たとえばルソーの論敵であるフィロポリスは、「人間は世界のなかに占めるべき地位の要求するとおりのものなのです」(201頁)と言っているが、これは素直に古代以来のヒエラルキーを踏まえた伝統的な物言いだ。フィロポリスは続けて、人間は「神」とも「オラン・ウータン」とも異なるように造られたと強く主張する。ルソーが古代以来のヒエラルキーに反して人間と動物の境界線を破壊したことを批判しているのだ。ルソーは自然状態における「未開人」について人類学や霊長類学の知見を踏まえて述べたが、それは従来の「人間/動物」の「地位」の区別をないがしろにする姿勢と受け取られた。ちなみにフィロポリスの言う「地位」が原語でdignityだとすれば、それは現代では「尊厳」という意味を持つ。ルソーの主張はフィロポリスからは伝統的な人間の「地位=dignity」を変更しようとする試みと受け取られたが、だとするとそれは同時に人間の「尊厳=dignity」に新たなステージを切り開く試みということでもある。ちなみに「神/人間」の境界線については、既に14世紀エックハルトやクザーヌスなどの神秘主義が「神」の側から切り崩し、15世紀以降はピコやエラスムスが「人間」の側から切り崩し始めている。こういう動きの中から人間の「地位=dignity」が変更され、「尊厳=dignity」の再定義が進行したのではないか。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 ホッブズと比較したときに、ルソーはほとんど「人格」という言葉を使わない。というか、ロックやスピノザと比較しても、ホッブズだけが突出して「人格」という言葉を頻発する。それ自体が大きな論点になるわけだが、ルソーにも用例がないわけではない。以下にサンプリングしておく。

「私は、国家の機関の運動がすべて共通の幸福以外にはけっして向かわないようにするために、主権者と人民とがただひとつの同じ利害しかもちえないような国に生れたいと思ったでしょう。だが、そういうことは、人民と主権者とが同一の人格ででもなければ生じえないことですから(後略)」10頁

 この用例の「人格」は、責任がとれる法的主体というような意味合いを持つ。「人民」は複数の人間から構成され、「主権者」も君主制以外では複数の人間から成る以上、ここでいう「人格」がある特定個人の身体をイメージさせることはあり得ない。だから現代日本における「人格」の用例(ある特定個人を想起させる)からはそうとう外れていて、法的な意味での「人格」を意識しない人にとっては意味がとりにくい記述になっているだろう。

「(前略)法律が為政者に人格についての判定を禁じて行為の判決だけをまかせているということは、まことに賢明なやり方である。」188頁

 この用例の「人格」とは、ある特定個人の「道徳的な善悪」という意味合いを持つ。こちらは現代日本の「人格」という言葉の用例と極めて近い響きを持ち、違和感なく理解されるだろう。

【個人的な研究のための備忘録】改善能力
 本書を理解するうえで重要なキーワードの一つにperfectibilitéがあり、本書は「改善能力」と訳している。解説では「ルソーは、人間と動物を区別する重要な特徴、つまり人間が社会を、歴史をつくりだす能力の潜在を指摘する。それをルソーは「改善能力」perfectibilitéと名づける。」(273頁)と言っている。

「人間と動物とのこの差異について(中略)両者を区別して、なんらの異議もありえない、きわめて特殊な特質が存在する。それは自己を改善[完成]する能力である。すなわち、周囲の事情に助けられて、すべての他の能力をつぎつぎに発展させ、われわれのあいだでは種にもまた個体にも存在するあの能力である。」53頁

 この概念が教育学的に問題になるのは、たとえば教育基本法第一条で言う「人格の完成を目指し」の「完成」という概念に深く関わってくるからだ。また「完全性」という概念は古代プラトンやアリストテレスから中世スコラ学、あるいはニーチェに至るまで「個性」という概念と密接な関連を持つ。そういう概念史を踏まえると、この段階(近代の入り口)でルソーがperfectibilitéという言葉を造語したことは、なかなか奥が深い意味を持つように思えるわけだ。
 ただ、スピノザやライプニッツの言う完全性という概念はアリストテレスの「個」に関する議論を引き継いで目的因とかエンテレケイアという概念と響きあうのに対し、ルソーの言うperfectibilitéには目的因とかイデアという観念の色は薄い、というか、ない。だからなのか、本書の訳でも「完全」とか「完成」というニュアンスの日本語ではなく、「改善」というプロセスを前面に打ち出す言葉を選択している。教育学的に「教育可能性」とか「発達可能性」という言葉で言い表そうとしてきた概念に近い印象を受ける。ルソーが他の思想家と異なる特徴を持っているとして、その根本的な要因は実はこのあたりにあるのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 本書は教育を中心に語ったものではないが、教育に言及しているところはサンプリングしておく。

教育は教養のある精神とそうでない精神との間の差をつけるだけでなく、前者の間にも教養に比例して見出される差をひろげる。(中略)自然の不平等が人類においては制度の不平等によっていかに増大せざるをえないかが理解されるであろう。」81頁

 教育という営みが自然状態に属するものではなく、堕落した社会状態に伴って出現し、不平等を拡大する制度的原因になると批判しているところだ。ルソーの主張するメカニズムが正しかったかどうかはともかく、現代日本において教育が不平等を拡大し、固定し、正当化するものになっていることは間違いない。

 また別のニュアンスで「教育」という言葉を使用している。

「いま、スパルタを唯一の例外として、というのはそこでは、法律が主として児童の教育を監督し、リュクルゴスが法律をつけ加える必要がほとんどないような醇風美俗を確立したからだが(後略)」121頁

 この「教育」は、先ほどの不平等を拡大する制度としての教育ではなく、道徳的な人格を形成する機能という意味合いで使用されている。スパルタでは大人たちが意図的に関与するという教育で子どもの人格が形成されたのではなく、質実で純朴な「法律」の精神そのものが子どもの人格形成に決定的な役割を果たしたという主張である。おそらくこの見解は、『エミール』においても「もはや現代では不可能な理想的教育」というニュアンスで言及されている。法が教育にとって決定的な役割を果たすという見解はルソーにオリジナルなものではなく、プラトン『法律』やキケローに見られる西洋思想に伝統的な考え方ではあるが、現代資本主義社会では完全に失われた感覚だ。現代では、法律は単なるルールに過ぎず、道徳や教育とは無関係なシステムと理解されている。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
 本書は社会契約論について真正面から考察したものではないが、「自然状態」と「社会状態」を原理的に区別して、その移行メカニズムに言及する以上、必然的に社会が成立する条件について考察せざるを得ない。まずルソーはホッブズを批判する。

「ホッブズは自然法の近代のすべての定義の欠陥を非常によく見てとった。しかし彼が自分の定義から引きだした結果は、彼がやはり間違った意味にそれを解していることを示している。(中略)ところが彼は、未開人の自己保存のための配慮のなかに、社会の産物であり、法律を作る必要を生みだした多くの感情を満足させたいという欲求を、故なくして入れた結果、まさに反対のことを言っている。悪人とは頑丈な子供なのだ、と彼は言う。」70頁

 ホッブズは「自然状態」をそのまま「戦争状態」と描写したが、ルソーはその認識を批判して「自然状態」こそが理想的な平和を実現していたと主張する。だから「社会状態」についての見解も必然的に異なり、ホッブズは社会状態を必要悪としたが、一方のルソーは端的な堕落状態(つまり悪)と理解した。
 そしてルソーの「社会状態」や「契約」の理解について、本書と後の「社会契約論」でどういう関係にあるのかが研究的には大きな論点となる。

「あらゆる政府の基本的な契約の性質についてまだますべき探求には、いま、深入りしないで、私はただ、世の通念にしたがって、ここでは、政治体の設立を、人民と彼らが選んだ首長との間の一つの真の契約だとみなすだけに止めておこう。それは、その両当事者が、そこに規定され、双方の結合のきずなを形づくる法律を守ることを相互に義務づける契約である。人民は、社会的な関係という点では、そのすべての意志をただひとつの意志に結合したので、この意志が説明されているすべての条文は、それぞれ基本的な法律となり、それらは社会の全成員を例外なく義務づけている。そして、その中の一つは、残りの法律の執行を監視する任務をもった為政者の選択とその権力を規定している。この権力は政治構造を維持しうるすべてのものに及ぶが、それを変更するまでには至らない。(後略)」117頁

 解説ではこの文章に触れて「ルソーはここではまだ『社会契約論』の思想に達していない。服従契約の考え方を出ていない。」(240頁)と言っているが、個人的には疑問なしとしない。確かにルソーは「服従契約」に即した記述をしているが、それはただ「深入りしない」で「世の通念にしたがって」「みなす」というふうに、何重にも留保をつけている。そして続く文章で「その中[基本的な法律]の一つは、残りの法律の執行を監視する任務をもった為政者の選択とその権力を規定している」としているので、実はこの時点で『社会契約論』と同じ水準の理解に達していて、本当に単に「深入りしない」だけだったに過ぎない可能性があるように思う。
 また社会契約論に関しては、以下の解説の記述も気になる。

解説「プラトンには、その理想主義的な発想において多くの親和性をもっているし、少くとも自然状態が仮説にとどまらず理念的な性格をもおびるのはそこに由来するであろう。尤も、自然状態の一時期に定位される原始的な農村共同体ふうのユートピアについては、プラトンばかりでなく、ルクレティウス(『物の本質について』)のよりつよい影響を認める研究家もある。」267-268頁

 ルクレーティウスはルネサンス以降再評価されていて、ホッブズやガッサンディなど社会契約論者も読んでいることが分かっている。ルソーへの影響がどれほどのものだったか、気になるところだ。

ルソー/本田喜代治・平岡昇訳『人間不平等起原論』岩波文庫、1972年<1933年

【要約と感想】ジョン・ロック『完訳 統治二論』

【要約】(前半)王権神授説はあらゆる点から見て、デタラメです。
(後半)あらゆる人間は自然法に従って自由に生きるという点で平等です。知性がない子どもは法を認識できず、従って自由もないので、両親が導き教育をしなければいけませんが、成人に至れば親と同じく自由です。各人の自由な労働から所有権が発生します。生命や自由や所有権を侵害された場合に各人には自分の権利を回復する権利が当然あるだけでなく、自然権に基づいて他者を罰する権利も持っています。しかし自然状態では確実に固有権(生命・自由・財産)を保障できるとは限らないので、人々は合意して社会状態に入り、一つの政府を作ります。政府の役目は、人々が自然状態で保有していた固有権を社会状態において確実に保障するために、ルールを作り、ルールに基づいて裁き、罰を実行することです。逆に言えば、固有権を保障できない政府は人民の合意によって変更されても文句は言えません。

【感想】本文中でもホッブズを批判しているが、個人的にはホッブズとロックの最大の違いは、ホッブズが「情念」に対する分析を丁寧に行った上でそれに基づいて自然状態を想定したのに対し、ロックが「情念」に対して一切の関心を払っていないところのように感じた。ロックが想定する自然状態下の人間はまさに「タブラ・ラサ(白紙説=生得観念の否定)」で、一切の情念を持っていないように見える。加えて、ロックの「タブラ・ラサ」と「情念」に対するスタンスは首尾一貫しておらず、ところどころに生得観念を前提して話を進めたり、自然状態から社会状態への移行に際しては「恐怖」や「不安」という情念を仄めかしながら「安全への志向」を持ち出したりする。論理の一貫性という観点から言えば、ホッブズの方が徹底しているように思える。また、自由と必然に関する哲学的考察についても、結論はともかくとして、ホッブズは原理的に検討したうえで議論を展開しているのに対し、ロックの方は無頓着に「自由」という概念に依っているように見える。だからホッブズの方は人間に必然的に生じて自分ではコントロールできない「恨みつらみ、嫉妬、軽蔑」という情念による闘争発生を必然と見たのに対し、ロックの方は情念を原因とする闘争発生を一切考慮しない。
 先行研究ではホッブズとロックの違いを「生産力」に見ているようだが、個人的には極めて大きな違和感を持つ。「生産力」よりも「情念」や「自由と必然」に対する考え方のほうが決定的な違いのように見える。昭和の先行研究が「生産力」にやたらと注目するのは、もちろんロックを中産階級代表とみなしたい資本主義発達史的な関心によるのだろう。研究関心が偏ること自体は特に問題ないのだが、テキストの読み方も偏ることは自覚しておいた方がいい。
 一方、ホッブズにはなくロックの方で手厚いのは、親子間の権力関係に対する洞察だ。ホッブズの方は子に対する生殺与奪権を親に無造作に与えている。しかしロックの場合は、論敵フィルマー理論の核心にある「アダムという父が持つ無限定の父権」を否定するためにも、父と子の間の権力関係を丁寧に解きほぐさなければならず、父権の内実を徹底的に限定していくことになる。この議論は、ホッブズにはいっさい見られない、ロックの決定的な特徴のように思える。そして、ロックが描く自然状態から社会状態への移行の記述が極めてアッサリ風味(しかも契約の単位は個人ではなく家族ではないか)なのに対し、父権を限定しようとする議論を綿密に展開しているのを見ると、先行研究が言うような王権神授説に対する社会契約説(人々の合意による政府の形成)の主張よりも、「アダム由来の父権」説に対抗する自然的家族観の提出の方が本質的に重要な話にも見えてくる。さらに「タブラ・ラサ」の原則が崩れる記述も、親に自然に与えられた子どもへの愛情、そしてそれに裏打ちされた、自由な市民相互の関係には解消されない子どもの自然な義務、という文脈で登場してくる。親や子どもに「自然」に与えられた愛情や尊敬の感情という議論は、本書の訳者が前面に打ち出す「神の作品」という観点から生じてくるもののようにも思う。ということで、本書は政治学(自由で平等な市民相互、あるいは市民と政府の間の権力関係)としてだけではなく、教育学的(親と子の間の権力と義務、およびその原則を超える自然の愛情)に読まれて初めて十全な意味を持つ、と主張したい。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約論
 とはいえ、もちろんまずは政治学的な議論は丁寧に押さえておかなければならない。押さえるべき要所はホッブズ理論との違いであり、「自然状態」「戦争状態」「社会状態」の定義と相互の関係に対する理解がポイントとなる。

「われわれは、自然状態と戦争状態との間の明白な相違を知ることができる。ある人々は両者を混同したが、それらは、平和と善意と相互扶助と保全との状態が、敵意と悪意と暴力と相互破壊との状態とは著しくかけ離れているのと同じ程度に、まったく異なったものなのである。」315頁

 ホッブズは「自然状態」と「戦争状態」を重ねて同じものと見なしたが、ロックは「自然状態」であっても「戦争状態」になるとは限らないと考える。後のルソーも、ロックの理屈とはかなり異なる議論を展開するが、「自然状態」を「戦争状態」と理解しない点においてはロックに通じる。それを前提に、ロックは「社会状態」を描く。

人間は、生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、あるいは世界における数多くの人間と平等に、完全な自由への、また、自然法が定めるすべての権利と特権とを制約なしに享受することへの権原をもつ。それゆえ、人間には、自分の固有権、つまり、生命、自由、資産を他人の侵害や攻撃から守るためだけではなく、更に、他人が自然法を犯したときには、これを裁き、その犯罪に相当すると自らが信じるままに罰を加え、自分には犯行の凶悪さからいってそれが必要だと思われる罪に対しては死刑にさえ処するためにも、生来的に権力を与えられているのである。しかし、政治社会は、それ自体のうちに、固有権を保全し、そのためにその社会のすべての人々の犯罪を処罰する権力をもたない限り、およそ存在することも存続することもできないから、政治社会が存在するのは、ただ、その成員のすべてが、自然法を自ら執行するその自然の権力を放棄して、保護のために政治社会が擁立した法に訴えることを拒まれない限り、それを共同体の手に委ねる場合だけなのである。こうして、個々の成員の私的な裁きがすべて排除され、すべての当事者にとって公平で同一である一定の恒常的な規則によって、共同体が審判者となるのである。」392-393頁

 つまり社会状態において各個人から政府に委託されているのは「立法権」(ルールを決める)と「司法権」(ルールに従って裁く)であって、生命権はともかく所有権や財産権も手つかずで各人の元に残っている。さらに親と子の間の関係も手つかずで残り、政府のルールではなく自然法に従うことになる。(ただし自然法に従わない他者を裁く権利が本来的に各人にあるので、親と子の関係が自然法から逸脱している家庭に対しては政府が関与する余地が生じる)。この結論はもちろん主権者に絶対的な力を与えたホッブズとはまるで違ったものになっている。そして所有権や財産権が手つかずで残ったことが後に資本主義発達史的に深刻な問題になったのと同じく、親子関係が共同体から切り離されて「自然(の愛情)」と見なされたことが教育の場面で深刻な問題になっていく。
 しかし当座の問題は、どうして「自然状態」から「社会状態」に移行するのか、その理屈とメカニズムである。

「自然状態においては人は確かにそうした権利をもっているが、しかし、その権利の享受はきわめて不確実であり、たえず他者による権利侵害にさらされているからだということに他ならない。というのは、万人が彼と同じように王であり、彼と同等者であって、しかも、大部分の者が、公正と正義との厳格な遵守者ではないので、彼が自然状態においてもっている固有権の享受はきわめて不安定であり不確実であるからである。これが、彼をして、どんなに自由であっても、恐怖と絶えざる危険とに満ちた状態をすすんで放棄させるのである。」441頁
「従って、人が、政治的共同体へと結合し、自らを統治の下に置く大きな、そして主たる目的は、固有権の保全ということにある。自然状態においては、そのための多くのものが欠けているのである。」442頁

 そして「ルール」と「審判」と「強制執行者」がいないのが根本的な問題だ、と話が続くわけだが、「情念(つまり人間に課せられた生物学的な必然)」から話を起こすホッブズに対して、ロックはあくまでも「権利(つまり人間に許された自由)」から話を進めようとする。だから、自然状態から社会状態へ移る際に「不安」とか「恐怖」などの情念を持ち出してくる展開には、唐突感が否めない。ここを「権利」の理屈で推し進められると首尾一貫した強力な理論になるわけだが、それはルソーが後に『社会契約論』で達成することになるだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 ホッブズは「人格」という言葉を連発したが、ロックは散発するにとどまる。

「人の身体への権威が土地に対する所有権に由来するということを証明するのではなく、ただ契約によってのみそれが与えられるということを証明する」92頁

 解説によれば上記引用部の「身体」の原語はpersonsだ。前後の文脈から「人格」と訳さなかったのだろう。実際、personをどう訳すかは、かなり難しい。

「(前略)主権への権原も、為政者が臣民に対してもつような政治的権威を所有しない人格への義務なのである。私人としての父親の人格と、至高の為政者に対して行われるべき服従への権原とは一致しないものであるからである。それゆえ、われわれの自然の父親の人格を必然的に含む「汝の父を母とを敬え」というその命令は、統治者への服従とは区別されて、われわれが父親に対して負う義務を意味するものとならざるをえない。」130頁

 上記引用文で使用される「人格」という言葉は、日本語の文章の中に置かれるとかなりの違和感を醸し出す。現代日本語における「人格」という言葉は人柄とか性格のような意味を含みこむが、上記引用文の「人格」にはそういう意味合いが一切ない。ここでの「人格」は、ホッブズが『リヴァイアサン』で使用していたのと同じく、「何らかの裏付けがある権力や権威に基づいて行動を起こす主体」という意味を持つ。以下もまた同じである。

「(前略)人々が服従すべき君主の人格を定め、その王座を樹立するこの父たる地位は、(後略)」140頁
「(前略)われわれにも、彼が、どのようにして、また、まずまずの分別をもって、すべての王の権威を、一人の人格の中では必ずしも合致しない別々の権原であるアダムの自然の支配権と私的な支配権と、つまり父たる地位と所有権との双方から引き出すことができるかわからないであろう。」153頁
「すべての権力は神の定めにより相続を通してアダムから伝えられたものであり、農園主は、自分の家で生まれたか自分の金銭で買ったかした家僕に対して権力をもつのだから、彼の人格権力も神の命じたものであることが証明されるなどとすることは、まったくもって賞賛に値する議論だと言う他ないであろう。」230-231頁
「しかし、われわれの著者は、『パトリアーカ』の十九頁において、「神は、ある特定の人を王たるべき者に選ぶときはいつでも、その認可では父親しか名指してはいないにせよ、彼の子孫も、父親の人格のなかに十分に含まれるものとして、その認可の利益に浴するように意図しているのである」と語っている。」273頁
「なぜなら、イスラエルの民がエジプト虜囚から脱してダビデの下に戻った四〇〇年の間、イスラエルを支配した士師たちの間で、父の死後、息子の誰かがその統治を引き継ぐほどには、子孫は「父親の人格のうちに十分に包含されている」『パトリアーカ』一九頁ということは決してなかったからである。」276頁
「われわれの著者は、『パトリアーカ』一九頁で「神の認可においては父親しか名指しされていないにせよ、子孫も父親の人格のなかに十分に含まれている」と述べている。」279頁
「彼が権力を要求しうるのは、法の権力を付与された公的人格としてだけであって、従って、彼は、法のうちに表明された社会の意志によって動かされる政治的共同体の表象化身あるいは代表と考えられなければならない。」476頁

 論敵フィルマーの引用文を含めて「人格」という言葉が使用される場面では、必ず「権力」や「権威」や「地位」が問題とされ、それを「表象」「化身」「代表」する何らかの具体的な身体がイメージされている。だから一人の身体がイメージできる場合には日本語の「人格」という言葉で違和感はないが、一人の身体の境界を越えて「権力」や「権威」や「地位」が拡大して使用される際に「人格」という言葉が使われると、現代日本人の感覚からは違和感を覚えることになる。個人的にはだから「人格」という訳語は不完全で不適切であり、他に良い言い回しがあるはずだと、前々から思っている。

【個人的な研究のための備忘録】人間の尊厳
 「人格」という概念に深く関わってくるのが、「人間の尊厳」という概念だ。しかしこの「人間の尊厳」という概念を問題にしたいのは、「尊厳」の原語がdignityだとして、それが実質的には神と獣の中間にある人間の「地位」を表現しているに過ぎないと思えるからだ。

フッカー『教会政治の法』からの引用「われわれは、自分だけでは、われわれの本性が要求する生活、すなわち人間の尊厳にふさわしい生活に必要なものを十分に備えることはできず、従って、自分ひとりで孤立して生活しているときにわれわれのうちに生じる欠乏や不完全さを補うことはできないから、われわれは本性上、他者との交わりと共同関係とを求めるように導かれるのである。」308-309頁

 上記引用文はロックのオリジナルではなくフッカーからの引用である。ここで訳者が「人間の尊厳」と訳している言葉は、おそらく「人間の地位」と言っても通用するような、ルネサンス以来の伝統的な用法に従っているように見える。これがいつからルネサンス的な「地位」という意味合いでは不十分で、近代的な「尊厳」というニュアンスを帯びるようになるのか、実は見極めが難しい。個人的には、フッカーやロックの段階では「尊厳」という意味合いは極めて薄く、単に「地位」と考えたほうがよいのではないかと感じている。一人一人のかけがえのない「尊厳」となるのは、古代以来の「獣/人間/神」というヒエラルキーが無効になってから後のことで、具体的にはルソーとカント以降になるのではないか、という直感がある。

【個人的な研究のための備忘録】子どもの権利
 で、教育学を専門とする私の価値観から言えば、本書の見どころは、市民同士あるいは市民と政府の権利関係を明らかにした政治学だけではなく、親(特に父)と子の権利義務関係を詳細に記述したところにあると思う。

「自分の子供に対する権力の証として、子供を遺棄したり売り払ったりする人類の慣行を言い立てる人は、サー・ロバート同様、巧妙な論者ではあるが、彼らは、自分の意見を、人間本性がなしうるもっとも恥ずべき行為、もっとも不自然な殺人の上に基礎づけることによってそれを世人に推奨していると言わざるをえない。ライオンの洞穴、狼の巣穴ににも、そのように残忍な行為は見られない。これら荒野に住む野獣たちも、子供たちに優しく、また注意を払う点では、神と自然とに従っているのである。」114-115頁
子供というものは、自然の定めによって弱く生まれつき、自分を自分で扶養することはできないから、その自然の成り行きを定めた神自身の命により、両親によって養育され扶養される権利を、それも、単なる生存への権利だけではなく、両親の条件が許す範囲で最大限の生活の便宜と安寧とを与えられる権利をもつ。」170頁
「もし、神と自然とが子どもたちに与え、両親に対しては義務として課した権利、すなわち両親によって扶養され維持される権利がなかったならば、父親が息子の財産を自分の孫に優先して相続することも理に適うことになろう。」171頁
「彼[アダム]以来、世界には彼の子孫が住むようになったが、彼らは、すべて、知識も知性もなく、弱く無力な幼児として生れ落ちる。しかし、この不完全な状態の欠陥を補うために、成長と年齢とによる進歩がその欠陥を取り除くまでは、アダムとイブ、それ以降はすべての両親が、自然法によって、自分たちが儲けた子供たちを保全し、養育し、教育する義務を課せられることになった。ただし、その場合にも、子供たちは、両親の作品ではなく、両親を創造した全能の神の作品であり、両親は、子供たちのことについて、この全能の神に責任を負わなければならないのである。」357-358頁
「従って、子供たちに対して両親がもっている権力は、自分たちの儲けたものたちが幼少で不完全な状態にある間はその面倒を見なければならないという彼らに課せられた義務から生じる子供たちがまだ無知で未成年のときに、彼らの精神を陶冶し、彼らの行動を律してやるということは、理性が親にとって代わり、親のその種の苦労を軽減してくれるまでは、子供たちの欲するところであり、また、両親の義務である。」359頁
「人間が、自らの意思を導くべき知性をもたない状態にある間は、彼は従うべき自らの意志を何一つもつことはない。その場合には、彼に代わって知性を働かせてくれる者が、彼の代わりに意志せざるをえず、また、彼の意志に支持を与え、彼の行動を規制しなければならない。しかし、彼が、自分の父親を自由人にした状態に達すれば、息子としての彼もまた自由人になるのである。」360頁
「それ以後は、父親と息子とは、ちょうど家庭教師と成人後の生徒との場合がそうであるように、ひとしく自由となり、ともに同じ法の臣民となるのである。そこでは、彼らが、自然状態の下で自然法の支配下にあろうと、あるいは、確立された統治の実定法の支配下にあろうと、父親に、息子の生命、自由、資産に対するいかなる統治権も残されてはいないことに変わりはない。」362頁
「このように、分別のつく年齢に達した人間の自由と、その年に達しない子供の両親への服従とは十分に両立し、十分に区別しうるのだから(後略)」363頁
は、自分たちが儲けた者に配慮することを両親の務めとし、また、子供たちがその下にあることを必要とする限り、子供たちの幸福のために神の叡智の計画に従って権力を用いさせるために、両親に彼らの権力を和らげるにふさわしい優しさと思いやりとの性向を与えたのである。」365-366頁
「いや、この権力は、何か特別な自然の権利によって父親に属するというよりは、子供たちの保護者である限りで父親に帰属するものであるから、彼が子供たちへの配慮をやめれば、彼は子供たちに対する権力を失うことになろう。その権力は、子供たちに対する養育や教育とともにあるものであり、それらと不可分に結びついているからである。」366頁
「未成年者の服従は父親の手に一時的な支配権を与えるが、それは、子供の未成年期が終わるとともに終わってしまう。」370頁

 以上、親と子どもの間の権力関係に関する文章を抜粋したが、全体を一瞥してまず気がつくのは、「神」とか「自然」という言葉が連発されている点だ。ロックは、一般的な市民の間にあるような契約に基づく権力関係を、親子関係には認めない。それはまず論敵フィルマーの王権神授説を否定する決定的な論点になるからだろう。しかしさらに重要なのは、これこそがロックにおける「自然法」の核心をなす論点だからではないかとも思える。ロックは「家族」というものを共同体から切り離して独立した組織と見なして議論を進めるが、論敵フィルマーにはそうした発想がそもそもあり得ないし、おそらくホッブズにもない。フィルマーやホッブズにとって、家族はそのまま政治的共同体へと連続・拡大していく組織だ。また一方、ロックは社会契約説の契約単位として「個人」ではなくどうやら「家族」を想定しているであろう記述も散見される。というのは、ロックの議論に従えば「家族」とは「神」に設計されて「自然」の愛情に満ちたものであり、政治体のように契約に基づいて人工的に作られたものではない。この家族に関わる議論を展開する過程で、「子どもの権利」と「親の義務」が剔抉されてくる。この発想と論理展開は、前近代までには見られない、ロックにオリジナルなものだと思う。

「このように、父親の権力、というよりもその義務の第一の部分をなす教育は、一定の時期に終わるものとして父親に属する。つまり、それは教育の仕事が終了すれば自ずから終わるものであり、また、それ以前に他人に譲り渡すこともできるものである。というのは、人は、自分の息子の教育を他人の手に委ねてもよいからである。」372頁

 上記引用文で、父親に与えられた「権力」が子どもに対する教育の「義務」に基づいて生じたと喝破しているのは、極めて重要だ。たとえばこの論理の系として、課せられた「義務」が終了すること(子育ての終了)があれば、自ずから与えられた「権利」も消失する。さらに、神と自然によって課せられた「義務」を果たさない者からは「権利」を剝奪することも可能となる。また課せられた義務の一部は「教育を他人に手に委ね」ることで社会的に共同化できるが、それは法的には「権利」を「他人に譲り渡す」ことと表現できる。要するに、近代的な「国民の教育権論」の原型がここに見られる。そして重要なのは、この子どもの権利と親の義務に基づく「教育権論」が承認されて「家族」が成り立つことで初めて社会契約説も可能になる、という論理構成をロックが展開しているということだ。つまり、政治学(市民同士の権力関係、および市民と政府の権力関係)に対して、教育学(親と子の間の権利義務関係)の方が論理的に先行するのだ。
 ただ気になるのはこれと矛盾する発言をロックがしていることだ。

「私は、父親は子供たちに対してもっている権力を譲渡することはできない、彼はある程度それを失うことはあるかもしれないがそれを譲渡することはできない、もし他の誰かがそれを獲得するとすれば、それは父親の認可によってではなく、獲得した人自身の行為によってである、と答えよう。」182頁

 ロックが言うように「権力を譲渡することはできない」とすれば、権力の一部をなしていた教育を他人と共有化することができなくなる。さて、この前半と後半の矛盾をどう理解するか。

【個人的な研究のための備忘録】社会有機大切
 ホッブズが社会有機体的な観点ばりばりの議論を展開したのに対し、ロックにはそういう素振りは極めて少ないのではあるが、しかし一部ぽろりと触れている記述がある。

「この立法部こそ、政治的共同体に形態と生命と統一とを与える魂であり、そのさまざまな成員が、相互に影響しあい、共感し、結びつきあうのも、この立法部によってなのである。」552-553頁

 勢いあまって出てしまった余計な言葉なのか、ロックの論理に有機的に結びついて必然的に出てきた言葉なのか、気になるところだ。

ジョン・ロック/加藤節訳『完訳 統治二論』岩波文庫、2010年

【要約と感想】上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』

【要約】スピノザは聖書(特に旧約聖書)には真実が書かれていないことを次々と実証していきますが、聖書の誤謬を明らかにしたかったのではなく、聖書の内容に真実を読み込もうとする態度自体に何の意味もなく、信憑の形式的な条件を明らかにすることを目指しているのです。聖書とは一般の人々が正義と愛徳の世界で隣人を愛しながら平和に生きていくために「意味」があるものであって、科学的な真実を明らかにするために必要なものではありません。だから聖書が語る「内容」が正しいかどうかを詮索することにまったく意味はなく、預言や信託を語る人が「敬虔」であることに信憑に対する決定的に重要な効果があり、隣人愛を実現するための宗教というものはそれで問題ないのです。同じように、現実の国家政治においても、発言の「内容」の正しさなんてものはどうでもよく(だって人々は多様なのだから)、「形式」として正義と愛徳が実現できていることが決定的に重要です。だからこそ思想と表現の「自由」が尊いのです。
 しかしこのスピノザの真意は当時の人々にはまったく通じず、もちろん教会関係者から弾劾されますが、加えてデカルト的合理主義に与する人々からも非難されました。

【感想】「形式」と「内容」を峻別することでスピノザ(およびその敵対者)の論理を明らかにするお手並みは、お見事だった。そして確か丸山真夫が「形式と内容の峻別こそが近代」と言っていたような記憶があるが、だとすればスピノザこそが近代だ。しかし「実は内容と形式は峻別できない」と分かったのが現代なのだった。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約説
 社会契約説についても興味深い論が展開されていて、勉強になった。「形式」と「内容」を峻別して人々の形式的な自由を確保したとしても、しかし実際には具体的な「内容」が問題となる場合があり、その時に必要となる手続きがいわゆる社会契約説ということになる。しかしスピノザは「社会契約説は理論に過ぎない」とか「自然権は放棄できない」と言っていて、これはつまり「形式」から峻別された「内容」を完全に制御することはできないという洞察を示している。人間が具体的な権力において合意できる(あるいは国家権力が強制力を行使できる)のは「形式」としての自由の確保までで、「内容」については不断の対話の努力によって更新していくしかない。これが本来のリベラルというものなのだろう。

上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』ちくま学芸文庫、2014年