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【要約と感想】冨永良喜・森田啓之編著『「いじめ」と「体罰」その現状と対応』

【要約】「いじめ」と「体罰」をテーマとした2つのシンポジウムの記録です。いじめも体罰も、どちらも人権侵害です。教育関係者が力を合わせてなくしていきましょう。
いじめを防ぐためには、心の健康教育が重要だと推奨しています。道徳の時間の具体的な指導のあり方については、学習指導要領の記述を巡ってパネリストの間で見解の相違が見られます。
体罰については、特に学校の部活動の中で、それを許容する風土があることに警鐘を鳴らします。スポーツ本来の姿に立ち帰ることを提唱しています。

【感想】いじめに関しては様々な立場からの見解が示されて、根底的なところで一致しているようには見えなかった。まあ、それ自体は問題ない。多様な立場と多面的なアプローチで解決していけばいいものだ。
個人的には、「心の健康教育」を国家的に推奨することには多少の疑問を持っている。いじめとは本来的に「人間関係」の問題だと思っているので、それを個人の内面的な心の問題に解消することは、場当たり的で表面的な解決法だと思っているからだ。完全に無駄と主張したいわけではないが、本質的なアプローチではないように思う。優先順位の問題だ。このあたりの考えは、私が心理系の人と仲良くなれない理由ではあるのだが。保健体育の時間に「心の健康」を扱うこと自体には一般的な意味があるとは思うものの、いじめ解決のための抜本的な対応と言われると、ちょっと違うのではないかと思ってしまうわけだ。

体罰に関しては、これは法律で禁じられている以上、問答無用で撲滅していかなくてはならない。しかも子どもの側の問題ではなく、大人の側がやめればいいだけの話なので、いじめとは次元が異なる問題ではある。
特に部活動については、教育現場を歪めているものなので、本質的に考えた方がいいのではないかと思う。

【言質】いじめが一方的な悪意に基づくのではなく、「正義」に依拠していることが言及されている。

「いじめっ子の中にも「こいつを何とかしてやろう」という「善意」があります。」28頁
「事件が起きた学校には全国から匿名での罵倒の電話が殺到します。そこにあるのは、いじめの責任追及をする全国の「正義の味方」による集合的な非難です。自分だけが電話しているつもりかもしれませんが、いじめを非難する行為が、結果的に、いじめに酷似しています。残念です。」28頁、戸田有一執筆箇所

「まず学校は、正しいことを教え、正しくないことをだめだよと教えるところです。そして個人の意思にかかわらず集団が形成されるところでもあります。この二つの要素が「正しくないものはだめだ」「嫌なものを排除して、いい社会にする」という感覚を生んでしまいがちだということを自覚しなければならないと思います。(中略)つまり正しいことを教え実行させる学校文化は、それ自体が子どもを追い詰める文化なんだということに気づいているかどうかが、大事だと思います。」67頁、中村和子執筆箇所

いじめについて考える場合、このあたりの視点は、常に意識しておいた方がいいような気がするのだった。

兵庫教育大学企画課社会連携事務室企画編集、冨永良喜・森田啓之編著『「いじめ」と「体罰」その現状と対応―道徳教育・心の健康教育・スポーツ指導のあり方への提言』金子書房、2014年

【要約と感想】坂田信弘『叱る力―本能を引き出す教育論』

【要約】ゴルフのスイング指導を通じて、礼儀を身につけさせました。結果を叱るのではなく、人間としてダメなことを叱りましょう。自分ではなく、子どもを信じましょう。

【感想】まあ、こういう指導をする人がいてもいいのかもしれない。それが子どもの個性に合っていれば、問題はないだろう。それが多様性というものだ。
だがしかし、この指導法を普遍化することはできない。一般に応用したら、たくさんの子どもが不幸になるだろう。
御本人が「どんな生き方をしようが、人は所詮、井の中の蛙だと思う。(中略)知ったかぶりは、己のアホをさらけ出すだけだ」(56頁)と言っているのだが、まさにブーメランとして、著者本人に突き刺さる言葉だ。教育についてほとんど何も知らず、何も勉強していないのに、自分の狭い経験だけを根拠にして学校や教員を批判するのは、まさに「己のアホをさらけ出すだけ」なのだ。ほんとに、勘弁してほしい。
著者は「結果、塾には泣くヤツだけが残っていった」(70頁)と言う。ゴルフ塾ならそれでいいのだろう。しかし学校というところは、著者が見棄てた子どもをも受け容れなければならないところなのだ。自分の教育方針についてくる子どもだけを受け入れるのでいいなら、誰だって成功するに決まっている。

しかしまあ、体罰したことを自慢げに語るのは、人として如何なものかと思う。

【ツッコミ】
「もともと日本は自己責任の国だった」(119頁)と言っているが、とうぜんウソである。そんなわけはない。

坂田信弘『叱る力―本能を引き出す教育論』双葉新書、2013年

【要約と感想】島沢優子『部活があぶない』

【要約】体罰では才能は伸びません。子どもの自主性が決定的に重要です。
部活で疲弊しているのは子どもだけではありません。先生も苛酷な労働を強いられています。
部活がブラック化する原因は、勝利至上主義にあります。保護者も顧問も学校も勝利至上主義の下、子どもの心と体を犠牲にしています。部活で得られる大切なものは、礼儀とか我慢などではなく、かけがえのない仲間です。

【感想】毀誉褒貶が激しい本になるんだろうなあと予測したら、案の定、amazonレビューとかとてもおもしろい。本書を酷評している人の日本語読解力が壊滅的に低く、内容をしっかり読めていないことなども含めて、とても興味深い現象に感じた。いやはや。

いま、「チーム学校」とか「働き方改革」の名前の下、部活動の位置づけも急速に変わりつつある。教師の負担が減るのは、いいことのようには思う。
とはいえ、代わりとなるはずの「部活動支援員」の扱いに問題を抱えたままであるのも、確かだ。地域のクラブチームも、部活動の代わりになるほど育っているわけでもない。これから具体的にどうすればいいのか、知恵を出し合いながら模索し続けていかなければならない、とても苦しい段階にあるように思う。社会全体の支えが必要なのだが、消費社会に毒されて公共性が削り取られた現代日本にそれが可能かどうか、さてはて。

体罰に関しては、教育原理に関わるものとしては、ロックやペスタロッチがある程度必要なものとして語っていることが気にかかる。日本固有の問題と決めつけるよりも、教育固有の普遍的な問題として考えるほうがいいのかもしれない。

島沢優子『部活があぶない』講談社現代新書、2017年

【要約と感想】ペスタロッチー『隠者の夕暮・シュタンツだより』

【要約】教育というものは、相手が身分の高い人だろうが賤しい人だろうが、同じものであるはずです。なぜなら、教育とは人間をつくる仕事だからです。すべての人間は、その本性の奥底に、共通する素質と力を持っているはずです。

【感想】特定の身分や職業に即した教育を否定し、人間すべてに通じる普遍的な教育を目指したという点では、たしかにルソー『エミール』を引き継ぐものと言える。ペスタロッチ自身も若いころに『エミール』を読み込んで、大いに影響を受けている。
ただし、決定的な点で、ペスタロッチーの言っていることはルソーの主張とは異なっているように読める。

決定的な相違の一つ目は、「神」の位置づけだ。ルソーは、自然科学の見識が深まれば、必然的に内部から神の思想に至ると考え、早期からの宗教教育を戒めた。いわゆる「理神論」である。
しかし一方ペスタロッチーの考えでは、神に対する畏敬の念こそがすべての教育活動の基礎とならなければならず、早期からの宗教的心情陶冶は必須となる。
つまり、ルソーは人間の普遍性の根拠としておそらく「理性」をイメージしているが、ペスタロッチーは「理性」というよりも「信仰」を共通イメージの基礎に置いているように見えるわけだ。

もう一つの決定的な相違は、「君主」の位置づけだ。ルソーは、社会契約論の主張者だけあって、彼の体系のなかで「君主」というものが占める位置は大きくない。というか、フランス革命の理論的根拠となるくらい、反王権的だ。
一方、ペスタロッチーは君主の教育権を最大限に確保しようとしているようにみえる。それは「父権」の絶対的な位置づけにも相通じる。家父長制的なのだ。ペスタロッチーは「国民を教化して彼の本質の浄福を悦楽するようにするためにこそ、人民の長たる父があるのだ。そしてすべての国民は家庭の浄福を悦楽することによって、君主の親心に対する子としての純粋な信頼のうちに安らい、そしてその君主が子たちを教育し向上させて、人類のあらゆる浄福の悦楽に到らせる父としての義務を果たすことを期待している。」(30頁)と主張する。ここだけ読むと、パターナリズムの思想であるように理解できてしまう。
なんにせよ、自分の主人は自分だけというルソーからは逆立ちしても出てこない言葉であることは間違いない。

また、現代的な感覚で読むと、ペスタロッチーが体罰を肯定する文章(75頁)には困惑させられる。しかもその体罰肯定の根拠として、肉親の愛情に基づいた暴力は許されるという理屈を持ち出されると、困惑を超えてドン引きしてしまう。解説の長田新は、ペスタロッチーだからこそ体罰も許されるのだと擁護するわけだが。いやいや、ペスタロッチーだから許されるなんてことがあるわけはなく、単に220年前だったから大目に見られただけのことと理解するべきところだ。

そんなこんなで、書かれたものだけから判断するかぎり、完成度にしても人間教育への洞察にしても、どうしてもルソーのほうに軍配を上げざるを得ないというのが正直なところではある。
とはいえ、難しいのは、書き遺した断片からペスタロッチーの全体像を判断してはいけないというところだ。というのも、彼の真骨頂は「実践」にあるからだ。一方のルソーは、言っていることは立派ではあるが、やっていることはゴミのようだ。実践的に見た場合、圧倒的にペスタロッチーのほうを尊敬せざるをえない。

本人の著作から思想構造を再構成しにくいので、ペスタロッチーについて語るのはなかなか厄介だなあと思う次第である。特に『隠者の夕暮れ』は、若くて本格的に教育事業にとりかかる以前の著作であることと、ドイツ語本文の校訂の問題が重なって、解釈が難解である。
が、授業ではしっかり扱わざるを得ないので、各種研究書で補足するのであった。

【個人的備忘録】自然や生活による陶冶
教育方法として決定的に重要なのは、ペスタロッチーが「生活」や「自然」による陶冶を尊重したことにある。この意識は、本書の端々から感じとることができる。
とはいえ、自然や生活による陶冶は既にルソーによって主張されているところだし、さらにロックも生活習慣重視の姿勢を見せているし、さらに遡ればアリストテレスの習慣形成論にも行き当たる。ペスタロッチーの思想がなにに由来し、どこがオリジナルで、類似思想とどこがどう異なっているかは、思想史的に解明すべき課題になる。

「わたしは事物のもっとも本質的な関係を人間に直感させ、健全な精神と天賦の知力とを発達させ、そしてなるほど人生のこのどん底に塵芥に埋もれているようにみえはするが、しかしこの環境の泥土のなかから浄化されると、明るい光で輝き出す諸力を刺激するために、生活そのものからくるもろもろの必要ないし要求が、どれほど多く寄与するかということを知った。」(51頁)
「しかも大抵彼らは、何ら人為的の方法によらず、ただ子供を取り巻く自然や、子供の日常の要求や、いつも活溌な子供の活動そのものを、陶冶の手段として利用しようとする思想も嫌えば、またその思想を実現することも嫌っていた。ところがわたしの企図を完全に実現する基礎をなしているのが、まさに右の思想だった。」(53頁)

ペスタロッチー/長田新訳『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波書店、1993年<1779,1799