【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』

【要約】トマス・アクィナスの仕事は、現在ではカトリックの王道と理解されることもありますが、実際当時においては、特にアリストテレスの受容と解釈において、時代状況に即した新しいチャレンジでした。トマスは、アリストテレス的な「理性」とキリスト教的な「神秘/信仰」を、対立するものではなく、相互補完的なものと捉え、アリストテレスの論理を足がかりにして神学的な思考を力強く前に進めます。それは「理性」だけでも「信仰」だけでも不可能な、トマスだったからこそできた独創的な仕事です。その固有の論理を、具体的に徳論や自由意志論、愛徳論の展開を通じて確認していきます。
 ところが、三位一体の教義と受肉の神秘について考え始めると、もう間違いなく人間理性を超越していきます。だからといって理性的に追及することをあきらめるのではなく、理性を超えた「神秘」を手掛かりにしてさらに理性的な探求を推し進めるのがトマスのすごいところであり、現代に生きる我々にも大きな示唆を与えるところです。

【感想】まあ、神秘を手掛かりに理性的な追及を進めてはいけませんよ、理性は間違えますよ、しかるべき限界をわきまえましょう、と釘を刺したのがカント「純粋理性批判」の仕事ではあるし、やっぱりそれは抑制された丁寧な考え方であって、三位一体とか受肉の神秘を理性的に考えようという姿勢は、どうしても破綻しているようにしか見えない。そこは単に「理性を超えている」だけでいいじゃない。理性的に理解しようとするから徹底的に話がおかしくなり、胡散臭さが充満するのだと、改めて認識したのであった。しかしそれはトマスとかカトリック特有の問題というより、「特異点」一般に当てはまる話ではある。たとえば「人格」とか「個性」というものを理性的に捉えようとすると、やはりおかしなことになる。そこはカントに倣って「理性を超えているものを理性的に考えても絶対に答えに辿り着かない」と理解しておくのが、みんなが幸せになる無難な道であるように思ってしまうのであった。

【眼鏡論に使える】とはいえ、だ。個人的に大きな興味を引くのは、やはり「三位一体」の教義と「受肉」の神秘、そしてそれについてキリスト教神学が突き詰めてきた理性的思考は、眼鏡っ娘を考えるうえで極めて有益な示唆を与える。眼鏡と娘の分離主義に対しては、「っ」(カトリック的には精霊≒教会にあたる)を交えた三位一体論が決定的な反論となる。眼鏡だけを神、あるいは娘だけを神と理解するのは、三位一体異論的にいえば問題なく異端である。
 こういうふうに「理性を超えたもの」を「理性的に理解しようとする」ところから視界が急速に開けてくる様を自ら体験してみると、一概にトマスやカトリック神学の思考を切り捨てるわけにもいかない。そこに何か大切なものがありそうなことを直観するのである。他人を説得したり説伏したりするためでなく、自らの体験を言葉にするという意味で。「特異点」という光の届かない闇を見定めるために。

山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』岩波新書、2017年