【要約】ユダヤ教について、歴史・信仰・学問・社会の観点から検討し、西欧キリスト教からの一方的な見解に基づく誤解と偏見を正そうという趣旨の本です。その誤解と偏見は、中世イスラム世界におけるユダヤ教を度外視することで、酷いものとなっています。
そもそもユダヤとは、religionの訳語である「宗教」という概念の枠で捉えられるものではありません。「宗教」とは西欧キリスト教をモデルとして構成された概念であって、それ以外の精神文化には当てはまりません(たとえば神道などにも)。ユダヤとは、トーラー(律法)に基づいて生活実践をすることです。なので、ラビ(経文を解釈する学者)の権威が高いという特徴があります。ユダヤ教では、自由な議論を通じて学ぶことが極めて重要です。中世イスラム世界で花開いた学塾の伝統は、近代以降も活きています。
しかし近代以降は、世俗化した国民国家との関係のなかで、「宗教としてのユダヤ=市民社会に帰属しながら信教の自由を享受する」なのか、それとも「民族としてのユダヤ=トーラーに基づいて日常生活を行なう共同体」なのか、アイデンティティの混乱と模索が続いています。
【感想】個人的な関心だけで言えば、「宗教の<教>」が「教育の<教>」でもあるということを再確認したという感じ。ユダヤ教の「教」は、まさしく古代中国で「教」という漢字が「教」となったことを体現しているように感じた。というのは、もともと「教」とは「人々に示された神様の指示」というような意味を持つ漢字であって、本書が言う「トーラー(教え)に従う生き方」そのものだ。であれば、確かにユダヤ教は著者が言うとおり「宗教(英語のreligionの訳語)」ではないが、間違いなく「教」ではあるように思う。
だから本書で強調されているように、「教育」が極めて重要な役割を果たすことになる。ユダヤ教では、自由な議論を通じて教義を研究することや、僅かな時間を見つけて自発的に学ぶことの重要性が強調される。それは「<教>=示された神の指示」の痕跡を拾い上げて、解釈し、再構成して、<教>としてもう一度語り直す行為だ。「教育の<教>」が「宗教の<教>」でもあることの積極的な意味を見たような気がする。「<宗教>ではないが<教>ではある」という理解は、ユダヤ教に限らず、実は普遍的にけっこう重要なことかもしれない。
【今後の研究のための備忘録】
「中世」に関して、以下のようなさらっとした記述がある。
「便宜的」と言っているが、歴史学ではピレンヌのテーゼとして知られる考え方だ。ユダヤ教の歴史を扱う本書では、この歴史観が極めて有効で、古代ではヘレニズムとの関係、中世ではイスラム教との関係、近代では世俗的国民国家との関係というふうに、問題の軸がかなりすっきりと整理できるのだった。
それから、中世の学者マイモニデスには、俄然興味が出てきた。
アリストテレスに影響を受けているだろうことが、この記述からもなんとなく分かる。「完全性」という概念は、アリストテレス『形而上学』で徹底的に追求されている。そしてそれは最終的には「一とは何か?」という問いに収斂する。私が研究のテーマとしている「人格の完成」は、まさにアリストテレスの言う「一とは何か?」という問いに響き合い、もちろんマイモニデスの言う「完全性を達成する責務」と重なり合う。マイモニデスの学的営為が、私の研究にも何かしらヒントを与えてくれるのではないか、という期待が芽生えている。