【要約と感想】苫野一徳『教育の力』

【要約】公教育の本質とは「自由」および「自由の相互承認」にあります。この根本的な原理を踏まえていれば、「詰め込み/ゆとり」とか「子どものため/社会のため」とか「平等/競争」というような、不毛な二元論的教育論議に陥ることを避けられます。
この公教育の本質に即した「よい教育」を実現する具体的な方策として、「個別化・協同化・プロジェクト化」が有効です。

【感想】とてもいい本だと思った。一般読者にも現代教育の課題と解決策が分かりやすく書いてあるのだけれど、多少なりとも勉強している人が読めば、膨大な教養と知性に裏打ちされた優しさが土台となっていることが分かる。教職を目指す学生たちにもぜひ読んでもらいたいと思った。

【個人的な研究のための備忘録】
で、基本的に私と著者は向いている方向が同じではないかと一人で合点しているわけだけど、細かいところでの理論的な違いは、なくはない。特にやはり専門となる思想的・理論的な領域では世界に対する見方・考え方の違いが確認できる。
具体的には、序章の「そもそも教育は何のため?」では、著者は公教育の基礎をヘーゲルの論理に求めている。ヘーゲルの重要性について認めるのはもちろん吝かでないとしても、私個人としてはコンドルセやカントのほうをより重要視したい気がする。たとえば著者が言うように「自由」および「自由の相互承認」が重要であるとして、カントが言う「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」で問題ない気がする。カントではなくヘーゲルに言及した方が理論的・実践的に優れている理由があるのだろうか。この論点を突き詰めていくと、ひょっとしたら「国家権力をどう考えるか」に関する致命的な見解の違いに行き着いてしまうのかもしれない。(※2019.1.29追記:疑問に思っていたことは後日読んだ苫野『どのような教育が「よい」教育か』に論理的にしっかり説明されていました。が、その結果、さらに致命的な見解の違いに行き着く可能性が広がっております。)
あるいは著者が「一般福祉」という語彙を用いて説明している理屈は、私自身の教育概論講義ではルソーの「一般意志」を土台として説明している。私の言う「一般意志」とは、身分や地域性や性別などの個別具体性をすべて剥ぎ取った、抽象的な人間(男でも女でもなく、金持ちでも貧乏でもなく、手があろうがなかろうが、なんの個別性も認められない、ただの人間)の欲するところを基準として教育も含めた世界全体を構想するということであり、カントの「人格の相互承認」の理屈と接続する。著者が主張する「平等/競争」の総合は、ルソー社会契約論とカント人格主義の理屈で表現するのが、個人的には最も腑に落ちる。「一般意志」を強調することで「全体意志」との違いも明確になるし。このあたりの理屈を「一般福祉」というあまり耳慣れない言葉で説明することに積極的な理由があるのかどうか。(※2019.1.29追記:苫野『どのような教育が「よい」教育か』に、しっかりルソー「一般意志」との違いと関係が説明されておりました。)
まあ、専門家しか気にならないだろう些細な論点であって、こういう細部の相違が気になるのは単なる職業病ではある。大雑把には、向いている方向は一緒だと、勝手に合点している。教育に携わる身として、とても勇気をもらえる本だ。「よい教育」を実現するために、私も微力ながら貢献していきたいと、改めて思った。

苫野一徳『教育の力』講談社現代新書、2014年