【要約と感想】高橋哲哉『教育と国家』

【要約】戦後教育を批判する人々は、少年犯罪がまったく増えていないにも関わらず散発的に起きた犯罪を利用したり、伝統でもない伝統文化を捏造したりして、教育基本法を変え、教育勅語体制を復活させ、国旗・国歌を強制し、政権に従順で無批判な国民を作ろうとしています。権力が教育に干渉することは極めて恐ろしいことです。そもそも法律で教育を規定して行政が積極的に介入することで、本当に人々が幸せになれるものなのか、疑いがあります。

【感想】教育基本法が改正される前に出版された本で、道徳が教科化されるに至った現在においては、個別具体的な話はもちろん既に古くなっているのだが、教育と国家権力の関係についての考察は原理的・普遍的であって、論理的には古くなっているようには思わない。国家権力が教育を恣意的に牛耳ることの恐ろしさについては、事あるごとに確認していく必要と意味がある。
とはいえ一方で、「学校教育」の歴史的な在り方自体が問い直しの対象となっている現在においては、「教育と国家権力」という問題の立て方自体も相対化されつつある。むしろAmazonとかGoogleのような、国家権力とは無関係な巨大国際企業が作り出す現実のほうが、いまや「教育の自由」にとっては脅威になりつつあるのかもしれないのだった。
そしてそうやって「教育と国家権力」という問題の立て方を相対化するという脱・政治的な語り口自体が政治的に狡猾であることも忘れてはならないだろう。教育に関わる立場の者が「教育と国家権力」という問いから本質的に無関係ではいられないということを改めて自覚する上で、本書の存在意義はあるのかもしれない。いやはや。

【個人的な研究のためのメモ】
本書は教育基本法改訂に対して疑義を呈する立場から書かれており、教育基本法条文に対する言及が多い。私が研究の対象としている第一条「人格の完成」にも言及している。

ここで、現行教育基本法を見直してみると、そこでうたわれている「人格の完成」には二つの側面があることがわかります。一つは、修養をした結果、人格が完成されるという儒教的なニュアンスがあります。もう一つの側面としては、西洋のカント的な人格主義のニュアンスも含まれています。(115頁)

著者はこう言って、前者の「儒教的なニュアンス」に関しては議論を展開せず、後者の「西洋のカント的な人格主義」について話題を広げ、この対抗概念として和辻哲郎などが日本の共同体的な倫理を持ち上げることを批判していく。その構成自体に言うことはない。
私がメモしておきたいのは、教育基本法第一条に現れた「人格の完成」という文言は周知のとおり田中耕太郎の「キリスト教」的な立場から滲み出てきたもののはずであって、基本法制定の経緯を踏まえていれば「儒教的なニュアンス」など思いもよらないはずにも関わらず、著者が「儒教的なニュアンス」を感じ取っているという事実だ。
そう言うのは、著者の勉強不足などを指弾したいわけではなく、何の予備知識や前提もなく無心に教育基本法第一条「人格の完成」という文言を眺めた場合、そこに「儒教的なニュアンス」を感じ取る人が実際にいるのだと、一つの証拠というか言質というかを得たという思いがするからだ。法律制定当時の経緯を越えて、昭和・平成と展開してきた「人格の完成」という文言そのものを考察しようとするときに、参照に値する一つの言質となるのかもしれない。
まあ、著者が本書で主張したい内容とは本当に無関係のところで、ただ私個人の研究的な興味関心に引っかかったというだけの話ではある。

高橋哲哉『教育と国家』講談社現代新書、2004年