【要約と感想】フレーベル『フレーベル自伝』

【要約】自分自身を一つの統一された生命と捉える傾向のある私は、断片的な知識を伝達するだけの旧来的教授に馴染めず、生徒が自発的に活動して生命力を発揮する新たな発展的教育を目指しましたが、世間には理解されませんでした。

【感想】まあ、体系的にまとまった著作ではなく、公開されることを前提としていない手紙の草稿だけあって、読みにくいことこの上ない。繰り返しや重複も多く、理解不能な晦渋な言い回しばかりで、とてもではないが学生には勧められない。

とはいえ、ある程度の知識と経験を持って臨めば、得られるものは以外と多いかもしれない(と覚悟して付き合うしかない)。
まずは、全体として陰鬱な印象を受ける抽象的な言葉の羅列の中で、フレーベル自身が創造的な授業をする光景が具体的に描かれている表現に出くわすと、かなりホッとする。フレーベルは自身が行う地理の授業で、従来の詰め込み型の指導ではなく、生徒の自発性を尊重する活動を試みる。授業はうまくいき、生徒の保護者からの称賛だけでなく、学校の上司からも褒められ、なおかつ生徒自身の熱心な活動そのものに喜びを見出している。フレーベル自身もこの授業の成功をそうとう誇りに思っているようで、文章から喜びが沸き立ってくるようだ。フレーベルがただの批評家ではなく、誠実な実践家であったことを示す、読み応えのある文章だと思った。

またあるいは、フレーベルが繰り返し繰り返ししつこく「生命」と「統一」への志向性を表明することに関して思ったのは、いわゆるアクティブラーニングと呼ばれる教育関連諸技術の根底に、こういった「生命の統一」への志向性が据えられるべきだということだ。フレーベル自身もアクティブラーニング的な授業を成功させているわけだが、彼はただの教授テクニックとしてアクティブラーニングを導入したわけではなく、自分自身の内側から滲み出てくる生命の統一への志向に促されて教授改革へと向かっていった。フレーベルの教育思想の根底には常にこの「生命の統一」への憧憬と確信が据えられており、いわゆるアクティブラーニングもそこから生じる必然的な系に過ぎない。こういった「生命の統一」への志向性が欠けているとき、どれだけ表面的な技術を磨いたとしても、授業の本質は何も変わらないのではないかとも思う。

まあ、この本だけでフレーベル思想の全体像を掴むことは難しいので、諸々の研究書にあたって勉強するべきなのであった。

【個人的備忘録】アクティブラーニング
「私はまた地理の教師としてこの機会を利用して、生徒に土地の表面の状態を直感させ理解させ、このようにして得た直感に地理教授を結び付け、そしてそこから地理教授を出発させた。」「学校取材の第一回公開審査の際、私は幸福にも――この最初の試みはひどく多くの不完全な点を含んでたにも拘らず――ただに出席した両親達の満場一致の賛成だけではなくて、更に特に私の上役の人々の賛成を得た。そして人々は言った。「地理は須くこのやうに教えるべきだ。少年は遠方に行く前にまずその郷土を知らなければならない。」生徒は実際町の周囲のことを恰かも家庭の自分の部屋のやうに熟知し、そして迅速に且つ適切に周囲のあらゆる地面の状態について答えた。この授業こそ私が後年十分改訂して、現在まで多年の間応用して来た授業の源になった。」(85-86頁)
「その際私は審査の人々を十分満足させる結果を得て喜んだだけではなくて、私の生徒が愉快に熱心にまた自発的に活動しているのを見た。」(87頁)
「成績そのものよりもむしろ私の善良な意志と火のような熱心とのために与えられた好意ある親切と獲得した好評とが私を鼓舞して、愈々深く教授の本質のなかに深入りさせた。併し一つの大きな学校の組織された全体は鞏固な形式があり、確実な・承認された・外部的に予じめ時間と目標とを規定し得るような課程を有ち、而も総ては時計仕掛けのように互いに噛み合っていなければならない。ところが私の流儀はただ目覚めた生命と目覚めた精神とだけを要求した。」(87頁)
「即ちこれまでの教育方法、殊に単に伝授的で単に外面的歴史的に伝達する基礎学校乃至練習学校の教授法は、一層高い真実の認識に対し、精神的の洞察に対し、将来の真の科学的陶冶に対し、本質直感に対し、従って真の知識に対し、知識における真理に対し、感応を鈍くし、否なそれのみか、私は率直に言いたいのであるが、此等に対して破壊的に影響している。
だから私はこれまでの基礎的な練習教授はその改良されてるものでも全く反対にされなくてはならない、即ち発生的発達的というような全く反対の方法で行われなくてはならないということを、今も確信しているがその時確信した。だから私は私の欲するものが抑々何であるかと尋ねる人には次の如くに答えた。
「今日一般に教育及び教授の部門において行われているものと全く反対のもの。」」(179頁)
「あらゆる現象と存在、従ってまた直感や認識や知識の出発点は実行であり行為である。
だから真の人間教育即ち発展的の人間教育は実行若しくは行為から始まり、実行若しくは行為のうちに芽生え、そこから成長し、そこに基礎を有たなくてはならない。」(185頁)
【個人的備忘録】統一への志向
「当時私の念頭に浮んだ最高原理は次のものだった。総ては統一である。「総ては統一に基づき、統一から出発し、統一に向って努力し、統一に至り、そして統一に還る。」
統一におけるこの努力と統一に向ってのこの努力とは、人間生活における百般の現象の基礎である。併し私の内的直感と外的認識、表現と行為との間には一箇の大きな深淵があった。
だから教育及び教授に依って人間のために生ぜしめねばならない・また生ぜざるを得ない総ての事柄は、人間のうちに・また人間がそのうちに生起する諸関係のうちに・更には人間の必然的の発達段階の本質のうちに必然的に規定され、また与えられると私には思われた。
人間が此等の関係を尊重し、認識し、それに通暁し、且つそれを概観するように教育される時、彼は教育されまた教授されるのだと私には思われた。」(99頁)
「併し私はまた人間は絶対的な統一を認識することが出来るものであり、事物及び現象の多様性を統一のうちに認識することが出来るものであり、この統一のうちに事物及び現象の多様性が不断に発展して行くものである、ということを洞察した。そして私がこのようにして人間の生活と活動と思考と感情と表現との諸現象の多様性を、人間の存在と本質との統一のうちに明らかにし、且つそれを意識した時、私はまたもや教育問題に向った。」(125頁)
「ところが更に進んで、このような生活に依って人類そのものは真にその本質において、自己をあるがままに認め、あるべき姿として認め、一つの大きな全体生命として認め、従ってこの教育は人間を真の人間へ、即ち人間の本質を自己のうちに発展させそして自己から生活し出すような人間へ教育しようとするのであるから、これはまた真の人類学校とならなければならなかった。而も私の始めた教育活動こそは人間をその本質のあらゆる方面とあらゆる関係とからりかいしなければならなかった。即ち――土地として――或いは自然物乃至地上物として――人間として――意識的なまた思索的な生類乃至理性的な生類として――そして神の子として理解しなければならなかった。」(187頁)

フレーベル/長田新訳『フレーベル自伝』岩波書店、1949年